2025年3月31日月曜日

新木安利の本の世界(出前の本)・悼詞 No.136 

3月と4月、ノドカフェへの出前の本は「新木安利(あらき やすとし)の本の世界」です。 と記して、・・・の状態がしばらく続き、先に書き進むことができなかった。 「出前の本の話」の案内の葉書、「新木安利 その人 その歩み」だけは、先に書いて何人か の人に手渡ししていたのだが。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「福岡県人物・人材情報リスト」 新木安利(あらき・やすとし) 椎田町図書館(福岡県) (生)昭和24 (出)福岡県築上郡椎田町宇津留 (学)北九州大学文学部英文科卒 (歴)福岡県・椎田町図書館に勤務。著書に「宮澤賢治の冒険」「くじら」(私家版)がある。 〒829-03 福岡県築上郡椎田町椎田962-8 (電)09305-6-5171 〔’95.9〕 【文献】宮澤賢治の冒険 新木安利著 (福岡)海鳥社 ’95.9.21 360p --------------------------------------------------------------------------------------------- 《『遠藤周作の影と母 深い河の流れ』海鳥社(2021.12.22)の奥付の著者紹介》より。 新木安利(あらき・やすとし) 1949年.福岡県椎田町(現・築上町に生れる。北九州大学文学部英文学科卒業。元図書館司書。 1975年から松下竜一の『草の根通信』の発送を手伝う。 【著書】『くじら』(私家版).1979年.『宮澤賢治の冒険』(1995年).『松下竜一の青春』(2005年). 『サークル村の磁場』(2011年)『田中正造と松下竜一』(2017年).『石原吉郎の位置』(2018年). 『石川啄木の過程』(2019年).『遠藤周作の影と母』(2021年).以上、いずれも海鳥社発行。 【編著書】前田俊彦著『百姓は米を作らず田を作る』(海鳥社.2003年).『勁き(ツヨキ)草の根 松下 竜一追悼文集』(草の根会編・刊. 2005年、※年表を新木作成).『松下竜一未刊行著作集』全五巻(海 鳥社 2008~2009年.梶原得三郎と共編) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 悼詞. 3月19日、出前の本の話「新木安利 その人 その仕事 その歩み」では、参加された方にとっては、初めてその名前を聞かれるだろう新木さんー私にとっては年若い友である新木さんが作年の12月に亡くなったことから話はじめたように思う。私はその急逝のことを年が明けた1月8日、奥さまからのお便りで知った。 そこで知らされたのは 新木さんが「昨年の6月に」がんが見つかり 5か月間は ほぼふつうに暮らされていたが その後ひと月は自宅療養をされていたこと。「生前にしておきたいことはほぼ済ませることができ、痛まず苦しまず静かに息を引き取りました」ということだった。「生前の個人への御厚情に深く感謝いたします」とお言葉があった。 そのコトバが私の中に染みこむようにして過ごしていたある日、それは3月19日の出前の本の話で、新木さんのことを語った以後のことだったが、そこには「昨年の6月に」と記されていたことに、私はあらためて気づいて、驚いた。 普段新木さんから電話をもらうことはなかった。その新木さんから昨年久方ぶりに電話をもらっていた。日誌をみかえすと昨年の6月22日。ということは、がんであることを知らされた後にかかってきたものだったのだ。 電話の内容、ひとつは梶原得三郎さんの活動を記録したDVDについてのことだった。まだ調整中のものだが、よければ貸してくださると。また、7月下旬には北九州市でベートーベンの第九のコンサートがあり、ご家族が合唱に参加すると嬉しそうに話してくれた。そしてさらにいくつかのこと。 奇しくも1年前、昨年の5月と6月のノドカフェへの出前の本は「松下竜一の本」で、出前の本の話は『松下竜一 その人 その仕事』だった。そして、その案内の葉書の中で梶原さんのことを「松下さんと生涯にわたって行動を共にした梶原得三郎」と記し、新木さんとの共編の書、全5巻の『松下竜一未刊行著作集』についても触れていた。(図書館の風No.128「出前の本の話、日時変更ー梅田さんのこと) 梶原さんは1972年5月、35歳のとき大分県中津市公開堂で開かれた「第二回周防灘開発問題研究市民集会」で、同い年の「松下竜一さんと出会い、豊前(ぶぜん)火力発電所反対運動を担う。海面埋め立て阻止行動で逮捕され、37歳で失職。さかな屋となる。 〔1974年7月4日午前5時、海上保安官らに寝込みを襲われる形で逮捕され連行された。前月26日、電力会社〈九州電力〉は火力発電所建設のため明神海岸の埋立てに着工したが、その日梶山さんは支援の学生らと共にクレーン船に乗り移り、捨て石作業を中断させた。翌日からは海上保安庁の巡視船に護られて工事は進行したのだが、その一日だけの反対行動が威力業務妨害の罪に問われての逮捕であった。妻の目の前で両手に手錠をかけられ、腰縄を打たれ・・・。〕北九市小倉の拘置所に47日間にわたっての勾留。「得さんの女房ノンノン(満智子)」の、中津から特急電車で1時間かかる小倉通いの様は『小さなさかな屋奮戦記』(松下竜一、ちくまプリマ―ブックス33、1989)に。 松下、梶原お二人の関わりについては、同書の「あとがき」で松下さんが記している。 「本書の主人公梶山得ニこと梶山得三郎は、私のよき相棒である。二人が出遭うのは1972年8月、始まって間もない火力発電所建設反対運動の渦中でのことだが、翌年から地元で極端に孤立していくこの反対運動が、それでもついに十年余にわたって反対の旗を降ろさずに志を貫いていくことになったのも、ひとえに梶原得三郎の存在によってであったといわねばならぬ。少数になりながらも同志たちが熱い信頼で結ばれたのも、その軸に梶原得三郎という得難い人格があったからのことで、私の力のせいでも魅力のせいでもない。 社会的にはとかく私が表舞台に立って脚光を浴びがちであるが、その裏舞台を黙々と支えているのが梶原得三郎であることは、周辺の者なら誰もがよく知るところだ。私はそういう彼に甘えつづけてきたし、甘えて頼り切ることが彼への友情だという、なんとも勝手な思い込みがある。」 DVDでは、私が初めて知る梶原夫妻の数々の振舞い、その行動、人としての佇まいはもとより、松下さんや梶原さんのご本で、その名前を知る人たちが次々に現われ、私にとっては未知の方たちであるにもかかわらず、ああこの人なのだという、ほんとうに得難い場面との出会いを授かった。 「・・・ほらみないちゃ」。あげなんことするから、おとうさんが捕まって、今連れていかれたわあ。・・・あんたはこん方がいいじゃろう、まだ保安官が残って家宅捜査しよるから」(7月4日、午前5時半、梶原夫人〈36歳〉から松下さんへの電話。「はばかるような小声で」)ーーー その和嘉子さんが、松下さんを問いつめる場面。後年、施設に入られた夫人に、毎日得三郎さんが電話をし、歌をきかせるシーン。そして駅前で小さなプラカードを胸に掲げてただ一人、黙って立っている場面(この場には新木さんもい たようだ)。 松下さんや梶原さんが書いたものを活字で見ていた時空が突然肉声をもって、その姿とともに眼前に現れてくる驚き。 〈そうして、ある日ふと思ったこと〉 よくも、今、このような記録(DVD)がつくられたなという思い、つくってくださったなとの思い。 このDVDは、関西のある方が梶原さんその人に心打たれたのだと思う。何度も梶原さんを中津に訪ね、梶原さんの今を記録するとともに、行きし日の活動を追い求め、それを収録している。 その人は梶原さんたちのことを「草の根通信」によって知られたにちがいない。(以下、『小さなさかな屋奮戦記』より) 【「草の根通信」、創刊は1973年4月。火力発電所建設差止裁判を始めるにあたって、「趣旨を広く訴え支援者を募る目的で発行され始めた月刊誌だが、なにしろ編集者(松下竜一)が ”売れぬものかき”であっただけに、およそ異色の機関紙となってしまった。ふつう、運動の機関紙といえば、主義、主張、報告、論文といった固いたぐいの記事で埋められるものだが、「草の根通信」はそんな常識をひっくり返すことになった。運動の主張を前面に押し出すより以上に、そういう主張を述べている当人がどんな人間であるかをさらけだすことに熱中してしまったという感がある。 まず、間島良一(松下竜一)が赤裸々なる範を示した。年収わずかに四十数万円(そういうどん底の時期であった)で、子供たちのお年玉まで巻き上げる哀話、持病の咳と痔疾にさいなまれる悲話、自宅でさえ一人で寝るのを怖がるほどの臆病者だという滑稽話、妻の絹枝に首ったけで五日と離れてはいられないのろけ話・・・。そんなひ弱な人間が勇気をふるって立ち上がっていることを知ってもらいたいというのが、間島の願いだった。「草の根通信」では誰も背伸びした強がりは吐かずに、自分のありのままの暮らしと、そこから一歩踏み出したときの悩みや心細さを率直に綴り続けた。 得さんが海面埋め立て阻止行動で逮捕され、失職したあとの「草の根通信」が、表紙に堂々と「梶山得ニの求職広告」を掲げたことは語り草となっている。「大安売り、今が買い得」「馬鹿正直、くそまじめ、おひとよし」「無病息災、痔も決して悪くない」「希望月収十万円くらい」などとセールスポイントを並べた中に、「待田京介に似たいい男でした」というのがある。・・・ だが、せっかく任侠俳優のようないい男の求職広告も読者を笑わせただけに終わり、彼は養父が営む耶馬渓のさかな屋を手伝って、谷間の里の行商を始めざるをえなかった。その頃にはもう”鬼の編集長”と化していた間島が、「谷間の里の風物を背景にさかな屋の業商記を連載すること」を厳命したばかりに、得さんの”原稿書き”の惨苦はこのとき(1975年12月)から始まる。」】《連載六年後に『さかな屋の四季』として自費出版、私家版。1982年》 DVDの作成にとりかかった人は、この「さかな屋の四季」の連載を読まれてその制作を思いたたれたのではないだろうか。このDVDが作られた経緯、動機は『さかな屋の四季』(梶井得三郎 海鳥社 2012年)が出版された経緯と似ていると思われた。 私家版が発行されて30年後に出版された505頁の『さかなや屋の四季』には、はじめに「編者緒言」がある。私家版発刊時に付された文章で、1982年秋、松下竜一と署名があり、そして本文の終りには「思いがけない贈り物」梶原和嘉子、「あとがき」梶原徳三郎、「刊行に寄せて」宮村浩高と記されている。 「草の根通信」の読者である宮村さんは、【「当時37歳であった梶原得三郎氏が、豊前火力発電所建設反対運動の中で、海面埋め立て阻止行動を威力業務妨害などの罪に問われて逮捕され、刑事被告人となった法廷で凛と言い放った言葉を、松下竜一著『豊前環境権裁判』(日本評論社)で読んだとき、「私の躰のどこかで何かが大きく動き出しました。己が信念を貫くためには職を捨てることすら躊躇しない不動の生き様に、私の精神は激しく揺さぶられたのでした。・・・梶原得三郎氏が『草の根通信』に連載した「さかな屋の四季」と「ボラにもならず」をどうにかして世に出したいと願っておりました。・・・ 「さかな屋の四季」は1976年1月から1982年4月までの6年4カ月(38歳から44歳)の行商時代の記述であり、「ボラにもなれず」にはほぼ半生が描かれています。この二つを合わせれば点が線となり、「梶原得三郎という生き方」が、より鮮明になるのではないかと考えていました。 そして、この作品を世に出すことで、松下、梶原両氏らのグループがやってきたことをもう一度世に問いたいと切望していたのです。二作品が書かれた当時の梶原夫妻の年齢を思えば、すでにそれ以上に年齢を重ねた私などは消え入りそうになるのですが。・・・ 私を含め、多くの人たちが忘れ去ろうとしている「ものを観る眼」を、今一度再認識するために、この本はきっと役立つことでしょう。 得三郎氏の意志堅固な生き様、それを包み込み、支え続けて来た妻・和嘉子さんの愛情、それらに触れるたびに私は、まさしく生きる指針をいただいた気持ちになるのです。 その昔、修験者らは経典を経筒に収め、後世の人々がその教えを忘れないように土中に埋納したといいます。この本もそんな経筒の一つになるのではないかと思うのです。 梶原夫妻の”生き様”を後世に残すことによって、梶氏らの活動を「歴史的に評価していく」作業に関わらせていただいたことは、私の生涯にとってかけがえのない幸運でありました。2012年4月10日」】 梶原和嘉子さんの「思いがけない贈り物」にも、私にとって懐かしいお名前がでてきて驚かされた。 【「宮村さんから「さかな屋の四季」と「ボラにもなれず」を一冊にして出版するという企画を知らされたのは2011年の8月でした。すでに出版社には話してあるということで、突然のことでびっくりしましたが、居合わせた友人たちがとても喜んで下さり、夫からも、そのときはなぜか「やめて下さい」と言う声が出ませんでした。私はその場の雰囲気に飲み込まれながら、3カ月後には金婚式を迎えるというタイミングのよさもあって、素直に喜んでしまいました。 そのお話の後で、私は、福岡の梅田順子さんからその年に頂いた年賀状を取り出して見せました。それには新年の挨拶の後に、「私は得さんの〈ボラにもならず〉が本にならないのかなと思っているのですけど」と書かれているのです。偶然とはいえ、お二人が同じことを考えておられたことにも驚きました。 梅田さんは、松下さんより先に亡くなった伊藤ルイさんの親友ですが、ル。イさんも生前、「得さんの文章、とてもいいです。頑張って、続けてくださるように」と書いて下さっていました。 本人の自発的意思ではなかったにせよ、『草の根通信』に書いてきたお陰で、また本が出ることになりました。」】 〔昨年5,6月のノドカフェへの出前の本”松下竜一の本”、そして今回の「新木安利(あらきやすとし)の本の世界」 の本の大半は梅田文庫からのものです〕 新木さんが贈ってくれたDVDは、宮村浩高さんの『さかな屋の四季』の出版への思いを映像によって経筒にしようとしたものだと思われた。そして、その本にも映像にも新木さんの声、姿はないけれども、その本と映像の中のそこここに新木さんの気配が感じられた。
ええ 〈新木さんとの出会い…〉 新木さんとの最初の出会いは、1988年(昭和63年)12月1日、苅田(かんだ)町教育委員会 に設置された図書館開設準備室で働くため、私がそれまで9年8カ月勤務した(1979.4~1988.11) 博多駅地区土地区画整理記念会館(福岡市が設立し28市た財団法人、232㎡の図書室あり。)を 辞め、苅田町の図書館開設準備に取りかかっていたときだ。いつだったか、同僚に連れられ椎 田町の図書館を訪ねた。 当時、椎田町の人口は1万3千人代、福岡県内では市立図書館は28市中14市、町村立は32町村の うち4町(古賀、芦屋、あ、椎田)しかなく、その1館が新木さんがいた椎田町図書館だった。 専任職員は新木さん1人、臨時職員1人の体制だった。いつだったか『宮澤賢治の冒険』(1995 年9月刊)を手渡された。以来、新木さんは”賢治の人”として私の中で刻まれ ていたように思う。   新木さんは『草の根通信』の発送作業を1975年(梶原さんがさかな屋を始めた年)以来10数年 にわたって続けていたのだが、そしてその作業は梶原さんの家(借家)の離れで、第一木曜日 の夜に行われていたのだが、それらのことについて話を聞いたことは一切なかった。 新木さんは彼の著書の中で、自らを内気でシャイな自分と度々記しているが、私はもっとも 身近にいたカレを「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」ということができないでいたのだ。 新木さんが一度能登川の図書館に来てくれたことがあったが、私はその機会をとらえることが できなかった。 その後に手にした彼の著作で、私はそうした数々のことを活字を通して初めて知ることになるの だが、その始まりあたりが、松下さんが亡くなった2004年6月17日の直後に中津で開かれた「松下 竜一さんを偲ぶ集い」(8月1日)への参加だった。集いの記録は翌年2005年6月、草の根会編『 勁き(つよき)草の根』(草の根会発行)として刊行されている。。 同書では全国から800人をこえる参加者があったが、「偲ぶ集い」当日を再現するかのように、 当日の内容を順序を変えずに文字化していて、第一章では梶原得三郎さんの「主催者挨拶」 に始まり、「後援団体挨拶」、ステージで述べられた「追悼のひとこと」(30人」)、ついで 「遺族あいさつ」(松下健 一・松下洋子)、「終りのことば」(梶原和嘉子)となっている。 第一章ー2は「偲ぶ集い」に寄せられたメッセージ(16人、岡部伊都子さんのお名前も) 第ニ章 追悼文(五十音順)193人、〈1200字でという依頼で寄せられたもの〉   〔新木安利、梅田順子、前田賎さんのものは末尾に掲載します。〕 第三章 病状経過(梶原得三郎)〈梶原が『草の根通信』に連載したもの〉 第四章 年譜 〔「1998年その「松下竜一その仕事」展に際して本人が作成した自筆年譜に、 ’98年以降死去までのことを新木安利さんが加筆して作成されたもの〕 〈梶原)「まえがき」より。「人見知りで引っ込み思案だった一方で、決して信念を枉げな かった松下さんに相応しい言葉だと思い、「勁き」と文語調にしました。」と。〉 (滋賀から福岡に帰ってからのこと) ・2007年4月の末に、12年間過した滋賀県の能登川から福岡に帰ってきた。「お帰りなさい」の 場を森崎和江さんが上野朱(あかし)さんと宗像で設けてくださり、それに合わせて引越しの日 を急きょ早めてのことだった。その場には森崎さんに深い想いをよせる3人の方が関西から1人、 埼玉から2人参加された。森崎さんを囲んで何とも心うれしい時間を授かった。 森崎さんのことをここに記すのは、私が20代のはじめに鶴見俊輔さんの本で初めて森崎さんの名 前を知って以来、森崎さんは私にとって生涯にわたって大切な人として私のなかに在る人であっ たので、後年、4年後に新木さんがその森崎さんと上野英信さんの本『サークル村の磁場』(海 鳥社、2011年)を書くことになろうとは思いも寄らぬことだったからだ。私にとっては思いがけ ぬその出版に驚いたのだが、この著作についても私は新木さんから話を聞き、語りあうことはな かった。 それで言えば、以後に書かれた、いずれも海鳥社の『田中正造と松下竜一 人間の低みに生きる』 (2017年)、『石原吉郎の位置』(2018年)、石川啄木の過程』(2019)と、2017年から毎年1冊と いう矢つぎばやな著作の刊行と、田中正造と松下竜一、石原吉郎、石川啄木と私自身が関心をも ってきた人を描いているのにも驚かされた。 なぜ遠藤周作なのだろうと思ったら(『遠影と母 深い河の流れ』2021)、新木さんが読書会で 遠藤周作の『深い河』を読むことになったことがきっかけであったようだ。 いずれにしても、新木さんが読者に贈ってくれた一冊、一冊として私の前にある。 (これから随時、紹介していきたい。) ・『松下竜一の青春』(2005年6月。56歳)に’新木さんの青春’時のことがふれられている。 新木さんの足跡の一端を記しておこう。 【後日、このことの、元となる資料を見つけた。【草の根通信】第374号(2004年1月5日)に、 「ーー「草の根通信」発送作業請負人ーー新・縁の下の力持ち登場」の見出しで 「松下さんと僕  新木安利」の投稿がそれだ。〈 〉内は『草の根通信』374号からの補足】 「素朴な田舎者として、宮澤賢治、埴谷雄高〈、ランボーやドストエフスキー〉なんかを読んで いた。僕は文学青少年だった。たぶん、(56歳の)今も。 〈1年留年して〉1972年3月北九州大学を卒業したあと、京都で職を転々、〈1年半ほどで〉椎田 町に。〈家に戻っていた。〉 〈僕と松下さんの作品との出会いは74年7月のことだ。その時僕は岩手県花巻市にいた。町に図 書館を作ろうと思い立って、司書講習の受講を考える〈大学で奥州大学で司書講習を受けていた。 、宮澤賢治にいかれていたので、避暑をかねて花巻まで来た。 しかし、思い出しても汗がで出る。(70日間の受講、その間、賢治が歩いた場所を彼も歩いたこ とだろう。) 同じ講習を受けていた友人が、「週末から」という雑誌に、松下さんが豊前火力反対闘争のこと をおもしろおかしく書いているの「「立て、日本のランソのヘイよ」)を、これはあんたのとこ ろの話じゃないか、と言って、見せてくれたのだ。「そう。僕がこっちに来る前に、反対運動で 逮捕された人がいた」と話したのだった。けれどもそれ以上詳しいことは、何も知らなかった。 70日の講習のあと、北海道をまわり、樺太にはいけないので、礼文島まで行った。9月21日の賢治 祭に出て、9月の終わりごろ、僕は家に帰ってきた。 その年の冬、僕は勇気を出して、松下さんに手紙を書いた。文面はよく憶えていないが、草の根 通信を送ってくださいということと、「ぼくは宮澤賢治と松下竜一を尊敬しているのです」とい うことを書いたと思う。ぶしつけな手紙に、松下さんはおそらく気分を害されたとおもうけれど、 しかし、これは本当のことなのです。今でも本当にそう思っているのです。 確かに賢治さんと松下さんは良く似たところがある。賢治さんはその理想を現実の中実現しよう として、悼ウホくの貧しい農村に入り、受難の道を歩いたのだった。松下さんも行動する作家と して、現実の中で運動し、受難の道を歩いている人だと思う。 松下さんからは、草の根通信と「今後も良かったら購読してくださいませ」という趣旨の手紙が 送られてきた。この「ませ」という語尾を僕はよく憶えている。〈略〉 ・翌年の1975年〈5月から、僕は公民館図書室(正式には「延塚奉行顕彰記念図書室」?)で働き 始めた。(7月20日、中央公民館図書室として開館) 8月に友人と松下さんを訪ねた。梶原さんの家で松下さんがやってくるのを待っていた。(略) 帰るとき、僕は、また来ます、と言った。そして律儀にも、次からの草の根通信の発送作業に通 い始めた。この日とたちの後ろを、一番後ろの方をついていこうと思った。当時毎週木曜日が学 習会だったとおもうけど、五割の出席率を確保しようとしていた。(略) その後ずっと草の根通信の発送作業の手伝いをしている。 松下さんの作品を何冊も読んだけれど、「5000匹のほたる」では、10回泣いた。「明神の小さな 海岸では5回ないた。「五分の虫、一寸の魂」では、1回泣いて、100回ぐらい笑った。〉 【前述した『松下竜一の青春』では、『草の根通信』91号(1980年6月9日)の「ろくおんばん」に、 《『5000匹のホタル』(理論社 1974年刊、松下37歳、新木25歳)を読んで、10回泣いた。 『明神の小さな海岸にて』(朝日新聞社 1975年 松下38歳 新木26歳)を読んで、5回泣いた。 『五分の魂、一寸の虫』(筑摩書房 1975年 松下38歳 新木26歳)を読んで、1回泣いて、 100回ぐらい笑った》と書いている。】 ・1981年4月5日、椎田学習等共用施設の3回に移転、椎田町図書館となる。(345㎡) ・1994年1月、苅田町の図書館が開館して5年目、私にとっては苅田町での最後の年度になるが、 椎田町文化会館コマーレのこけらおとしが行われている。400席のホールがあり、椎田町図書館 はコマーレ内の1階に移転した(345㎡)。記念事業として開催された大江健三郎さんの講演を 家族と共に聞きに行った。大江さんの講演を聞く最初で最後の機会だった。 ・2006年1月、椎田町は築城町と合併し築上町となる。図書館は築上図書館(旧椎田町図書館、 345㎡、職員3.うち司書2)と築城図書館(70㎡、職員2,うち司書は0) ・2009年(平成21年)3月、(たぶん)定年で退職。 このように新木さんの足跡をたどって来てあらためて思ったことの一つは、そうすると、私が 糸島に住み始めた2008年4月以降に、新木さんから京築地区(けいちく〈京都みやこ郡と築上郡 ういう。京都郡は苅田町とみやこ町=勝山町、犀川町、豊津町の3町が合併//築上郡は築上町、 吉富町、上毛(こうげ)町の3町)の図書館職員の研修会での話を依頼されたことがあったが、 私はその時、新木さんが京築地区でとても大きな任(役割)を担っているのだと思った。 京築の図書館という場合、行橋市、豊前市、苅田町、みやこ町、築城町、上毛町の2市4町の 図書館をいうのだが、これに隣接する 人口90万人台の北九州市立図書館を加えても、図書 館長が専任、正規で司書であるのは、一人もいない。新木さんが担っているものの重さ、大き さ、そのきびしい実態をあらためて思った。、 《得さん」にお会いした――2023年8月19日(土)》  直方(のおがた)市立図書館には、「筑豊文庫資料室」が館内にある。上野朱(あかし)さ んが直方市に2016年に寄贈し2020年7月にオープンしている。上野英信さんが1964年(昭和39年) に開いた”筑豊文庫”(私設炭坑資料館兼公民館兼自宅〈鞍手町〉)の書籍、資料等7000点が 寄贈されたものだ。資料室内には上野家で使われていた大きな8人掛けの食卓(複製、傷跡まで 再現)もおかれ、貴重な写真も資料とともに展示されている。2020年7月21日(奇しくも私の誕 生日)にあったオープンセレモニーで、当時の市長は、「上野さんの思いを未来につなげていき たい」と語っている。また上野朱さんは「単なる資料室ではなく、ーブルを囲んで議論する場 になれば」、色々な人が交流する場になればと。 資料室では記念講演会を行っていて、2023年8月23日には、英信さんんの『眉屋私記』の地元の 名護市屋部中学校から中学生たちもやってきて、筑豊の高校生とのトーク、対談もおこなわれた。 「眉屋私記文学碑建立期成会」の比嘉さんのお話も。 講演会が終わり、資料室や図書館内を見回っていたら、新木さん、梶原得三郎さんにお会いした。 梶原さんにはご挨拶をするだけであったが、私にとってはうれしい出来事であった。 新木さんが、梶原さんの家の離れで行われていた毎月1度の『草の根通信』の発送作業に、最初に 出かけたのは1975年、新木さん26歳(1949年3月生まれ)、松下さんと同い年の梶原さんは38歳の 時だ。以来、その時で48年にもなる深い交流、松下さん亡きあとも、「松下竜一さんを偲ぶ集い」 (2004 .8.1)の開催や追悼文集『勁き草の根』の発行、引き続き『松下竜一未刊行著作集』全 五巻の二人による共編の作業、ほんとうにおびただしい時空を共にしてきたお二人だ。このニ 人から発する気配ふれることができた。うれしい出会いだった。なんと、資料室の記念講演会で、 お二人に出会う機会を2度さずかった。新木さんが私に贈ってくれたかけがえのないな出会いだった。
松下竜一追悼文集『勁き草の根』より 〔新木安利、梅田順子、前田賎(しず)〕 ◇「死は涼しい」  新木安利(福岡県椎田町) 120-121頁 6月17日に松下竜一さんが亡くなってもう2ヶ月が過ぎた。なのに、僕には、悲しいという感 情が」おきてこない。それはなぜだろう。 「死は涼しい」というのは、『あぶらげと恋文』に出てくる21歳(58年)の松下さんの言葉です。 「死んでゆく者は涼しい」というのは『人魚通信・咳取り老人』(71年)の中に出てきます。 「死んだ者はみんな涼しい」は「ふるさとへの回帰」(西日本新聞71.8.10)という文章の中の 言葉です。中原中也の詩の一節だというのですが、中也にそういう詩句はありません。あるのは、 「生きのこるものはづうづうしく/死にゆくものはその清純さを漂わせ」(「死別の翌日」)という 詩句と、「秋岸清居士」というタイトルの詩です。(と、以前松下さんに話したら、「そんなとこ ろじゃろう」と言われました。さらに、)そ二つの合成かもしれないが、むしろ松下さんんのオリ ジナルtいってもいいように思います。(と言うと、うれしそうに笑っておられました。)この言 葉は、小さいころから病弱で、30歳までは生きていないだろうと言っていた松下さんの死生観の 根柢にあったものだろうと思われます。 自分のことに関してはそういうふうに言うことで越えて(耐えて)いくことができるとしても、 たとえば25歳の人が不遇の中での死をむかえたというのなら、そんなクールなことは言っていら れない。福止さんの死に関して、「絵本」という作品を書かずにはいられなかったように、それは 松下さんの優しさというものです。松下さんの受難です。 「死は涼しい」と言う松下さんは、生も涼しい。いつも現場にいて、己の自由な位置を誤ること なく、現場の反動性に絡めとられることもなかった。脂ぎったリアリストになることもなく、貪 欲なエコノミックアニマルになることもなかった。「ビンボー」というのは「いのちき」のことで あるし、そこに漂っているのはつまり、生の涼しさ、ということです。 ただ残念といえば、病床にあって、それまでの入院でっは通信の編集や執筆は普通にこなしてい たのに、小脳出血という病気で今度はそれができなかった。病状が落ち着いて、パソコンの練習 もはじめ、「涙通信」を書くと言っていたのに、それもできなかった。「涙通信」は正岡子規に おける[病状六尺』や『仰臥漫録』にあたるものになるはずだったのだけれど。 それはそうなのだけど、大抵の夢は叶え、十分に自分の人生を生き切ったのだから、仕合わせ な人生だったのでは、と僕も思います。生も死も涼しいからだと思えます。 6月15日にお見舞いに行ったとき、痰の吸引を済ませて記さんお楽になったのでしょう、松下さんは眠 りはじめましたが、その寝顔は本当に安らかなものでした。中津に帰り、洋子さんのそばで、本当 に解放され、あの安らかな涼しい境に入ったにちがいないと思えるからです。 ただし残された僕たちは、それぞれに課題をかかえています。松下さんという支柱をなくした ことの重大さはこれから知らされることになるかもしれない。 〔「生も死も涼しい」人生、この末下さんをおくる追悼の一文は、新木さんの奥さまから年初に いただいお葉書「生前にしておきたいことはほぼ済ませることができ、痛まず苦しまず静かに・・・」 のお言葉と響きあうもののように思えた。〕 ・『宮澤賢治の冒険』の中に、中原中也についての章がある。 ◇「とっておきの話」      梅田順子(福岡市)福岡市  166―167頁 私が朝夕、犬と散歩する途中に小さな公園があって、ブランコが二つかすかにゆれている、そ こで一休みする時に口をついて出るのが、あの映画『生きる』の主題歌ーいのち短し恋せよ乙 女、赤き唇あせぬまに・・・・である。以前、松下センセの声で来たこともあって、この歌は松下 センセの記憶を、それからこれ、これからあれへと糸をたぐるように運んでくれる。 それは、ほんのこの前のことだったような気がする。 環境権裁判が提訴された時の「一羽の鳥のことから語り始めたい。・・・・」という書き出しで始 まる6000字にも及ぶ膨大な「火力発電所建設差止請求事件の準備書面(第一)」を読んだ時だ った。ショックを受けた私たち(ルイさんを中心とした公民館の学習グループ)は、さっそくルイ さんがガリ版を切り私が謄写版での印刷を手伝って学習の資料とした。 裁判はあの有名な「アハハハ・・・・敗けた、敗けた」で一審を終り、あと高裁に移ったが、又して も「破れたり破れたれども十年の主張微塵も枉(ま)ぐと言わなく」の垂れ幕となった。そして『草の 根通信』を通してみんなの求める所は今も続いている、環境権という言葉が生まれたのもこの時か らだったと聞いている。松下センセの行動は、海を愛し、山を愛し、川を愛し、トリも草もという やさしい視点があるからこそこれを理不尽に壊すものへの怒りで、我慢ななかったのではなかろうか。 こうして裁判を通して、『草の根通信』を通して。又、『ルイーズーー父に貰いし名は』を通して、 ますます中津のみなさんと近しくなっていった。松下センセののエピソードは多くの人の知るとこ ろであるから、私のとっておきの思い出をもうひとつ。 1999年の秋、コスモスの季節、私たち二人はコスモスの広原をそぞろ歩きしたことがある。 (松下センセの体調に合わせて、ゆっくり歩いただけのことであるが)。この時はただ黙って歩くこ とが何の苦痛でもなかった。かえって甘美な時間をつくり出してくれた。この日は能古島在住の 石橋千秋さんが「能古島の小高い田圃の中のお墓群の中に、かわいい仏さんのような石があって この石をルイさんに見立ててお花を供えたりしているのよ」という話から、センセが「それは是 非見たい」と言いわれ、千晶さんがセンセと私を招待してくれた時のことである。一日ゆっくりし たあと、博多駅までセンセを送り「では又」という言葉で別れた、後日さっそくお礼の手紙を頂 いたが、その時の手紙は今でもとっておきの文箱に大事に仕舞っている。 夕暮れ、ぼんやりブランコにかけ空を見上げていると、星が光り始めた。「ルイさん星みつけた、 センセ星みつけた」とつぶやいてみた。そのうち素敵な名前をつけようと思いながら。 〔梅田さんとは1987年頃、私が福岡市の平和町に住んでいた頃、生協の利用を通してお出会いした。 当時、博多駅前4丁目の財団法人の記念会館図書室(232㎡)に勤務して7,8年目、人口100万人をこ える大きな市に市立図書館が1館しかなく、年々歳々図書館をとりまく状況が悪くなっていると思っ ていた私は、梅田さんとであい、’福岡の図書館を考える会’を始めた。梅田さんがすっと考える会 の代表を引き受けてくださったことで、1987年、何月だったか、会の活動が始まったのだった。 考える会の活動の1つで、「図書館の話」の出前を、市内だけでなく、県下どこにでも行っていたが、 行橋市の図書感を考える会から出前の注文があり私は行橋に出かけた。そのことが機縁となり、私は 1988年12月1日から、苅田町の図書館の開設準備にとりかかることになり、福岡市を離れることになっ た。このため、福岡の考える会で梅田さんと共に動くことはできなくなってしまった。 そしてあらためて思いかえしてみると、福岡での考える会の活動の時、また苅田時代(1988.12~ 1995.3)、引き続いての能登川時代を(1995.4~2007.3)を通して、私は梅田さんから、伊藤ルイさ んや松下竜一さんのことを聞くことはまるでなかたった。(新木さんの場合と同じようだったと思う) 私がそうしたことを知るのは滋賀から福岡に帰って来てから、おいおいに本当にその一端をお聞きす るだけで、梅田さんのおおよその動きを知ったのは、コロナ前に梅田さんが図書資料を整理すること になり、私に託された梅田さんの大切な蔵書を通してであった。私はそれを梅田文庫と呼んで、風信 文庫の本と共に活用させていただいている。然るべき時に、またその場に、とも考えている。〕 ◇「追悼のひとこと」   前田賎(瓢鰻亭)  「松下竜一さんを偲ぶ集い」での追悼のひと こと 〔ステージで追悼のひとことを述べた30人中、28番目の人として〕 80頁。 受付でいただいたパンフレットの、松下さんの略年譜、著作目録、松下竜一抄を用意された」新木安 利さんからお電話をいただきまして、今日ここで3分以内で一言しゃべれと申しつけられ ました。「とても引き受けられない」とお返事しましたところ、「あんた、大概世話になっちょろ うが」と言うんです。「お父さん(前田俊彦)の葬式のときのあの弔辞、それから十年にわたった ”ドブロクまつり”に一回も欠かさずきてくれちょろう。これは義理ちゅうもんよ」と、そ ういうんです。「義理ねえ」と思ってこの場に立たせていただいています。 松下さんには義理を果たしてないことがたくさんあります。380回にも及ぶ『草の根通信』の 発送作業を一度も手伝っていませんし、松下さんの関わったさまざまな運動にも都合が合わず 参加できていません。誘われて一度、豊前火力の反対運動が盛んな頃の明神浜に行ったことが あるんですが、明神浜って広いんです。とうとう出会えなかったんです。入院中にお見舞いに行こ うとしたこともありました。お宅にうかがって、松下さん以上に寡黙なお当様に国立中津病院ま での道を教えていただきました。まっすぐ行きなさい、といわれたところからそうしたのですが、 中津を過ぎて宇佐市に入っても見つかりませんでした。会えずに帰ったのですが。夏でしたから 花はしおれ、ケーキはグチャグチャになっていました。 新木さんは「松下さんには笑顔の写真が少ないんだよ」といっていますが、私はいつも笑顔をも らっていました。ただ、そのあとで本題とか一年分の『草の根通信』代をおきますと、とたんに 憮然とした顔になるんです。お金を渡してこんな顔をされることないよね、と最初は思いました が、これはやはり、普通ではない魂の持ち主なんですね。何日かすると必ず自筆の領収書が届き ました。 私の父は松下さんのことを、「体はタツノオトシゴじゃけど、魂は龍ぞ」と、よくいっており ました。司会をされている渡辺ひろ子さんには、松下さんは何かにつけてハガキで教えて上げた り詩的したりしたそうですけれど、私が以前に「松下さんと父との出会いは、上野英信先生のお はからいによる」ということを新聞に書いておりましたら、何年もそのことはおっしゃ らずに、朝日新聞のリレーエッセイの中に、「前田俊彦と出会ったのは、上野英信が連れてきたか らではない」というようなことを書かれました。私が必ず読むであろうということで、まちがい を正してくれたんだと思っております。 松下さんは非常な照れ屋で、人間技を超えた照れ屋だったと思っています。 松下さんのように、雪も雨も風もおして日出生台に通うようなことはできませんが、その志は 小さな生活の中で受け継いでいきたいと思っています。 そして、その龍の魂はきっと、洋子さんと竜一さんが愛してやまなかったカモメたち、翼を持 つものたちによって世界中のあちこちに飛んでいくと信じています。 〔前田賎さんは子どもの本屋さんを営むなかで、行橋の図書館を考える会の事務局をされていた。 考える会からの’図書館の話の出前の依頼で出会うことに。京築の人をむすぶ要の人、その地域 の駆け込み寺のような場を担っていた’。苅田町の図書館づくりにおいても、深く支えてくださ った人だ。 新木さんは前田俊彦さんの追悼集づくりで、その編集で深く関わっている。 【梅田さんと前田さんの、松下さん追悼の言葉は、お二人の新木さんとの深い関りと思いをも述 べているので、梅田、前田お2人から、新木さんへの追悼の言葉とも感じられ、ここに転載した。】
◇(ひとまずの終りに)―昨年6月22日の電話のこと だね。 昨年、2024年6月22日に新木さんからかかってきた電話で、梶原さんのDVDを通して新木さんから 贈られたものがなんだったかを、ここまで記してきたが、その電話ではいくつものことを話して くれた。 (今にして思えば、そのように電話などで新木さんが語ることはなかったことだ。) ご家族の第九コンサートの合唱への参加のことについで、さいごに彼が話したのは、「今、はにや ゆたか(埴谷雄高)を読んでいる」ということだった。その時には気づかなかったのだが、その後、 新木さんの足跡をたどる中で、上記したように、1949年、椎田町生まれの新木さんが二十歳の頃、 「素朴な田舎者として、宮澤賢治、埴谷雄高、ランボー、ドストエフスキーを読んでいた。僕は文 学青少年だった。(たぶん今も)」というコトバに出合った。若き時に出会った一人の作家を生涯 にわたって傍らにおいていたのだと、あらためて思い知る。 それなら新木さん、ぼくにとっての埴谷さんは、と語りたくなる。ぼくが好きな作家は武田泰淳。 埴谷雄高は泰淳さんが亡くなるまで、そのさいごの時まで親密な関わりをした人で、埴谷の文章で 一番心に刻まれているのは、武田泰淳の亡くなる間際の在り様を克明に鮮やかに書いた文章だ。 武田泰淳は1976年(昭和51年)10月5日、64歳で亡くなっているが、そのことを記した本を私は書店 で立ち読みで読んだのだった。新木さんはどのように、ハニヤユタカと出会い、今どのように読ん でいるのですかと聞いてみたい。 シカシ・・・、いや、そうなんだね。 今は読者である僕の前に静かにおかれている新木さんの著作の一冊一冊のなかに、一人の作家としての 新木さんの声が、その身振りとともに、僕の手元にあるということだね。天空からの贈り物のように。 新木さんとの出あいに心謝ー深謝ー静謝  ありがとう 新木さん。 新木さんに 〈追記〉 「作家なんだ」というコトバが私のなかにゆっくりと浮かんできたのは、 新木さんの処女作、『宮澤賢治の冒険』を始めて読んだ時です。 もう一人見つけた!  新木さんを作家と呼ぶ人を。梶原得三郎さんだった。 新木安利、梶原得三郎編『松下竜一未刊行著作集3』(海鳥社 2009.2)「草の根のあかり」末尾の文章 「松下さん、あなたが記憶される限り希望はある、と思いたい。  梶原得三郎」のなかに。 (抜粋です)410―411頁。 『追悼文集『勁き草の根』には、193人もの人あなたとの交流について書いています。五八八ページ という大部なものになったのは、新木さんがB6サイズにして厚みを持たせ、豆腐の姿に近づけたい と考えたからです。 あなたをそちらに送ってまもなく、新木さんは『松下竜一の青春』(海鳥社)を城塞し、その中に 追悼文集のチラシを挟んでくれました。そのおかげで、つい先日も注文がありました。静岡県の人 であなたの読者だといっていました。届いて少し読んだといってお礼の電話をもらったのですが、 その人は感想を語りながら嗚咽していました。 『草の根通信』の復刻版が世に出ることなどあなたは想像しなかったと思いますが、埼玉大学共 生社会センターの藤林泰さんと学術出版すいれん舎社長高橋雅人さんお発案で、全十九巻が二 期に分けて刊行されました。「戦後日本住民運動資料集成」の一環として作られたわけですが、日 本語のっまで海外の大学や図書館にも納められたと聞いています。 この復刻版には一セットに一冊の別冊付録がつきます。これは『草の根通信』全号にわたる総 目次・執筆者索引・テーマ別目次のほかに、新木さんによる長文の巻頭論文が掲載されたものでニ〇 〇ページあります。 身近にいて行動を共にしたのは私でしたが、作家としてのあなたを敬意をもって凝視し、あなた に関する資料を着々と収集してきた新木さんの存在は、到底言葉には尽くせないほど貴重なもので す。この著作集もまた、新木さんがいたからこそ、刊行されているのです。 川崎市の大気汚染を扱った自動小説『いつか虹をあおぎたい』は台湾で出版されましたが、第一 回竜一忌から取り沙汰されていたハングル版『豆腐屋の四季』は、翻訳完了後、出版の段階で頓挫し ているようです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  以上。                                            

2025年3月30日日曜日

GENzai(ギャラリー)のことから No.135

GENzai(ギャラリー/ショップ/喫茶)は東近江市五個荘にあり、3月は1日(土)から18日(火)まで 「坂口恭平展 僕の好きなもの」をやっていた。前号(No.135 )でその紹介をさせていただいた。 なぜ滋賀県の街のギャラリーのことを糸島に住む私がお伝えしたいと思ったのか、まずそのことから。 中山さんご夫妻のギャラリーGENzaiとのご縁は、随分以前にさかのぼる。夫人が大学生だったころ、 能登川町立図書館で、当時大学4年生だった夫人の写真展を行った。その時のことを当時、中日新聞の 近江八幡支局にいた記者の三田村さんが何ともうれしい紹介の記事にしてくれている。 ”能登川の大学生・・・・が写真展” 2002年(平成14年)7月1日 中日新聞 ――一つ屋根の下に暮らした祖父の最後の日々をとらえた―――― ”祖父の人生最終章 レンズで 叙情的に ”
心に刻まれる写真展だった。記事にあるように週末にはスライドが上映されたが、その時の彼女の清しい 語りくちも記憶に刻まれている。 1月の末から2月にかけて、中山さんから久しぶりのご連絡をメールで頂き、その後のお便りでギャラリー での展示のチラシなどを送って頂いた。驚いたのは私が能登川で本当に懐かしい時間を幾度となくともに してきた田中武さんの急逝の知らせだった。 しかも田中さんの板画の作品展をGENzaiで企画し、昨秋からその準備のための打ち合わせを田中さんと行 っていたさなかのことだったとお聞きして言葉を失った。 田中武さんのこと お便りとともに作品展の案内
そのような経過、事情であったが、田中さんのご家族の協力のもと、予定通り開催することになりましたと、 ”祈りの版画 田中武展 ー想い、刷り、摺り、創るーそののち 2025.2.14(金武)―2.24(月) 作品展の名前と開催日時などを教えてくださり、中山夫妻の心のこもった作品展案内のチラシが同封されて いた。あわせて坂口恭平展のチラシも。田中武さんの作品展に行くことはできなかったが、追悼の思いを こめて田中さんから手渡されていたものを記しておきたい。 作品展の案内から
悼詞 ☆田中さんはよく図書館を利用され、図書館での講演会などの催しにもよく参加された。能登川の図書館は1997年(平成7年)11月に開館したのだが、いつのことだったか田中さんからある本を紹介され、個人でも購入していた。宮澤賢治の初期の動物童話集だった。出版されたのは1995年3月10日、『貝の火』(宮澤清六編 昭和22年12月の復刻版)、『二十六夜(宮澤清六編 昭和23年4月の復刻版)の2冊だった。
佐伯義郎さんのこと なぜこの本だったか。それはこの本の挿画・挿絵が佐伯義郎さん1918―1979)によるものだったからだ。田中さんから詳しくお聞きすることはなかったのだが、本には佐伯義郎さんの略歴を記した、 佐伯義郎美術館設立委員会の「ごあいさつ」の一文が一枚、折り込まれていた。その設立委員会の事務所が2か所、 記されていて京都事務所と滋賀事務所(滋賀県愛知郡愛知町東円堂)とあった。田中さんもその活動に参加されていたか、あるいは田中さんの知人の方が滋賀事務所の活動をされていたのだったか。 「ごあいさつ」の一文は短い文章の中で佐伯義郎氏が「画家として、又詩人として実に多様な仕事を残し」「出版関係では、岩波広辞苑のカットや初期宮澤賢治童話集の挿絵等に、氏の力量と人柄がよく表れています。童話集での茫洋とした柔らかな筆使いと、素朴で味わい深い色彩は、無私、無心を感じさせ、読者をごく自然に物語世界へと誘いながらイメージを増幅させ得た、すぐれた挿絵となっています」と、その人と仕事、その生き方を鮮やかに伝えている。 略歴では1979年11月4日、佐伯氏が京都で亡くなられたあと、堺町画廊で佐伯義郎展が1987年に、また1989年には「佐伯義郎没後10年記念展」が開かれたこと、その前年の1988年には滋賀県立八日市文化芸術会館で「佐伯義郎の詩的世界」が開催されたことなどが記されている。 ここで、突然、つい最近のことにかえるのだが、私は数年前から福岡市のある市民センターの会議室で月に1度の朗読の会(当初はそれぞれが各自、持ち寄った本の一節を読む会)に出かけている。メンバーは7名、私が1976年(昭和51年)7月頃から開館して間もない福岡市民図書館で嘱託職員とし3年弱いた時に、一緒に働いていた人たちで大半が嘱託だった人たちだ(50年来の友人)。そこで前々回から 宮澤賢治の本を朗読することになり、「どんぐりと山猫」の前回は、前記の復刻版『貝の火』を持って行った。 その際、「どんぐりと山猫」を読むことの面白さはもとより、標題の頁に描かれた絵と本文の中ほどにある2つの絵に目を惹かれた。『貝の火』には、「まへがき」(『注文の多い料理店』序・大正十二年十二月二十日)と7編の童話があり、それぞれの童話の標題紙の頁と童話の中ほどに佐伯さんの挿絵が1点あるのだが、「どんぐりと山猫」だけは童話中に2点の挿絵がある。 標題紙の絵は、一郎が大へんな急坂をのぼって行き着いた、立派なオリーブ色いろの榧(かや)の木のもりでかこまれた美しい黄金(きん)いろの草地だと思われ、山猫を真ん中にして3人がならんで立ってこちらを向いている。 本文の中の絵の一枚は、笛ふきの瀧のそばの木立の中を歩く一郎、学帽をかぶり半ズボンだ。もう一枚は、走る馬車の後に乗ったやまねこ、両耳をピンとたて大きな鋭い目で進行方向をみつめている。馬車別当は右手にむちを高く振りあげている。 朗読の会が終わってから、あらためて7つの童話を最初のから読み始める。一番目は「猫の事務所・・・ある小さな官衙(かんが)に関する幻想・・・」。標題の頁の挿絵には、事務長の黒猫のうしろの窓からいかめしい獅子が大きな金いろのあたまをのぞかせている。猫の第六事務所のなかでは5人の猫が前を向いたりうしろを向いたり横を向いたりして並んで立っている。右端で両腕を泣いている目に当てているのは四番書記の竃(かま)猫だ。まだ獅子には気づかない猫たちの真ん中で、獅子の方を向いているのが事務長の黒猫、それでは竃猫を泣かせた一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫はどれだろう。 読みすすめていくと、猫の歴史と地理をしらべる猫の事務所の扉をこつこつ叩いてやってきたぜいたく猫の質問に4人の書記の猫が次々に答えていく。一番書記、二番書記、三番書記についで四番書記が答えはじめる頁をめくって、思わずアッと驚いた。その半頁に描かれた挿絵はーーー「大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、 まつ赤な羅紗(らしゃ)をかけた卓を控えてどつかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にしてきちんと椅子にかけてゐました。ーーーを描いたものだった。私が驚いたのは、なにか見覚えのある絵だと思われたからだ。 その後、何日かかけて、整理など無縁の資料の山の中から一枚のチラシがでてきた。
チラシのタイトルは 雨ニモマケズ風ニモマケズ 第2回 宮澤賢治朗読リレー ●2005年5月14日(土)・午後2時ヨリ   能登川図書館野外ニテ〈雨天ノ時ハ会議室ニテ〉 朗読の出演者募集 🦉童話の朗読と鳥井新平さんの「短歌をうたう」があります。 ※佐伯義郎・画と記されたチラシの絵は、本に描かれた絵の一部が省略されている。(左側の壁面や書記のテーブルの手前の門扉など) ああ、これだったんだ!復刻版のこの本からだったのか。佐伯さんのお名前を記憶にとどめず、この絵だけが私のなかに刻まれていた。 このチラシは手書きで書かれている。宮澤賢治朗読リレーの提案もこのチラシ作りも、新平さんの(賢治の)「短歌をうたう」の提案もぜんぶ田中武さんの提安、作成だったと今にして思う。(私はそのことをすっかり忘れていたのだが) 〈疑問;チラシには白猫が座った椅子のうしろに、「茨木小学校」とあるが、これはなんだろう?ナンデスカ田中さん?〉 ・第2回ということに、そして日付が2005年5月14日ということに驚かされた。 私は”朗読リレー”については1回だけだと思っていた。それも実際にそれが行われたのは、能登川で「宮澤賢治学会の地方セミナー」(2004年5月1日)を開催した前のことだと。それを2回やっていたのだ。しかも2回目は地方セミナーを開催して1年後のことだった。私自身、図書館の玄関前の広場での朗読リレーに参加したことを憶えているのだが、あれは第1回目の朗読リレーだったのか。そうだとすると、2004年5月1日に能登川で開催した宮澤賢治学会地方セミナーの前に第1回の朗読リレーを開き、その参加者の大半が、地方セミナーの会場で行った”群読『雨にも負けず』”にでてくださったのだと思う。「辺境で診る、辺境から見る」をテーマに中村哲さん、井上ひさしのお話、対談を核に、4時間に及ぶプログラムの最後に、「参加者との対話・質疑」が行われたが、司会者から「最期の質問者です」と言われ、会場で手をあげられたのが、田中武さんだった。能登川という町の紹介から始まる田中さんの問いかけ、そして中村さんの応答の様子、セミナー全体の夢のような時空が、ある方のお力で記録に残され、今も見ることができます。【「図書館の風」No.49-(2)/ www.kazedayori.jp No.49-(2)】田中さんの声、お姿、そして この度は中村哲さんから「お聞きすることは全て聞きました」と言われた井上ひさしさんとのやりとりも見ていただければと思います。「開会の辞」で「イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序」を朗読して下さった仙台から参加された扇元久栄さんの声にも耳をすましていただければと思います。 また、田中武さんが作った「朗読リレーのちらし」のなかにある”鳥井新平さんの「短歌をうたう」”を、”井上ひさし『なのだソング』”とともに見ることもできます。
☆ 田中さんから驚かされたことがいくつも思いうかぶ。 ある時、毎日新聞の記者の元村有希子さんから図書館に電話があった。多分、東京からだった。取材したいとのお話だった。その時は私はまだ元村記者について、しっかり認識していなかった。しかし田中さんは元村さんの書く記事に注目されていたのだと思う。「どうして取材を」とお聞きしたのだったか、「田中さんから能登川の図書館を取材してほしいと連絡が」とのことだった。電話でか、あるいは手紙でか、そのような思いもよらない田中さんの行動に驚いたが、それに応えて動く元村さんの振舞いにも驚いた。取材は図書館でと考えていたが、日程の調整から、京都で前年の7月に亡くなった鶴見和子さんを偲ぶ会に私が京都に行くことにしていた日に、その会が終わったあと、その会場で取材をということになった。 毎日新聞の「発信箱」という欄に「いのち響く図書館」(元村有希子・科学環境部 )という記事が載ったのは2007年(平成19年)6月7日(木)、 能登川図書館の前庭で「第2回宮澤賢治朗読リレー」が行われて2年後のことだった。 田中さんは私にとって元村有希子という記者に対して目を啓いてくれた人だった。それは一人の新聞記者、個人に向きあう、あるいはその声、記事に耳をすますということでもある。 〈元村有希子さんの記事〉
☆その頃のことだったか、鶴見和子さんといえば、田中さんの南方熊楠の作品を、南方熊楠についての著書のある鶴見和子さんに贈られ、その作品が鶴見さんのお部屋に飾ってあるとお聞きしたことがある。田中さんは会いたいと思う人には、会いに行く人だった。ほんとうに鶴見和子さんの所に会いに行かれたのだ。 いつだったか、田中さんの作品展が東近江のあるお寺(だったと思う)であった時出かけていったことがある。田中さんの作品の前にたつと 、朗らかで温かな光のようなものにつつまれるようだった。その時、その底に静かな悲しみのようなものを感じていたように思う。 鶴見和子さんのお部屋の壁にある南方熊楠はどんなものか、時折、思いをめぐらせている。 ☆彡 田中さんへの報告 昨年の冬、田中さんが力をつくして取りかかっておられた作品展が、ご家族の協力のもと、GENzaiの中山夫妻のお力で実現し、今年の2月14日(金)から2月24日(月)までギャラリーGENzaiで開かれました。残念なことに私は駆けつけることができなかったのですが、私の若き友が、なんとGENzaiを2回にわたって訪ね、”田中武展”のこと、会場の佇まいのことを伝えてくれています。そして止揚学園を訪ね、なんとなんと、奥様にお会いして、そのお話をきくこともできました。さらに田中さんの作品がある近江八幡のカフェ茶楽も訪ねていて、そこでも私にも連なる不思議な出会いをされています。〈あざみ寮・もみじ寮、ゆかりの方との出会い!〉そして彼の歩みは止まることがありません。 彼は糸島に移り住んで一年ですが、私にとって思いも寄らぬ出会いを授かったと感じる人です。このようなことがあるのですね。彼には田中さんと共通点があることに、ここまで記して思いあたりました。それは彼も、会いたい人があれば、ほんとうに会いにいく人だということです。そのような人と出会えたのです。彼の歩みを通して田中さんと再びお会いしていると感じています。〈つながる出会い、広がる出会い、深まる出会いの人〉 さいごに、田中さんにお許しいただきたいことがあります。先に、田中さんの作品の前に立った時に、私がつつまれた光のようなものについて触れましたが、その一端なりをお伝えすべく、田中さんが昨年、送ってくださった賀状(2024の新年の賀状)をここに刻むことです。毎年毎年、新しい年を迎えるその日に、このような朗らかで明るい光に、私たちがつつまれていたことへの感謝の思いをこめて。(2025.4.17記)

2025年3月8日土曜日

坂口恭平展ご案内 東近江で No.134 

「坂口恭平展 僕の好きなもの」が、滋賀県東近江市五個荘で開催されている。 まずは、GENZai(ギャラリー/ショップ/喫茶)のちらしから。 会期:2025.3.1sat~3.18tue; 11:00~17:00。 会期中の休み:5.6.12.13 。 場所:〒521-1441 滋賀県東近江市五個荘川浪町732-1. 11時~17時(喫茶L.O.16時半)TEL0748-26-5110 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 長年楽しみにしていた坂口恭平さんの個展を開催します。 パステル画を中心に、油彩、水彩、木工、編みものなど 多岐に渡った作品が並ぶ予定です。 心がふわっとほどけるような作品たち。 ぜひこの機会にお楽しみください。 〈プロフィール〉 坂本恭平/1978年熊本県生まれ。2001年早稲田大学理工学 部建築学科を卒業。作家、画家、音楽家、建築家などその 活動は多岐にわたる。また自ら躁鬱病であることを公言。 2012年から死にたい人であれば誰でもかけることができる 電話サービス「いのっちの電話」を自身の形態電話で続け ている。 2023年2月には熊本市現代美術館にて、個展「坂口恭平日記」 を開催。著書は45冊にのぼる。 《坂口恭平さんからの、チラシでのことば》 いろいろ毎日大変だったり元気に過ごせたり、 外に向けて駆け回ったり内面をじーっと長い時間見てたり、 毎日で出会ったものを僕はいつも植物採集するようにスケッチしてます。 そんなあれこれを持っていきます。 みなさんの心が少しでも穏やかになったら100点満点です。 オープニングには顔を出そうと思っているので、お会いしましょう。――――――――――――――――――—―――――――――――――――― 【アクセス】 車 :名神高速八日市ICより車で23分。 電車:JR能登川駅より近江バス「八日市駅行」    バス停「川並」で下車、徒歩5分程。 駐車場:店舗内敷地は6第まで。集落内は道路が細いため 「五個荘観光センター」の無料駐車場をご利用ください。 徒歩5分程。 なお、すでに終了しましたが、3月1日(土)夜には、 「坂口恭平 歌会」が開かれました。
坂口恭平さんの本との出会いは、2007年5月に糸島に住み始めてからのことだ。私にとって嬉しい著者との出会い。その著書は もとより、その生き方にいつも心響くものを感じている。熊本の橙書店、今は亡くなられた渡辺京二さん、石牟礼道子さんの 気配が坂口さんんから伝わってくるのも、さらにうれしいことだ。 その坂口さんの個展とお話が東近江の五個荘であるとは!
—―――――――――――――――― GENzaiとのご縁については次回に。 sakaguti