2024年4月27日土曜日

松下竜一の本(出前の本の話・5月) No.126

JR前原駅から歩いて10分の所にある旧前原商店街の一郭にあるブックカフェ「ノドカフェ」での5月の 出前の本の話のご案内です。

2024年3月30日土曜日

3月の本の出前  No.125

3月の「本の出前」のご案内 1.マルシェ会場にて (今回は初出店のお店がいろいろ)   ・日時 3月30日(土)11時~夕方   ・場所 「うみかえる」 糸島市二丈深江海水浴場入口   ☆16時20分から45分間くらい、ヨガ    ヨガスタジオよが凪のゆみさんと。参加500円くらい。     うみかえるの裏の深江海岸浜辺で。   ※能登半島チャリティー蚤の市も開催(自転車、着物、本・・・などの出品も)   ★1日だけのマルシェが開かれ色んな出店が。   ☆将棋道場 11時∼14時半(うみかえるの庭で。松浦さんに勝ったら団子とか。   ☆komorebi sweets,坂田たみちゃんのインタビュー(うみかえるのどこかで。     「人気のお菓子屋さん、ってどうやってできたんでしょうね?」       会場に来た人も質問を‼   ☆「和限」(今年、発芽酵素玄米の食事処を開店)の中山和子さんの初出店。     ・発芽酵素玄米のおにぎりと味噌だまのスープ。300円です。   ☆30日の朝についた餅の販売(米農家、子育て中のぐーさん)     ・間に合えば、無農薬米の自家製緑米玄米餅やよもぎ餅も。   ☆「みぃちゃんコーヒー」(tetocotoのこどもたちが立ちあげた挽きたてのコーヒー)   ★風信子ヒアシンス文庫より1日限りの本の出前―2階です。 2.ブックカフェ「ノドカフェ」にて   ・期間 : 3月8日(金)~5月1日(水)   ・場所 : ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F)   ・内容 : 「農に関わる本」  「農に関わる本の話」   ・3月8日(金)11:00~12:00   今回は福岡市内から2名の参加があり、2時間の時間となりました。   葉書、フ16ェイスブック、ラインで直前に以下のお知らせ   農に関わる本の出前とお話  出前の本の話 3月  3月と4月、ノドカフェへの出前の本は、「農に関わる本」 です。「田んぼや畑は先祖からの預かりもんであり、自分のも んであって自分のもんじゃなか。未来永劫にリレーされるべ きものなんだ」「農の原理は循((環であって、成長じゃない。百 姓ってのは借金さえしなければ成長しなくても生きていける んです」、「佐賀県唐津市で、生涯を一百姓として生きてきた 山下惣一」、「井上ひさし氏が山形県川西町に拓いた遅筆堂文庫 による「生活者の視点から農業を学ぶ生活者大学校」の教頭(校 長は井上ひさし)を長く務めた山下惣一さんの追悼の小さな棚や、 「野の学問」を構想し「百姓宣言」の糸島二丈在の宇根豊の本、 徳野雅人、前田俊彦(百姓は※をつくらず田をつくる)、そして 自然農に関わる本など。 小さな場での出前の本のお話会にようこそ。 (連絡なしで、当日直接お出でいただいて大丈夫です) ★連絡先―才津原

2024年2月29日木曜日

「空白の天気図」・・・広島へ No.124

2月19日と20日、広島市に出かけた。叔母から被爆時前からの話を聞くことと、 平和祈念館の企画展を見るためだった。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、 企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」を2023年3月15日から2024年 2月29日まで1年間にわたって行っていた。私がこの企画展を知ったのは今年の1月 半ばを過ぎてからのことだった。 「空白の天気図」は柳田邦男さんの著作のタイトルだ。49年前の1975(昭和50年)に新潮社 から出版されている。1936(昭和10)年、栃木生まれの柳田氏は1960(昭和35)年春NHKの取材 記者として広島赴任を命ぜられ、それから3年3カ月広島に勤務し、主に原爆報道を中心に報道の 仕事に携わっている。東京では気象や災害問題を主要なテーマとし、そのため気象庁に出入りす る機会が多かった。そして1967(昭和42)年7月、西日本各地を襲い、佐世保、呉、神戸などに 300人以上の犠牲者をだした「西日本豪雨」に出会う。とりわけ呉では600か所以上で山崩れや崖 崩れが発生し、死者は88人に上った。 「この災害を調べるうちに、呉では昭和二十年の枕崎台風で死者行方不明千人を越える大災害が 起こっていることを知った。しかも枕崎台風は、呉のみならず広島県下に未曽有の惨禍をもたら したこと、災害の規模が大きくなったのは、県の中枢である広島市が原爆で壊滅した直後で、 防災機関の機能が麻痺していたためであること、などの事実も知ることが出来た。私の広島時代 の取材は、あまりにも「八月六日」のことにばかり目を向けていたため、「九月十七日」のこと など思いも及ばなかったのであった。気象庁に保存されている中央気象台の「枕崎・阿久根颱風 調査報告」を読んだのは、この「西日本豪雨」がきっかけだったのだが、それを読んではじめて、 「戦争が終わったと思ったら今度は台風じゃった。あの台風はすごかった。石は飛ぶし、宮島の 厳島神社の回廊が高潮で浮き上がったのじゃからのぉ。」 と、かつて広島の老記者から聞いるかのsらた話が、私にとってもようやく現実感をもってよみ がえってきたのだった。このとき私の胸の中に、漠とした形ではあったが、広島について書くべ きものの構想が生まれた。」    それから取材と調査が始まる。1974(昭和49)年夏には、「私は本書を含めて書きたいものがあ まりにもたまり過ぎたため、NHKを辞めて執筆に専念することに」し、翌年の1975(昭和50) 年9月に刊行されている。枕崎台風のことを知るきっかけとなった1967年の「西日本豪雨」から7 年後のことだ。 本書の紹介については、稿をあらためてと考えているが、原爆投下の前後の広島の時空に、活字 をおう私自身が立ち会っているとも感じられる描写、その克明な記述に驚かされた。原爆で壊滅 した街の中でどのような一人ひとりの生と死があり、またその惨禍の地を襲った枕崎台風がどの ようなものであり、そこにまたどのような生と死があったか、その一人ひとりが眼前に立ち現れ てくるように思われた。 原爆死没者追悼平和祈念館では、今回の企画展にあたって、A4サイズのチラシ作っている。 「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」と太文字で記された表がわには 麦わら帽子をかぶり、立って櫓を両手にもつ男性(船頭)の横顔が紙面の右下に写っており、 左下には、茶色の戦闘帽をかぶり同色の作業服の上着を着た青年の後姿が映っている。 柳田著の「空白の天気図」では、その青年が渡し船の上で閃光にさらされ、濡れ鼠とも幽霊と もつかぬすさまじい形相で6人火傷を負いながらも、歩いて気象台のある江波山を上り、辿り着 いた本科生として、その後のあり様とともに詳細に描かれている。なお写真上に、副タイトル として「観測し続けた者たちの記録」と記されている。 チラシの裏側には、チラシの右側の上段には「元広島地方気象台の関係者たち」として6人の写 真が載っている。うち3人は職員であり、2人は気象技官養成所本科生(うち1人は気象台に定時 に出勤していて、閃光のあと、顔から足先まで身体の右側一面に無数のガラス片が刺さりひど い出血、重症)、一人は重症を負った本科生の姉。 チラシの右側、下段には「迷彩を施された広島地方気象台」の写真。 そして、チラシの左側には、この度の企画展の趣旨が次のように記載されている。 「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ― 1945年8月6日、原爆は広島市に甚大な被害 をもたらしました。爆心地の南方3.7km に位置する広島地方気象台でも、爆心に面 した窓ガラスは割れ、職員の中には重症を 負うものが少なくありませんでした。 その状況下でも、「気象観測を担う者は、現象 についての時間的な変化を絶えず記録しな ければならない」と、最新の気象データを 中央気象台に伝えるため、3名の若手 台員が市の中心に向かいました。しかし、 そこで彼らがした目にはしたのは、まさに地獄絵図 と呼べるものでした。 さらに、被爆後わずか1か月後に広島を襲っ た枕崎台風は原爆被害を一層深刻なものにし ました。気象台員たちはこの二重災害の被害 を後世に教訓として伝えようと、現地へ出向 いて一人ひとり詳細な聞き取り調査を行い、 貴重な調査報告書にまとめました。 今回の企画展では、観測者の視点から記録 された被爆体験記をもとに被爆の実相を明ら かにします。」 ☆この度の企画展の会場で放映されたビデオが祈念館のホームページで見ることができます。  ぜひご覧ください。 国立広島原爆死没者追討平和祈念館 TEL:082ー543-6273  FAX:082ー543ー6273 ホームページURL:https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/ 〒730―0811 広島市中区中島町1-6

2024年1月19日金曜日

出前の本の話、ご案内 No.123

新しい年のはじまり、どのようにお過ごしでしょうか。 1月1日、賀状をだしおわり、午後になって新年の挨拶をネットでと、日めくりの「いとしま暦」(1月1日)を送信した 直後に、甥っ子からメールが届いた。「石川県で地震が・・・」、17時まじかの時間だった。テレビをつけると津波に 襲われた能登の状況が画面にでて言葉を失う。珠洲市(坂本菜の花さんの本でゆかりの地)や輪島の名前がとびこんで くる。地震が起きた16時10分から1時間近く、そのことを知らずに新年のあいさつなどのやりとりをしていた。そして 翌日には、たまたまテレビのニュースを見ている時に羽田飛行場での日航機の海上保安機との衝突事故が写しだされた。 1日、2日と、なんという年のはじまりだろう。 あの日から15日がたち、能登では道路の寸断が激しく、今朝16日の毎日新聞では6市町村がほぼ全域で断水。 (14日午後2時時点で9000戸停電、9市町で5万5千戸断水、輪島、珠洲、能登3市町の15地区で490人が孤立状態、 400戸の避難所に約2万人) 29年前、1995年1月17日早朝の阪神淡路大震災、13年前2011年3月11日16時過ぎの東北大震災のことが重ね合わせて、そ の当時、その地の幾人かと交わしたやりとりの事があらためて思いだされてもくる。被災の惨状にある能登と900キロ 離れた糸島の地での日常、身も心も定かならずの日々ですが〔その中の人、現し心あらむや〕、新しい年の事始めは、 「出前の本の話」です。 〈出前の本の話〉ご案内―生きるための図書館って何だろう― 2017年11月に顔店したブックカフェ「ノドカフェ」に、開店時から、自宅の「風信子ヒアシンス文庫」から本の出前を してきました。数十冊の本を2か月ごとに入れ替えて。 年はじめの1月、2月は「図書館の本いろいろ」と題して、図書館に関わる本やパンフレットなどが棚に並んで手にとっ ていただくのを待っています。 また出前した本について、その幾冊かを紹介する出前の本の話を行っています。当初、そのテーマを「まことの図書館 って何だろう」としていましたが、急きょ「生きるための図書館って何だろう」に変えました。子細は、出前の本の話 の場で。『生きるための図書館』竹内悊、『移動う図書館ひまわり号』前川恒雄、『図書館の明日をひらく』菅原峻、 『図書館づくり実践記』、『図書館猫デューイ』ヴィッキー・マイロン、そして、そして・・・。 図書館に関心のある人・ない(と思ってる)人・だれでも、そして、もっとよりよく図書館を使いたい、利用したいと 思っている人、小さな場での出前の本のお話会にようこそ。 日時:1月19日(土)11:00~12:00 場所:ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F 連絡先:才津原哲弘 ;090-5045-2559 メール:itokazedayori@gmail.com www.kazedayori.jp  「図書館の風」

2023年12月29日金曜日

巻紙4メートルの書簡・伊藤野枝 No.122

ブログ121では「伊藤野枝、伊藤ルイさんのこと」と題して、「福岡出身の女性解放運動家・作家である伊藤野枝さんの没後100年に あたることから、野枝さんをさまざまな角度から論じていただきたいとして企画された伊藤野枝100年フェスティバル」(9月15,16日。 福岡市サイトピア)に参加したことを記した。そこで上映された映画「ルイズ その旅立ち」(監督=藤原智子)のこと、それに先立 ってたまたま読んだ『評伝 伊藤野枝~あらしのように生きて~』(堀和江 郁朋社 2023.4)のことなど。そして、その最後の所に 伊藤野枝は手紙の人と記した。堀和江さんの著書では、その引用の力に心動かされながら同書を読み進めたのだが、中でも野枝の手紙 には驚かされた。その一つが1918(大正7)年、満23歳の野枝が大杉栄が「職務執行妨害」で拘束され東京監獄に収監されたことに対し て、時の内務大臣、後藤新平宛てに抗議して、その理由を糺すために面会を求めるために送ったという書簡、巻紙に墨書された書簡は 長さが4メートルだという。書中には、「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」「私は今年二十四になったんですから、あなたの 娘さんくらいの年でしょう?でもあなたよりは私の方がずっと強みをもっています。」〔後藤新平の長女、愛子は鶴見俊輔1922ー201、そ5 の母〕 4メートルもの長い書簡とは一体どのようなものだったのだろうと、読後思っていたのだが、なんと100年フェスティバルの会場に入った 所に、その書簡全部の複製が展示されていた。読めない文字もあったが、その書簡のすべてを目でおうことができた。思ってもみない出来 事だった。その書簡の全文を記した資料が配布資料として用意されていた。以下にその全文を記します。――――― ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 前置きは省きます 私は一無政府主義者です 私はあなたをその最高の責任者として 今回大杉栄を拘禁された不法について、その理由を糺したいと思いました それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはいることとは思いますが、よし届いているとしても、もし あなたがそれをそのまま受け容れてお出でになるなrそれは大間違いです。 そしてもしそんなものを信じてお出でになるならそれは大間違いです。 そしてもしそんなものを信じてお出でになるなら、私はあなたを最も不聡明な為政者として覚えておきます。 そして、そんな為政者の前には私共は何処までも私共の持つ優越をお目に懸けずんば置きません。 しかし、とにかくあなたに糺すべき事だけは是非ただしたいとおもいます それには是非お目に懸かってでなければなりません。 あなたは以前夫人には一切合わないと仰言ったことがあります。しかしそれは絶対に合わないというのではあり ませんでしたね。つまらない口実はつけずに此度は是非お会いする「ことを希ます。お目に懸かっての話の内容は、 一、今回大杉拘禁の理由 一、日本堤署の申立と事実の相違、 一、日本堤署及び警視庁の声明した拘禁の理由の内容、及び日本堤署の最初の申立てとその矛盾について 一、警視庁の高等課の態度の卑劣、 一、大杉と同時に同理由で拘禁した他の三名を何のリ湯も云わず未監より放免したこと まあそんなものです、まだ細々したことは沢山あります。おひまはとりませぬ。 ただし秘書官の代理は絶対に御免を蒙りたい。それほど、あなたにとっても軽々しい問題では決してないはずです。 しかし断っておきますが、私は大杉の放免を請求するものではありませぬ。また望んでもおりませぬ。彼自身もお そらくそうに相違ありません。 彼は出そうといっても、あなた方の方側、何故に拘禁し、何故に放免するかを明かにしないうちには率直に出ます まい。また出ない方がよろしいのです。 こんな場合には出来るだけ警察だの裁判所を手こずらせるのが、私たちの希う処なのです。 彼は出来るだけ強硬に事件に対するでしょう。私共も出来るだけ彼が、処刑を受けて出てからの未来を期待し たいとおもいます。 彼は今、日本堤署によって冠せられた職務執行妨害という罪名によって受ける最大限度の処刑をでも兵器で予期 しているでしょう。 私はじめ、同誌のすべても同じ期待と覚悟をもって居ります。彼の健康も充分にもう回復しています、そして、 彼は大分前から獄内での遮断生活を欲していました。 彼をいい加減な拘禁状態におく事がどんなにいわゆる危険かを知らない政府者のバカを私たちは笑っています よろこんでいます。 つまらない事から、本当にいい結果が来ました。 あなたはどうか知りません 警保局長、警視総監二人とも大杉に向かって口にされたほど、大杉の同志の人々が離れた事をよろこんでいられ たそうです。しかし、いまこそ、それが本当は浅薄な表面だけの事にすぎなかった事が、わかったでしょう。 そして、私はこんな不法があるからこそ私どもによろこびが齎らされるとおもいます。 何卒大穗の拘禁の理由が出来るだけ誤魔化されんんことを。浅薄ならんことを。 そしてすべての事実が私共によって暴露されんことを。 此度のことは私共には本当に結構な事でした。 また、その不法がどのくらいまで私共には結構な事で、あなた方には困ったことかを聞かせて上げましょう。 あなたにとっては大事な警視庁の人たちが、どんなに卑怯なまねをしているか教えてあげましょう。 灯台下くらしの多くの事実を、あなた自身の足元のことを沢山知らせてお上げします。 二三日うちに、あなたの面会時間を見て行きます。私の名を御記憶下さい。 そしてあなたの秘書官やボーイの余計なおせっかいが私を怒らせないように気をつけて下さい。 しかし、会いたくなければ、そしてまたそんな困る話は聞きたくないとならば 会うのはおよしになるがよろしい。 その時はまた他の方法をとります。 私に会うことが、あなたの威厳を損ずる事でな以上、あなたがお会いにならないことは、その弱みを暴露します。 私には、それだけでも痛快です。 どっちにしても私の方が強いのですもの。 私の尾行巡査はあなたの門の前に震える。そしてあなたは私に会うのを恐れる。ちょっと皮肉ですね。 ねえ、私は今年二十四になったんですから、あなたの娘さんくらいの年でしょう? でもあなたよりは私の方がずっと強みをもっています。 そうして少なくともその強みは或る場合にはあなたの体中の血を逆行さ、すくらいのことは出来ますよ、もっと手 強いことだって―― あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。             『野枝さんをさがして 定本伊藤野枝全集 補遣・資料・解説』より ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 後藤新平は関東大震災の翌日9月2日に再び内務大臣となり、きょがくの予算をあてて帝都復興に尽力します。 その復興の最中、大杉、野枝、橘宗一虐殺が群により隠蔽されたことを知り、「この虐殺は人道門だであると、 田中義一陸相に強く当たったと言われて」います(『伊藤野枝と代準介』矢野寛治、弦書房より)。➡配布資料より。

2023年10月1日日曜日

いせひでこ & 柳田邦男の世界 No.118   

風信子(ヒアシンス)文庫から2ヶ月に1回、本の出前を行っている市内前原のブックカフェ 「ノドカフェ」で、9月1日、本の入れ替えを行うとともに、出前の本の話をした。 今回のテーマは、「いせひでこ & 柳田邦男の世界」だ。 これは、伊勢英子さんの絵本『ルリユールおじさん』原画展(10月1日(日)~10月9日(月・祝)と 講演会『とくべつな一日、とくべつな路』(10月7日(土)14時~)が、伊万里市の黒川コミュニティ センターで開催されるので、それに勝手に協賛して今回の出前の本のテーマとしたものだ。 伊勢英子さんの『ルリユールおじさん』の原画展がこれまで、九州・沖縄地区で開催されたのは、2回 だけとのこと。2008年沖縄、2011年福岡市で。私にとっては、伊勢さんの絵本のなかでは、『ルリユール おじさんは』(2007年)は”わたしの一冊”ともいえる大好きな絵本だ。パリの街中のappartementにすむ 少女がこわれてしまった?大切な本をもって外にでかける。別棟のappartmenntの階上にすむおじさんも、朝の街角にでる。少女とおじさんがそれぞれに歩く街角の佇まいがとてもいい。手ぶらででかけたおじさんはバゲットをかかえている。おじさんは仕事場について仕事の準備、そのしごとばの前にやってきた少女は 中の様子にひきつけられてのぞきこむ。〈「おや、まだいる・・・」「はいってもいいの?」〉おじさんは”ルリユール”(製本を仕事とする)おじさんだった。 水彩の絵の力と簡潔なことばの力、少女とおじさんの会話、「ルリユール」の仕事をかたる絵とことば、さいごに表紙に新しくつけられた本の題、少女の名前、ソフィーがきざまれた金の文字の美しさ。おじさんのおとうさんも”ルリユール"だったという職人のしごと。 〈「ルリユール」ということばには「もう一度つなげる」という意味もあるんだよ。〉「ぼうず、あの木のようにおおきくなれ」といったおじさんのおとうさんのことば。詩のようなではなく、詩の語り、詩のものがたりと、心にしみこむ詩と響きあう絵。 『ルリユールおじさん』についで、『大きな木のような人』(2008年)、そして『あの路』(2009年)も ほんとうによくも、このような絵本が生まれるもの! と思える伊勢さんから読者への至上の贈り物だ。 そういえば、『ルリユールおじさん』と同じ年に生まれた『にいさん』(200.8、偕成社)も心に刻まれる一冊だ。『にいさん』からは、『ふたりのゴッホ:ゴッホと賢治37年の心の軌跡』(200年、新潮社)が思いだされる。賢治がでてくると、伊勢さんの『よだかの星』、『水仙月の四日』【なんと、伊勢さんのテーマは「十種類の雪を描き分けること!、だという】。 伊勢さんは『旅する絵描き』(2007年、理論社)だ。 その地を訪ねる旅は、人に出会うための旅でもある。ゴッホや賢治、そして『カザルスへの旅』(1987・理論社、1997・中公文庫)。 出前の本の話の前に、図書館から借りた絵本など、この機会にまとめてゆっくりみることに。 よだかの星(1986)、ふたりでるすばんできるかな(1990)、あらあらあら(1990)、山のいのち(1990)、海のいのち(1992)、かさをささないシランさん(1991)、みんなでりょこうにいきました(1992)、水仙月の四日(1995)、気分はおすわりの日(1996/さし絵)、グレイが」まってるから(1993)、はちみつ(19/さし絵)、空のひきだし(1997)、雲のてんらん会(1998)、ぶう、雪女(2000)、はくちょう(2002)、むぎわらぼうし(2006)、『ルリユールおじさん』(2007)、にいさん(2008)、くるみわり人形(2008)、『大きな木のような人』(2009)、『あの路』(2009・山本けんぞう・文)、まつり(2010)、木のあかちゃん(2011)、「プロセスいせひでこ作品集」(2013)、チェロの木(2013)、かしの木の子もりうた(2014)、「わたしの木・こころの木」(2014)、「こぶしのなかの宇宙」(2016)、ねえ、しってる(2017)、「猫だもの ぼくとノラと絵描きのものがたり」(2017・かさいしんぺい文)、「見ない蝶をさがして」(2018)、『原田マハ アートの達人に会いにいく」(2023・新潮社ーーとても面白かった‼) 柳田邦男さんと私自身の出会いを手渡してくれたのは、乾千恵さんだ。2003年4月2日から27日まで、滋賀県 能登川町立図書館で、『月・人・石―乾千恵の書』展を開催した。『月・人・石―乾千恵の書の絵本』は、福音館書店の「こどものとも」562号として、2003年1月1日に刊行され、その年の12月の初めにハードカバーの本として発行された、千恵さんの十三の文字の書に谷川俊太郎さんの文と、写真家の川島敏生さんの写真で生まれた、日本で(世界でも?)初めての書の絵本だ。(私自身、この一冊の書の絵本からどんなに深い出会いの数々を授かってきたことだろう) その『月・人・石』展に、柳田さんが神戸大震災のあと、毎年神戸での集いの日に参加されていて、その帰途、能登川に立ち寄られたのだ。 以後、柳田さんから直接、又著作を通して手渡されてきたもの、かけがえのない出会いははかりしれない。能登川ではもとより、三重県多気町立図書館(合併後は勢和図書館)、そして平戸市や伊万里市の図書館で。絵本専門士養成講座の場でも、そして、そして・・・。 出前の本の話の場に 9月1日のノドカフェでの出前の本の話の場に、思いもよらないお二人の参加があった。このたびの伊万里での伊勢英子さんの原画展と講演会の仕掛け人のお二人。 伊万里市黒川町から羽柴よしえさんは何とキーボードを抱えて、岩野聡子さんは(あとで、わかったことだが)『ルリユールおじさん』を何冊ももって。この日の参加者は私を含めて6人、最初に自己紹介のあと、お二人の語りよみが始まった。羽柴さんのキーボードからここちよい音がきこえるのなかで、岩野さんの読みかたりがはじまった。その声と伴奏の音に耳をかたむける4人の膝には、岩野さんから手渡された『ルリユールおじさん』があり、一人ひとり頁を開きながら、『ルリユールおじさん』の世界にはいっていく。 読みかたりの場で、その声な耳をすます人のだれもが、その本を手にし、それぞれページをめくりながら、 同じときをもつ、というのは私にとって初めてのことだった。 なんとも心みちるうれしい時間だった。一時間の時間が、お二人から手渡されたなんとも、うれしく愉しい気につつまれて、瞬く間にすぎたように思えた。 伊勢英子さんと柳田さんの本のこと お二人の著作はそれぞれたくさんある、まだ読めていないものもたくさんある。 その中でもまず、新たに、あるいはもう一度読んでみようと思っているのは、お二人の著作だ。 さいごに、それを記しておきたい。 ・『画集「死の医学」への日記』伊勢英子・絵 新潮社1996  ※1994年4月から95年3月まで、毎日新聞全国版に週1回、連載。 ・『見えないものを見る―絵描きの眼・作家の眼』1997 ・『はじまりの記憶』(1999、講談社、2002・文庫)初出「本」1998.9∼1999.5) 🌸いせひでこ 絵本『ルリユールおじさん』原画展   ・ 10月1日(日)~10月9日(月)     平日/10:00~17:00、     土・日・祝日/10:00~20:00   ・場所:黒川コミュニティセンター〔伊万里市黒川町塩屋504ー1)☎0955-27-0001 米講演会はいっぱいとのこと。

2023年9月30日土曜日

伊藤野枝,伊藤ルイさんのこと     No.121

9月16日(土)、「伊藤野枝100年フェスティバル」(福岡市西区・さいとぴあ)に出かけた。 プログラムは以下の内容だった。 ①映画「ルイズその旅立ち」10:30~12:10 ②神田紅氏講演      13:30~14:10 ③森まゆみ氏講演     14:30~15:30 ④座談会         15:30~16:30 ------ 主催者は「伊藤野枝100年プロジェクト」、同会のパンフレットには「伊藤野枝没後100年を迎えるにあたり、彼女の人生の軌跡を振り返り、未来へと語り継ぐ取り組みを行うために「伊藤野枝100年プロジェクト」を結成しました。そのために広くサポーターを募ります。月に一回『伊藤野枝集』を読む読書会を行っています。ご興味のある方は、以下のメールアドレスからご連絡ください。 Instagram,Twitterもフォローお願いします。itounoe100@gmail.com」----------------------------------------------------------------------- とある。 ①映画「ルイズその旅立ち」 パンフレットの映画の紹介では、「大杉栄(明治18/1885 ・1・21ー大正12/1923 ・9・16)と伊藤野枝(明治28/1995・1・21ー大正12/1923 ・9・16)の四女のルイズは、両親の非業の死を知って市民運動家として個人の自由と尊厳を守る活動を続けた。その姿を中心に、野枝の今日性に迫る、ドキュメンタリー映画」と記されていたが(日時は筆者、記述)、私にとっては初めてこの映画を見る機会だった。 この映画を見る4日前の9月12日から、私は1冊の本を読み始めていた。『評伝 伊藤野枝~あらしのように生きて~』堀和江(郁朋社 2023.4.28)だ。私が1週間に1,2回は行っている地元の図書館、自宅から車で10分の糸島市図書館ニ丈館(糸島市立図書館の分館)の新刊書の棚で手にしたのだった。映画について触れる前に、まずこの本のことから記したい。 二丈館の私の利用の仕方は、糸島市の図書館はリクエストが1人10冊までの制限があるので、いつも10冊の本をリクエストをしている。今は用意できた本は、図書館からすぐにネットで連絡があるため、その本を借りる時に、借りた冊数だけ新たなリクエストをして、ほぼ常時10冊の本が予約されている状態になっているという次第。私が二丈館の新刊書の棚で見つけて、借りるのは1年で10冊に満たない。年間5,6冊あるかどうか。だから、『評伝 伊藤野枝』は、私にとっては、とても得難い出会いだった。 因みに、二丈館の既存の本、開架室では、私が読みたい本はあまりない。 このため、一度にこれはと思う本を思うだけ借りている図書館は、県外の市立図書館でだ。この図書館では、能登川や東近江市の図書館と同じように、貸出冊数に制限がない。期限内(2週間)に返せばよく、借りている本を他の利用者の予約がなければ、1度だけ、貸出の延長ができる。(月に1,2回出かけて行く。自宅から車で50分)二丈館だけでなく、糸島市の図書館の本館でも、新刊棚や既存の蔵書の中に、私が読んでみたいと思う本が、きわめて少ないのだが、その図書館では新刊書の棚に、何冊も手に取りたい本を見つける。市外からの私はできるだけその棚の本を借りることを控えていて、場合によっては、そのうち、これはと思う本を、糸島市の図書館で、予約、リクエストをしたりしている。いつも驚かされるの は、開架室で短時間で読みたい本を、たちどころに見つけられることだ。二つの手提げ袋にいっぱいになることが、しばしばだ。この図書館には、利用者が利用できる書庫があり、そこには、私のこれからの限りある時間の中では、読み切ることができないだろう、読みたい本がたくさんある。 『評伝 伊藤野枝』のこと 堀和江という著者のお名前をこの本で初めて知った。これまで私は伊藤野枝や大杉栄の本をいくらか読んでいて、その時々の野枝や大杉の行動や思想(考え方)が私の中に刻まれているが、野枝の生涯の足跡を通して知ることはなかった。 1895(明治28)年1月21日、ノエ(戸籍名)はみぞれまじりの寒い晩に福岡県糸島郡今宿村大字谷(現・福岡市今宿)に生れた(第三子長女)。本書ではその折の両親、伊藤亀吉、母ムメの暮らしの様や野枝の少女時代から、1923(大正12)年9月16日、関東大震災後の混乱のさなか、甘粕正彦憲兵大尉によって、大杉栄、その甥の6歳の橘宗一(大杉の妹あやめの子)とともに虐殺、惨殺されるまでの、野枝の生涯の歩みが、「第1章広い世界へ」、「第2章新しい女」、「第3章大杉栄との出会い」、そして「第4章二人の革命家」で描かれている。 最後の章、「第5章 野枝の残したもの」は、そのほとんどが私が初めて見聞きする事柄、その内容に驚かされ、また深い感銘をうけるものであったが、ここにその細節の小見出しを記して、その内容の一端を示せればと思う。 (1)甘粕正彦  〈主義者殺し〉    ・1923.12.8甘粕―懲役10年、森―懲役3年、鴨志田、本田、平井―無罪。    ・1926(大正15.10.9 仮出獄【懲役10年だったのに、わずか2年10ヶ月で仮出獄。出t          所後、行方知れず。    ・1927(昭和2).7 日本を離れ、フランスへ。(春に結婚した服部ミネと)~1929       (昭和4).2月  〈満州での謀略〉     1929.2 フランスから帰国し、夏、満州へ。関東軍(板垣征四郎、石原莞爾)の          「満蒙領有計画」に同調、この二人と同志的行動をとっていく。(ハルビン暴         動、日本領事館、朝鮮銀行に爆弾なげこむ    ・1932(昭和7)満州国建国後、民生部警務司長(警察長長官に相当)に大抜擢さ        れ、表舞台に登場  〈満映理事長〉1939(昭和14)総務庁次長・岸信介の尽力で満州映画協会(満映)の理事         長に。  〈甘粕の最期〉 (2)辻まこと  〈父・辻潤〉  〈辻潤、天狗になる〉  〈母、野枝〉  〈転機〉  〈爽やかな風〉  〈静かな暮らし〉  〈すぎゆくアダモ〉 (3)伊藤ルイ   〈魔子(長女)〉6歳 → 真子  1968(昭和43)急逝、51歳。   ・1923(大正12)10.5 代準介ら4人の遺児をつれて今宿へ、伊藤家へ入籍、代家に。    〔幸子(次女)〕生後8か月 大杉の妹、牧野田松枝の幼女となり天津へ。エマを幸      子と改名    〔笑子(三女)〕2歳 エマ ⇒笑子 1997(平成9)映画『ルイズその旅立ち』、イ     ンタビュー断る    〔伊藤ルイ(四女」〕11歳 ルイズ → 留意子    (ネストル)生後2か月 → 栄 (翌年8月15日死亡)     ・笑子、ルイズ、ネストルの3人は亀吉とムメのもとに。  〈ルイの結婚〉  〈戦後〉      〈一人立ち〉     ・1953(昭和28)ルイと名乗り始める(31歳)     ・1959  副島人形店に(37歳で弟子入り)・・・何とか経済的に独立できないか     ・1964(昭和39)42歳で伊藤ルイに。  〈死因鑑定書〉      ルイ、1976(昭和51)年、半世紀ぶりに「死因鑑定書」発見される。解剖軍医の      夫人、大切に保存。      甘粕の軍法会議での供述の偽りが明らかに。      大杉栄―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折      伊藤野枝―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折、その上、カラダハ暗赤色      すこぶる」強なる力(蹴る、踏みつける等)が加わった後、扼殺。 ―――      その後、「憲兵隊本部の古井戸に、裸にされ、菰(こも)に包まれ、麻縄で縛っ      て投げこまれていた。     しかもその上から煉瓦が多数投げこまれ、さらに馬糞や塵芥が投げこまれ井戸は完       全に埋められていた。」  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【予審調書での甘粕の発言―『甘粕大尉』角田房子(中公文庫1979、同書の      「あとがき」執筆期日 は1970.7 】では。        「同日(9月16日)8時ごろ憲兵司令部の応接室で今使用しておらぬ室へ森曹長が大杉     栄だけを連れて行き取調べて居ります時に、私が大杉栄の腰かけて居る後方からそ     の室に這入って、直ちに右手の前腕を大杉栄の咽頭部に当て、左手首を右手掌に握       り後ろに引きましたれば椅子から倒れましたから、右膝頭を大杉栄の背骨に当て柔     道の締め手により絞殺致しました。大杉栄は両手をあげて非常に苦しみ約十分位で絶    命いたしましたから、私が携えていたゐた細引を首に巻いて其場に倒しておきまし      た。大杉栄は如何なる訳であったか、絞殺する際少しも声を発しませんでした。     (中略)モリ曹長には同人が調べているときに私が絞殺すると畏怖ことを示してあ       りましたが、私が絞殺する始めには森曹長がボンヤリして椅子に腰かけて居りまし     たが、殆ど絶命するようになって足をバタバタいは     せてゐますので、私が命じて其の足を捕へさせたと思ひます。」(27頁)     このあとに、大杉の時と同じようにして伊藤野枝を絞殺したことが述べられている。     「(中略)子供は私に馴染み分隊に来てからも附きまといひますので、誰かに引取ってや者はないかと冗     談のやうに分隊の者にいつた位で、伊藤野枝を絞殺する前に私の許に来ましたから、隊長室の隣の部屋に     入れて戸をしめ一寸待つてくれといひ置きましたので、子供はそれをきき隣室で騒いで居りましたから、     伊藤野枝を絞殺すると直ちに隣室に行き、手で咽喉をしめ倒しその後細引を首に巻きつけて置きました。     子供を絞殺する際、声を発しませんでした」     「(中略)大杉栄、伊藤野枝及子供の三死体は午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井三上等兵に手      伝はせ憲兵隊の火薬庫の傍にある古井戸の中に、菰に包み麻縄で縛して投込みました」(28頁)   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・1976(昭和51)54歳、死因鑑定書を読む読む。(1976年8月26日朝日新聞に掲載)  すさまじい暴行。「53年かかって、悪い星がわが身にふりかかったような苦しみ―一睡もできなかった。はじめて、  肉親としての実感と悔しさに目覚めた」 「そしてルイは、このような悲嘆―ルイや親族だけのものではなく、ありとあらゆる弾圧を受けた人びとすべての人  のものであると思い至る。そして、両親が虐殺された9.16の日に福岡の地で集まりを持とうと考えた」 【この鑑定書により、《大杉と野枝は肋骨などがめちゃめちゃに折れ、死ぬ前に蹴る、踏みつけるなどの暴行をう け、喉頭部を鈍体(拳或は前膊ゼンハク)にて絞圧し、窒息させたもので、致死後裸体となして畳表に梱包の上、 東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側の廃井戸に投げ捨てたもので、当時七歳の橘宗一(大杉の甥)も同じように 扼殺されていた》ことが判明。 (ルイは)さすがにショックをうけてその夜は眠れず、しかし夜明けがたになって、このような死が待ちうけて いると知りながら、「私たち夫婦は畳の上で死なれんと」と母親に告げていた野枝の覚悟を想い、心を痛めながら もそれを受け入れていた祖母を想いするうちに、同じような弾圧の中でムザムザと生を断たれた人びとや、その家 族の上に想いがかかり、大杉らの死を「私」ごととしてではなく、他の人びとと同じ視点から「優れた先達」とし て見る立場というものが獲得できた。 その直後、20年近く学習会を続けてきた仲間【梅田順子さんたち】と1年に1度、9月16日(大杉らの殺された日) に弾圧死、刑死、獄死された人、現在弾圧されつつあるひとたちのことを学習する会をもとう、ということで、そ の年、つまり76年9月16日から毎年学習会をすすめ、今年が8回目となっている。(『虹を翔ける』1991、10頁)】 ・1980(昭和55)豊前火力発電所反対運動の集会で松下竜一と出会う。その後、熱心な取材の申し出に悩んだ末、  1年半という長期インタビューに応えることに。      「松下さんとの出会いが80年の1月15日成人の日で、その日梅田順子さんに誘われて豊前の土を踏んだのが始まりで、 『ルイズ』が世に出ると共に私も動き出してしまった。北海道から沖縄まで人に招かれ、あるいは自らのプライベー トに、旅は数十う回に及び、ついには86年夏のベラウ、フィリピン、台湾の旅から、1昨年11月から昨年2月初めま での地球一周の旅へと拡がり〔ピースボートの旅〕、請われるままに出した本が三冊となった。〔『海を歌う日』講 談社1985、『虹を翔ける―草の根を紡ぐ旅』八月書館1991、『必然の出会い』影書房1991〕実にこの80年代とは、 私にとっては、劇的な10年であった。【『海を翔ける―草の根を紡ぐ旅Ⅱ』八月書館1998、80頁】      ・1982(昭和57)『ルイズ―父に貰いし名は』松下竜一(講談社1982.3)   ―すべてを)語ることによって、自己の再生、再出発にむかうことに。     60歳のルイ、軛(くびき)から解き放たれたよう  溌剌として自在な行動始まっていく。   好奇心のかたまりのようになって北から南まで、市民運動にたずさわる人びとを訪ね歩く。 ・1985(昭和60)前年に26年にわたる博多人形(彩色職人)の仕事に区切り、年金生活。全国の草の根の市民運動を  応援する旅。  〇野枝の最後の文章を読む。   「自己を生かすことの幸福」  虐殺の5ヶ月前。『婦人公論』   「ルイ、63歳になって28歳の女、28歳の葉はとしての野枝を思いえがくとき、じつに美     しく、輝いて感じる。女たちへの遺書」として書きのこされたのを感じる」  ・1989(昭和64)1.11)1.11 天皇がなくなった(1月7日)4日後、毎日新聞、ルイのコメ    ント。    ルイは4歳で昭和を迎え、その人生は昭和の歩みとほぼ重なっている.          「大正の終わり、昭和の準備期に反軍思想の故をもって両親は軍人に殺された。「天    皇に弓を引いた者の子」呼ばれて育った私にとって「天皇」はいまもなお暗く重い荷物であり恐怖の対象である。「昭和」をもって「天皇」をなくすことでしか、日本のこの恥多き日々からの立ち直りはない。」(『必然との出会い』) 〈天皇を問う〉 〈Tシャツ訴訟の原告団長として〉   三菱重工業等の連続企業爆破事件、大道寺将司―1987.死刑判決確定   支援のためのサイン入りTシャツ差入れ―東京拘置所、拒否。死刑確定者であるが、「差入交通権訴訟」の原告となることで、訴訟を遂行していく権利をもつことに。ルイ、率先して原告団長に。 ・1995(平成7)ルイ 原告側証人として2時間の証言。自身の生育歴、市民運動へのかかわり、三菱爆破とマスコミ報道等について。 「彼らが三菱重工を弾劾したのは― ベトナム戦争に加担、戦争という人を殺すための武器製造を止めさせるための行為であり、故意に人を殺すために三菱を爆破したのではないことは明らかである。それにもかかわらず、マスコミは彼らを爆弾魔と呼び、思想性のない殺人犯の扱いをしている」     ―――  「1923年9月16日、私の両親と従兄弟は関東大震災の混乱に乗じて憲兵大尉甘粕正彦らに虐殺されるのだが、それは彼らが何かをやったから殺したのではなく、その思想によって殺されたのであって、陸軍大臣も事実を知って烈火の如く怒り、閣議では後藤内務大臣も人権蹂躙であるとその不法行為をきびしくなじった。にもかかわらず、新聞記事はそれを報せず、第一報から少年橘宗一殺しのみを集中的に報じている。このように真意を伝えず、センセーショナルな記事として誤った見方を植えつけた。」   「凄まじい迫力の証言であった―それは志半ばで命を断ち切られた伊藤野枝の魂が、ルイの体を通して、現代を撃った言葉であったのではないだろうか」 ・1996(平成8)「4月半ばまで呼ばれるままに全国を駆け回っていたのだが、身体の不調を訴えて」5月に入院。末期がんの宣告。駆けつけた松下竜一に「私はしたいことをしてきたから、もういいよ」と笑って受けいれ、延命治療を拒否。      そして最期は、早くに家を出ていた長男の容典の手厚い看護を受けた6月28日の明けがた、ルイは眠るように息を引き取った。74歳の生涯を、野枝が生まれた今宿の地で閉じた。」 再び、映画「ルイズ その旅立ち」について 先に『評伝 伊藤野枝』の中の、「伊藤ルイ」の章から、いくつもの引用をしたのは、この本で読んで私が初めて知ることになったことが、映画の中で次々に画面と音声と共に立ち現れたからです。まだ、この映画を見ていない人に、この映画の背景を伝えるのに、同書は何よりの手引きだとも思えるものだった。 以下、映画で印象に残ったこと(思いだすままに) ・1972(昭和47)橘宗一の墓碑の発見。名古屋、草むらから。宗一の父橘惣五郎、昭和初期に秘かに建立。墓石の裏に「犬共に虐殺さる」。墓碑の前でルイたち、姉妹他の集いの画面。 ・1976(昭和51)「死刑鑑定書」発見をめぐって。鑑定書を書いた軍医は亡くなっていたが、それを大切に保存していた。 解剖軍医の夫人によりはじめて公開されたのを取材した画面。新聞記事で大杉らが虐殺されて53年後に「死亡鑑     定書」の新聞記事を見たことが契機となり、9月16日に毎年学習会を開くことに。1976年から。  〇松下竜一さんの「草の根通信」に長期にわたって連載された伊藤ルイさんの旅日記は、その前半が『虹を翔ける』   (1983年~1989年/八月書館・91年2月20日刊)にまとめられていたが、後半部分を収録した『海を翔けるー草の根を紡ぐ旅Ⅱ』(1990年~1996年)が刊行されたのは、1998年11月16日で、ルイさんが亡くなって2年2か月後のことだった。   松下さんは1996年6月28日に亡くなったルイさんの追悼文集、109人の文章で編んだ『しのぶぐさー伊藤ルイ追悼集』を97年1月30日に八月書館からまず刊行されたのだ。その『海を翔けるⅡ』の第1章1990年―1991年の1節「≪9・16の会  も第16回となる」に第1回からの内容が「極く簡単に説明されている」が、ここに記しておきたい。ルイさんたちがそれ までやってきた学習会や取り組んできた運動、活動の一端がしのばれるのではととも思い。 第一回 発会 千代隣保館 故井元麟之さんの部落差別によって犠牲となり断罪された「松原五人衆」の話など。 第ニ回 江口喚著『三つの死』を読み、小林多喜二の死と大学病院の解剖拒否のこと。 第三回 この会の世話人たちがかかわってきた朝鮮人孫振斗さんに「特別在留」が出た日で、原口頴雄さんによる童話教育の現状。 第四回 〈福岡部落史研〉の薄井一央さんによる坑内夫人労働者の話。 第五回 〈小郡ニュータウンを考える会〉小野主基雄さん、田篭幸雄さんんの「久留米藩百姓一揆」と農村の現状。 第六回 太田稔君による甲山冤罪事件の話。 第七回 横浜の野本三吉さんによる寿町に住む日雇労働者たちの生活。(1982年) 第八回 東京の下島哲郎さんの沖縄とのかかわありについて(「草の根通信」131号に詳しい)。 第九回 35年間を殺人罪死刑囚として過ごし、自らの努力によって無罪判決をかち取られた熊本の免田栄さんの話。 第10回 合同労組筒井修君のその労働運動の自分史。 第11回 大阪府箕面忠魂碑訴訟原告古川佳子さんの、戦死された二人の兄さんと母小谷和子さんへの想いを通しての訴訟と     のかかわりについて。 第12回 沖縄県石垣島白保の山里節子さんに、白保新空港反対運動の話。 第13回 新潟県東蒲原郡三川村に〈阿賀の家〉を構えて、「昭和電工」によって起きた阿賀野川沿岸の新潟水俣病の患者さんの、阿賀野川と共に在る生と死を映画『阿賀に生きる』として撮っている佐藤真さんの話。 第14回 福岡県築城(ついき)の地域公民館、自衛隊を相手に反戦の闘いを続けている渡辺ひろ子さんの話。 第15回 京都市伏見の音楽教師朴実さんと朴清子さんの話。朴実さんは在日朝鮮人で帰化後本名の「朴実」を裁判によりはじめて獲得した人。 第16回 南アフリカのANC駐日代表ジェリー・マッイーラ氏。(1991年) 〇第七回の集い、に横浜寿町の野本三吉さんの名前を見て驚いた(1982年)。1972(昭和47)年、私の初めての図書館の働き場となった千葉県八千代市の図書館を2年で退職し(1975.3)、私はアルバイトで費用をため、日本の外に出ることを考えていた。その候補地として考えていたのが、イスラエルのキブツだった。多分1972年5月8日のテルアビブ空港乱射事件が起きる前だったと思う。私はキブツ協会を訪ねて、応対してくれた職員の人、私よりはいくつか年上、30歳前後の人と話をした、岸田哲さんというキブツでの体験のある方だった。確かその時、私はそこで発行されていた『月刊・キブツ』のある号を入手した。それには3人の鼎談が掲載されていた。山尾三省、野本三吉、原康夫の3人、そして司会が「月刊・キブツ」編集部 岸田哲氏。いずれの人も私が初めてその名前を見る人で、それぞれがどんな人か、私は何も知らなかった。三人の話の中では、野本三吉さんの話が私の中に飛び込んできて、私の心に深く刻まれるものとなった。その頃、私は図書館を私にとって、生涯の場としては考えていなかったが、図書館の在りようとして、そうある(べき)ものとしての姿が、野本さんの働く寿生活館(横浜市民生局の管轄)の図書室にあると感じた。〈私にとっての、図書館の原形、あるべき形) 野本「生活館では図書室を開いているんだけれど、他の場所と違って、名前と年齢とどこに泊まっているかがわかったら、すぐにどんどん貸し出すことにしている。だから、月に六十冊ぐらいは亡くなっちゃうわけ。だけど逆に。「こんな無担保で本を貸すというのは、オレは始めてだ」と酔っぱらいながらいう人がいたりして、「信用してもらって、絶対にオレは返しくる」というんだな。そんな人が一人でもあると、なくなったって一向構わん。そんな風なつながりが段々広がってゆくとよいと思ったりする。 山尾「面白いですよね。本が一冊もない図書館なんていうのは。(笑) 野本「この間、ぶ厚い『広辞苑』がなくなったんだ。しばらくしたら、黒メガネをかけて大きなマスクをかけた人がね、ことさら帽子をまぶかにかぶって、「ここに『広辞苑』があったけど、どうした。」っていうんだ。あ、この人だなと思ったけれど。「みんなが読みたがっているけど、なくなちゃったんだ」といったら、「あんなもの売ったって売れないじゃねえか。オレはせっかく読みにきたのに。」とか、さかんにいっていたんだ。 それから三日後、「川っぷちに新聞紙にくるんだ『広辞苑』が落ちていた」」と持ってきてくれた人がいたんだけれど、それがその人なんだよ。(笑)大体顔の輪郭でわかるんだよ。それで、どうもありがとうございました。本当に助かる、とぼくは一生懸命にいったわけだ。それで彼も安心して自分の名前やら何やらいうんだよな。 そういう感じ」で、実に不思議なつながりなんだな。ああいうところでは、本物のつながりなんだな。本物のつながりができるかも知れないと思うんだな。これからどれだけあそこで持続できるか、一つの賭けになるな。 野本「公的な社会のインサイダーとでもいえる地方公務員になって、やはり中央政府に対する地方自治の問題を考えざるをえなくなっているわけです。すでに完全に中央集権の一環として組織されてしまっている地方自治体を内側からつくりかえていく努力をしなければならないと思っている。 もともと地方自治というものは、顕在化した共同体と同じような内容を持っているわけです。とくに、ぼくの民生というような仕事でいうと、社会福祉であり、公的扶助なわけ。相互扶助の精神をもっと生かすべきところだな。・・・・・      「今月からこの「生活者」という個人誌を出しはじめたんです・・・・・・・・・・・・・ これを出し始めたのは、〉自分は一つのところを掘ってゆき、また他の人は違うところを掘っているわけで、それぞれがやっている営みをつなぎ合わせてゆく一種の開かれたコミューンをつくってゆきたいと思ったからです。こういった個人誌というのはある種の手紙の代りなんだけど、ぼくが今こうしているというのをパァーッと出すと、どこかからか反応がある。すると、体は離れていても自分の心が向うへ旅し、向うの心がこちらへ旅してきたというコミュニケーションが成立するさ。今のように物理的な旅ができなくなった時に、こういう型式が出てきたわけです。これも一種の共同体の顕在化した姿だと思う。 この個人誌もいつまでつづくかはわからないけど、今の気持ちとしては、小さいさいものだけれどものだけれど、死ぬまで続けたいと思っています。 (『いのちの群れ』社会評論社1972年12月10日初版、1974年7共生共死の原資―に収録) ――― この一節が私の生涯の歩み伴走してきたことをあらためて思う。 梅田順子さんのこと 映画「ルイズ その旅立ち」を見ていて驚いたのは、伊藤ルイさんを偲ぶ会で発言する梅田順子さんが現れたことだ。私が梅田さんにお会いしたのは1980年代の半ばころだっただろうか。 当時,博多駅前4丁目にあった財団法人(232㎡の図書室〈記念会館図書室〉とお年寄りのための無料の施設及び有料の会議室)に勤務していた私は、住まいの近くに住んでおられた梅田さんを生協の利用を通して知りあったのだと思う。その頃、私は人口100万人をこえる福岡市で、市立図書館が1館しかなく、年々歳々、図書館をめぐる状況がひどくなると思っていて、福岡市の図書館のあり方を考える市民の活動が必要だと切実に考えだしていた。そんなさなかに、梅田さんにお会いした。梅田さんがそれまでどんなことをしてこられたか、当時どんなことを されていたか、私はまったく知らなかったが、図書館を考える市民の会の代表は、この人だと思い、梅田さんにお話をした。そのやりとりの次第の記憶はないのだが、梅田さんはすっと受けてくださったように思う。穏やかで心深く大きな人、深く考え静かに行動される人ととの出会いで「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。1987年のことだった。考える会では、 月1回の定例会や「図書館の話の出前」、そして福岡市の図書館政策づくりに取りかかった(1年ぐらいかけて『2001年われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』1988年1月24日刊行。福岡の図書館を考える会)。その間、講演会の開催や図書館見学会などを行った。その活動を梅田さんは深く支えてくださった。 今から振り返ってみると、私が梅田さんとお会いした当時は、先に記した伊藤ルイさんが梅田さんたちとはじめた〈9・16の会〉が第11または第12回の集いををされていたころではないかと思われるが、図書館を考える会の活動をしている時に、それらの活動について、また伊藤ルイさんのことも、お聞きすることがなかったと思う。ただ、福岡市の公民館が梅田さんたちの学習の場であったことをお聞きしたかもしれないが、詳しくお聞きすることはなかった。思いも寄らないことだったが福岡県の苅田町雄で町立図書館を新しくつくるという動きが生まれ( 「図書館の話の出前」で出かけたことがきっかけとなり)、1988年12月1日から、私は苅田町の職員となり、図書館開設の準備に当ることになった。(図書館開設準備室長)新館は1990年5 月に開館したので、開館まですさまじいスケジュールであった。苅田町立図書館には1995年3月まで、6年4カ月在職。この間図書館の開設準備や開館後の運営に時間を費やし、苅田に行ってからは、梅田さんとゆっくりお話する機会をもてなかた。これも今になって知ることだが、〈9・16の会〉の活動をはじめ、梅田さんのルイさんと行動を共にする活動や梅田さんたちのグループの活動などで(九電株主訴訟で実質的な事務局長という役柄―『海を翔ける』50頁)、私が苅田にいた期間も、梅田さんはとても忙しい時を過ごしておられたのだった。苅田の後、私は1995年4月から滋賀県の能登川町の図書館づくりに関わり、12年館その地で過ごし、2007年5月に能登川の図書館を退職して福岡にかえってきて、梅田さんとお会いし、折々に野枝さんの墓石のことなど、少しばかりお聞きすることはあったものの、 ルイさんと共に行動されたお話などもゆっくりお聞きすることはなかった。『虹を翔ける』、『海を翔ける』のルイさんの「草の根を紡ぐ旅」を通して、随所でルイさんと行動を共にされていた梅田さんの姿を底に見て、今にして目を瞠るばかりの私である。 コロナ前、梅田さんが新しい生活に入るにあたり、たくさんの梅田さんのご蔵書の取扱いについてのご相談があり、ひとまず「風信子(ヒアシンス)文庫」でお預かりすることとし、トラックにいっぱいの本を積んで、二丈の地に。ご本の取り扱いについて、お任せいただいたことから、本の出前でも活用させていただいている。前々回のノドカフェへの本の出前では、 「伊藤野枝、伊藤ルイをめぐって」のタイトルのもと、『伊藤野枝全集』やルイさんのサイン入りのご本や『しのぶくさ』、『向井隆の詩』、松下竜一の本ほか、梅田さんたちの市民運動から生まれた思われるパンフレットなどが棚に並んだ。これからも『梅田順子文庫』(梅田さんは仲間たちとグループ「カナリー」という会をつくっておられた。仮称「カナリー梅田順子ぶんこ」はどうだろう?)から、出前をしていきたい。 手紙の人 伊藤野枝 『評伝 伊藤野枝』では、随所に引用されている文章で、もうすでに亡くなっている、会うことも叶わない人、一人一人が今、眼前に生きている人のように立ち現れてくるのをかんじた。それまでしることのなかった和田久太郎や村木源次郎という人が、 目の前に浮かんでくる。辻潤が語る野枝評にに心うたれる。辻まことをこのように晩年まで描いてくれた著者に読者の 一人として快哉の声をとどけたい。 そして、野枝の手紙には驚かされた。野枝という人は手紙の人だとの想いがこころに浮かんだ。 1909年、14歳の野枝が東京に住む叔父、代準介に3日にあげずだした、用箋に5枚、10枚の分厚い手紙、それを見た代の燐家の村上浪六(大衆作家)はその手紙を見て、その迫力ある文章、男のような文章に感嘆、『(東京に)お呼びなさい。この子は見所がる。文章といい、文字といい、とても13,14の娘のものとは思えない」 そして平塚雷鳥にだした最初の手紙、また時を経て「『青鞜』を任してみてくださいませんか」との手紙。 さらに1918(大正7)年、時の内務大臣、後藤新平に宛てて出した」巻紙4メートルの書簡。これについては、ブログの号を改めてかくことに。