2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2021年11月30日火曜日
竹内悊(さとる)氏が亡くなられた。(享年93歳)悼詞 No.81(2022.2.21書きあげ)
竹内悊さんが10月14日に逝去されたのを知らせてくださったのは豊田市の図書館を考える市民の会(副代表)の竹内純子さんだ。図書館友の会全国連絡会からの情報で訃報を知りすぐさまメールをしてくださったのだ。11月1日のことだった。
そのメールには、「冊子が竹内先生に届く前に亡くなられていらしたそうです。あと少し早く完成していたら才津原さんのインタビューを読んでいただけたのにと心残りです。」とあった。『―5年間の活動に学んだこと―生きるため
の図書館って なんだろう アーサー・ビナード氏講演録 & 才津原哲弘氏インタビュー』(豊田市の図書館を考える市民の会発行 代表 杉本はるみ 事務局090-7953-0978 2021.10.10第1刷)がそれだ。そのメールに気づいたのは翌朝、11月2日のことだった。
(2021年10月13日 撮影)
(竹内純子さんへの返信)
「昨日いただいたメール、今朝ひらきました。竹内悊さんから5月29日付けでいただいたお手紙と(同封されていた)1942年にアメリカで作られた「戦後アメリカ公共図書館基準」の抄訳と解説の内容の凄さに驚き、ご返事を書くのがとても遅くなってしまいました。この間さらにお手紙と「子どもの読書」(通巻300号、最終号)も送っていただいていました。この中には竹内悊「五十年、三百冊を支えたもの」というすばらしい文章が冒頭にありました。
竹内悊さんへのお礼の手紙を書き始めたのが10月10日、〔実際は12日、あわてていて10日と思っていた〕書き終えたのが23日、その日は3時すぎに目ざめて、朝食前にようやく書き上げ、土曜日でしたので、糸島の市街地にある郵便局に出かけて投函しました。以後、実は今日まで毎日、竹内さんからのお手紙を心待ちに過ごしていました。お送りいただいた大変な労作や「子どもの読書」への私の感想を待ってくださっていたと思います。ほんとうに言葉がありません。感謝とお礼の言葉をお伝えすることができませんでした。ご連絡ありがとうございました。」
(この間、5月29日、脚立からの落下によるあばら骨の骨折や、 田植えのさなか脳梗塞による7月1日から13日間の入院などに遭遇)
その日以降、折に触れては竹内悊さんが心の中に立ち現れ尽きることのないやりとりが続いている。まずは心からの深い感謝、同時代のある時間をこのような人とともに生きれたことの有り難さを思う。
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『生きるための図書館 —―一 一人ひとりのために』 竹内 悊(岩波新書 2019.6)奥付けより
1927年東京生まれ.56年東洋大学司書講習修了(夜間).65年米国フロリダ州立大学図書館学大学院修士課程修了.79年ピッツバーグ大学図書館大学院博士課程修了(比較図書館学・教育人類学).1954年から66年まで中・高等学校図書館と大学図書館に司書として勤務.その後立正大学講師、専修大学講師、同大学助教授、教授などを経て、1981年図書
館情報大学教授、87年同大学副学長.現在,図書館情報大学名誉教授.2001年から05年まで日本図書館協会理事長.
編著書に『図書館学の教育』(共著.日外アソシエーツ),『コミュニティと図書館』(編著,雄山閣),『図書館の歩む道』(解説,日本図書館協会),『「図書館学の五法則」をめぐる188の視点』(日本図書館協会)などがある。
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竹内さんとの出会いをたどる
竹内悊さんに初めてお会いしたのは2008年(平成20年)11月17日(月)、私が能登川の図書館を退職し、糸島に住み始めて1年半後、伊万里市民図書館でだった。同館で図書館の休館日である月曜日の午前10時から佐賀県公共図書館協議会地区別研修会が開かれ、竹内さんが講師として来られたのだ。「地域に生きる図書館―公共図書館と学校図書館」が演題だった。二丈町から龍国寺の甘蔗珠恵子(かんしゃ たえこ)さん(『まだ、まにあうのなら―私の書いたいちばん長い手紙』地湧社 1987)、甘蔗健仁さんと一緒に参加し、はじめて竹内さんのお話を聞くことができた。その時は佐賀県だけではなく、長崎県などからも多くの参加者があり、また、竹内さんが大学で教えておられたとき受講した学生たちが卒業後、大学を退職後の竹内さんと共に、各地の図書館を見学する研修旅行をされていて、この度の伊万里での講演に、そのグループの方たちも各地から参加されていたこともあり、ゆっくりお話することはできなかったがお会いすることができたことが何よりのことだった。次いでお会いできたのは2年半後、2011年(平成23年)5月13日(金)、福岡県立図書館で館長研修会の講師で来られた時で、その翌日には二丈の龍国寺で、「糸島市の皆さんとこれからの子どもたちのために――市立図書館の健全な成熟と成長を願って」と題して、お話をしていただいた時だ。至上の時間を授かった。この時を契機に手紙のやりとりが始まり、ご著作や各地での講演の記録など、かけがえのない資料を送っていただいた。そして幾度もの出会いの時を授かった。
生涯一図書館員としての日々の営みから紡ぎだされるみずみずしい思索の言葉、ユーモアにみちたお手紙、そして出会いのひと時ひと時から、この13年間なんと心はずむ時を授かってきたことだろう。うかつ極まりないことだけれど、このような時がまだしばらくは続くものと思い、それが断ち切られる時があろうなど思ってもみないことだった。とりわけ昨年10月にいただいたお手紙と、今となっては最期の書きあげたばかりのご労作については、それに対する私の返信を待っておられたと思われ、私のあまりに遅くなってしまった返書の手紙はご生前には届けることができなかったこともあり、この数カ月、私の中で竹内さんとのやりとりが続いていて、今このときまだ言葉にならない思いの中にいる。まずは竹内さんとの出会いをどのようにして授かることができたのか、その出会いをたどることから。
竹内悊さんのお名前を初めて聞いたのはたしか1987、8年の頃のこと。佐賀市内で子どもの本の書店”こすもす”をされていた今はなき原田明夫さんからだった。当時福岡市に住んで、博多駅前4丁目にあった財団法人の小さな図書室で働いていた私は年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなると思い、(人口100万をこえる市に図書館が1館しかなかった。各区の市民センターにあった図書室は公民館図書室で分館ではなかった。)家が近くで生協の利用を通して知りあった梅田順子さんたちと”福岡の図書館を考える会”を始め、各地の図書館づくりを考える集会に出かけていた。
そんな集いでよくお会いしたのが原田さんだった。佐賀市立図書館が墨田区の八広図書館で、”本のある広場”としての図書館を実践していた千葉治さんを図書館長として迎えて開館したのは1998(平成8)年8月で、県庁所在地の佐賀市に市立図書館が開館するのはまだ10年も先のことだった。各地の集会で多くの市民や図書館員に出会ってきたが、本屋さんをしている人には初めて出会った。いつも穏やかな笑顔で佐賀市の内外の図書館をめぐる話をしてくださった。そんなある時、原田さんの口から竹内悊さんのお名前がとびだした。何と語られたか、正確には覚えていない。ただ竹内さんの講演をきいて、そのお話のすごさ、竹内さんの、人としての深い魅力が、原田さんにどんなに深い印象を刻んだかが伝わってきた。原田さんから後日、講演のレジメの写しを送っていただいたのではなかったか。私の中に竹内さんの名前が刻まれた。
図書館問題研究会での出会い
月に1、2度出かけている伊万里市民図書館で先日、ある冊子を見て驚いた。
『住民の権利としての図書館を 図書館問題研究会年表1945ー2015・資料集1954―2013』(図書館問題研究会発行、発売:教育資料研究会)だ。原田さんに最初に会ったと思われる頃、私は図書館問題研究会(通称、図問研ともんけん)の福岡支部の事務局を引き受けていて、月1回の定例会を記念会館で開いていた。(支部長は福岡県立図書館にいた白根一夫さん)その集まりに原田さんも来られたことがあったのではないか。前記の資料集によれば、私は図問研の各支部から1名選出する全国委員だった白根さん(1986年)の後をひきついで1987年に全国委員に1年間だけなっていて、年1回東京で開かれる全国委員会に出席していた。その時の図問研の委員長が千葉治さん(1936ー2020)で、1982年から図問研の委員長をされていた千葉さんに初めてお会いし、墨田区立八広図書館を訪ねた。千葉さんが図書館長として、”本のある広場”としての図書館(本との出会い人との出会い)を実践している現場を初めて体感することができた。使いこなれた卓球台のあるスペースに目をみはり、 区民の様々な集会、活動の場になっている、その多彩な内容に驚かされた。図書館の居心地のよい空気感、旅行に役立つための各地のパンフレットの利用者による持ち寄り、”図書館の利用者の新聞『びっと』”・・・初めて目にする図書館がそこにあった。地域の在りように応じて、様ざな場があり得る,以後千葉さんは、図書館のありかた方について、図書館員として大切なことについて、その身振り、態度で示されて、私自身の図書館での歩みに先導し並走してくださった。苅田でも能登川でも、”本のある広場”としての図書館が目指すべき図書館として自然なものとしてあった。穏やかさと厳しさと懐かしさ,人と図書館への深い愛と思いを手渡された千葉さんからは、またなんとかけがえのない一人ひとりとの出会いを授かったことだろう。そういえば千葉さんに出会う前に、千葉さんのことを私に紹介してくれた人がいた。その頃、ある日突然記念会館図書室を訪ねてきた写真家の漆原宏さんだ。以後、苅田町や能登川町、東京や各地で、図書館とは何か、各地でどんな生き生きとした活動が行われているか、そこにどんな図書館員や図書館を考え行動する市民がいるかを伝えてくださった。福岡の図書館を考える会を始めるきっかけとなった「仙台にもっと図書館をつくる会」代表の扇元久栄さんを紹介してくれたのも漆原さんだった。漆原さんの熱い口吻にふれて茨城県の水海道市立図書館に谷貝忍さんを訪ねたのはいつのことだったろう。図書館員よりも図書館をよく知り、深く考え、図書館とはどういうものかを伝える漆原さんの『地域に育つ暮らしの中の図書館 漆原 宏写真』(解説/森崎震二 ほるぷ出版 第1刷 1983.12 第2刷 1988.3)の一枚一枚の写真と
本文の言葉から、折々に手渡されてきたものをあらためて思う。漆原さんの写真集は、いつも身近にあって図書館について考える時私の図書館での仕事に並走してくれた。
東京での全国委員の会で出会ったかどうか記憶は定かではないのだが、その年に原田さんも図問研の全国委員だった。
原田さんは1986年から1996年まで11年間も全国委員をされていて、後に伊万里市民図書館の館長となる犬塚まゆみさんや(1997)や古瀬義孝さん(1998ー)に佐賀の全国委員のバトンを手渡されている。私も一員だった1987年の全国委員には大分の渡部幹雄さんや、以後幾度となく深い元気と力をいただくことになった山口県周東町の山本哲生さんがおられた。図問研の活動を通して福岡県内や九州だけではなく各地の図書館員や図書館づくりに関わる人たちに出会いの時を授かっていたことをあらためて思う。
竹内悊さんに一歩近づけてくれたのは
仙台の図問研の仲間だった。
仙台市図書館の平形ひろみさんに初めて出会ったのは、私が東京に1回きり出席した全国委員会の前後だったか、そのとき平形さんは全国委員ではなかったが、東京に来ていて会員の集まりで出会ったように思う。その後、平形さんとは数回しか会っていなかったが、10数年後、何かの折に滋賀に来られた時に1冊の冊子を手渡された。
『これからの図書館員のみなさんへー現場の役には立たない話ー』(竹内悊 図書館問題研究会宮城支部 2001.7 初版、2005.6 第2刷)だ。図問研宮城支部が主宰する「かばねやみ講座」での竹内さんの講演録だ。この人の話を聞きたいという人を招いて講演会を開き、その講演の記録を冊子として出版する。講演会に参加できなかった人もその冊子を手にすることで、講演の様子の一端を知ることができる。支部の活動はみんな手弁当の活動だ。その冊子を手にできた読者の一人としてほんとうにありがたく思う。
私はこの冊子ではじめて竹内さんの考え方、考え、論旨のすすめ方に出会ったように思う。考えるとは、考えを深めていくとはどういうことかを体感させられた。その話のすすめ方のあらましを想像していただきたく、目次を紹介します。
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―— 目次 ―—
これからの図書館員のみなさんへ
―現場の役には立たない話―
0 はじめに
0.1 今日のテーマと私の限界
0.2 私も「これからの図書館員」のつもり
1 事務局からの手紙
1.1 利用者にどう接して行けばいよいか
1.2 複雑な世の中にどう対処するか
1.3 分からないこと、疑問に思っていること
2 図書館とは何か
2.1 情報をいくら集めても、ものごとが分かる訳ではない
2.2 読み取ることと、本が判るということ
2.3 図書館の利用者から図書館員への期待
2.4 図書館とは何か
3 図書館で働く自分
3.1 専門職としての不安定さ
3.2 図書館員として生きて行くための力
3.3 自分を支えるもの
4 利用者への信頼と期待
質問
あとがき
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「あとがき」には図書館問題研究会 宮城支部 支部長 平形ひろみさんの次のような言葉がある。
―もしも何かにゆきずまったなら、「まだ、やり直せる」「視点を変えて物事を見る」そんな勇気をここからもらってください。仕掛け人は黒田氏、テープ起こしは若手、陰の力事務局の面々、多くの人たちの思いで、なんとか2号が出せました。不慣れな事務局にお付き合いくださり、原稿を完全な形に仕上げてくださった竹内さん本当にありがとうございました。———
注釈を1つだけ加えたい。
タイトル「これからの図書館員のみなさんへ」についで「―現場の役には立たない話―」となっているが、これについての注釈なしでは、間違って受け取られると思われるため。
この講演は2000年3月3日(金)、竹内さん(1927年東京生)が73歳の時に行われている。講演のはじめの竹内さんのお話。
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「私が図書館の仕事を始めたのは,1954(昭和29)年でした。前年の秋に学校図書館法が成立し,54年4月から施行されました。そこで学校図書館をやってみないか,と言われたのが最初でした。今から46年半前のことです。それから15年現場をあちこちしてから教職につきましたが、何と現場を離れて31年です。これはもう現場のことは何も知らないのと同じですね。そこでみなさんに「この話は現場の生活から見て,理解できるな」と思っていただくような話ができないのです。
そこで現場に関する話はできない,従ってしない,と考えておりました。
それではなぜ今日も出てきたかと申しますと,現場の感覚を持たなくても,求められたら,考えていることは話すべきだと思うようになったからです。それは、1950年に図書館法が成立しました。その過程で図書館無料の原則が出ました。
(略)その無料の原則ですが,それが案として出てきたときには,当時の図書館員はみんな反対だったのです。戦後すぐの時代に大多数の図書館は有料で,入館料を取っていました。そのわずかなお金をかき集めて,役所の会計に持って行き「入館料がこれだけ入るのだから,それを基礎に予算をくれ」といっているのに,その入館料をゼロにしようというのです。それではただでさえ少ない予算がますます削られてしまう。とても賛成はできない,ということで「あれには反対したんだよ,非常に不安だったからね」と,加藤宗厚先生(1895-1981、国立[元・帝国〕図書館長,後,駒澤大学教授・図書館長)から伺いました。「しかし,あれは無料になってよかったのだ。今の公共図書館は無料だからこそここまで伸びたのだ。そして住民のものになった。有料が今日まで続いていたら,とてもここまでは来なかっただろう。あの時反対したのは間違いであった」というお話でした。
今考えると確かにそうなのですが、しかし当時の現場の感覚と条件からしたら,反対するのが当り前だったでしょう。この話は、現場とは違う見方が図書館にあるべきだ,ということを示唆していないでしょうか。これから先,図書館はいろいろな面で大きく変わっていくでしょうが,その時に「現場ではそうかもしれないが,別な考えもある,という意見がなくていいのだろうか。現場の論理はそのとおりだが,本質から考えると,こうあるべきではないか」という考えがあってもいい,と思うようになったのです。私にできるという訳ではありませんが,「現場の役に直接たたない話をしてもいいのだ」というのは,そういう意味なのです。
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竹内さんの講演では私の心深く刻まれたお話があった。竹内さんが15~16年前に本の中で見つけたアメリカの図書館のポスターの話。ポスターには右手で持った銃を頭に当てている男の前にたくさんの本が積まれている図が描かれています。図の下には英文で「もし貴方が自殺しようと思うのなら,おやめなさい。その代わりに図書館へおいでください」と書かれています。「図書館ではちゃんとご援助いたします。そして貴方の死にたいという問題を解決に導きます」「図書館にはガイドもあれば書誌あります。図書館員が貴方の調べ物のお手伝いを致します。だから死ぬのはおやめなさい」
論楽社を訪ねる
竹内さんの講演録を読んで程なくだったと思う。いつ、どこでだったか。喫茶店でだった。論楽社の虫賀宗博さんにそのポスターの話をしていた。論楽社は虫賀さんが京都市左京区岩倉で開かれている私塾だ。論楽社との出会いは、能登川町立図書館は1997年9月に開館しているが、開館1周年を記念する講演会に鶴見俊輔さんをお呼びできないかと思い立ち、記念講演を考え始めていたころ読んでいた鶴見さんのエッセーのなかに、鶴見さんの住まいの近くに住んでいる虫賀さんたちの論楽社の活動にふれた文章があり、1998年5月私はまず論楽社を訪ねたのだった。1981年から歩みを始めた論楽社では1987年8月から、「生きてある言葉を聞きたい。体の中に紡ぎたい。糸車を回すように、ゆっくりと」そう考えて、手づくり講座として「講座・言葉を紡ぐ」を始め(第1回は岡部伊都子さんの「『シカの白ちゃん』の世界」)で、以後、藤田省三、安江良介、島田等、徳永進さん他、多くの方たちが論楽社の志に共鳴され、手弁当で講座にかけつけている。講演のいくつもを論楽社ブックレットとして出版されていた。(第1号『私たちはどう生きるか?―何本もの国境線を体に保って、走れ』藤田省三、第2号『自画像の描けない日本』安江良介、第3号『三月を見る―死の中の生、生の中の死』徳永進、第4号『生活者の笑い、「生」のおおらかな肯定』松下竜一、第5号『自由を生みつづける』金在述(キムジェスル)、第6号詩集『次の冬』島田等、第7号『病みすてられた人々―長島愛生園・棄民収容所』論楽社編集部、ほか。
鶴見さんの講演は『ものさしについて』という演題のもと、虫賀さんたちのご助力もあり1998年の秋に実現したのだが、私は論楽社での活動の心の奥深くに届くような営みに驚かされ、以後折にふれては論楽社を訪ねるようになっていた。後年、中村哲さんのお話を聞く機会を2回にわたって与えられたのも論楽社でだった。
そうしたある日、仙台での竹内悊さんお話、特にアメリカの図書館のポスターについて虫賀さんに話していたのだが、それが虫賀さんの中に深く沈潜し発酵して、思いもよらぬ形で私に還ってきた。後日、「講座・言葉を紡ぐ」の第49回目となる場で図書館の話をしてほしいとの依頼があり、虫賀さんから示された演題は、「自殺したくなったら、図書館へ行こう いのちを育てる図書館づくり」だった。演題を耳にして私は思わず息をのんだ。とっさに心に浮かんだのは前年、2003年の6月に突然の訃報をきいたIさんのことだった。
講座に先立つ4月6日の京都新聞(夕刊)の「現代のことば」の欄に虫賀さんは「いのちを育てる図書館」と題して、その4か月後の『世界』8月号(岩波書店)に掲載される虫賀さんの文章の予告ともいえる文章を書いている。能登川図書館との出会いにふれ、1980年に東京都日野市から前川恒雄さんを滋賀県立図書館長として迎えてからの滋賀県の図書館づくりにふれて次のように続く。
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「愛知川、永源寺、湖東、八日市各図書館を私は一月、二月に回ってみた。それぞれ館長が味を出していて、よかった。野の香りがして、一人一人が生き生きと生息していける場所としての図書館づくりがなされている。いまの図書館法をつくった中井正一さん。戦前、週刊文化新聞『土曜日』を京都でつくって、戦時体制と戦ったひとである。その中井さんが亡くなる一年前にこう書く。「真理を求めようとしないで、それを所有していると称する者たちの間でのみ戦争は巻き起こされるのである」(一九五一年)。共有するからこそ、真理。図書館への小さな旅をしながら、あらためて、そう思った。」
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論楽社で講座があったのは2004年(平成16年)5月3日、集いの日、私はIさんのことから話を始めた。Iさんとは、1995年4月に人口2万3千人の滋賀県能登川町で図書館開設準備室が設置され、そこで仕事を初めて程なく出会っていた。能登川生まれ能登川育ちのIさんは当時40代半ばで、琵琶湖の畔にある地域をくまなく歩き、郷土への深い思いをもつ人で、私にとっては能登川という町、そして町の内外の人、あの人この人への導き手だった。写真家の今村光彦さんに紹介してくれたのもIさんだった。能登川町立図書館・博物館、埋蔵文化センターの開館記念として町の全戸に配布された『ふるさと百科 能登川てんこもり―能登川町総合文化情報センター記念出版―』(能登川町 平成9年11月 215頁 図書館開設準備室が事務局)は町民から15名の編集委員を公募し、「15名のスタッフが資料収集のため町内を駆けずり回り」、17名の編集協力者や各行政区の区長や役員の協力のもと1年間の活動により出版された、まさに”能登川てんこもり”の冊子であるが、その冊子の編集の要の役を担ったのがIさんだった。編集委員会でのIさんの熱い論議を彷彿させる、彼の思いの一端は冊子の冒頭の3人の座談会「能登川再発見」(町長、今森光彦、『ふるさと百科』編集委員長)での言葉に遺されている。この本をつくる目的は変化の激しい町の今とこれまでを記録することと、もう一つの目的、「それは自分たちの町を、違った目でも見てほしいということ、そこをどうしたらいいかなと思った時に、今森さんの写真に出会ったんです。」との言葉に。今森さんは一年かけて能登川を訪れ、その成果は図書館・博物館開館記念の今森光彦写真展で展示されたのだが、その時のIさんのコトバが忘れられない。「ここには自分が知らなかった能登川がある(写っている)。」冊子のカバーの表紙は地元、北川織物の北川陽子さんの縮(ちじみ)が今森さんによって写されている。本の装丁を今森光彦さんにと提案したのもIさんだった。対談でIさんから引きだされ語りだされた今森さんの「見るということ」をめぐってのコトバ。――
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「今までとはちがった目でものを見ることってすばらしいことだと思いますね。自分の町が美しいとか、自然がすばらしいとか言う人はたくさんいるんですけど、どうしてすばらしいかとか、なぜ美しいかと具体的に言える人って少ないと思うんですね。それが言えるようになると、ほんとに自分の郷土を愛してることになるんじゃないかと思うんですよ。そうするにはどうしたらいいかというと、やっぱり見ることだと思うんですね。能登川にはそれぞれ小さいところにいっぱい宝物があって、そういうのを拾うことができる町だと思っているんです。それをみんなにやってほしいって感じしますよね。ぼくは写真家としての仕事でいつも発見ということがあるわけですね。写真を撮るってことは見る行為なんですよ。写真って機会が撮るもんだから、パチパチ写しても勝手に撮れるんだろうと思ったら、まずそれはまちがいで、撮る人はファインダーで見たもの、確認しているものしか撮れないんですよ。見つめるという行為は、町のそれぞれが、町の中にあるたくさんの宝物をゆっくり見ていく、具体的に見ていく、そういう行為をしていただくと、新しい発見につながるんじゃないかなと、そう思っていますけど。
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3人の対談の頁の前の口絵に6頁にわたって今森さんの能登川の写真11点が掲載されている。
そのIさんの突然の自死。身近で大切な人の生死に何ら関りも持てず、まったく無力な自分、「自殺したくなったら、図書館に行こう」の言葉の前で、だれよりも黙する他ない自分であることを感じつつ、私はIさんに向かって語りだしていた。私は図書館開館以来、私が授かったかけがえのない出会いのことをIさんに向かって語っていたように思う。◇一人暮らしでガンの宣告を受けた六十台の女性のこと。ご自宅に月1回、本をみつくろって届けていた時にお聞きした言葉。「テレビをみていたら、ヨーロッパの修道院の図書室がうつっていて、ナレーターが図書館は魂をいやすところと言っていたが私もそう思います。」、◇書の絵本と出会い、「閉じていた心が開いた」という沖縄の方のこと。本の力、出会いの力のこと。
会の終りの質疑の時間に能登川町から参加された女性が発言された。その時「図書館は町の誇りです」「図書館は私たち家族の居場所」と言われたMさんは、論楽社の講座のチラシを3日前、能登川で手にされた由。5月1日、鎌倉の井上ひさしさんとアフガニスタンから帰ってきたばかり中村哲さんのお二人の対談を核にした宮澤賢治学会地方セミナーの会場となった能登川町中央公民館で、休憩時間には中村さんの本の販売も手伝っていた虫賀さんが講座のチラシも配られていたのだ。能登川から京都の岩倉まで、電車とバスを乗り継いで駆けつけられたMさんに驚いた。Mさんとは以後、在職時の交わりだけではなく、2007年3月に私が図書館を退職してからも音信があり、一人の住民にとって図書館が何であるかについて深い学びを手渡され続けた。
このブログを書き始めた時には思いもよらぬ知らせに、竹内さんから一体どのような時間を手渡されてきたか、そのことをすぐには考えることができず、まずはどのようにして竹内さんとの出会いの時を授かったかを思い返すことから始めたのだが、ここまで書いてきて、ここで書きだしているのは、ある時から始まった竹内さんとの手紙のやりとりの中で、いつかは竹内さんにお伝えして、竹内さんのお考えをお聞きしたいことにつらなることだと気がついた。「図書館はどんな場であるか」、「図書館は何をするところか」、「図書館とは何か」をめぐって私が立ち会った図書館の現場の遅ればせのご報告でもある。「自殺しようと思うなら、やめなさい。そのかわり図書館へおいでください」のポスターを見て「図書館は、人が生き延びていくための場所なんだ」と深く心にうけとめ、そのことをまっすぐ伝えてくださった竹内さんに向けて、私はいま、そしてこれからもお便りをしようとしているようだ。
『止揚』第94号への投稿(2005年7月31日)(「『自殺したくなったら、図書館へ行こう いのちを育てる図書館づくり』をめぐって」と題して)
町内、能登川町佐野にある(現在は東近江市佐野)「ゆっくり歩こうなあ」の障がい者支援施設、止揚学園から同園で、年3回発行している『止揚』に原稿を求められ、論楽社でのことを書いたのは、論楽社での集いの1年後のことだった。そしてその刊行の直後、虫賀さんの『世界』への寄稿が岩波書店から出版された。
竹内さんのポスターの話から― 虫賀さんの『世界』への投稿
虫賀さんの竹内悊さんからの受容(深い受とり)は、2004年5月4日の論楽社での集いの依頼で終わらなかった。「講座・言葉を紡ぐ」での図書館をめぐる話を終えて1年後の2005年7月、岩波書店の『世界』8月号に虫賀宗博さんの文章が掲載された。タイトルは「自殺したくなったら、図書館に行こう―いのちを育てる図書館員の群像」
虫賀さんの文章はやわらかで温かい、そして対象とするものをとらえる時の的確さ、いのちの鼓動がつたわる文章の力。虫賀さんの体の中から血肉となって紡ぎだされてくるコトバを読んで、日本の各地から能登川の図書館を訪ねてくる人が絶えなかった。また図書館に来ることはなくても、その文章を目にとめ、その感想をつづる人がいることが、折にふれて伝わってきた。その一端をお伝えするべく、「(1)はじめに」を
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「自殺・自死者が一九九八年以来六年間、毎年三 万人を越えている。二〇〇三年は三万四千人である。六年間で松本市や呉市といった人口二〇万人の町がひとつポッと消えてしまっていることになる。これは、まるで内戦である。戦闘行為のない内戦である。
ひとりひとりが自分自身を追いつめ、苦しみ、責め、自裁していく。未遂の人、自殺を考えているひとの数はどれくらいか。遺族のひともたくさんになるだろう。
まずは生存すること。なにはともあれ生きのびること。こんなあたりまえのことを確かめあうことが必要であると私に思えるのは、ごく親しくしている大学生の友人が「死はすぐ近くにある」と自然に語るからである。あるとき、もうひとりの大学生の友人がひどく悩んでいるとき、「いちど能登川の図書館へ行ってみたら・・・」と私は薦めてみた。そのひとはバイクで行ってみたようだ。琵琶湖ぞいに一時間バイクに乗れば、京都から行くことができる。何日か後に彼女と再会すると、「能登川図書館、よかったよ。あんな図書館、初めて」と生き生きとして言う。私はいつのころからか「自殺したくなったら、能登川図書館は行こう」と友人たちに言っている。」
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こうして、虫賀さんの文章は能登川図書館を訪ね、目と心に鮮やかに同館の活動を紹介し、1980年東京の日野市から前川恒雄さんを滋賀県立図書館長として迎えて始まった滋賀県の図書館づくりの核心を描出する。さらに図書館法(1950年)制定時の中井正一さん(当時国立国会図書館副館長)の「図書館法ついに通過せり」の文章にふれて、再びその冬に訪ねた滋賀県東近江地区の3つの図書館、永源寺町立、愛知川町立、八日市市立の図書館の、それぞれに独自で多彩な活動をくっきりと描きだす。
そして菅原峻さんを引いて「ほんものの図書館づくり」について述べて、市町村合併や図書費削減という大風に見舞われている現況の中で、支点となる”気づき”を指し示している。末尾の(おわりに)に竹内さんの名前が記されている。
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(おわりに)
「自殺したくなったら、図書館へ行こう」という言葉の由来は、一枚のアメリカの図書館のポスターにある。ピストルを自分の頭に突きつけている男。その周囲には本がたくさん積まれている。そんな絵の下に次のキャプションが入る。
If you feel like shooting yourself ,don't. Come to the libraryfor help in stead.
「もし自殺したいと思っているならば,やめなさい。そのかわりに図書館へいらっしゃい。」
このポスターを竹内悊さんが『これからの図書館員のみなさんへ』(図書館問題研究開宮城支部)で紹介。それを才津原さんが伝えてくれた。それを耳にした私の中で”化学変化”がおきて,「自殺したくなったら,図書館へ行こう」になった。
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虫賀さんと竹内さんがつながった。
広がる波動 毎日新聞記者 塩田敏夫さんの記事から
虫賀さんの声は新聞や出版物(雑誌や冊子)を通して、竹内悊さんのコトバとともに広がっていった。まずは毎日新聞の記者、塩田敏夫さん。
『世界』2005年8月号に虫賀さんの『自殺したくなったら、・・・』が掲載されて4か月後の2005年11月16日(水)の毎日新聞の朝刊の11面いっぱいに「人生流儀~ひとにドラマと歴史あり」―人生それぞれ聞き語り―の連載記事に「いのち育てる場に」の大きな活字、「住民自ら作っていく努力が何よりも必要」という見出しとともに、能登川町立図書館が紹介去れた。囲み記事「自殺したくなったら」には、次のように記されていた。
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「自殺したくなったら、図書館に行こう」。最近、このテーマで話をしてほしいと依頼されることが多くなった。 この言葉の由来はアメリカの公立図書館に掲示されていた一枚のポスターにある。ピストルを頭に突きつけている男 性の回りにはたくさんの本。そして、「ちょっと待って!自殺はやめて図書館へ」という言葉が刻まれていた。
このポスターの存在を知り、かねて胸に抱いていた思いが重なった。地域の住民一人一人の願いがかなうてがかりとなる本や資料を手渡す図書館。そこは生死にかかわる切実な問題を抱えた人たちにとってこそ大切な場ではないか。友人で京都市の出版社「論楽社」の共同代表、虫賀宗博さんにこの思いを伝えた。早速、虫賀さんは才津原さんを招
き、図書館への思いを語ってもらう講演会を開催した。さらに、能登川町立図書館をはじめ、湖国の多くの図書館を 訪ねたルポルタージュ「自殺したくなったら、図書館に行こう」を月刊誌「世界」(8月号)に発表した。
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「人生流儀~ひとにドラマと歴史あり」の連載の前々回は、随筆家の岡部伊都子さん、そして前回は、21世紀の未来社会論「森と海を結ぶ菜園家族」を提示されていた、当時滋賀県立大学人間文化学部教授の小貫雅男さんだった。お2人とも能登川の図書館で講演や写真展、モンゴルのツェルゲル村の人々のドキュメンタリー『四季・遊牧』上映などでかけがえのない時間をいただいた方だ。どうして図書館を対象にして、このような大きな紙面で塩田さんは記事にすることができたのだろうか。
塩田敏夫さんが大阪の毎日新聞社の社会部記者から、大津支局長として滋賀の地に赴任されたのは2003年4月のことだった。その直後の5月から「支局長の手紙」が始まり週1回、毎日新聞朝刊の滋賀版に掲載された。塩田さんが2006年4月1日から再び大阪本社に異動になるまでの3年間、私も「支局長からの手紙」の読者の一人として毎週、連載を楽しみにしていた。その記事からは、身近にありながら、それまで知ることがなかった滋賀の地のそこここで営まれている人々の営みや出来事が鮮やかに立ち現れてきて、私自身毎回深い感銘を憶えながらその記事を目にしてきた。塩田さんが滋賀を去って6か月後の2006年10月、「塩田敏夫講演会 能登川図書館との出会い」を開催しているが、講演会の「ちらし」の一節に次のように記していた。
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「奥深い近江の歴史と文化を支え、近江の今を生きる人の中にこのような人がいるのか、このような営みや出来事があるのか、「支局長からの手紙」は、読者の心に灯りをともし、人と人との新たなつながりを生み出し、深めるものでした。そ手紙からどれほど多くの新たな人と人との出会いや結びつきが生まれたことでしょう。このたびh、ペンではなく、塩田さんが湖国で見て感じ考えたこと、その出会いの一つ一つを語っていただく場に、ぜひお越しいただきますよう。」
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塩田さんが能登川の図書館に来られたのは、滋賀に赴任して2年目、2004年になってからだろうか。最初はコンサートや陶芸作品の展示などで能登川の図書館の活動にいつも深い応援をしてくださっていた八日市市の陶芸家中野亘さんと同行してだったと思う。以後、能登川図書館に来館されたのは数十回をこえている。「支局長の手紙」に能登川町立図書館などのことが掲載されたのが、2004年12回、2005年に11回、2年間で23回に及んでいる。平均して月に1回、今から思えばこれは尋常ならざる新聞紙面のあり方だったのではと思われる。このような新聞記者がいて、よくもその人に出会うことができたことだと思う。これも先の「ちらし」の中の言葉だが、「塩田さんは足の人です。まず現場にでかける。そして、現場に立つ。「現場の声なき声に耳を傾け、あるがままの事実ではなく事実に深く分けいること、調査報道こそが新聞記者の仕事の本質だ」と考え、現場での出会い、出来事の一つ一つに心をこめて「支局長の手紙」に書き続けました。」
そうして沖縄赴任時代からは、『戦争マラリア事件』(東方出版)が生まれ、滋賀ではとりわけ福祉の現場や琵琶湖を原点に環境問題に取り組む人たちとの出会い、そして図書館との出会いと発見があったのだと思われる。一人ひとりの人、そして出来事に出会う塩田さんのやわらかな心、みずみずしく鋭い感性、目の前の人の言葉にならぬ心の声に耳をすますことから生まれた記事は、単に出来事の報告、報道ではなく、その時々の生きた時間、生きている人が記録されている。
また塩田さんは紙面においてだけではなく、滋賀県の社会教委員の研修会や大学で学生たちに、図書館について語られてもいる。塩田さんは滋賀から大阪本社に赴任しある期間、現場を離れた時期を経て、自ら志願して京丹後市や敦賀で再び現場に立って新聞記者としての活動を続けておられる。塩田さんの3年間の「支局長の手紙」のうち、後半の2年間の能登川町立図書館に関わる記事、そのタイトルは次のようなものだった。
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〔2004年・平成16年〕
①3/7「もじと絵」書家、乾千恵さんの文字、イラストレーター、黒田征太郎さんの絵と言葉による共演。
②4/5「今、思うこと」随筆家、岡部伊都子さんの講演。「もじと絵展」開催中。
③4/26「賢治が語ってくれるもの」篠山市の銅版画家、加藤昌男さんの講演。2002年5月から自宅を開放し「宮澤賢治の童話を語る会」。ライフワーク「賢治曼荼羅・蔵書票」。加藤さんの銅版画展と仙台の写真家、佐々木隆二さんの写真展 「風の又三郎」、及びペシャワール会のパネル展「医者井戸を掘る」(中村哲さんの活動)の3つの展示、5月2日まで。
④5/6「岡部伊都子さんを語る」女性問題心理カウンセラー、朴才暎(パク・チェヨン)さんと古書店主、上野朱さんの対談。岡部伊都子さんが42前に撮った写真の写真展(4/13~5/15)開催中。論楽社、虫賀宗博さんが司会。「上野さんは、小さい時から岡部さんを”おかん”と呼んできました。父の故英信さんが福岡県の筑豊炭鉱にあった自宅を「筑豊文庫」として開放したところ、岡部さんはよく衣類などの救援物資を持って訪ねてきてくれたからです。」
⑤5/10「辺境から見る」医師、中村哲さんと作家、井上ひさしさんの対談(宮澤賢治学会・地方セミナー)
⑥5/22「続岡部伊都子さんを語る」、④の続編。在日コリアンで随筆家である、朴才暎(パク・チェヨン)の話の紹介。
⑦6/20「よろこびの虹」歴史家、元韓国外国語大学教授、朴菖煕(パク・チャンヒ)さん岡部伊都子さんとの出会い。『許浚』(ホジュン)(桐原出版)翻訳。大津市人権センターでの講演。朴さんご夫妻に初めてお会いしたのは、岡部伊都子さんゆかりの絵画や書が出展された京都市寺町にあるギャラリー”ヒルゲート”に能登川から出かけた際に、閉店まじかの会場でだった。その時ご案内した能登川での森崎和江の講演会にご夫妻で来てくださっただけでなく、以後思いもよらない出会いが続くことになった。岡部さんの『シカの白ちゃん』の韓国語訳をされていることを後に知る。
⑧7/4「54年ぶりの再会」朴菖煕(パク・チャンヒ)と朝鮮動乱で行方不明になっていた兄との54年ぶりの再会.石部町の知的障害者施設「あざみ寮」寮長、石原繁野さんと石原さんの自宅で45年ぶりの再会のこと。
⑨9/12「湖辺をめぐって」写真家、今森光彦さんの新しい写真集「湖辺」(みずべ)をめぐっての講演。今森さんには、1997年11月に開館して以来、9年間に8回の講演。ほぼ、毎年1回の講演。
⑩10/18「イーハトーブ賞」、10/10京都市ノートルダム女子大での中村哲さんの講演「アフガニスタンからの報告 平和の運河を拓く」の会場でのこと。中村さんが岩手県花巻市の「イーハトーブ賞」受賞の経緯。能登川町の主婦、三村あぐりさんの一言から。「能登川で宮澤賢治学会の地方セミナーを開けないでしょうか」
⑪11/22「いのちを写す」写真家、本橋成一さんの講演。(町立図書館開館7周年記念)
⑫11/29「心の危機・心の再生」柳田邦男さんの講演。
〔2005年・平成17年〕
⑬2/5「アレクセイと泉」彦根・自主上映会と本橋さんの講演(5/22)。彦根・西覚寺
プレイベント①才津原(2/27)②論楽社、虫賀さんの話(3/27)
⑭2/20「紙芝居」埼玉・中平順子さん。(紙芝居講座)
・4/14”岡部伊都子さんの写真展「古都ひとり」”開催の記事(4/13~5/15)、 (見出し)「40年以上前の京都、奈良、大津の風情」―四十数年ぶりの個展・来月15日まで町立図書館「伝わる命をいとおしむ心」・・・乾千恵さん、落合恵子さん他、ゆかりの方からのメッセ―ジも展示。
⑮5/1 「岡部伊都子写真展」1963年刊の「古都ひとり」がこのほど藤原書店から復刊。初版刊行時に岡部さんが撮った写真。当時その写真を激賞した土門拳氏の色紙も展示。
⑯5/30「アレクセイと泉・彦根」写真家、本橋成一さんのドキュメンタリー映画上映会。彦根・西覚寺、高原美津子さん、170人の参加。
⑰7/10「図書館の旗を」近江八幡市で京都新聞主催の講演会、「いのち響きあう~本・もののある広場を目指して(才津原)。他紙の新聞社主催の講演会を毎日新聞記者の塩田さんが取材して。
⑱8/29「ぬちどぅたから」(命こそが宝という沖縄の言葉)中平順子さん講演と紙芝居「天人のはごろも」。会場は甲賀市の県立水口文化芸術会館、丸木位里さんの妹の「大道あや展」開催中。
⑲9/5「あざみ寮の暮らしと・・・・」(「あざみ寮の暮らしとトヨさんのこと」
荻野トヨさんと前施設長、石原繁野さんの語り。荻野さんの糸絵展「針仕事の豊かな時間」開催中。
⑳9/19「図書館の旗を Ⅱ」合併直前の近江町立図書館長の小北晶男さん(東京三鷹市立図書館から)を訪ねて。前滋賀県立図書館長、澤田正春さんから言葉をかけられて。
㉑10/3「わたしの庭」写真家、今森光彦さんの恒例の講演。
㉒10/23「ベトナムの刺繍」さいたま市の中平順子さんの「アジアの文化を守り育てる会」主催ベトナム刺繍コンテスト展(「ベトナムのストリートチルドレンに夢を」)、永源寺町立図書館で。
㉓10/31「あざみ寮・もみじ寮」湖南市石部が丘、知的障害者施設あざみ寮創立50周年、もみじ寮創立35周年を記念する会。河野咲子さんのあいさつ。11/1,同寮で韓国の無形文化財「鳳山仮面劇」(劇団デゥルナム)上演、同劇団顧問の朴菖煕(パク・チャンヒ)さんも参加。
㉔11/7 「心を育てる絵本」絵本作家、長野ヒデ子さんの講演
〔2006年・平成18年〕
㉕3/27「夢ぎっしり」塩田さん、異動で4月から大阪本社総合事業部企画開発部へ。
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「徹底して現場に立って事実に迫る。いい紙面を作りたい一心で走り続けましたが、力不足でした。ただ、25年間の記者人生の中で最も充実した時間を過ごすことができたと思っています。敬愛する障害の友を得ることができ、ライフワークを見つけることができました。とりわけ印象に残っているのは図書館活動です。自殺者が年間3万人を超える中、こんな言葉が東近江能登川図書館から生まれました。「自殺したくなったら、図書館に行こう」。図書館は単に本を貸し出す場所ではない。命といのちが響きあう場であり、生死にかかわる問題を抱える人にこそ向かいあうべきではないか。才津原哲弘館長の言葉を忘れることができません。図書館が生きる力を育て、文化の基底を作る。その志に心打たれました。優れた福祉の現場に足を運ぶことができました。「この子らを世の光に」。このことあを残した糸が一雄さんをはじめ、田村一二さんらの精神を受け継ぐ人たちの地道な実践がありました。湖南市の知的障害者施設「あざみ・もみじ寮」もその一つで、「あざみ織」など生活から生まれる美にふれることができ、集う人々の内面からわき出る優しさに包まれました。さらには、琵琶湖を原点に環境問題に懸命に取り組んでいる人たちとつながることができました。人と人とのつながりを深め、これからの日々の出来事を血肉化していきたいと思います。そして再び、一記者としてペンを取りたいと思います。近江の桜の開花はこれからですが、芭蕉の句が口をついてきます。
行く春を近江の人と惜しみける---ー
ありがとうございました。
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塩田さんの一つ一つの記事から、「図書館がどんな場」であるか、「図書館は何をするところか」が立ち現れてくる。18,9年前の図書館の場での生きた時間が蘇ってくる。新聞紙面の読者はもとより、各社の新聞記者や雑誌編集者の人たちからも反響の声があがってくる。
広がりつながる声 書籍(本)や雑誌、新聞に
時系列で追ってみる。(「自殺したくなったら、・・・」にふれているもの)
・2006年1月『新版 図書館の発見』前川恒雄・石井敦 日本放送出版協会、第1刷。
「第7章 2 今こそ本を (2)気持ちが安らぎ、役に立つ図書館」に虫賀さんの『世界』と柳田邦男さんの『砂漠でみつけた一冊の絵本』から引用。(212~213頁)
・2006.6.6 毎日新聞「余禄」
・2006.8 『同朋』9月号(真宗大谷派総務所出版部編・発行)「昨日今日明日 ――自殺したくなったら、能登川図書館へ行こう」虫賀宗博(22~23頁)
・2006.11.22 毎日新聞「発信箱 ―「いのち響く図書館」本村有希子(科学環境部)
・2007.2.26 読売新聞 「本と出会い「命」考えて」(小宮宏祐)
・2007.4 『同朋』4月号、「図書館は生きる力を与える場所」(聞き手・編集部)
(「本が手を振ってあいさつしてる!」「自分にとって居心地のいい空間」「利用者が図書館を育てる」「人々が行きかう出会いの場」)
・2007.3.31 【東近江市立能登川図書館 退職 1995.4.1~2007.3.31 12年間、開館1997.11.8】
・2007.4.10 読売新聞 「緩和急題 人生リセット図書館で 自殺したくなったら」(大阪本社配信部 吉田 満穂)
・2007.10.1 『PHP』10月号 (PHP研究所)81~88頁、「ヒューマン・ドキュメント 命やすらぐ 図書館づくり」内海準二・文、猪口公一・写真、(才「図書館は、ほっとできる隠れ場」『偶然が一生の仕事に」「さまざまな出会いをつくりたい」)
・2009.5 『図書館雑誌』5月号(二本図書館協会)「特集☆今、図書館ができること―地域の課題と向き合う」に、投稿。(才)『限りあるいのちに向きあう図書館を―「自殺したくなったら、図書館へ行こう」をめぐって―』
そうして
2009年9月12日、朝日新聞の夕刊に
「ニッポン 人・脈・記 3万人の命に9⃣ ふうっと息抜き 図書館で」(東京版)が掲載された。自殺者が1年間で3万人をこえる中、朝日新聞では、「ニッポン人・脈・記 3万人の命に」という連載記事を掲載して、各地での取り組みを紹介しながら、読者とともにこの問題を考える読み応えのある紙面をつくっていた。その9回目で、図書館を切り口に記事が書かれたのだ。竹内さんが紹介したアメリカの図書館の「あのポスターの絵」(かばねやみブックレットから)とともに、竹内悊さん、虫賀宗博さん、才津原の3人の写真も同時に掲載され、記者の伊藤智章さんからみた3人のつながりの経緯が書かれていた。まだお会いしてはいない竹内さんと紙面上での出会いであった。記者はそれぞれの住まいの地、つくば市、京都市、そして福岡県二丈町(2010年に合併して糸島市となる。)を訪ねて取材の上記事に。記事の内容は同じだが、見出しは「版」によって違っていた。「東京版」では「ふうっと息抜き 図書館で」だったが、「福岡版」では「まずは図書館へ行こう」、あと2か所では、「人生の息抜き 図書館で」、「悩んだら図書館においで」となっていた。
あとで知ることになるが、竹内さんが手にされたのは「東京版」だった。
こうしてほんとうに竹内さんにお会いするきっかけを授かったのだった。実際に竹内さんにお会いしてからのことは、もう少し時間を経て、稿をあらためて考えたいと思う。
(11月の末から書き始めたブログ、年が明け2月21日にようやく書き終えた。)
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