図書館の風
2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2023年8月17日木曜日
上野英信生誕100年 記念の集い No.117
直方市立図書館には筑豊文庫資料室がある。上野朱(あかし)さんより、直方市に
上野英信氏の筑豊文庫の資料が寄贈されて、図書館に筑豊文庫資料室が設けられた
ものだ。 今年が上野英信氏の生誕100年であることから、同資料室では下記のよ
うな講演会を企画されている。案内のチラシから紹介します。
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直方市立図書館 筑豊文庫資料室講演会
上野英信生誕100年
伝えていく沖縄・筑豊
次の世代へ 希望をこめて
2021年5月、記録文学者上野英信没後33年を記念して、沖縄県名護市屋部
(やぶ)に地元有志の方々による「上野英信『眉屋私記』文学碑」が建立され
ました。
生誕100年にあたる今年、この文学碑をリレーするかたちで、将来をになう
沖縄と筑豊の若者が「筑豊文庫資料室」を交流の場とし、トークと朗読を交え
ながら、ふるさとの歴史、風土、文化を未来にどのように伝えていくかを語り
合います。
〈トーク&朗読〉
沖縄の中学生(名護市立屋部中学校)
筑豊の高校生(大和青藍高等学校)
筑紫女学園大学教授 松下博文さん
眉屋私記文学碑建立期成会 比嘉久さん
上野朱さん --------
日時 8月19日(土) 10時~12時 ------
会場 ユメ二ティのおがた小ホール -------
受付開始 7月18日(火)から
参加 無料 -------
※申し込みは、直方市立図書館・☎・FAXで受付けます。
※参加される方は、事前申し込みが必要です。
〈主催〉 直方市立図書館 直方市山部301-11
電話:0949ー25ー2240 FAX:0949ー23ー3902
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以上。
知り合いの方にも、ぜひお知らせください。
2023年8月14日月曜日
沖縄戦パネル写真展 15日まで No.116
二丈波呂の龍国寺で8月6日から15日まで開催されている。
同時に亜麻工房(東麻美)のクバ展も。
沖縄戦のパネルは沖縄県平和資料館からお借りしたもの。
本堂に写真パネルやクバの作品が展示されていて、次のような掲示が
されていました。
「また住職の父、甘蔗大成は昭和20年6月に沖縄で戦死しました。
戦地からの手紙を本堂裏の部屋で展示しています。」
本堂の奥の間では、ご住職のお父様で、1945年6月23日の数日前に沖縄
で戦死された甘蔗大成(かんしゃ だいじょう)様の葉書や手紙が展示
されています。展示物には、ご住職、奥様、副住職の甘蔗健仁さんが丁寧
に手書きで説明書を添えられています。
手紙の紙は、当時宿舎であったホテルの箸袋の紙に鉛筆で書かれたもの、
で、奥様に宛てて書かれた二月二十日と記されたお手紙は、これがさいご
の便りとなると考えてのもので、ご家族への深い想いを記されています。
〈説明書には、「沖縄ホテルの箸袋に書いた手紙(遺言)。
実物のコピー。」と書かれています。〉手紙のコピーにそえて、パソコ
で読みくだしたものを読みやすく印字して、手紙の下に展示。
そのとなりに
和紙に墨書で、 和成 、とご住職のお名前が大きく美しく書かれた書
があり、下記の説明が記されていました。
「最期の地となる沖縄に出征する
前に、母親のお腹にいる、生まれてくる
子どもの命名をして、書き残しました。
昭和19年12月6日、無事誕生したことは
戦地に届き、喜びの手紙が届きましたが
父と子は一度も顔を見ることはできません
でした。」
出征前のご家族そろっての写真。
そして、部隊を共にし生き延びた野村正起氏の『沖縄戦敗兵日記』を展示。
〈説明書〉には
〈「沖縄戦廃兵日記」は、父、甘蔗大成(だいじょう)の部隊の野村正起氏
が玉砕後逃げのびて生き残られ、一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、
アメリカ軍の投降勧告に応じた九月十四日までの日記を一九七四年に出版
されたものです。
この中で甘蔗大成(大尉)について記述のある部分をぬきとり、コピーし
ました。父は満三十一歳で戦死しました。終戦まで、あと55日でした。」
同書より、
「死と対決すると、たしかに人間は変ってくる。変わらないのは、よほど
偉いやつである。部隊で変わらないのは、本部の甘蔗大成大尉(福岡県出身)
ぐらいのものであろう。先生は坊主だから。
わたしは粗暴になった。自分でも自覚はしているのだが、これだけはどうにも
直し洋がない。しかし、腑ぬけになるよりは、むしろ使い道があろうというも
のである。」
(同書には、甘蔗大成大尉について触れられている記述が何カ所もある。)
龍国寺での展示は、15日が最終日です。お近くの方はぜひご覧ください。
2023年7月31日月曜日
沖縄・ヒロシマ・長崎 No.115
報告が遅くなってしまったが、ノドカフェの出前の本の話。
7月5日、今回のテーマは「沖縄・ヒロシマ・長崎」にした。
出前の本の紹介をするのが、出前の話の柱であるが、今回は
沖縄、広島、長崎のことが、私にとってなにか一つながりの
ものとして感じられる。それはなぜか。どういうことかを自問
しながら語る場になったように思う。
このことでは、いま、もっとよく考えてみたいと思っている。
という次第で、きわめて短い報告にとどめておきたい。
沖縄から学ぶ会 発足 7月20日
第1回目の集まり 亜麻工房 10時半~
「沖縄県平和資料館」から「戦争体験者証言ビデオ」を借りて会員で見る。
(会員外にも呼びかける)
①「そして ぼくらは生き残った」
3月、米軍上陸後、収容所に向かう
②集団自決 チビリガマ
2023年6月30日金曜日
6月23日慰霊の日 沖縄を語る No.114
6月23日、沖縄では「慰霊の日」であるこの日に、二丈鹿家、麻美さんの亜麻工房で、
「沖縄を語る」会をもった。
糸島から私を含めて3人、そしてなんと大宰府から2人の参加があった。
麻美さんのクバの美しい作品に囲まれたなかでの集いだった。
私の沖縄との出会いのことを主に語ったのだが、参加者の中には近しい縁者の方が
沖縄で1945年6月23日の数日前に戦死された方がいた。
・大田昌秀編著の『写真記録 これが沖縄戦だ』の年表の特に’45年6月23日後の記録
について(6月23日で終わったのではないこと)
・黒田征太郎さんのこと、野坂昭如の『戦争童話集』との出会いとその後の行動
・佐喜眞美術館
その始まりの経緯
乾千恵さんの『月人石』展開催にかかわること
そして、それぞれの沖縄を語りあった。
小さな集いだが、これから何かが始まる予感が・・・
鬼頭梓展・茗荷恭介展・・6月京都へ No.113
5月のさいごの日、夜行バスで博多駅前から京都に向かった。今回の目的は京都市内での
ある展覧会と銅人形の作品展を見るためだ。一つは京都工芸繊維大学であった「建築家・
鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会〔2023年3月22日(月)~6月10日(土)/
シンポジウム「鬼頭梓の建築から考える未来像」6月10日〕、
もう一つは高瀬川ほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR」での”茗荷恭介銅人形展
「子供の時間」〔5月27日(土)~6月4日(日)〕だ。
1.「鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会
昨夜8時20分発のバスに乗って京都駅前に着いたのは朝8時過ぎ、鬼頭さんの展覧会の会場は
京都工芸繊維大学、私はこの大学をこれまで知らなかったのだが、今回のことで会場となった
この大学のことを何人かの友人、知人に話すと幾人もの人が知っていた。知る人ぞ知る大学の
ようだ。市営地下鉄烏丸線で行くことにする。烏丸御池、鞍馬口を過ぎ、北山の次が松ケ崎
だった。8時35分についた。降りる人は少ない。途中、コンビニでパンと飲み物など買う。大学
には歩いて15分ほどでついた。道をはさんで両側に大学の建物があり、どちらだろうと思ったの
だが、右手の建物の方を見ると、校門のところから正面、数十m先に何か大きな看板がつり下げ
られた建物があり会場と思われたので、そこに向かって歩いて行った。近づくと焦げ茶色のタイ
ルを貼った建物の入口の右手に大学名と「美術工芸資料館」と大きく描かれた看板がたっていた。
入口の所には4mぐらいの長さの垂れ幕上の看板が2つ、一つは「建築家・鬼頭梓の切り拓いた
戦後図書館の地平」、もう一つは「村野藤吾と長谷川尭 その交友と対話の軌跡」。
10時からの開場にはまだ時間があるので、隣りのホールがある建物に入り、そのエントランスで
食事をしながら過ごした。持参した『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の
本をつくる会 建築ジャーナル 2008.6.20)を再読する。鬼頭さんについて書かれた、鬼頭さ
んとその仕事を知る上で驚くばかりのこの本を私はその出版直後に藤原孝一さん(藤原建築アト
リエ)から送られていたのに、それを読んだのは最近のことだ。藤原さんに初めてお会いしたの
は、1990年5月に苅田町立図書館が開館してからどれくらい経った時だっただろうか。藤原さん
が苅田の図書館に見学で来られて初めてお会いした。30年以上前のことだが、その日の藤原さん
のことをよく覚えている。その時は鬼頭さんの事務所を辞め、藤原建築アトリエを初めて間もな
い時だったのだろうか。
私にとっての鬼頭さんは何といっても日野市立中央図書館を設計した人としてだ(竣工は1973年)。
鬼頭さんを図書館の設計者として指名し(建築家を選び)、それを実現した前川恒雄さんの著書
で初めてそのお名前と、建築家としての鬼頭さんを知った。前川さんは鬼頭さんと設計協議を始
めるにあたってはまず、鬼頭さんに移動図書館に乗車してもらい、最初に連れて行ったのは、移
動図書館の現場だった。市民が移動図書館で本を借りている現場で、このような図書館をと前川
さんは語り、鬼頭さんはそれをまっすぐ受けとめられたのだ。
鬼頭さんに前川さんが示した5つの「中央図書館設計の方針」。
①「新しい図書館建築の道標となる図書館」
日野市立図書館の、「誰でも、どこでも、何でも」というモットーを実現するため分館、移動
図書館を中心とする活動をいっそう高めるための中央図書館であること。
②「親しみやすく、入りやすい図書館」
「図書館は誰でもふだん着で入れる図書館で入れる建物でなければならない。前を通る
人が誘いこまれるような雰囲気をもつ図書館であること。」
③「利用しやすく働きやすい図書館」
利用者は館内の資料の配置、自分の位置がわかりやすく、ゆったりした気分で利用できるように
する。利用者・職員の動線はできるだけ短くする。内部は単純で明解な配置にする。
④「図書館の発展、利用の変化に対応できる図書館」
⑤「歳月を経るほど美しくなる図書館」
図書館は数千年の昔からあり、人間の文化を生み、伝え、広めてきた。これからもそうである。
図書館のこのような長い生命と意味にふさわしく、市民が市民自身の文化を育てる砦として、
いつまでも使い守るに値する建物であること。」
その方針の的確さ、60年後の2023年の今でも指針となるその5つの柱に驚く。以後、お二人の厳しい論議が始まる。ーーーーーー
10時、開場の時間とともに入館。
そこで数時間を過ごした。
日野市立中央図書館の図面はもちろん、1926年生まれの鬼頭さん【以後は敬称をはずさせていただく。】
が1950年に前川國男事務所に入所して、初めて実際に設計を担当した「青森県立広崎中央高等学校講堂
(1954年)から、1998年の「洲本市立洲本図書館」まで。
開場の構成が素晴らしかった。建築家としての鬼頭梓の歩みが4つの章でよく示されていた。その概要だけ
を記すと。
第1章 市民の居場所を求めて ーーーーー 前川國男に学ぶ
〇戦争によって破壊された「生活の根拠地」をつくりたいという切実な思いに突き動かされ
・青森県立弘前中央高等学校行動(1954)
・神奈川県立図書館・音楽堂(1972)
・MIDビル(1954)
・国際文化会館(1955)
・世田谷区民会館・区役所(1959・1960)
・国立国会図書館(1961)
*戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)の教育使節団の提言で1951年に慶應義塾大学に図書館学
科が創設された。当初は5名の米国人教授、米国人司書による全て英語の授業、通訳がつい
ていた。「一期生は30人くらいで、ほとんどが東大やCIEの図書館などどこかの図書館に
勤めていたライブラリアン」だった。鬼頭梓夫人となる當子さんは、編入で一年だけ同科
で学ぶ。結婚後、月に何度か、中央線沿線で働く一期生が、夫妻の自宅で「中央線会」と
称した議論の場を持っていた。・・・喧々諤々の議論、鬼頭は横で黙って聞いていたが、
すごくいい勉強になった。一体何が問題になっているかが、大変よくわかる。ほかにも、
国会図書館には、建築部の若手に佐藤仁君という熱血漢がいた。国会図書館の仕事を始め
てからは、いろいろな若い人に知り合いました。」
(『建築家の自由』松隈洋による鬼頭梓インタビューより)
第2章 戦後図書館のパイオニア ーーーーー 一人の建築家として
・東京経済大学図書館(1968)
*前川さんが設計者を探すにあたって、最初に見た鬼頭の設計によるもの。
・東北大学付属図書館(1972)
・日野市立中央図書館(1973)
*前川と鬼頭2人の意見が最後まであわなかった「吹抜け」の箇所に眼をこらした。
・同志社女子大学図書館(1977) *これについては、展示会場で筆者した一文をさいごに。
・神戸市中央図書館(1981)
第3章 新しい「生活の根拠地を求めて ー---- 山口県との関わり
・山口県立山口図書館(1973)
・山口県立美術館(1979)
・徳山市立中央図書館(現・周南市立中央図書館、1981)
第4章 自由な空間を求めて ーーーーー 晩年の作品群
・茨木市中央図書館(1992)
・湖東町立図書館(現・東近江市立湖東図書館、1993)
・熊取町立熊取図書館(1994)
・洲本市立洲本図書館(1998)
まさに「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が会場に展開されていて、この取り組みの
密度の濃さに驚かされた。どうしてこのよう内容のとても充実した鬼頭梓の展示が京都工芸繊維大学で実現したのか、それは本展を企画した要の人が、松隈博(ひろし)京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授だったからだ(2023年3月退官、4月から神奈川大学教授)。先に記した2008年に出版された『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』は「鬼頭梓インタビュー」から始まっていて、鬼頭へのインタビュー「私の原点 鬼頭梓インタビュー」の前にあるこの本の最初の文章が「鬼頭梓の育んだ風景 「生活の根拠地」を図書館に求めて」で、その執筆者が松隈洋・ 建築史家 京都工芸繊維大学準教授だった。鬼頭へのインタビューも松隈が行っている。『建築家の自由』2008年、の出版以前から始まっていた松隈の「建築家鬼頭梓」への底深い探求の足跡、その果実がこの度の展覧会を形にしてくれたように思った。同書には、鬼頭梓インタビューの他、鬼頭の5つの論考(「土地と人と建築と 日野市立中央図書館の建設が建築家に問いかけた建築の意味」、「職業者としての建築家」そして「建築家の自由」など)の他に「前川恒雄氏インタビュー 公共図書館の歴史が変わった日」、そして「資料」として「〈年表〉建築家・職能運動の歴史」、「鬼頭梓・年譜 作品・受賞・著作・論考」が掲載されている。
会場に入ったところに掲示されていた「ごあいさつ」には、本展覧会の開催の趣旨が述べられている。
「生活の根拠地」としての戦後図書館の地平を切り拓いた鬼頭の仕事と建築思想を、設計原図や撮り
下ろしの現況写真、新規に作成した模型等を通して紹介いたします。市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支えるという戦後図書館の原点を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。」
( 主催者の「あいさつ」や解説の文章を書いたのは松隈氏だと思われる。)
「生活の根拠地としての戦後図書館の地平」、「市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支える戦後図書館」ーーー何という見事で的確な捉え方、表現であることだろう。「生活の根拠地としての図書館」、私が初めて目にする言葉だった。私のなかに染みこむように入ってきた。
しかも、いやだからというべきか、松隈の目は2022年の日本の公立図書館の現況・・・〈自治体別の設置率;都道府県立100%、市区立99%だが、町村立の図書館設置率は、依然として58%という低い水準とどまっていて、書店については書店が一つもない市区町村が全国で、26.2%・・〉を見すえている。
「同じ国に暮らしているにもかかわらず、モノとしての本を自由に手に取り、本の世界に触れることのできる情報環境を持たない人が、国民の1/4以上も存在している2023年ただ今の状況の中で、「そのような貧弱な情報環境に置かれることによって、もっとも影響を受けるのが、住む場所を選ぶことのできない子供たちではないだろうか、それは、極論すれば、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われた日本国憲法25条に抵触する深刻な社会問題であり、改めて公共図書館の歴史と存在意義が問われているのだと思う。 本展は、戦後の図書館建築の先駆者である鬼頭梓の仕事を通して、この問いかけの共有を目的に企画された。」
これに続く、本展の開催までの経緯(松隈の私事も含めて)も驚くばかりの内容だ。よくも鬼頭と松隈との出会いがあったものだとの思いを深くする。(鬼頭事務所の閉鎖に伴い設計原図を廃棄せざるを得ないと鬼頭から聞いた松隈の依頼で、2003年、東京理科大学の山名善之助研究室に緊急避難の形で図面を預け、鬼頭没後の2009年、金沢工業大学のJIA-KIT建築アーカイブスに、遺族からの寄贈により収蔵)「こうして、本展は、このような経緯と関係者の尽力によって奇跡的に遺された同大学所蔵の建築資料を元に、鬼頭の図書館建築の全体像を紹介すべく企画されたのである。」
【鬼頭梓の求めた戦後図書館の現風景】
松隈洋(まつくまひろし)| 京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授
展示会場では、初めて目にする原図の一つ一つに見いるとともに、4つの章の解説の文章に引き込まれた。そして、原図に添えられた松隈教授のもとで学ぶ学生たちによって新規に作成された模型の数々と、模型をつくった学生の感想の文章にも驚かされた。模型をつくることでの気づきや学びのことを、それぞれの学生が書き記していた。思い深く力ある先生のもとでこのようなことが行われていることに、大学での学びの意味を思った。
展示会場を訪れた6月1日には、まだ本展の図録はできておらず、出来上がり次第連絡を頂くようにお願いして、会場をあとにした。
わずか1日の見学であったが、今もあの日のことが私の中で渦巻いている。
さいごに、当日、会場で筆写した一文を転載しておきたい。
地下図書館を設計して 鬼頭梓
同志社大学通信特集号(竣工記念)昭和52(1977).9.5 同志社女子大学広報委員会
地下図書館が生まれた。図書館の建築は広い床面積を持った低層の建築として、十分な敷地の中にゆうゆうと羽をのばして建つのがよい。図書館の機能がそれを求めるのである。女子大のキャンパスには最早や理想的な図書館をつくるのに相応しい場所は何処にも残されていなかった。だが理想的な条件が整わないからと言って、よい図書館は出来ないとあきらめてしまう訳にはいかない。人は仮令どんなひどい状況におかれても、どんな不利な条件に囲まれていてもそこから遠くに最高の理想を求めてやまない。過密なキャンパスの中で唯一の適地として選ばれたのは、キャンパスの中で最も美しい緑の前庭であった。永く人々に愛されて来た場所丈に、そこでは十分な広さを求めることはもともと不可能だったし、又いかに小さく建てようとも、保存か開発かという現代的な矛盾にほう着せざるを得なかったのも当然であった。常識的ないくつかの案を経た後、最後に到着したこの地下図書館案に至ってようやく大学の方々の同意を戴くことが出来たのも、キャンパス内での最高の場所に、その環境に新しい形で保持し乍ら、図書館は図書館としてそれに最も相応しい平面の拡がりと空間を持つことが出来ないかという、あくことのない理想への追求がすべての人の根柢にあったからだと思う。私
たちもこの最終案に至ってようやく自ら納得したのだが、実はそこから悪銭苦闘が始まった。日本で最初の地下図書館をつくるという仕事は、際限のない不安心配危惧との闘いであった。
技術的な難題も山積していた。具体的なことはきりがないので省略させて戴くが、私たちがこの仕事を勇気を以ってなし得たのは、学長図書館長をはじめ大学の方々の深い信頼に支えられていたからである。特に総務部の房岡氏と竹中工務店の方々とは、私たちと一緒になって難題の解決に当って下さった。深く感謝申し上げる
次第である。(鬼頭梓設計事務所本学新図書館設計者)
付記
本展を見終えて会場を出ようとしたところの壁面に木製の大きなラジオ(高さ1mくらい)が5台おかれていた。壁に貼られていた説明をみると、谷川俊太朗の名前が。出口の受付にいた人に、「どうして谷川俊太郎が」ときくと、「大学の付属図書館に谷川さんのラジオがたくさんある」と。さっそく美術工芸資料館を出て、いったん外に出てから向かいの門から入って付属図書館に向かった。図書館に入ると右手に常設の形で谷川氏から寄贈、寄託?された小型のトランジスタラジオが100台以上、大学の先生の手製とおもわれる6段の棚におかれて展示されていた。いずれも外国製のもので谷川氏が長く愛用したラジオ。ノグチイサムのデザインのものもパンフレットにあった。図書館では最初にこの展示を始めた時に素晴らしい内容の数頁のパンフレットを作っていて、それを見せていただいたのだ。
このことだけでも思わぬ出来事だったのに、図書館で最初に挨拶をしていた図書館員の人が、あとからもう一人の職員を連れて来られた。その人は「私を知っていますか」と。「・・・さんですね。」最後にお会いしたのは能登川図書館でだった。滋賀の人である彼女が、程なくアラスカに行くというので、挨拶をかねて能登川図書館に来られた時にお会いしていたのだった。20年近く前のこと。その後、色んな事を経てアラスカ大学の図書館で勤務されていたことなどをお聞きした。こんなことがあるだろうか、信じられないような何ともうれしい出会いだった!
2.茗荷恭介 銅人形展【子供の時間】へ その途中の寄り道で
6月2日、京都市役所の近くにホテルをとったのは、ホテルから数分の所にある堺町画廊をまず訪ねてから銅人形展にと考えていたからだ。雨が降っていたので、コンビニで傘を買い画廊まで歩いていくと、この日を含めて何日間か、次の展示の準備等のためお休みとなっていた。伏原納知子さんにお会いしたかったなと思いつつ、それならと寺町三条の「ギャラリーヒルゲート」を目指す。大通りからアーケードに入ってすぐ、右手に古本屋があり店の前の台に文庫本などが入っていたが、その代の真ん中あたりに薄い冊子が重ねて置かれていた。岩波写真文庫だ。もしやと思って20冊くらいあるのを1冊1冊みていく、あったー!『インカ―昔と今―』。
表紙をめくると表紙裏に「アンデス地帯地図」、そして左の第1頁には、上半分に「リーマウイルソン街」の写真がり、写真の上部左側にタイトル等が白抜きで印字されている。
岩波写真文庫 197 インカ ―昔と今―
編集 岩波書店編集部 岩波映画製作所
監修 泉 靖一
写真 泉 靖一
〔 1956年8月25日第1刷発行 定価100円 〕
1頁の下段の文章のさいごの2行は、「旅行中の写真に天野芳太郎、田中利一両氏のものも加えて紹介する。」
【天野芳太郎の名前に心おどる ―『天界航路―天野芳太郎とその時代(1984年)尾塩尚 筑摩】
*泉と天野との出会いは『遥かな山やま』で触れられている。私の知人の2人がたまたまペルーで天野と出会っている。
以前、たまたま古本屋で手にした五木寛之の『大陸へのロマンと慟哭の港 博多』でだったか、敗戦直後の混乱のさなかの朝鮮と博多を活動の場として、このような人がいて、このような行動をしていたのかと、名前だけは知っていたものの、初めて知るその生き方に驚かされた人が描かれていた。泉靖一、かつて図書館員だった私には文化人類学の人としてなじみのある名前であったが、その著書を読んだことはなかった。(たしか何か1冊、積読でもっているよう本がどこかにあるように思う。)泉は「敗戦後の博多で人口中絶病院「二日市保養所」と引揚孤児施設「整福寮」を作ったが、その業績を自ら封印して、東京に去って」いるが、五木の本は泉の博多での行動にふれていた。以後私は、泉の本を手にするようになっていた。最初に読んで心打たれたのは、泉の自叙伝ともいえる『遥かな山やま』(新潮社 1971)、泉の世界にひきこまれた。そして今、図書館から借りて読んでいるのが『忘却の引揚げ史―泉靖一と二日一保養所』(下川正晴 弦書房 2017.8.5)、岩波写真文庫を『インカ―昔と今―』を手にして心おどった所以だった。
私は「岩波写真文庫」の残りのものも見ていった。またしても!
『ブラジル』(少年文庫 205)をみてもしやと思う。1頁目の写真「ポン・デ・アスーカの上からみたリオ・デ・ジャネイロ市」の上部には
監修 泉靖一
写真 安藤育三 飯山達雄 泉靖一
草野博 高木俊朗
〔 1956年11月25日発行 定価100円 〕
思いもよらぬ小さな2冊の冊子を手にして近くの「ギャラリーヒルゲート」に向かう。同ギャラリーでは以前、茗荷さんの作品が展示されていたことがある。ギャラリーの扉はしまっていて、開店は12時からとなっている。やむなく先に進むことにする。外では雨脚が強いせいか、アーケードの下でも人通りが少ないようだった。途中、錦通りの看板が目にとびこんでくる。目指すギャラリーとは遠ざかる方向だけれど、なぜかその細い小道に入ってしまった。この通りは昔々、滋賀にいた時に一度だけ歩いたことがある。道の細さもあるが、いきなり行き交う人と肩ふれあう人、人。路の両側の小さな店の連なり、エーッ、こんなお店もと歩いているだけで愉しい感じ。外国からの人も少なくない。みんな何だか楽しそう。その賑わいの中を通りのさいごまで歩き、そこから仏光寺公園の近く、高瀬川のほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR]を目指して歩いていく。目当てのギャラリーに近づき、川幅7mくらいの橋の上からまた、川の手前からギャラりーを眺める。川の向かいに川に沿って建てられたギャラリーの1階の展示物も目にはいる。ギャラリーは橋をわたり、左に曲がる細道に入って2軒目、静かで何とも趣のある小さな館だった。
茗荷恭介さんと6年ぶりの再会。2007年3月末で能登川の図書館を退職した時、彦根市の西覚寺の高原さんたちがお寺でお別れの会を開いてくださったのだが、それから10年経った2017年に、10年目の集いを再び西覚寺で開いてくださった。2つの会とも、滋賀県内だけでなく、県外から関西や岐阜、島根からも多くの方が駆けつけて来られた。茗荷さんとはその時以来の出会いだったが、つい最近もお会いしていたような感じでお会いしていた。
まず、作品をゆっくり見せていただく。
人の手の力、思いの深さがうみだすもの
年をかさねて 生みだされ 生まれるもの
和紙 木(流木も) 銅 鉄 明かり
それらがひとつになって かたっている
作品の一つひとつに銘されたコトバ 作品とコトバの響きあい
お聞きはしなかったが、茗荷恭介 銅人形展のなまえから きこえてくるもの
【子供の時間】・・・こどもの 時間 を心にのせて 耳をすます
手仕事の力
その人の生き方をかさねて
天候のせいもあってか、この日、私がいる間に来られた方はひとりだけだった
茗荷さんとの 天からの贈りもののような 静かで濃密な時間を さずかった
ふかい 元気を 吹きこまれた
ギャラリー四季・AIRを辞するとき
福岡、九州の地で茗荷さんの作品展をとの思いが うまれていた
美しいパンフレットに記された案内から
びわ湖岸に工房を持つ 茗荷恭介さん
鉄だけでは飽き足らず、木、和紙など「異なった素材」
を組み合わせた作品や野外彫刻などを製作。
「倉敷まちかどの彫刻展」で優秀賞」野外彫刻展in多々
良木」で大賞に輝く。高瀬川・四季AIRでは
5月 銅人形展 11月 鉄と和紙と光の造形展を開催。
高瀬川ほとりのギャラリーです
高瀬川・四季AIR
京都市下京区天満町456―27
四条河原町から徒歩7分
仏光公園近く
お問合せは 080-3761-3960
茗荷恭介 銅人形展 【子供の時間】
日時 2023年
5月27日(土)~6月4日(日)
13:00~19:00 最終日は18:00まで
ギャラリートーク 5月27日(土)14:00~
在廊日 5月27・28・29日、6月2・3・4日
春、湖畔のお屋敷で。秋、染色家の古民家で・・・。
そこで銅・木・鉄を自在に組み合わせた茗荷作品と感動の出会い。
三年越しのラブコールが実り、初夏と秋にも展覧会が実現しました。
せせらぎに波長を合わせ、作品が新たな光を放ちます。
高瀬川・四季AIR 前川八州男
能登川では、私が退職した年から3年間、3回にわたって茗荷さんの作品展を行っています。
1.茗荷恭介・乾千恵二人展 「子どもの時間」
2006年9月27日(水)~10月22日(日)
2.茗荷恭介・中野亘二人展 「響きあう時間」
2007年9月5日(水9~9月30日(日)
3.茗荷恭介・北川陽子二人展
2008年
2023年5月13日土曜日
荒野に希望の灯をともす〈中村哲〉上映会 No112
前々回のブログ(No.110)でお知らせしましたが、あらためてご案内します。
「荒野に希望の灯をともす ― 百の診療所より一本の用水路を ―」上映会
日時 :5月14日(日曜日)16時∼18時(15時開場)
場所 :龍国寺 糸島市二丈波呂474 ☎092-325-0585
参加費:大人・大学生 1500円 / 高校生以下 1000円
主催 :糸島の図書館の未来を考える会ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
内容:武力で平和は守れない 医師中村哲 現地活動35年の軌跡ーーーーーー
これは「生きるための」戦いだ。ーーーー
アフガニスタンとパキスタンで、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた男、
医師・中村哲。戦火の中で病を治し、井戸を掘り、用水路を建設してきた。
なぜ医者が井戸を掘り、用水路を建設したのか?
その答えは、命を見つめ続けた中村の生き様の中にあり、
私たちはこの映画で中村が生きた、その軌跡をたどることになる。
「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。」―中村哲。ーーーーーー
中村の誠実な人柄が信頼され、医療支援が順調に進んでいた2000年。思いもよらぬ事態に直面し、中村の運命は大きく変わる。それが”大干ばつ”だ。渇きと飢えで人々は命を落とし、農業は壊滅、医療で人々を支えるのは限界だった。その時、中村は誰も想像しなかった決断をする。用水路の建設だ。
大河クナールから水を引き、乾いた大地を甦らせるというのだ。しかし、医師にそんな大工事などできるのか?戦火の中で、無謀とも言われた朝鮮あ始まった―。
「ここには、天の恵みの実感、誰もが共有できる希望、そして飾りのないむきだしの生死がある。」中村哲ーーーーーーーーーー
専門家がいないまま始まった前代未聞の大工事は、苦難の連続だった。数々技術トラブル、アフガン空爆、
息子の死・・・。中村はそれらの困難を一つ一つ乗り越え、7年の歳月をかけ用水路は完成。
用水路が運ぶ水で、荒野は広大な緑の大地へと変貌し、いま65万人の命が支えられている。そして―
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2019年12月。さらなる用水路建設に邁進する最中、中村は何者かの凶弾で命を奪われた。
その報にアフガニスタンは悲しみに沈み、ニューヨークタイムズ、BBCなどが悲報を世界に伝えた。
あれから2年半。日本ではその生き方が中学や高校の教科書で取り上げられ、
母校の九州大学はその思索と実践を研究し始めた。
中村の生き様は静かに語り継がれ、輝きを増しながら人々を励まし続けるだろう。
そして用水路はこれからもアフガン人の命を支え続けていくだろう。
戦火のアフガニスタンで21年間継続的に記録した映像から、これまでテレビで伝えてきた内容に
未公開映像と現地最新映像を加え劇場版としてリメイク。
混沌とする時代のなかで、より輝きを増す中村哲の生きざまを追ったドキュメンタリー❢
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ブログ「図書館の風」www.kazedayori.jp で、中村哲さんにふれたもの。
1.No.38「2019年の年の暮れ 中村哲さんのこと 宮澤賢治学会地方セミナー」
2.No.39「年の初めに 寒中お見舞い」
3.No.40「中村哲氏が築いたもの・・・福岡市内の集会で)
4.No.41「山田稔さんの本の中で、中村哲さんに出会った」
5.No.42「中村哲さん講演録」(ピースウォーク京都)(1)
6.No.44「 〃 」 (2)
7.No.49-(1)「 〃 」(3)
8.No.49-(2)録画;井上ひさし・中村哲対談他(宮澤賢治学会地方セミナー/4時間/2004.5.1 https://www.blogger.com/blog/post/edit/7878545021622579851/4202774246781653540
9.No.57「糸島市内で開かれている「中村哲医師をしのぶ会」パネル展に出かけて」
10.No.100「賢治と哲とひさしと」
11.No.106「父 中村哲のこと」ーーーーーーーーーーーー
※8.のNo.49-(2)の録画は2004年5月1日に滋賀県能登川町(現在は合併により東近江市)で開催した宮澤賢治学会の地方セミナーの記録です。アフガニスタンから帰国したばかり、羽田からかけつけた中村さんの現地報告や井上ひさしさんとの対談、会場の参加者とのやりとりが見られます。
www.kazedayori.jp 「図書館の風」
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2023年5月12日金曜日
大江健三郎さんのこと(本の出前)No.111
5月、ノドカフェの本の出前は、5月16日,いつもは月初めに本の入れ替えをしていますが、今月は遅くなってしまいました。出前の本は今回は「大江健三郎さんのこと――追悼・大江健三郎」です。出前の本の話は、この題で話します。時間は11時~12時です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出前の本のはなし「大江健三郎さんのこと」 5月16日 11∼12時 参加者1名
・ はじめに
参加してくださる人があって、はじめて会がなりたつ。会の周知はも口コミとメールで何人かに伝えている。今回は開催日が定例の月初めではなく16日だったため、参加される人がいるだろうかという思いのなかでの今日の出前の本の話の集まりだった。お一人の参加があるという知らせを直前に受けていた。ほんとうにありがたい。「風信子(ヒアシンス)文庫」の棚に自宅から運んだ本を並べ終えて11時過ぎから会が始まった。
参加してくださったのは知りあいのOさん、ノドカフェの坂本さんによれば、お仕事を休んでの参加だという。はじめにOさんの、大江健三郎(その本)との出会いをお聞きする。そして私の話。
ノドカフェでの本の話では参加される方が数名と少ないこともあり、少ないことのよさを生かして、参加された方からそれぞれに自己紹介をかねて、その日のテーマの本に関わることについて少しお聞きしてから、私の話をすることにしている。私が話す内容は、それらのお話を聞いてから定まってくる。
ただ今日の場合、直前にOさんだと聞いていたので、あらかじめ今日ふれるだろう本を選んでおいた。
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【1.『沖縄ノート』(岩波新書1970年初版、1993年32刷り)、
2.『壊れものとしての人間』
3.『「万延元年のフットボール』(1967(昭和42)年9月/ 『群像』1月~7月号・連載);自宅の本が見つからず、『大江健三郎全作品第Ⅱ期1(新潮社1994・図書館本)
4.『大江健三郎再発見』(大江健三郎すばる編集部編.集英社2001年;「書き下ろしエッセイ「小説の神話宇宙に私を探す試み」大江、座談会「大江健三郎の文学、作家前夜から最新作『取り替え子(チェンジリング)』大江・井上ひさし・小森陽一)〈図書館本〉
5.『大江健三郎賞8年の軌跡「文学の言葉」を復活させる』大江健三郎、長島有、岡田利規、安藤礼二、中村文則、星野智幸、綿矢りさ、本谷有希子、岩城けい.講談社2018〈図書館本〉
6.『大江健三郎』日本文学全集22/池澤夏樹個人編集.河出書房新社2015〈図書館本〉
7.雑誌『すばる』2008.2月号(「人間をおとしめるとはどういうことかーー沖縄集団自殺裁判に証言して
8.雑誌『すばる』2023.5月号(「大江健三郎・追悼)
※〈図書館本〉は、糸島市や他市の図書館から借りたもの。原本で紹介するだけで、棚には展示しない。
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〈事前の話の構想・・・話したいと考えていたこと〉時間が1時間であることを考えて。
・大江さんの本との出会い 55年をこえる読者の一人として、私にとってその人・大江健三郎と本とはなんであったか。〈とくに最初の出会いの頃のこと〉を中心に話そうと(私自身がどのような状況の中で出会ったか)-----ーーーーーーー
・大江・・・1935年(昭和10年)生まれ。1946年(昭和21年)生まれの私より11歳年上。
1947年に新制の中学校に入った少年・・「憲法」「民主主義」〈戦争放棄〉について語るコトバの輝き、11年遅れの私には、その言葉を生きた言葉として語る大人(先生)たちはいなかった。小学校、中学校、高校、そして私の身近で、私は、そんな大人たちに出会わずにいた。そのように語る人は大江さんがはじめてだった。 ーーーソンナ時代ガアッタノダ!「遅れてきた青年」ーーーーーーー
その日の話では、時間が短く簡単にしかふれなかったが、「大江さんの本との出会い」を〈私自身、どんな状況の中での本との出会いだったか〉――20歳から25歳の頃に――を思い返してみるため、もう少し振り返ってみたい。
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〈どのように どのような時に どんな状況のなかで、大江さんの本に 出会ってきたか〉ーーー
・東京の大学に入ってから(20歳以降)。(2浪して大学は1967年4月(昭和42年)~1972年(昭和47年)3月;最後の1年は図書館短大、浪人2年を含め7年間はバイトをしながらの生活だった。)高校卒業した1965年(昭和40年)は大学受験をせず、東京、葛飾の日本経済新聞販売店に住み込み、新聞配達。住み込みは2段ベッドで、1部屋に6人の生活、私が一番年下、九州の人で会社勤めの経験のある、太宰治が好きな人、船乗りを目指す大きな人、若くして学問を志す(ソンナ人ガイルノダ!)関西の人、ギターのうまい北海道の人、後半に入ってきた、私と同年か1歳年下で民青の活動を伸びやかにしていた北海道からの彼。18歳の私にとって心に深く刻まれる日々だった。1年後、受験したのは国際基督教大学(ICU)で、試験科目は自然科学、人文科学、社会科学と英語と、英語による面接だった。それぞれ文章(論文)を読んで解答する。自然科学では、「遺伝子の決定における数学の応用について」;人文科学では、「トマス・モアのユートピアについて」を覚えている。試験の問題が通常の受験勉強はまったく関係ないものであるのが面白かった。;「卒業後、日本の外にでるのには、出やすい大学ときいて」受験、同大学1校のみを受験して落第。2浪目は福岡市に帰り市内平尾の西日本販売店に住み込み、配達。(この店には高校3年生のさいごの3カ月間、東京の葛飾に行く前に、住み込みで働いていた。新聞配達がどんなものか、体験するため。)ーーー
2年目もICUを落第し、都内の学習院大に入学する。学習院を選んだのは学生数が都内の大学の中では少なく、先生に面白そうな人が幾人もいそうなこと。(最初は清水幾太郎さん『論文の書き方』の名前が唯一、私の中にあった。)そして学費も都内大学中では高い方ではなかったからだ。1年生の1年間は池袋に近い椎名町で朝日新聞販売店に住み込み、配達。2年、3年の2年間は大学の寮に入って適宜バイト。4年時と、図書館短大時の2年間は目黒区にあった小さなメッキ工場の宿直をしながら大学に。2年の後半の頃から大学正門のところにバリケードができた。といっても封鎖はされていなかった。講師の東大の衛藤審吉氏の後期の最初の授業で、東大では講義が学生のバリケードなどでできない状態になったため、東大での衛藤氏の受講生(外国からの留学生)数人を連れてきていて、香港からきたばかりの学生の日本語の学習のバイトをする人はいないかといわれ、すぐに手を挙げた。Rさんとの出会い。彼女は早稲田大学にも行っていて、私とは週2回、約2年間!むしろ私にとって学びの多い時間となった。その後は彼女の友人の香港からのYさんの日本語の勉強のバイト(1年はこえた)。彼は東京外大に留学、文科系の人だが、数学の勉強をしていて、上智大学にも通っていた。特許の申請もしているとのことだった。香港の2人から授かったものは私にとって大きなものがあった。かけがえのない出会いだった。
衛藤さんの授業では、その本来の講義の内容(現代中国)ではなく、私が深く授かったものがあったことを今にして気づく。それは、10数人の講義を受ける学生に課されたのが、日本の作家(だれでも)1人を選んで、その作家の著作のすべてを読んで、その文章の中の「外国」に対する表現を抜き出して、その作家が「外国」に対してどのようなイメージを持っているかをレポートする、というものだった。私は「有島武郎」を選んだ。たまたまその頃手にした「愛は惜しみなく奪う」がきっかけだったと思う。それは「個人の全集」を読みきるという最初の経験となった。授業そのものにもまして私にとって大切な時間となった。ーーー
大学での講義を振り返ってみると、まずゼミは3年生からということになっていたが、私は2年生になった時、社会学の清水幾太郎さんの研究室のドアをたたいて、2年生から参加させていただくことになり、2年間、清水さんのゼミに参加できた。3年生の終りの時に、清水さんは自ら退官された。最終講義は1969年(昭和44年)1月18日だったと思う。この日は東大の安田講堂を占拠した学生を排除するため、8500人の機動隊が導入された日でもあった。私はノンポリ学生であったが、その数日前、そこでの様子を見にその場所に出かけてもいた。清水さんは「オーギュスト・コント」について語られた。ピラミッド校舎での最終講義が終わったあと、食堂に行っていると、そこに久野収(おさむ)さんと、白髪の桑原武夫さんがいるのを目にして驚いた。戦後の日本の平和運動で大きな役割を果たし1960年の安保闘争時にその闘いの只中ににいた清水さんは、「60年の安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念」されていた。私はそうした時期の清水さんに出会っていたのだ。久野収さんは60年安保の時まで、清水さんと同じ考えのもとに まじかで行動をしてきた人であったから、60年以後は歩まれる道が異なっていたと思う。その久野さんが戦後の清水さんの行動をまじかに見て、清水さんが何をしてきたかを知り、共に行動されてきた方だけに、その最終講義の場に、久野さんは久野さんと親しい京大の桑原武夫さんを引っぱってこられたのだと、その時私は瞬時に思ったのだったと思う。私にとっては深く心動かされるものがあった。ーーーー
大学4年間の授業では、私は私が面白いと思う授業だけをうけた。私は法学部政治学科であったが、必修の単位のものでも、面白くないと思ったものは、一度か何度かでてあとは授業にでなかった。単位に関係のない他学部の講義も、面白いと思ったものは聴講を続けた。国文科では大野晋さん、大野さんに気づくのが遅く受講回数は少なかったが鮮烈な時間だった。仏文科では福永武彦さん(池澤夏樹・父)は体調がすぐれず休講が多かったため、数回だけであったが、小さな声で話されたその時の気配が深く印象に残っている。また法政大学から来られていた粟津則夫さん、解しがたい言葉があるものの、こちらに突き刺さってくるものが感じられた。独文科の朝日秀雄さんのニーチェの講義は1年欠かさずにきいた。英文科のたしか小泉先生であったか、「有島武郎とホイットマン」も1年間?休まずに受講した。受講の機会を逃して、後になって残念だったと思ったのは、独文科の岩淵達治さん(ブレヒトの著作の翻訳、多数)と仏文科の白井健三郎さんの講義だった。いつも耳をそばだててきいたのは「社会思想」の講義、最初は清水さん、清水さんが退職されてからは久野さん、そして久野さんのあとは藤田省三さん(法政大学から、体調のためか講義の回数は少なかったように思う。福澤諭吉『文明論之概略』、そして橋川文三さん(講義の中で語られた、久野収評は今も耳に残っている。)また、お名前を忘れているのだが、通例の講義ではなく、朝の講義が始まる1時間前?の読書会、「ホメロスの オデュッセイア」を読む会は参加者は独文科の1年の女学生と私の2人だけ。学生だけで読んだのだったか。先生の話はなく、ただ交互に本文(翻訳)を読むというものだった。新聞配達で朝刊を配ってからの時間だったので、時折居眠りしながらの時間でもあった。
私の大学時代(1967~1972年)はいわゆる大学闘争・学園紛争のさなかの時だった。1965年、高校を卒業して葛飾で新聞配達をしていた時、配達後の朝食の時間にテレビの画面で早稲田大学の学費値上げ反対闘争が行われているのを見た記憶がある。先に記したように1967年に入った学習院大では、講義は面白いと思うものだけにでていたが、他の大学にも出かけて講義をきいていた。他大学の講義を勝手にきくというのは私だけではなく、そのような学生たちがいた時代だった。初めはいくつかの大学で主に「社会学」の講義をきいてみたが、面白い講義、講師に出会えなかった。それは早稲田大学でのことだった。早稲田でのいくつかの講義では、どのクラスも受講する学生は少なかったのだが、何百人かの学生でほぼいっぱいの教室がありそこで講義をきいた。教室の外からはデモをする学生たちの声と笛の音がきこえていた。私は講師の名前も知らず、その話にききいった。講師が話されたのは、北ベトナムに爆撃に向かう前、横須賀に寄港したアメリカの航空母艦イントレピッドから4人の兵士(19~20歳)が脱走した事件についてだった。いま、このこと(の意味すること)を語らないでどうするか、と。
その講義の時間は1回では終わらず、続けてあったように思う。講師は久野収さんだった。それまで私は久野さんのことをまったく知らないでいた。調べてみると何と私が通っている大学の哲学科の先生だった。それを知った私は、ゼミを除いて久野さんの授業をすべてうけることにした。その授業の面白かったこと。図書館で久野さんの本を読みだした。そしてすぐに私は鶴見俊輔さんの事を知った(『戦後日本の思想』久野収、鶴見俊輔、藤田省三:中央公論社1959)。一冊一冊読むごとに、鶴見さんの文章に惹かれた。このような人がいるんだ。鶴見俊輔さんとの生涯にわたる読者としての出会いの始まりだった。ーーー
久野さんの授業は面白かった。講義のなかで初めてきく著者の名前や本の名前、それらを大学の図書館で読むことができた。『エラスムスの勝利と悲劇』(シュテファン・ツヴァイク)を通してエラスムスとルター語る久野さんの言葉は久野さん自身を語っているように思われた。早速その本を読み、その面白さを同い年(浪人も2年と同じ)の親友に伝えたところ、後で聞いたのだが、彼はその1冊をまるごと書き写したとのことだった。また、早稲田大学での久野さんの講義の聴講では、立教大学からきていた1年先輩のIさんに出会った。彼からは私が4年生になった時、彼がそれまでやっていたアルバイトを引き継がせてもらった。小さいメッキ工場の宿直の仕事で、私はそこで2年間バイト生活を送ることができた。Iさんの手にしていた大学ノートには確かノートの表紙と裏表紙まで、吉本隆明の詩だったか、文章だかが書かれていた。当時私は吉本の本はまったく読んでいなかったので、深く印象づけられた。
大学を卒業する直前の2月にあった浅間山荘・リンチ殺人事件の報道がおびただしいさなか、1972年4月千葉県八千代市立図書館で働き始める。(2年間で退職、2年で辞めることは最初から決めていた。退職後はアルバイトで旅費をため、イスラエルのキブツに行こうと考えていたが、色んな経緯で職業病の保母さん(3人)との出会いがあり、職業病(公務災害)認定まで2年間【この間も色々なバイト・・・組合書記3カ月、製パン工場(夜中)、上野駅近く国鉄の車内販売の職員の食堂での皿洗い、そのあと車内販売(上野―新潟)、ウナギの問屋の宿直と早朝の荷受けと、生きたウナギをダンボール箱から容器に入れる作業(2時間?)など】ーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上、とても長くなってしまいましたが、大江さん(以下「さん」略)の本と出会った当時、そしてその前後の背景です。
〈大江さんの本と出会ったのは〉
私が大学に入学した1967(昭和42)年に32歳になる大江は「万延元年のフットボール」を「群像」1月号から連載し、9月、長編『万延元年のフットボール』を講談社から刊行しているが、私はすぐには手にしていない。それを読むのは後年のことだ。私が最初に出会った大江の本は主にエッセイだったと思う。その一つひとつが何であたったか覚えていないが、その一節が私の中に深くはいってきたのは、今回久方ぶりに再読して、これだったと思う。
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」、1970(昭和45)年に刊行された『沖縄ノート』(岩波新書)の一節だ。
このような問いかけをするということ、その問いかけから発する大江の行動と、そこから生まれる言葉。その一文を目にした時には私自身意識していなかったように思うが、私が大学卒業後、最初に就職した図書館の職場を2年でやめ、イスラエルのキブツに行こうとした思いの底には、この一節に象徴される大江の文章、言葉があったのだと思う。1965(昭和40)年刊行のエッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』、『持続する志』1968(昭和43)年、『壊れものとしての人間』1970(昭和45)年、『鯨の死滅する日』1972(昭和47)年など、同時代のものとして、単行本や雑誌に連載されたものを読んだ。1972年の「群像」1月号から連載が始まった「同時代としての戦後」では、私が好きな武田泰淳だけでなく、まだ手にしていなかった多くの戦後派作家に眼を開かされた。『状況へ』(1974(昭和49)年9月、岩波)は前年にだったか、「世界」に小田実「状況から」と交互に連載されたものを「世界」が毎月でるのを待ちかねて、切実な思いで読んでいた。
徐々に大江の小説の世界に導かれて行ったのはこの時期の後半の事だと思う。(今回はそれには触れない)
後年1980(昭和60)年2月、50歳の大江は「世界」に連載した評論『生き方の定義――再び状況へ』を岩波から刊行しているが、大江の一読者としての私にとっての大江健三郎という人の在りようを、このタイトルそのものがよく表しているように思う。どのように生きるか、その生き方を定義する人として。そして「再び状況―のなか―へ」歩みだす人として。ーーーーーーー
〈出前の話で語れればと思ったこと〉
・小説について
大江光さんの存在がその小説の世界を深く豊かなものにしていること。
しかも私小説ではないこと。
・言葉の定義ということ。
・具体的に大江さんとその文章の魅力、力を考えるため、『すばる』追悼号の一節を読む。
以上。
会を終えて、あらためて大江さんの著作を読みかえしたい・・・。
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