2021年8月31日火曜日

東北、仙台からの風     No.79

前回のブログでは、九州由布院と東北仙台から届いた冊子や本のことを紹介するつもりであったが、 仙台から届いた本については今回、号をあらためてお伝えすることに。
文庫本より高さが1センチほど低い、手のひらにおさまる2冊の小さな絵本は薄桃色の張りのある紙のケースに入っていた。ーーーーーーーーーーー 1.『おいぬいし』再話・絵と文 あおのこるり ーーーーー これは永沢正一郎さんという人の家で代々つたえられてきた、5代前の庄之助さんとおおかみとのお話。著者が正一郎さんと、母親のみえさんから伺った話や、参考資料を基にしてできるだけ忠実に再話、創作したもの。「あとがき」によると「庄之助さんの家族は、困ったことや、不幸なことがあるたびに、何度も、おおかみにいのししを運んでもらい助けてもらった。」『最後の二ホンオオカミ』(那須正幹の動物ものがたり7,くもん出版 2003)の著者、那須氏によると、「二ホンオオカミは、古代から大口の真神とたたえられ、田畑を荒らすイノシシ、シカを退治してくれる農耕神として、人間からあがめられてきました。オオカミの名は、大神からきている」とあるように、おおかみは神聖化されていて、おいぬさま(おおかみさま)とも呼ばれていました。」ーーー 「庄助さんの家族は、おおかみをおまつりするために、石碑を立てました。石碑には、三峰山ときざまれました。三峰神社(埼玉県)は、おおかみをまつる神社でした。それを、「狼石」(おいぬいし)と、呼ぶようになりました。今でも永沢家では、五月一日、田植え時期になると、あずきご飯(うるち米)2とお神酒とお煮しめをおそなえして、おおかみに感謝し、豊作をお祈りしているそうです。」ーーーーー 「怖いばかりのイメージが強い二ホンオオカミが、かつて人間とこのような魂の触れ合いを持っていたということに驚き、また、すでに種が途絶えてしまったという事実に、とても痛ましいという気持ちがわいて来ます。北米、ロシアや中国にわずかに生き残っているおおかみを絶滅させないための教訓をこの物語は示してくれているような気がします。」ーーーーー 「おいぬいし」のお話は、背中にまきをいっぱい背負った馬と庄之助さんが、背中のまきの重みで、転びそうになりながら、中山峠を一緒に息を合わせて一歩一歩のぼっていく場面からはじまっている。足を踏ん張り顔が真っ赤になって馬を引っ張る庄之助さんの体じゅうから汗が吹き出している。「馬の体からも汗と湯気が、鼻息と共に立ちのぼっています。」、臨場感あふれる絵にひきこまれる。長く語り伝えられてきた話に静かに耳かたむけると共に、その地の人々の暮らしや仕事(まき売り)、そして馬の働きに目をこらす著者の姿がしのばれる。東北の地でこのように過ごしてこられたのだと。お盆前のうだるような暑さが一転、盆過ぎからは福岡県だけでなく各地で大雨の被害が続出する日が続いた。そんな最中にあって彼の地の友のたゆみない歩みから愉しくて深い元気を手渡されていたのだった。ーーーーーー ーーーーー「あとがき」についで、11冊の「参考資料」が記されていたーーーーー ①「幻の二ホンオオカミ」柳内賢治・さきたま出版会・1993 ーーー②「狼さま」戸口健・幹書房・2003ーーー③「最後の二ホンオオカミ」那須正幹・くもん出版・2003ーーー④「帰ってきたオオカミ」リック・バス・南昭夫(訳)・晶文社・1997―――⑤「ブラザー・ウルフ」ジム・ブランデンバーググ(写真・文)・椎名誠(序文)・今泉忠明(訳)・1995ーーー⑥「白いオオカミ」ジム・ブランデンバーグ・中村健・大沢郁枝(訳)・ JICC出版・1992ーーー⑦「浮世絵に描かれた人・馬・旅風俗―東海道と木曾街道―」神奈川新聞社・2001ーーー⑧「いずみのふるさと」総集編・ 新しい杜の都づくり泉区協議会・ソノベ・2002ーーー⑨「ぶらっと根白石」根白石探検隊編集委員会・仙台市根白石市民センター・1999ーーーーー ⑩「せんだいむかしばなし」せんだいむかしばなし編集委員会・宝文堂・1989ーーー⑪「よみがえるオオカミ」飯館村山津見神社復元天井絵展・福島県立美術館・2016ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2.『かわらのひみつ』ぶん・え  あおのこるり むかし、ならのみやこにすんでいた、かわらしょくにん、から吉という男のはなし。 から吉は、耳が聞こえず、うまくしゃべることができない。いつも、ものをじっくり見てから、ねんどをこねて、みごとな形のかわらを作った。いっしょにはたらくのは、かわらでできた二人のかわらしょくにん。から吉は、焼いたかわらを屋根の上にのせておく。そこを通る人が、好きなかわらを注文する。もも、りんご、なす、しし、うさぎ、きつね、ねこなどが、屋根の上ににぎやかにならんでいた。ある日のこと、おつきさんが、ぽっかりでて、にっこり笑うころ、から吉がそろそろねようと、ふあーっとあくびをしたとき、てんじょうのあなから、もものかわらがおちてきた。から吉がふーっと、いきを吹きかけると、もものかわらは、てんじょうをさしてぴょんぴょんはねだした。から吉は、祖音へ出て、同じようにかわらたちに、いきを吹きかける。 すると・・・。《どこから、このようなお話がまいおりるのか、つづきは見てのおたのしみ》

2021年8月30日月曜日

猛暑を突きぬけ、由布院と仙台から一陣のすがしい風が・・・8.14  No.78

8月のはじめ由布院から、そして仙台からうれしい冊子や本が届いた。猛暑続く日々の中、 由布院盆地の野や林にふく風が吹いてきてすがしい気分に包まれた。続いて東北の杜の都 のあたり、その地に長く語り伝えられてきた話に耳をかたむけ、その語りに新たないのち の息吹きを吹きこんで生まれた2冊の小さな本からは、長年の友がかの地で、その地の声に 耳をすましながら日々を営んできた様が伝わってきて、一陣の風が吹きぬける。ーーーーーーーーーーー ‘ゆふいんブックレット vol.① のタイトルは、 『ゆふいん大航海時代の幕開け ~旅をした仲間たち~』座談 溝口薫平×中谷健太郎+仲間たち 発行:日本旅館協会湯布院連絡会  協力:(一社)由布市まちづくり観光局   編集:由布院の百年・編集サロン  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (このブックレットは市販されていません。ご支援カンパ(千円以上)の返礼としてお分けしています。 ご希望の方は当サロンまで電話かメールで連絡お願いいたします。☎0977ー84-5465(090ー9595-5288) yufuin100@gmail.com なお、教育活動など特別の目的のある場合はご相談ください。)ーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 溝口薫平さんと中谷健太郎さんの2回にわたる座談を掲載。司会は湯布院の百年・編集サロンのスタッフ。 同誌のお2人のプロフィールより抜粋。ーーーーーー 溝口薫平〔1933(昭和8)年、玖珂郡野上村(現・九重町)生まれ、日田市立博物館勤務を経て、1960年代 より湯布院の自然保護やまちづくりに携わり、1963年から玉の湯旅館の経営に参加。1982年(株)玉の湯 代表取締役に就任。2003年同会長となる。湯布院町商工会長や湯布院温泉観光協会会長等を歴任。 ・・・中谷氏・志手氏とともに湯布院のまちおこし・まちづくりを展開。ーーーーーーーー 中谷健太郎氏〔1934(昭和9)年、速見郡北由布村(げん・由布市湯布院町)生まれ、1957年明治大学卒業 後、東宝撮影所に入社。1962年、父の他界を機に帰郷し旅館亀の井別荘を継ぐ。1980年、(株)亀の井 別荘代表取締役に就任。湯布院町商工会長や湯布院温泉協会会長を歴任。ゴルフ場建設計画に対する「由 布院の自然を守る会」の結成や、大分中部地震による観光客低迷に対する、ゆふいん音楽祭、湯布院映画祭、 牛喰い絶叫大会等の様々なイベントの企画等、由布院の文化と自然資源を育てるまちおこし・まちづくりを 溝口氏・志手氏とともに展開。・・・
本文111頁の”ゆふいんブックレット”の第1号、面白さに引き込まれ一気に読んでしまった。由布院のまち づくりがどのようにして起こったか。その事の起こりはどのようなものだったか、活動の要にいたお二人の 座談。座談の場をつくり、お二人から活動のエキスを聞きだしそれを記録して、これからの由布院のまちづ くりを担っていこうと考え行動している”仲間たち”=由布院の百年・編集サロンに集う人たちから、それぞ れの地で地域の在りようを考えている人たちへの贈りものとも思える1冊。 タイトルの‘大航海時代は・・・‘の標題の由来は今から28年前に『西日本文化』の連載エッセイ覧「風車」 に「南蛮ポルトの旅」と題して中谷さんが寄稿した文章からうかがわれる。 「ポルトガルに旅をしてきた。四百五十年前に往来があり、わがブンゴ・ユフ村にもレヂデンシャ(伝道所) があった。まもなくポルトガルはスペイン王の下に統括され、日本も禁教鎖国の時代に這入って交流が途絶 える。パードレ(修道士)たちに「その数二千人」と報告されたわがムラのキリシタンもばらばらに消滅し、 レヂデンシャの跡形もない(検討はついているけれど)。四百五十年昔の往来を今に蘇らせようという動き は十年前からわがムラに始まっている。南蛮食文化祭りがそれだ。実行委員会は「南蛮」という文字にこだ わって「大航海時代」と言い始めているが、私は南蛮の方が正しいと思っている。私たちの先祖は正しく「 南蛮」とよんだのだ。「大航海」などという曖昧な視点の言葉の方がよっぽど怪しい。・・・・・」  (『西日本文化』1993年2月6日発行より) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2回の座談のうち第1回は、由布市観光アーカイブ第1回座談 「日観連とゆふいんの観光まちづくり」と題 して2019年12月26日(木)14時~16時に開かれている。 由布院観光の中核「日観連由布院連絡会」のこと    由布院の観光地づくりの活動のベースとなった「日観連由布院連絡会」は観光協会も旅館組合も商工会も ほとんど動きがなかったころに始まっている。日観連(日本観光旅館連盟)は1950年、「旅館の施設及び サービスの向上改善並びに交通機関・観光関係機関との連絡協調を図り、旅客接遇の向上改善」という目 的のもとに設立。その後2012年10月に「国際観光旅館連盟(国観連)と合併。新法人「一般社団法人日本 旅館協会」を設立している。 日観連は「後々の旅館組合や観光協会、商工会といった公から認められた団体とは半歩くらい離れて、 懇親団体のようなイメージがありましたよね。その後、JTBが力を入れて日観連の支部ができた。(大分県 支部)・・・私らは大分県支部で年に一回くらい会うだけじゃ話にならんぞということで、「由布院 連絡会」を勝手につくったんです。全国の日観連の中で由布院だけだと思います、連絡会をつくったの は・・・」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「日観連の大分支部にも無理があったので、その隙をついて由布院だけで連絡会をつくってしもうたんで す。都合がわるくなると「連絡会でやりよるんじゃ」と言うと、支部は何も言えんわけ。・・・五十年 以上経ってもその雰囲気がちょっと残っているような気がするんなぁ」 「県の支部が連絡会の上にあるのかどうか曖昧じゃった。あれが良かったなぁ。連絡会は自分で仲間意識 を持つ以外にないわけです。公に認められている会であるような、ないような、とにかく仲良くする他は ない。毎月二十日にわらわらと集まって、まず歌を歌う(笑)。昔からの親分衆と若者が盛り上がったの は浪花節じゃったのを憶えています。【※薫平さんも健太郎さんも若者だった!】 中には早稲田大学とか東京のYWCAを出たインテリの若者もおったんじゃけど、「一言も言わせん」(笑)。 薫平さんに歌を歌わせた時は最高に盛り上がった。歌が盛り上がると、おじさんたちは「難しいことはもう いい、一杯飲みに行こうや」と(笑)。今はずいぶん「マトモ」になっていますが、それでも前の駅長が お神楽の面を被って、列車が入るたびに「じゃんじゃかと」舞っておったのは、由布院の伝統的なながれで す。森駅長さん、ガンバってください(笑)。【座談会に参加していた、当時JR久大線由布院駅の駅長、 森五岳氏(2017年~2020年3月)への中谷さんのエール】 ―――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「考え方を勉強すること」に力点を (連絡会の会員は当初、16~17人くらい) 「会費を自分たちで出しちょって、公の補助がなかったので、誰からも文句を言われんかったし、誰を招待 しても勝手でした。総会資料のどこかに実働は観光協会や行政、旅館組合にやってもろうて、日観連は 誘客事業のための「考え方を勉強すること」に力点を置きました。 それで、ゲストを招んで話を聴くことと、研修旅行が事業の柱になったんです。いろんな人を招んだし、飲 んだし(笑)、いろんなところに旅をしました。奇数年が国外で,偶数年が国内じゃったかな・・・。」 でも、自由な風土とういうか、自由にいろいろなことができました。あとは政治にかかわらないということ になっていて、落ちたら、また戻ってきていました。」 ー――ーーー【目をひき付けられたのは次のくだり・・・】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「政治に関わらんかったというか、選挙に関わりませんでしたが、「主義・主張」はいっぱい出しておりま した。日観連で話し込んで、旅館組合とか観光協会とかに拡げていくんです。米軍が演習を終えて、 町に降りて来るのにどう対処するか?別府はウエルカムだけど、由布院はどうするか?演習場の イメージ は良くないから遠慮してほしい。それを日観連(由布院連絡会)が中核になって、観光協会の 理事を説得 しました。「観光協会の有志」ちゅうことで個人名で店の入口に英語のビラ(日本語と あわせて)を 貼り 出す。(略)あなた方の国と同じように、私たちの国でも見知らぬ人が個人の 家に入ってくることはNOです。という主旨です。「入ってくるのであれば、軍隊を辞めて、アメリカ市 民になった時に、おしゃれな 服を着ていらしてください。歓迎します」。 「個人で貼り出すので、「うちの土地には入らないでください」ちゅう形になって、観光協会がどう動い  たとか、湯布院町がどう動いたとかにはなりません。その話を聞いて、福岡の領事がびっくりして訪ね てきたけど、お茶だけ飲んで帰りましたわ(笑)」 「みんな革新的でしたねえ。組織やものの考え方を絶えず新たに提案していました。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 注記:沖縄米海兵隊実弾演習の本土5カ所への移転 日出生台は1900年から九日本軍の演習場とされ、その後、拡張し続けて、現在は4,900ヘクタール。「癒し の里」と呼ばれる温泉観光地由布院の北部、由布院駅から車で25分のところにある西日本最大自衛隊の 衛隊の郡司演習場。年間330日、(実弾演習は約230日)、ほぼ一年中、軍事訓練が行われてる。 1995年、沖縄で、米兵3名による小学生の少女に対する集団強姦事件が起きた。この事件により、長年の 沖縄県民の怒りは爆発、沖縄県議会、市町村議会は米軍への抗議決議を採択。事件に抗議する県民総決起 大会が開かれ、約8万5千人の沖縄県民が参加。日米両政府は、普天間基地の返還とともに、沖縄の県道 104号線を越えて行われていた155ミリりゅう弾砲の実弾砲撃演習を本土5カ所(北海道矢臼別、宮 城県王白寺原、山梨県北富士、静岡県東富士、そして、大分県日出生台)に移転する案を提示した。 大分県でも日出生台の地元、湯布院、玖珠、九重の3つの町の町長を代表とする反対運動が立ち上がり、 玖珠川原の反対集会では、1万6千人が受け入れ反対の声を上げた。特に由布院では戦後11年間も米軍が 数々の事件が(ママ・・を)起こした歴史がある。そのことを思い起こした町民が声を上げたのだ。しか し、多くの民意を越えるかたちで、1997年から移転訓練が各地で実施されてきた。米軍は訓練の期間 中に住民の生活や観光の場に入り込んでくるということで、「軍隊としてではなく、一観光客としての来 訪を望みます」という意味の張り紙を行った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーー(ビラの日本文)ーーーーーーーーーーーーー 在沖縄米軍海兵隊第三海兵師団の方々は立ち入らないで下さい (期間1月16日~2月11日・・全演習期間) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ここは個人の生活空間です。沖縄から実弾砲撃訓練に来ておられる海兵隊の方々は、立入りをご遠慮ください。 みなさまが、「日本国内を移動する権利」は日米地位協定によって 守られております。しかし町民の個人的な生活や営業の権利は、町 民の個人に属しております。そのことは自由の国アメリカ市民でも あられるみなさんにはとくお判りのことと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 近郊から心と身体を癒すために、――ひっそりと人々が集まってこら れる小さな補用の町・由布院を、どうかそっとしておいてください。 実弾砲撃訓練が廃止され、みなさまが市民として由布院を訪問され るときには、心から歓迎します。その日が一日も早く来ることを祈念 しています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 由布院温泉観光協会員ーーーーーーーー 屋号         ----------------------------------------------------------------------- ーーーーー(このあと研修先での見聞が語られている)ーーーーーーーー フランス、特に想い出に残ったハンガリー、チェコ、イタリア、何回も行ったスペイン。デンマーク、ドイツ、ベルギー。カナダーーーー (由布院と同じスケールの散策観光地を丁寧に見るのが目的じゃった・・・何を見、どんな気づきが・・・)ーーーーー ーーーー  「外の空間を公共のものとして、みんなが大事にして、その代わり、中は自由にするという 考えは、行ってみて気が付きました。」ーーー 〈ヨーロッパ研修の第一目標だったドイツ、バーデン・ヴァイラーという温泉場、人口三千人の村〉  「尋ねたら百年前にチェーホフがこの地で亡くっていた。立派なチェーホフの記念館があり、小さだけど な町だけど、町の本屋にチェーホフの本があって、外国の人々も多勢いました。」「地域の人たちが自分 たちのまちを自慢していて、角々には表彰された人の記念の像が立っていて、こんなにまで住んでいる人 たちが自分のまちを誇りに思っていることはすごいと思いましたね。葡萄畑に行った時に豊かな農村だと 感じました。化学肥料を使っていないので、畑の中に手がずずっと入るくらい、土地が肥えていました。 凄かったね。道に迷うと、自分の庭先を通らせてくれました。(略)おもてなしというより配慮があると 旅人はこんなにまで安らぐんだということを旅の中で経験しました。」ーーーーーーーーーーーーーーー 「初めに三人で行った時は9か国回った ので、国民性も違うし、いろいろなものが見られたという気がし ます。」(ヨーロッパ三人旅につ いては 、『鮮烈な町造りの気迫――車を追放、安静守る』と 題して、中谷さんが西日本新聞に1978年12月 23日より、何回かにわたって書いたもの収録されている。 三人旅は1971年6月かr40日間の旅、 第2回座談で語られている。)ーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーー【活動のあり方、グループの動きーーーーーー 「日観連(由布院連絡会)は面白いグループだとは思っておったけど、改めて見直すと由布院観光六十年 の中核だったような気がしてきたなぁ。」「「牛喰い絶叫大会」なんかは、役場の会議室で「牛喰って 絶叫しましょう」と主張してもまとまりませんわなぁ。事業は観光協会や商工会、農協、畜産協会なんか で広がっていくけど、少人数で企画を練り上げるシステムは弱くなっておるんじゃないかな。 それはすごく大事なことで、村内の寄合いでごちゃごちゃやってるうちに計画が出来上がっていって、町 にも広がってゆく、といった流れが弱まっておるんじゃなかろうか。ーーーーーーー 日観連とか、今日のこの会とかは「苗床」だと思うんです。苗を育てるための苗床は大仕掛けなくて、ま あこれくらいでしょう。そこで苗を丁寧に育てて、圃場に抵触したら、シッカリと育ちますが、いきなり 田圃(たんぼ)に種を撒いてもなかなか育たない。そいうう手法として考えると、ここ(庄屋サロン)が 苗代で、駅にできたインフォメーションセンターが実験圃場、観・旅や商工、農協、集落といった社会組 織が田畑・山野ではあるまいか。今、日観連が元気を取り戻したので、由布院の社会活動に苗代ができた んじゃないかなぁ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「薫平さんは気に染まんことでもしっかり務めてきたけれど、俺は気の乗らんことはやらんかった。俺だ けじゃったら、とっくに潰れておったでしょう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「苗床と一緒で、企画者がきちんとしていないと育たんし、広がらないわけで、一般の人の思いつかない ことを健太郎さんの天才的なひらめきが生み出してきたんです。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー 「天災的?(笑)忘れた頃にやってくる・・・。」「牛喰い絶叫大会もそうです。何かできないかなとい うと、こちょこちょと話して、「それも面白いな。それならこうしようか」となって、やまびこのような 感じで、農家の人を巻き込んでいきます。健太郎さんは昔から恋文の代筆者で、いろいろな人たちの恋文 を書いていました。「野原で牛がこんなに育っています」と都会の人に伝えるのに、普通の人では表現で きないことを実に見事に表現するので、都会の人は「それなら由布院にいてみようか。出資しよ うか」となります。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「音楽祭も映画祭もいろいろ言いながら、町の人がバックアップしてくれましたなぁ。問題が起きるとそ のつど、見方が現れて・・・。由布院を守っていこうとか、土地を売らずにおこうやとか、よう激しくや りよったなあ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 司会「皆さんが日常的に集まる場というのが日観連(由布院連絡会)だったのでしょうか。」ーーーーー 「はい。そ れれから、だんだん「このゆびとまれ」方式の実行グループに代わっていくわけです。」 「日観連は組織としては小粒じゃったけれど、ゲストを呼ぶと、急に強烈な団体になる不思議な会じゃと 思います。」「明日、暇じゃから、ゲストを招んで、昼飯を一緒に食べようや」といやり方は日観連(由 布院連絡会)以外ではできない。農協や商工会ではできない。観・旅もなあ・・・。」ーーーーーーーー 「正体不明で仲間が集まっておるだけじゃったけど、責任は支部につながっておる。自由な匂いのする公 のグループの「造り方と活動の仕方」を、もう一度手探って、記録しておくとよいなぁ。役員会を開いて 決議せんと動けんというようにガチガチの組織では、それなりの運動しかできんと思う。人様を自由にお 迎えするっちゅう空気は、固まった社会システムの中からは出てこんと思う。」「(司会)たの地区だと 日観連は宿泊施設だけが集まっている会となっていますが、由布院は連絡会になっているので、いろいろ な業種の方が集まれたんですね。」「日観連でもなんでもない人が、日観連の旅行に紛れ込んでいました。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「お金がないのによく食べ歩き、泊まり歩きました。一流のものに身銭を切ったことは、補助金等を使っ て視察に行くのとは全然違いました。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 由布院観光アーカイブ 第2回座談  2020年2月7日(金)14時~16時 由布院の町づくりのベースになったヨーロッパ三人旅 これは丸ごと読んでいただきたい。ここでは、リードの文章と、そこに出てくる本田勝六氏と志手康二氏に ついて、同誌の記載のものより。そして短い抜き書きをいくつか。 (リードより)「由布院のまちづくりを語る上で欠かせないのが本多勝六博士の『由布院温泉発展策』。 (本多氏の講演から四十七年後の1971(昭和46)年、志手康二氏、溝口薫ことを語って平氏、中谷健太郎氏 は四十日間、 ヨーロッパに出かけます。この旅で見tこと、感じたこと、今の由布院に想うことを語って いただきました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本多清六(ほんだ せいろく)1866~1952、現在の埼玉県久喜学校に通う市(旧菖蒲町)で生まれ、明治32年に日本で 最初の林学博士となった。造園家でもあり、「日本の講演の父}と呼ばれた。1901(明治34)年、日比谷公 園の設計を最初に、明治・対象・昭和と35年間上野丘公庫王3年生にわたって全国の講演の設計を手掛ける。明治神宮の森、東 京都水源林、大宮講演など。『由布院発展史』本多清六博士は1924(大正13)年10月11日、村の依頼で「由 布院温泉発展策」と題する講演を北由布村棉蔭尋常高等小学校で行った。その講演の前論は、ドイツ温泉地 など欧米における森林講演設備について語り、本論では由布院における具体的な提案になっていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 志手 康二(して こうじ)福岡県門司市(現北九州市門司区)に生れる。(父親が文字水上警察勤務だっ た)その後、父の郷里由布院に帰り地元の学校に通う。1938年、母親「日の出旅館」を開業。1950上野丘高校3年生のとき結核 を発病。以後、自宅療養を続ける。1958年国立別府病院で肺の施術を受け、結核は治癒。家業の旅館の手伝い等をする。1961年 淑子さんと結婚。1966年(有り)ホテル夢想庵を設立し、代表取締役就任。「山の上ホテル夢想庵」を新築。1971年6月、溝口 薫平(当時は梅木)、中谷健太郎氏とヨーロッパ調査の旅に出る。1984年、肺手術の際の輸血が原因で肝臓がんを発症し、5月 24日死去。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【いざ、ヨーロッパへ――まちの歩き方・旅の仕方】   「1日5ドルの旅」という旅行本の翻訳がまだなかったので、『Europe on 5Dollars a Day』という 原書を東京で買いました。一冊まるごとだとかさばるから、行くところのページを毎日破って以て行きました。薫平さんんは何 も言わんけど、康ちゃんは「次はどこへ行くんかい」っちいうてセワシイ(笑)。「一緒に考えてくれたらいいのに」ちうても 「ワシは判らん」と威張っちおる。(笑)。気の置けん旅でした。薫平さんはどこでも寝られる人で。民泊はツインベッドじゃ から、 私と康ちゃんがベッドに寝て、薫平さんは「こっちのほうが楽じゃ」ちゆて、床に寝てました(笑)。ーーーーーーー 「向こうに着いたら、ばらばらで行動しようや。前の人の頭を見て歩いてもおもしろないで。」と、朝飯が済むと解散して、夕 方5時に宿に帰ってきてホッとする。大冒険やけど、三人とも何とかやりましたなぁ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ―――(以下、『鮮烈な町造りの気迫・・・車を追放、安静を守る』中谷健太郎(西日本新聞1978.12.23より)ーーーーーーー ―――研修の一番の目的地、西ドイツのバーデンヴァイラーに着いた日が、その町にとって”特別な日”だった。(1971年6月) 「その日から町は町独自の交通規制を実施。特例を除いて安静時間内に町中で車を走らせることは全面的に禁止。安静時間とは 正午から昼下がりまでの昼寝の時間と、深夜から夜明けまでの眠りの時間である。この話は私たちを驚かせた。私たちは小さな 町がどこまで独自の生き方をしているか、町びとの意志がどこまで町を造っていっているか、それを見たくてこのドイツの人口 四千人の保養温泉地にやってきたのである。それがいきなり保養客が安静を要する時間だからといって町中で車を走らせること を一切禁止したその日にぶつかってしまった。これは大変なことだ。私たちはグラテヴォルさんについて廻って事の次第を聴き 込んだ、そして鮮烈な町造りの気迫の渦に出会ってしまったのである。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーグラテヴォルさん・・・当時市会議員、バーデン・ヴァイラー温泉で何百年も宿をやっている親父・・・・・・・・・・ 「あの日、グラテヴォルさんは熱っぽく語った。『その町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさである。そ の大切なものを創り、育て、守るために、きみはどれだけの努力をしているか?』『きみは?』『きみは?』グラテヴォルさん は私たち三人を一人ずつ指さして詰問するようにそう言った。それで私たちは真っ赤になってしまった。」ーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そして「7年ぶりの(1978年)、バーデンヴァイラーにグラテヴォルさん再訪。グラテヴォルさんは過労で病気になり、一日三時 間しか人に会えないという状態だった。その時間のほとんどを私たちに充ててグラテヴォルさんは待っていてくれた。町長や議員 を含む二十人の町びとと一緒に私たちが町にやってきたことがグラテヴォルさんをひどく喜ばせたようだった。ーーーーーーーー ーーー 『きみたちは約束を守った』『きみたちは長い道を歩き始めたのだ。世界中どこの町でも何人かの人が、あるいは何十人、何百 人かの、けっして多くはない人が同じ道を歩いている。』『一人でも多くの人がよその町を見ることが大切だ。そしてその町を 造り、営んでいる”まじめな魂”に出遭うことが必要だ』。 それにつづく中谷さんの文章もぜひ本誌で。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本誌には貴重な各地の旅の写真や旅先から由布院の家族のもとに贈られた絵葉書をはじめ、驚くばかりの資料がふんだんに掲載 されている。第1回の座談は大きな丸テーブルの回りに10数人が椅子に腰かけて行われている様子を伝える写真があるが、薫平さ んと健太郎さんの後の壁に掲げられている書「汀」を目にしておどろいた。乾千恵さんの書だ。(『月人石』乾千恵・書、谷川 俊太郎・文、川島敏夫・写真/福音館書店)乾千恵さんと由布院の人たちとのご縁のことに触れると長くなるので、機会があれば 他日に。さいごに、志手康二(1932―1984)、溝口薫平(1933)、中谷健太郎(1934)3氏の3人旅の背景には、3氏と湯布院町 長との間に次のような契約が交わされていました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーー業務委託書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 本町は昭和34年5月厚生省より国民保養温泉地に指定され、爾来豊富な温泉源を活用し、産業と観光都市づくりに専念し着々とその 成長を挙げて来た。然しながら一方国の施策、社会情勢の変動等は都市計画事業の進展を阻害している現状である。ーーーーーー 又、教育行政面に於いても学校教育は勿論、社会教育面について、町民総ぐるみでスポーツの意義と認識を高めると共に、その実践 活動によって体力の増強を計り名実共に健康で明朗な町づくりを進めたい。ーーーーーーーーーーーーーーーーー このような時期に先進地である欧州諸外国を視察して、観光行政にマッチした都市計画を行い、併せて教育文化面に新風を吹き込み たいと思考し、次の三氏に業務の委託をする。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 昭和46年5月29日ーーーーーー    委託者  湯布院町長  岩尾穎一ーーーー    受託者         中谷健太郎ーーー                  梅本薫平ーーーーーー                志手康二ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの資料をきれいに保存していたのは、志手淑子(よしこ)さん。(「山のホテル夢想園」代表取締役会長。満州国錦州生まれ。 1961年夢想園の前身「日の出屋」の代表だった志手康二と結婚。1984年夢想園の代表取締役となる。1997年には一般社団法人由布 院温泉観光協会の副会長に就任し、2001年~2007年までは〉同協会会長を務めた。その後の若者や女性の活動に大きな道を拓いた。 ―――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【見事な編集に感謝して・・・「編集後記」を紹介したい。】 「編集後記ーーーーー 「今回の編集にあたっては、『花水樹』『風の計画』や『たすきがけの由布院』(中谷健太郎著)『虫庭の宿 』(溝口薫平聞き書き、 野口智弘著)他を再読し、古い資料を探す日々が続いた。「知っているつもり」は危ういということに気づく。小さな町も永い大きな 歴史の中にあり、必然と偶然と知恵や努力、出会いの妙が重なる面白さ。航海はまだまだ続く。この町づくり航海記録は「昔のこと」 として片づけられることなく、これからの羅針盤になると信じている。文言の細かな校正では本多紗代さんに助けられた。2019年から 資料整理や座談開催に力を貸してくださったJTBの福永香織氏と小坂典子氏にも感謝したい。ーーーーーーーーーーーーーーーー               ーーーーーー由布院の百年・編集サロンーーー平野美和子ーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 当初、紹介を考えていた”東北・仙台からの風”については次回のブログで。  

2021年8月7日土曜日

本の出前は愉しいひと時 (犬も歩けば 10) No.77

骨折、入院と思わぬことが重なり、退院してから初めての本の出前。月初めに持っていこうと 8月1日、昼前にノドカフェに出かけたら、何かの集まりをやっておられた。本だけ入り口の所 において出直すことに。3日には、ある講習会があり、2日はその事前準備で来られず4日に出か けた。店内には旧知の人が。出前の本を本棚に並べて、しばし彼女と歓談。ノドカフェは私に とって単に文庫の本を届ける所ではなく、そこにある本と出合う場であるのだけれど、同時に人 と出会う場でもある。旧知の人や初めてお会いする人と。うれしい愉しい時間だった。お話の 中に、市内の中学校の2年生(各中学校から2名ずつ)に話されたことがあり、その生徒たちは、 中学生になった時からマスクをつけていると聞いて驚いてしまった。驚くまでもなく、よく考え ればその通りなのだが、小学校とは違う中学校での生活が始まりから2年目の今にいたるまで、 そのようであり、今後もいつまで続くかわからないこと状態であることを、あらためて思いしら されたように感じた。中学校にかぎらないけれど、学校での子どもたちの日々がこれまでとは違 ったものになっているだろうことに思いをめぐらせた。そういえば京都に住む娘の長女、孫の彼 女もそういった日々を小学生になった日から過ごしていることに思いいたった。ーーーーーー ノドカフェの坂本さんからは、退院祝いと称してうきはの方がつくられたパンをいただいた。自 宅に帰ってからいただいたのだが、おいしかったこと! 1つは、「メナモミ」、「うきはの 小塩 おりたファーム」の方の、ベーグルの説明のチラシ には「古来よりあるのに、ああり知られていない薬草です。薬学の先生から脳梗塞、動脈硬化に よいと教えていただき、少しでも、体調好転になればとベーグルにしてみました。」とある。 もう一つの「ドライトマト」、「うきはのトマト農家倉富さんの完熟トマト」を使って「じっく りと低温で乾燥させ、うまみがギュッとつまったドライトマトにして入れてます。ほんと赤のワ インとあいますよ。ぜひ濃厚なうまみとトマトを体験してください。」とある。 込んア注も。「必ずこんがりと焼き戻してお召し上りください。(焼きを少し手前でとめており ます。)ーーーその細やかな説明に、ベーグルづくり、それに連なるモノ・ヒト・コトへの深く てやさしい愛情を感じる・・・ 〈冷凍ベーグルのお召し上り方〉 袋から取り出したベーグルを50℃の温水に20秒ほど浸し、オーブントースターでカリッと焼き 戻してください。驚くほど、小麦のやさしい風味が広がります。ぜひお試しください。 ・オリーブオイルを添えると、ワインのおともに。 Plantago うきは・ひめはる 野草ベーグルと摘み草料理の店 ーーーーーー 坂本さんからはこの日もうれしい興味深い情報、知らせをいただいた。二丈の大入駅のすぐ近く に土曜日と日曜日だけ開店する本屋さんができている。5人(事業をともにしている)のスタッ フが交代で店番。その一人が「風信子ヒアシンス文庫」の出前の本に関心を持たれていた由。 お店は5人のスタッフで基礎から作られたようだとのことだった。近じか訪ねてみたい。 〈今回の出前の本〉
チラシ

2021年8月6日金曜日

身辺雑記・・・入院・退院、その後のこと  No.76

前号で7月1日早朝、救急車で搬送され、脳梗塞で入院、13日に退院したことを記した。 この間、コロナ禍のため面会はできないものの幾人もの方たちから心こもるご連絡をいただいた。 深い感謝の思いをこめて、このひと月の報告です。(ノートより)ーーー 7月1日、5時起床。前日、就寝時右手首の中指、薬指、小指が折れ曲がった状態になり、うまく伸ばせない。 朝まで様子をみようとそのまま床についたが、目がさめても状態は変わらず。7時前に救急車をよぶ。入院に なると思われたので、本棚から小さな冊子3冊をカバンに。(『もうろく帖』鶴見俊輔、他)消防署の方の素 早い親身な対応が心に響く。同乗した家人の希望で福岡市内の九州医療センター(国立病院)に。消防署の隊 員の方と病院の先生とのやりとりが耳に。脳梗塞・・・。MRI検査のあと病室へ。(救急病室、4人部屋) ーーーーーー 病室は4人部屋の救急病室、それぞれカーテンが引かれている。自分の体の状態がどんな状態か、何ができなく なっているかを知るてがかりにと思い、小さな手帖(新潮社のマイブック2021の記録)に、日々のことを書くこ とを思いたつ。といってもまずペンを今までのようにもつことができない。症状は右手首より先、中指、薬指、 小指が曲がり、人差し指がまっすぐ立って、左手で人差し指を折り曲げないと曲がらない状態となっている。 後々わかってきたことだが、脳梗塞では言語障害や運動機能の障害で歩行困難になることも少なくなく、そうし た中では、会話ができ足も今のところ機能障害がみられないのは、まだ軽い症状だと思われた。とは言え、右手 だけではボールペンをもつことができない。左手の助けをかり、右手の親指と中指でぺんをもたせ、そして自分 の意思では曲げられない右手の人差し指を、左手で押し曲げてペンの上にのせ、やっと文字をかける体勢となる。 これまで無意識で考えることなくやっていた作業が、どういう1本1本の指の動きで行われていたかを身をもって しらされる。ーーーーー そうやってノートに書いた字は、最初の文字はともかく2つ目の字から何と書いているのかわからない。人差し 指をペンの上にそえていたのだが、いざ書こうとすると人差し指がうきあがり、ボールペン自体がゆれて動いて しまう。ぺんをもつ指がふるえて字になっていない。それでも続けてやっていると、判読しがたいペンのあとが 続くものの少しずつ読める字が。朝昼夜3回の食事のこと、頭は60度以内にして高くもたげないこと。 『もうろく帖』を読み始める。文庫版の大きさ、その内容、1ページに数行の言葉、鶴見俊輔さんが引用したも のや鶴見さん自身のその時々の言葉。
小水ようの便器、常時そばに。21時半が消灯だったが、夜半、未明にかけ て、同室の患者さんへんの対応で何度も出入りする看護師さんの気配があった。ーーー 7月2日(金)、2日目。ーーーーー まだ辺りが暗いなか目が覚めていたが、6時、看護師さんがきて血液検査のため血をとる。朝食後、担当医の先生 から、今の状態、今後のことについてていねいな説明をうける。ーーー 今日から看護師さんたちのお名前や仕事のことを少しお聞きしてノートにつけることにする。自分の症状の確認、 字をどれだけかけるか、ということと、昨夜来の看護師さんたちの仕事のされ方に驚かされたからだ。同室の患 者さんは一人ずつ症状もちがえばそのふるまいも違っている。苦しくて時には穏やかでない言動もある。繰り返 し繰り返し訴える方もいる。そんな中で、看護師さんそれぞれの言葉つかいで、それぞれの患者に心こもった温 かな対応をされていることに驚かされた。5年前96歳で亡くなった母は晩年いくつかの病院や施設でお世話になっ たのだが、どの病院でも懸命に患者に向き合う看護師や医師の方がおられたのだが、それでも病院によって、何 か空気が違うと感じるものがあった。その病院の患者にたいする姿勢、考え方がそこで働く職員全体で共有する ものとなっているかどうか。まだ一晩過ごしただけだけれど、プロとしての仕事に感謝と驚きの思い出最初の夜 をベッドで過ごした。ーーーーー (リハビリ始まる) 有り難かったのは国立病院であるこの病院にはリハビリのための3人の先生がいたことで、入院して2日目からそ れぞれにベッドのところまで来てリハビリの指導をしてくださったことだ。言語聴覚士、運動(療法)、作業療 法士(5日から)。ーーー 『もうろく帖』から、孫引き。 「七十五年は、あっという間。一日はゆっくり」(1998年6月11日)ーーーーーー 「とどかないと知って とどくにかける」(2000年1月29日)ーーー 「失敗から自分の道をさがす」(2010年2月3日)87歳   ーーーーー ーーーー〔家から差し入れ、西新から歩いて〕ーーー 消灯後、目が覚めた時間。23:30、1:30、3:00、4:30、6:00ーーー 7月3日(土) 未明の時よりベッドでリハビリ(指を動かす)、驚いたのは昨日習った指の動かし方をやっていたら、曲がってい た右手の3本の指が伸ばして広げることができるようになったことだ。 この日から看護師や職員の方が来た時、名前と職員になっての年数、夜勤が月何回かを聞きメモをする。 (言語聴覚士・リハビリ)①線をひく②ことば ③舌の運動、その他(資料)ーーーー (看護師さんの勤務形態) 1.夜勤19:00~9:00、14時間、仮眠2時間?1か月に4,5回が多かった。 2.平常8:30~17:15 3.早出7:00~15:45 4.遅出13:00~22:00 ※その後、夜勤明けの時に、どのように睡眠をとっているかをおききした。 ①疲れてすぐ眠る ②夜になってから眠る。・明るいとなかなかねむれない。・生活のリズムとして。・・・など。 ※ある講習会(8月3日)での講義を引き受けていたので、その講義概要と履歴書を震える手で書き、家人に清書し てからの提出(郵送)をたのむ。ーーー 7月5日(月) 6:30ころ、リハビリをしていたら、人差し指の折り曲げができるようになった。ただ、午後のリハビリの時に右手 の握力をはかると、左手の半分くらい。 ・入院してはじめてシャワーをあびる。 (病室から)(ある一角から)
7月6日(火) 救急病室から一般病室に部屋をかわる。(4人部屋) シャワー(自分でノートに書いて予約できる)気持ちいい、いい気分。 作業療法士の先生より、「一日、一日よくなっている」 ※点滴をはずす。(入院以来ずっと点滴、1袋で注入に半日)・シーツの交換。 看護師さんの聞き取り続ける。今年看護師になった人が6人いるようだ。みんな新人とは思えない仕事ぶり。 7月7日(水) 鶴見さんの本を読み終わり、吉田秀和『文学のとき』(白水ブックス 1994 新書版)より。 「情報」というものは、それを見、判断する「目」の有無で価値がまったくちがってくるのだ。本当の裏づけのない 情報にふりまわされてきたからこそ、ロシアのことがまるでわからなくなってしまったのではないか。その「目」の 役割を果たす強力な武器はやっぱり「文学」だ。文学者の発言は主観的であっても、凡百の客観的記述より深い真実 を表わし、より遠くまで届く視線となる。そして、ろしあは、いまも、すぐれた文学者に恵まれた国だ。たとえば ブロツキー――。」
1階にローソンがあるのを見つける。(シャンプー、髭剃り)また、その近くに「患者図書室」があるのを発見。 7月8日(木) リハビリの先生と国立国会図書館の「デジタル資料」の話。「ぼくの周りのスタッフに教えて回ります。ぜったい 知らない。」ーーー その日初めて会った看護師さんの話。出産が間近。新任の看護師が5,6人いますね、という話から。5,6年で辞め る人も多い。そういえば、これまで勤務年数を聞いてきて、長期の人がすくないように感じていた。夜勤を生活の リズムにとりいれている人がいる中、それでも体がもたない、続けられないという側面もあるのではと思われた。 せっかくのやる気と貴重な深い経験を持ちながら、仕事をだれでもが続けていける労働環境の問題があるのではと思 えた。昔むかし45,6年前頃、印刷会社でアルバイトしていた時、印刷の色を調整する正規職員の人が、就職後5,6年 で数多い現場にであったことがある。工業高校の印刷の課程を卒業した人たちだったが、残業や休日勤務がすさまじ く、身体がもたない現場だと思ったことを思いだした。看護師さんたちのプロとしての仕事ぶりに身をもって接して、 ひとりひとりが働く環境に目をこらさざるをえない。
「患者図書室」発見
・1階の「患者図書室」へ。本は全部で1400冊くらい。1週間3冊まで借りれる。村上春樹の本はこれまで紀行文やエ ッセイ、『アンダーグラウンド』しか読んだことがなく、小説は1冊も読んだことがなかったので、目にとびこんでき た『ノルウェイの森』上巻、そして重松清『きよしこ』、『脳を鍛える地図ドリル』成美堂出版の3冊をかりる。
7月9日(金) 昨日から読み始めた『きよしこ』、朝5時、灯りはまだつかないので、窓際で読む。 ・リハビリの時間、握力をはかる。左手32.7k、右手26k。1週間前は右手16kだった。その後、右手は20kをきって いる。 ・電話があり、上五島の図書館のUさんと亡くなられた東京のOさんのことをお聞きする。20年近く前、能登川の図書館 に上五島からやってきた2人と京都の先斗町で、東京からきていた千葉さんたちの一行に合流したときの話。夢のような 一夜、出会いのこと(Oさん、Iさん、漆原さん)。千葉さん、Oさん、Iさんは今は亡い。Iさんは、他日東京から上五島 の図書館を訪ねられたとのことだった。 7月10日(土) 『きよしこ』読了 (一般病室から)
7月11日(日) 『文学のとき』・・・朝の明かりを待って・・・・ 「ひとはいつか別れを経験する。それが生き別れであろうと死に別れでだろうと、別れは鉄槌のように心を打ちのめす」 『ノルウェイの森』上巻、一気に読了。 7月12日(月) 明日午前10時に退院することに。 4:50起床、リハビリをベッドで。リハビリの先生の指導は今日が最後なので、それぞれの先生から退院後、自宅で行う リハビリでし方についてアドバイスをいただく。同室の患者さんと言葉をかわす。 「患者図書室」でさいごの貸出し。『ノルウェイの森』下巻、『脳を鍛える大人の音読ドリル』『図形で学ぼう大人の ドリル』・・・・『ノルウェイの森』下巻、読了。小説の世界にひきこまれた。登場人物の一人ひとりが深い共感とと もにたちあがってきた。
7月13日(火) 7時過ぎ、さいごの食事をいただく。入院以来今日まで朝昼晩といただいた食事のおいしかったこと。有りがたい食事 だった。この間、体重が3,4キロやせたようだ。 9時過ぎに担当医の先生から、現在の体の状態、退院後に注意すべきことについてお話があった。退院してから通院して 薬をいただく自宅の近くの内科医やリハビリに通うクリニックへの紹介状をいただく。こうして10時過ぎに退院、家人の 迎えの車で昼前に帰宅することができた。 以上、入院から退院までの日々の報告です。 退院のひの朝、4時過ぎに目ざめ、公衆電話があるところに置いてあった『皆さんの声シート』に次のように書いて投函 した。ーーーーーーーーー 「7月1日早朝、糸島から救急車で運ばれ救急病室に6日まで。そして7日からは一般病室でお世話になりました。今朝退院 しますが、この間、担当の先生、看護師のお一人お一人、お掃除の方や職員のみなさんに本当にお世話になりお礼の言葉 もありません。担当の先生(O先生)には随時ていねいでわかりやすい説明と相談にのっていただき、安心して今とこれ からを考えることができました。また看護師のみなさんの患者一人一人への温かで心のこもった対応に心から感謝してい ます。病院が掲げられている基本理念がみなさんのふだんの行動・態度となっていることに深く心動かされました。 リハビリの先生が、それぞれ専門を異にして3人いてくださり、適切な指導とアドバイスをいただけたことも、この上ない ことでした。又、患者図書室を利用できたことも大きな喜びでした。本当にありがとうございました。3度の食事、とても おいしかったです。(おかげさまで、以上、右手でかくことができました!)」ーーーーー 7月14日(水) 畑は草ぼうぼう。リハビリを兼ねて朝ごはんの前に草刈り機で草刈り。30分でくたくた。毎日少しずつやることに。 以後、時間を少しずつ伸ばして朝食前の草刈り。 7月18日(日)
入院前に田植えの手伝いにきてくれた樋本さんが、こんどは田んぼの草取の手伝いに。午前中、並んで草取り。
水路からの水が、道路の下の管を通って入るようになっているのだが、管に石や土砂、枯葉などがつまり田んぼに入って 来なくなった。このあと修復に何日もかかってしまった。 (管に詰まっていた石・・・)
以降、毎朝朝食前に草刈りの日々でした。 (7月21日 草刈りに応援が・・・)