2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2023年9月30日土曜日
伊藤野枝,伊藤ルイさんのこと No.121
9月16日(土)、「伊藤野枝100年フェスティバル」(福岡市西区・さいとぴあ)に出かけた。
プログラムは以下の内容だった。
①映画「ルイズその旅立ち」10:30~12:10
②神田紅氏講演 13:30~14:10
③森まゆみ氏講演 14:30~15:30
④座談会 15:30~16:30
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主催者は「伊藤野枝100年プロジェクト」、同会のパンフレットには「伊藤野枝没後100年を迎えるにあたり、彼女の人生の軌跡を振り返り、未来へと語り継ぐ取り組みを行うために「伊藤野枝100年プロジェクト」を結成しました。そのために広くサポーターを募ります。月に一回『伊藤野枝集』を読む読書会を行っています。ご興味のある方は、以下のメールアドレスからご連絡ください。
Instagram,Twitterもフォローお願いします。itounoe100@gmail.com」-----------------------------------------------------------------------
とある。
①映画「ルイズその旅立ち」
パンフレットの映画の紹介では、「大杉栄(明治18/1885 ・1・21ー大正12/1923 ・9・16)と伊藤野枝(明治28/1995・1・21ー大正12/1923 ・9・16)の四女のルイズは、両親の非業の死を知って市民運動家として個人の自由と尊厳を守る活動を続けた。その姿を中心に、野枝の今日性に迫る、ドキュメンタリー映画」と記されていたが(日時は筆者、記述)、私にとっては初めてこの映画を見る機会だった。
この映画を見る4日前の9月12日から、私は1冊の本を読み始めていた。『評伝 伊藤野枝~あらしのように生きて~』堀和江(郁朋社 2023.4.28)だ。私が1週間に1,2回は行っている地元の図書館、自宅から車で10分の糸島市図書館ニ丈館(糸島市立図書館の分館)の新刊書の棚で手にしたのだった。映画について触れる前に、まずこの本のことから記したい。
二丈館の私の利用の仕方は、糸島市の図書館はリクエストが1人10冊までの制限があるので、いつも10冊の本をリクエストをしている。今は用意できた本は、図書館からすぐにネットで連絡があるため、その本を借りる時に、借りた冊数だけ新たなリクエストをして、ほぼ常時10冊の本が予約されている状態になっているという次第。私が二丈館の新刊書の棚で見つけて、借りるのは1年で10冊に満たない。年間5,6冊あるかどうか。だから、『評伝 伊藤野枝』は、私にとっては、とても得難い出会いだった。
因みに、二丈館の既存の本、開架室では、私が読みたい本はあまりない。
このため、一度にこれはと思う本を思うだけ借りている図書館は、県外の市立図書館でだ。この図書館では、能登川や東近江市の図書館と同じように、貸出冊数に制限がない。期限内(2週間)に返せばよく、借りている本を他の利用者の予約がなければ、1度だけ、貸出の延長ができる。(月に1,2回出かけて行く。自宅から車で50分)二丈館だけでなく、糸島市の図書館の本館でも、新刊棚や既存の蔵書の中に、私が読んでみたいと思う本が、きわめて少ないのだが、その図書館では新刊書の棚に、何冊も手に取りたい本を見つける。市外からの私はできるだけその棚の本を借りることを控えていて、場合によっては、そのうち、これはと思う本を、糸島市の図書館で、予約、リクエストをしたりしている。いつも驚かされるの
は、開架室で短時間で読みたい本を、たちどころに見つけられることだ。二つの手提げ袋にいっぱいになることが、しばしばだ。この図書館には、利用者が利用できる書庫があり、そこには、私のこれからの限りある時間の中では、読み切ることができないだろう、読みたい本がたくさんある。
『評伝 伊藤野枝』のこと
堀和江という著者のお名前をこの本で初めて知った。これまで私は伊藤野枝や大杉栄の本をいくらか読んでいて、その時々の野枝や大杉の行動や思想(考え方)が私の中に刻まれているが、野枝の生涯の足跡を通して知ることはなかった。
1895(明治28)年1月21日、ノエ(戸籍名)はみぞれまじりの寒い晩に福岡県糸島郡今宿村大字谷(現・福岡市今宿)に生れた(第三子長女)。本書ではその折の両親、伊藤亀吉、母ムメの暮らしの様や野枝の少女時代から、1923(大正12)年9月16日、関東大震災後の混乱のさなか、甘粕正彦憲兵大尉によって、大杉栄、その甥の6歳の橘宗一(大杉の妹あやめの子)とともに虐殺、惨殺されるまでの、野枝の生涯の歩みが、「第1章広い世界へ」、「第2章新しい女」、「第3章大杉栄との出会い」、そして「第4章二人の革命家」で描かれている。
最後の章、「第5章 野枝の残したもの」は、そのほとんどが私が初めて見聞きする事柄、その内容に驚かされ、また深い感銘をうけるものであったが、ここにその細節の小見出しを記して、その内容の一端を示せればと思う。
(1)甘粕正彦
〈主義者殺し〉
・1923.12.8甘粕―懲役10年、森―懲役3年、鴨志田、本田、平井―無罪。
・1926(大正15.10.9 仮出獄【懲役10年だったのに、わずか2年10ヶ月で仮出獄。出t
所後、行方知れず。
・1927(昭和2).7 日本を離れ、フランスへ。(春に結婚した服部ミネと)~1929
(昭和4).2月
〈満州での謀略〉
1929.2 フランスから帰国し、夏、満州へ。関東軍(板垣征四郎、石原莞爾)の
「満蒙領有計画」に同調、この二人と同志的行動をとっていく。(ハルビン暴
動、日本領事館、朝鮮銀行に爆弾なげこむ
・1932(昭和7)満州国建国後、民生部警務司長(警察長長官に相当)に大抜擢さ
れ、表舞台に登場
〈満映理事長〉1939(昭和14)総務庁次長・岸信介の尽力で満州映画協会(満映)の理事
長に。
〈甘粕の最期〉
(2)辻まこと
〈父・辻潤〉
〈辻潤、天狗になる〉
〈母、野枝〉
〈転機〉
〈爽やかな風〉
〈静かな暮らし〉
〈すぎゆくアダモ〉
(3)伊藤ルイ
〈魔子(長女)〉6歳 → 真子 1968(昭和43)急逝、51歳。
・1923(大正12)10.5 代準介ら4人の遺児をつれて今宿へ、伊藤家へ入籍、代家に。
〔幸子(次女)〕生後8か月 大杉の妹、牧野田松枝の幼女となり天津へ。エマを幸
子と改名
〔笑子(三女)〕2歳 エマ ⇒笑子 1997(平成9)映画『ルイズその旅立ち』、イ
ンタビュー断る
〔伊藤ルイ(四女」〕11歳 ルイズ → 留意子
(ネストル)生後2か月 → 栄 (翌年8月15日死亡)
・笑子、ルイズ、ネストルの3人は亀吉とムメのもとに。
〈ルイの結婚〉
〈戦後〉
〈一人立ち〉
・1953(昭和28)ルイと名乗り始める(31歳)
・1959 副島人形店に(37歳で弟子入り)・・・何とか経済的に独立できないか
・1964(昭和39)42歳で伊藤ルイに。
〈死因鑑定書〉
ルイ、1976(昭和51)年、半世紀ぶりに「死因鑑定書」発見される。解剖軍医の
夫人、大切に保存。
甘粕の軍法会議での供述の偽りが明らかに。
大杉栄―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折
伊藤野枝―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折、その上、カラダハ暗赤色
すこぶる」強なる力(蹴る、踏みつける等)が加わった後、扼殺。 ―――
その後、「憲兵隊本部の古井戸に、裸にされ、菰(こも)に包まれ、麻縄で縛っ
て投げこまれていた。
しかもその上から煉瓦が多数投げこまれ、さらに馬糞や塵芥が投げこまれ井戸は完
全に埋められていた。」
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【予審調書での甘粕の発言―『甘粕大尉』角田房子(中公文庫1979、同書の
「あとがき」執筆期日 は1970.7 】では。
「同日(9月16日)8時ごろ憲兵司令部の応接室で今使用しておらぬ室へ森曹長が大杉
栄だけを連れて行き取調べて居ります時に、私が大杉栄の腰かけて居る後方からそ
の室に這入って、直ちに右手の前腕を大杉栄の咽頭部に当て、左手首を右手掌に握
り後ろに引きましたれば椅子から倒れましたから、右膝頭を大杉栄の背骨に当て柔
道の締め手により絞殺致しました。大杉栄は両手をあげて非常に苦しみ約十分位で絶
命いたしましたから、私が携えていたゐた細引を首に巻いて其場に倒しておきまし
た。大杉栄は如何なる訳であったか、絞殺する際少しも声を発しませんでした。
(中略)モリ曹長には同人が調べているときに私が絞殺すると畏怖ことを示してあ
りましたが、私が絞殺する始めには森曹長がボンヤリして椅子に腰かけて居りまし
たが、殆ど絶命するようになって足をバタバタいは
せてゐますので、私が命じて其の足を捕へさせたと思ひます。」(27頁)
このあとに、大杉の時と同じようにして伊藤野枝を絞殺したことが述べられている。
「(中略)子供は私に馴染み分隊に来てからも附きまといひますので、誰かに引取ってや者はないかと冗
談のやうに分隊の者にいつた位で、伊藤野枝を絞殺する前に私の許に来ましたから、隊長室の隣の部屋に
入れて戸をしめ一寸待つてくれといひ置きましたので、子供はそれをきき隣室で騒いで居りましたから、
伊藤野枝を絞殺すると直ちに隣室に行き、手で咽喉をしめ倒しその後細引を首に巻きつけて置きました。
子供を絞殺する際、声を発しませんでした」
「(中略)大杉栄、伊藤野枝及子供の三死体は午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井三上等兵に手
伝はせ憲兵隊の火薬庫の傍にある古井戸の中に、菰に包み麻縄で縛して投込みました」(28頁)
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・1976(昭和51)54歳、死因鑑定書を読む読む。(1976年8月26日朝日新聞に掲載)
すさまじい暴行。「53年かかって、悪い星がわが身にふりかかったような苦しみ―一睡もできなかった。はじめて、
肉親としての実感と悔しさに目覚めた」
「そしてルイは、このような悲嘆―ルイや親族だけのものではなく、ありとあらゆる弾圧を受けた人びとすべての人
のものであると思い至る。そして、両親が虐殺された9.16の日に福岡の地で集まりを持とうと考えた」
【この鑑定書により、《大杉と野枝は肋骨などがめちゃめちゃに折れ、死ぬ前に蹴る、踏みつけるなどの暴行をう
け、喉頭部を鈍体(拳或は前膊ゼンハク)にて絞圧し、窒息させたもので、致死後裸体となして畳表に梱包の上、
東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側の廃井戸に投げ捨てたもので、当時七歳の橘宗一(大杉の甥)も同じように
扼殺されていた》ことが判明。
(ルイは)さすがにショックをうけてその夜は眠れず、しかし夜明けがたになって、このような死が待ちうけて
いると知りながら、「私たち夫婦は畳の上で死なれんと」と母親に告げていた野枝の覚悟を想い、心を痛めながら
もそれを受け入れていた祖母を想いするうちに、同じような弾圧の中でムザムザと生を断たれた人びとや、その家
族の上に想いがかかり、大杉らの死を「私」ごととしてではなく、他の人びとと同じ視点から「優れた先達」とし
て見る立場というものが獲得できた。
その直後、20年近く学習会を続けてきた仲間【梅田順子さんたち】と1年に1度、9月16日(大杉らの殺された日)
に弾圧死、刑死、獄死された人、現在弾圧されつつあるひとたちのことを学習する会をもとう、ということで、そ
の年、つまり76年9月16日から毎年学習会をすすめ、今年が8回目となっている。(『虹を翔ける』1991、10頁)】
・1980(昭和55)豊前火力発電所反対運動の集会で松下竜一と出会う。その後、熱心な取材の申し出に悩んだ末、
1年半という長期インタビューに応えることに。
「松下さんとの出会いが80年の1月15日成人の日で、その日梅田順子さんに誘われて豊前の土を踏んだのが始まりで、
『ルイズ』が世に出ると共に私も動き出してしまった。北海道から沖縄まで人に招かれ、あるいは自らのプライベー
トに、旅は数十う回に及び、ついには86年夏のベラウ、フィリピン、台湾の旅から、1昨年11月から昨年2月初めま
での地球一周の旅へと拡がり〔ピースボートの旅〕、請われるままに出した本が三冊となった。〔『海を歌う日』講
談社1985、『虹を翔ける―草の根を紡ぐ旅』八月書館1991、『必然の出会い』影書房1991〕実にこの80年代とは、
私にとっては、劇的な10年であった。【『海を翔ける―草の根を紡ぐ旅Ⅱ』八月書館1998、80頁】
・1982(昭和57)『ルイズ―父に貰いし名は』松下竜一(講談社1982.3)
―すべてを)語ることによって、自己の再生、再出発にむかうことに。
60歳のルイ、軛(くびき)から解き放たれたよう 溌剌として自在な行動始まっていく。
好奇心のかたまりのようになって北から南まで、市民運動にたずさわる人びとを訪ね歩く。
・1985(昭和60)前年に26年にわたる博多人形(彩色職人)の仕事に区切り、年金生活。全国の草の根の市民運動を
応援する旅。
〇野枝の最後の文章を読む。
「自己を生かすことの幸福」 虐殺の5ヶ月前。『婦人公論』
「ルイ、63歳になって28歳の女、28歳の葉はとしての野枝を思いえがくとき、じつに美
しく、輝いて感じる。女たちへの遺書」として書きのこされたのを感じる」
・1989(昭和64)1.11)1.11 天皇がなくなった(1月7日)4日後、毎日新聞、ルイのコメ
ント。
ルイは4歳で昭和を迎え、その人生は昭和の歩みとほぼ重なっている.
「大正の終わり、昭和の準備期に反軍思想の故をもって両親は軍人に殺された。「天
皇に弓を引いた者の子」呼ばれて育った私にとって「天皇」はいまもなお暗く重い荷物であり恐怖の対象である。「昭和」をもって「天皇」をなくすことでしか、日本のこの恥多き日々からの立ち直りはない。」(『必然との出会い』)
〈天皇を問う〉
〈Tシャツ訴訟の原告団長として〉
三菱重工業等の連続企業爆破事件、大道寺将司―1987.死刑判決確定
支援のためのサイン入りTシャツ差入れ―東京拘置所、拒否。死刑確定者であるが、「差入交通権訴訟」の原告となることで、訴訟を遂行していく権利をもつことに。ルイ、率先して原告団長に。
・1995(平成7)ルイ 原告側証人として2時間の証言。自身の生育歴、市民運動へのかかわり、三菱爆破とマスコミ報道等について。
「彼らが三菱重工を弾劾したのは― ベトナム戦争に加担、戦争という人を殺すための武器製造を止めさせるための行為であり、故意に人を殺すために三菱を爆破したのではないことは明らかである。それにもかかわらず、マスコミは彼らを爆弾魔と呼び、思想性のない殺人犯の扱いをしている」
―――
「1923年9月16日、私の両親と従兄弟は関東大震災の混乱に乗じて憲兵大尉甘粕正彦らに虐殺されるのだが、それは彼らが何かをやったから殺したのではなく、その思想によって殺されたのであって、陸軍大臣も事実を知って烈火の如く怒り、閣議では後藤内務大臣も人権蹂躙であるとその不法行為をきびしくなじった。にもかかわらず、新聞記事はそれを報せず、第一報から少年橘宗一殺しのみを集中的に報じている。このように真意を伝えず、センセーショナルな記事として誤った見方を植えつけた。」
「凄まじい迫力の証言であった―それは志半ばで命を断ち切られた伊藤野枝の魂が、ルイの体を通して、現代を撃った言葉であったのではないだろうか」
・1996(平成8)「4月半ばまで呼ばれるままに全国を駆け回っていたのだが、身体の不調を訴えて」5月に入院。末期がんの宣告。駆けつけた松下竜一に「私はしたいことをしてきたから、もういいよ」と笑って受けいれ、延命治療を拒否。
そして最期は、早くに家を出ていた長男の容典の手厚い看護を受けた6月28日の明けがた、ルイは眠るように息を引き取った。74歳の生涯を、野枝が生まれた今宿の地で閉じた。」
再び、映画「ルイズ その旅立ち」について
先に『評伝 伊藤野枝』の中の、「伊藤ルイ」の章から、いくつもの引用をしたのは、この本で読んで私が初めて知ることになったことが、映画の中で次々に画面と音声と共に立ち現れたからです。まだ、この映画を見ていない人に、この映画の背景を伝えるのに、同書は何よりの手引きだとも思えるものだった。
以下、映画で印象に残ったこと(思いだすままに)
・1972(昭和47)橘宗一の墓碑の発見。名古屋、草むらから。宗一の父橘惣五郎、昭和初期に秘かに建立。墓石の裏に「犬共に虐殺さる」。墓碑の前でルイたち、姉妹他の集いの画面。
・1976(昭和51)「死刑鑑定書」発見をめぐって。鑑定書を書いた軍医は亡くなっていたが、それを大切に保存していた。 解剖軍医の夫人によりはじめて公開されたのを取材した画面。新聞記事で大杉らが虐殺されて53年後に「死亡鑑
定書」の新聞記事を見たことが契機となり、9月16日に毎年学習会を開くことに。1976年から。
〇松下竜一さんの「草の根通信」に長期にわたって連載された伊藤ルイさんの旅日記は、その前半が『虹を翔ける』
(1983年~1989年/八月書館・91年2月20日刊)にまとめられていたが、後半部分を収録した『海を翔けるー草の根を紡ぐ旅Ⅱ』(1990年~1996年)が刊行されたのは、1998年11月16日で、ルイさんが亡くなって2年2か月後のことだった。
松下さんは1996年6月28日に亡くなったルイさんの追悼文集、109人の文章で編んだ『しのぶぐさー伊藤ルイ追悼集』を97年1月30日に八月書館からまず刊行されたのだ。その『海を翔けるⅡ』の第1章1990年―1991年の1節「≪9・16の会 も第16回となる」に第1回からの内容が「極く簡単に説明されている」が、ここに記しておきたい。ルイさんたちがそれ
までやってきた学習会や取り組んできた運動、活動の一端がしのばれるのではととも思い。
第一回 発会 千代隣保館 故井元麟之さんの部落差別によって犠牲となり断罪された「松原五人衆」の話など。
第ニ回 江口喚著『三つの死』を読み、小林多喜二の死と大学病院の解剖拒否のこと。
第三回 この会の世話人たちがかかわってきた朝鮮人孫振斗さんに「特別在留」が出た日で、原口頴雄さんによる童話教育の現状。
第四回 〈福岡部落史研〉の薄井一央さんによる坑内夫人労働者の話。
第五回 〈小郡ニュータウンを考える会〉小野主基雄さん、田篭幸雄さんんの「久留米藩百姓一揆」と農村の現状。
第六回 太田稔君による甲山冤罪事件の話。
第七回 横浜の野本三吉さんによる寿町に住む日雇労働者たちの生活。(1982年)
第八回 東京の下島哲郎さんの沖縄とのかかわありについて(「草の根通信」131号に詳しい)。
第九回 35年間を殺人罪死刑囚として過ごし、自らの努力によって無罪判決をかち取られた熊本の免田栄さんの話。
第10回 合同労組筒井修君のその労働運動の自分史。
第11回 大阪府箕面忠魂碑訴訟原告古川佳子さんの、戦死された二人の兄さんと母小谷和子さんへの想いを通しての訴訟と
のかかわりについて。
第12回 沖縄県石垣島白保の山里節子さんに、白保新空港反対運動の話。
第13回 新潟県東蒲原郡三川村に〈阿賀の家〉を構えて、「昭和電工」によって起きた阿賀野川沿岸の新潟水俣病の患者さんの、阿賀野川と共に在る生と死を映画『阿賀に生きる』として撮っている佐藤真さんの話。
第14回 福岡県築城(ついき)の地域公民館、自衛隊を相手に反戦の闘いを続けている渡辺ひろ子さんの話。
第15回 京都市伏見の音楽教師朴実さんと朴清子さんの話。朴実さんは在日朝鮮人で帰化後本名の「朴実」を裁判によりはじめて獲得した人。
第16回 南アフリカのANC駐日代表ジェリー・マッイーラ氏。(1991年)
〇第七回の集い、に横浜寿町の野本三吉さんの名前を見て驚いた(1982年)。1972(昭和47)年、私の初めての図書館の働き場となった千葉県八千代市の図書館を2年で退職し(1975.3)、私はアルバイトで費用をため、日本の外に出ることを考えていた。その候補地として考えていたのが、イスラエルのキブツだった。多分1972年5月8日のテルアビブ空港乱射事件が起きる前だったと思う。私はキブツ協会を訪ねて、応対してくれた職員の人、私よりはいくつか年上、30歳前後の人と話をした、岸田哲さんというキブツでの体験のある方だった。確かその時、私はそこで発行されていた『月刊・キブツ』のある号を入手した。それには3人の鼎談が掲載されていた。山尾三省、野本三吉、原康夫の3人、そして司会が「月刊・キブツ」編集部 岸田哲氏。いずれの人も私が初めてその名前を見る人で、それぞれがどんな人か、私は何も知らなかった。三人の話の中では、野本三吉さんの話が私の中に飛び込んできて、私の心に深く刻まれるものとなった。その頃、私は図書館を私にとって、生涯の場としては考えていなかったが、図書館の在りようとして、そうある(べき)ものとしての姿が、野本さんの働く寿生活館(横浜市民生局の管轄)の図書室にあると感じた。〈私にとっての、図書館の原形、あるべき形)
野本「生活館では図書室を開いているんだけれど、他の場所と違って、名前と年齢とどこに泊まっているかがわかったら、すぐにどんどん貸し出すことにしている。だから、月に六十冊ぐらいは亡くなっちゃうわけ。だけど逆に。「こんな無担保で本を貸すというのは、オレは始めてだ」と酔っぱらいながらいう人がいたりして、「信用してもらって、絶対にオレは返しくる」というんだな。そんな人が一人でもあると、なくなったって一向構わん。そんな風なつながりが段々広がってゆくとよいと思ったりする。
山尾「面白いですよね。本が一冊もない図書館なんていうのは。(笑)
野本「この間、ぶ厚い『広辞苑』がなくなったんだ。しばらくしたら、黒メガネをかけて大きなマスクをかけた人がね、ことさら帽子をまぶかにかぶって、「ここに『広辞苑』があったけど、どうした。」っていうんだ。あ、この人だなと思ったけれど。「みんなが読みたがっているけど、なくなちゃったんだ」といったら、「あんなもの売ったって売れないじゃねえか。オレはせっかく読みにきたのに。」とか、さかんにいっていたんだ。
それから三日後、「川っぷちに新聞紙にくるんだ『広辞苑』が落ちていた」」と持ってきてくれた人がいたんだけれど、それがその人なんだよ。(笑)大体顔の輪郭でわかるんだよ。それで、どうもありがとうございました。本当に助かる、とぼくは一生懸命にいったわけだ。それで彼も安心して自分の名前やら何やらいうんだよな。
そういう感じ」で、実に不思議なつながりなんだな。ああいうところでは、本物のつながりなんだな。本物のつながりができるかも知れないと思うんだな。これからどれだけあそこで持続できるか、一つの賭けになるな。
野本「公的な社会のインサイダーとでもいえる地方公務員になって、やはり中央政府に対する地方自治の問題を考えざるをえなくなっているわけです。すでに完全に中央集権の一環として組織されてしまっている地方自治体を内側からつくりかえていく努力をしなければならないと思っている。
もともと地方自治というものは、顕在化した共同体と同じような内容を持っているわけです。とくに、ぼくの民生というような仕事でいうと、社会福祉であり、公的扶助なわけ。相互扶助の精神をもっと生かすべきところだな。・・・・・
「今月からこの「生活者」という個人誌を出しはじめたんです・・・・・・・・・・・・・
これを出し始めたのは、〉自分は一つのところを掘ってゆき、また他の人は違うところを掘っているわけで、それぞれがやっている営みをつなぎ合わせてゆく一種の開かれたコミューンをつくってゆきたいと思ったからです。こういった個人誌というのはある種の手紙の代りなんだけど、ぼくが今こうしているというのをパァーッと出すと、どこかからか反応がある。すると、体は離れていても自分の心が向うへ旅し、向うの心がこちらへ旅してきたというコミュニケーションが成立するさ。今のように物理的な旅ができなくなった時に、こういう型式が出てきたわけです。これも一種の共同体の顕在化した姿だと思う。
この個人誌もいつまでつづくかはわからないけど、今の気持ちとしては、小さいさいものだけれどものだけれど、死ぬまで続けたいと思っています。
(『いのちの群れ』社会評論社1972年12月10日初版、1974年7共生共死の原資―に収録)
―――
この一節が私の生涯の歩み伴走してきたことをあらためて思う。
梅田順子さんのこと
映画「ルイズ その旅立ち」を見ていて驚いたのは、伊藤ルイさんを偲ぶ会で発言する梅田順子さんが現れたことだ。私が梅田さんにお会いしたのは1980年代の半ばころだっただろうか。
当時,博多駅前4丁目にあった財団法人(232㎡の図書室〈記念会館図書室〉とお年寄りのための無料の施設及び有料の会議室)に勤務していた私は、住まいの近くに住んでおられた梅田さんを生協の利用を通して知りあったのだと思う。その頃、私は人口100万人をこえる福岡市で、市立図書館が1館しかなく、年々歳々、図書館をめぐる状況がひどくなると思っていて、福岡市の図書館のあり方を考える市民の活動が必要だと切実に考えだしていた。そんなさなかに、梅田さんにお会いした。梅田さんがそれまでどんなことをしてこられたか、当時どんなことを
されていたか、私はまったく知らなかったが、図書館を考える市民の会の代表は、この人だと思い、梅田さんにお話をした。そのやりとりの次第の記憶はないのだが、梅田さんはすっと受けてくださったように思う。穏やかで心深く大きな人、深く考え静かに行動される人ととの出会いで「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。1987年のことだった。考える会では、
月1回の定例会や「図書館の話の出前」、そして福岡市の図書館政策づくりに取りかかった(1年ぐらいかけて『2001年われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』1988年1月24日刊行。福岡の図書館を考える会)。その間、講演会の開催や図書館見学会などを行った。その活動を梅田さんは深く支えてくださった。
今から振り返ってみると、私が梅田さんとお会いした当時は、先に記した伊藤ルイさんが梅田さんたちとはじめた〈9・16の会〉が第11または第12回の集いををされていたころではないかと思われるが、図書館を考える会の活動をしている時に、それらの活動について、また伊藤ルイさんのことも、お聞きすることがなかったと思う。ただ、福岡市の公民館が梅田さんたちの学習の場であったことをお聞きしたかもしれないが、詳しくお聞きすることはなかった。思いも寄らないことだったが福岡県の苅田町雄で町立図書館を新しくつくるという動きが生まれ(
「図書館の話の出前」で出かけたことがきっかけとなり)、1988年12月1日から、私は苅田町の職員となり、図書館開設の準備に当ることになった。(図書館開設準備室長)新館は1990年5
月に開館したので、開館まですさまじいスケジュールであった。苅田町立図書館には1995年3月まで、6年4カ月在職。この間図書館の開設準備や開館後の運営に時間を費やし、苅田に行ってからは、梅田さんとゆっくりお話する機会をもてなかた。これも今になって知ることだが、〈9・16の会〉の活動をはじめ、梅田さんのルイさんと行動を共にする活動や梅田さんたちのグループの活動などで(九電株主訴訟で実質的な事務局長という役柄―『海を翔ける』50頁)、私が苅田にいた期間も、梅田さんはとても忙しい時を過ごしておられたのだった。苅田の後、私は1995年4月から滋賀県の能登川町の図書館づくりに関わり、12年館その地で過ごし、2007年5月に能登川の図書館を退職して福岡にかえってきて、梅田さんとお会いし、折々に野枝さんの墓石のことなど、少しばかりお聞きすることはあったものの、
ルイさんと共に行動されたお話などもゆっくりお聞きすることはなかった。『虹を翔ける』、『海を翔ける』のルイさんの「草の根を紡ぐ旅」を通して、随所でルイさんと行動を共にされていた梅田さんの姿を底に見て、今にして目を瞠るばかりの私である。
コロナ前、梅田さんが新しい生活に入るにあたり、たくさんの梅田さんのご蔵書の取扱いについてのご相談があり、ひとまず「風信子(ヒアシンス)文庫」でお預かりすることとし、トラックにいっぱいの本を積んで、二丈の地に。ご本の取り扱いについて、お任せいただいたことから、本の出前でも活用させていただいている。前々回のノドカフェへの本の出前では、
「伊藤野枝、伊藤ルイをめぐって」のタイトルのもと、『伊藤野枝全集』やルイさんのサイン入りのご本や『しのぶくさ』、『向井隆の詩』、松下竜一の本ほか、梅田さんたちの市民運動から生まれた思われるパンフレットなどが棚に並んだ。これからも『梅田順子文庫』(梅田さんは仲間たちとグループ「カナリー」という会をつくっておられた。仮称「カナリー梅田順子ぶんこ」はどうだろう?)から、出前をしていきたい。
手紙の人 伊藤野枝
『評伝 伊藤野枝』では、随所に引用されている文章で、もうすでに亡くなっている、会うことも叶わない人、一人一人が今、眼前に生きている人のように立ち現れてくるのをかんじた。それまでしることのなかった和田久太郎や村木源次郎という人が、
目の前に浮かんでくる。辻潤が語る野枝評にに心うたれる。辻まことをこのように晩年まで描いてくれた著者に読者の
一人として快哉の声をとどけたい。
そして、野枝の手紙には驚かされた。野枝という人は手紙の人だとの想いがこころに浮かんだ。
1909年、14歳の野枝が東京に住む叔父、代準介に3日にあげずだした、用箋に5枚、10枚の分厚い手紙、それを見た代の燐家の村上浪六(大衆作家)はその手紙を見て、その迫力ある文章、男のような文章に感嘆、『(東京に)お呼びなさい。この子は見所がる。文章といい、文字といい、とても13,14の娘のものとは思えない」
そして平塚雷鳥にだした最初の手紙、また時を経て「『青鞜』を任してみてくださいませんか」との手紙。
さらに1918(大正7)年、時の内務大臣、後藤新平に宛てて出した」巻紙4メートルの書簡。これについては、ブログの号を改めてかくことに。
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