2019年4月30日火曜日

No.23 本の出前・・2つ目の注文!「闇の声をきざむ 上野英信展」に勝手に協賛して(犬も歩けば1)

風信子(ヒアシンス)文庫の2つ目の出前が始まったのは2018年11月、糸島市内で初めてのブックカフェ「ノドカフェ」のオープンの時からだ。「さんのもり文庫」で「風信子ヒアシンス文庫」の本の出前のことを知った坂本敏幸さん、強美きよみさんご夫妻が1歳未満のお子さんと自宅に来られ、ブックカフェを始めるので、本の出前をしてほしいとのことだった。お店の名前「ノドカフェ」は子どもの名前(のどかさん)にちなんだとのこと。驚いたのは敏幸さんは私が2007年から始めた自然農をずっと以前からやっておられたことだ。また強美さんは13年間で12,000人の施術経験を持つセラピストで、ブックカフェの一角で、予約をうけて、その場を持たれるという。「ノドカフェ」開店前日の10月31日に出前の本を運んだ。

「ノドカフェ」案内のチラシ

出前で持っていくのは11月10日から福岡市総合図書館(1階ギャラリー)と福岡市文学館の2つの会場で、『闇の声をきざむ 上野英信展』(2017.11.10~12.17)が始まろうとしていたので、勝手に“上野英信展協賛”として《上野英信・晴子と上野朱の本》と題して関連する本をと考えた。福岡市総合図書館、福岡市文学館の展示より一足早く、プレイベントの意味合いもこめて11月1日の“ノドカフェ“の開店からとした。
「闇に声をきざむ 上野英信展」チラシ(表)
「この本を手にされる方へ」(「地下戦線」3号より)の一文を掲載)

「闇の声をきざむ 上野英信』展、チラシ(裏面)
新聞に “ノドカフェ“の紹介記事が

“ノドカフェ“の開店から40日が経った12月10日(日)の毎日新聞の地域欄に、『炭鉱記録作家 上野英信さん特別展 17日まで』 『糸島 先月オープンのブックカフェ 「ゆっくり良い本楽しんで」』と大きな見出しで“ノドカフェ“を取材した記者の記事が掲載された。“ノドカフェ“での展示を17日までとしていたのは、福岡市総合図書館等での12月17日までという会期にあわせていたためだが、この新聞記事を見て来店される方が幾人もあり、同店では12月末まで展示することにした。紙面には坂本さん夫妻とのどかさんの「ようこそ ノドカフェ」へと静かな笑顔でやってくる人を招かれているかに思われる写真があり、上記の見出しに続いて次のように書かれている

【糸島市前原中央3で11月にオープンしたブックカフェ「ノドカフェ」で、筑豊地域の炭鉱の暮らしを伝えた記録作家、上野英信さん(1923~87年)の著作など約30冊を集めた特別展が開かれている。17日まで。【青木絵美】17日まで カフェは坂本敏幸さん(56)と強美きよみ(42)さん夫妻が「良い本をゆっくり楽しめる空間を」をと始めた。
愛読書を中心に約400冊を自由に読める。

また、(略・・)さんの協力で、テーマに沿って本を紹介する特別コーナーも設けた。
上野さんの関連本の展示は、没後30年に合わせて福岡市総合図書館などで開催中の企画展にちなんだ。妻晴子さんや長男朱あかしさんの書籍、炭鉱を撮った写真集、ユネスコ「世界の記憶」に登録された炭鉱記録画家、山本作兵衛の画集などを並べた。強美さんは「本を通じ、炭鉱労働者の懸命な仕事の上に成り立つ今の豊かな暮らしを改めて知ることができる」。】 



ノドカフェは、JR筑前前原駅から歩いて10分ちょっとの所に。前原中央3-18-8(2階、「古材の森」の隣;090-1852-1102)

出前の本から


『サークル村』












森崎和江・詩集



『炭鉱ヤマ 本橋成一写真集』現代書館 1968年第1版・1992年第2版


『風の道づれ ふうふう絵草紙』絵草紙 山福康政・写真 岡友幸
2冊とも裏山書房(発売は海鳥社)


《闇の声をきざむ 上野英信展》にでかける

上野英信展にでかけたのは11月下旬のことだった。福岡市総合図書館の1階にあるギャラリー(75㎡)は総合図書館の全体的な規模(24,120㎡)から言えばとても小さなスペースだと思える。しかし、その小さなスペースに足を一歩踏み入れた時、そこにひろがるの濃密な世界に驚かされた。

上野英信とは誰か、なぜ今、”上野英信展なのか”

福岡市文学館の館報『文学館倶楽部』(No.25/2017.10.15)に記された【展示概要】を
見てみよう。( ”闇の声をきざむ 上野英信展”のチラシにも同文を掲載している。)

《 記録文学者、上野英信――大日本帝国陸軍兵士であったひとりの男が原爆にあい、地獄と化した心身を抱えてたどり着いたのは筑豊の炭鉱だった。一筋の光もささない坑内に、男は赤い旗を立てる。闇を拠点として男は、抗夫となり、作家となった。 
 近代以降炭鉱は、日本資本主義の原罪を一身に引き受けた場所であった。どこまでも奪いつくされて坑夫は、しかし英信に人間とは何か、労働とは何か、人が人を信じるとは、愛するとは、連帯するとはどういうことかを教えた。言葉を奪われ続けた彼らは、誰より豊かな言葉の持主だった。闇に沈むことばをわが手にたぐり寄せようとして英信は、一歩また一歩と、闇深く、魂深くへと、ペンの力で掘り進もうとする。
 日本資本主義の「下罪人」として生きて消されてゆく坑夫の言葉を、帝国主義の「業」を担ぎ続ける者として生涯、一心に記し続けた。そこに火床があるのだと信じ、闇を砦に「日本を根底から変革する」のだと願いきざまれた闇の声を、「地獄そのものとしての人間」の言葉をいま、私たちの場所に聞きたいと思う。・・・》

上野英信さんを語って、見事な言葉だとおもう。企画展を担当した学芸員の方たちの上野英信展にかけた思いの深さが伝わってくる。22坪ほどの小さなスペースのそこここから、上野英信さんが生涯かけてきざんだ闇の声が聞こえてくるように思われた。

展示は5つの章で構成されていた。

1.下放する 2.記録文学者の誕生 3.地底からの通信 4.お割れゆく坑夫と共に
5.弔旗をかかげて

その一つ一つの章の場でしばし足がとまった。

・高く積み上げられた手書きの原稿、「原稿群には、英信の筆に交じってもうひとつの筆跡の原稿の束が残されている。線の細い端正な文字は妻、晴子による。」(上野英信展図録)
・「ぼくは本当は絵描きになりたかった」と言っていた父(上野朱「絵描きになりたかった物書き」)の絵画や版画、そして、その一刻一刻をどのように生きてあるかを鮮やかに語る夥しい写真の一枚一枚

・ガリ切りと製本にあたった『労働藝術』や『地下戦線』(表紙の版画は千田梅二)、
『えばなし せんぷりせんじが笑った! ほか三編』

・そして『サークル村』
 初めて眼にする著作本や冊子の一冊一冊

・手書きの原稿では、つぎの文字にくぎ付けとなっていた。

「あえて誤解を恐れずに告白するが、この二十三年間、私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、という暗い情念にとらわれつづけてきた。学徒招集中のことだが、広島で原爆を受けたその日以来、この気持はまったく変わらない。」

【1945(22歳)1・10船舶砲兵教導隊卒業後、見習士官。
6・8宇品で高射砲陣地につく。
8・6爆心地から3・5キロ地点で原爆被爆。直後、被災者の救援活動にあたる。以後長く原爆後遺症に苦しめられることになる。

「その日、私は陸軍船舶砲兵として広島の宇品にいた。そして、その朝、原資爆弾の洗礼を受けた。いのち拾いはしたが、心は完全に廃墟と化した。(「私と炭鉱との出会い」)

あえて誤解を恐れずに告白するが、・・(略)この気持はまったく変わらない。【前述の文章】
略)この救いがたい、われながら浅ましい妄念そのものを原点として、私は平和を考えるほかないのである。理路整然たる平和論を私は信じないし、信じたくない。もし平和への思考が、なおかつ私のゆがんだ原爆ドームの頂きあたりをいろどることが、それは戦争への思考以上にぎらぎらどろどろしたものであろう。私はいまなお一九四五年の八月六日から十五日までの十日間を、ゆきつもどりつ、さまよいつづけているばかりだ。」
(「私の原爆症」)《「闇の声をきざむ上野英信」展図録』「上野英信年譜」より》

【私の叔母のこと】上野英信さんが広島市宇品で被爆されたと知って・・・。
 (叔母のことを記すのは、被爆50年を機に、被爆体験を語り始めているため。以来、体
 調が悪い中、求めに応じて語りにでかけている。)

(私は1946年7月、広島市宇品に生まれた。母方の親族で原爆投下後、生き残ったのは
被爆当時8歳、小学3年生の叔母、ただ1人のみ(1936年8月生)。叔母は被爆前日、8月5日に疎開先から帰宅し、爆心地から800メートル、舟入町の自宅で被爆。両親は、爆弾投下による建物の延焼を防ぐため、建物取壊し等の作業に出ていて被爆死、家にいた4姉妹は家が倒れ、建物の下敷きとなり、末っ子だった叔母一人だけが、地上に抜け出すことができ、助けを求めながら(「タスケテクダサーイ ゴトウノウラデース:ゴトウは叔母の姓)火焔の中を逃げ惑う。3人の姉たち、その内2人の姉(16歳と12歳)とは、潰れた建物の中で声をかわせたものの(10歳、小学5年生の姉は即死したと思われる)、地上にでることができず被爆死。当時、宇品に住んでいた母(1919年4月生)が被爆直後の広島市内を探しまわり、8月15日、敗戦の日にようやく見つけ出し、宇品の家に引き取る。
叔母を探して被爆直後の地を歩き回った母は、長い間、夏になると寝込んでいた。

私の母はある事情から、生まれ落ちたときから養女にだされ、成人するまで、両親がいることを知らずに育っている。母が成人する前後に両親が生きていることを知り、探し続け、(母と同姓同名の人が朝鮮にいると知り、訪ねていったが、違う人だったと聞いたことがある。)見つけたときには、父、母それぞれに結婚して、父の家族、母の家族それぞれに子どもたちがいた。叔母は、私の母からみて異母妹になる。

このため母の妹と言っても、一緒に暮らしてはおらず、原爆で一夜にして家族5人の全員をなくし孤児となった7歳の少女にとっては、その時26歳であった姉(私の母)は見知らぬ人であったと思う。叔母は両親の死に目にあっていないため、両親が迎えに来るのを待ち続けた。一人で電停まで歩いて行き、(電停は近くはなかった。子どもの足では30分以上かかったのではないか。)電車から降りてくる人に「お父さん、お母さんを知りませんか」と尋ね続けたという。翌年の7月に生まれた赤子の私を9歳の叔母がその小さい背に負って、おしめなどを洗いながら世話をしてくれている。

被爆50年を機に被爆体験の証言を始め、被爆60年にはイギリスBBC放送の取材を受け、アメリカ、イギリスでラジオ放送された。その10年後の被爆70年(2015年)にBBCの同じ記者の訪問があったという。)

『おりづる』第33号 平成30年次(2018)活動報告書
特定非営利活動法人(NPO法人)ヒロシマ宗教協力平和センター(HRCP)平成31年3月
TEL・FAX 082-881-0721 
『おりづる』第33号より
・そして、1987年11月21日、64歳で永眠された英信さんが小さなノートに残したメモ

  筑豊よ
  日本を根底から
  変革するエネルギーの
  ルツボであれ
  火床であれ
     上野英信
(「感覚のうしなわゆく手で綴った、英信最後の筆」の文字)

上野英信展の図録のこと 『これを読めば、上野さんの全貌がわかる」(三木健さん)

先に引用した、上野英信展の図録の正式なタイトルは『2017福岡市文学館企画展「上野英信 闇の声をきざむ」図録』だが、展示の内容と共に、『図録』の実に素晴しい出来ばえには驚かされた。そしてすぐさま頭に浮かんだのは、各地の図書館の中で、展示資料で借り受けられるものを福岡市総合図書館から借り受けて、その館の工夫を重ねて、”上野英信展”を行う図書館が現れたらいいなという思いだった。学芸員が作成したパネル資料だけでも、思い深く時間をかけてつくりだされた中身豊かなものであるので、総合図書館だけでの展示ではあまりにもったいない。われ・ひと共に生きていく、地域、社会の在りようを考えようとしている人の前に差し出されているものではないだろうかと思われる。

また、この『図録』を手にしてみたいと思う方がいたら、ぜひ身近な図書館でリクエストをされては。出版流通ルートにのっていないと思われる『図録』なので、書店の店頭でも見ることはできない。こんな時こそ図書館の出番であると思う。某社の『新刊案内』だけで図書館の本を買っていては豊かで魅力ある蔵書はつくれない。

「上野英信 闇の声をきざむ」図録
福岡市文学館(福岡市総合図書館文学・文書課) 定価 1,000円(税込)

「上野英信 闇の声をきざむ」図録 別冊
折り畳まれた「別冊」を広げると、表裏12ページとなる。
『図録』の企画は学芸員の田代ゆきさん、制作には田代さんの他、井上洋子、坂口博、前田年昭の3氏(いずれも文学館外部の方)があたっていて、4人が各章に力のこもった文章を書かれている。また、この『図録』のために文章を寄せられた上野朱さん、川原一之、樋脇由利子、沖縄の三木健氏の文章には、それぞれに読後に深く伝わるものを感じた。『写真万葉録・筑豊』の編集制作に携わった写真家の岡友幸さんからは、写真集編纂についての聞き取り「岡友幸さんに聞く」も興味深い内容だった。(同氏は『上野英信の肖像』〈海鳥社1988〉の編者でもある。)『図録』編集者として思いの深さと力によるものだと思われた。

このような図録を眼にする時、いつもは「資料提供、協力」の欄などをしっかり見ることはほとんどないのだが、この度は『図録』の内容に驚いたせいか、私にとっては、興味深く眼にした。

(裏表紙から)
資料提供・協力(五十音順・敬称略)
上野朱
池田益美、伊藤和人、緒方恵美、岡友幸、花田理枝、裴 昭、松尾孝司、宮田昭、本橋成一、山福緑 【裴 昭(ペ・ソ)さんは写真家、『図録』76頁の写真「山本作兵衛と著者、1984年9月」を撮影。著書に『関東大震災朝鮮人虐殺:写真報告』影書房 1988.10。他・・注記・才津原
田川市石炭・歴史博物館
葦書房、岩波書店、潮出版社、大月書店、海鳥社、影書房、講談社、径書房、社会新報、
筑摩書房、ニライ社、未来社、大和書房、理論社、山福印刷、琉球新報
最後に『図録』の概要をイメージしていただくために、5章からなる『図録』の「目次」と本文の1節を記しておこう。

目次

はじめに
第1章下放する
生涯を貫く下放のはじまり
『労働藝術』『地下戦線』
『せんぷりせんじが笑った!』『ひとくわぼり』
サークル運動 二人の坑夫の遺稿集
初期物語群
蝶のゆくえ 上野朱

第2章記録文学者の誕生
記録者の覚悟――絵ばなしから記録文学へ
『追われゆく坑夫たち』
『地の底の笑い話』
『サークル村』と、上野英信、森崎和江、石牟礼道子の〈闘争〉

第3章地底からの通信
『日本陥没期』
『どきゅめんとと筑豊』『骨を嚙む』『火を掘る日々』
『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』
『近代民衆の記録2 鉱夫』

第4章追われゆく坑夫と共に
『廃鉱譜』
筑豊文庫
「筑豊文庫」を支え続け受け継ぐ人々
『出ニッポン記』 茶園梨加
『眉屋私記』 松下博文
上野英信と沖縄 三木健

第5章弔旗をかかげて
『写真万葉録・筑豊』
岡友幸さんに聞く
民衆の怨念の化身として 川原一之
「筑豊よ」、逝去、追悼。
晴子さんのこと 樋脇由利子
作品 【「単著に収録されていない作品の中から図録内で言及した2作品と、図録に項目
    を立てて紹介した単著のあとがきを掲載している。目に触れることがむずかしい
    「散文詩 田園交響楽〉(『月刊たかまつ』4号、57年2月)、「解放の思想
    とは何か(『解放理論の創造 第2集』部落解放同盟中央出版局、68年10月)
    などが掲載され、「あとがき」とともに、実に読みごたえがある。:才津原・注記
年譜 【作品からの細やかな引用が多く見られる労作。上に記した広島市宇品での原爆被
   爆時の文章は、「年譜の1945(22歳)」の項からの引用である。才・注記
作品一覧
編著者一覧 別冊

「3章地底からの通信」よりの引用 ・・・〈元号〉の変わりし時に

〈いわれなき神〉のあるかぎり、〈いわれなき死〉がある【『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』より】

「戦場であれ、炭鉱であれ、日本人であれ、朝鮮人であれ、〈いわれなき死〉の煙のたちのぼるところ、そこにかならず〈天皇〉はたちあらわれる」

「それはまた沖縄であれ、水俣であれ、同じだった。石牟礼道子も『苦海浄土』に、
坂口ゆき女の絶叫「て、ん、のう、へい、か、ばんざい」を書き留める。」(s坂口博)
 【『図録』「はじめに 闘いの弔旗の下で」】

追記

この度の福岡市文学館の企画展は展示だけでなく実に多彩な関連イベントが行われた。残念なことに、2回目の”上野朱さんに聞く「筑豊文庫の日々」”には行くことができなかったが、3回目の”トーク 上野英信の仕事、その後の仕事”には駆けつけることができた。
お二人のお話を聞くことができた。

①「上野文学と沖縄」の講師は元琉球新報社編集局長の三木健さん。

三木さんの話は30年前の11月21日の上野英信さんの通夜に沖縄から何人かで駆けつけられた話からはじまった。通夜の晩の寒かったこと、残した焼酎で寒さをしのいだという。
上野さんの著作では唯一の沖縄の本である『眉屋私記』がどのように生まれたか、沖縄のひとにとって『眉屋私記』がどのような意味を持つ本であるかを語ってくださった。

その話に入る前に、「闇の声をきざむ 上野英信」図録について、その「素晴しい出来栄えに感心した、上野さんの作品を読みこなし、上野さんが言いたいことを受けとめ、評価し、みなさんに伝えようとしている。こんなに若い人(学芸員)が、こんな文章を書いて」と、『図録』を手にして驚いた私の思いをそのままコトバにされて、「これを読めば、上野さんの全貌がわかる」と話されたのだ。

1965年、琉球新報の記者となり、最初に勤務した東京支局には、写真家の岡村昭彦さんが出入りしていて、ある時「三木さん、これおみやげ」とガリ版刷りの『西表島の概況』(昭和11年発行;複製)手渡される。(岡村氏は『南ベトナム戦争従軍記』岩波新書 1965、の原稿を筑豊文庫で書いている。)
「資料提供をいただいたおかげでこんな本ができました。」と示されたのが『西表炭坑概史』(1976年出版、翌1977年の改訂版に上野英信さんの序文)

『眉屋私記』誕生のエピソードには心うたれた。『眉屋私記』が書き始められるきっかけは、「これ、読んでみませんか。」と若き日の琉球新報の記者の三木健さんが、上野さんにさしだした1冊の小さな本『わが移民記』(山入端萬栄著、志良堂清英編)からだった(1960年発行、1冊60セント)。三木さんはこの本を琉球新報の倉庫を整理していた時に見つけ、読んでみてびっくりする。面白かった。「上野さんに本を送ったら、何日かして
上野さんが来沖、「だれかが ちゃんとやるべきだよ、三木さん、あんたがやらんね」
「先生に約にたつと思って送りました。」とのやりとりがあった。

以下、『眉屋私記』「あとがき」より。

一九七四年の春、私はラテン・アメリカ諸国に農業移民として渡った炭鉱離職者をたずねて歩く途中、メキシコに立ち寄りながら、恥ずかしいことだが、まさか今世紀初頭に多くの日本人が炭坑夫としてメキシコの地底に送りこまれていようとは、まったく知らなかったのである。矢も盾もたまらず、一九七八年春、私はメキシコ行きを決行することにした。

――待っていましたよ、と言って三木氏はさりげなく餞別の入った封筒をさし出した。ありがたく頂戴してわが家に戻り、封をひらいてみて、私は驚いた。まだ封もきらないままの給料袋が入っていたのである。ふるえる手でそれをひらくと、給与明細書どおり三月分の差引支給額がそっくりそのまま入っている。とめどなくあふれおちる涙が、その緑色の明細書を濡らした。

薄給の地方紙記者とその家族の一ヶ月分の生活費を、私は一円も残さず犠牲にしてしまったのである。沖縄に足を向けては寝られない。

そんな熱い友情にささえられてメキシコの地底への度は始まったわけであるが、(略)
こうして私とメキシコ向け炭鉱移民との出会いが始まり、山入端萬栄を生んだ眉屋との出会いが始まった。

なによりのしあわせは、萬栄の妹ツル女との出会いである。以来今日まで五年間、私は休むまもなく沖縄へ通い、ツル女の思い出の糸をたぐりつづけた。思い出すのもつらいできごとのみ多かったろう。しかし、彼女は一度として率直な態度を失することはなかった。
その信じがたいほど毅然として率直な姿勢は、しばしば私を圧倒するほどであった。

圧倒されながら、私は、沖縄の真実を、ヤマトンチュに心底伝えずには死んでも死にきれないという、それこそ必死の気魄を、彼女の澄みきった漆黒の双眸に感じた。

心にきざまれるお話が続いた。

・孫の教科書で字の勉強をされたツルさんのこと。お兄さん(の手記「三味線放浪記」、兄19歳で移民:1959.10.5から35回にわたって、琉球新報に連載。東恩納寛淳・校閲:ツル女から聞き取り)についてのお話も心に残った。(ツルさんはお兄さんの資料をたくさん持っていた。)

・メキシコ取材に行く時、「沖縄の青年でスペイン語ができる人」を連れて行ったこと。(何十年も故郷を離れて暮らすメキシコの沖縄移民の人たちに、戦後育ちの沖縄青年の成長ぶりを見せてあげたい、というお心づかいからでした。この様に先生は、取材される側に立っていつも仕事をしておられました。)【『追悼 上野英信』弔辞「南東より弔戦の狼火を」三木健:上野英信追悼録刊行会 1989】

・1977.10~78.2 沖縄に長逗留時の取材時の取材振り。
 毎日、三木氏の奥さんが作った弁当持参で。
 午後・・・取材、バインダーに書き写す。
 夜・・・・酒
 午前中・・机に向かう。
  ❏テープをとらない。いい話・・心に残るものだ。
  (1回だけテープ・・・「やぶ おばあちゃん」ツルさんのところで翻訳してもらう。
  ❏ツルさんの柔らかい語り口

・1周忌、那覇での上野晴子さん、朱さんを迎えての心あつくなる「上野英信さん一周忌」のつどい、追悼文集『上野英信と沖縄 眉の清らさぞ 神の島』(追悼文集刊行会編、ニライ社刊)の出版記念を兼ねての集いのこと。

主人公の一人、山入端萬栄の娘マリアさんと、その娘エリーさんがアメリカのマイアミから駆けつけ、参加された。(略)三木さんたち関係者の努力のかいあって」」【『追悼 上野英信』の中の〈『眉屋私記』のあとさき〉中村誠司】

・上野さんからの電話のこと、絶筆「筑豊よ・・・」のこと
 「がんの上野です。」
 「筑豊よ 日本を根底から 変革するエネルギーの ルツボであれ 火床であれ」
 「 先覚者、革命家としての魂を最期まで。 民衆の歴史を見事に見せてくれた、
  これでよかった」
 「遠賀川の水は沖縄の水につながっていた」

39年前の餞別のこと、筑豊よりもいち早く沖縄でだされた追悼集のことを、三木健さんに尋ねる。

三木さんのお話が終わったあと、質問の時間にお聞きした。
「自分にできることをした。たいしたことではない。」淡々と話された。
「みんなの思いがぱっと燃え上がって。思いを伝えずにはおかない・・・」

ふたたび三木健さんの弔辞の一節から
 ( 「追悼 上野英信」上野英信追悼録刊行委員会 1989)
南東より弔戦の狼火を  三木健

 上野先生、こんなにも早くおわかれのご挨拶をしようとは思いもよらぬことでした。
先生が筑豊で頑張っておられるということが、どれほど日本中の心ある人たちの支えとなってきたことか。沖縄に住む私にとっても、それは全く同じでありました。
 (略)
それにしても、先生が足掛け十年の歳月をかけて書き上げられた『眉屋私記』は、近代沖縄の民衆の歴史を綴った記録文学として、永遠に沖縄の私たちの心の中に生き続けることでしょう。そしてそれは、私たち民衆史を志すものの道しるべとなることでしょう。
明治三十年代に沖縄の山原やんばるの一寒村からメキシコ炭坑の移民として渡っていった山入端萬栄やまいりは まんえいと、辻に身売りされていったその妹たちの歩みを克明な取材をもとに描き上げたこの作品は、まさに沖縄の近代叙事詩ともいうべき大河ドラマでした。

移民と辻売りという近代沖縄の本質にかかわる2つのモチーフによって、この作品は近代沖縄のすぐれた民衆史を構築したのでした。それは近代日本の貧困を背負って地底に下り、さらに地底を追われて地球の裏側に流亡を余儀なくされた筑豊の民と、その本質において同じものであり、上野文学が沖縄と深くかかわってきたとしても、それはけだし当然のことと言えましょう。




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