2020年5月4日月曜日

水路の補修 自然農の米づくり(2) No.51

草や虫を敵とせず、肥料もやらない、自然農で大切な3つのもの。
日の光と土と水。いずれも天からの授かりものだが、手をこまねいていては、水は手に入らない。田畑に水が届くためには、先人たちの長い長い営みがあってのことだ。そして日々の水とのかかわりが必要だ。

5月3日、私のたに水を引き込む水路の補修日、久しぶりに降った待望の小雨降る中、9人が集合する。数年前までは山の中腹にある堤のところまで行き、堤の回りの草や竹を草刈り機でかっていたが、今は家から2,3キロ先の取水の中継地点からの作業となっている。
[ 10時~12時50分(3時間弱)】
            中腹の取水の分岐の所まで登っていく。
           途中の水路が土砂や草木で埋まっている
まず、上まで登る



埋まった土砂を鍬やスコップでかきだす
上の水路の清掃、補修が終わり、ここが中ほどの分岐点


一方は下流、他の地域に

ここから、わが方に
        再び分岐点、右下に分岐、分水。わが方はまっすぐの方向。

林の中へ
道路をくぐり、林の中へ



林道より高いところを

石垣の右上を水路が走る

水路に土砂が埋まり、溢れた水で決壊した箇所を補修

さらに、土砂をかきだして下に


あと少し
分岐点
田んぼへの取水口

田んぼ;これから、草刈りと畔塗(あぜぬ)り
雨がやみ青空がうれしい

玄関口で

マリンの出迎え
さあ、つぎの作業だ

※写真撮影について
作業中は写真をとれず、終わってから、途中の所まで写真を撮りに行った。


                                    甘蔗健仁さん、一心くん、父子で種おろし
            5月2日、夜半から翌日にかけて待望の雨

一心くん、堂の入った身のこなし

井上ひさしさんの命日にちなみ読み始めた本のこと(2)No.50

4月9日、井上ひさしさんの10回目の命日にちなみ読み始めた『井上ひさしの読書眼鏡』(中央公論新社2011、10.10)について、4月9日の日から書いてきた。先にも書いているがこの本は、井上さんが2010年4月に永眠されて半年後の2011年10月10日に出版されている。内容は3つである。同書末尾の「初出紙誌」によると

1.井上ひさしの読書眼鏡『読売新聞』2001年1月28日~2004年4月25日
2.米原万里の全著作 米原万里展「ロシア語通訳から作家へ」図録、2008年10月、
  NPO法人遅筆堂文庫プロジェクト
3.藤沢さんの日の光 文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』2005年9月、文
  藝春秋

1の『井上ひさしの読書眼鏡』が本書のタイトルであり、分量も本文195頁中、153頁と約8割を占め、編集者にとって、井上さんが亡くなる9年前に、読売新聞に連載された「井上ひさしの読書眼鏡」を遺稿として出版することが出版する主たる思いであったと思われる。その際、編集者としての力量、センスが問われるのが、井上さんの他の文章の中から、何を選び出すかだ。2と3を私自身は本書で初めて読んだ。そして、編集者の名前は本書のどこにも記されてはいないが、あらためて編集者の力、著者である井上ひさしさんへの思いの深さを感じた。2つともに内容が素晴らしい。

2は2006年10月、惜しまれながらなくなった米原万理さんの人生を振り返る初めての展示会が、『米原万理展「ロシア語通訳から作家へ」』として、NPO遅筆堂文庫プロジェクトの主催で、シベールアリーナ&遅筆堂文庫山形館ギャラリーで行われた際に(2008.9.16~12.28)、米原さんが生まれてからなくなるまでの56年間(1950~2006)のすべてがわかるようにたくさんの写真と共に、米原さんの全著作23点が、井上ひさしさんの解説付きで展示された。井上さんの解説文はその時に作成された図録に収録され、そして本書に掲載されて、より多くの人が目にすることができるようになった。

(『米原万理展はその後、巡回展として各地で行われている。川西町フレンドリープラザ遅筆堂2009.1~2、仙台文学館2009.2~3、鎌倉文学館2011.4.29~7.10;米原万理公式サイトによる。同サイトには、米原万理のプロフィール、書籍一覧、ゆかりの人たちの思い出話を掲載)

井上ひさしさんの米原万理全著作、23点の解説の文章は、それぞれの時期に書かれたものを集めたものだが、いずれも短い文章で、197~362字と、400字詰め原稿用紙一枚以内で書かれている。短文であるだけに、一層米原万理さんの人と作品の特徴を鮮やかにえがきだしたものとなっている。それぞれに見事に簡潔している文章をさらに短くするのは愚の骨頂であるが、私自身の心覚え〈実はコトバの勉強・言葉あそび〉と、井上さんの文章の口吻の一端でも伝えるべく、以下に紹介しておきたい。

米原万理の全著作
『わたしの外国語学習法 独学で外国語を身につけようとしている人のために』
(カトー・ロンブ =著、1981年9月、創樹社刊)
卓(すぐ)れた翻訳家でもあった米原万理が、世界中の書棚に溢れている外国語学習本の中から、選び出して翻訳したこの本は、類書とは違って、語学習得の技術を物語にして、うんとおもしろく会得できるように書かれている。逸話(エピソード)や笑話(ジョーク)をふんだんにちりばめて、読者を言語学の奥義(おうぎ)へと誘いこむ。
16の言語を独学で身につけたハンガリーの名通訳者に、彼女は自分の分身を見つけたわけだった。

『マイナス50℃の世界-寒極の生活
(毎日小学生新聞=編、1986年7月、現代書館刊)
冬のシベリア―釣られた魚がたったの10秒間でコチコチに。極寒の大陸を2か月間、TBS取材班の通訳としてカメラとともに東へ西へ。帰国後、毎日小学生新聞に壊れて、その信じられないような体験を、こんな極寒の中でも人間がきちんと生きているのだという事実を、平易な文章で、しかしおもしろく深く書いた。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か
(1994年9月、徳間書店刊)
本邦初の本格的な通訳論〈二つの言語がたがいにぶつかって火花を散らし、そしてすぐに結ばれ合う緊迫した通訳の現場で、文学にも言語学にも精通した著者は、たくさんの原則や規則を発見し、持ち前の才気と諧謔で一気に書き上げた。〉に、満天下が騒然となった。

魔女の1ダース
正義と常識に冷や水を浴びせる13章
(1996年8月、読売新聞社刊)
米原万理の独壇場、同時通訳業界の報復絶倒的裏話の集成。
〈自分にとって美味しいものは、他人にとっても美味しいに決まっていると堅く信じて疑わない人々は〉手に負えない・・・、真の国際交流をめざすなら、自分の流儀は相手のは流儀とはちがうというところから始めなければならない。〈米原の生涯にわたる持論の一つ〉

ロシアは今日も荒れ模様
(1998年2月、日本経済新聞社刊O
〈爆笑しながら読むロシア現代史〉ソ連崩壊前後からの10数年間、通訳の仕事を通して、政府要人(ゴルバチョフやエリツィン)の通訳として、「天使と悪魔が共に棲む国」のもろもろの事情を鋭く観察。激しく揺れ動くロシアの背後に、繁栄をきわめながらも没落の気配を漂わせている「日本の寒々とした現在」に心を痛めている。その目の確かさ。

ガセネッタ&シモネッタ
(2000年12月、文藝春秋刊)
同時通訳の現場は〈喜劇の現場〉。愛すべき仲間たちのドタバタ騒ぎを活写しつつ、ダジャレや下ネタを材料に、人間の言語活動の本質に迫る。「鉄のカーテン」のくだり、注目!〈米原の取材法がよくわかる〉

嘘つきアーニャの真っ赤な真実
(2001年6月、角川書店刊)
プラハのソビエト学校で机を並べていた親友3人の、30年後の消息を綱渡り的に探し求める。〈国家〉と〈国〉とははっきりちがうこと、国境を越えた友情の結びつきが次の時代を育てるかもしれないことをたしかめることに。すばらしい、そして懐かしい、地球規模の友情物語。

真夜中の太陽
(2001年7月、中央公論新社刊)
彼女の文章が今も新鮮なのは。彼女がどんな立場から書いていたかによる。〈ひとことでいえば、政官財の集団がさまざまなトリックを仕掛けて、国民の税金をほとんど横領している立場で書いていた。〉彼女の見取り図では、世界中いたるところがそうなのだ。
〈20世紀末から21世紀初頭にかけて、いくつかのメディアに連載したもの、いずれも今現在の日本と世界の状況を、私なりに解釈しようと試みたものばかり〉(中公文庫「あとがき」)

ヒトのオスは飼わないの?
(2001年11月、講談社刊)
どんなネコ嫌いイヌ嫌いでも、ここに描かれているイヌ二、ネコ四、ヒト二によって構成された聖家族の日々を読んだあとは、・・・。
脇役の獣医アラカワ先生の存在もおもしろく、これはイヌネコとヒトとの合作による大笑いの、そして涙ぐましい友情物語の傑作である。

旅行者の朝食
(2002年4月、文藝春秋刊)
米原万理の早食いは、通訳業界でも評判だった。・・・ところがそれでいながら、だれよりも早く食べ終えているのは彼女だった。
食べ物についてのエッセイが、みごとな構成のもとに集められているが、
で、「ウォトカをめぐる二つの謎」を読めば〈その理由が〉よくわかる。

オリガ・モリソヴナの反語法
2002年10月、集英社
名エッセイストから本格的な小説家への歩みはじめ。実験的な小説技法、マトリョーシカ(入れ子式の木製人形)の構造を小説にとりこむ。第二、第三、第四と新しい物語が現れるたびに、独裁者とその取り巻きたちの妄想が作り上げた〈国家〉なるものの壮大なウソが暴かれて行く過程は圧巻。「ヒロインの掏(す)り替え」という大胆不敵な手法に驚かされる。だれもが次の小説を期待したが・・・。叶えられることはなかった。

真昼の星空
(2003年10月、中央公論新社刊)
まことに残念なことだが、「見ても見えず聞いても聞こえず」というのが人間の日常」〈現実には存在するのに、多くの人の目には見えないものがある。逆に圧倒的な現実と思われるものが、単なるこけおどしだったりする。目に見える現実の裏に控える、まぎれもないもう一つの現実。〉(中公文庫版12ページ)
つまり―「この世の真実を抉り出す」、それが自分の仕事だ、それも笑いをもって抉り出す―彼女はそう心を決めていた、その決心が題名にあらわれている。目をこらせば、たしかに昼でも星は見えるのだ。

パンツの面目ふんどしの沽券
(2005年7月、筑摩書房刊)
米原昶(いたる)、父の生き方が日本男子の手本、父が愛用する越中フンドシを尊敬した。越中フンドシを通して日本固有の価値を見直そうとした。「人間の下半身を覆う布切れ」から見た世界文化生活史の決定版。越中フンドシも、彼女の研究心もタダモノではなかった。

必笑小咄(こばなし)のテクニック
(2005年12月、集英社新書)
米原万理の強力な武器の一つが小咄(こばなし)だった。〈笑い話、ジョーク、アネクドート、ショートショート・・・・・・名前はいろいろだが、本質は同じ。短くて笑わせてくれる話〉(8ページ)のこと。通訳現場の緊張を、無関心な読者の心の鎧を、爆笑物の小咄で一瞬のうちに溶かして、いきなり相手のふところに飛び込んで行く。それが彼女のやり方だった。笑いこそが彼女の最大の武器。つねに笑いを笑わせる感覚の手入れを怠ることのなかった彼女の、これは虎の巻のような一冊。

他諺(たげん)の空似(そらに) ことわざ人類学
(2006年8月、光文社刊)
エッセイストとして七つの武器を駆使。①切れ味のいい小咄②爆笑哄笑ものの下ネタ③鋭く深い政治批判④ヨーロッパ史とロシア史についての底知れぬ蘊蓄(うんちく)⑤プラハでの少女時代⑥同時通訳時代の経験、そして七つ目が、おびただしい数の諺のつるべ打ち。短かった生涯の最後のころ、万国の諺を、あれこれ比べる作業に着手、すぐれない体調をおして一巻に。比較人類学分野での一種の達成になっていたことを知って驚く。

うちのめされるようなすごい本
(2006年10月、文藝春秋刊)
その全生涯にわたって米原万理は本を読み続け、そして信じられないほどたくさんの書評を書き続けた。彼女の全書評を集めた本書の特徴の一つは、いつも前のめりに爆心(ばくしん)する文章の力強さである。読者が読んで得をしない本は絶対に取り上げないという態度。気に入った本、読者に薦めたい書物だけを取り上げた。つまり惚れ抜いた本にだけ書評を書く。力強い文章も、また核心を鋭く見抜く焦点の深さも、彼女のこの態度から生まれた。

終生ヒトのオスは飼わず
(2007年5月、文藝春秋刊)
鬼籍に入ってから編まれたエッセイ集。『ヒトのオスは飼わないの?』の続編と家族について書かれた文章。タイトルは「ご自分の死亡記事をお書きください」という注文に応じて綴られたもの。ほんとうにイヌネコを愛した一生だった。そして仕事を愛し、自由を愛し、家族を愛して、愛にあふれた一生だった。

発明マニア・・・・全文引用
(2007年3月、毎日新聞社刊)
「日々の暮らしが少しでもよくなるために、一人ひとりがどのっように生きたらよいか」
米原万理が両親から引き継いだ人生の課題は、これであった。【井上ひさしさんが、また、まさに、そのようであったと思う】
病いの床について動けなくなった彼女は、「うんとセコイ発明でこの世の大問題を解決できないだろうか」と夢想する。彼女が自分で描いた挿絵を添えてここに提出した一一九の発明は、いずれも愉快かつ珍妙だが、しかしやがてその奥から、読者の耳に、「愚かなくせに他人を踏みつけにして恥じない連中を、どうしたら正道に引き戻せるか」と、必死に叫ぶ彼女の悲痛な声が届くはずである。

米原万理の「愛の法則」
(2007年8月、集英社新書)
講演の名手。〈なによりも声がよく通ったし、発語は明瞭。常時一千はたくわえている小咄を連射して客席を沸かし、ノリのいい話ぶりで聴衆に時間のたつのを忘れさせた。〉
講演にはいつも彼女の生涯の主題である〈人間はつねに他人と意思を交わし合いたいと願っている存在である〉という思いが込められていた。本書にはその講演録が、四編収められている。

マイナス50℃の世界〈復刻改訂版〉
(2007年1月、清流出版刊)
1984年から翌年にかけての2か月間、米原万理はTBS取材班通訳としてシベリア大陸を旅した。そのときのことは処女作『マイナス50℃の世界』ですでに報告。本書はその大幅な改訂版。実は取材班に作家の椎名誠氏と写真家の山本皓一(こういち)氏が加わっていた。本書には、椎名氏の珠玉の文章と、山本氏のはっと息を呑むような見事な写真がたくさん載っている。〈世界のどこに出しても誇れる日本人女性〉と椎名氏が称(たた)えた米原の睫毛に、こまかく凍りついた氷柱の列が美しい。

心臓に毛が生えている理由(わけ)
(2008年4月、角川学芸出版刊)
すぐれた書き手のもとには、ひとりでにすぐれた編集者たちが集まる。これが文筆業界の基本則の一つである。米原万理も優秀な編集者に支えられて仕事をした。彼女が世を去ったあとも、編集者たちは、目には見えないが、実に組織立ったやり方で散らばったエッセイを集め、ぞくぞくと本にしていった。本書もその一冊である。・・・母国を愛し続け、日本語を使い続け、そしてよく柿続けた。それが彼女の一生だった。
【思いだすこと2つ。1、「編集者の仕事について、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書で井上ひさしの文章:「担当する作家たちからじつに多くのことを学び、やがて、秀れた批評家よりも鋭く深く、その作家の心のなかの真実や、彼の創作の秘密を摑む。それが編集者なのだ・・・。」『井上ひさしの読書眼鏡』「苦笑の人」清張の本質。2.スタンダールの墓碑銘;生きた、愛した、書いた)

ロシア語版 父と暮せば
(2008年8月、こまつ座刊)
電光石化の早業だった。万理さんはあっという間に翻訳してしまったんです。・・・念のためにロシア人にも見てもらってちょうだいとおっしゃるので、・・・一ヶ所も手を入れるところがない、すばらしい台本ですという感嘆の声・・・。モスクワ劇場では。すばらしい反響でしたよ。モスクワ市民は万理さんのロシア語に、始めから終いまで、心を揺さぶられつづけていました。」(井上ひさし談)

言葉を育てる 米原万理対談集・・・全文引用  
(2008年9月、ちくま文庫)
米原万理の行くところにきまって笑いが興(おこ)った。彼女の生涯の座右銘は「振(ぶ)らないこと」。いい子振らずにいつも率直に、正直にふるまった。話題は豊富だった。冗談(ジョーク)をたくさん仕込んでもいたし、物事(ものごと)を見る目の角度が常(つね)とはちがっていた。この角度のおもしろさが笑いを生み出していたのである。
対談の相手も彼女の率直さにすぐ感心して心を開いてくれた。持っているものを惜し気もなく外へ出してくれた。
このようにして彼女が行った対談は一つの例外もなくおもしろくて有益な「作品」になった。

「米原万理の全著作」23編について、井上ひさしさんの解説文をより短くして、紹介しようとした無謀な試みをして、あらためて思ったのは、よくも少ない字数で見事に米原万理さんの人と作品の特徴をうきぼりにしていること、そこには、米原さんが「生きること〈書くこと〉」で何を大切にしてきたか」が鮮やかに描き出されているが、それが、そのまま、井上ひさしさん自身の生き方、作品と重なっているように思われた、ということである。

さいごの、「藤沢さんの日の光」について

これは、2005年9月の文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』の特集号に、井上さんが寄せた文章。昭和48年(1973年)8月、直木賞贈呈式で、「素直に懐かしげに受賞の挨拶をする藤沢周平さんを会場の隅から眺めてから三年後、オール読物新人賞選考会の席上で、敬愛する同郷の作家、藤沢さんと初めてことばを交わす。「こうして藤沢さんとの付合いが始まった。付合いといっても、出会ったときに一、二分の立ち話、故郷の新聞に乞われて対談、わたしの芝居を観にきてくださったあとのコーヒー茶碗を間においた二、三十分の雑談といった淡いものだったが、・・・」

『蟬しぐれ』で井上さんがひかれるのは、主人公、文四郎の「不遇感」とそれなのに作品から感じる「清々しい哀しさをともなった突き抜けたような明るさ」だ。
「誤読という読者の特権をかざすなら、このときの文四郎は、確かに手術前後の藤沢さんである。しかもわたしたち読者は、たいていなにかの意味で不遇感をもっているから、文四郎こそわたしのことだと気合がはいる。・・・」
「いったいどんな仕掛けになっているのか。そのなぞを解く手がかりの一つが、じつにしばしば現れる「日の光」の様子である。」として、引用の文章がつづく。
「〈じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。〉〈西にかたむいてもまだ暑い日射しが河岸通りに照りわたり、〉〈日の位置はいよいよ低くなって、〉〈粗末な門のあたりにはまだ強い夏の日射しがはじけていた。〉など、人物の心理を自然描写に転写する名手の藤沢さんが、文四郎の心と体の動きを描くときは、すべてといってよいほど、注意深く日の光をからませている。不遇の谷間に突き落とされた文四郎を、日の光がたえず励ましているようだ。それで明るいのだ。そして事件は主に、ほの光の失われた夜におこる。この配分のみごとさに、何度読んでも唸ってしまう。

そうして井上さんの文章は、『蟬しぐれ』の結末の名場面に、井上さんが「気になってしかたがない」箇所のことを、たまたま芝居を観にきてくださった藤沢さんに問いかけ、「珍しく迷惑顔」になった藤沢さんが、「さあ、わかりませんね」と応え、「いやなことを訊いてしまったなと後悔したが、その後悔はいまもつづいている。」と、結ばれている。
知ったかぶりをすることなく、気になっていた要の問を著者にして、いまだに「「いやなことを訊いてしまった」と後悔しつづける井上さんに深い共感と親しみを覚える。

「日の光」についていえば、ここでの話とそれるけれども、私が米作りを始めて、最初から種をおろし、作りつづけているのが、「日の光」だ。自然農を始めて、日々思い知らされるように思っているのが、自然農では肥料を一切やることなく、水と土とそして日の光で、たゆみなく命である実りを授かるということだ。不思議さと天からの授かりものという思いをいつも抱いている。藤沢周平の作品はいまだ読んだことがないが、「日の光」をどのように描いているのか、日々対面する「日に光」がどのようなものであるかをより深く感じるためにも、『蟬しぐれ』から読んでみたいと思う。












(番外編)(宮澤賢治学会地方セミナー:2004.5.4)No.34 を参照  youtube動画

thttps://youtu.be/ktly5CzQFFU












2020年4月30日木曜日

『中村哲さん講演録』(ピースウォーク京都)続き(3)   No.49

ピースウォーク京都の会が2002年5月に編集、発行した『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告』(以下,『講演録』という)について、これまで2回にわたって書いてきた。(No.42 ,No.44 「質疑応答」に感動)今回は、あといくつかのことを書き加えておきたい。

ていねいな「本」としての作り方に感心

これまで述べてきたように、ピースウォーク京都の会では、2001年12月9日、京都ノートルダム女子大学のユニソン会館で「中村哲さん講演会」を開催し、その『講演録』を翌年の5月19日に発行している。講演会当日は、会場となった「会館の前には、朝早くから長い列ができ」、講演が始まる午前十時には、「小学生からお年寄りまで様々な世代の二○○○人もの人たちが、しーんと静かな空気のなかで中村さんを待ってい」たと、「はじめに」のなかで、「ピースウォーク京都」の名前で書かれている。

そこで行われた中村さんの講演と会場での質疑応答の様子については、先の2回のブログで
ふれたが、『講演録』(ぜんぶで194頁)のうち、講演が86頁、質疑が46頁で、これに講演会当日、アンケートに寄せられた「参加者の声」10頁(熱心な書きこみが多く、その一部を掲載)の頁が続き、さらに「資料編」」(32頁)が収録されている。「参加者の声」と「資料編」で、全体の5分の1強を占めている。どんなに中村さんの講演が、会場参加者はもとより、「ピースウォーク京都」のメンバー一人ひとりに深い感銘を与えたものだったかを物語っているように思う。驚かされたのは、その本のつくり方だ。

一人ひとり参加者の肉声を伝える「参加者の声」の頁のさいごには「講演会報告とお礼」として、つぎのように書かれている。
「講演会では、会場から約二○○万円のカンパがペシャワール会「アフガンいのちの基金」に寄せられ、翌日、ペシャワール会に送金させていただきました。ご協力ありがとうございます。
この講演会は、会場を提供いただいた京都ノートルダム女子大学をはじめ、運営資金カンパを寄せられた方々、運営に力を貸していただいた方々のご協力によって成り立ちました。目に見えるもの、見えないものすべてが無償で持ち寄られたことに、心より御礼申し上げます。
※この講演録は講演会運営のために寄せられたカンパから運営実費を差し引いた残金によって作られました。当講演録の売り上げは全部ペシャワール会に寄付させていただきます。」
ここには、一人ひとりの美しい行為がある。それはまた、中村哲さんとペシャワール会の行動によって引き起こされたものだと思う。

「資料編」は「年表」「アフガンいのちの基金報告」「緑の大地計画」「中村哲氏、著作紹介」「中村哲氏、略歴」「ピースウォーク京都の井戸端図書館」「ペシャワール会連絡先」からなっている。中村さんの足跡、そしてこれからの活動を、初めての読者にも広く深く伝えるものだ。できる限り中村さんの言葉に耳を傾け、中村さんの行動に突き動かされ、その行動に寄りそおうとする一人ひとりの行いの集積ともいえる。

「年表」は「アフガニスタン、中村医師、ペシャワール会を巡る略年表」と題され、「BC4世紀 アレキサンダー大王、中央アジアを征服」から始まる。中村さんが登場するのは、1978年から。
4月「アフガニスタンに共産主義政権が誕生」のあと。
6月「中村医師、福岡登高会のティリチ・ミール遠征に参加し、初めてパキスタンの地を踏む」とある。以後、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)による、中村医師のペシャワールへの派遣決定後、
1983年6月には「中村医師、岡山県の国立療養所・巴久光明園でハンセン病に関する研修を受け、続いて英国のリバプール熱帯医学校で研修」。そして
同年9月、「募金活動などを通じて中村医師を日本から支援する組織として、ペシャワール会が福岡市で発足する」
1984年5月「中村医師、ペシャワール・ミッション病院に着任し、ハンセン病の治療にあたる。中村医師、このころよりハンセン病棟の改善に着手する。まず、病室の一部を改造して手術が行える区域を作った」
以後、アフガニスタンの情勢と中村さんの現地での活動が記載され
2001年9月11日「米国ニューヨークの世界貿易センタービルに民間航空機が突入する」
   10月7日 「米英軍がアフガニスタンへの空爆を開始する」
      PMS(ペシャワール会・メディカル・サービス)、カーブルにおいて食糧 
      配給を行うことを決定。「いのちの基金」が開始される。
12月22日 「アフガン暫定政権発足」
12月 PMS,「緑の大地」計画、原案を発表。

中村哲さんの歩みと京都での講演会がどんな緊迫した状況のなかで行われたものであるかがよく見えてくる年表である。

「アフガンいのちの基金」報告は、ペシャワール会ホームページより、抜粋、再構成したものを掲載していて、同じく「アフガンいのちの基金」第二期計画 原案である「緑の大地」計画(2001.12.27)を掲載し、ピースウォーク京都のメンバーによる周到な取り組みに驚かされる。

「中村哲氏 著作紹介」では、4冊の本が紹介されている。それぞれにリードの言葉でその本の概要を紹介し、それぞれの本からの引用の文章を加えている。引用に当たっては「中村氏の各著作において主流となる出来事は数行の引用ではお伝えすることができません。そのため、ここでは数行で抜き書きできるような部分だけを載せました。詳しくは著作をお読みください。」として、著書の版元である出版社、石風社の住所、電話、FAX番号を記載している。「数行で抜き書きできるような部分だけを載せた」とのことであるが、スタッフが時間をかけ、思いをこめて引用された文章がそこに収録されている。ここでは、4冊の、各リードの文章と引用文につけられた見出しのみを引用しておくことにする。

〈中村哲氏 著作紹介〉
1『ペシャワールにて』 ―癩(らい)そしてアフガン難民
 石風社 1989年3月 初版発行 1992年3月 増補版発行 1800円+税
 中村氏がペシャワール・ミッション病院に着任するいきさつから始まり、異文化の中で病院施設の改善、新事業の立ち上げと働いた最初の七年を描く。増補版では湾岸戦争開始までを追加。当地の歴史、風土、文化にも詳しい。(以下、抜粋)
―ペシャワールを語る
―アフガン人医師、対日中のことば
―「現地協力」の意義

2 『ダラエ・ヌールへの道』アフガン難民とともに
 石風社 1993年11月 初版発行 定価2000円+税
 ソ連軍撤退とそれに続く内戦の激化の中で、中村氏はアフガニスタン国内での診療所開設をめざし、調査に入っていく。JAMS(日本―アフガン医療サービス)を立ち上げ、山岳部のダラエ・ヌール渓谷に念願の診療所を開設。共産主義政権が倒れ、難民の自発的な帰還が始まる。緑がよみがえる農村に喜びが広がる。山岳部の様子や個性的な登場人物が興味をかき立てる。(以下、抜粋)
―アフガニスタン難民 自力の帰郷
―回想 一九八五年
―アフガニスタンへ 予想外の困難
―よみがえった渓谷の村

3 『医は国境を越えて』
 石風社 1999年12月 初版発行 2000円+税
第一期一五年の総決算としてPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を建設すうに至るまでの日々を描く。悪性マラリアとの闘い、ペシャワール・ミッション病院との衝突、アフガニスタン、パキスタン双方の活動を統合していく過程での軋轢(あつれき)を乗り越え、新病院が完成する。(以下、抜粋)
―難民キャンプにて
 難民キャンプでは、死が日常的に隣り合っていた。弱い子供は下痢で簡単に落命し
 た。戦死の報が毎日家々に届けられた。(中略)私はしばらく彼らと寝食を共にしたが、配給の小麦粉も遅れがちで、絶対的なカロリー不足のように思われた。
それでも、人々がいつも陰鬱な思いで日々を過ごしていたわけではない。人間は何にでも慣れる動物である。生活上の課題が生存できるかどうかにかかっていても、「貧すれば鈍する」とは限らない。私たちの手持ちの食糧が切れると、空腹をかかえるキャンプの住民が、乏しいパンを分かち合い、食を共にしてくれた。冷たいナンと水のようなスープも、団樂のひととき、楽しい会話が味付けになった。栄養失調の子供たちは死ぬまで明るかった。
―アフガンの奥地へ
―ワマに診療所設立
―一命をとりとめた患者との対話

4『医者 井戸を掘る』アフガン旱魃との闘い
石風社 2001年10月 初版発行 定価1800円+税
2000年、ダラエ・ヌール診療所で多発した赤痢は大旱魃が人間の生存をおびやかしていることの現れだった。PMSは井戸掘り事業に着手する。素人集団が試行錯誤で掘り続けた井戸が人々に命の水を取り戻させる。やがてPMSは難民化を阻止するために孤立するカーブルに診療所を開く。2001年までの記録。現地ワーカー、蓮岡修氏による水源確保事業の「現地活動報告」付き。(以下、抜粋)
―ひび割れた大地
―水源確保事務所 ジャララバードの食糧事情
―「人類の文化遺産」

そして「中村哲氏 略歴」が続く。そのまま引用する。(原文での数字は漢数字)
1946年、福岡市生まれ。〈西南中学校〉福岡高校、九州大学医学部卒業。
専門は神経内科(現地では内科、外科もこなす)。
ペシャワール会現地代表、PMS(ペシャワール会医療サービス)院長。
国内の診療所勤務を経て、1984年パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任、以来17年にわたりハンセン病のコントロール計画を柱とした貧困層の診療にたずさわる。
1998年には基地病院をペシャワールに建設、パキスタン山岳部に二診療所を併せ持つ。
1986ねんからはアフガン難民のためのプロジェクトを立ち上げ、現在アフガニスタン無医地区山岳部に三診療所を設立してアフガン人の無料診療にたずさわる。また病院、診療所で患者を待つだけではなく、辺境山岳部へも定期的に移動診療を行っている。
2000年には医療活動と並行して水源確保事業も開始。
(※中村氏個人については『ドクター・サーブ』丸山直樹著・石風社に詳しい)

そうして、さらに驚かされたのは、本書の末にある「ピースウォーク京都の井戸端図書館」の頁だった。この頁の紹介の文章がつぎのように書かれている。

「中村さんの話を聞きたい、私たちの生きる世界で何が起こっているかを知りたい
―ここからスタートした私たちの思いを持続させ、広げていくことを、ほかのみなさんにも共有してもらえればと思って、手がかりとなる本の案内を講演録にくっつけることにしました。ここにあげたのは、講演会の開催にかかわった人たちが、それぞれの思いをこめて寄せた200冊以上の「推薦図書」の一部です。世界は不正義と不条理と、知られることのあまりない知恵と優しさに満ちています。そんなことを、もっと見つめていく機会が、この闇ナベのようなリストから生まれれば、とてもうれしく思います。」

そして次の注記が。
「この図書館は市場のもので、今のところ存在しておりません。貸し出しはできませんので、ご了承のほどを。」
面白いと思うのは、一冊一冊の本に、その本の推薦者のものと思われる言葉が一、二行そえられていることだ。ここでも、『講演録』という冊子を作るにあたっての、ピースウォーク京都のメンバーの方たちの、細やかでたしかなふるまいが見られる。そのいくつかを以下に引用したい。

『新世紀へようこそ』 池澤夏樹 光文社
【9・11遺稿、綴られた沖縄在住の作家の思索 報復 戦争 文化】

『ドクター・サーブ―中村哲の15年』 丸山直樹 石風社
【ルポ 中村哲の軌跡・横顔 ペシャワール会の発足から現在まで】

『生命(いのち)の風物語』 甲斐大策 石風社
【短編小説集 戦争 イスラーム 報復 聖戦士 野蛮と高貴】

『沖縄のこころ―沖縄戦と私』 太田昌秀 岩波新書
【沖縄の原体験 日本軍と沖縄住民 根こぎにされて】

『水木しげるのラバウル戦記』 水木しげる ちくま文庫
【画と文 戦争 南方 ダメ戦士 一人だけの生き残り 島の人々と文化】

『苦海浄土』 石牟礼道子 講談社文庫
【近代の裂け目 水俣病 漁民の暮らしと魂の所在 受難のうた】

『次の冬』 島田等 論楽社ブックレット ※075-711-0334
【ハンセン病を背負った島田さんの生涯ただ1冊の詩集】

『隔離―故郷を追われたハンセン病者たち』 徳永進 ゆみる出版 岩波現代文庫
【故郷から追放されたハンセン病者の思いだけは、隔離し、すててはならない。】

『ある徴兵拒否者の歩み』 北御門二郎 地の塩書房 ※0473-35-5358
【徴兵を拒否し、山に入り、土を耕し続けた88歳の日本人】

『旅をする本』 星野道夫 文春文庫
【紀行文 アラスカ 先住民と開拓者の暮らし 文明を離れて】

『アフリカを知る―15人が語るその魅力と多様性』「少年ケニヤノ友」東京支部編
 スリーエーネットワーク※03-3292-5751
【様々なアフリカ 無文字社会の記憶 まちの暮らし ゴリラと内戦

『炎の鎖をつないで―南アフリカの子どもたち』ビヴァリー・ナイドゥ さくまゆみこ訳
伏原納知子挿画
【アパルヘイト 村を破壊された少女 暴力 友情】

さらに驚かされたのは

『講演録』を最初に手にした時には気がつかなかった。こんど再び『講演録』を手にし、標題紙をめくって驚いた。そこには、次のように記されていた

カバーデザイン / 尾原史和(SOUP DESIGN)
イラスト/ 伏原納知子
写真提供 /中山博喜(ペシャワール会)、ペシャワール会、石風社

本書のイラストを描いているのが伏原納知子(ふしはらのじこ)さんだった。ご本人にお聞きしてはいないが、京都市役所の近く、堺町通り御池下るにある堺町画廊をされている、絵本作家の伏原納知子さんにちがいない。いつも駆けていきたくなるすてきな催しをしているその画廊は、京都の町家を改装したものと思われ、空間としてもそこにいると何かほっとする時間をすごすことができる素敵な空間だ。何年か前のことだが、たしか京都新聞の元旦号に鶴見俊輔さんと中村哲さんの対談の記事が載ったことがあり、その対談の場所が堺町画廊であったと思う。その記事を見て、いかにもお2人の対談の場にふさわしいところだと思ったことを思いだす。「日本の希望は中村哲だけだ」と語った鶴見俊輔さんんと共にその場は私にとって大切な場となっている。
伏原さんが、『講演録』のイラストを描かれていることを知り、同書は私にとり一層大事な一冊となった。

後日、しんらん交流館で開催された「ふしはらのじこ絵本原画展・ゴリラの森 ヤクシマザルの森 きょうとの町へようこそ」(1月13日~26日)の会場で、伏原納知子さんの絵本「ふたごのゴリラ」(福音館 2015.4)を買い求め、贈ってくださった京都の知人がいる。彼女は13日、同会場であった納知子さんの夫、山際寿一さんの講演「ゴリラやサルと森の世界を覗く」を聞かれている。私は一度も山際さんのお話を聞いたことはないが、ご著書には親しんでいていつか、そのお話を聞く機会があればと思っている。
いづれにしても『講演録』が伏原納知子さんと、あらためて出会わせてくれるとは思いもよらぬことだった。
『ジンガくんいちばへいく』さく・え ふしはら のじこ 福音館 2002.7
『砂漠でみつけた一冊の絵本』(柳田邦男 岩波書店 2004.10)の中
の、「ゴリラ語の初めての絵本」で、山際寿一・文、ダヴィッド・ビシーム・絵『ゴリラと あかいぼうし』(福音館)と共に紹介している。   


どうやって入手したのだったか、ハングルに訳された絵本もある


柳田邦男『砂漠でみつけた一冊の絵本』岩波書店2004.10
「2.絵本がひらく新しい表現世界」の「ゴリラ語のはじめての絵本」で
『ゴリラと あかいぼうし』山際寿一/文、打ヴィッド・ビシーム/絵(福音館書店)と
『ジンガくん いちばへ 行く』ふしはらのじこ/文・絵(福音館書店)の紹介














2020年4月29日水曜日

苗代づくりと種おろしを終える 自然農での米づくり① No.48

昨日、4月28日、苗代での種おろしがようやく終わった。今年で14回目となる米づくり。2007年の5月、糸島に引越しをして4日目だったか、鏡山さんに引越しの挨拶にうかがったところ、「「お米をつくってみませんか」と言われ、深く考えることなく、その翌日から、標高200mの所にある
鏡山さんの田んぼの一角をお借りして、初めての米作りを始めたのだった。翌年からは、今の場所で12回、天からの授かり物とも思えるお米を授かってきた。標高50mの地にある田畑は、お借りしているもので、9年前に田畑の隣に家を建て、歩いてすぐそばにある田畑に行けるようになった。

先日来、自分もいつか農業ができたらと思っているという方から、私がどんなふうにやっているか、ネットで見れたら良いのだがと言われた。私の場合は、自然農といっても、かなりイイカゲンなやり方だと自覚しているが、それでも、よくもこのような実りを授かる
ものだとの思いを深めてきた13年間だった。

右端の電信柱の右手が田畑、手前はお隣の畑
手前が南、右手が東、自宅の東西南北に隣家なし
北側に見えるのは志摩の可也山
右手の坂を下る、右側が田畑

南側から;中央の青いトロ箱のある所に苗代
東側から2枚の田んぼを見る、右端の畑に苗代

北側から田んぼを見る
右下が苗代


西側から
苗代づくり
1、まず、草刈りから(草刈り機で)…半日がかり(4時間)



草刈り終了

中の白線部分が苗代cm(1m×5m20cm)〈4時間〉
外周の溝を掘る(モグラ対策)

掘り上げた土は、さいごは、元に戻しやすいように。



2.苗代の部分の土起こし(鍬でけずっていく) 

深い根っこはとりだす

深い根が多い
削り取った土を両手でほぐす
昨年収穫して保存していた種もみ


種もみを見ずにつけ、沈んだ種を使う 



「日のひかり」と「ニコマル」


実際に使うのは4分の1

3.まいた種の上に、種が見えなくなるように土をかぶせる

まいた土の上から桑の裏側でたたいて地面を固める


藁を細かく切ってかぶせ
4.さいごにネットをかぶせる(鳥やアナグマなどの対策)

以上で「種おろし」完了。
おおよそ、写真の解説の手順で作業を行いました。

家の周り、田畑の回りは花盛り‼
















カラスが食べ物の催促に


ブルーベリー