2023年5月12日金曜日

大江健三郎さんのこと(本の出前)No.111

5月、ノドカフェの本の出前は、5月16日,いつもは月初めに本の入れ替えをしていますが、今月は遅くなってしまいました。出前の本は今回は「大江健三郎さんのこと――追悼・大江健三郎」です。出前の本の話は、この題で話します。時間は11時~12時です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 出前の本のはなし「大江健三郎さんのこと」   5月16日 11∼12時 参加者1名 ・ はじめに  参加してくださる人があって、はじめて会がなりたつ。会の周知はも口コミとメールで何人かに伝えている。今回は開催日が定例の月初めではなく16日だったため、参加される人がいるだろうかという思いのなかでの今日の出前の本の話の集まりだった。お一人の参加があるという知らせを直前に受けていた。ほんとうにありがたい。「風信子(ヒアシンス)文庫」の棚に自宅から運んだ本を並べ終えて11時過ぎから会が始まった。 参加してくださったのは知りあいのOさん、ノドカフェの坂本さんによれば、お仕事を休んでの参加だという。はじめにOさんの、大江健三郎(その本)との出会いをお聞きする。そして私の話。 ノドカフェでの本の話では参加される方が数名と少ないこともあり、少ないことのよさを生かして、参加された方からそれぞれに自己紹介をかねて、その日のテーマの本に関わることについて少しお聞きしてから、私の話をすることにしている。私が話す内容は、それらのお話を聞いてから定まってくる。 ただ今日の場合、直前にOさんだと聞いていたので、あらかじめ今日ふれるだろう本を選んでおいた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【1.『沖縄ノート』(岩波新書1970年初版、1993年32刷り)、 2.『壊れものとしての人間』 3.『「万延元年のフットボール』(1967(昭和42)年9月/ 『群像』1月~7月号・連載);自宅の本が見つからず、『大江健三郎全作品第Ⅱ期1(新潮社1994・図書館本) 4.『大江健三郎再発見』(大江健三郎すばる編集部編.集英社2001年;「書き下ろしエッセイ「小説の神話宇宙に私を探す試み」大江、座談会「大江健三郎の文学、作家前夜から最新作『取り替え子(チェンジリング)』大江・井上ひさし・小森陽一)〈図書館本〉 5.『大江健三郎賞8年の軌跡「文学の言葉」を復活させる』大江健三郎、長島有、岡田利規、安藤礼二、中村文則、星野智幸、綿矢りさ、本谷有希子、岩城けい.講談社2018〈図書館本〉 6.『大江健三郎』日本文学全集22/池澤夏樹個人編集.河出書房新社2015〈図書館本〉 7.雑誌『すばる』2008.2月号(「人間をおとしめるとはどういうことかーー沖縄集団自殺裁判に証言して 8.雑誌『すばる』2023.5月号(「大江健三郎・追悼) ※〈図書館本〉は、糸島市や他市の図書館から借りたもの。原本で紹介するだけで、棚には展示しない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〈事前の話の構想・・・話したいと考えていたこと時間が1時間であることを考えて。 ・大江さんの本との出会い 55年をこえる読者の一人として、私にとってその人・大江健三郎と本とはなんであったか。〈とくに最初の出会いの頃のこと〉を中心に話そうと(私自身がどのような状況の中で出会ったか)-----ーーーーーーー ・大江・・・1935年(昭和10年)生まれ。1946年(昭和21年)生まれの私より11歳年上。 1947年に新制の中学校に入った少年・・「憲法」「民主主義」〈戦争放棄〉について語るコトバの輝き、11年遅れの私には、その言葉を生きた言葉として語る大人(先生)たちはいなかった。小学校、中学校、高校、そして私の身近で、私は、そんな大人たちに出会わずにいた。そのように語る人は大江さんがはじめてだった。 ーーーソンナ時代ガアッタノダ!「遅れてきた青年」ーーーーーーー その日の話では、時間が短く簡単にしかふれなかったが、「大江さんの本との出会い」を〈私自身、どんな状況の中での本との出会いだったか〉――20歳から25歳の頃に――を思い返してみるため、もう少し振り返ってみたい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〈どのように どのような時に どんな状況のなかで、大江さんの本に 出会ってきたか〉ーーー ・東京の大学に入ってから(20歳以降)。(2浪して大学は1967年4月(昭和42年)~1972年(昭和47年)3月;最後の1年は図書館短大、浪人2年を含め7年間はバイトをしながらの生活だった。)高校卒業した1965年(昭和40年)は大学受験をせず、東京、葛飾の日本経済新聞販売店に住み込み、新聞配達。住み込みは2段ベッドで、1部屋に6人の生活、私が一番年下、九州の人で会社勤めの経験のある、太宰治が好きな人、船乗りを目指す大きな人、若くして学問を志す(ソンナ人ガイルノダ!)関西の人、ギターのうまい北海道の人、後半に入ってきた、私と同年か1歳年下で民青の活動を伸びやかにしていた北海道からの彼。18歳の私にとって心に深く刻まれる日々だった。1年後、受験したのは国際基督教大学(ICU)で、試験科目は自然科学、人文科学、社会科学と英語と、英語による面接だった。それぞれ文章(論文)を読んで解答する。自然科学では、「遺伝子の決定における数学の応用について」;人文科学では、「トマス・モアのユートピアについて」を覚えている。試験の問題が通常の受験勉強はまったく関係ないものであるのが面白かった。;「卒業後、日本の外にでるのには、出やすい大学ときいて」受験、同大学1校のみを受験して落第。2浪目は福岡市に帰り市内平尾の西日本販売店に住み込み、配達。(この店には高校3年生のさいごの3カ月間、東京の葛飾に行く前に、住み込みで働いていた。新聞配達がどんなものか、体験するため。)ーーー 2年目もICUを落第し、都内の学習院大に入学する。学習院を選んだのは学生数が都内の大学の中では少なく、先生に面白そうな人が幾人もいそうなこと。(最初は清水幾太郎さん『論文の書き方』の名前が唯一、私の中にあった。)そして学費も都内大学中では高い方ではなかったからだ。1年生の1年間は池袋に近い椎名町で朝日新聞販売店に住み込み、配達。2年、3年の2年間は大学の寮に入って適宜バイト。4年時と、図書館短大時の2年間は目黒区にあった小さなメッキ工場の宿直をしながら大学に。2年の後半の頃から大学正門のところにバリケードができた。といっても封鎖はされていなかった。講師の東大の衛藤審吉氏の後期の最初の授業で、東大では講義が学生のバリケードなどでできない状態になったため、東大での衛藤氏の受講生(外国からの留学生)数人を連れてきていて、香港からきたばかりの学生の日本語の学習のバイトをする人はいないかといわれ、すぐに手を挙げた。Rさんとの出会い。彼女は早稲田大学にも行っていて、私とは週2回、約2年間!むしろ私にとって学びの多い時間となった。その後は彼女の友人の香港からのYさんの日本語の勉強のバイト(1年はこえた)。彼は東京外大に留学、文科系の人だが、数学の勉強をしていて、上智大学にも通っていた。特許の申請もしているとのことだった。香港の2人から授かったものは私にとって大きなものがあった。かけがえのない出会いだった。 衛藤さんの授業では、その本来の講義の内容(現代中国)ではなく、私が深く授かったものがあったことを今にして気づく。それは、10数人の講義を受ける学生に課されたのが、日本の作家(だれでも)1人を選んで、その作家の著作のすべてを読んで、その文章の中の「外国」に対する表現を抜き出して、その作家が「外国」に対してどのようなイメージを持っているかをレポートする、というものだった。私は「有島武郎」を選んだ。たまたまその頃手にした「愛は惜しみなく奪う」がきっかけだったと思う。それは「個人の全集」を読みきるという最初の経験となった。授業そのものにもまして私にとって大切な時間となった。ーーー 大学での講義を振り返ってみると、まずゼミは3年生からということになっていたが、私は2年生になった時、社会学の清水幾太郎さんの研究室のドアをたたいて、2年生から参加させていただくことになり、2年間、清水さんのゼミに参加できた。3年生の終りの時に、清水さんは自ら退官された。最終講義は1969年(昭和44年)1月18日だったと思う。この日は東大の安田講堂を占拠した学生を排除するため、8500人の機動隊が導入された日でもあった。私はノンポリ学生であったが、その数日前、そこでの様子を見にその場所に出かけてもいた。清水さんは「オーギュスト・コント」について語られた。ピラミッド校舎での最終講義が終わったあと、食堂に行っていると、そこに久野収(おさむ)さんと、白髪の桑原武夫さんがいるのを目にして驚いた。戦後の日本の平和運動で大きな役割を果たし1960年の安保闘争時にその闘いの只中ににいた清水さんは、「60年の安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念」されていた。私はそうした時期の清水さんに出会っていたのだ。久野収さんは60年安保の時まで、清水さんと同じ考えのもとに まじかで行動をしてきた人であったから、60年以後は歩まれる道が異なっていたと思う。その久野さんが戦後の清水さんの行動をまじかに見て、清水さんが何をしてきたかを知り、共に行動されてきた方だけに、その最終講義の場に、久野さんは久野さんと親しい京大の桑原武夫さんを引っぱってこられたのだと、その時私は瞬時に思ったのだったと思う。私にとっては深く心動かされるものがあった。ーーーー 大学4年間の授業では、私は私が面白いと思う授業だけをうけた。私は法学部政治学科であったが、必修の単位のものでも、面白くないと思ったものは、一度か何度かでてあとは授業にでなかった。単位に関係のない他学部の講義も、面白いと思ったものは聴講を続けた。国文科では大野晋さん、大野さんに気づくのが遅く受講回数は少なかったが鮮烈な時間だった。仏文科では福永武彦さん(池澤夏樹・父)は体調がすぐれず休講が多かったため、数回だけであったが、小さな声で話されたその時の気配が深く印象に残っている。また法政大学から来られていた粟津則夫さん、解しがたい言葉があるものの、こちらに突き刺さってくるものが感じられた。独文科の朝日秀雄さんのニーチェの講義は1年欠かさずにきいた。英文科のたしか小泉先生であったか、「有島武郎とホイットマン」も1年間?休まずに受講した。受講の機会を逃して、後になって残念だったと思ったのは、独文科の岩淵達治さん(ブレヒトの著作の翻訳、多数)と仏文科の白井健三郎さんの講義だった。いつも耳をそばだててきいたのは「社会思想」の講義、最初は清水さん、清水さんが退職されてからは久野さん、そして久野さんのあとは藤田省三さん(法政大学から、体調のためか講義の回数は少なかったように思う。福澤諭吉『文明論之概略』、そして橋川文三さん(講義の中で語られた、久野収評は今も耳に残っている。)また、お名前を忘れているのだが、通例の講義ではなく、朝の講義が始まる1時間前?の読書会、「ホメロスの オデュッセイア」を読む会は参加者は独文科の1年の女学生と私の2人だけ。学生だけで読んだのだったか。先生の話はなく、ただ交互に本文(翻訳)を読むというものだった。新聞配達で朝刊を配ってからの時間だったので、時折居眠りしながらの時間でもあった。 私の大学時代(1967~1972年)はいわゆる大学闘争・学園紛争のさなかの時だった。1965年、高校を卒業して葛飾で新聞配達をしていた時、配達後の朝食の時間にテレビの画面で早稲田大学の学費値上げ反対闘争が行われているのを見た記憶がある。先に記したように1967年に入った学習院大では、講義は面白いと思うものだけにでていたが、他の大学にも出かけて講義をきいていた。他大学の講義を勝手にきくというのは私だけではなく、そのような学生たちがいた時代だった。初めはいくつかの大学で主に「社会学」の講義をきいてみたが、面白い講義、講師に出会えなかった。それは早稲田大学でのことだった。早稲田でのいくつかの講義では、どのクラスも受講する学生は少なかったのだが、何百人かの学生でほぼいっぱいの教室がありそこで講義をきいた。教室の外からはデモをする学生たちの声と笛の音がきこえていた。私は講師の名前も知らず、その話にききいった。講師が話されたのは、北ベトナムに爆撃に向かう前、横須賀に寄港したアメリカの航空母艦イントレピッドから4人の兵士(19~20歳)が脱走した事件についてだった。いま、このこと(の意味すること)を語らないでどうするか、と。 その講義の時間は1回では終わらず、続けてあったように思う。講師は久野収さんだった。それまで私は久野さんのことをまったく知らないでいた。調べてみると何と私が通っている大学の哲学科の先生だった。それを知った私は、ゼミを除いて久野さんの授業をすべてうけることにした。その授業の面白かったこと。図書館で久野さんの本を読みだした。そしてすぐに私は鶴見俊輔さんの事を知った(『戦後日本の思想』久野収、鶴見俊輔、藤田省三:中央公論社1959)。一冊一冊読むごとに、鶴見さんの文章に惹かれた。このような人がいるんだ。鶴見俊輔さんとの生涯にわたる読者としての出会いの始まりだった。ーーー 久野さんの授業は面白かった。講義のなかで初めてきく著者の名前や本の名前、それらを大学の図書館で読むことができた。『エラスムスの勝利と悲劇』(シュテファン・ツヴァイク)を通してエラスムスとルター語る久野さんの言葉は久野さん自身を語っているように思われた。早速その本を読み、その面白さを同い年(浪人も2年と同じ)の親友に伝えたところ、後で聞いたのだが、彼はその1冊をまるごと書き写したとのことだった。また、早稲田大学での久野さんの講義の聴講では、立教大学からきていた1年先輩のIさんに出会った。彼からは私が4年生になった時、彼がそれまでやっていたアルバイトを引き継がせてもらった。小さいメッキ工場の宿直の仕事で、私はそこで2年間バイト生活を送ることができた。Iさんの手にしていた大学ノートには確かノートの表紙と裏表紙まで、吉本隆明の詩だったか、文章だかが書かれていた。当時私は吉本の本はまったく読んでいなかったので、深く印象づけられた。 大学を卒業する直前の2月にあった浅間山荘・リンチ殺人事件の報道がおびただしいさなか、1972年4月千葉県八千代市立図書館で働き始める。(2年間で退職、2年で辞めることは最初から決めていた。退職後はアルバイトで旅費をため、イスラエルのキブツに行こうと考えていたが、色んな経緯で職業病の保母さん(3人)との出会いがあり、職業病(公務災害)認定まで2年間【この間も色々なバイト・・・組合書記3カ月、製パン工場(夜中)、上野駅近く国鉄の車内販売の職員の食堂での皿洗い、そのあと車内販売(上野―新潟)、ウナギの問屋の宿直と早朝の荷受けと、生きたウナギをダンボール箱から容器に入れる作業(2時間?)など】ーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上、とても長くなってしまいましたが、大江さん(以下「さん」略)の本と出会った当時、そしてその前後の背景です。 〈大江さんの本と出会ったのは〉 私が大学に入学した1967(昭和42)年に32歳になる大江は「万延元年のフットボール」を「群像」1月号から連載し、9月、長編『万延元年のフットボール』を講談社から刊行しているが、私はすぐには手にしていない。それを読むのは後年のことだ。私が最初に出会った大江の本は主にエッセイだったと思う。その一つひとつが何であたったか覚えていないが、その一節が私の中に深くはいってきたのは、今回久方ぶりに再読して、これだったと思う。 「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」、1970(昭和45)年に刊行された『沖縄ノート』(岩波新書)の一節だ。 このような問いかけをするということ、その問いかけから発する大江の行動と、そこから生まれる言葉。その一文を目にした時には私自身意識していなかったように思うが、私が大学卒業後、最初に就職した図書館の職場を2年でやめ、イスラエルのキブツに行こうとした思いの底には、この一節に象徴される大江の文章、言葉があったのだと思う。1965(昭和40)年刊行のエッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』、『持続する志』1968(昭和43)年、『壊れものとしての人間』1970(昭和45)年、『鯨の死滅する日』1972(昭和47)年など、同時代のものとして、単行本や雑誌に連載されたものを読んだ。1972年の「群像」1月号から連載が始まった「同時代としての戦後」では、私が好きな武田泰淳だけでなく、まだ手にしていなかった多くの戦後派作家に眼を開かされた。『状況へ』(1974(昭和49)年9月、岩波)は前年にだったか、「世界」に小田実「状況から」と交互に連載されたものを「世界」が毎月でるのを待ちかねて、切実な思いで読んでいた。 徐々に大江の小説の世界に導かれて行ったのはこの時期の後半の事だと思う。(今回はそれには触れない) 後年1980(昭和60)年2月、50歳の大江は「世界」に連載した評論『生き方の定義――再び状況へ』を岩波から刊行しているが、大江の一読者としての私にとっての大江健三郎という人の在りようを、このタイトルそのものがよく表しているように思う。どのように生きるか、その生き方を定義する人として。そして「再び状況―のなか―へ」歩みだす人として。ーーーーーーー 〈出前の話で語れればと思ったこと〉 ・小説について  大江光さんの存在がその小説の世界を深く豊かなものにしていること。  しかも私小説ではないこと。 ・言葉の定義ということ。 ・具体的に大江さんとその文章の魅力、力を考えるため、『すばる』追悼号の一節を読む。 以上。 会を終えて、あらためて大江さんの著作を読みかえしたい・・・。

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