2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2023年8月27日日曜日
西田博志さん 悼詞 No. 120
昨年11月に亡くなられた西田博志さんの追悼の記を図書館問題研究会(図問研)福岡支部の会報
に投稿しました。ここに掲載いたします。
(掲載が遅れました。)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
われらが西田博志さん —―これが図書館だ―― 悼詞〔 1937―2022.11 〕
——―「図書館は何のためにあるのか」「今、何をしなければいけないのか」——―
昨年2022年11月5日、西田博志さんが亡くなられた、と滋賀の松野さん(東近江市八日市図書館長)が電話で知らせてくれた。「ああ」という言葉にならない思いが体をかけぬけた。西田さんは1984年(昭和59年)4月から1997年(平成9年)3月まで13年間、人口4万人の八日市市立図書館の館長をされた。私にとっては“これが図書館だ”と示し続けてくれた人だった。
日を経るごとに、その時々の西田さんがたち現れてくる。私が2007年3月で東近江市立能登川図書館を退職し糸島に住むようになってからは毎年、賀状で糸島での折々のことをお伝えするだけでこの15年間、奥さまの征子さまからの家人へのお便りで、その消息を知るばかりだった。思い返してみると、西田さんとゆっくりお会いし、お話できたのは指折り数えるほどだが、西田さんにお会いして以来、私の中にはなんとも懐かしい、心たのもしい人としての西田さんが傍らに居つづけていたことを、あらためて思い知る。
図書館の現場から、いま、これからの図書館の在りようを指し示し、図書館員として今「何をしなければならないか」を、後からくる人たちにその実践をとおして灯火のように指し示してこられた。心に西田さんを思うと、われらが西田さんだったとの思いが浮かぶ。
松原市民図書館(開館して2年目)を訪ねる
中川徳子さん、西田博志さんとの出会い
以後、思わず知らず西田さんから授かったものを振りかえる時を過ごしてきた。
心に刻まれているいくつかのこと、また西田さんにお伝えする時をもてなかったが、お話してお考えをお聞きしたかったことも西田さんに向けて記したいと思う。
初めての出会いは思いもよらぬことだった。
千葉県八千代市の図書館を退職して2年後の1976(昭和51)年、今から47年前になるが、福岡市に初めての図書館、福岡市民図書館が開館して2か月後くらいだったか、私は嘱託職員として働き始めた。主な仕事は当時市内に160数ヵ所あった文庫や公民館、小学校などに団体貸出の本を届けることだった。1年経ったころ、どこかに研修で図書館見学に行ってよいと言われ、深く考えることなく関西の図書館に行ってみようと考えた。関西の図書館にはそれまで一度も行ったことがなかったからだ。たまたまそのころ発行されていた『図書館づくり運動入門』(図書館問題研究会編 草土文化 1976)1冊をもって。最初に訪ねたのは大阪の吹田市立図書館だ。見学後、応対をしてくれた職員の人から、このあとどこに行くかときかれて、松原にと答えると、すぐに松原の図書館に電話をして私にかわられた。電話の相手の女性の方は図書館の職員ではなかった。どういうことだったか、待っていますと言われて訪ねて行った。そこにおられたのは中川徳子さんだった。今から思えばその時、館長は図書館におられなかったのではないか、私は自転車を押して歩く中川さんとまずご自宅に向かった。雨の日文庫を自宅でされていた中川さんと歩きながら何を話したかはまったく覚えていない。ただ図書館づくりに向けての熱いお気持ちと凛としたお姿が心に刻まれている。この後、松原の図書館に行ったのだったか。“駅前分館”の大きな看板が建物の2階?の壁面いっぱいに掲げられていたのを覚えている。建物自体は松原市中央公民館だという。看板をみれば、公民館とは思わず図書館(分館)と思うほかない。そこで初めて西田さんにお会いしたのだと思う。「この椅子は、喫茶店」かどこかからもらった、そのようなことをお聞きした。ゆったりとして話す西田さんから愉しい気が伝わってきた。ここは図書館ですとばかりの大きな看板や、喫茶店?からくつろいで座れる椅子を何台も、いかにも何ごとなく手に入れておられる(と思われた)など、私が初めて出会う大きな人だった。―――
1937年(昭和12年)生まれ、私より9歳年長の西田さんはこの時40歳くらい、1962年(昭和37年)に文部省図書館職員養成所(1年課程)を卒業した年に大阪府立図書館で務め始め、1970年(昭和45年)から大阪府立夕陽丘図書館、そして1974年(昭和49年)吹田市立図書館長として出向(4年間)、引き続き1976年(昭和51年)から2年間、松原市立図書館長として出向されていた。その2年目にお会いしたことになる。西田さんがどんな人か、何をしてきた人か、私はまったく知らないまま西田さんにお会いしたのだった。
「松原市民図書館活動報告」(2021、令和3年度)の1頁の「歩み」をみると、西田さんが松原市に来られた1976年の事績では、
「6月、配本車受贈・松原ライオンズクラブより。7月、市立天美公民館内に図書室開設(条例制定後は分室)。11月、「図書館設置計画審議会答申」が出される」とある。私が最初にお会いした、西田さんにとっては2年目の1977年(昭和52年)は「4月、「松原市図書館条例」「松原市図書館運営規則」公布、松原市民図書館発足、中央公民館図書室を松原駅前分館としてシステムの本拠地とする。布忍公民館内に布忍分室開室」となっていた。―――
まさに私は松原市民図書館が開館した年にお訪ねしているのだ。そのことに私の目はしっかり届いていなかった。あらためて振り返ってみると、この最初の見学で私はいくつもの大切な要点を見落としている。「母親たちの地べたをはいずりまわるような図書館づくり」、「母親たちの長く苦しい運動」「母親たちの迫力あるとりくみ」「松原市のように、その誕生から現在、おそらく将来に至るまで、文庫の存在なくしては考えられないというような図書館」【「変身する図書館—―子ども文庫の母親たちと図書館づくり――」西田博志、『出版ニュース』1977年9月下旬号 通巻1089号】。中川さんの文庫活動は松原市の図書館づくりにとどまらず、いや、松原での文庫活動、図書館づくりの活動そのものとして、大阪で図書館が「文庫に本を貸す」ことを当たり前にするための息の長い、住民運動があり、その運動が大阪府下の文庫が大同団結した「大阪府子ども文庫連絡会(大子連)」に引き継がれ、その後の大阪府下での各地の図書館づくりに大きな意味をもった。中川さんはこの大子連前史、そして大子連の活動の渦中の要の人(1975・大子連準備会代表、1976,1977・
副代表、その後、書記、評議員など。1987~1993年「育てる会」代表)【『本・こども・・おとな―大子連20年の記録―』大阪府子ども文庫連絡会1996.3(驚クバカリの記録集!)/ 「中川用」と表紙にメモされたこの貴重な資料を2003年4月12日に中川さんから手渡されている。同日能登川の図書館で、『子どもと文庫、そして図書館と―私の歩んできた道―中川徳子講演会』】
そのような目もくらむようなすさまじい図書館づくりに向けての運動への私の感受の仕方と、西田さんがわずか2年間の間に図書館長として取り組まれたその取り組み方、その行動を支える考え方、その気と心への私の受け止め方は、ほんとうに浅いものであったと思う。
そして自動車図書館を見ていない‼ もしその時、松原市民図書館の自動車図書館を見ていたら、その車体の側面と後部に描かれた絵を見て私は歓声をあげるか、言葉を失っていただろう。1988年3月25日に発行された漆原宏さんの『地域に育つくらしの中の図書館 漆原宏写真集』第2刷【初版は1983年12月5日】を、後年、10年以上たってから手にしたのだが、次の頁の写真を見てほんとうに驚いた。
―――
① 36頁. 読みたいものばかり 松原市民松原図書館B.M ’76・11・2
《 わー何ということだろう。子どもの隣に座って本を選んでいるのは、Nさんではないだろうか?そのことを漆原さんにお聞きする機会をもつことができなかった。》―――
Matsubara Citizens’ Library, Osaka. Bookmobiles, weekly market of books.
② 47 頁. 現代版・門前の小僧・・・・・松原市民松原図書館 B.M ‘82・4・22
Matsubara Citizens’ Library, Osaka.
2枚の写真で車体の絵の作者が一目瞭然!写真では移動図書館の車体の横の扉2枚があげて固定されていて、その側面にどんな絵が描かれているかわからないのだが、後ろの扉とその側面には、帽子をかぶったゾウとダチョウ(その下には小さなトリ)が描かれている。
子どものときから絵本を手にすることがなかった私は25歳で図書館員となり、いきなり図書館で購入する絵本を選ぶことになった。とにかく絵本を何冊も借りて帰り、時にはつきあってくれる子どもに絵本を読んだりしていた。そうして持ち帰り読んでいた絵本の中で、私の中に刻まれた幾人もの絵本の作家があった。大人の目でも面白く、子どもたちと一緒に読んでも愉しい作家たち、その一人が長新太さんだった。その長新太の絵を自動車図書館の車体に。一体どのようにして、それを実現されたのだろう。西田さんのいう「母親たちの迫力あるとりくみ」の一つであったにちがいない。それにしてもあの時、私が訪ねたその場所に長新太の自動車図書館があったとは‼
私が視察時に見落としてしまった大切なこと、その一端を記しておきたい。
先の「松原市民図書館活動報告」の「歩み」の書き出しは、
・1970年(昭和45年)7月 「雨の日文庫」誕生
※市の図書館の沿革が「雨の日文庫」誕生から始まっている。以下、西田さんが着任すする年の1976年(昭和51年)3月までをみると、
・ 1972年(昭和47年)4月 松原子ども文庫連絡会(松子連)発足
・ 1973年(昭和48年)7月 中央公民館内に地域文庫“松ぽっくり”誕生
11月 松原市自動車図書館運営と将来計画委員会発足
(委員:松子連より中川、滝川/栗原均、森耕一、府BM・西田博志、他)
・1974 年(昭和49年)4月 自動車図書館12駐車場で発足(月2回、司書2名)
(※西田さん着任の2年前に自動車図書館運行)
地域文庫“松ぽっくり”市へ移管
市立中央公民館内に公民館図書室として開設
(※地域文庫“松ぽっくり”を市に移管し、「市立中央公民館内に公民館図書室として開設」という事績にも目を瞠る)
・ 1975年(昭和50年)1月「松原市図書館設置計画審議会」発足―—――——―——
〈委員長は森耕一氏、松原市の図書館計画で私の中に初めて森耕一さんが刻まれた。松原市民図書館の誕生とその後に深い関り。『公立図書館原論』(“公立”の意味すること)、ランガナタンの訳書などの著作の数々、後年、著書の影響でエドワード・エドワーズの分厚い原書を九大図書館でコピー。また、長崎の純心女子短期大学で平湯文夫さんが企画された夏期の集中講義で一度だけ、お話を聞く機会をえた、ミヒャエル・エンデの『モモ』の時間の話が記憶に残っている。「忙しい」の「忙」は「心を失う」の意について話された。〉
それにしても、市の図書館の歩み(歴史)が一人の市民が自宅で始めた一つの文庫(雨の日文庫)の始まりから書き始められていること。そして2年後の「松原文庫連絡会」の発足、1年半後には中央公民館内に地域文庫“松ぽっくり”の誕生、その4か月後には、松原市自動車図書館運営と将来計画委員会発足。そして5か月後、長新太さんの絵が描かれた自動車図書館が走りだす(12駐車場)。長新太を選んで、それを形にする取り組みのすさまじさ‼。同時に地域文庫“松ぽっくり”を市へ移管して、市立中央公民館内に公民館図書室を開設。9か月後に「松原市図書館設置計画審議会」を発足している、というより発足させている。それらの活動の陰に森耕一さんや西田さんたちの姿が感じられるけれども、雨の日文庫と文庫連絡会を核とした市民のすさまじい活動―「長く苦しい運動」が西田さんが松原市にやって来られる直前まで6年かけて行われていたのだ。そのすさまじい中川さんたちの図書館づくりへの思いを結集した力が、松原市の初代館長として、他の誰でもない西田博志さんを松原市民図書館長とさせたのだと今にして思う。中央公民館内で地域文庫“松ぽっくり”を設け、それを市に移管して、公立の公民館図書室としたように、図書館が始まるとき、その要の役割を担う図書館長に、この人をという選択、図書館の要に要の人を得ることが肝心要のこととして、それを実現させるための「母親たちの地べたをはいずりまわるような図書館づくり」に向けての深い思いと行動――
後に、13年後の1990年6月25日、西田さんは北海道公共図書館司書会創立10周年記念の図書館セミナーでの講演で、中川さんについて「大阪の「雨の日文庫」の中川徳子さんは(私は、その人に育てられたようなものですが――)、松原市の図書館づくりに携わっていたときに、いろいろと仕事を一緒にしました。その方を滋賀県立図書館の専門講座にお呼びしたときに・・・」(演題は「図書館の職員はどうあるべきか」)と語られている。
松原市民図書館見学の報告(福岡市民図書館、視察報告1977年)
以上のような私の視察時での要の欠落があったものの、それでも私が中川さんや西田さん、そして松原市の図書館づくりの取り組みから受けた衝撃は深いものがあった。福岡市民図書館の職員の研修の場で、私はかなりの資料を配布して、松原市民図書館の報告をした。
どこかに青焼きでやいた46年前の原稿のコピーがあるはずだが、今はでてこない。
1976(昭和51)年11月、西田さんが着任(図書館担当参事、府より出向)して7か月後に「答申」をだしているが、私は主にその答申の内容について話したのではないかと思う。図書館計画というものを、松原市の計画で私は初めて目にしたからだ。このようにして図書館づくりを進めるのか、目を見開かされる思い。当時人口100万人をこえる福岡市では図書館は1館だけで、市民だれもが利用できるための図書館計画、またその取り組みはまったくない状況の中で、松原市の図書館計画は、福岡市でのこれからの取り組みにその方途、その道を示すものに思われたのだった。
それから10年、福岡市で何らの動きがない中、私は「福岡の図書館を考える会」の活動を始め、1988年(昭和63年)1月に市民による福岡市の図書館政策『2001年われらの図書館――すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために――』を仲間ととも発行した。その冊子の「添付資料」の「4.すべての市民が利用できるためには―全域サービス・松原市の場合」で、1977年に松原市民図書館を見学した時に入手した資料をもとに、松原市の事例を紹介、掲載している。福岡市民図書館での同年の出張報告でも、この内容を主に報告したのだと思う。
『全域サービス』の説明では。
図書館の来館者の密度と距離の関係がどう変化していくか、その比率(来館者密度比)をものさしにして、市内どこでも(全域)で利用できる体制をつくる。
人口13万5千人、図書館数6館、(人口22,500人に1館)、自動車図書館1台、貸出628,000冊(市民1人当り4.7冊)、職員28人(市民4,821人に職員1人)
利用圏は以下の通り
地域館・・・・・700m
分室・分館・・・500m
ステーション・・300m
(1983年現在)【「松原市の市民図書館1984」日本図書館研究会より】
松原市の図書館計画と図書館づくりの実践は、『2001年われらの図書館』をつくるにあたって、「すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために」「全域サービス」が肝心要のことであること指し示してくれるものであった。
松原市の中川さんや西田さんたち、そして文庫連や市民の一人ひとりの方たちの図書館づくり運動の営み、そこから生みだされた全域サービスを核とした図書館計画は、私にとって中川さん、西田さんから授かった最初のかけがえのない贈りものだったと、今にして思う。以後の私は、そこで示された道に向かって歩んできたように思う。
西田さんは松原市での図書館長としての2年間の出向が終わると(1976.4~1978.3)府立中之島図書館に帰られた。同館に1978年(昭和53年)4月から6年間、こうして府立図書館では22年間勤められた。(そのうち6年間を吹田市と松原市に図書館長として出向)
滋賀県八日市市では新しく図書館をつくるにあたって、館長人事で校長先生のOBをという当時の市長の考えに、「それは困る」と主張する市民の動き(力)があり、県教育委員会文化振興課(上原恵美氏)の強力な関わりの中で専任専門職の館長の招へいとなった。こうして西田さんは1984年(昭和59年)4月から、八日市市から招へいを受けて新館開設準備室長として、また1985年(昭和60年)4月からは図書館長として、同年7月の図書館開館を経て、1997年(平成9年)3月までの13年間を八日市の職員として勤務。
中川徳子さんとの再会
一方、私は松原市民図書館を訪ねた翌々年の1979年(昭和54年)3月末で福岡市民図書館(開館は1976.5.30/在籍1976.7~1979.3)を退職し、4月から福岡市の外郭団体、財団法人博多駅地区土地区画整理記念会館の職員として働き始めていた。同館は福岡市が20数年をかけて博多駅地区の区画整理事業を行い、その事業の完了に伴い、この事業への周辺住民の協力に感謝して建てられたもので、3階建てのうち、1階に232㎡の図書室、2 階に無料の和室(大広間)と有料の茶室、3階に大小の有料の会議室があった。職員は福岡市を退職した職員が数年間事務局長として1名。正規職員は私の1名(途中から事務職員が1名ふえたが、のちに嘱託職員となる)、図書室は私と臨時職員1名(のちに2名)という体制であった。図書室は“記念会館図書室”と称していた。(図書室開室1979.6.12)
2年前の福岡市民図書館での松原市民図書館の出張の報告の影響があったのかどうか、記念会館図書室が開館する直前、4日前の1979年(昭和59年)6月8日(金)、市民図書館で新しく始められた事業、「婦人読書ボランティア養成講座」が開かれ、中川徳子さん(雨の日文庫)と中川さんの友人の正置友子さん(青山台文庫)のお2人が大阪から来られ講師として話された。「子どもの創造性をはぐくむ文庫活動」というテーマだった(10:30~14:00)。講座終了後、お2人が記念会館図書室を訪ねてくださった。おみやげに色鮮やかなデザインの元気あふれるエプロンをいただいた。中川さんは新しい仕事場を喜んでくださった。中川さんとは1年半ぶり、2度目の出会い、正置さんとは初めての出会いだった。小さな新しい図書室(地域の図書館)の開館・新たなスタートに向けて、天からの贈り物のような深い元気を吹きこまれる出会いだった。
〔改築/開館2002・平成14.10.1。図書室232㎡➡114㎡;臨時職員1名、2か月毎の勤務〕
西田さんとの2度目の出会いまで
記念会館を1988年(昭和63年)10月末で退職(在職1979.4~1988.10)した私は12月から苅田町の職員となり教育委員会で図書館開設の準備に取りかかることになった(苅田町;人口3万4千人、開館は1990年・平成2年5月12日;開館まで1年10ヶ月間)。1987年(昭和62年)に始めた“福岡の図書館を考える会”では、先に記した市民による「福岡市の図書館の政策」づくりととも“図書館の話の出前”を行っていたが、その出前がきっかけとなった。出前は図書館について話を聞きたい、したいと言う人の所へ、福岡市内だけでは、県内どこにでも出かけて行くというもので、ある時、行橋市の図書館を考える会から声がかかり、そこで行橋市に隣接した苅田町の職員と出会った。それから程なく、苅田町で図書館づくりの動きがある、来ないかということだった。
苅田町立図書館は福岡県内75町村中第5番目の町立図書館として、平屋建て、1983㎡、蔵書約52,000冊で開館した。(1990.5.12:小波瀬分館40㎡〈1989;2009年➡80㎡〉,BMは15日後の6月1日から、21ステーション)。設計は(株)山手総合研究所の寺田芳朗氏(後に独立して寺田大塚小林計画同人)だった。図書館は開館の年から、図書館計画の2倍をこえる利用があった。計画では、全国の先進的な図書館の利用度を目安として、開館時の登録者を25%、住民1人当たり貸出冊数を6冊、開館から5年目の目標を登録者33%、貸出密度8冊を想定していた。開館した1990年度(11ヵ月間)から私が在職した5年間でみると、1990年度、貸出密度9.79冊、町内登録者42.6%;実質丸1年間の1991年度、貸出12.51冊、登録49.8%;1992年度14.24冊、登録54.8%;1993年度15.24冊、登録58.8%;1994年度貸出16.58、登録63.5%であった。
計画を大きく上回る利用があった主な要因は資料費の継続的な確保(人口当たり資料費、1990年度から1,327円、1,387円、1,351円、1,346円、1,389円;毎年、42,999千円~
47,088千円の資料費)と分館網(1992年6月、北分館250㎡;1994年6月、西分館250㎡)の整備があったと思われる。また計画策定にあたって、図書館を求める、計画の2倍をこえる住民の強く深い要望をしっかりとらえきれていなかったと思い知らされたことでもあった。
八日市へ(2度目の出会い)
日時が定かでないのだが苅田町立図書館の開設準備期(多分1989.4~1990.3の間)、私は一人で八日市市立図書館を訪ねている。覚えているのはJR琵琶湖線の近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え八日市駅で下車し駅から図書館まで歩いて行った時のことだ。昼食の時間と重なると思ってか、途中パン屋さんに立ち寄った。驚いたのは偶々立ち寄ったそのお店に図書館の何か行事のチラシがおいてあったことだ。初めて八日市の図書館を訪ねて、西田さんにお話したのは、まずパン屋さんで手にした図書館のチラシの話であったと思う。そのような場所に図書館のチラシがおいてある、その驚きを挨拶もそこそこに話していた。
西田さんとは10数年ぶり、2度目の出会いであったが、すっとお会いできたように思う。懐かしい人に出会えたような。八日市の図書館は高い天井の下、ゆったりとおちついた空間だった。カウンター前の職員の考案による新刊架、一般書架の最下段を手に取りやすく、見やすさを考えて、床下20センチくらいからにし(通常7㎝くらいからが多い)、5段書架と低書架にしていること。ゆったりとした書架間隔、写真集の収集の密度の高さとここでも、たしか職員手製の表紙見せ平置き架が印象に残っている。
目を引かれたのはサインだった。「社会を見る眼」、「戦争と平和」、そこにはNDC(日本十進分類法)をこわして、分類番号順ではなく、そのテーマ(見出し)のもとに、本が集められ並べられていた(色ラベルを貼付)。NDCによらない、市民にとって利用しやすい排架を目指して時間をかけての取り組みに目を瞠った。
「社会を見る眼」というサインは「ものごとを考える」ための資料の収集、提供という図書館の本来の機能と図書館が目指すものを明示しているように思われた。これはそのサインを目にしてすぐに思ったことではなかった。その時はただ驚いただけであったと思う。ただその驚きは私の中に深く刻まれ反芻されての気づきだった。
「いいまちづくり 役立つ図書館」の常設のコーナーも目にとまった。何かハッとするコーナーだった。まちづくりと図書館、市民の誰にとっても住みよいまち、「いいまちづくり
役立つ図書館」はどの図書館にとっても、図書館の目指すべき在りようではないかと。
自然保護と環境の本のコーナーも、そこに焦点をあてて幅広く奥深い資料の収集と提供に力を尽くしている棚からは、図書館は誰のために、何のためにあるのかという八日市市立図書館の明確な姿勢が伺われた。
この時の視察時に西田さんに話したかどうか。苅田町で私にとって初めて図書館の開設の準備に取り組んで、初めて図書館の建築、設計について向きあうことになった時、私が図書館の建築と設計を考えるための手がかりとすることができたのは1冊の本だけだった。『図書館施設を見直す』本田明、西田博志、菅原峻著(図書館員選書15、日本図書館協会 1986)。3人の著者による本書は私にとって深く納得でき、目を開かれる内容に満ちたものだった(西田さんが書いた4章、とりわけ3.「よりよいサービスを生み出すカウンター」の3.2「カウンターは図書館員を遠い存在にする」、カウンターの敷居の高さ)。出版されて27年がたち、在所の図書館では書庫に入っているこの本は、2023年の今読んでも学びが深い本だ。基本設計がどういうものであるか、それがどれだけの時間を要するものかを考えることができなかった私は、この書をものさしにして設計に向きあうとともに、今ひとつ、
何を目にして得た思いだったのか、設計者が図面に最初の線を描き始める前に、まず設計者と図書館長が相対して、どんな図書館を目指しているかを語りあい、協議を始めることが肝心要のことだとの思いがあった。実際はたっての思いで町が設計事務所の紹介を図書館計画と施設の在りようについて研究されている人にお願いし、図書館建築に思いと経験のある3社の事務所の紹介されていたが、2社からは辞退された。設計期間があまりにも短かったことがその主因だったと思われる。あの状況の中で、あの設計期間であの設計をなしうるのは寺田氏しかなかったと、今にして思う(寺田さんとの出会いに感謝の思いをこめて)。
ともあれ基本設計の設計期間が4ヶ月であったことから(それがどんなに短すぎる設計期間であるかを私自身がまったく考えていなかった)、1988年12月1日に準備室が設置されて1週間もしないうちに基本設計の第1案が準備室と協議を始める前に届き、12月7日に横浜にある設計事務所を訪ねて初めて寺田氏に対したのだった。西田さんにはそのような経緯は話してはいないが、『図書館施設を見直す』の論考から深い力を授かったこと、西田さんの著書を通して手渡されたもののことをここに記しておきたい。西田さんが八日市に来た時には、図書館計画(日本図書館協会委託)も設計もすべて終わっていて、西田さんは館長として作成や協議に関わっていない。(この間には県立図書館長の前川さんの深い関り、ご助力があったと思われる。)西田さんに設計協議に館長として関わってほしかった、そうしたらどんな図書館が生まれただろう、それを見てみたかったという私自身の心底の思いがあり、そんな西田さんと建築家との向きあい方がどうであったかを『図書館施設を見直す』の著者西田さんからお聞きできればという秘かな夢のような思いが私の中に埋もれてあったことに今ようやく気づく私がいる。西田さんと色々もっとお話ししたかったと。
3度目の出会い(八日市市立図書館 1992年11月)
西田さんにお会いした3度目の期日ははっきりしている。1992年のことだった。
1992年、苅田町立図書館が開館2周年を迎え(5月12日)、6月2日には北分館(苅田町立北公民館図書室)が開館。10月3日には1990年5月12日に開館して以来の町立図書館の貸出冊数が100万冊突破(100万回の本と人との出会い)。その翌月の11月17日、日本図書館協会の第8回公共建築賞・優秀賞を苅田町立図書館が石垣市立図書館とともに受賞(1989年、八日市立図書館、1994年湖東町立図書館、同賞受賞、その後、八日市市、湖東町は五箇荘町、愛東町、永源寺町と合併して東近江市となり、これに能登川町と蒲生町が編入合併して1市6町が東近江市となった)。
その授賞式が名古屋市で行われ、沖勝治町長、増田浩次館長に同行した。その帰途、館長の増田さんに八日市の図書館を見てほしくて2人で同館を訪ねた。その際、館内の視察や館長の西田さんのお話とともに、私たちは苅田町立図書館のその後の運営にあたって指針づくりにヒントとなる、八日市市立図書館の取り組みを知らされた。八日市で1991年以来、毎年作成している「八日市市立図書館の目標」だ。「1.私たちの目指す図書館づくり」として10の目標が掲げられている。Ⅰ番目には、「1.市民の求める資料・情報に、かならず応える図書館」、そして、10の目標を達成するために、「Ⅱ.目標を達成するための具体的な課題(指針)」として、7つの柱(指針)が立てられ、それを実現し達成するための具体的な方策が挙げられている。7つの方策(指針)とは、
1. 要求された資料に必ず応え、より多くの市民に資料を借りてもらうために(9つの方策)
2. 子どもへのサービスを発展させるために(5つの方策)
3. 市民の生活、地域の要求課題に役立つために(6つの方策)
4. 温かさと安らぎのある空間を創り出すために(7つの方策)
(1) お客さんへの対応は「さわやか」をモットーとし、あいさつや「ありがとう」
という言葉を大切にする。決してベタベタしない。
(2) 資料のことを聞かれたら、コンピュータに頼らず、気軽に書架へ案内する。
(3) 書架が図書館の顔であることを認識し、全員が整理、整頓(面揃え)に務める。
(6)他のお客さんの迷惑になる行為については、目立たない方法で注意する。
5. 真に市民の要求にこたえる資料を収集するために(4つの方策)
(2)最新情報としての新聞、雑誌を重視する。
(3)選書にあたっては住民のニーズを基本をおき、つぎの点に留意する。
① 市民の向上心に刺激を与えることができるかどうか。
② 資料的価値があるかどうか
③ 街づくり、商店(街)、凧、蛍などに関するもの
④ 自然保護、ゴミ、リサイクル、原発問題など環境保全にかんするもの
(4)高度に専門的なもの、人間の尊厳を傷つけるようなもの、名作物の抄訳版や
翻案もの、芸術的価値の低いマンガや絵本などにちては当面収集せず、これら
リクエストされた場合は、県立図書館などからの借用によって対応する。
6. 自立性のある職員集団を形成するために(7つの方策)
7. 八日市市の図書館システムをつくり出すために(7つの方策)
(1) 貸出を伸ばすためだけでなく、分館建設に向けて移動図書館の効果的運用を図る。
(2) 「分館設置」の機運をつくりだすため、市民、行政への働きかけを強める。
(3) 自宅配本、テープ録音など障害者へのサービスを軌道に乗せる。
(6)県立図書館を十分に使いきり、その上で国立国会図書館をはじめ全国の公立、大学図書館などの力を借りる。
(7)図書館のリサイクル政策の一環として「リサイクル・ショップ」の設立を検討する。【のちに「ぶっくる」として実現】
「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は、『図書館建築22選』(図書館計画施設所編著 東海大学出版会 1995.4)の中で、西田さんが八日市市立図書館について書いた文章の標題であるが、「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は西田さんのさいごの仕事場となった八日市市立図書館での取り組み、実践の姿勢そのものを表していると私には思われる。目標をかかげ、何が課題であるかをさぐりつつ、解決の手立てを考え、それを実践していく。このようにして目前の課題に立ち向かっていくのだ、というあり方を鮮やかに後進のものに指し示している。
【「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は『八日市市立図書館(新館)開館十周年を
記念して』(八日市市立図書館 平成8年(1996年)12月)に転載されている。以下
『十周年を記念して』と表記する。】
苅田町立図書館では1990年(平成2年)5月の開館にあたり、私たちが目指す図書館
として4つの目標を掲げていた。
(1) 学ぶ 生涯にわたる自己学習を保障する、町の情報センターです
(2) 集う 本のある出会いの広場、ふれあいの広場です
(3) 憩う すべての人が自分の時間を、お気に入りの場所で過ごせます
(4) すべての町民のための図書館
いつでも、だれでも、どこに住んでいても、なんでも利用できます
つぎは、この4つの目標を達成するための具体的な指針を苅田町に即して考えることだった。こうして翌年度の1993(平成5)年4月から、「苅田町立図書館の目標―私たちが目指す図書館―についで、「運営方針」として、4つの指針を表明、明示したのだった。
1.「学び」を実現するために
(1)住民の求める資料を確実に提供し、さらに資料に対数要求を高める。(方策6)
(2)豊かな、魅力ある資料を収集する。(方策3)
②町民のための最新の情報源として、新聞・雑誌の収集に力を入れる。
市販のものに広く目を配るとともに、町民の目に触れにくいもの、入手しに
くいものの収集に配慮する。雑誌については、複本も積極的に購入して最大
300誌を目標に増加を図るとともに、利用度、内容に応じた更新を常に検討す
る。
③選書にあたっては、住民が求めるものを基本にして、次の点に留意する。
ア 読者に生きていく上での力や励ましをあたえることができるかどうか。読者に学ぶ楽しさを伝え、学びの世界に誘うものかどうか。・読者が読んで何かを発見する本・正確な本・美しい本・著者が一生懸命に書いている本
イ 資料的価値があり、かつ利用度が高いもの
ウ 豊かな暮らしに関わるもの
エ 町づくり、地方自治に関するもの
(4) 町民の暮らしの課題や地域の課題の解決に役立つ(方策4)
① 町民の暮らしの中での疑問や仕事の上での疑問、また、地域で直面している課題の解決に「レファレンス」サービスという形で援助する働きが、図書館の基本的な業務であることを事例紹介とともに広く知らせ、「調べごとは図書館で」といった利用を図る。
② レファレンスの回答をする時は、必ず複数の職員にも相談し、また、結果を職員全体に周知する。
③ 住民の声を聞き、住民の求めているものを把握することに絶えず努め、選書や図書館運営に生かしていく。
④ 地域の課題や行政課題の把握に努め、その課題に関わる資料の収集・提供を行う。
2.「集い」を実現するために(方策3)
〇本のある広場としての図書館を育てる
3.「憩い」を実現するために(方策4)
4.「すべての町民のための図書館」を実現するために(柱4,方策9)
(1) 児童へのサービスを発展させる
① 子どもが生きている世界や、子どもを取り巻く地域の状況の把握に努め、一人ひとりの子どもが見える対応を心がける。
② 子どもの身近に、子どもの手の届くところに、「本当におもしろい本」のある状況を作ることに力をいれる。
③ 子どもカウンターに職員を配置し、子どもの本の読書相談を積極的に行う。
④ 読書に慣れていない子どもに、愉しく面白い本の世界を知らせるため、定期的なおはなしタイムや人形劇など、各種の行事を行う他、フロアでの読み聞かせを行う。
⑤ 地域の子どもの読書環境の改善に取り組む文庫活動に対して、その活動状況をつかむとともに、できるかぎりの支援をする。
(2) お年寄りや図書館利用にハンディキャップのある人へのサービスに努める。
(3) 図書館を一度も利用していない未利用者への働きかけを行う。
(4) 苅田町の図書館システムをさらに充実させる。(方策4)
⑤ 求められた資料を確実に提供するため、県立図書館をまず十分に活用し、さらに国立国会図書館や全国の公共図書館、大学図書館などの協力を求める。相互貸借を通じて、全国の図書館につながる活動を積み重ね、図書館システムのさらなる充実を図る。
【注記:当時は県立図書館から県内の図書館を巡回して、相互貸借を行う体制ができていなかった。】
西田さん 苅田町の事例を長々と書いてしまいました。八日市の図書館から深く学び授かったことを、西田さんに何の報告もしないできたことを改めて思い返し、遅ればせの報告をしようとする私がいます。最初に松原をお訪ねして以来、お会いするたびに、またご著書と西田さんの図書館での実践活動の足跡から、私自身深く自覚しないままに、その時々にこの上ない学びを授かってきたこと、そのことをこれまで一度も西田さんにお話していなかった自分自身に驚いています。
長くなってしまいましたが、あといくつかのことを。
4度目の出会いは (滋賀で 1995年)
苅田町立図書館が開館して5年目の年の暮れ、1994年12月、滋賀県能登川町で図書館開設の動きがあり、翌年4月に設置される開設準備室での仕事のお話があり、お受けすることにした。3月末で退職するまでの3カ月の間に、能登川町で図書館・資料館(のちに博物館)の基本構想策定委員会が3回開かれ委員会に参加した。1回目の委員会は阪神淡路大震災が起きてそんなに日がたっていない1月の末頃だったろうか。委員会に先だって送られてきた資料の委員の名簿をみて驚いた。能登川町の町民や町職員の他に町外の委員(学識経験者)として、滋賀県立図書館長の澤田正春さんや八日市市立図書館長の西田さん、そして滋賀県立博物館の準備室の用田さんのお名前があったからだ。澤田さん、西田さんのお名前に驚いてしまった。県、県立図書館をあげての、県内の図書館が協力し合っての、他県に例のない図書館づくりの真剣で本気の姿勢が感じられた。なんとその委員会で西田さんにお会いできると思っていたが、西田さんは病気で欠席され、1回目の委員会だったかどうか定かでないのだが、委員会終了後に病院にお見舞いをした。4度目の出会いだった。車好きの西田さんはその頃、キャンピングカーで生活をする住所不定の図書館長で、西田さんが倒れたのは河原に止めていたキャンピングカーの中でだった。なんとか図書館まで来られたもののそのまま入院されリハビリにつとめられたが、図書館に来られるようになったのは4月以降だったのでは。そうしたお体の状態で、八日市市立図書館開館十周年記念事業(7.23岡部伊都子講演会、乾千恵語りの会)、西田さんの仕事の集大成とも思える「風倒木」(7.9)や「ぶっくる」(本のリサイクルショップ 7.9)のオープン準備にとりかかられた。
西田さんは委員会に参加されることはなかったが、委員としておられるだけで、私は大きな拠り所と感じていたように思う。
準備室発足前に、1年間、担当職員を研修に
1995年4月1日から人口2万3千人の能登川町で図書館・資料館開設のための仕事が始まった。準備室のスタッフはそれまで社会教育課係長として実質的な開設準備を担当してきた清水保さんと、司書の資格をもちそれまで町長部局の仕事をしていた松野勝治さん(現・東近江市立八日市図書館長)と私の3人。私が驚いたのは、準備室が発足する前の1年間、松野さんを図書館での研修にだしていてくれたことだ。それも滋賀県立図書館で半年、八日市市立図書館で半年という、研修先としてベストと考えられる図書館でだった。図書館の研修では、研修での様々な学び自体の重要な意義は勿論のことだが、それにあわせて、それぞれの図書館で生まれたと思われる松野さんと2つの図書館の職員の人たちとのつながりは松野さんのこれからの図書館での仕事に大きな力になると思われる。明るい性格でユーモアにあふれ、ひと懐っこい松野さんは幾人もの人と親しい関係を、そうと意図せず
作っていると思われた。そして新館準備に当たる職員の研修先ということで、西田さんと澤田さんがが立ち現れたことに私は心底驚かされた。能登川の図書館が開館するまで2年6カ月の期間(苅田町の2倍)があったが、準備室の仕事が何とか進み始めたある時期、短い期間であったが土曜日か日曜日の役所が休みで準備室が閉室の日に、私は館長の西田さんの許しを得て、八日市の図書館で返却本を書架に返す作業をさせていただいたことがある。できれば自ら志願して、そこで実習したいと思う図書館が八日市市立図書館だった。また、県立図書館の仕事をしている県立図書館が全国で数少ないと思われる中で、滋賀県立図書館は県立図書館は何をするところかを、日々の活動を通して示し続けている図書館で、町立図書館の職員がその県立図書館の実態を知り、県立の仕事の体験をすることは、町立図書館で仕事をする上で、県立図書館をよりよく利用し、町立図書館の職員としても、今、これからの県立図書館のあり方を考えていく上でも、この上ない得難い経験だったと思われる。
こうして能登川町立図書館が始まる前に、西田さんによって図書館魂ともいうべきものの種が蒔かれていたことにあらためて思いがいたる。
西田さんの図書館の実践、そのお仕事で、あとを歩んできたものとして感謝にたえないのは、その軌跡を記録として、文書として残されていることだ。住民と図書館が共同で企画編集する『筏川』の刊行、『八日市市立図書館の目標』、そして『十周年を記念して』。
それらを手にとって頁を開くと、どの頁からも西田さんの実践から生まれた声や魂の声が立ち上がってくる。
『十周年を記念して』の14頁、「すべての本を貸出するということ ―八日市市立図書館の理念―」には、西田さんの図書館魂が語られているように思われる。
「八日市市立図書館設立の目的は、第一に発行されている図書のすべてを、八日市市民及び市内に通勤、通学している者のすべてに貸出し、提供することである。
それは当図書館内に保有するものの他に、国立国会図書館をはじめとする他の公立図書館、大学図書館等にある発行物を、八日市市立図書館の名において、市民等に貸出し、提供するということである。その意味では、一地方自治体における住民のための「本の窓口」という役割を果たすものであろう。
私たちが、これに基づいてまず手がけたのは、「図書館にある本はすべて貸出しをする」ということである。普通、図書館では、辞書や事典、ハンドブックなど参考図書、あるいは雑誌の最新号については、貸出しをしないという所がたいへん多い。
当館では、こうしたいわゆる参考図書や郷土資料でも貸出しすることにした。これは職員が参考事務を行うなど、職員の間で多少ひっかかりはあったが、百科事典を複本で購入する、貸出し期間を1週間にするなどして、なんとか乗り切った。これまでに数年経ったが、これにより大きな支障が起きるということはなかった。一般図書では、加除式の現行法規については、その性質上、貸さないということが決められた。
【このことでは、能登川町立図書館も1997年11月の開館以来、貸出ししない図書は現行法規だけであったが、すべての図書を貸出すことで私がいた開館後の9年間で、支障をきたすことは一度もなかった。
在所の図書館や近隣の図書館で、すぐ目につくのは「禁帯出」のラベルが貼ってある図書(の一群)だ。その多くが館内にあっても手に取られず利用されていないように思われる。】
そうして雑誌については、要望の多かった女性誌を中心に、複本を180種類ほど購入し、週刊誌以外の最新号の貸出しを始めている。総タイトルも180種類から始まり500種をこえていた。(580種?)
貸出し冊数を無制限にし(能登川も)、ランガナタンの図書館学の5法則のうち「図書は利用するためのものである」という第1法則から八日市の図書館の書架の高さや並べ方を考えている。私も5法則は図書館の運営にあたっての実際的なものさし(基準)だと考えてきたが、そのものさしにのっとっての実際の適用、応用や見直しがいつも求められていると思う。
能登川町立図書館も基本構想を策定したとき、「貸出をサービスの基本とする」と掲げてきたが、そのことがどういうことであるかが、よく考えられていない図書館が訪ね歩く図書館の多くで見られるように思う(「禁帯出」のラベルに象徴される)。西田さんの「図書館が何をするところか」の要の理念「すべての本を貸出する」という図書館の存立の理念が
2023年の今、西田さんたち八日市市立図書館の実践をもって問われているように思います。
『十周年を記念して』には、多くの市民の声とともに、十周年記念式典での西田さんの言葉、(「十周年について」)についてや、「八日市市立図書館はなぜ貸出冊数「10万冊減」を打ちだしたか」、「図書館と集会行事」(八日市図書館において集会行事とはなんであったか)、「八日市市立図書館見学記」「私の研修日記」(橘良枝)、「雑誌・新聞記事から」、「資料」、そして最後に「八日市市立図書館がつぎに目指すもの」が掲載されている。
その中で『子供と読書』〔岩崎書店 1989年1月から12月まで連載、『いなかの図書館から(1)~(11)』〕の第1回目に掲載された西田さんの「ココ・ゴリラがきた理由」を紹介しておきたい。
八日市図書館を訪ねた人にはお馴染みだが、図書館の入口を入ってすぐ、カウンターの手前の心地よさげな椅子に座った大きなゴリラが迎えてくれる(「もちろんぬいぐるみだが等身大(?)の精巧なもので、相当に迫力がある」)。「西田さんがこのゴリラに出あったのは1988年11月、大阪の某プラザの玩具売場。「その巨体は人の目を引くのに十分な貫禄をもっていたが、私をその場から立ち去り難い気持ちにさせたのは、むしろうつむきかげんの顔の下からのぞいている、なんともいえない優しい眼差しのせいであった。」「このぬいぐるみのモデルになったのは、世界ではじめて人間のことばを修得した、ココという名のローランド・ゴリラ」「私は、このココという名のゴリラを図書館にほしいと思った。がっしりしたその巨体とやさしい眼差しを図書館の子どもたちに見せてやりたい、そう思ったのである。しかしその定価はなんと十五万円!」「われわれのごとき弱小図書館に、おいそれと手の出るような代物ではない。それでも、あのゴリラがほしい。八日市に帰ってきてからも、その思いはなかなか消えなかった」「あたらしい建物になって、どことなく取り澄まして見える自分たちの図書館に、私は少々あせりのようなものを感じていた時期であった。」「誤解を受けることを承知でいえば、単に貸し出しするだけの図書館なら、今の時代、当たり前のことである。暖かさと安らぎを感じさせる、そういう図書館づくりこそやってみたい。」
「ほっとする空間、そのなかでこそひとびとは自分の必要とする本に出あうことができる。さんざん迷ったあげく、ついに私は大切な図書費を割いて、ココをつれてくる決心を固めた。」「職員はあきれた顔をし、財政担当者は渋い顔をした。ふだん「図書館の命は図書費」などとわめいておきながら、こともあろうにその予算でぬいぐるみを買おうというのだから、そういう顔をされて当然なのである。それでも最後は「ま、館長がそういうんやさかい」と承知してくれた。」「ココがきてしばらくは、そのあまりの迫力に泣きだす子どももいて、私は身が縮まる思いであった。私が感じているココの暖かさは、もしかして私自身の思い込みにすぎないのではないかなどと思ったりした。しかし、人気の方は上々であった。子どもだけでなく、おとなたちもシゲシゲと眺め、さわってその感触をたのしんだりしていた。ココのやさしさをわかってくれたのだろうか、最近では泣きだす子どももほとんどいなくなった。力いっぱい抱きしめる子、手を引っ張る子、鼻の穴に指を突っ込む子などさまざまであるが、その姿を見るのはなかなかに楽しい。反対に中学生などが、ボクシングよろしくココのおなかにパンチを打ち込んだりするのを見ると、つい声をあらげたりするのである。」【私は残念ながら、その場に立ち会ったり、見たことはないのだが、西田さんの、相当に迫力ある怒声の姿が思い浮かぶ】
「ココを買ってよかったのかどうか。職員は相変わらず「しょうがねえ」という顔だし、図書館仲間は笑ってばかりである。よくわからないが、多分常識からはずれた行為だったのであろう。貸出実績においてココ効果があったというデータのないことを、私はたいへん残念に思っている。」
長くなってしまいました。さいごのご報告。能登川という八日市図書館の身近な場に12年間も住まいながら、図書館員にとっては宝の山である八日市の図書館をしっかり見る時間を持てていなかったことを痛感しています。最近、八日市の図書館から西田さんがおられていた時に刊行された『筏川』No.1~10と退職後に刊行されたNo.11 を送っていただき、持っていなかった号をコピーして1号からゆっくり読んでいます。なんとしたことか、その大半を読んでいなかったのです。3号のさいごの頁には、「図書館サービスご案内」の欄があり、「本や雑誌の貸出し」、「読書案内や調査研究へのお手伝い」、「コピーのサービス」に続いて、「ご自宅への配本サービス」がある、「身体的理由で図書館まで来られない方には、電話一本で自宅まで資料をお届けします。目のご不自由な方には、朗読テープの作成、対面朗読のサービスも実施しています。詳しくは職員にお聞きください。」とありました。
【だれでも 1985年の八日市市立図書館開館時から】
『筏川』からは西田さんの声が聞こえてきます。西田さん ほんとうにありがとうございました。
2023年7月28日 才津原 哲弘
漆原宏さんから No.119
昨年、9月に亡くなられた漆原宏さんの追悼の記を、図書館問題研究会(図問研)
福岡支部の会報に掲載していました。ここに掲載いたします。
(パソコンによわく、すぐにブログに掲載できず、甥っ子が来た時に、その
助力で、ようやく掲載しました。)―――――ーーーーーーーーーーーーー
漆原宏さんから手渡されたもの 悼詞 (1939.4~2022.9)
漆原宏さんの訃報を知ったのは9月17日、亡くなられて2日後のことだっ
た。漆原美智子さんが発信されているお言葉でだった。美智子さんによれば
漆原さんは一年間寝ついて懇切な訪問看護を受けられていた由。「9月15日
朝方、千葉さん、大澤さん、伊藤さん達のおられる世界に旅立ちました。18
日に自宅から出棺、部屋には彼の写真パネル・・・彼らしい人生でした。」と。
とっさに私の中に浮かんだのは、たしか旅先の静岡からいただいた漆原さん
からの電話のことだった。「いま、美智子さんと一緒にいます、これから二人
での生活を始めます」と話されたあの時のはずんだお声、漆原さんの深い喜
びがまっすぐ伝わってきて、私までも何ともうれしい思いにつつまれたあの
ひと時のことだった。あれはいつのことだったか。以後、漆原さんを思う日が
続いている。出会いの時からこれまで、漆原さんから手渡されてきたもの、
そのかけがえのなさをあらためて思う。自ら深く自覚することなく、それを
手渡されてきた。
最初に漆原さんにお会いしたのは私が博多駅前4丁目にあった記念会館図書室
(財団法人博多駅地区土地区画整理記念開館)で働いていた時のことだ。千葉
県の八千代市の図書館を2年でやめ(1974・昭和49.3月)、退職間際のある出
会いから保育所の保母さん3人と共に職業病の問題(公務災害)で2年近く共
に動き、公務災害の認定を経て1975(昭和50)年に福岡に帰ってきた。そし
て翌年の1976(昭和51)年の7月頃から、5月に開館して間もない福岡市民図
書館で嘱託職員として働き始めた。同館には1979(昭和54)年3月まで、足掛
け3年弱、主に福岡市内に160ヵ所近くあった文庫などに、団体貸出の本を運
ぶ仕事についていた。
同年四月からは財団法人記念会館の職員として1988(昭和63)年11月末まで
9年弱働いた。記念会館は福岡市が20年をこえて博多駅地区の区画整理事業を行
い、事業完了後、この事業への地域の人の協力に感謝して建てられたもの。1階に
232㎡の図書室、2階、3階に無料の大広間、また有料の茶室や会議室(小・中・
大)があり、職員は福岡市を定年退職した職員が事務局長として数年間でかわり、
正規職員は私1人(数年間は事務職員が1名)、庶務、経理担当の嘱託職員1名
(最後の数年間は私も経理の仕事、財産目録や貸借対照表の作成、複式簿記など
も担当)。そして図書室には、当初、臨時職員1名(のちに2名に。福岡市民図
書館と2か月ごとに交互に勤務)という体制だった。福岡市から寄付された3億
5千万円を基本財産として、その運用利息と会議室の使用料収入が原資で、とり
わけ利息収入が収入の大半を占めていた。
1976(昭和51)年当時、人口100万人をこえる福岡市に市立図書館は、5月に
開館した福岡市民図書館1館だけで、各区にあった市民センター図書室は分館では
なく、公民館図書室の位置づけだった。私が働き始めた記念会館図書室は仕組みとし
ては、福岡市の図書館の分館ではないけれども、私自身としては、地域館だと、福岡
市の分館だと考え、特に「利用者の求めるものを、できるだけ速く、利用者を手ぶら
で帰さない」ということを基本にして働いていた。リクエストを当たり前のことと考
え、相互貸借での借り受けは主に築港本町にあった福岡市民図書館から行い、時折自
転車やたまにタクシーで出かけていた。(当時、福岡県内の図書館では、それが必ずし
も図書館の当たり前の基本的なサービスとして、行われていなかったように思う。数
年後、福岡市内の須崎公園内にあった県立図書館で、たしか2万冊ほどが、初めて開
架スペースに出されて貸出されていた時代だった。記念会館開館3年後の1982年、
昭和57年度の福岡市民図書館の貸出は32万1千冊、市民センター図書室4室等の貸
出89万1千冊を加えても、福岡市民1人当たりの貸出は1.14冊。この年の市民図書
館のリクエスト冊数2,313冊、記念会館4,668冊の1/2以下)。
漆原さんが記念会館図書室に初めてやって来られたのは記念会館が1979(昭和54)年
に開館してどれぐらい経った時だっただろうか。今となっては定かでないのだが、カ
メラをもって図書室に入ってこられたその時の姿、表情を覚えている。その笑顔と人を
包みこんでやまないその人柄と活気(元気な気配)を。
それまで一面識もない漆原さんがどうして来られたのか。記憶のかすかな糸をたぐる
と、県立図書館の白根一夫さんが、たしか『みんなの図書館』に記念会館図書室のこ
とを書いていて、それで知られたのだろうか。それとももしかしたら福岡県立図書館
を取材された漆原さんが白根さんから記念会館のことを聞かれたのだったか。いずれ
にしても白根さんが漆原さんとの出会いの縁しをとりもってくれたことに今にしてよ
うやく気づくあり様だ。
白根さんとの出会いがあり、私が図書館問題研究会(以下、図問研)福岡支部の事務
局を記念会館で引き受けたのは1986(昭和61)年からだったと思う。同年8月から
毎月1回の福岡地区の定例会を始めると共に、参加された会員、非会員の人たちと福
岡市の図書館の登録者分布図の作成や福岡県内の図書館の状況が見える資料作りに取
りくんだ。それまで7年間、財団法人の小さな図書室で働いてきて、人口100万人を
こえる大都市で市立図書館が1館しかないことの問題、市民の大半に、図書館が身近
にないことの問題を切実に感じるようになっていた。そして、当時私が住んでいた
福岡市のある地区で、生協を通して梅田順子さんと知りあったことが私にとってとて
も大きな出来事だった。
そしてその年の11月22日、図問研福岡支部長名で福岡市長選立候補者に図書館政策
を問う公開質問状をだした。支部長は白根一夫さんだった。翌年1987(昭和62)年2
月に開催した支部の総会では、3月20日に予定されていた県知事選にどう取り組むかの
論議のなかで、
① 市長選で支部長名の個人名をだしたことについて、支部会員内部にも反論があっ
たこと、及び支部の活動の実態からいって、支部が主体とはなり得ない。かとい
って実体のない主体を作り上げて出すのはやめたほうが良い。
② 県立図書館のサービスアップを訴えるならともかく、市長選などと異なり、知事選挙
では、訴える内容が、県行政にとっては直接的なかかわりが薄いものになるのではないか。
③ 現職知事批判になり得るのではないか(「図問研ふくおか支部ニュース」復刊、
No.16、1987(昭和62)年2月28日発行)
などの発言があった。この間、白根さんが上司から呼ばれ、県職員が市長選挙で公開質問状を出すことについて問われるということもあった。私は一人の図書館員だったが、同時に福岡市に暮らす一人の市民として、よりよい図書館づくりに向けて何をなすべきかを考える契機となる出来事だった。
そのような状況の最中の3月1日と2日、私は図問研の全国委員会に出席するため東京にでかけ、その日の夜だったか、食事を共にするため漆原さんに会っている。その会食の場には、全国委員会が初対面で、その後、漆原さんと共に生涯にわたって深い力をいただいた千葉治さんと、そして大澤正雄さん、伊藤峻さん、たしか中多さん(一度きりの出会い)がおられた。大澤さん、伊藤さん、中多さんとは初対面、それぞれどんな方かも知らない私だった。大澤さんにはそれから、私にとっての要所要所でお力をいただき、伊藤さんには朝倉町で町長や町民への講演で、伊藤さんならでのお話や長崎県上五島有川町の図書館まで訪ねて(2人の職員、宇戸明子さん、角谷悌子さんに深い元気を)手渡してくださった。その夜その時には私自身、思いもよらないことだったが、以後幾人もの私にとって大切な人となるお一人一人を漆原さんから出会わせていただいたことをあらためて思う。
【この時の2つの図書館の見学で、卓球台のあるスペースの床がすり減っていた八広図書館と、新たに新築開館していた日野市の高幡分館を訪ねたことは、図書館は何をするところか、また分館の在りようについて、私にとって、心深々と、たしかなイメージを授かる出来事だった。また、1987年の全国委員には九州では、佐賀の原田明夫、大分の渡部幹雄、山口の山本哲夫、広島・神田全教、兵庫・原田安敬、大阪・西村一夫、松宮透・滋賀、松島茂・東京、三村敦美・神奈川、高波郁子・千葉、古我貞夫・埼玉、他の各氏、常任委員には、松岡要委員長(3月には千葉治委員長だったのではと思う)、西村彩枝子事務局長、坂部豪、伊藤峻、後藤暢、半田雄二、伊沢ユキエ、川越峰子、若杉隆志、他の各氏。宮城、仙台の平形ひろみさんに会ったのもその時だったと思う。】〔『住民の権利としての図書館を・図問研年表1945―2015・資料集1954―2013』、ここにあげたお一人ひとりが漆原さんとつながり、連なり、漆原さんからナニモノカを手渡されていたのだとあらためて思う。〕
その食事の場で福岡の状況を話したのだったか。あるいは、福岡に帰ってから伝えたのだったか。私は漆原さんから「仙台にもっと図書館をつくる会」の活動のこと、つくる会の代表の扇元久栄さんのお名前をお聞きしている。
ようやく出てきた資料をみると、「東京から帰って来て程なく、私は仙台の扇元さんに電話をかけて」いる。1987(昭和62)年3月5日のこと。「多分、漆原さんから夜遅く電話しても大丈夫だと聞かされてのことだったと思うのですが、それでも私の記憶では、電話をしたのは夜10時くらいだったと思っていました。ところが、その後、扇元さんにお会いし時間のことを話ましたら、即座に「いいえ、才津原さん、零時を過ぎていました」と言われたのだった。「いくら夜遅くに電話しても大丈夫だと言われたとはいえ、初めての方に深夜、零時を過ぎて電話をかけるとは、私自身、とてもせっぱつまった思いの中にいた」のだと思う。
その後の私の歩みを振り返ってみると、扇元さんとの出会い(最初は電話で)はその後の私の歩みを決めるような出来事だったように思う。扇元さんからはすぐに、つくる会の活動のすさまじい資料が送られてきた。考える部会(市民がつくる図書館計画)、伝える部会(会報「MOTTO」)、広める部会(お話の出前、読み聞かせ、折り紙)の3つの部会を作っての目を瞠る活動(運動)のひとつひとつに驚かされた。「考える」「伝える」「広める」の3つは、どのような会の形であれ、福岡での活動(運動)の柱となることだろう。それにしても、つくる会の活動の何とも自由で生き生きとした様子が、一つひとつ、一枚一枚の資料や冊子から立ち現れてきたのに驚いた。そして扇元さんの細やかで心温かいお言葉に心打たれた。
扇元さんから大きな指針と深い励ましを手渡されて、程なく「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。梅田順子さんが考える会の代表をすっと引き受けてくださったのが会の始まりだった。1987年のことだ。考える会では、
①月1回の定例会(市民センター会議室、新聞に集会参加の呼びかけ、第1回―4月8日)
②図書館のお話の出前(福岡市内だけではなく、どこにでも)、講演会(山口県周東町立図書館長、山本哲生さん。茨城県水海道市立図書館を設計した三上清一さん。)
③ 福岡市の図書館政策づくり
に取り組んだ。
②の「図書館の話の出前」では、以後、生涯にわたる友人、知人となる出会いがあった。柳川の図書館を考える会の菊池美智子さんの所へは、福岡の考える会の2人の元気な若い仲間とスライドをもって出かけ、心温かな出会いの中で、3人が一宿一飯の恩義を授かった。(蚊帳をつっていただいた。)この時の出前が美智子さんと漆原さんとの出会いの遠景に連なっていたかもと心に想うのは、心嬉しい思い出だ。人の出会い、縁しの不思議さを思う。
行橋の図書館を考える会の出前では、前田賎さん、神田先生方とともに、苅田町の山崎周作さんと出会い、その後、苅田町に行く契機となった。(1988年12月1日、苅田町図書館開設準備室へ)
③ の福岡市の図書館政策づくりは、当初3カ月の予定が1年にも及ぶものとなった。福岡
市の図書館の登録者分布図の作成、この膨大な手作業に若き仲間たちが力をつくした。図書館が市民の身近にない状況が、一枚の福岡市の地図の上に、はっきりと目に鮮やかに立ち現れた。タイトルを、『ニ00一年 われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』とした。前川恒雄さんが『われらの図書館』で示された図書館の在りようが13年後の21世紀、2001年には福岡市で、“われらの図書館”に向けての歩みの第一歩が踏みだされているようにとの願いをこめたものだった。
総ページ47ページ、3部からなり、「第1部わたしたちの図書館―図書館入門編」では、菅原峻さんの図書館施設計画研究所が作成した「図書館とわたしたち」(絵本作家わかやまけん・イラスト)をモデルに、「Aだれでも」「Bどこに住んでいても」「Cなんでも(どんな資料でも)について、若き仲間がイラストと言葉で心強い渾身の力を発揮した。
「第2部福岡市の図書館―現状と問題点―」では、「1.身近に図書館がない⁈」とはどういうことか。「2.図書購入費の問題」「3.職員の問題」「4.市民センターの問題」をイラスト入りで。
そして「第3部わたしたちの図書館構想―近・未来編―」では、【一番参考にしたのは、1970年の東京都の『図書館政策の課題と対策』だった。】「1.図書館活動の諸目標 6つの目標」として、「①くらしの中に図書館を―貸出を指標に―」「②市民の身近に図書館を―図書館システムの確立を―」(1)歩いて行けるところに図書館を(2)図書館整備計画(3)
ここにこんな図書館を。図書館配置構想/イラストで。3.「豊富な資料を―新しい本をたくさん」「4.司書を必ず図書館に」「5.障害者・病人・恒例の人たちへのサービス」「6.地域住民の“ひろば”としての図書館を」
「2.当面の施策、何からはじめるか」
「① まず自動車図書館(BM)の運行から」「②市民センター図書室を分館に」「③地区館・分館の建設について」「4中央図書館について」
ここで35年前の市民がつくった図書館構想を少し詳しく記したのは、福岡の図書館を考える会の仲間たちと力をつくして作った『2001年 われらの図書館』の構想が、そのまま苅田町の図書館計画の下地になっていたという、今、現在の気づきによるものです。
そうして、もう一つの気づき、図書館が何であるか、「いつでも」「どこでも」「だれでも」「なんでも」とは、どういうことであるか。「移動図書館とは何か」、そして「図書館長のの仕事、その姿、佇まい、司書である図書館職員の働きかた」とはどのようなものであるか。そして「図書館を利用する一人ひとりの利用者の姿、在りよう」とはどんなものか。それらを漆原さんの図書館の最初の写真集『地域に育つくらしの中の図書館 漆原 宏写真集』の一枚一枚の写真から眼に見えるものとして受け取っていたのだと今にしてあらためて思うからです。タイトルの「地域に育つくらしの中の図書館」こそ、私自身が一人の市民として、また一図書館員として目指してきたことだったことをあらためて思う。そのはじまりが、その時それと気づくことなく、この写真集を開く折々に手渡されていたのだと。
この一枚一枚の写真と共に、私はさらに大切な贈り物をこの写真集から授かっている。写真集の森崎震二さんの「解説」の言葉、「あとがきにかえて」の漆原宏さんの言葉、そして
そして一枚一枚の写真につけられた説明のコトバ(図書館職員の戸田あきらさん、西村彩枝子さんたちだろうか)と英文(松岡享子さん)の力。
1 生涯にわたる自己教育 Life-long self-education
「人は毎日の生活をくらすのに学習しないで済ますことはできなくなって来ています。それは人類の歴史に上にもはっきりと示されています。」「1970年代に新しく生まれた多くの図書館―新しく生まれ変った図書館の中で人々は老いも若きも、男も女も、それぞれの目的にしたがって、一人で、集団で、さらに戸外でも活用しはじめているのです。このような個人の自己学習がなくては、社会で労働し、生活してゆくことも難しいほどに文化の高い社会になってきているのでしょう。」
【以下、〇印は写真、次に写真の「説明」のコトバ、図書館名、撮影月日、英文、頁の順】
〈キャプションの言葉とその意味を豊かに広げる英語のコトバに驚く!〉
①「わたしこれにする」長崎・滑石子ども図書館(文庫)’82・3・13
Nameshi children’s Bunko, Nagasaki. I can write may name, too. (8頁)
②ボクにも「かりだし券」横浜市立金沢図書館 ‘80・1・19
Kanazawa Public Library, Yokohama. Papa gets me a library card. (8頁)
③「どうやるの?」 文京区立真砂湯島図書館 ‘81・5・30
Masago Yushima Public Library,Tokyo. Librarians are ready to help you. (23頁)
④「身近な存在」 墨田区立八広図書館 83・3・31 Yahiro Public Library
Stand or sit, as you like. (30頁)
⑤「新しい図書館ができました、ぜひおいでください」 墨田区立八広図書館 81・5・25 Giving out brochures on a newly opened library・・・・ (105頁)
2 地域の図書館 Library in the Community
「図書館は身近になければ、日常の用に役立ちません。お正月とか、お盆とかに年一回使えば済むというものではないからです。だからその地域になければなりません。(心に響き、
体に刻まれた言葉!)
図書館の特徴として、仮に建物がなくても自動車に本を積んで廻ってくる自動車図書館(B.M)によって資料の提供ができます。この動く図書館(移動図書館)は銭湯の前でも、団地、スーパーの前でも、多少の空き地さえあれば人の集まり易い所に来て店開きできます。自動車図書館がきっかけになって出来る2~3万冊ほどの地域図書館は、一つの自治体の中に数か所、規模の小さな分館と自動車図書館を運用すれば、市町村のどこに住んでいても、住民はみんな図書館を活用できます。
図書館の第一の仕事は資料を利用者の求めに応じって貸し出すことです。それとともに情報を求めてくる人に資料案内をする外、参考質問に応え、利用者の調査研究を援助することにあります。
「地域に育つ暮らしの中の図書館」(in the Communityが図書館)が私の中に血肉としてあること、そこに向けて歩んできたこと、これからも歩んでいくだろうことを思う。自ら気づくことなく、漆原宏さんから手渡されてきたものと共に生きてきたことを思う。
自らの進退のことで、自分でいったんは決めた判断がゆらいだことが一度だけある。その時、即座に背を押された。その時の漆原さんの声が今も耳元にある。
漆原宏さん夫人の美智子さんのフェイスブックでは、漆原さんの写真パネル展の部屋を“くつろぎの部屋”へ、“フォート蔵前 茶会”、“写真パネル 船出”など、近ければ駆けつけたい活動が次々に紹介されている。漆原さんの活動をその温かなお心でつつみこみ、熱い心棒でささえ、共に歩んでこられた美智子さんの活動が漆原宏さんと共にたゆみなく続けられている。
あらためて写真集を手にとる。
『地域に育つくらしの中の図書館』の表紙の写真、男の子が両手で絵本を頭の上に持ち上げて、こちらを(読者を、写真を撮る人)をまっすぐ見つめるその眼差しを目にすると、子どもが本と出会うことの喜びの深さを知らされると共に、その喜びを、ぼくたち、私たちに手渡しているの?という問いかけを感じてきた。
3章「くらしの中の図書館」の解説のページの見開きのページにも掲載されているこの写真
のキャプションは、「うれしいな」 浦安市立中央図書館 ‘83・3・20 Urayasu Centoral
Library,Chiba で、英語では、These books I’ll take home.となっていて、 46頁の「見て、見て」(日野市立中央図書館 B.M)の両手にいっぱいの本をもつ女の子の写真と共に、本を手にするヨロコビを直截に示している。表紙の写真のキャプションは“うれしいな”、 〈ダッテ〉 These books I’ll take home.”〈ダカラネ!〉。――漆原さんからのかけがえのない贈りもの、これからも身近に、終生ともにあることと思う。ほんとうにありがとうございました。
2023年8月17日木曜日
上野英信生誕100年 記念の集い No.117
直方市立図書館には筑豊文庫資料室がある。上野朱(あかし)さんより、直方市に
上野英信氏の筑豊文庫の資料が寄贈されて、図書館に筑豊文庫資料室が設けられた
ものだ。 今年が上野英信氏の生誕100年であることから、同資料室では下記のよ
うな講演会を企画されている。案内のチラシから紹介します。
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直方市立図書館 筑豊文庫資料室講演会
上野英信生誕100年
伝えていく沖縄・筑豊
次の世代へ 希望をこめて
2021年5月、記録文学者上野英信没後33年を記念して、沖縄県名護市屋部
(やぶ)に地元有志の方々による「上野英信『眉屋私記』文学碑」が建立され
ました。
生誕100年にあたる今年、この文学碑をリレーするかたちで、将来をになう
沖縄と筑豊の若者が「筑豊文庫資料室」を交流の場とし、トークと朗読を交え
ながら、ふるさとの歴史、風土、文化を未来にどのように伝えていくかを語り
合います。
〈トーク&朗読〉
沖縄の中学生(名護市立屋部中学校)
筑豊の高校生(大和青藍高等学校)
筑紫女学園大学教授 松下博文さん
眉屋私記文学碑建立期成会 比嘉久さん
上野朱さん --------
日時 8月19日(土) 10時~12時 ------
会場 ユメ二ティのおがた小ホール -------
受付開始 7月18日(火)から
参加 無料 -------
※申し込みは、直方市立図書館・☎・FAXで受付けます。
※参加される方は、事前申し込みが必要です。
〈主催〉 直方市立図書館 直方市山部301-11
電話:0949ー25ー2240 FAX:0949ー23ー3902
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以上。
知り合いの方にも、ぜひお知らせください。
2023年8月14日月曜日
沖縄戦パネル写真展 15日まで No.116
二丈波呂の龍国寺で8月6日から15日まで開催されている。
同時に亜麻工房(東麻美)のクバ展も。
沖縄戦のパネルは沖縄県平和資料館からお借りしたもの。
本堂に写真パネルやクバの作品が展示されていて、次のような掲示が
されていました。
「また住職の父、甘蔗大成は昭和20年6月に沖縄で戦死しました。
戦地からの手紙を本堂裏の部屋で展示しています。」
本堂の奥の間では、ご住職のお父様で、1945年6月23日の数日前に沖縄
で戦死された甘蔗大成(かんしゃ だいじょう)様の葉書や手紙が展示
されています。展示物には、ご住職、奥様、副住職の甘蔗健仁さんが丁寧
に手書きで説明書を添えられています。
手紙の紙は、当時宿舎であったホテルの箸袋の紙に鉛筆で書かれたもの、
で、奥様に宛てて書かれた二月二十日と記されたお手紙は、これがさいご
の便りとなると考えてのもので、ご家族への深い想いを記されています。
〈説明書には、「沖縄ホテルの箸袋に書いた手紙(遺言)。
実物のコピー。」と書かれています。〉手紙のコピーにそえて、パソコ
で読みくだしたものを読みやすく印字して、手紙の下に展示。
そのとなりに
和紙に墨書で、 和成 、とご住職のお名前が大きく美しく書かれた書
があり、下記の説明が記されていました。
「最期の地となる沖縄に出征する
前に、母親のお腹にいる、生まれてくる
子どもの命名をして、書き残しました。
昭和19年12月6日、無事誕生したことは
戦地に届き、喜びの手紙が届きましたが
父と子は一度も顔を見ることはできません
でした。」
出征前のご家族そろっての写真。
そして、部隊を共にし生き延びた野村正起氏の『沖縄戦敗兵日記』を展示。
〈説明書〉には
〈「沖縄戦廃兵日記」は、父、甘蔗大成(だいじょう)の部隊の野村正起氏
が玉砕後逃げのびて生き残られ、一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、
アメリカ軍の投降勧告に応じた九月十四日までの日記を一九七四年に出版
されたものです。
この中で甘蔗大成(大尉)について記述のある部分をぬきとり、コピーし
ました。父は満三十一歳で戦死しました。終戦まで、あと55日でした。」
同書より、
「死と対決すると、たしかに人間は変ってくる。変わらないのは、よほど
偉いやつである。部隊で変わらないのは、本部の甘蔗大成大尉(福岡県出身)
ぐらいのものであろう。先生は坊主だから。
わたしは粗暴になった。自分でも自覚はしているのだが、これだけはどうにも
直し洋がない。しかし、腑ぬけになるよりは、むしろ使い道があろうというも
のである。」
(同書には、甘蔗大成大尉について触れられている記述が何カ所もある。)
龍国寺での展示は、15日が最終日です。お近くの方はぜひご覧ください。
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