2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2023年5月13日土曜日
荒野に希望の灯をともす〈中村哲〉上映会 No112
前々回のブログ(No.110)でお知らせしましたが、あらためてご案内します。
「荒野に希望の灯をともす ― 百の診療所より一本の用水路を ―」上映会
日時 :5月14日(日曜日)16時∼18時(15時開場)
場所 :龍国寺 糸島市二丈波呂474 ☎092-325-0585
参加費:大人・大学生 1500円 / 高校生以下 1000円
主催 :糸島の図書館の未来を考える会ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
内容:武力で平和は守れない 医師中村哲 現地活動35年の軌跡ーーーーーー
これは「生きるための」戦いだ。ーーーー
アフガニスタンとパキスタンで、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた男、
医師・中村哲。戦火の中で病を治し、井戸を掘り、用水路を建設してきた。
なぜ医者が井戸を掘り、用水路を建設したのか?
その答えは、命を見つめ続けた中村の生き様の中にあり、
私たちはこの映画で中村が生きた、その軌跡をたどることになる。
「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。」―中村哲。ーーーーーー
中村の誠実な人柄が信頼され、医療支援が順調に進んでいた2000年。思いもよらぬ事態に直面し、中村の運命は大きく変わる。それが”大干ばつ”だ。渇きと飢えで人々は命を落とし、農業は壊滅、医療で人々を支えるのは限界だった。その時、中村は誰も想像しなかった決断をする。用水路の建設だ。
大河クナールから水を引き、乾いた大地を甦らせるというのだ。しかし、医師にそんな大工事などできるのか?戦火の中で、無謀とも言われた朝鮮あ始まった―。
「ここには、天の恵みの実感、誰もが共有できる希望、そして飾りのないむきだしの生死がある。」中村哲ーーーーーーーーーー
専門家がいないまま始まった前代未聞の大工事は、苦難の連続だった。数々技術トラブル、アフガン空爆、
息子の死・・・。中村はそれらの困難を一つ一つ乗り越え、7年の歳月をかけ用水路は完成。
用水路が運ぶ水で、荒野は広大な緑の大地へと変貌し、いま65万人の命が支えられている。そして―
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2019年12月。さらなる用水路建設に邁進する最中、中村は何者かの凶弾で命を奪われた。
その報にアフガニスタンは悲しみに沈み、ニューヨークタイムズ、BBCなどが悲報を世界に伝えた。
あれから2年半。日本ではその生き方が中学や高校の教科書で取り上げられ、
母校の九州大学はその思索と実践を研究し始めた。
中村の生き様は静かに語り継がれ、輝きを増しながら人々を励まし続けるだろう。
そして用水路はこれからもアフガン人の命を支え続けていくだろう。
戦火のアフガニスタンで21年間継続的に記録した映像から、これまでテレビで伝えてきた内容に
未公開映像と現地最新映像を加え劇場版としてリメイク。
混沌とする時代のなかで、より輝きを増す中村哲の生きざまを追ったドキュメンタリー❢
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ブログ「図書館の風」www.kazedayori.jp で、中村哲さんにふれたもの。
1.No.38「2019年の年の暮れ 中村哲さんのこと 宮澤賢治学会地方セミナー」
2.No.39「年の初めに 寒中お見舞い」
3.No.40「中村哲氏が築いたもの・・・福岡市内の集会で)
4.No.41「山田稔さんの本の中で、中村哲さんに出会った」
5.No.42「中村哲さん講演録」(ピースウォーク京都)(1)
6.No.44「 〃 」 (2)
7.No.49-(1)「 〃 」(3)
8.No.49-(2)録画;井上ひさし・中村哲対談他(宮澤賢治学会地方セミナー/4時間/2004.5.1
9.No.57「糸島市内で開かれている「中村哲医師をしのぶ会」パネル展に出かけて」
10.No.100「賢治と哲とひさしと」
11.No.106「父 中村哲のこと」ーーーーーーーーーーーー
※8.のNo.49-(2)の録画は2004年5月1日に滋賀県能登川町(現在は合併により東近江市)で開催した宮澤賢治学会の地方セミナーの記録です。アフガニスタンから帰国したばかり、羽田からかけつけた中村さんの現地報告や井上ひさしさんとの対談、会場の参加者とのやりとりが見られます。
www.kazedayori.jp 「図書館の風」
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2023年5月12日金曜日
大江健三郎さんのこと(本の出前)No.111
5月、ノドカフェの本の出前は、5月16日,いつもは月初めに本の入れ替えをしていますが、今月は遅くなってしまいました。出前の本は今回は「大江健三郎さんのこと――追悼・大江健三郎」です。出前の本の話は、この題で話します。時間は11時~12時です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
出前の本のはなし「大江健三郎さんのこと」 5月16日 11∼12時 参加者1名
・ はじめに
参加してくださる人があって、はじめて会がなりたつ。会の周知はも口コミとメールで何人かに伝えている。今回は開催日が定例の月初めではなく16日だったため、参加される人がいるだろうかという思いのなかでの今日の出前の本の話の集まりだった。お一人の参加があるという知らせを直前に受けていた。ほんとうにありがたい。「風信子(ヒアシンス)文庫」の棚に自宅から運んだ本を並べ終えて11時過ぎから会が始まった。
参加してくださったのは知りあいのOさん、ノドカフェの坂本さんによれば、お仕事を休んでの参加だという。はじめにOさんの、大江健三郎(その本)との出会いをお聞きする。そして私の話。
ノドカフェでの本の話では参加される方が数名と少ないこともあり、少ないことのよさを生かして、参加された方からそれぞれに自己紹介をかねて、その日のテーマの本に関わることについて少しお聞きしてから、私の話をすることにしている。私が話す内容は、それらのお話を聞いてから定まってくる。
ただ今日の場合、直前にOさんだと聞いていたので、あらかじめ今日ふれるだろう本を選んでおいた。
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【1.『沖縄ノート』(岩波新書1970年初版、1993年32刷り)、
2.『壊れものとしての人間』
3.『「万延元年のフットボール』(1967(昭和42)年9月/ 『群像』1月~7月号・連載);自宅の本が見つからず、『大江健三郎全作品第Ⅱ期1(新潮社1994・図書館本)
4.『大江健三郎再発見』(大江健三郎すばる編集部編.集英社2001年;「書き下ろしエッセイ「小説の神話宇宙に私を探す試み」大江、座談会「大江健三郎の文学、作家前夜から最新作『取り替え子(チェンジリング)』大江・井上ひさし・小森陽一)〈図書館本〉
5.『大江健三郎賞8年の軌跡「文学の言葉」を復活させる』大江健三郎、長島有、岡田利規、安藤礼二、中村文則、星野智幸、綿矢りさ、本谷有希子、岩城けい.講談社2018〈図書館本〉
6.『大江健三郎』日本文学全集22/池澤夏樹個人編集.河出書房新社2015〈図書館本〉
7.雑誌『すばる』2008.2月号(「人間をおとしめるとはどういうことかーー沖縄集団自殺裁判に証言して
8.雑誌『すばる』2023.5月号(「大江健三郎・追悼)
※〈図書館本〉は、糸島市や他市の図書館から借りたもの。原本で紹介するだけで、棚には展示しない。
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〈事前の話の構想・・・話したいと考えていたこと〉時間が1時間であることを考えて。
・大江さんの本との出会い 55年をこえる読者の一人として、私にとってその人・大江健三郎と本とはなんであったか。〈とくに最初の出会いの頃のこと〉を中心に話そうと(私自身がどのような状況の中で出会ったか)-----ーーーーーーー
・大江・・・1935年(昭和10年)生まれ。1946年(昭和21年)生まれの私より11歳年上。
1947年に新制の中学校に入った少年・・「憲法」「民主主義」〈戦争放棄〉について語るコトバの輝き、11年遅れの私には、その言葉を生きた言葉として語る大人(先生)たちはいなかった。小学校、中学校、高校、そして私の身近で、私は、そんな大人たちに出会わずにいた。そのように語る人は大江さんがはじめてだった。 ーーーソンナ時代ガアッタノダ!「遅れてきた青年」ーーーーーーー
その日の話では、時間が短く簡単にしかふれなかったが、「大江さんの本との出会い」を〈私自身、どんな状況の中での本との出会いだったか〉――20歳から25歳の頃に――を思い返してみるため、もう少し振り返ってみたい。
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〈どのように どのような時に どんな状況のなかで、大江さんの本に 出会ってきたか〉ーーー
・東京の大学に入ってから(20歳以降)。(2浪して大学は1967年4月(昭和42年)~1972年(昭和47年)3月;最後の1年は図書館短大、浪人2年を含め7年間はバイトをしながらの生活だった。)高校卒業した1965年(昭和40年)は大学受験をせず、東京、葛飾の日本経済新聞販売店に住み込み、新聞配達。住み込みは2段ベッドで、1部屋に6人の生活、私が一番年下、九州の人で会社勤めの経験のある、太宰治が好きな人、船乗りを目指す大きな人、若くして学問を志す(ソンナ人ガイルノダ!)関西の人、ギターのうまい北海道の人、後半に入ってきた、私と同年か1歳年下で民青の活動を伸びやかにしていた北海道からの彼。18歳の私にとって心に深く刻まれる日々だった。1年後、受験したのは国際基督教大学(ICU)で、試験科目は自然科学、人文科学、社会科学と英語と、英語による面接だった。それぞれ文章(論文)を読んで解答する。自然科学では、「遺伝子の決定における数学の応用について」;人文科学では、「トマス・モアのユートピアについて」を覚えている。試験の問題が通常の受験勉強はまったく関係ないものであるのが面白かった。;「卒業後、日本の外にでるのには、出やすい大学ときいて」受験、同大学1校のみを受験して落第。2浪目は福岡市に帰り市内平尾の西日本販売店に住み込み、配達。(この店には高校3年生のさいごの3カ月間、東京の葛飾に行く前に、住み込みで働いていた。新聞配達がどんなものか、体験するため。)ーーー
2年目もICUを落第し、都内の学習院大に入学する。学習院を選んだのは学生数が都内の大学の中では少なく、先生に面白そうな人が幾人もいそうなこと。(最初は清水幾太郎さん『論文の書き方』の名前が唯一、私の中にあった。)そして学費も都内大学中では高い方ではなかったからだ。1年生の1年間は池袋に近い椎名町で朝日新聞販売店に住み込み、配達。2年、3年の2年間は大学の寮に入って適宜バイト。4年時と、図書館短大時の2年間は目黒区にあった小さなメッキ工場の宿直をしながら大学に。2年の後半の頃から大学正門のところにバリケードができた。といっても封鎖はされていなかった。講師の東大の衛藤審吉氏の後期の最初の授業で、東大では講義が学生のバリケードなどでできない状態になったため、東大での衛藤氏の受講生(外国からの留学生)数人を連れてきていて、香港からきたばかりの学生の日本語の学習のバイトをする人はいないかといわれ、すぐに手を挙げた。Rさんとの出会い。彼女は早稲田大学にも行っていて、私とは週2回、約2年間!むしろ私にとって学びの多い時間となった。その後は彼女の友人の香港からのYさんの日本語の勉強のバイト(1年はこえた)。彼は東京外大に留学、文科系の人だが、数学の勉強をしていて、上智大学にも通っていた。特許の申請もしているとのことだった。香港の2人から授かったものは私にとって大きなものがあった。かけがえのない出会いだった。
衛藤さんの授業では、その本来の講義の内容(現代中国)ではなく、私が深く授かったものがあったことを今にして気づく。それは、10数人の講義を受ける学生に課されたのが、日本の作家(だれでも)1人を選んで、その作家の著作のすべてを読んで、その文章の中の「外国」に対する表現を抜き出して、その作家が「外国」に対してどのようなイメージを持っているかをレポートする、というものだった。私は「有島武郎」を選んだ。たまたまその頃手にした「愛は惜しみなく奪う」がきっかけだったと思う。それは「個人の全集」を読みきるという最初の経験となった。授業そのものにもまして私にとって大切な時間となった。ーーー
大学での講義を振り返ってみると、まずゼミは3年生からということになっていたが、私は2年生になった時、社会学の清水幾太郎さんの研究室のドアをたたいて、2年生から参加させていただくことになり、2年間、清水さんのゼミに参加できた。3年生の終りの時に、清水さんは自ら退官された。最終講義は1969年(昭和44年)1月18日だったと思う。この日は東大の安田講堂を占拠した学生を排除するため、8500人の機動隊が導入された日でもあった。私はノンポリ学生であったが、その数日前、そこでの様子を見にその場所に出かけてもいた。清水さんは「オーギュスト・コント」について語られた。ピラミッド校舎での最終講義が終わったあと、食堂に行っていると、そこに久野収(おさむ)さんと、白髪の桑原武夫さんがいるのを目にして驚いた。戦後の日本の平和運動で大きな役割を果たし1960年の安保闘争時にその闘いの只中ににいた清水さんは、「60年の安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念」されていた。私はそうした時期の清水さんに出会っていたのだ。久野収さんは60年安保の時まで、清水さんと同じ考えのもとに まじかで行動をしてきた人であったから、60年以後は歩まれる道が異なっていたと思う。その久野さんが戦後の清水さんの行動をまじかに見て、清水さんが何をしてきたかを知り、共に行動されてきた方だけに、その最終講義の場に、久野さんは久野さんと親しい京大の桑原武夫さんを引っぱってこられたのだと、その時私は瞬時に思ったのだったと思う。私にとっては深く心動かされるものがあった。ーーーー
大学4年間の授業では、私は私が面白いと思う授業だけをうけた。私は法学部政治学科であったが、必修の単位のものでも、面白くないと思ったものは、一度か何度かでてあとは授業にでなかった。単位に関係のない他学部の講義も、面白いと思ったものは聴講を続けた。国文科では大野晋さん、大野さんに気づくのが遅く受講回数は少なかったが鮮烈な時間だった。仏文科では福永武彦さん(池澤夏樹・父)は体調がすぐれず休講が多かったため、数回だけであったが、小さな声で話されたその時の気配が深く印象に残っている。また法政大学から来られていた粟津則夫さん、解しがたい言葉があるものの、こちらに突き刺さってくるものが感じられた。独文科の朝日秀雄さんのニーチェの講義は1年欠かさずにきいた。英文科のたしか小泉先生であったか、「有島武郎とホイットマン」も1年間?休まずに受講した。受講の機会を逃して、後になって残念だったと思ったのは、独文科の岩淵達治さん(ブレヒトの著作の翻訳、多数)と仏文科の白井健三郎さんの講義だった。いつも耳をそばだててきいたのは「社会思想」の講義、最初は清水さん、清水さんが退職されてからは久野さん、そして久野さんのあとは藤田省三さん(法政大学から、体調のためか講義の回数は少なかったように思う。福澤諭吉『文明論之概略』、そして橋川文三さん(講義の中で語られた、久野収評は今も耳に残っている。)また、お名前を忘れているのだが、通例の講義ではなく、朝の講義が始まる1時間前?の読書会、「ホメロスの オデュッセイア」を読む会は参加者は独文科の1年の女学生と私の2人だけ。学生だけで読んだのだったか。先生の話はなく、ただ交互に本文(翻訳)を読むというものだった。新聞配達で朝刊を配ってからの時間だったので、時折居眠りしながらの時間でもあった。
私の大学時代(1967~1972年)はいわゆる大学闘争・学園紛争のさなかの時だった。1965年、高校を卒業して葛飾で新聞配達をしていた時、配達後の朝食の時間にテレビの画面で早稲田大学の学費値上げ反対闘争が行われているのを見た記憶がある。先に記したように1967年に入った学習院大では、講義は面白いと思うものだけにでていたが、他の大学にも出かけて講義をきいていた。他大学の講義を勝手にきくというのは私だけではなく、そのような学生たちがいた時代だった。初めはいくつかの大学で主に「社会学」の講義をきいてみたが、面白い講義、講師に出会えなかった。それは早稲田大学でのことだった。早稲田でのいくつかの講義では、どのクラスも受講する学生は少なかったのだが、何百人かの学生でほぼいっぱいの教室がありそこで講義をきいた。教室の外からはデモをする学生たちの声と笛の音がきこえていた。私は講師の名前も知らず、その話にききいった。講師が話されたのは、北ベトナムに爆撃に向かう前、横須賀に寄港したアメリカの航空母艦イントレピッドから4人の兵士(19~20歳)が脱走した事件についてだった。いま、このこと(の意味すること)を語らないでどうするか、と。
その講義の時間は1回では終わらず、続けてあったように思う。講師は久野収さんだった。それまで私は久野さんのことをまったく知らないでいた。調べてみると何と私が通っている大学の哲学科の先生だった。それを知った私は、ゼミを除いて久野さんの授業をすべてうけることにした。その授業の面白かったこと。図書館で久野さんの本を読みだした。そしてすぐに私は鶴見俊輔さんの事を知った(『戦後日本の思想』久野収、鶴見俊輔、藤田省三:中央公論社1959)。一冊一冊読むごとに、鶴見さんの文章に惹かれた。このような人がいるんだ。鶴見俊輔さんとの生涯にわたる読者としての出会いの始まりだった。ーーー
久野さんの授業は面白かった。講義のなかで初めてきく著者の名前や本の名前、それらを大学の図書館で読むことができた。『エラスムスの勝利と悲劇』(シュテファン・ツヴァイク)を通してエラスムスとルター語る久野さんの言葉は久野さん自身を語っているように思われた。早速その本を読み、その面白さを同い年(浪人も2年と同じ)の親友に伝えたところ、後で聞いたのだが、彼はその1冊をまるごと書き写したとのことだった。また、早稲田大学での久野さんの講義の聴講では、立教大学からきていた1年先輩のIさんに出会った。彼からは私が4年生になった時、彼がそれまでやっていたアルバイトを引き継がせてもらった。小さいメッキ工場の宿直の仕事で、私はそこで2年間バイト生活を送ることができた。Iさんの手にしていた大学ノートには確かノートの表紙と裏表紙まで、吉本隆明の詩だったか、文章だかが書かれていた。当時私は吉本の本はまったく読んでいなかったので、深く印象づけられた。
大学を卒業する直前の2月にあった浅間山荘・リンチ殺人事件の報道がおびただしいさなか、1972年4月千葉県八千代市立図書館で働き始める。(2年間で退職、2年で辞めることは最初から決めていた。退職後はアルバイトで旅費をため、イスラエルのキブツに行こうと考えていたが、色んな経緯で職業病の保母さん(3人)との出会いがあり、職業病(公務災害)認定まで2年間【この間も色々なバイト・・・組合書記3カ月、製パン工場(夜中)、上野駅近く国鉄の車内販売の職員の食堂での皿洗い、そのあと車内販売(上野―新潟)、ウナギの問屋の宿直と早朝の荷受けと、生きたウナギをダンボール箱から容器に入れる作業(2時間?)など】ーーーー
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以上、とても長くなってしまいましたが、大江さん(以下「さん」略)の本と出会った当時、そしてその前後の背景です。
〈大江さんの本と出会ったのは〉
私が大学に入学した1967(昭和42)年に32歳になる大江は「万延元年のフットボール」を「群像」1月号から連載し、9月、長編『万延元年のフットボール』を講談社から刊行しているが、私はすぐには手にしていない。それを読むのは後年のことだ。私が最初に出会った大江の本は主にエッセイだったと思う。その一つひとつが何であたったか覚えていないが、その一節が私の中に深くはいってきたのは、今回久方ぶりに再読して、これだったと思う。
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」、1970(昭和45)年に刊行された『沖縄ノート』(岩波新書)の一節だ。
このような問いかけをするということ、その問いかけから発する大江の行動と、そこから生まれる言葉。その一文を目にした時には私自身意識していなかったように思うが、私が大学卒業後、最初に就職した図書館の職場を2年でやめ、イスラエルのキブツに行こうとした思いの底には、この一節に象徴される大江の文章、言葉があったのだと思う。1965(昭和40)年刊行のエッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』、『持続する志』1968(昭和43)年、『壊れものとしての人間』1970(昭和45)年、『鯨の死滅する日』1972(昭和47)年など、同時代のものとして、単行本や雑誌に連載されたものを読んだ。1972年の「群像」1月号から連載が始まった「同時代としての戦後」では、私が好きな武田泰淳だけでなく、まだ手にしていなかった多くの戦後派作家に眼を開かされた。『状況へ』(1974(昭和49)年9月、岩波)は前年にだったか、「世界」に小田実「状況から」と交互に連載されたものを「世界」が毎月でるのを待ちかねて、切実な思いで読んでいた。
徐々に大江の小説の世界に導かれて行ったのはこの時期の後半の事だと思う。(今回はそれには触れない)
後年1980(昭和60)年2月、50歳の大江は「世界」に連載した評論『生き方の定義――再び状況へ』を岩波から刊行しているが、大江の一読者としての私にとっての大江健三郎という人の在りようを、このタイトルそのものがよく表しているように思う。どのように生きるか、その生き方を定義する人として。そして「再び状況―のなか―へ」歩みだす人として。ーーーーーーー
〈出前の話で語れればと思ったこと〉
・小説について
大江光さんの存在がその小説の世界を深く豊かなものにしていること。
しかも私小説ではないこと。
・言葉の定義ということ。
・具体的に大江さんとその文章の魅力、力を考えるため、『すばる』追悼号の一節を読む。
以上。
会を終えて、あらためて大江さんの著作を読みかえしたい・・・。
5月 龍国寺・出かけたい催し・目白押し NO.110
ご案内が直前(一つは本日‼)になってしまいましたが、五月は龍国寺で面白い、行きたくなる催しが次々にあります。糸島の図書館を考える会・主催が2つあります。(②と③)
龍国寺:〒819-1626 糸島市二丈波呂474 ☎092-325-0585
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①5月12日(金)『絵本でおしゃべり「絵本寺ピーIN龍国寺」』~絵本でおしゃべりしませんか?
「大人のための絵本セラピー」を広めている絵本セラピスト協会代表岡田さんがお寺に。
お寺という安心安全な場所で初めてあった人たちが絵本をきっかけに楽しくおしゃべりできる「絵本寺ピ―」
を体験してみませんか?絵本好きな人も、そうでもない人も、子育て中の人も、学生さんも、人生の先輩方も、誰でも気軽にご参加を。
14時~15時 えほん寺ピー + 休憩
15時半~ 質問、感想シェア、交流 16時ごろお開き
参加費 1000円
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②5月14日(日) 上映会「荒野に希望の灯をともす」(90分)
ペシャワール会 中村哲さんの映画です。
”百の診療所より一本の用水路を”、20年以上にわたり撮影した映像素材から医師中村哲の生き様を追う
ドキュメンタリーの完全版!
武力で平和は守れない 医師中村哲 現地活動35年の軌跡
開場15時から 開演16時∼18時
参加費 大人・大学生1500円 高校生以下1000円
主催:〈糸島の図書館の未来を考える会〉
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③5月22日(月)開場:17:00 開演18:30~
木版画作家 古知屋恵子さんの版画と紙芝居
木版画や水彩画を通して温かい作品を生み出し続ける古知屋恵子さんが
絵本「どっちにしたい?」の出版をっ記念して、
魅力溢れる紙芝居と絵本とともに糸島にやってくる!
〇木版画・原画展示 〇古知屋さんとお話 〇紙芝居上演 〇絵本・オリジナルグッズ販売など
※食事希望の方:ケータローさんのカレー(700円)
参加費 1500円(ドリンク付)
【5月24日、水曜日➡会場:ノドカフェ 13時開場 14時開演】ドリンク付1500円
主催:〈糸島の図書館の未来を考える会〉
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④5月28日(日)16時~ 龍谷寺音楽祭
ジュスカグランペール「Play&Pray」
(ヴァイオリンとギター)広瀬まこと、高井博章
・一般/大学生3500円 ・中高生2000円 ・小学生1000円
〇夢桜 http://m.youtube.com/waych?v=aPAKfmoEKSs
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2023年4月30日日曜日
図書館記念日、鬼頭梓さんのこと No.109
今日4月30日は図書館記念日だ。
糸島の若き人たちが作っている『いとしま暦』、2023年版の原稿の依頼があり、私は1月から12月まで毎月1回の原稿を書いている。メンバーのそれぞれが”いとしま
の森羅万象”を、目と耳と足と手をつかって、言葉と絵で描いていて、一日一日暦をめくるごとに楽しみを届けてくれる。友人の松浦さんが私の12回分の原稿にタイトルをつけてくれた。題して「糸島暮らし15年の風だより」。
今日の「いとしま暦」4月30日は、
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糸島暮らし15年の風だより
図書館記念日・広域利用
1950(昭和25)年4月30日に図書館法 が公布されたのを記念して、1971
(昭和46)年5月26日、日本図書館協会が 主催する全国図書館大会で「図書館記念
日」を制定。この法律で初めて無料の原則が定められ国民のだれもが等しく図書
館サービスを活用できる道が開かれた。 福岡都市圏の図書館の広域利用が始まっ
たのは2001(平成13)年4月から。 糸島市民は現在、県内の17市町村の図書
館の利用ができます。(福岡市、筑紫野地域、粕屋・宗像地域で貸出できる。登録
の時だけ、住所を確認できるものが必要、 返却は借りた図書館に)
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滋賀の知人が30日の京都新聞の朝刊の「凡語」の記事を送信してくれた。
建築家の故鬼頭梓(きとう あずさ)さんの業績を紹介する展覧会「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が、京都芸術繊維大の美術工芸資料館で開かれている。3月22日から6月10日まで(日祝休館)。図書館記念日に因んだ記事だ。紙面では「▼草創期の図書館では、書庫から本を出してもらい、館内でしか読むことができなかった。棚から自由に手に取ることができるようになったのは戦後だ▼大きな変化をもたらした一人が、建築家の鬼頭さんである。」「国立国会図書館本館をはじめ、代表的な仕事が見られる▼鬼頭さんは戦争を経験し、市民生活が破壊されるのを目の当たりにした。そこから、市井の人たちにとって図書館は「知る権利」や「思想・学問の自由」を支える砦でなければならないと考えていたという▼特にこだわったのが、平面空間を重視した「フラットフロア・ノ―ステップ」だった。誰にとっても身近で、開かれた場所でなくてはならないという信念が込められているのだろう▼京滋で鬼頭さんが関わったのは4館ある。東近江市の湖東図書館は、切妻屋根が印象的で、木とれんがを使った閲覧室は天井が高い。大きな窓からやわらかな日差しが差し込んでいた。居心地の良さと自由に本が読める尊さをかみしめた。きょうは図書館記念日。」ーーーーーーーーー
1926年生まれの鬼頭さんは1950年3月東京大学第一工学部建築学科を卒業し、4月に前川國男建築設計事務所に入所、「国立国会図書館」(1954~1961年竣工)、「世田谷区民会館・区庁舎」(1960年)などの仕事を担当して、1964年同事務所を退所。6月に鬼頭梓建築設計事務所を開設し、翌年ようやく事務所登録をして
いる。スタッフは明治大学を卒業したばかりの藤原孝一さん一人。次の年が長谷川紘さん、その次が木野修造さん。後に藤原さんは鬼頭さんの事務所を退所して独立し藤原建築アトリエを始めて設計したのが、湖東町立や同じく滋賀県の日野町立図書館だ。
私にとって鬼頭さんは何より東京の日野市立中央図書館を設計した建築家として初めてそのお名前を知った。1973年に開館した中央図書館を訪ねたのは一度きりしかないが、あれはいつのことだったか。私が苅田町の図書館づくりに関わる前のことだと思われるので1988年以前のことだ。低い書架、下段の2段を傾斜させ背表紙が見やすい書架とあの吹き抜けのゆったり落ちついた空間(それは何かはじめて見る空間だった。)が印象に残っている。前川恒雄さんの中央図書館の設計で鬼頭さんとやりとりされた文章を目にしたのはずっと後年ことだが、その文章にほんとうに驚かされた。建築家に対して図書館長は何をするのか、このような真剣勝負というしかない場から日野の図書館が生まれたことが、それを読む今の事として伝わってくる。
「鬼頭さんは謙虚でした。私の話を徹底的に聞いてくれて、移動図書館にも実際に自分で乗って、肌で感じてくれた。」そして前川さんが鬼頭さんに示した五つの基本方針。(1.新しい図書館サービスを形で表す2.親しみやすく、はいりやすい Ⅲ.利用しやすく、働きやすい 4.図書館の発展、利用の変化に対応できる 5.歳月を経るほど美しくなる)
鬼頭さんの文書を読んだのはさらにのちの事、『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』(図書館計画研究所 1989)の「2.土地と人と建築と〈日野市立中央図書館)」にもま心底驚かされた。
「日野市立図書館の活動とその歴史とは、私にとってひとつの驚異であった。」で始まる一文一文がまっすぐ私のなかにはいってきた。「移動図書館に同乗して行った時、私の見た光景は感動的だった。・・・・(略)・・私はこの光景に感動し、しかしやがてそれはある困惑に変って行った。この、光景を、この生き生きとした日常の光景を、建築に移し変える方法を、いったい私っちは持っていっるのだろうか・・・・
私たちはあまりに長い間、このような光景と建築とは別のものだと思ってきた。」「私たちは、前川館1長の意図を、その細部にわたって忠実に実現しようと努力した。それのみがこの生き生きとした活動n応え得る唯一の方法であった。建築計画学も、正当な図書館学も、そしていささかの図書館建築に対する知識も、ここではほとんど役に立ってはいない。それはむしろ無益の存在であった。それだけに問題はすべて新しい問題であったし、ひとつひとつの無からはじめられたと言っても差支えはない。私たちと前川館長との打ち合わせはいったい南海持たれたのか、私にはもう覚えがなく、ただ覚えているのはしばしばそれが深更に及んだことばかりである」
ほんとうによくもこの二人の出会いがあったものだと思うばかり。一方で二人が出会うべくして、それぞれに歩み生きてこられたからとの思いも・・・
今日の松野さんからの知らせをきっかけに、『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の本をつくる開編著 建築ジャーナル 2008.6)を読了。(藤原さんから贈られたもの、その内容に深い感銘と驚き、よくもつくってくださったと。藤原さんにお聞きしたいことがいくつも立ち現れる・・・)
巻頭に松隈洋「鬼頭梓の育んだ風景「生活の根拠地」を図書館に求めて」、があり、短い文章で鬼頭さんの生涯、その仕事を鮮やかに描出。「鬼頭梓インタビュー 私の原点」が「2008年1月と2月の2回にわたって行われた鬼頭へのインタビューと鬼頭の講演を再構成したもの」とある.
さいごに同書から。
「公共図書館の歴史が変わった日」日野市立図書館元館長。前川恒雄氏は語る(2008年3月 日野市立中央図書館にて収録)より
「建築家・鬼頭梓」
「特に「歳月を経るほど美しくなる」ことをお願いしました。これには困っていらっしゃいましたが、逆にやりがいを感じてくれたようです。そして長い時間、ああでもないこうでもないと議論しました。素人の悲しさか、平面図はわかりますが、立体的に立ち上がった姿がなかなかわからなくてね。
実は吹き抜け部分についても、私はもったいないと思ったんです。床にすればそれだけのスペースができますから。でも今思えば、あれがなければ日野の図書館じゃありませんね。非常に重要な空間です。大きなガラスの壁がいい。外の木は、冬は枯れて太陽が入り、夏葉気が茂って木陰になります。本当に、これは良かったなとつくづく思います。」
※松隈洋氏はインタビュアーの1人、又鬼頭梓の本をつくる会5名のうちの1人、
建築史家、京都工芸繊維大学准教授(2008年、本書出版時)
※同書の末尾の「資料」の頁には、何とも貴重な資料が満載されている。
①「建築家・職能運動の歴史」「鬼頭梓・年譜」②「鬼頭梓・年譜」には、「主な作品」「受賞」「著書
「論文・評論」
追記を2つ。
鬼頭梓さんについて2つの文章の引用をしておきたい。
追記1.
鬼頭梓建築設計事務所が1984年12月に発行した『図書館建築作品集』から。同書は鬼頭さんが前川國男建築事務所を離れて独立してから20年のうちに、設計監理した14館の図書館についての報告書で、最初に「私の図書館建築作法」というかかれている。鬼頭さんの文章があり、ついで「図書館建築 作品Ⅰ968-1984」の期間の14館の1館1館について写真や図面とともに、じつに眼を見開かされる解説の文章が書かれている。そのうちの1つだけだが紹介しておきたい。”真剣勝負”という言葉があった。
「日野市立中央図書館 1973」
「・・・この設計は私たちの手だけで出来たものではない。今は亡き畏友佐藤仁氏と、同じく横浜国大の若き俊秀山田弘康氏との共同設計でえあった。もともと私の図書館建築に対する考え方の基本は佐藤氏から学んだもので、私はいつも図書館の設計をする度に氏に助言を置泊めてきたが、山田氏とは初対面で、そのすぐれた資質と感性とは私にとって鋭い新鮮な刺激であったし、そこから私たちは多くのものを学ぶことができた。こうしてこの設計は二氏の能力と情熱に深く負っているのだが、じつはそれ以上に、この私たちのグループととしょかんとの、特に前川館長との共同によるところがきわめて大きかった。私たちの仕事は一日移動図書館に同乗し、その活動を身を以て体験するところから始まり、幾日も幾日もの前川館長との討論がそれに続いた。それはさながら真剣勝負にも似て、時に両々相譲らず、議論は深更に及んだ。私たちはそれを通じて無数のことを教わった。それは片々たる知識ではなく、先駆者のみの持つ情熱と苦闘の歴史であり、そこから生まれた確乎とした思想と信念とであった。だからこの建物の設計者の筆頭には、前川恒雄氏の名前が隠されているのである。
ーーーーー
追記2.菅原峻さんの図書館計画施設研究所から1989年に発行された、
『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』の同研究所長の菅原峻さんの「あとがき」から
「鬼頭梓さんが、図書館建築について書かれたもののなかから、私流に9編を選んで1冊にまとめさせていただきました。その折々に読んだ記憶のあるものばかりですが、校正をしながらかんじたのは、どの一遍とっても、いまなお新鮮な刺激をうけることです。
(略)
鬼頭さんは、用に固執し、機能にこだわり、図書館建築で言えば、図書館とは何かを求めて苦心しています。「図書館ではない図書館建築」に苦々しい思いを払い落すことができないでいる私ですから、鬼頭さんの考えに共鳴するのは当然かもしれませんが、それでも鬼頭さんのように徹底できない自分を感じます。
この選集を読んでいると、私もそうですが、鬼頭さんの書いたものから、誰もが、まだ何ほども受けとって
はいないのではないかの思いを強くします。図書館の人たちの目にもずいぶん触れているはずですし、建築家にしても同じだと思うのですが、もう一度じっくり読んでみましょう。いや二度も三度も読み返しましょう。
終りに、このような企てを許し、一切をお任せくださった鬼頭さんに、あらためて感謝申しあげます。
1989年8月13日
ーーーーー
同書には「鬼頭梓論文目録」として、『図書館建築作品集』の論文に追加されている。
2023年3月26日日曜日
四辻藍美アイヌ刺繍展にようこそ No.108
自宅から近くの龍国寺と前原の旧商店街の一郭にある「糸島くらし×ここのき」の二つの会場で
「四辻藍美アイヌ刺繍展」が開催された。(2023年3月17日[金]~3月26日[日]
手のひらにのせて見られる小さな三つ折りのパンフレットからその内容を紹介します。
《主催された》 布工房ippon 岡本理香さんのあいさつの言葉から
―ーーーー
《 元々、インド、タイ、インドネシアなどの民族色強い布を扱う仕事をして
いながらアイヌのことはあまり知りませんでした。漠然といつか北海道に行き
アイヌ博物館に行ってみたいなぁ~っとボンヤリ思うくらいでした。
偶然四辻藍美さんを知り、その刺繍の美しさ力強さに驚き魅了されました。
藍美さんのアイヌ刺繍を見ていると植物にも星空や銀河にも、雄大な大地にも
見えてきます。
これだけの芸術を育んできたアイヌ民族がどのような暮らしだったのかにも興
味がわき、自分がこんなにも身近な民族の事を知らな過ぎたことにも驚いてい
ます。
九州ではなかなか見る機会がないアイヌ刺繍。そして、四辻藍美さんにしか出
せない独得な世界観を皆さんと一緒に味わえたらと願っています。 》
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四辻藍美アイヌ刺繍展
2023日3月17日[金]―3月26日[日]
◎会場1 龍国寺 福岡県糸島市二丈波呂474 090-321-1020
◎会場2 糸島くらし×ここのき おくのへや
10:00-18:00
福岡県糸島市前原中央3-9-1
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龍国寺の会場には、四辻藍美さんの父、アイヌ文化研究者でありアイヌ童画作家であった四辻一郎編著の
『アイヌの文様』がおかれていて、初めて手に取ってみることができた。
今回の刺繍展の小さなパンフレットには、同書より、一部要約として、以下の文章がのっていた。
ーーーーーー
「村の娘がアツシの刺繍に時を忘れ針を動かしていました。娘は相愛の若者がまつりに着る晴着をどの男
の着物より美しく立派な文様に刺繍して贈ろうと思っていました。娘はまつりの日に若者が自分の創った
アツシを着た姿を夢に描き魂をこめて文様の刺繍をしているのです。若者は娘にお礼として女子用のマキ
リを贈ることにします。若者はくる日もくる日もマキリの鞘に文様を彫り続けました。娘と若者が伝えら
れたアイヌ文様を大事に受け継ぎながら暮らしてきた姿が浮かびます。世界に誇るアイヌ文様を創りだし
たアイヌの人々は優れた芸術家と言っていいでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーー
四辻藍美
1941年、小樽市生まれ、国立育ち。
父親でありアイヌ研究家、アイヌ童画家の四辻一郎氏の影響で、アイヌ刺繍家となる。作品展とワークシ
ョップをとおして、アイヌ刺繍と、その背景にあるアイヌの世界の魅力を伝えている。
ーーーーー
アイヌ刺繍が展示されている会場は心しんとする美しい庭に面している。そこで四辻藍美さんにお会いした。
ほんのひと時のことであったが、言葉をかわすことができた。昨年2022年の夏、国立アイヌ民族博物館のある
北海道白老町で何人ものアーティストが参加するイベントがあり、四辻さんも参加されたとのことだった。
白老町には行ったことはないが、2016年の2月、私が登別市立図書館に呼ばれて行った途次、真っ白な雪が深々
と降り積もった小高い所にあった知里幸恵のお墓を訪ねたことをお話していた。あの日、空が大きく広やかで、
知里幸恵という人の地、その大地にたたずみ、風の声を聞いていたのだったか。
の地に感じられた。四辻さんの作品の一つ一つはいかにも白老の地になじんでいただろうと思われた。
ーーー
後日、3月25日(土)、もう一つの会場、”ここのき”を訪ねた。四辻さんのアイヌ刺繍の作品の一つん一つは
もとより、一冊の絵本との出会いは思いもよらないことだった。
『ころぽっくるのしま』四辻一郎著・画(創作どうわ絵本3)あかね書房1970.11。うれしい出会いだった。
著者のアイヌの人びと、その世界への深い慈しみ、感動が息づいていてまっすぐ伝わってくる。
鹿家の 春の芸術祭 No.107
鹿家(しかか)は玄界灘に面した糸島市の西端、西隣は佐賀県唐津市だ。鹿家地区にあった元小学校の分校の建物が今は地区の公民館になっていて(職員はいない)、3月4日、そこで”鹿家の春の 芸術祭”が開かれた。仕掛け人は鹿家に住む東麻美さん。公民館では月に1回、「バンビの会」という主に年配の女性たちの集まりが開かれていて、ゲームや歌など懇親の場を持たれてきた。「バンビの会」では時折、麻美さんの三線を伴奏にみんなで唄をうたったりしているなどと聞いていたので、”春の芸術祭にでかけたのだ。自宅から西九州道を通って20分弱、昨年5月に開館した”はつしおとしょかん”(初潮旅館)は公民館から歩いて10分の所にある。
チラシから
鹿家の春の芸術祭 ~JR筑肥線100周年 春のお祝い~
3月4日(土)13時30分~15時
場所:鹿家公民館 【参加無料/投げ銭】
ハーモニカ演奏 沖縄の唄三線
大迫力!三四郎のライブイベント!
紙芝居は何かなぁ
桜の蕾も膨らみ始める3月4日に、鹿家公民館で【春の芸術祭!】を企画いたしました
沖縄三線で民謡や鹿家にまつわる歌を歌ったり、元鹿家出身でハーモニカを吹かれるのりこさんと
一緒に童謡を演奏したり、紙芝居の時間もあります! 展示も企画中
クライマックスは、大きな紙に書を描くライブイベント!
全国的にも数が少ない木造の鹿家公民館は、映画撮影の場所に使わせて欲しい!と言われたことがあると
聞きました。文化財のような貴重な建物も芸術そのものだと感じます。会
いろんな芸術に触れる日☆
子供も大人も、チャンプルー(沖縄の言葉で、混ぜこぜ)で、ご参加お待ちしております( へへ)
★40名様程度(予約不要)
《企画:上鹿家 東☎・・・・・協賛:糸島の図書館の未来を考える会
公民館を訪ねてまず驚いたのはその建物の佇まいだ。1946年生まれの私からみても、もう一昔前の小学校だろうかという印象。教室は一部屋だったと思われる建物の大きさがいい。履物をぬいであがると、もうひとつの懐かしい世界に入り込む思いがした。かつて教室だった部屋に入ると左側の壁の一面に、台紙に貼られた昔の学校の写真がたくさん展示してあった。麻美さんがこの地区の小学校の福吉小学校を訪ねて校長先生からお借りした資料から、これはと思うものを拡大コピーしたものだ。写真に見入る人から思わず声がもれる。入り口の右手には麻美さんがつくったクバの人形、そして、その隣の机の上に置かれていた何冊もの昔の教科書を見ていて驚いた。「ぼくのからだ」(岩松栄)、「いわしの村」(まつながけんや)、「はらっぱ」(福岡県小学校児童文集・福岡県小学校国語教育研究会編)にならんで、「数のおいたち」(遠山啓・青葉書房・昭和32年6月)がおいてあった。ーーーーー
わー遠山啓(ひらく)さんの本だ
この冊子の奥付をみると、「著者略歴」として「明治42年(1909年)熊本生まれ。東北帝国大学理学部卒業。東京工業大学教授、理学博士。東京都目黒区千束1292」と記されている。〔読者はこの住所で直接、著者に手紙をかくこともできたのだ!〕「著者略歴」の上段には「NDC410 遠山啓著 数のおいたち 学校図書館四6 P100 22cm」とある。数学者であるとともに思想家だと、その著作と活動を知って思ってきた人だ。吉本隆明さんが戦後、学生として出会っていて、遠山さんのことを書いている。発行は昭和32(1957)年6月1日、私が11歳で小学5年生のときのものだ。〔著者48歳〕目次とその内容をざっと見ておどろいた。ゆっくり読んでみたいと思われる見出し!、「目次」と「あとがき」のことばを紹介しよう。
もくじ 5(頁) 【漢字にはすべてふりがな】
数字のいろいろ 8
数(かず)のたんじょう 8
人間の指 18
指と算数 19
12をもとにした数(かず) 31
60をもとにした数 30
20をもとにした数 35
2をもとにした数 38
エジプトの数字 43
バビロニアの数字 48
ギリシアとローマの数字 53
ロシアの数字 59
日本の数字 60
アラビアの数字 62
分数と小数 66
そろばんんのおいたち 75
算数なぞなぞ 80
そうてい・中島靖・・、 さしえ・藤井二郎
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あとがき ——― 父兄と先生の方々へ ――
この本は、1年生から4年生までに、子供たちが勉強した数のお
いたちを歴史的にのべたものです。1,2,3……という数字がど
のようないきさつで生まれてきたかということも、子供が興味をも
つことばをでしょう。ふだん使っている1,2,3……でも、実にたく
さんの人々が長い間くふうを続け、少しずつ改良されて今日のよう
な形のものになったことがわかれば、子供たちの勉強の意欲を高め
るだけでなく、物事を歴史的に見る態度を育てていくだろうと思
われます。また数えるもとになっている10という数でも、人間の手
の指から生まれたものであることがわかると、子どもたちは一そう面
白がることでしょう。10進法がでてくるまえにも2進法や5進法が
あり、今でも20進法がのこっていることは、子供の数に対する見方
を広くさせうにちがいありません。
そのつぎには、ソロバンの歴史をかきました。毎日使っているソ
ロバンが原始的なものから、しだいに発達して現在のものになるま
での歴史にも、やはり人類文化の発展が反映されています。ソロバあに
ンがさらに進んで計算器になることがわかったら、子供たちの学習
意欲はさらに高まることでしょう。子供たちが活動する20世紀の後
半世紀はソロバンではんく、電子計算機の時代なのですから、今か
らそのようなもにに対する心がまえをつくっておくことが必要です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さあいよいよ春の芸術祭のはじまり はじまり
1.はじまりは かつて鹿家分校に通ったのりこさんのハーモニカと東麻美さんの唄・三線から
大きな黒板の左右と壁の一面には、麻美さんが墨で大きな字で手書きした歌詞がいく枚も貼りだされていた
・ふるさと
・〈鹿家のバンビ〉、”小鹿のバンビ 童謡替え歌(3番まで)
・涙そうそう
・十九の春
そして驚いたのは、沖縄口で5番までかかれた
・鹿家ー我が生まり糸島
①包石 帯石 姉子の浜におりる
海と山のあ鹿家 忘りぐりしゃ
鹿家 鹿家 我が生まり糸島 【2番以下、くり返し】
④高杉晋作 野村望東尼を救う
永見寺で かくまったあの日 忘りぐりしゃ
〈くりかえし〉
⑤福岡の最西端 おだやかな玄界灘
歴史と文化の鹿家を 忘りぐりしゃ
「てぃんさぐむ花」などいくつかの沖縄の唄・・・唄と手拍子でみんなの心がはじけるようだった。
2.みんなが三線の伴奏で、手拍子をとりながら歌った、はじけるような時間のあと、紙芝居の出番、わたしは久しぶりの紙芝居と絵本を読んだ。
・『ばけくらべ』和歌山静子
絵本は
・『おならうた』谷川俊太郎・原詩、飯野和好・絵
・『だれかさん』文・内田麟太郎、 切り絵・今森光彦 (今森さんの『魔法のはさみ』、『Aurelian』など切り絵の作品集を紹介。
・『知らざあ 言って 聞かせやしょう』河竹黙阿弥・絵、 飯野和好・構成・絵、 斎藤孝・編
3.トリはお待ちかね、三四郎さんの書のライブペイント
椅子を片づけ、ビニールシートを広げた上に大きな紙を拡げて、三線がひかれるなか、三四郎さんが太い筆を手に白い台紙の上にかきはじめた。
いま、そこで浮かぶ言葉を即興でかかれているようだ。三線の音と手拍子、歓声の中で時には手と足でかいていく。赤、青、緑、黄色の顔料が
紙面に踊る中、三四郎さんの心の声を刻むことばのなかから、純朴という大きな文字が現れた。描きあげられた時、いっせいに拍手と歓声、
そこにいる人がたがいに共有した時間が生まれていた。書き終えて一言語られあと、一仕事終えたようにたたずむ三四郎さんの表情が穏やかでとて
もよかった。
さいごに三四郎さんこと、鳴海三四郎さんのこと
鳴海三四郎 書心舎
・・・大分県佐伯市出身 山と海に囲まれた自然豊かなところで育つ。
漁師の家に生れ、小さい頃から両親と一緒に海の雄大さを満喫する。
いろんなことを肌で感じながら自分を表現し、そこから感じるのを
筆で言葉や絵などを描き始める。
現在は商業施設やイベント会場などでの書き下しやライブペイントなど
その活動を全国各地に広げております…(引用)
2023年1月30日月曜日
『みんなの図書館』2月号が面白い!No.106
『みんなの図書館』という雑誌を手にしたことがありますか。A5版(14.8×21cm)の小さな雑誌。
同誌は図書館問題研究会が編集している月刊誌で教育資料出版会から発行されています。その2月号、とても面白く読みました。そのいくつかを紹介します。
同誌では毎月、ほぼテーマ(特集)が決められていて最近の例では「図書館とコラボレーショ」’22.12月号、「小規模図書館が生きる道ほか」’23.1月号、そして今年の2月号は「特集:図書館に正規司書を」となっています。目次についで編集部より「特集にあたって」の文章があって(今回は文責:清水明美)、なぜこの特集をするかが書かれています。以下に引用します。
[特集]図書館に正規司書を―図書館に正規採用の司書を増やしていくために何ができるのか
昨年、2022年2月号の特集において「公共図書館における正規公務員の司書が、全数の1割に迫っている。」と書きました。各自治体においては図書館職員や住民が正規司書を増やすべく働きかける努力をしてきましたが、まだまだ改善にはほど遠い状況です。しかしこの1年の間に図書館問題研究会全国大会において、アピール「図書館法を改正して公立図書館に司書の必置を求めます」が採択されるなど、さらに改善に向けての歩みが進みつつあります。(『みんなの図書館』2022年9月号参照)
今回の特集では現行図書館法にはなぜ司書の必置がないのかを、図書館法制定の歴史研究から考察し、現在常勤の正規司書がいない自治体の調査報告、正規職員採用の先進地滋賀県の図書館職員・行政職員・住民からの報告を通して、なぜ専門職員司書が必要か、さらに正規であることの必要性について考え、正規採用の司書を増やしていくためにできることについて、考えるきっかけにしていきたいと思います。
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特集で面白かった3つの文章
特集には5つの文章があるが、①「司書必置はどこに消えたのか——図書館法成立過程での司書規定の変遷」小形亮、②「司書のいない自治体一覧」大原明、に次いである3つの文章が私にはとても面白く思われた。(①~⑤の番号は筆者による。)
3つの文章はいずれも滋賀県の東近江市立図書館に関わるもので(私自身1995年4月から当時人口2万3千人の能登川町の図書館・博物館開設準備室、1997年11月の能登川町立図書館・博物館開館から、2007年3月東近市立能登川図書館・博物館退職まで勤務)、文章を寄せた3人のうち2人は東近江市立図書館の職員(司書)、1人は東近江市の市民。
1つ目は東近江市立永源寺図書館に勤務する前田さんの、
③「あたりまえ」を積み重ねること――東近江市立図書館の市民
・行政との連携。(前田笑)
東近江市立図書館が「行政や市民との連携」について行ってきた最近5年間の活動を中心に紹介。
人口約11万人の東近江市には7つの図書館(八日市・永源寺・五個荘・湖東・愛東・能登川・蒲生)があり正規職員(22)・会計年度任用職員(19)は全員司書で、「長年正規職員の司書として 働いてきた職員が館長・副館長になっています。(2023年度に1名採用予定)」
(因みに東近江市と人口規模の糸島市(人口10万人)では図書館3館、正規職員4(司書0)、会計年度任用職員27)
〔1.市役所各課との協働事業〕では市役所の各課と図書館が共同で行った活動を紹介しています。
〈最近では〉
〇(参画課から声がかかり、12月の人権週間に合わせて、市内各図書館で啓発展示。参画課が用意したパネルに合わせて図書館の資料を展示・貸出。
「人権について学ぶことのできるリストづくり」編集会議に参画課から2名、図書館から4名参加、作成、配布。その直後の図書館の全体会(全館共通の館内整理日に行う情報交換・研修などの集まり)の研修テーマを、同和教育や利用制限のある資料について、と定め参画課に研修内容の相談を行って実施。
「こんなふうに、市役所他課との交流があることによって、日々の新しい仕事が生まれたり、自分たちの資質を高める機会が生まれたりしています。」
〈健康福祉部との連携―高齢化社会に対応した図書館づくり〉では。
〇担当課(福祉総合支援課、2021年からは地域包括支援センター)の協力をえて、図書館職員の研修として認知症サポーター養成講座を実施。
〇健康寿命の延伸をめざす健康福祉部と、図書館の未利用者の開拓を行いたい図書館の思いが合致し、福祉総合支援課と共催企画。「図書館でいきいき脳活」(八日市・能登川・湖東・永源寺の各館で)、永源寺館では行政と図書館だけでなく、市民グループ「楽楽ひろばの会」とも連携。
〇「いきいき本の元気便健康プラス」、保健センターや福祉総合支援課と連携して地域に出かける事業を開始。2020年度末に移動図書館者を更新した際に、軽トラック改造型であるという身軽さを活かしたサービスを開拓、各集落で行われている交流サロンなどに出かけてゆき、移動図書館で資料の貸出を行うだけではなく、保健師による健康に関する話、認知症サポーターキャラバンメイトによる予防体操、司書による音読体験や
ブックトークなどのプログラム。依頼者の求めに応じて組み合わせて提供。
また、〈教育・子ども行政との連携ー「子ども読書活動推進計画」をベースに
市役所のさまざなな課や市民ボランティアと手を取り合って、子供の読書環境の醸成に努める。
①「教育研究所だより」(市の教育研究所が年に10回程度発行)に毎号司書による図書紹介コーナー
②教育研究所が主催する、小中学校教師の夏休みの研修で、ブックトーク絵本について司書が講師に。
③幼児教育センターや幼児課(市内の幼稚園・保育所・認定こども園を管轄)と連携。2018年度から各園の園文庫整備支援事業を実施。潜在保育士、若手保育士を対象とした絵本に関する研修の講師。
④「ルピナスさんの会」ー各地域のおはなしボランティアのグループの連合体ー各グループの代表と各図書館の児童サービス主担当者が年数回集まって情報交換。その中から提案された事業を形にしていく。(2017年度から「初心者向け絵本読み語り基礎講座」、司書が講師)
《目を引かれたのは》
〔2.図書館から市役所へ「仕事に役立つ図書館だより」〕
「東近江市職員の仕事に役立つ図書館だより」の発行、2018年4月より月に1回。
〈内容〉前月に受け入れた全資料から、4つのテーマ(①「行政・法律・社会」、②「教育・子ども・福祉」 ③「はたらく」、④「郷土を知る」)のもと、市職員にぜひ手に取ってほしい資料をリストアップ。
リスト形式で毎号50~60冊紹介。各ジャンルから1~2冊ずつを書影と短めの紹介文付きで掲載。さらに
「今月の1冊」としてピックアップした資料を少し長めの文章とともに巻頭で紹介。
また、雑誌や各種団体の刊行物などから、市に関する記事をピックアップして情報提供。
※発行開始前の企画段階で、研修や事業での連携などでつながりのあった職員にサンプルを見せ、意見やアドバイスをもらっている。ペーパレスで、庁内のグループウェアにPDFで掲載、市の全職員が見られる。紹介した資料が掲載翌日にインターネットで予約されていたり、研修や会議の場で出会った職員から「毎月見てるよ」という嬉しい声も。
議会図書室への資料提供
・2021年2月、市の議会事務局からの依頼で、議会図書室のリニューアルに協力。資料を手に取りたくなるような配架や書架見出しを提案。除籍や更新の作業を事務局職員と行う。その後、図書館資料を定期的に議会図書室に提供。時宜に適った資料や「東近江市職員の仕事に役立つ図書館だより」を毎月届ける。
〔3.市民と手を取り合う〕
〈市民の様々な活動への資料・情報や場の提供〉
・「さぼてんのはな」(流産や死産を経験した人たちの支援グループ、当事者同士の交流の場を設けたり、亡く なった赤ちゃんに着せるためのベビー服づくりに取り組んだり。)
2022年、「さぼてんのはな」がその活動を知ってもらうための展示をしたいと、図書館にもちかけ、市内の複数館で開催。その際、グリーフケアや周産期医療に関する図書館資料も展示・貸出を行う。
このケースのほかにも、市民の持ち込み企画や協働による展示や講演会などを多く開催していて、市民活動を通して図書館資料を活かす場となっている。
・「楽楽ひろば」(永源寺館を地域住民でにぎわう場にしたいという思いを持った市民が始めたグループ、数々の連携事業)2019年の「いきいき脳活」で活動をスタートしたあと、保健センターの市民向けプログラム「まちリハ」を活用した事業を永源寺館で定期的に行う。保健センターとの連絡や広報への協力などで、図書館も積極的に関わる。 永源寺館では、日赤奉仕団の地域支部とともに図書館外構の美化活動や季節のお花やめだかの鉢の展示など、図書館の居心地がよくなるよう様々な工夫を。
〔4.社会福祉協議会との関係づくり〕
社会福祉協議会=「地域に暮らす高齢者や障がい者をはじめ、すべての市民が一人の人間として尊重され、お互いに理解しあい、協働して共に支えあいふれあいながら、住み慣れた地域において、安心して暮らすことができる福祉のまち」を目指して活動。➡図書館の大切なパートナー
・永源寺地区では、住民福祉計画「住めば都プラン」推進会議」に、2010年頃から司書が参加。
地域の「顔」(キーパソン)を知り、つながることのできる大事な機会。ここから生まれた事業➡①「地域で暮らす高齢者の知恵を伝えるワークショップ」、②社協の担当職員とつながることで、例えば移動図書館の訪問先として適切な施設・団体の情報を得る。(図書館の仕事に還元)
5.「そこら」さまざまな人と手を取り合い、地域資料をつくる
東近江市立図書館では、行政・市民・社協などさまざまな立場の人とつながりをもってきた。その精華ともいえる取り組み➡地域情報誌『そこら』の発行。
2014年から年に1度のペース。編集チーム=図書館職員、市役所職員、NPOまちづくりネットの職員で始まった。今ではそれに地元新聞の関係者やフリーのカメラマンなど、民間の人を巻き込んで展開。
市内の気になるお店や名所旧跡、魅力的な人物【キーパーソンだ!:才‣註】を(司書)自ら取材し、記事にっまとめ、紙面を編集。印刷にかかる費用は市の予算に限らず、メンバーの業務に関する補助金やまちづくりに関する支援金なども活用。
〔6.「正規職員の司書がいること」の意義〕
最初に記したように私が住む糸島市は東近江市と人口同規模であるが、図書館の正規職員は4人、うち司書は0である。これに対し東近江市は22人の正規職員、全員が司書である。糸島市の隣、人口155万人をこえる福岡市は政令指定都市20市の中で、貸出密度(市民1人当たり年間貸出点数)は最下位の2.6(2020年度)、図書館の正規職員は31人で、うち司書はなんと2人である。因みに政令指定都市中、貸出密度が一番高い人口131万4千人のさいたま市は貸出密度は福岡市の約3倍の7.5、専任職員は福岡市の5倍の165人、うち司書は96人で福岡市の48倍である。図書館数では糸島市3館、移動図書館(BM)0;東近江市7館、BM2;福岡市12館、BMは0;さいたま市25館、BM1,サービスポイント2である。
図書館にその人口規模にふさわしい司書がいるとはどういうことか。さいごに前田笑さんの文章を引用したい。
「これらの連携を振り返って思うのは、市立図書館の司書職員は、市民と行政の中間的な存在であるということです。日々カウンターで利用者と接し、書架の状態を確認し、社会の情勢を注視しながら選書にあたるわたしたちは、同時に市の職員であって、災害対応にもあたりますし、行政職員としての研修も受けます。それらは孤立した仕事ではなく、どこかでつながって循環している仕事です。また、一つ一つを
取ってみれば、とくに華々しくもなく、大きな予算も必要としない「あたりまえ」の仕事です。けれども、これらを積み重ねられてきたのは、司書であり、行政職員であるという立場の職員が、合併前からの実践と経験を連綿と継いできていること、そしてさまざまな年齢層の職員が安定した環境で働けていることによるのではないかと思います。ランガナタンの言う通り、としょかんは「成長する有機体」です。その成長を支えるのは、専門性と個性を発揮しながら長年働く司書職の集団ではないでしょうか。」
今回、前田さんのレポートについで、ここに書くつもりであったあと2人のレポートについては、号を改めて紹介したい。〔「行政職員からみた図書館とは」東近江市立図書館 山梶瑞穂」、「激動する時代を生きる図書館に期待する」北川憲司(滋賀地方自治研究センター)〕
教育・子どもぎょうせい
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