2023年4月30日日曜日

図書館記念日、鬼頭梓さんのこと No.109

今日4月30日は図書館記念日だ。 糸島の若き人たちが作っている『いとしま暦』、2023年版の原稿の依頼があり、私は1月から12月まで毎月1回の原稿を書いている。メンバーのそれぞれが”いとしま の森羅万象”を、目と耳と足と手をつかって、言葉と絵で描いていて、一日一日暦をめくるごとに楽しみを届けてくれる。友人の松浦さんが私の12回分の原稿にタイトルをつけてくれた。題して「糸島暮らし15年の風だより」。 今日の「いとしま暦」4月30日は、 ーーーーー 糸島暮らし15年の風だより 図書館記念日・広域利用 1950(昭和25)年4月30日に図書館法 が公布されたのを記念して、1971 (昭和46)年5月26日、日本図書館協会が 主催する全国図書館大会で「図書館記念 日」を制定。この法律で初めて無料の原則が定められ国民のだれもが等しく図書 館サービスを活用できる道が開かれた。 福岡都市圏の図書館の広域利用が始まっ たのは2001(平成13)年4月から。 糸島市民は現在、県内の17市町村の図書 館の利用ができます。(福岡市、筑紫野地域、粕屋・宗像地域で貸出できる。登録 の時だけ、住所を確認できるものが必要、 返却は借りた図書館に) ーーーー 滋賀の知人が30日の京都新聞の朝刊の「凡語」の記事を送信してくれた。 建築家の故鬼頭梓(きとう あずさ)さんの業績を紹介する展覧会「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が、京都芸術繊維大の美術工芸資料館で開かれている。3月22日から6月10日まで(日祝休館)。図書館記念日に因んだ記事だ。紙面では「▼草創期の図書館では、書庫から本を出してもらい、館内でしか読むことができなかった。棚から自由に手に取ることができるようになったのは戦後だ▼大きな変化をもたらした一人が、建築家の鬼頭さんである。」「国立国会図書館本館をはじめ、代表的な仕事が見られる▼鬼頭さんは戦争を経験し、市民生活が破壊されるのを目の当たりにした。そこから、市井の人たちにとって図書館は「知る権利」や「思想・学問の自由」を支える砦でなければならないと考えていたという▼特にこだわったのが、平面空間を重視した「フラットフロア・ノ―ステップ」だった。誰にとっても身近で、開かれた場所でなくてはならないという信念が込められているのだろう▼京滋で鬼頭さんが関わったのは4館ある。東近江市の湖東図書館は、切妻屋根が印象的で、木とれんがを使った閲覧室は天井が高い。大きな窓からやわらかな日差しが差し込んでいた。居心地の良さと自由に本が読める尊さをかみしめた。きょうは図書館記念日。」ーーーーーーーーー 1926年生まれの鬼頭さんは1950年3月東京大学第一工学部建築学科を卒業し、4月に前川國男建築設計事務所に入所、「国立国会図書館」(1954~1961年竣工)、「世田谷区民会館・区庁舎」(1960年)などの仕事を担当して、1964年同事務所を退所。6月に鬼頭梓建築設計事務所を開設し、翌年ようやく事務所登録をして いる。スタッフは明治大学を卒業したばかりの藤原孝一さん一人。次の年が長谷川紘さん、その次が木野修造さん。後に藤原さんは鬼頭さんの事務所を退所して独立し藤原建築アトリエを始めて設計したのが、湖東町立や同じく滋賀県の日野町立図書館だ。 私にとって鬼頭さんは何より東京の日野市立中央図書館を設計した建築家として初めてそのお名前を知った。1973年に開館した中央図書館を訪ねたのは一度きりしかないが、あれはいつのことだったか。私が苅田町の図書館づくりに関わる前のことだと思われるので1988年以前のことだ。低い書架、下段の2段を傾斜させ背表紙が見やすい書架とあの吹き抜けのゆったり落ちついた空間(それは何かはじめて見る空間だった。)が印象に残っている。前川恒雄さんの中央図書館の設計で鬼頭さんとやりとりされた文章を目にしたのはずっと後年ことだが、その文章にほんとうに驚かされた。建築家に対して図書館長は何をするのか、このような真剣勝負というしかない場から日野の図書館が生まれたことが、それを読む今の事として伝わってくる。 「鬼頭さんは謙虚でした。私の話を徹底的に聞いてくれて、移動図書館にも実際に自分で乗って、肌で感じてくれた。」そして前川さんが鬼頭さんに示した五つの基本方針。(1.新しい図書館サービスを形で表す2.親しみやすく、はいりやすい Ⅲ.利用しやすく、働きやすい 4.図書館の発展、利用の変化に対応できる 5.歳月を経るほど美しくなる) 鬼頭さんの文書を読んだのはさらにのちの事、『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』(図書館計画研究所 1989)の「2.土地と人と建築と〈日野市立中央図書館)」にもま心底驚かされた。 「日野市立図書館の活動とその歴史とは、私にとってひとつの驚異であった。」で始まる一文一文がまっすぐ私のなかにはいってきた。「移動図書館に同乗して行った時、私の見た光景は感動的だった。・・・・(略)・・私はこの光景に感動し、しかしやがてそれはある困惑に変って行った。この、光景を、この生き生きとした日常の光景を、建築に移し変える方法を、いったい私っちは持っていっるのだろうか・・・・ 私たちはあまりに長い間、このような光景と建築とは別のものだと思ってきた。」「私たちは、前川館1長の意図を、その細部にわたって忠実に実現しようと努力した。それのみがこの生き生きとした活動n応え得る唯一の方法であった。建築計画学も、正当な図書館学も、そしていささかの図書館建築に対する知識も、ここではほとんど役に立ってはいない。それはむしろ無益の存在であった。それだけに問題はすべて新しい問題であったし、ひとつひとつの無からはじめられたと言っても差支えはない。私たちと前川館長との打ち合わせはいったい南海持たれたのか、私にはもう覚えがなく、ただ覚えているのはしばしばそれが深更に及んだことばかりである」 ほんとうによくもこの二人の出会いがあったものだと思うばかり。一方で二人が出会うべくして、それぞれに歩み生きてこられたからとの思いも・・・ 今日の松野さんからの知らせをきっかけに、『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の本をつくる開編著 建築ジャーナル 2008.6)を読了。(藤原さんから贈られたもの、その内容に深い感銘と驚き、よくもつくってくださったと。藤原さんにお聞きしたいことがいくつも立ち現れる・・・) 巻頭に松隈洋「鬼頭梓の育んだ風景「生活の根拠地」を図書館に求めて」、があり、短い文章で鬼頭さんの生涯、その仕事を鮮やかに描出。「鬼頭梓インタビュー 私の原点」が「2008年1月と2月の2回にわたって行われた鬼頭へのインタビューと鬼頭の講演を再構成したもの」とある. さいごに同書から。 「公共図書館の歴史が変わった日」日野市立図書館元館長。前川恒雄氏は語る(2008年3月 日野市立中央図書館にて収録)より 「建築家・鬼頭梓」 「特に「歳月を経るほど美しくなる」ことをお願いしました。これには困っていらっしゃいましたが、逆にやりがいを感じてくれたようです。そして長い時間、ああでもないこうでもないと議論しました。素人の悲しさか、平面図はわかりますが、立体的に立ち上がった姿がなかなかわからなくてね。 実は吹き抜け部分についても、私はもったいないと思ったんです。床にすればそれだけのスペースができますから。でも今思えば、あれがなければ日野の図書館じゃありませんね。非常に重要な空間です。大きなガラスの壁がいい。外の木は、冬は枯れて太陽が入り、夏葉気が茂って木陰になります。本当に、これは良かったなとつくづく思います。」 ※松隈洋氏はインタビュアーの1人、又鬼頭梓の本をつくる会5名のうちの1人、  建築史家、京都工芸繊維大学准教授(2008年、本書出版時) ※同書の末尾の「資料」の頁には、何とも貴重な資料が満載されている。 ①「建築家・職能運動の歴史」「鬼頭梓・年譜」②「鬼頭梓・年譜」には、「主な作品」「受賞」「著書  「論文・評論」 追記を2つ。 鬼頭梓さんについて2つの文章の引用をしておきたい。 追記1. 鬼頭梓建築設計事務所が1984年12月に発行した『図書館建築作品集』から。同書は鬼頭さんが前川國男建築事務所を離れて独立してから20年のうちに、設計監理した14館の図書館についての報告書で、最初に「私の図書館建築作法」というかかれている。鬼頭さんの文章があり、ついで「図書館建築 作品Ⅰ968-1984」の期間の14館の1館1館について写真や図面とともに、じつに眼を見開かされる解説の文章が書かれている。そのうちの1つだけだが紹介しておきたい。”真剣勝負”という言葉があった。 「日野市立中央図書館  1973」 「・・・この設計は私たちの手だけで出来たものではない。今は亡き畏友佐藤仁氏と、同じく横浜国大の若き俊秀山田弘康氏との共同設計でえあった。もともと私の図書館建築に対する考え方の基本は佐藤氏から学んだもので、私はいつも図書館の設計をする度に氏に助言を置泊めてきたが、山田氏とは初対面で、そのすぐれた資質と感性とは私にとって鋭い新鮮な刺激であったし、そこから私たちは多くのものを学ぶことができた。こうしてこの設計は二氏の能力と情熱に深く負っているのだが、じつはそれ以上に、この私たちのグループととしょかんとの、特に前川館長との共同によるところがきわめて大きかった。私たちの仕事は一日移動図書館に同乗し、その活動を身を以て体験するところから始まり、幾日も幾日もの前川館長との討論がそれに続いた。それはさながら真剣勝負にも似て、時に両々相譲らず、議論は深更に及んだ。私たちはそれを通じて無数のことを教わった。それは片々たる知識ではなく、先駆者のみの持つ情熱と苦闘の歴史であり、そこから生まれた確乎とした思想と信念とであった。だからこの建物の設計者の筆頭には、前川恒雄氏の名前が隠されているのである。 ーーーーー 追記2.菅原峻さんの図書館計画施設研究所から1989年に発行された、 『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』の同研究所長の菅原峻さんの「あとがき」から 「鬼頭梓さんが、図書館建築について書かれたもののなかから、私流に9編を選んで1冊にまとめさせていただきました。その折々に読んだ記憶のあるものばかりですが、校正をしながらかんじたのは、どの一遍とっても、いまなお新鮮な刺激をうけることです。  (略) 鬼頭さんは、用に固執し、機能にこだわり、図書館建築で言えば、図書館とは何かを求めて苦心しています。「図書館ではない図書館建築」に苦々しい思いを払い落すことができないでいる私ですから、鬼頭さんの考えに共鳴するのは当然かもしれませんが、それでも鬼頭さんのように徹底できない自分を感じます。 この選集を読んでいると、私もそうですが、鬼頭さんの書いたものから、誰もが、まだ何ほども受けとって はいないのではないかの思いを強くします。図書館の人たちの目にもずいぶん触れているはずですし、建築家にしても同じだと思うのですが、もう一度じっくり読んでみましょう。いや二度も三度も読み返しましょう。 終りに、このような企てを許し、一切をお任せくださった鬼頭さんに、あらためて感謝申しあげます。 1989年8月13日 ーーーーー 同書には「鬼頭梓論文目録」として、『図書館建築作品集』の論文に追加されている。