2019年12月31日火曜日

2019年の年の暮れ 中村哲さんのこと 宮澤賢治学会地方セミナー No.38

今年で13回目となる自然農の米作り、昨年同様、日のひかりとニコマルを育て、天日干しをした稲穂を、足踏み脱穀機で脱穀をし、まずニコマルを唐みにかけたのが12月4日のことだった。17時近く、庭先での唐みかけが終わり、あとは日を改めて籾すりと精米をすれば新米を手にできると作業が一段落してほっとした時間だった。スマホを開いて、その画面に釘づけになった。

中村哲さんがアフガニスタンで銃撃にあい負傷されたとの報、すぐに家の中にとびこみテレビをつけると、中村さんが命をおとされたと報じていて、中村さんが乗っていた車の運転をしていた方、また護衛にあたっていた4人、あわせて5人の方も死亡との画面が続いた。そのあと私自身何をしていたのだったか。

どれだけの時間が経ってだっただろうか、程なくだったかもしれない。中村さんとは40年来の親交があった鎌倉の長野ヒデ子さんから電話。全身、悲しみに浸された長野さんの処には、マスコミから中村さんのことで取材が相次いでいるようだった。その取材の中で15年前の2004年、旧能登川町であった、中村さんと井上ひさしさんの対談を核にした、宮澤賢治学会地方セミナーについて触れられたようだ。その時の資料はないかと尋ねられた。なんとか探し出し翌朝、取材された記者に送る。写真は見つからず、当日大阪の島本町から地方セミナーに来られていた乾知恵さん、文子さんにやはり翌朝連絡して送っていただいた。

長野ヒデ子さんからの聞き取りを朝日新聞の山口宏子記者が、
https://webronza.asahi.com /politics/articles2010120600009.html
で配信されている。
(「アフガンに寄り添った中村医師の素顔 
憲法九条を胸に井戸を掘り、宮澤賢治を愛した友を悼む 長野ヒデ子/絵本作家 2019年12月7日 
相手に寄りそう、人にも自然にも/
「裏切り返さない誠実さが人を動かす」/
井上ひさしさんと出会い、宮澤賢治を語る)

中村哲さんが立ち現れてくるかに思えるレポート。能登川での宮澤賢治学会地方セミナーについても触れられている。

その後、山口記者は、中村さんが宮澤賢治学会のイーハトーブ賞を受賞された際に書かれた「わが内なるゴーシュ」の原稿に心打たれ、中村さんへの思いをさらに深めて、「論座」で、新たに3回の連載を組まれている。
1.アフガンの現場から、医師中村哲さんの言葉①
  https://webronza.asahi.com/politics/articles/20191212000007.html
2.軍事力でなく憲法を、中村哲さんの言葉②
    https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600002.html
3.憲法9条が信頼の源、中村哲さんの言葉③ 
    https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600003.html

山口さんに送付したのは以下のもの。

滋賀報知新聞 2004(平成16)年 4月16日(水)



毎日新聞 2004(平成16)年 4月26日(月)

地方セミナー(チラシ 2種類 各4頁)


プログラムについて
中村哲さんと井上ひさしさんのお話、そしてお二人の対談を核にした地方セミナーのプログラムをどのようなものにするか。                        
それまで中村哲さんの講演を何度かお聞きして、どの講演会場でも驚かされたのは、中村さんのお話の内容、その語り口はもとよりのことであるが、お話を終えて、会場の人との質疑のやりとりだった。どのような質問にも正面から、懇切ていねいに、そして深いユーモアをもってこたえておられた。きびしい質問に応える言葉には一層,深いユーモアが感じられた。対話に耳傾ける一人一人の心をやわらかに開いているように思われた。    
このため、質疑の時間をしっかり取りたいと考えた。こうして、中村さんと井上さんのお話をそれぞれ30分ずつしていただいて、対談に1時間20分、そして会場との質疑に1時間というプログラムとなった。開会の挨拶からいえば4時間に及ぶセミナーとなった。    

開会の挨拶とは別に開会の辞を、宮澤賢治学会の会員でもある仙台の扇元久栄さんにお願いした。扇元さんは開会の辞 イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序を巻紙にしたためて、会場にふかくひびく声で読んでくださった。ほんとうは、その序は扇元さんの体の中にあり、そらんじておられるものであったが、そのように読んでくださったのだった。

初めて扇元さんにご連絡をしたのは、1987年だったか、当時、博多駅近くの小さな財団法人の図書室で働いていた私は、人口100万人をこえる大きな市で、市立図書館が1館しかない状態の中、年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなっていると考えるようになっていた。そんな時、写真家の漆原宏さんから、仙台市で”図書館をもっと作る会”の代表をされている扇元さんを紹介された。どうも最初のお電話を深夜にしたようなのだが、扇元さんからは”もっとの会の活動のおびただしい資料が送られてきた。その内容に目をみはった。そのことが”福岡の図書館を考える会”を始める大きな契機となったのだった。それから扇元さんには山口での集会や、ついには福岡市にも来ていただくことになり、以後、扇元さんには深い深い元気を授かりつづけてきていたのだが、その扇元さんが井上ひさしさんと深い関りをもっておられた。能登川での地方セミナーで井上さんと中村さんの対談の実現には、長野ヒデ子さんとともに扇元さんからも大きな力をいただいてのことであった。出会いの不思議さというか、えにしというか、天からの力に助けられての井上さんや中村さんとの出会いであった。                             
 



2枚目のチラシ









宮澤賢治学会イーハトーブセンター 会報(2004.9.22)


なぜ能登川で宮澤賢治学会地方セミナーか

それは琵琶湖の東岸、ほぼその中央部に位置する当時、人口約2万3千人の小さな町、能登川町で同セミナーが開かれた2004年(平成16年)5月1日からさかのぼること11ヵ月前の2003年7月頃のことだった。図書館が開館して7年目の能登川町立図書館のカウンターに一人の女性が来られて私に話しかけられた。以前、彼女が関西地区の大学に通学している頃
時折、大学の授業で能登川の図書館のことを話す先生がいるなどと話されていた方だ。
「宮澤賢治学会というのがあって、自分はその会員だが、その学会では年に1回、各地で地方セミナーを開いているのだが、能登川町で開けないだろうか。

それから程なくしてのことだった。私は京都で、日をおかず2回、中村哲さんの話を聞く機会をえた。1度目は京都市左京区岩倉の論楽社で。2度目は京都ノートルダム女子大学の大きな講堂で。

論楽社は虫賀宗博さんが主宰している私塾(ホームスクール・家庭学校)で、子どもたちの学びの場であるとともに、小さな出版社でもある。(1981年4月~)
論楽社のことは鶴見俊輔さんのご本で知った。鶴見さんが近所に住む虫賀さんたちの論楽社の活動について書かれていたのだ。その文章を目にしてからだったか、私の中に能登川町立図書館の開館1周年の記念講演(1998年)に鶴見さんをという思いが生まれ、まず論楽社を訪ねようと思い立ちお訪ねしたのが最初だった。

鶴見さんについていえば、大学生の時に(1967,8年頃)、その著書に出会い、また鶴見さんの文章で森崎和江さんを知って以来、お二人は、折にふれて私の傍らに在り、私は50年をこえる読者の一人としてお二人のご本を手にしてきた。私にとっては読者であることで充分で、私が働く図書館でお話を聞く場をとは、思ってもみないことだった。ところが、先の鶴見さんの本を読んで、それまで思ってもみない思いが生まれたのだと今にして思う。鶴見さんのお話を能登川の場でお聞きできないだろうか、と。

論楽社では、1987年8月から「講座・言葉を紡ぐ」を開いて、これはと思う人の講演会を、6畳2間の場、「障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間に座布団をしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう」場をひらかれていた。6,70人でいっぱいになる小さな場。第1回は岡部伊都子さん、以後、藤田省三さん、松下竜一さん、徳永進さん、島田等さん、安江良介さん・・・。
そして、「その言葉を、論楽社の責任において、活字にする。熱い、埋火のような言葉を届けたい。」・・・・・(論楽社ブックレット)
 (論楽社の活動は 論楽社ほっとニュース blog.rongakusya.com )

能登川町立図書館での記念講演は、虫賀さんたちのご助力をえて実現することができたのだが、最初に訪れて以来、私はしばしば論楽社を訪ねるようになった。

そうして、論楽社の何回目の「講座・言葉を紡ぐ」であったのか、中村哲さんにお会いすることができたのだった。中村さんのお話を聞くことができたのは、偶々ということでも、偶然にということでもなく、この人の話を、同じ目の高さで聞く場をという論楽社のたゆみない歩みの中で授かったものであることを、あらためて思う。

実は中村哲さんとは私は同じ中学で3年間を過ごしている。福岡市内にある私立のミッションスクールであるが、その中学校は1学年3クラスあったが、3年間一度もクラス替えがなかった。中村さんはC組、私はB組だった。このため体育やその他の時間で同じ場にいたことがあったと思われるけれど、残念なことに中学時代の中村さんの記憶は全くない。
論楽社での集いが、私にとっては中村哲さんとの初めての出会いだった。

やわらかな、凛とした空気、気につつまれた一刻一刻
ユーモアを体現した人に はじめて出会う
ユーモアというものを、はじめて体感する

(「ユーモアを・・・」以下二行は、中村さんが亡くなられて、時を経て今、私のなかに浮かびあがったコトバだ。論楽社でハジメテお会いした時は、唯々、静謐な時空のなかで、一言ひとこと、その言葉に打たれていた。)
  
論楽社での集いの翌日だったか、ノートルダム女子大学での中村さんの講演会の会場は、いったいどれだけの人が参加されていたのか。私には千人を超える人のように思われた。司会は論楽社で出会った蒔田直子さん、2人の娘さんも壇上に。

そうしてたくさんの人で埋まった会場で、中村さんの口から宮澤賢治の名前がとびだした。2日続けて(論楽社で、そしてノートルダム女子大学で)。
「かの地で宮澤賢治を読むと、日本の在りようがよく見える」と。
座席に座り耳傾けていた私は即座に、これは中村さんと井上ひさしさんだなと思った。
それから、幾人もの方たちの、かけがえのないご助力をえて、翌年、2004年5月1日、能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーが開催されたのだった。


辺境で診る 辺境から見る 宮澤賢治学会・地方セミナー 開催にあたって 
(チラシより)

2004年5月1日、琵琶湖の東岸、そのほぼ中央に位置する能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーを開催できますことは大きな喜びです。
宮澤賢治が生まれた岩手県は、かつて日本の辺境とも言うべき地でした。賢治さんはその辺境の地にイーハトーボという、いのち響きあう世界を見、「たしかにこの通りある世界」として、私たちの前にさしだしています。この度の地方セミナーのテーマは、
「辺境で診る 辺境から見る」です。これは、実は今回の地方セミナーの講師のお一人である医師、中村哲さんの最新の著書のタイトル名です。中村哲さんは、1984年パキスタン北西辺境州のペシャワールでアフガン難民と接し、以後20年間にわたって、パキスタアフアフガニスタンの地でライ(ハンセン病)に苦しみ、貧困で診察を受けられない人々のために活動を行ってきました。
20年に及ぶ中村さんの活動を支えてきたのは、そん医療活動を支援する目的で結成された福岡市に本部をもつペシャワール会の役12,000人の会員のボランティア活動です。中村さんとペシャワール会の活動は、「東ニ病気ノ子ドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ」の「雨二モマケズ」を彷彿させるものがありますが、中村哲さんは、こうした活動の中で、アフガンの地で賢治の本を読み、昨年、京都で行われた講演会で、かの地で賢治の作品を読むと、日本の今のありようが、その作品を通してよく見えるという趣旨のことを述べられていました。
今回の今一人の講師である井上ひさしさんと宮澤賢治との深いかかわりについては、井上さんのエッセイや、戯曲「イーハトーボの劇列車」などの作品で、多くの人に知られています。
井上さんが小学6年生の時に、「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の判断で、しかも貯めておいた自分の小遣いで買った」のが、井上さんの蔵書1号である「どんぐりと山猫」であったということ。この本との出会いを、井上さんは「私の個人史における生涯十大ニュースのひとつ」と言われていますが、井上さんの生き方とその著作の根底には、いつも賢治の世界と響きあうものがあるように思われます。
また、「国をあてにしない生き方から一歩先へ、モデルのない時代だからこそ、新しいモデルをわたしたちでつくっていく。個人から町へ、地域から国づくり」を考えr「生活者大学校」の開校、その長年にわたる活動は、まさに地域(辺境)で見る、地域(辺境)から見る」活動そのものと見えます。
この度の地方セミナーでは、「辺境で診る、辺境から見る」ことを、その生き方の根っこにおかれているなかむらさんと井上さんをお迎えして、「辺境で診る、辺境から見る」とは何かを、じっくりお聞きし、参加されたお一人ひとりが、「ほんとうの生き方」を、自ら考える場とならばと考えています。地方セミナー開催という天空からの贈り物とも思える時を与えていただいた能登川からは、この機会に出会えた賢治さんとの出会いの喜びの小さな声をお伝えできればと願っています。
さいごになりましたが、能登川町での地方セミナーの開催にあたりましては町の内外の実に多くの方々のご助力をいただきました。心からお礼申し上げるものです。


中村哲・井上ひさし講演・対談
”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談 (チラシより)

このたび中村哲さんと井上ひさしの対談を企画いたしましたのは、井上さんが中村さんの活動のはやくからの支援者であり、よき理解者であるからです。井上さんは中村さんの活動に心からの感銘を受け、紹介する話を、すでに井上さんゆかりの地、山形県立置賜農業高校でされています。日本の農業、戦争と平和についても深い関心を持ち、積極的に発言してこられた井上さんと、内戦が続くなかで20年間、闘う平和主義を貫いてこられた中村さんの”賢治”を切り口とした対談が実現すれば、宮澤賢治の世界の広く深い広がりが感得される対談になるとともに日本で今を生きる私たちの生を支える労働について、平和について、又一人ひとりの”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談になるものと確信いたします。

  
天空からの贈りもの 
--琵琶湖の畔りのまちでの地方セミナー --2004年5月1日 才津原哲弘
(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報 2004年9月22日) 

「能登川で地方セミナーをひらけないでしょうか」、この一言からすべてが始まった。昨年の七月であったか、町立図書館のカウンターで、大学生の頃から図書館をよく利用されていた主婦の三村あぐりさんから相談を受けた。お話では三村さんは、宮澤賢治学会の会員で、同会では毎年、各地で地方セミナーを開催されている由、彼女の言葉の端々から開催への熱い思いが伝わってくる。
それからパキスタンとアフガニスタンで二十年近く医療活動を行っている医師、中村哲さんと作家の井上ひさしさんのお二人の講演と対談を核としたのと小川町での地方セミナーの開催が決定し実現されるまで、実に多くの町の内外の方たちから思いもよらぬご助力をいただくこととなった。(京都、論楽社の虫賀宗弘さん、熊本水上村、お休みどころの上島聖好さん、福岡、石風社の福元満治さん、鎌倉の絵本作家、長野ヒデ子さん、賢治学会の会員で仙台で図書館づくりの市民運動に長く関わられた東京の扇元久栄さん・・・)
五月一日、地方セミナーの会場となった中央公民館の玄関前の受付には、晴れやかな表情で参加者を迎える数多くの女性たちの姿があった。この日の集いを支えてくださる有志のみなさんだった。
この日のために中村さんはぱきすたんから飛行機を乗り継ぎ、昨夜おそく東京経由で滋賀に着かれたばかりであった。アフガニスタンで用水路建設のため自ら重機を操って陣頭指揮をとる中村さんは、現地で足をひどく痛め、長時間、たつことも困難な状態であったが、そのことを知ったのは地方セミナー終了後のことだった。又、井上さんも徹夜あけのしごとを終えて、鎌倉から駆けつけてくださったのだった。
午後一時、いよいよセミナーが始まった。町から田附弘子教育長の歓迎の挨拶、主催者のイーハトーブセンターをだいひょうして、代表理事の萩原昌好さんの静かで心に響く挨拶に続いて、扇元久栄さんによる開会の辞。扇元さんは巻紙に書かれた『注文の多い料理店 序』を読み始める。
「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでもーー」、
読み進むにつれて、手元に長く伸びていく巻紙の白さが眼に鮮やかだった。凛として心にしみる声が会場に響き、賢治さんの世界の扉が一気に開かれたかのようだった。
とりいしん平さんの賢治短歌四首と井上ひさし作の『なのだソング』の太鼓をたたいての歌、心と体にドンドコドドンと響いてくる。そして有志による『雨にも負けず』の群読が終わると、いよいよ中村さんの講演『医者、井戸を掘る、その後』が始まった。
「貧しいから不幸せではない」「二十年間をふりかえりまして、人助けというつもりはないではなかったが、助かってきたのは自分たちの報なのだ」
中村さん、井上さん、それぞれ三十分ずつの講演の後、対談、会場との質疑というプログラムであったが、スライドをつかっての中村さんのお話は、三十分が過ぎても、会場の人が耳をそばだてる話が続いていく。
『賢治と哲』という演題でバトンを受けた井上さん、「中村さんのお話を三十分で理解するというのは、お経を五分で理解するということで無理なことです。中村さんの話を詳しく聞いたら涙がでます。」「これから私が、中村さんのお話の聞き手となって聞いていきます」「対談という生ぬるいことではなく」「なぜ医者がサンダルづくり、井戸掘りをするのか」「なぜいま、重機を操っているのか」等を。
残念ながら、その後の展開されたお二人の抱腹絶倒、涙と笑い、そしてよりよく生きていくために役立つ、心のしみるお話を書き記す紙数がありません。他日、その手立てを。と考えるものですが最後に二つのご報告。
参加者のだれもが、”静かな元気”をお二人から手渡されて、それぞれの現場にかえったこと。お二人のお話の中に、いつも賢治さん(その生き方)と連なるものがあり、今回の地方セミナーのテーマであった『辺境で診る 辺境から見る』ということが、どんなに豊かな営み、生き方であるかをてらしだす場となったように感じました。
四月七日から五月二日まで図書館で開催した三つの展示(『佐々木隆二・写真展「風の又三郎」』、『加藤昌男・銅版画展「賢治曼荼羅・蔵書票」』他や四つの行事(造形作家、茗荷恭介さんや加藤昌男さんの講演など)ではいずれも驚くばかりの出会いがありましたが、これらもすべて、地方セミナーの開催により実現したものです。
このような天空からの贈りもののような時を授けてくださった、井上ひさし、中村哲さん、イーハトーブセンターの皆さん、そして、これらの集いに参加し、集いを支えてくださったみなさんに、心から感謝するものです。  (滋賀県能登川町立図書館)


さいごに、地方セミナー終了して後日のことですが、中村哲さんが ”イーハトーブ賞”を受賞されました。受賞に寄せての中村さんの文章です。アフガニスタンの用水路建設の現場で書かれたものです。

(ペシャワール会報 No.81 2004年10月13日)

イーハトーブ賞(宮澤賢治学会主催)受賞に寄せて

わが内なるゴーシュ 愚直さが踏みとどまらせた現地
 pms(ペシャワール会医療サービス)総院長 中村哲

セロ弾きのゴーシュ
まず授賞式に出席できなかったことを深くお詫び申し上げます。現在アフガニスタンでは未曽有の旱魃がさらに進行し、数百万人が難民化していると言われています。この旱魃で和江きれぬ人々が飢餓に直面していました。実際、多くの人々が私の目前で命を落としました。
しかし、四年前の「アフガン空爆」いご、華々しい「復興支援」の掛け声にもかかわらず、徒に政治情勢や国際支援のもが話題となり、人々の本当の困窮はついに国際世論として伝わらなかったのです。そこで私たちとしては、国民の八割以上がのうみんであるアフガニスタンで、何とか現地の主食である小麦の植え付け前に、多くの土地を潤そうと、一年半前から用水路建設に着工、今この挨拶を現場で書いています。小生が居ないと進まぬことが余りに多く、どうしてもここを離れられません。おそらく「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」というくだりをご記憶の方ならば、理解いただけるかと、非礼をば省みず、書面で受賞の辞をお送りします。
小生が特別にこの賞を光栄に思うのには訳があります。
この土地で「なぜ二十年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。
私の過去二十年間も同様でした。決して自らの信念を貫いたのではありません。専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。

天から人への問いかけ
幾年か過ぎ、様々な困難ーー日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしてもさることが出来ないのです。無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。
よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況がーー古臭い言い回しをすればーー天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、すなわち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。
私たちは、現地活動を決して流行りの「国際協力」だとは思っていません。地域協力とでも呼ぶほうが近いでしょう。天下国家を論ずるより、目前の状況に人としていかに応ずるかが関心事です。
世には偉業をなした人、才に長けた人はあまたおります。自分のごとき者が賞賛の的になるなら、他にも・・・・・と心底思います。しかし、この思いも「イーハトーブ」の世界を心に刻んだ者なら、「この中で、馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(「どんぐり と山猫」)という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものです。
どうもありがとうございました。

※本文は、去る九月二十二日、岩手県花巻市で行われた宮澤賢治学会主催イーハトーブ賞授賞式において、欠席した中村医師に代わり出席した福元広報担当理事によって代読されたものです。
 




























2019年11月30日土曜日

犬も歩けば (7)諫早市たらみ図書館へ  No.37


11月3日、諫早市たらみ図書館の開館15周年を記念して行われた、同館を設計した寺田芳朗さんの講演会に出かけた。寺田さんは横浜にある設計事務所寺田大塚小林計画同人(和設計事務所、山手総合計画研究所1983~1999.7;計画同人1999.7~)の代表をされていて、私にとっては1990年5月に開館した苅田町立図書館を設計していただいた方だ。寺田さんは苅田以前には、神奈川県大磯町立図書館を、以後は伊万里市民図書館、名護市立図書館、愛荘町愛知川図書館、小川町立図書館、君津市立中央図書館、南相馬市立図書館等を設計、いずれの図書館でも、図書館開館後も図書館との関わりを持ち続け、各図書館の現場での検証を新しい図書館の設計に生かし続けておられる。            

 
たらみ図書館 講演会場で

たらみ図書館のこと(合併により諫早市立たらみ図書館)              
                                
旧多良見町は町立図書館が開館した2004年(11月3日)の翌年2005年3月に1市5町の合併により諫早市となっている。私が初めてたらみ図書館を訪ねたのはいつのことだったか、能登川の図書館退職後とすれば、2007(平成19)年4月以降のことだ。最初の見学で私はたらみ図書館の目を見張るばかりの活動と、その活動を自在にかつ存分に行える空間のあり方に心から驚かされた。図書館の在りようを深め広げる図書館を眼にして何ともうれしく頼もしく感じたことを思い出す。その後、たらみ図書館を訪ねる度にその思いを深めて
きた。とりわけ図書館の閉館時間後に、ギャラリースペースに隣接したスペースを22時までだったか、自由に利用できるものとしていることが心に刻まれた。         

数年後、福岡県大木町の図書館を訪ねた時、そう大きくはない既存の施設を改築、改装して開館した図書館の温かさを感じる生き生きとした空間に驚かされたが、図書館を入って隣にある雑誌が置かれたスペースがそこだけ増築されたもので、たらみ図書館で行われいる図書館閉館後も利用できる場とするやり方をとりいれていることに感銘を覚えた。  
    
また若い人たちがそこで過ごすことがうれしくなるだろうと思われる”青少年の開架スペース”は、一人でも,また友だちと一緒にでも利用できる開放感のある空間で職員の細やかで温かい配慮を深く感じる、外来者である私にとっても心はずむスペースだ。       
                       
町の図書館が開館する以前のことだが、夜遅くにコンビニの店の前に集まる若い人たちの居場所となる場づくり(「青少年の良質の溜まり場の創出)をと言われていた相良裕さん(現・諫早図書館長)の言葉がよみがえる。                    
                        

町民一人当たりの貸出(貸出密度)が20点をこえ、「開館以来、年間約百回の事業を行っている」たらみ図書館がどのような考えのもとに、一つひとつどのような活動を行ってきたか、そのことを鮮やかに伝えてくれるのが下記の相良さんのレポートだ。(相良さん自身は「・・・貸出点数や数量評価に惑わされることなく、図書館に初めて足を運ぶ人を一人ずつ増やしていくことに当面は傾注したい。」と書いているのだが。)       
        
「地域の図書館 はじめの一歩 ――諫早市たらみ図書館の事業実践報告」相良宏(『図書館の活動と経営』大串夏身編著 青弓社 2008 :同書には「まちづくりと図書館経営「市民力」―伊万里市民図書館 犬塚まゆみ 」と「図書館とまちづくり―愛知川図書館の事例を中心に 渡部幹雄」を掲載している。                   

町立図書館が開館するまでは、町民にとって唯一の図書館は「中央公民館図書室」だった。町立図書館が開館する8年前の1996年に発足した「中央公民館図書室友の会」の活動
は、たらみの図書館づくりがどのようなものであったかをよく伝えるものだ。相良さんの報告を紹介したい。                               

「1996に発足した「中央公民館図書室友の会」は、公民館図書室と緊密なパートナーになり、図書館建設が具体化する五年前に先行した移動図書館車の導入計画時には、車の仕様、車体の絵柄や名称の募集、さらにサービスステーションの選定に至るすべての計画に
友の会が関わった。                               
公民館図書室への友の会の関わり、そして教育委員会との信頼関係から、2000年には、友の会が図書館づくりへの想いを込めた冊子「わたしたちの図書館像」を作ることになり、のちにこれが「基本構想」と位置づけられることになった。作成に際しては、友の会会員が全国の二百館以上の図書館から要覧やパンフレットや規約などを取り寄せてデータベース化するなどの資料収集を始めた。また、高齢者班と子連れ班に分かれた図書館見学をおこない、それぞれの視点で見学ノートをまとめた。子連れ班などは旅行気分の子どもが発する声の響き具合や職員の応対を記録したり、照度計でこっそりと各コーナーの照度計測をしたりと、若干無遠慮な見学だった。そして夜を徹した勉強会とレポート作成を積み重ねた。「わたしたちの図書館像」では具体的な図書館事業を提起し、実際に全国の図書館で取り組んでいる例なども紹介した。                       
                                        (略)                                     このように、公民館図書室友の会という一活動グループが作成した提案書が、町立図書館の正式な基本構想になったことは稀有な例だろう。これらの友の会の活動は、これまで図書館がなかった地域に図書館建設への大きな風を起こしたものと考える。」      
このようなすさまじい友の会の活動が行われたのは、住民と向きあい信頼関係を育みながら、住民と共に図書館づくりに関わった職員の存在が決定的なことであったように思う。

開館当初、図書館運営の柱として7つを掲げている。(どんな図書館を目指すか)注目されるのは、その一つ一つが、図書館開館数年にして実現していることだ。1番目に掲げられているのが、町内どこに住んでいても、だれでも利用できるための全域サービスだ。一つ一つの柱の明解さに目をみはる。                         
               
 ①町全域へのサービス                             
移動図書館事業を充実させることにより、サービスエリアの拡大や、学校や幼稚園、設などへも図書館サービスを届ける。                         
                  
青少年の良質の溜まり場を創出                         
ティーンズコーナーの運営に工夫をし、中・高生の利用を積極的にはたらきかける。また、フリースペースやデッキテラスの設置など、若い層の溜まり場としての図書館を捉えなおす。                                    
                        
③インターネットをはじめとした情報サービス                   
OPAC(利用者端末)4台のほかにインターネット端末11台(そのうち2台は午前9時か
ら午後10時まで利用できる)を分散配置し、データベースも無料で提供する。    
                   
④生涯学習事業との連携                             
住民グループや各種団体への情報提供を積極的におこなうとともに、集会室などは午後十時まで開放し、生涯学習活動の幅を広げる。また、海のホール(視聴覚室)や動の広場(前庭)、展示スペースなどを使った住民による催しをはたらきかける。       
        
⑤学校への支援                                 
学校図書館や学校司書と連携し、団体貸出や教職員用の教材貸出に対応する。また、お話会やブックトークなどの出前や選書に関する学校図書館との情報交換をおこなう。   
   
⑥子育て支援への参画                              
ブックスタート事業とともに発展形として、0歳児をもつ親子へのおはなし会、ブックトークなどの企画を積極的におこなう。                       
  
⑦ふるさとを意識する                              
ふるさと研究コーナーを設け、地域資料の提供やまちの記録資料の展示と作成・保存にも取り組むとともに、回廊のショーウィンーを学校と地域に開放して活動紹介の場とする。
                          
長崎県内図書館員の学び(研修)、交流の場の広がり                
               
たらみ図書館に心動かされるのは、いつ訪ねてもワクワクする目を見張るばかりの図書館の活動はもとより、たらみ図書館(その呼びかけと人のつながり)が長崎県内の図書館の職員の人たちの研修と学びの場の底深い広がりの源流となっていると思われることだ。図書館の休館日などに定期的に集まり、そこで培われたものが、各地の図書館に伝えられていく。                                     

旧多良見町の中央公民館図書室友の会での「わたしたちの図書館像」の作成から関わり、たらみ図書館開館後は、相良さんともに図書館の活動の中核を担ってきた職員の方(嘱託)が、私自身が基本計画に関わった平戸市の図書館の開館前後の3年間、きびしい職員体制の中、平戸市立図書館の係長(副館長)として開館準備、そして開館後の運営にあたられたことは、ほんとうに画期的なかけがえのない出来事だった。図書館(員)の魂とたらみ図書館で実践された図書館員としての仕事の仕方を、平戸市の図書館の人たちに力をつくして伝えてくださった。たらみ図書館がもたらした長崎県内の図書館づくりへの大きな影響力を思う。たらみ図書館の開館前の準備作業に県内の多くの図書館員たちが、仕事が休みの日に手弁当で応援に駆け付けたときている。                
たらみ図書館は伊万里市民図書館とともに、九州(いや、全国)の中で、ぜひその活動を見てほしい図書館だ。                              

ティーンズコーナー









たらみ図書館を訪ねた翌日の11月4日、新しく開館した長崎県立・大村市立図書館を見学した。                                     
                             
                                     
             
                                               







            


          






2019年10月31日木曜日

 犬も歩けば(5)”うみかえる”と”さんのもり学舎”へ本の出前 No.35

10下旬、”うみかえる”と”さんのもり学舎”に本の出前、また福岡県立高校の先生たちの組合の研究集会に参加した。 "いみかえる”には梅田順子さんから託された本を主に持って行った。 

さんのもりぶんこ  (出前)

30数年前、福岡市は当時すでに”図書館砂漠のまち”だった。

30数年前、私が福岡市の博多駅近くの財団法人の小さな図書室で働いていたとき、人口100万人を超える大きな都市に市立図書館が1館しかなく、市民の多くが図書館を利用できないでいた。”図書館砂漠のまち”ということが、日々切実に感じられる中、市立図書館の動きは先行きの見えないものだった。しかも図書館をめぐる状況は年ごとに悪くなっているように思われた。

漆原宏さんとの出会いから

いつのことであったか、東京から写真家の漆原宏さんが図書室にやってこられた。漆原さんは日本図書館協会が発行
している「図書館雑誌」(月刊)のグラビア頁に日本各地の図書館を訪ねて撮影した写真を掲載していた。また1983年には写真集『地域に育つくらしのなかの図書館』(ほるぷ出版)を出版。同書はいつも私の手元にあって、そのタイトル名をふくめ、各章の解説の文章は一枚一枚の写真とともに、私が図書館について考えるとき




に根底の考え方や見方を示されるものだった。
その時、どんな言葉を交わしたか、もはや記憶にはないが、多分福岡市の図書館の状況を話したのだと思う。というのも、その時に紹介された仙台市の扇元久栄さん(仙台にもっと図書館をつくる会・代表)から漆原さんが帰られて程なく、つくる会の活動のたくさんの資料を送っていただいていたからだ。

当時、私は図書館問題研究会(図問研)福岡支部(支部長は県立図書館の白根一夫さん)の事務局を引き受けていて、福岡市長選挙や福岡県知事選挙等で、図書館に関する公開質問状をだしたりしていたが、その中で市民あるいは県民の会、つまり市民、県民が主体の会が必要だと考えはじめていた。扇元さんから届いたすさまじい活動の資料は、そんな私の背中を押してくれたのだといまにして思う。

梅田順子さんと出会う ”福岡の図書館を考える会”のはじまり

その頃、私は福岡市の南区に住んでいたが、家の近くに搬送される生協の品を受け取りに私が時折行くときに出会ったのが梅田順子さんだった。梅田さんとは立ち話をするぐらいで、梅田さんがそれまで生協活動はもとより公民館での学習や環境や原発の問題、松下竜一さんや伊藤ルイさんと行動を共にしていることなどまったく知らないでいた。その一端を知ったのは、私が図書館を退職し糸島で住み始めた最近のことだ。
いつも静かな佇まいで、話をしっかり聞いてくださる梅田さんに、福岡の図書館を考える市民の会を始めたいと考えていること、ついてその会の代表をお願いしたとき、梅田さんは、ほんとうにすっと引き受けてくださったと記憶している。そこから”福岡の図書館を考える会”の活動が始まった。1987年のことだった。




  












”梅田順子文庫”のこと

 今年の4月だったか、梅田さんと生協の活動など長く行動を共にされてきた友人の古沢
 さんから梅田さんの自宅の図書を整理することになったと電話をいただいた。ご自宅を
 お訪ねし、梅田さんのこれまでの日々共にあったその図書一冊一冊からなる蔵書を目に
 して心しんとする思い。ほんとうはこれらの貴重な本は公立図書館で、しっかりとした
 受け入れをすることが望ましいけれど、福岡市や糸島市の図書館の現状では難しい。ひ
 とまず「風信子(ヒアシンス)文庫」でお預かりすることにする。それまでも幾度か車
 で本を運んでいたが、このお話があってからは4月25日に段ボール箱に10箱、5月19日
 はレンタカー(1トントラック)に本棚を含め、満載の状態で糸島まで運んだ。千数百
 冊に及ぶと思われる。これらの本を「梅田順子文庫」として、「風信子文庫」の本と同
 じく本の出前にも使わせていただくことに。












「うみかえる」(出前)