2020年5月4日月曜日

井上ひさしさんの命日にちなみ読み始めた本のこと(2)No.50

4月9日、井上ひさしさんの10回目の命日にちなみ読み始めた『井上ひさしの読書眼鏡』(中央公論新社2011、10.10)について、4月9日の日から書いてきた。先にも書いているがこの本は、井上さんが2010年4月に永眠されて半年後の2011年10月10日に出版されている。内容は3つである。同書末尾の「初出紙誌」によると

1.井上ひさしの読書眼鏡『読売新聞』2001年1月28日~2004年4月25日
2.米原万里の全著作 米原万里展「ロシア語通訳から作家へ」図録、2008年10月、
  NPO法人遅筆堂文庫プロジェクト
3.藤沢さんの日の光 文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』2005年9月、文
  藝春秋

1の『井上ひさしの読書眼鏡』が本書のタイトルであり、分量も本文195頁中、153頁と約8割を占め、編集者にとって、井上さんが亡くなる9年前に、読売新聞に連載された「井上ひさしの読書眼鏡」を遺稿として出版することが出版する主たる思いであったと思われる。その際、編集者としての力量、センスが問われるのが、井上さんの他の文章の中から、何を選び出すかだ。2と3を私自身は本書で初めて読んだ。そして、編集者の名前は本書のどこにも記されてはいないが、あらためて編集者の力、著者である井上ひさしさんへの思いの深さを感じた。2つともに内容が素晴らしい。

2は2006年10月、惜しまれながらなくなった米原万理さんの人生を振り返る初めての展示会が、『米原万理展「ロシア語通訳から作家へ」』として、NPO遅筆堂文庫プロジェクトの主催で、シベールアリーナ&遅筆堂文庫山形館ギャラリーで行われた際に(2008.9.16~12.28)、米原さんが生まれてからなくなるまでの56年間(1950~2006)のすべてがわかるようにたくさんの写真と共に、米原さんの全著作23点が、井上ひさしさんの解説付きで展示された。井上さんの解説文はその時に作成された図録に収録され、そして本書に掲載されて、より多くの人が目にすることができるようになった。

(『米原万理展はその後、巡回展として各地で行われている。川西町フレンドリープラザ遅筆堂2009.1~2、仙台文学館2009.2~3、鎌倉文学館2011.4.29~7.10;米原万理公式サイトによる。同サイトには、米原万理のプロフィール、書籍一覧、ゆかりの人たちの思い出話を掲載)

井上ひさしさんの米原万理全著作、23点の解説の文章は、それぞれの時期に書かれたものを集めたものだが、いずれも短い文章で、197~362字と、400字詰め原稿用紙一枚以内で書かれている。短文であるだけに、一層米原万理さんの人と作品の特徴を鮮やかにえがきだしたものとなっている。それぞれに見事に簡潔している文章をさらに短くするのは愚の骨頂であるが、私自身の心覚え〈実はコトバの勉強・言葉あそび〉と、井上さんの文章の口吻の一端でも伝えるべく、以下に紹介しておきたい。

米原万理の全著作
『わたしの外国語学習法 独学で外国語を身につけようとしている人のために』
(カトー・ロンブ =著、1981年9月、創樹社刊)
卓(すぐ)れた翻訳家でもあった米原万理が、世界中の書棚に溢れている外国語学習本の中から、選び出して翻訳したこの本は、類書とは違って、語学習得の技術を物語にして、うんとおもしろく会得できるように書かれている。逸話(エピソード)や笑話(ジョーク)をふんだんにちりばめて、読者を言語学の奥義(おうぎ)へと誘いこむ。
16の言語を独学で身につけたハンガリーの名通訳者に、彼女は自分の分身を見つけたわけだった。

『マイナス50℃の世界-寒極の生活
(毎日小学生新聞=編、1986年7月、現代書館刊)
冬のシベリア―釣られた魚がたったの10秒間でコチコチに。極寒の大陸を2か月間、TBS取材班の通訳としてカメラとともに東へ西へ。帰国後、毎日小学生新聞に壊れて、その信じられないような体験を、こんな極寒の中でも人間がきちんと生きているのだという事実を、平易な文章で、しかしおもしろく深く書いた。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か
(1994年9月、徳間書店刊)
本邦初の本格的な通訳論〈二つの言語がたがいにぶつかって火花を散らし、そしてすぐに結ばれ合う緊迫した通訳の現場で、文学にも言語学にも精通した著者は、たくさんの原則や規則を発見し、持ち前の才気と諧謔で一気に書き上げた。〉に、満天下が騒然となった。

魔女の1ダース
正義と常識に冷や水を浴びせる13章
(1996年8月、読売新聞社刊)
米原万理の独壇場、同時通訳業界の報復絶倒的裏話の集成。
〈自分にとって美味しいものは、他人にとっても美味しいに決まっていると堅く信じて疑わない人々は〉手に負えない・・・、真の国際交流をめざすなら、自分の流儀は相手のは流儀とはちがうというところから始めなければならない。〈米原の生涯にわたる持論の一つ〉

ロシアは今日も荒れ模様
(1998年2月、日本経済新聞社刊O
〈爆笑しながら読むロシア現代史〉ソ連崩壊前後からの10数年間、通訳の仕事を通して、政府要人(ゴルバチョフやエリツィン)の通訳として、「天使と悪魔が共に棲む国」のもろもろの事情を鋭く観察。激しく揺れ動くロシアの背後に、繁栄をきわめながらも没落の気配を漂わせている「日本の寒々とした現在」に心を痛めている。その目の確かさ。

ガセネッタ&シモネッタ
(2000年12月、文藝春秋刊)
同時通訳の現場は〈喜劇の現場〉。愛すべき仲間たちのドタバタ騒ぎを活写しつつ、ダジャレや下ネタを材料に、人間の言語活動の本質に迫る。「鉄のカーテン」のくだり、注目!〈米原の取材法がよくわかる〉

嘘つきアーニャの真っ赤な真実
(2001年6月、角川書店刊)
プラハのソビエト学校で机を並べていた親友3人の、30年後の消息を綱渡り的に探し求める。〈国家〉と〈国〉とははっきりちがうこと、国境を越えた友情の結びつきが次の時代を育てるかもしれないことをたしかめることに。すばらしい、そして懐かしい、地球規模の友情物語。

真夜中の太陽
(2001年7月、中央公論新社刊)
彼女の文章が今も新鮮なのは。彼女がどんな立場から書いていたかによる。〈ひとことでいえば、政官財の集団がさまざまなトリックを仕掛けて、国民の税金をほとんど横領している立場で書いていた。〉彼女の見取り図では、世界中いたるところがそうなのだ。
〈20世紀末から21世紀初頭にかけて、いくつかのメディアに連載したもの、いずれも今現在の日本と世界の状況を、私なりに解釈しようと試みたものばかり〉(中公文庫「あとがき」)

ヒトのオスは飼わないの?
(2001年11月、講談社刊)
どんなネコ嫌いイヌ嫌いでも、ここに描かれているイヌ二、ネコ四、ヒト二によって構成された聖家族の日々を読んだあとは、・・・。
脇役の獣医アラカワ先生の存在もおもしろく、これはイヌネコとヒトとの合作による大笑いの、そして涙ぐましい友情物語の傑作である。

旅行者の朝食
(2002年4月、文藝春秋刊)
米原万理の早食いは、通訳業界でも評判だった。・・・ところがそれでいながら、だれよりも早く食べ終えているのは彼女だった。
食べ物についてのエッセイが、みごとな構成のもとに集められているが、
で、「ウォトカをめぐる二つの謎」を読めば〈その理由が〉よくわかる。

オリガ・モリソヴナの反語法
2002年10月、集英社
名エッセイストから本格的な小説家への歩みはじめ。実験的な小説技法、マトリョーシカ(入れ子式の木製人形)の構造を小説にとりこむ。第二、第三、第四と新しい物語が現れるたびに、独裁者とその取り巻きたちの妄想が作り上げた〈国家〉なるものの壮大なウソが暴かれて行く過程は圧巻。「ヒロインの掏(す)り替え」という大胆不敵な手法に驚かされる。だれもが次の小説を期待したが・・・。叶えられることはなかった。

真昼の星空
(2003年10月、中央公論新社刊)
まことに残念なことだが、「見ても見えず聞いても聞こえず」というのが人間の日常」〈現実には存在するのに、多くの人の目には見えないものがある。逆に圧倒的な現実と思われるものが、単なるこけおどしだったりする。目に見える現実の裏に控える、まぎれもないもう一つの現実。〉(中公文庫版12ページ)
つまり―「この世の真実を抉り出す」、それが自分の仕事だ、それも笑いをもって抉り出す―彼女はそう心を決めていた、その決心が題名にあらわれている。目をこらせば、たしかに昼でも星は見えるのだ。

パンツの面目ふんどしの沽券
(2005年7月、筑摩書房刊)
米原昶(いたる)、父の生き方が日本男子の手本、父が愛用する越中フンドシを尊敬した。越中フンドシを通して日本固有の価値を見直そうとした。「人間の下半身を覆う布切れ」から見た世界文化生活史の決定版。越中フンドシも、彼女の研究心もタダモノではなかった。

必笑小咄(こばなし)のテクニック
(2005年12月、集英社新書)
米原万理の強力な武器の一つが小咄(こばなし)だった。〈笑い話、ジョーク、アネクドート、ショートショート・・・・・・名前はいろいろだが、本質は同じ。短くて笑わせてくれる話〉(8ページ)のこと。通訳現場の緊張を、無関心な読者の心の鎧を、爆笑物の小咄で一瞬のうちに溶かして、いきなり相手のふところに飛び込んで行く。それが彼女のやり方だった。笑いこそが彼女の最大の武器。つねに笑いを笑わせる感覚の手入れを怠ることのなかった彼女の、これは虎の巻のような一冊。

他諺(たげん)の空似(そらに) ことわざ人類学
(2006年8月、光文社刊)
エッセイストとして七つの武器を駆使。①切れ味のいい小咄②爆笑哄笑ものの下ネタ③鋭く深い政治批判④ヨーロッパ史とロシア史についての底知れぬ蘊蓄(うんちく)⑤プラハでの少女時代⑥同時通訳時代の経験、そして七つ目が、おびただしい数の諺のつるべ打ち。短かった生涯の最後のころ、万国の諺を、あれこれ比べる作業に着手、すぐれない体調をおして一巻に。比較人類学分野での一種の達成になっていたことを知って驚く。

うちのめされるようなすごい本
(2006年10月、文藝春秋刊)
その全生涯にわたって米原万理は本を読み続け、そして信じられないほどたくさんの書評を書き続けた。彼女の全書評を集めた本書の特徴の一つは、いつも前のめりに爆心(ばくしん)する文章の力強さである。読者が読んで得をしない本は絶対に取り上げないという態度。気に入った本、読者に薦めたい書物だけを取り上げた。つまり惚れ抜いた本にだけ書評を書く。力強い文章も、また核心を鋭く見抜く焦点の深さも、彼女のこの態度から生まれた。

終生ヒトのオスは飼わず
(2007年5月、文藝春秋刊)
鬼籍に入ってから編まれたエッセイ集。『ヒトのオスは飼わないの?』の続編と家族について書かれた文章。タイトルは「ご自分の死亡記事をお書きください」という注文に応じて綴られたもの。ほんとうにイヌネコを愛した一生だった。そして仕事を愛し、自由を愛し、家族を愛して、愛にあふれた一生だった。

発明マニア・・・・全文引用
(2007年3月、毎日新聞社刊)
「日々の暮らしが少しでもよくなるために、一人ひとりがどのっように生きたらよいか」
米原万理が両親から引き継いだ人生の課題は、これであった。【井上ひさしさんが、また、まさに、そのようであったと思う】
病いの床について動けなくなった彼女は、「うんとセコイ発明でこの世の大問題を解決できないだろうか」と夢想する。彼女が自分で描いた挿絵を添えてここに提出した一一九の発明は、いずれも愉快かつ珍妙だが、しかしやがてその奥から、読者の耳に、「愚かなくせに他人を踏みつけにして恥じない連中を、どうしたら正道に引き戻せるか」と、必死に叫ぶ彼女の悲痛な声が届くはずである。

米原万理の「愛の法則」
(2007年8月、集英社新書)
講演の名手。〈なによりも声がよく通ったし、発語は明瞭。常時一千はたくわえている小咄を連射して客席を沸かし、ノリのいい話ぶりで聴衆に時間のたつのを忘れさせた。〉
講演にはいつも彼女の生涯の主題である〈人間はつねに他人と意思を交わし合いたいと願っている存在である〉という思いが込められていた。本書にはその講演録が、四編収められている。

マイナス50℃の世界〈復刻改訂版〉
(2007年1月、清流出版刊)
1984年から翌年にかけての2か月間、米原万理はTBS取材班通訳としてシベリア大陸を旅した。そのときのことは処女作『マイナス50℃の世界』ですでに報告。本書はその大幅な改訂版。実は取材班に作家の椎名誠氏と写真家の山本皓一(こういち)氏が加わっていた。本書には、椎名氏の珠玉の文章と、山本氏のはっと息を呑むような見事な写真がたくさん載っている。〈世界のどこに出しても誇れる日本人女性〉と椎名氏が称(たた)えた米原の睫毛に、こまかく凍りついた氷柱の列が美しい。

心臓に毛が生えている理由(わけ)
(2008年4月、角川学芸出版刊)
すぐれた書き手のもとには、ひとりでにすぐれた編集者たちが集まる。これが文筆業界の基本則の一つである。米原万理も優秀な編集者に支えられて仕事をした。彼女が世を去ったあとも、編集者たちは、目には見えないが、実に組織立ったやり方で散らばったエッセイを集め、ぞくぞくと本にしていった。本書もその一冊である。・・・母国を愛し続け、日本語を使い続け、そしてよく柿続けた。それが彼女の一生だった。
【思いだすこと2つ。1、「編集者の仕事について、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書で井上ひさしの文章:「担当する作家たちからじつに多くのことを学び、やがて、秀れた批評家よりも鋭く深く、その作家の心のなかの真実や、彼の創作の秘密を摑む。それが編集者なのだ・・・。」『井上ひさしの読書眼鏡』「苦笑の人」清張の本質。2.スタンダールの墓碑銘;生きた、愛した、書いた)

ロシア語版 父と暮せば
(2008年8月、こまつ座刊)
電光石化の早業だった。万理さんはあっという間に翻訳してしまったんです。・・・念のためにロシア人にも見てもらってちょうだいとおっしゃるので、・・・一ヶ所も手を入れるところがない、すばらしい台本ですという感嘆の声・・・。モスクワ劇場では。すばらしい反響でしたよ。モスクワ市民は万理さんのロシア語に、始めから終いまで、心を揺さぶられつづけていました。」(井上ひさし談)

言葉を育てる 米原万理対談集・・・全文引用  
(2008年9月、ちくま文庫)
米原万理の行くところにきまって笑いが興(おこ)った。彼女の生涯の座右銘は「振(ぶ)らないこと」。いい子振らずにいつも率直に、正直にふるまった。話題は豊富だった。冗談(ジョーク)をたくさん仕込んでもいたし、物事(ものごと)を見る目の角度が常(つね)とはちがっていた。この角度のおもしろさが笑いを生み出していたのである。
対談の相手も彼女の率直さにすぐ感心して心を開いてくれた。持っているものを惜し気もなく外へ出してくれた。
このようにして彼女が行った対談は一つの例外もなくおもしろくて有益な「作品」になった。

「米原万理の全著作」23編について、井上ひさしさんの解説文をより短くして、紹介しようとした無謀な試みをして、あらためて思ったのは、よくも少ない字数で見事に米原万理さんの人と作品の特徴をうきぼりにしていること、そこには、米原さんが「生きること〈書くこと〉」で何を大切にしてきたか」が鮮やかに描き出されているが、それが、そのまま、井上ひさしさん自身の生き方、作品と重なっているように思われた、ということである。

さいごの、「藤沢さんの日の光」について

これは、2005年9月の文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』の特集号に、井上さんが寄せた文章。昭和48年(1973年)8月、直木賞贈呈式で、「素直に懐かしげに受賞の挨拶をする藤沢周平さんを会場の隅から眺めてから三年後、オール読物新人賞選考会の席上で、敬愛する同郷の作家、藤沢さんと初めてことばを交わす。「こうして藤沢さんとの付合いが始まった。付合いといっても、出会ったときに一、二分の立ち話、故郷の新聞に乞われて対談、わたしの芝居を観にきてくださったあとのコーヒー茶碗を間においた二、三十分の雑談といった淡いものだったが、・・・」

『蟬しぐれ』で井上さんがひかれるのは、主人公、文四郎の「不遇感」とそれなのに作品から感じる「清々しい哀しさをともなった突き抜けたような明るさ」だ。
「誤読という読者の特権をかざすなら、このときの文四郎は、確かに手術前後の藤沢さんである。しかもわたしたち読者は、たいていなにかの意味で不遇感をもっているから、文四郎こそわたしのことだと気合がはいる。・・・」
「いったいどんな仕掛けになっているのか。そのなぞを解く手がかりの一つが、じつにしばしば現れる「日の光」の様子である。」として、引用の文章がつづく。
「〈じっと動かない霧も、朝の光をうけてかすかに赤らんで見える。〉〈西にかたむいてもまだ暑い日射しが河岸通りに照りわたり、〉〈日の位置はいよいよ低くなって、〉〈粗末な門のあたりにはまだ強い夏の日射しがはじけていた。〉など、人物の心理を自然描写に転写する名手の藤沢さんが、文四郎の心と体の動きを描くときは、すべてといってよいほど、注意深く日の光をからませている。不遇の谷間に突き落とされた文四郎を、日の光がたえず励ましているようだ。それで明るいのだ。そして事件は主に、ほの光の失われた夜におこる。この配分のみごとさに、何度読んでも唸ってしまう。

そうして井上さんの文章は、『蟬しぐれ』の結末の名場面に、井上さんが「気になってしかたがない」箇所のことを、たまたま芝居を観にきてくださった藤沢さんに問いかけ、「珍しく迷惑顔」になった藤沢さんが、「さあ、わかりませんね」と応え、「いやなことを訊いてしまったなと後悔したが、その後悔はいまもつづいている。」と、結ばれている。
知ったかぶりをすることなく、気になっていた要の問を著者にして、いまだに「「いやなことを訊いてしまった」と後悔しつづける井上さんに深い共感と親しみを覚える。

「日の光」についていえば、ここでの話とそれるけれども、私が米作りを始めて、最初から種をおろし、作りつづけているのが、「日の光」だ。自然農を始めて、日々思い知らされるように思っているのが、自然農では肥料を一切やることなく、水と土とそして日の光で、たゆみなく命である実りを授かるということだ。不思議さと天からの授かりものという思いをいつも抱いている。藤沢周平の作品はいまだ読んだことがないが、「日の光」をどのように描いているのか、日々対面する「日に光」がどのようなものであるかをより深く感じるためにも、『蟬しぐれ』から読んでみたいと思う。












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