2025年5月12日月曜日

「なんでも」について No5-(2)

※お知らせ 「図書館の風」No.5とNo.58ー(2)は、「公開」の状態になっていなかったことに気が付いたのが 昨日5月11日でした。すぐに「公開」にしたところ、なぜか、No.137の次、直近の日付の箇所にな ってしまいました。いきなり、Noが順番外のものがでてしまい、何だろうと思われたかと思います。 とばして、いただければと思います。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 「図書館の発見」   図書館私史


私は

・「さいごに」でふれた、公開質問状の第4問について。

    糸島市立図書館では、リクエストされた本が図書館に所蔵していないで、他の図書館から借りる場合(「相互貸借」という)、これまでは県内の公立図書館と国立国会図書館からに限られていました。予算(切手代)がないというのがその理由でした。(国立国会図書館から借りる場合は、当然その費用がかかっていたわけですが。)

このため、ある年には県内の小郡市立図書館や久留米市立図書館の前年度の1年間に小郡市、久留米市の図書館が他府県の図書館と相互貸借した資料を入手し(その資料には、相互貸借をした図書館の名前と件数を記載)、糸島市立図書館のカウンターに持参して、県内の図書館のサービスの実態を伝えて、糸島市の図書館での実施を要望したこともありましたが、実現せず今日にまで及んでいた経緯がありました。

今回、市長に当選された月形祐二氏の公開質問状での回答(平成30年1月23日、受け取り)により、リクエストされた本は相互貸借により他府県の図書館からも(先方の図書館が貸出を認める資料は)借りることができるようになります。

ただし、これで一件落着ということではなく、なぜこれまで、他の図書館が図書館サービスの基本として行っていることが糸島市の図書館でできずにきたかを考えることは、これからのよりよい糸島市のあり方を図書館を考える上で大切なことではないかと考えます。

図書館は何をするところか  「なんでも」 リクエスト・サービスのこと
  「図書館の発見」   図書館私史

私は今から46年前の1972年(昭和47)4月に千葉県の八千代市立図書館で司書として採用され、図書館員として働き始めました。(八千代市の図書館は2年で退職し、以後、福岡市民図書館1976.7~、博多駅前4丁目の財団法人の図書館1979.4~、福岡県苅田町立図書館1988.12~,  滋賀県能登川町立図書館1995.4~,  合併により東近江市立能登川図書館2006.1~2007.3 合計5つの図書館で勤務)

八千代市立図書館は旧中学校の校舎の教室4つ分(うち、1教室分は図書館の事務室)という、とても小さな図書館でしたが、移動図書館で市内の小学校や団地の集会所や昼食時間時の工場前などを巡回し、図書館で所蔵していない本のリクエストには購入や相互貸借で応えていました。

1965年(昭和40年)に1台の移動図書館から図書館を始め、順次分館を建て(7分館)、最後に中央館を建てて、その後の日本の公立図書館のあり方に決定的な影響を与えた東京都の日野市立図書館はまた、「いつでも」「どこでも」「だれでも」に「なんでも」を加えて、日本で初めてリクエスト・サービスを実施した図書館でもありました。

私が八千代市の図書館で働き始めた時は、日野市立図書館の開館から7年が経っていましたが、日野市立図書館の影響が千葉県の小さな図書館にも及んでいてリクエストは図書館として当たり前のサービスとして行われていました。

図書館の仕事で私が一番驚かされたのは、リクエストされて用意できた本を、用意できた旨、事前に電話で連絡し移動図書館の巡回先で、目当ての本を待ち受けている方に手渡すときに示されるお一人お一人の底深い感謝のお気持ちが心響くように伝わってくることでした。(ある時はお言葉で、またある時は無言の態度で。)

その人の求める資料を確実に手渡すこと、ああ、これが図書館の仕事だと体を通して知らされたのだと思います。「図書館は、だれのために、何をするところか」、広島市で生まれ、倉敷市や福岡市の3つの市で小学生の時を過ごし、成人になるまでも、ずっと身近に公立図書館がなく育った私にとっての「図書館の発見」であったと今にして思います。

人口100万人を超える福岡市で福岡市民図書館が開館したのが、日野市立図書館が開館して11年後の1976年(昭和51年、私が30歳の時です)。


旧前原市において市民による「図書館建設の援助をする会」が署名16,420人分を集めて市長に提出したのが1994年(平成6年、その市民の運動は、1990年に開館した苅田町立図書館を視察して「図書館の発見」をした、当時の一人の市議会議員の図書館との衝撃的な出会いから始まったことを、つい最近、そのご本人からお聞きする機会がありました。)

以後、市民による図書館を求める懸命な運動が積み重ねられましたが、日野市にならって1台の移動図書館で前原市の図書館サービスが始まったのは、署名提出4年後の1998年(平成10年)のことでした。日野市立図書館が開館してから実に33年後のことです。

 さらにその後、紆余曲折を経て、前原市図書館(パピルス館)が開館したのが、移動図書館のサービスが始まってから7年後の2005年(平成17年)、そして二丈、志摩地区に図書館が開館したのは合併(2010年/平成22年)後の2011年(平成23年)のこと、図書館法(1950年)が制定されてから61年後のことでした。二丈、志摩地区では2世代に渡って図書館がない時が延々と続いてきたと言えます。

かつて「後進国(ある頃より後進国という言葉ではなく、発展途上国と言われてきました)の先進性」という言葉が使われていました。後進国(発展途上国)は、いろいろな点でスタートが遅れているけれども、何事かを始めるにあたっては、先に歩んでいる所の経験をしっかり学んで、ゼロから出発するのではなく、先に進んでいる所のあり方をスタート台にして歩むことができる、それだけより先に進める可能性をもっていることを示す言葉であったと思います。

このことは図書館の世界でも言えるように思います。日野市立図書館の開館から遅れて、図書館によっては数十年後にスタートした図書館でも、日野市や多摩地区の図書館や全国各地で先進的な活動を展開する図書館の活動に学び、さらに住民の強い支持を得る、底深い図書館サービスを行ってきた図書館を各地で見ることができます。
(九州では、「伊万里市民図書館」や「たらみ図書館」(現在は諫早市と合併)など)

それらの図書館に共通して見られることがあります。

1.図書館を利用する時の、もっとも一般的な方法である「貸出」(資料や情報の提供)を
  図書館サービスの基本とし、住民の求める資料や情報の提供によって、すべての住民
  の「知る自由」を保障することを図書館の重要な責務(役割)としていること。

 「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」
 「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館である。
 「すべてのこくみんは、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、
  年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」
        『図書館の自由に関する宣言 1979年改訂』
          (日本図書館協会、1979年の総会で採択)
 「われわれは、


  由」を保障しすることを

すべての住民が「いつでも」「どこでも」「だれでも

「図書館にはDNAが大事」 菅原峻さんから手渡されたもの No.58--(2)

※お知らせ NO.58-(2)はパソコンの操作を誤り、本来のNo順をはずれて、N.137の次になってしまいました。 とばしていただければと思います。(2025.5.11) -------------------------------------------------------------------------------------------------------- nbsp;図書館の主人は住民、図書館がよくなるもダメになるも住民次第

 菅原峻(すがわら たかし)さんが亡くなられたのは、東日本大震災が起きた日から3ヶ月後の2011年6月24日、あれからもう8年が経つ。菅原さんに初めてお会いしたのは、たしか1988年8月のことだったと思う。30年前のことだ。

 菅原さんは1926年、北海道の生まれ。戦後、八雲町の役場に勤め、教育委員会で公民館づくりに携わる。1951年(昭和26年)、役場を辞めて上京し上野にあった文部省の図書館職員養成所に通う。「新4期」とよばれた同期には前川恒雄さんがいて、「一番親しい仲だった。」何という出会いだろう。(『ず・ぼん』6「境界人、菅原峻の途中総括 助言者という選択」菅原峻・話 ポット出版 1999.12)2年後の1953年3月、養成所を卒業、同年4月から社団法人日本図書館協会に勤務。

 当時、博多駅から歩いて10分、博多駅前4丁目に福岡市が1979(昭和54)年に設置した財団法人の小さな図書室(232㎡)で開館時から働いていた私は、人口100万をこえる大都市で市立図書館が1館と各区の市民センター図書室(公民館図書室、7室)と少年科学文化会館図書室しかない、図書館砂漠福岡市というほかない市に住んで年々歳々、図書館の状況が悪くなっていくという思いを強くしていた。そうして1987年に図書館への思いを同じくする人たちと`福岡の図書館を考える会`を始め、一年をかけて福岡市の図書館政策を作って市に提言した。(『2001年 われらの図書館 ── すべての福岡市民が 図書館を身近なものとするために ── 』 福岡の図書館を考える会 1988年1月24日 )

その冒頭 `図書館をもっと身近に 暮らしの中に`という見出しの頁の「はじめに」で

 「今、あなたの身近に──散歩がてら、買い物がてら、気軽に立ち寄れる場所に、ある
 いは働いている近くに──図書館がありますか。・・・人口118万人をこえる福岡市に
 わずか9ヵ所の図書館施設、人口13万人に1館しかない現状では、市民の大半にとって
 図書館がない状態ではないでしょうか。

 と問いかけ、次のように続けている。

 市民が歩いていける所に図書館を(人口2万人に1館を、1中学校区に1図書館を)─
 私たちは、それが、市の財政を知らない夢想家の言ではなく、市の図書館政策の柱と
 され、すでにそのことを実現している図書館が 他市において数多くあることを知って
 います。`身近で暮らしの中`の図書館を実現できるかどうかは、まさに私たち住民
 が図書館をどう考えるかによるのではないかと思います。

 わたしたちは一体どうすれば そのような図書館をつくることができるのか。福岡市
 の現状を調べ、他市の例に学びながら みんなで考えていきたいと思います。

 わたしたちがほしいと願っている図書館とはどんな図書館か。今、福岡市の図書館は
 どんな問題をかかえているのか。来るべき2001年を すべての市民のくらしの中に
 図書館がある状態で迎えるためには、私たちは今 何をしなければならないか。

 私たちが各地の図書館をたずね、多くの人に会って考えてきたことを ここに
 『2001年われらの図書館─すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために─』 
 (サーモンピンクの表紙、47頁)として提言いたします。
 
そして最後を次のように結んでいる。

 わたしたちの提言が福岡市のこれからの図書館を共に考えていく一石となればと念じるものです。私たちの図書館への思いが波紋のように広がっていくことを願っています。