2025年5月12日月曜日

「なんでも」について No5-(2)

「図書館の発見」   図書館私史


私は

・「さいごに」でふれた、公開質問状の第4問について。

    糸島市立図書館では、リクエストされた本が図書館に所蔵していないで、他の図書館から借りる場合(「相互貸借」という)、これまでは県内の公立図書館と国立国会図書館からに限られていました。予算(切手代)がないというのがその理由でした。(国立国会図書館から借りる場合は、当然その費用がかかっていたわけですが。)

このため、ある年には県内の小郡市立図書館や久留米市立図書館の前年度の1年間に小郡市、久留米市の図書館が他府県の図書館と相互貸借した資料を入手し(その資料には、相互貸借をした図書館の名前と件数を記載)、糸島市立図書館のカウンターに持参して、県内の図書館のサービスの実態を伝えて、糸島市の図書館での実施を要望したこともありましたが、実現せず今日にまで及んでいた経緯がありました。

今回、市長に当選された月形祐二氏の公開質問状での回答(平成30年1月23日、受け取り)により、リクエストされた本は相互貸借により他府県の図書館からも(先方の図書館が貸出を認める資料は)借りることができるようになります。

ただし、これで一件落着ということではなく、なぜこれまで、他の図書館が図書館サービスの基本として行っていることが糸島市の図書館でできずにきたかを考えることは、これからのよりよい糸島市のあり方を図書館を考える上で大切なことではないかと考えます。

図書館は何をするところか  「なんでも」 リクエスト・サービスのこと
  「図書館の発見」   図書館私史

私は今から46年前の1972年(昭和47)4月に千葉県の八千代市立図書館で司書として採用され、図書館員として働き始めました。(八千代市の図書館は2年で退職し、以後、福岡市民図書館1976.7~、博多駅前4丁目の財団法人の図書館1979.4~、福岡県苅田町立図書館1988.12~,  滋賀県能登川町立図書館1995.4~,  合併により東近江市立能登川図書館2006.1~2007.3 合計5つの図書館で勤務)

八千代市立図書館は旧中学校の校舎の教室4つ分(うち、1教室分は図書館の事務室)という、とても小さな図書館でしたが、移動図書館で市内の小学校や団地の集会所や昼食時間時の工場前などを巡回し、図書館で所蔵していない本のリクエストには購入や相互貸借で応えていました。

1965年(昭和40年)に1台の移動図書館から図書館を始め、順次分館を建て(7分館)、最後に中央館を建てて、その後の日本の公立図書館のあり方に決定的な影響を与えた東京都の日野市立図書館はまた、「いつでも」「どこでも」「だれでも」に「なんでも」を加えて、日本で初めてリクエスト・サービスを実施した図書館でもありました。

私が八千代市の図書館で働き始めた時は、日野市立図書館の開館から7年が経っていましたが、日野市立図書館の影響が千葉県の小さな図書館にも及んでいてリクエストは図書館として当たり前のサービスとして行われていました。

図書館の仕事で私が一番驚かされたのは、リクエストされて用意できた本を、用意できた旨、事前に電話で連絡し移動図書館の巡回先で、目当ての本を待ち受けている方に手渡すときに示されるお一人お一人の底深い感謝のお気持ちが心響くように伝わってくることでした。(ある時はお言葉で、またある時は無言の態度で。)

その人の求める資料を確実に手渡すこと、ああ、これが図書館の仕事だと体を通して知らされたのだと思います。「図書館は、だれのために、何をするところか」、広島市で生まれ、倉敷市や福岡市の3つの市で小学生の時を過ごし、成人になるまでも、ずっと身近に公立図書館がなく育った私にとっての「図書館の発見」であったと今にして思います。

人口100万人を超える福岡市で福岡市民図書館が開館したのが、日野市立図書館が開館して11年後の1976年(昭和51年、私が30歳の時です)。


旧前原市において市民による「図書館建設の援助をする会」が署名16,420人分を集めて市長に提出したのが1994年(平成6年、その市民の運動は、1990年に開館した苅田町立図書館を視察して「図書館の発見」をした、当時の一人の市議会議員の図書館との衝撃的な出会いから始まったことを、つい最近、そのご本人からお聞きする機会がありました。)

以後、市民による図書館を求める懸命な運動が積み重ねられましたが、日野市にならって1台の移動図書館で前原市の図書館サービスが始まったのは、署名提出4年後の1998年(平成10年)のことでした。日野市立図書館が開館してから実に33年後のことです。

 さらにその後、紆余曲折を経て、前原市図書館(パピルス館)が開館したのが、移動図書館のサービスが始まってから7年後の2005年(平成17年)、そして二丈、志摩地区に図書館が開館したのは合併(2010年/平成22年)後の2011年(平成23年)のこと、図書館法(1950年)が制定されてから61年後のことでした。二丈、志摩地区では2世代に渡って図書館がない時が延々と続いてきたと言えます。

かつて「後進国(ある頃より後進国という言葉ではなく、発展途上国と言われてきました)の先進性」という言葉が使われていました。後進国(発展途上国)は、いろいろな点でスタートが遅れているけれども、何事かを始めるにあたっては、先に歩んでいる所の経験をしっかり学んで、ゼロから出発するのではなく、先に進んでいる所のあり方をスタート台にして歩むことができる、それだけより先に進める可能性をもっていることを示す言葉であったと思います。

このことは図書館の世界でも言えるように思います。日野市立図書館の開館から遅れて、図書館によっては数十年後にスタートした図書館でも、日野市や多摩地区の図書館や全国各地で先進的な活動を展開する図書館の活動に学び、さらに住民の強い支持を得る、底深い図書館サービスを行ってきた図書館を各地で見ることができます。
(九州では、「伊万里市民図書館」や「たらみ図書館」(現在は諫早市と合併)など)

それらの図書館に共通して見られることがあります。

1.図書館を利用する時の、もっとも一般的な方法である「貸出」(資料や情報の提供)を
  図書館サービスの基本とし、住民の求める資料や情報の提供によって、すべての住民
  の「知る自由」を保障することを図書館の重要な責務(役割)としていること。

 「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」
 「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館である。
 「すべてのこくみんは、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、
  年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」
        『図書館の自由に関する宣言 1979年改訂』
          (日本図書館協会、1979年の総会で採択)
 「われわれは、


  由」を保障しすることを

すべての住民が「いつでも」「どこでも」「だれでも

「図書館にはDNAが大事」 菅原峻さんから手渡されたもの No.58--(2)

 図書館の主人は住民、図書館がよくなるもダメになるも住民次第

 菅原峻(すがわら たかし)さんが亡くなられたのは、東日本大震災が起きた日から3ヶ月後の2011年6月24日、あれからもう8年が経つ。菅原さんに初めてお会いしたのは、たしか1988年8月のことだったと思う。30年前のことだ。

 菅原さんは1926年、北海道の生まれ。戦後、八雲町の役場に勤め、教育委員会で公民館づくりに携わる。1951年(昭和26年)、役場を辞めて上京し上野にあった文部省の図書館職員養成所に通う。「新4期」とよばれた同期には前川恒雄さんがいて、「一番親しい仲だった。」何という出会いだろう。(『ず・ぼん』6「境界人、菅原峻の途中総括 助言者という選択」菅原峻・話 ポット出版 1999.12)2年後の1953年3月、養成所を卒業、同年4月から社団法人日本図書館協会に勤務。

 当時、博多駅から歩いて10分、博多駅前4丁目に福岡市が1979(昭和54)年に設置した財団法人の小さな図書室(232㎡)で開館時から働いていた私は、人口100万をこえる大都市で市立図書館が1館と各区の市民センター図書室(公民館図書室、7室)と少年科学文化会館図書室しかない、図書館砂漠福岡市というほかない市に住んで年々歳々、図書館の状況が悪くなっていくという思いを強くしていた。そうして1987年に図書館への思いを同じくする人たちと`福岡の図書館を考える会`を始め、一年をかけて福岡市の図書館政策を作って市に提言した。(『2001年 われらの図書館 ── すべての福岡市民が 図書館を身近なものとするために ── 』 福岡の図書館を考える会 1988年1月24日 )

その冒頭 `図書館をもっと身近に 暮らしの中に`という見出しの頁の「はじめに」で

 「今、あなたの身近に──散歩がてら、買い物がてら、気軽に立ち寄れる場所に、ある
 いは働いている近くに──図書館がありますか。・・・人口118万人をこえる福岡市に
 わずか9ヵ所の図書館施設、人口13万人に1館しかない現状では、市民の大半にとって
 図書館がない状態ではないでしょうか。

 と問いかけ、次のように続けている。

 市民が歩いていける所に図書館を(人口2万人に1館を、1中学校区に1図書館を)─
 私たちは、それが、市の財政を知らない夢想家の言ではなく、市の図書館政策の柱と
 され、すでにそのことを実現している図書館が 他市において数多くあることを知って
 います。`身近で暮らしの中`の図書館を実現できるかどうかは、まさに私たち住民
 が図書館をどう考えるかによるのではないかと思います。

 わたしたちは一体どうすれば そのような図書館をつくることができるのか。福岡市
 の現状を調べ、他市の例に学びながら みんなで考えていきたいと思います。

 わたしたちがほしいと願っている図書館とはどんな図書館か。今、福岡市の図書館は
 どんな問題をかかえているのか。来るべき2001年を すべての市民のくらしの中に
 図書館がある状態で迎えるためには、私たちは今 何をしなければならないか。

 私たちが各地の図書館をたずね、多くの人に会って考えてきたことを ここに
 『2001年われらの図書館─すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために─』 
 (サーモンピンクの表紙、47頁)として提言いたします。
 
そして最後を次のように結んでいる。

 わたしたちの提言が福岡市のこれからの図書館を共に考えていく一石となればと念じるものです。私たちの図書館への思いが波紋のように広がっていくことを願っています。
      

  
  


 

 
 

 

2025年3月30日日曜日

GENzai(ギャラリー)のことから No.135

GENzai(ギャラリー/ショップ/喫茶)は東近江市五個荘にあり、3月は1日(土)から18日(火)まで 「坂口恭平展 僕の好きなもの」をやっていた。前号(No.135 )でその紹介をさせていただいた。 なぜ滋賀県の街のギャラリーのことを糸島に住む私がお伝えしたいと思ったのか、まずそのことから。 中山さんご夫妻のギャラリーGENzaiとのご縁は、随分以前にさかのぼる。夫人が大学生だったころ、 能登川町立図書館で、当時大学4年生だった夫人の写真展を行った。その時のことを当時、中日新聞の 近江八幡支局にいた記者の三田村さんが何ともうれしい紹介の記事にしてくれている。 ”能登川の大学生・・・・が写真展” 2002年(平成14年)7月1日 中日新聞 ――一つ屋根の下に暮らした祖父の最後の日々をとらえた―――― ”祖父の人生最終章 レンズで 叙情的に ”
心に刻まれる写真展だった。記事にあるように週末にはスライドが上映されたが、その時の彼女の清しい 語りくちも記憶に刻まれている。 1月の末から2月にかけて、中山さんから久しぶりのご連絡をメールで頂き、その後のお便りでギャラリー での展示のチラシなどを送って頂いた。驚いたのは私が能登川で本当に懐かしい時間を幾度となくともに してきた田中武さんの急逝の知らせだった。 しかも田中さんの板画の作品展をGENzaiで企画し、昨秋からその準備のための打ち合わせを田中さんと行 っていたさなかのことだったとお聞きして言葉を失った。 田中武さんのこと お便りとともに作品展の案内
そのような経過、事情であったが、田中さんのご家族の協力のもと、予定通り開催することになりましたと、 ”祈りの版画 田中武展 ー想い、刷り、摺り、創るーそののち 2025.2.14(金武)―2.24(月) 作品展の名前と開催日時などを教えてくださり、中山夫妻の心のこもった作品展案内のチラシが同封されて いた。あわせて坂口恭平展のチラシも。田中武さんの作品展に行くことはできなかったが、追悼の思いを こめて田中さんから手渡されていたものを記しておきたい。 作品展の案内から
悼詞 ☆田中さんはよく図書館を利用され、図書館での講演会などの催しにもよく参加された。能登川の図書館は1997年(平成7年)11月に開館したのだが、いつのことだったか田中さんからある本を紹介され、個人でも購入していた。宮澤賢治の初期の動物童話集だった。出版されたのは1995年3月10日、『貝の火』(宮澤清六編 昭和22年12月の復刻版)、『二十六夜(宮澤清六編 昭和23年4月の復刻版)の2冊だった。
佐伯義郎さんのこと なぜこの本だったか。それはこの本の挿画・挿絵が佐伯義郎さん1918―1979)によるものだったからだ。田中さんから詳しくお聞きすることはなかったのだが、本には佐伯義郎さんの略歴を記した、 佐伯義郎美術館設立委員会の「ごあいさつ」の一文が一枚、折り込まれていた。その設立委員会の事務所が2か所、 記されていて京都事務所と滋賀事務所(滋賀県愛知郡愛知町東円堂)とあった。田中さんもその活動に参加されていたか、あるいは田中さんの知人の方が滋賀事務所の活動をされていたのだったか。 「ごあいさつ」の一文は短い文章の中で佐伯義郎氏が「画家として、又詩人として実に多様な仕事を残し」「出版関係では、岩波広辞苑のカットや初期宮澤賢治童話集の挿絵等に、氏の力量と人柄がよく表れています。童話集での茫洋とした柔らかな筆使いと、素朴で味わい深い色彩は、無私、無心を感じさせ、読者をごく自然に物語世界へと誘いながらイメージを増幅させ得た、すぐれた挿絵となっています」と、その人と仕事、その生き方を鮮やかに伝えている。 略歴では1979年11月4日、佐伯氏が京都で亡くなられたあと、堺町画廊で佐伯義郎展が1987年に、また1989年には「佐伯義郎没後10年記念展」が開かれたこと、その前年の1988年には滋賀県立八日市文化芸術会館で「佐伯義郎の詩的世界」が開催されたことなどが記されている。 ここで、突然、つい最近のことにかえるのだが、私は数年前から福岡市のある市民センターの会議室で月に1度の朗読の会(当初はそれぞれが各自、持ち寄った本の一節を読む会)に出かけている。メンバーは7名、私が1976年(昭和51年)7月頃から開館して間もない福岡市民図書館で嘱託職員とし3年弱いた時に、一緒に働いていた人たちで大半が嘱託だった人たちだ(50年来の友人)。そこで前々回から 宮澤賢治の本を朗読することになり、「どんぐりと山猫」の前回は、前記の復刻版『貝の火』を持って行った。 その際、「どんぐりと山猫」を読むことの面白さはもとより、標題の頁に描かれた絵と本文の中ほどにある2つの絵に目を惹かれた。『貝の火』には、「まへがき」(『注文の多い料理店』序・大正十二年十二月二十日)と7編の童話があり、それぞれの童話の標題紙の頁と童話の中ほどに佐伯さんの挿絵が1点あるのだが、「どんぐりと山猫」だけは童話中に2点の挿絵がある。 標題紙の絵は、一郎が大へんな急坂をのぼって行き着いた、立派なオリーブ色いろの榧(かや)の木のもりでかこまれた美しい黄金(きん)いろの草地だと思われ、山猫を真ん中にして3人がならんで立ってこちらを向いている。 本文の中の絵の一枚は、笛ふきの瀧のそばの木立の中を歩く一郎、学帽をかぶり半ズボンだ。もう一枚は、走る馬車の後に乗ったやまねこ、両耳をピンとたて大きな鋭い目で進行方向をみつめている。馬車別当は右手にむちを高く振りあげている。 朗読の会が終わってから、あらためて7つの童話を最初のから読み始める。一番目は「猫の事務所・・・ある小さな官衙(かんが)に関する幻想・・・」。標題の頁の挿絵には、事務長の黒猫のうしろの窓からいかめしい獅子が大きな金いろのあたまをのぞかせている。猫の第六事務所のなかでは5人の猫が前を向いたりうしろを向いたり横を向いたりして並んで立っている。右端で両腕を泣いている目に当てているのは四番書記の竃(かま)猫だ。まだ獅子には気づかない猫たちの真ん中で、獅子の方を向いているのが事務長の黒猫、それでは竃猫を泣かせた一番書記の白猫、二番書記の虎猫、三番書記の三毛猫はどれだろう。 読みすすめていくと、猫の歴史と地理をしらべる猫の事務所の扉をこつこつ叩いてやってきたぜいたく猫の質問に4人の書記の猫が次々に答えていく。一番書記、二番書記、三番書記についで四番書記が答えはじめる頁をめくって、思わずアッと驚いた。その半頁に描かれた挿絵はーーー「大きな事務所のまん中に、事務長の黒猫が、 まつ赤な羅紗(らしゃ)をかけた卓を控えてどつかり腰かけ、その右側に一番の白猫と三番の三毛猫、左側に二番の虎猫と四番のかま猫が、めいめい小さなテーブルを前にしてきちんと椅子にかけてゐました。ーーーを描いたものだった。私が驚いたのは、なにか見覚えのある絵だと思われたからだ。 その後、何日かかけて、整理など無縁の資料の山の中から一枚のチラシがでてきた。
チラシのタイトルは 雨ニモマケズ風ニモマケズ 第2回 宮澤賢治朗読リレー ●2005年5月14日(土)・午後2時ヨリ   能登川図書館野外ニテ〈雨天ノ時ハ会議室ニテ〉 朗読の出演者募集 🦉童話の朗読と鳥井新平さんの「短歌をうたう」があります。 ※佐伯義郎・画と記されたチラシの絵は、本に描かれた絵の一部が省略されている。(左側の壁面や書記のテーブルの手前の門扉など) ああ、これだったんだ!復刻版のこの本からだったのか。佐伯さんのお名前を記憶にとどめず、この絵だけが私のなかに刻まれていた。 このチラシは手書きで書かれている。宮澤賢治朗読リレーの提案もこのチラシ作りも、新平さんの(賢治の)「短歌をうたう」の提案もぜんぶ田中武さんの提安、作成だったと今にして思う。(私はそのことをすっかり忘れていたのだが) 〈疑問;チラシには白猫が座った椅子のうしろに、「茨木小学校」とあるが、これはなんだろう?ナンデスカ田中さん?〉 ・第2回ということに、そして日付が2005年5月14日ということに驚かされた。 私は”朗読リレー”については1回だけだと思っていた。それも実際にそれが行われたのは、能登川で「宮澤賢治学会の地方セミナー」(2004年5月1日)を開催した前のことだと。それを2回やっていたのだ。しかも2回目は地方セミナーを開催して1年後のことだった。私自身、図書館の玄関前の広場での朗読リレーに参加したことを憶えているのだが、あれは第1回目の朗読リレーだったのか。そうだとすると、2004年5月1日に能登川で開催した宮澤賢治学会地方セミナーの前に第1回の朗読リレーを開き、その参加者の大半が、地方セミナーの会場で行った”群読『雨にも負けず』”にでてくださったのだと思う。「辺境で診る、辺境から見る」をテーマに中村哲さん、井上ひさしのお話、対談を核に、4時間に及ぶプログラムの最後に、「参加者との対話・質疑」が行われたが、司会者から「最期の質問者です」と言われ、会場で手をあげられたのが、田中武さんだった。能登川という町の紹介から始まる田中さんの問いかけ、そして中村さんの応答の様子、セミナー全体の夢のような時空が、ある方のお力で記録に残され、今も見ることができます。【「図書館の風」No.49-(2)/ www.kazedayori.jp No.49-(2)】田中さんの声、お姿、そして この度は中村哲さんから「お聞きすることは全て聞きました」と言われた井上ひさしさんとのやりとりも見ていただければと思います。「開会の辞」で「イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序」を朗読して下さった仙台から参加された扇元久栄さんの声にも耳をすましていただければと思います。 また、田中武さんが作った「朗読リレーのちらし」のなかにある”鳥井新平さんの「短歌をうたう」”を、”井上ひさし『なのだソング』”とともに見ることもできます。
☆ 田中さんから驚かされたことがいくつも思いうかぶ。 ある時、毎日新聞の記者の元村有希子さんから図書館に電話があった。多分、東京からだった。取材したいとのお話だった。その時は私はまだ元村記者について、しっかり認識していなかった。しかし田中さんは元村さんの書く記事に注目されていたのだと思う。「どうして取材を」とお聞きしたのだったか、「田中さんから能登川の図書館を取材してほしいと連絡が」とのことだった。電話でか、あるいは手紙でか、そのような思いもよらない田中さんの行動に驚いたが、それに応えて動く元村さんの振舞いにも驚いた。取材は図書館でと考えていたが、日程の調整から、京都で前年の7月に亡くなった鶴見和子さんを偲ぶ会に私が京都に行くことにしていた日に、その会が終わったあと、その会場で取材をということになった。 毎日新聞の「発信箱」という欄に「いのち響く図書館」(元村有希子・科学環境部 )という記事が載ったのは2007年(平成19年)6月7日(木)、 能登川図書館の前庭で「第2回宮澤賢治朗読リレー」が行われて2年後のことだった。 田中さんは私にとって元村有希子という記者に対して目を啓いてくれた人だった。それは一人の新聞記者、個人に向きあう、あるいはその声、記事に耳をすますということでもある。 〈元村有希子さんの記事〉
☆その頃のことだったか、鶴見和子さんといえば、田中さんの南方熊楠の作品を、南方熊楠についての著書のある鶴見和子さんに贈られ、その作品が鶴見さんのお部屋に飾ってあるとお聞きしたことがある。田中さんは会いたいと思う人には、会いに行く人だった。ほんとうに鶴見和子さんの所に会いに行かれたのだ。 いつだったか、田中さんの作品展が東近江のあるお寺(だったと思う)であった時出かけていったことがある。田中さんの作品の前にたつと 、朗らかで温かな光のようなものにつつまれるようだった。その時、その底に静かな悲しみのようなものを感じていたように思う。 鶴見和子さんのお部屋の壁にある南方熊楠はどんなものか、時折、思いをめぐらせている。 ☆彡 田中さんへの報告 昨年の冬、田中さんが力をつくして取りかかっておられた作品展が、ご家族の協力のもと、GENzaiの中山夫妻のお力で実現し、今年の2月14日(金)から2月24日(月)までギャラリーGENzaiで開かれました。残念なことに私は駆けつけることができなかったのですが、私の若き友が、なんとGENzaiを2回にわたって訪ね、”田中武展”のこと、会場の佇まいのことを伝えてくれています。そして止揚学園を訪ね、なんとなんと、奥様にお会いして、そのお話をきくこともできました。さらに田中さんの作品がある近江八幡のカフェ茶楽も訪ねていて、そこでも私にも連なる不思議な出会いをされています。〈あざみ寮・もみじ寮、ゆかりの方との出会い!〉そして彼の歩みは止まることがありません。 彼は糸島に移り住んで一年ですが、私にとって思いも寄らぬ出会いを授かったと感じる人です。このようなことがあるのですね。彼には田中さんと共通点があることに、ここまで記して思いあたりました。それは彼も、会いたい人があれば、ほんとうに会いにいく人だということです。そのような人と出会えたのです。彼の歩みを通して田中さんと再びお会いしていると感じています。〈つながる出会い、広がる出会い、深まる出会いの人〉 さいごに、田中さんにお許しいただきたいことがあります。先に、田中さんの作品の前に立った時に、私がつつまれた光のようなものについて触れましたが、その一端なりをお伝えすべく、田中さんが昨年、送ってくださった賀状(2024の新年の賀状)をここに刻むことです。毎年毎年、新しい年を迎えるその日に、このような朗らかで明るい光に、私たちがつつまれていたことへの感謝の思いをこめて。(2025.4.17記)

2025年3月8日土曜日

坂口恭平展ご案内 東近江で No.134 

「坂口恭平展 僕の好きなもの」が、滋賀県東近江市五個荘で開催されている。 まずは、GENZai(ギャラリー/ショップ/喫茶)のちらしから。 会期:2025.3.1sat~3.18tue; 11:00~17:00。 会期中の休み:5.6.12.13 。 場所:〒521-1441 滋賀県東近江市五個荘川浪町732-1. 11時~17時(喫茶L.O.16時半)TEL0748-26-5110 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 長年楽しみにしていた坂口恭平さんの個展を開催します。 パステル画を中心に、油彩、水彩、木工、編みものなど 多岐に渡った作品が並ぶ予定です。 心がふわっとほどけるような作品たち。 ぜひこの機会にお楽しみください。 〈プロフィール〉 坂本恭平/1978年熊本県生まれ。2001年早稲田大学理工学 部建築学科を卒業。作家、画家、音楽家、建築家などその 活動は多岐にわたる。また自ら躁鬱病であることを公言。 2012年から死にたい人であれば誰でもかけることができる 電話サービス「いのっちの電話」を自身の形態電話で続け ている。 2023年2月には熊本市現代美術館にて、個展「坂口恭平日記」 を開催。著書は45冊にのぼる。 《坂口恭平さんからの、チラシでのことば》 いろいろ毎日大変だったり元気に過ごせたり、 外に向けて駆け回ったり内面をじーっと長い時間見てたり、 毎日で出会ったものを僕はいつも植物採集するようにスケッチしてます。 そんなあれこれを持っていきます。 みなさんの心が少しでも穏やかになったら100点満点です。 オープニングには顔を出そうと思っているので、お会いしましょう。――――――――――――――――――—―――――――――――――――― 【アクセス】 車 :名神高速八日市ICより車で23分。 電車:JR能登川駅より近江バス「八日市駅行」    バス停「川並」で下車、徒歩5分程。 駐車場:店舗内敷地は6第まで。集落内は道路が細いため 「五個荘観光センター」の無料駐車場をご利用ください。 徒歩5分程。 なお、すでに終了しましたが、3月1日(土)夜には、 「坂口恭平 歌会」が開かれました。
坂口恭平さんの本との出会いは、2007年5月に糸島に住み始めてからのことだ。私にとって嬉しい著者との出会い。その著書は もとより、その生き方にいつも心響くものを感じている。熊本の橙書店、今は亡くなられた渡辺京二さん、石牟礼道子さんの 気配が坂口さんんから伝わってくるのも、さらにうれしいことだ。 その坂口さんの個展とお話が東近江の五個荘であるとは!
—―――――――――――――――― GENzaiとのご縁については次回に。 sakaguti

2025年2月1日土曜日

「谷川俊太郎さんからの贈りもの」 No.133

年はじめ、1月、2月のノドカフェへの出前の本は、谷川さんを追悼し、感謝の思いを胸に 「谷川俊太郎さんからの贈りもの」としました。ご案内の葉書を下記のように記しました。 出前の本の話のお知らせもそこに記しています。    谷川俊太郎さんからの贈りもの・悼詞             ――出前の本の話・1月29日――  年はじめ、新年1月と2月、ノドカフェへの出前の本は、 「谷川俊太郎の世界」です。 最初に谷川さんの本が私の中にとびこんできたのは、子ど の本を通してでした。『けんはヘっちゃら』から始まり、『こ とばあそびうた』を手にしたときの驚き、『わたし』、『詩って なんだろう』、ジョン・バーミンガムの翻訳絵本の一冊一冊を 子どもたちとともにどれほど楽しんできたことだろう。『ピー ナッツ』の翻訳も。乾千恵さん、川島敏夫さんとの書の絵本 『月人石』はいつも傍らにある。 耳を澄ませてそのコトバにききいる詩、声をだすことの喜び を退官する詩、生きるということを深く感じかえりみる詩、 そして・・・。詩だけではない。エッセイの面白さ、その数々。 出前の本の話は今回は1月の末ちかくに、下記の題で。鶴見俊輔 さんとの対談『人世相談』の話も。 ★出前の本の話:日時:1月29日(水)11:00~12:00  「谷川俊太郎さんからの贈りもの・悼詞」 場所:ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F 連絡先――