2020年4月9日木曜日

「図書館は今 花盛り。連日、美しいお花が届けられる図書館」(嬉しい便り)No.43

新しい年度の始まる4月1日、三重県の小さな町の図書館で働く方から心あたたかくなる、うれしい手紙が届いた。なんども読み返すたびに、なんとも嬉しい思いがこみあげてくる。「こんな図書館がある!」「いや、図書館って、そういうものなんだ」
この嬉しさを私だけのものとしないで、一人一人に伝えたい。そうだ、ブログでの掲載のお許しをお願いして掲載できないだろか。こうしてここにその一部を・・・。

「図書館がここにあるって、灯りが灯っているみたい」
    (以下、いただいたお手紙より)

大変ごぶさたいたしております。ご丁寧なお年賀状をいただいておりましたのに ご無礼なままの日を重ねてしまい、誠に申し訳ありません。
中村哲さんの悲報、コロナウィルス禍と、胸痛む出来事が続き、本当の春を心待ちする思いです。そんなお気持ちからでしょうか。図書館には連日 美しいお花が届きます。

ショウジョウバカマ     
ショウジョウバカマ 写真素材

キブシ                

クリスマスローズ、ミモザ、

ガーベラ、スノーフレーク、

ウグイスカグラ

トサミズキ     











[ 写真の挿入は筆者による]

「これ、なんだ?」と調べにいらして、
そのまま「「どうぞ」と置いていかれる方、
花束にして届けて下さる方、
バケツにたっぷりあふれんばかりにして届けて下さる方・・・。
図書館は今 花盛りです。

「花はいいねー」
「本はいいねー」
「図書館はいいねー」

とおしゃべりしながら 春を届けて下さるそのお気持ちが
本当にありがたく心に沁みます。

そしてこの一ヶ月
訪れて下さるみなさんが
「こんなときに図書館があいていてよかった」
「図書館がここにあるって、灯りが灯っているみたい」
と心からしぼりだすように言ってくださいます。
本当にありがたいことです。

何ができるだろうと悩むことばかりですが、
小さな思いを積み重ね、
前に進んでいかなければ、
と思います。
  (略)
    三月二十九日  勢和図書館 ・・・        


 
このような図書館がある
一人ひとりの居場所となる、人にやさしい図書館
お花をもっていきたくなる図書館

花の名前を調べにきて、そのまま「どうぞ」と置いてかえる図書館

花束や
バケツにたっぷり あふれんばかりのお花が届けられる図書館

「花はいいねー」
「本はいいねー」
「図書館はいいねー」
かわすコトバに 一人ひとりの心がはずむ図書館

この図書館は地域の人一人ひとりにとって、竹内悊さんが言われる"生きるための図書館”〈一人ひとり、みんなのための図書館〉そのものだと思う。
【『生きるための図書館―― 一人ひとりのために』竹内悊(さとる)岩波新書2019.6】 

地域の人が花を持ちよる図書館は、「一人ひとり、みんな」が、抱き、向きあっている問題や課題に適う適切な「本」(情報)を手にすることで、一人ひとりが考えることをきたえ、深めるところだ。
そして一人ひとりに適切な「本」をつなぐのが図書館員だ。

この図書館、多気町立勢和図書館のこれまでの歩み、そのサービスの実際、そして司書である図書館員の働きをあらためて知りたい、まじかに見たいものだ。


図書館員は、そして図書館長とは、何をする人か
図書館は誰のためのものか
図書館は何をするところか。
”地域に図書館がある”とはどういうことか
図書館の利用が無料であること、「公立図書館が税金で立つとは、どういうことか」

「いつでも」「だれでも」「どこでも」「なんでも」とはどういうことか

このことを知りたい(ヨクミキキシ ワカリタイ)、そして”生きるための図書館”〈一人ひとりみんなの図書館〉を、自分の住む地域で手にしたいと思い、願う人に、『生きるための図書館――一人ひとりのために』(岩波新書)とともに、今年の2月に出版された竹内さんの「講演録」をあわせ読まれることをすすめたい。
よく考えるとはどういうことか、よく生きるとはどういうことか、を指し示す2冊の本を手にして、このような著者と同時代にあることのありがたさを思う。
【『生きるための図書館をめざして―いま語りたいいこと つたえたいこと―』竹内悊先生講演会記録 2019年10月20日 :竹内悊先生講演会実行委員会:発行 図書館問題研究会・親子読書地域文庫全国連絡会 600円+税 】

『生きるための図書館――一人ひとりのために』竹内悊(さとる)
岩波新書 2019.6.20


今こそ、一人ひとりの身近に本物の図書館が必要、との思いを深くする。
「本物の図書館」とは何か、については菅原峻(たかし)さんの、下記資料を。
【※「日本の図書館は、3タイプに分けられる」菅原峻。①図書館という看板の下がった役所、全体の半分以上、②無料の貸本屋、残りの70~80%、③本物の図書館、全体の5%、しかも、当初③であっても、①②化していくケースが珍しくない。『図書館にはDNAが大事です。』”アミューズ”2000.1)】

「公共図書館10傑」のうち、八日市市立図書館、湖東町立図書館、能登川町立図書館は、合併(2006年1月1日)により、東近江市立となる。図書館数7館。(他に東近江市立五個荘・愛東・永源寺・蒲生図書館)東近江市:人口11万3000人
 

コロナ感染をめぐる状況はすさまじく、地域によっては今、開館している図書館も休館せざるをえない情勢がひろがっている。                       
地域にある図書館が、いまどのような図書館であるか、「一人ひとり、みんなの図書館」であるかどうか、市民として、しっかり見つめ、とらえて、「一人ひとり、みんなのための図書館」、「生きるための図書館」への道を探っていくこと、そのためにできることを一つひとつ積み重ねていこう、そのような思いを、「美しいお花が日々届けられ、花盛り」の小さな町の図書館で働く一人の図書館員の方からのお手紙で、手渡されたように思う。                                      

この図書館の名前は、多気町立勢和図書館、2006年1月の合併以前は、人口5000人を少し上回る勢和村の村立勢和図書館だった。
勢和図書館については、稿を改めて。(この稿、続く)

追記1.
その後、4月13日から、一部利用制限が出て、「閲覧制限(長時間滞在)をご遠慮いただくことになりました。大変心くるしいのですが、皆様にご協力をお願いしているところで
す。どうか皆様お元気で、と願うばかりです。」とのご連絡をいただいた。4月13日

追記2.4月16日、政府による緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大された日の翌日。臨時休館を決定したとの連絡。4月20日(日)~5月6日(水)の期間。この間、予約貸出のみ、玄関で受け渡し。セット貸出などは現在準備中。準備出来次第公表の予定。

春の花々が届けられる図書館からの臨時休館【4月20日(日)~5月6日(日)】の知らせをうけて

 「花はいいねー」、「本はいいねー」、「図書館はいいねー」の言葉が行き交う図書館から、臨時休館の知らせ
どんなにそのことを残念に思う人たちがおられることだろう

「とても残念なことですが、臨時休館が決定してしまいました。」との
図書館員の方の言葉の肩越しに、心はずませて、図書館にきていたひとたち
図書館を”わたしの場”、”みんなの場”としていたのひとたちの
落胆の声が聞こえるようだ

だがしかし
連絡してくださった図書館員の方から
静かな深い元気を授けられたようにも感じる

「とても残念ですが、、・・・」にこめられた深い悲しみ
そして「本当に、大変な状況となっていますが、
できることを模索し、
丁寧に行っていきたいと思います。

才津原さんも
どうかお元気でお過ごしくださいませ。

 勢和図書館  ・・・

「できることを模索し、丁寧に行っていく」

このことこそ、いま、もっとも大切なことではないか
そして、「丁寧に」にというのは、地域のひと、一人ひとりみんなに、ということだろう
一人ひとりにできることを、考え、模索し、
一つひとつ、行っていく

図書館が臨時の休館となっても
この図書館では
一人ひとりの心に灯を灯す試みが
一日一日、ていねいに行われるだろう
地域(コミュニティ)のオアシスとして
いつでも泉の水が流れだすための
心つくした取り組みを重ねて
開館の日に向かわれることだろう

ご連絡の言葉から
そのことが
まっすぐ
伝わってきた

勢和図書館は 今の今も
けっして閉じられていない
地域の一人ひとりみんなに寄りそう
地域に開かれている図書館だと思います。

林さん
みなさんも
どうかお元気で
他日 また
        2020.4.19


2020年3月26日木曜日

ピースウォーク京都 『中村哲さん講演録』再読 (1)  No.42

前回の号で書いたように2004年5月1日に滋賀県の能登川町立図書館(1997年11月開館、2006年1月、1市6町の合併により、東近江市立能登川図書館)で、井上ひさしさんと中村哲さんの講演と対談を核とした宮澤賢治学会の地方セミナーを開催できたのは、「ピースウォーク京都」の活動が、2001年9月11日に起きたニューヨークの世界貿易センタービルに民間航空機が突入した事件の直後に始められていたことが契機となった。今回はその活動の中から生まれた『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガ二スタンからの報告』(ピースウォーク京都発行・編集 2002年5月12日 初版第Ⅰ刷 以下”講演録”という)について重ねて記したい。

ブックカフェ「ノドカフェ」に本の出前(風信子ヒアシンス文庫より)2020.2~3

手掘りの井戸の水を絶やさず、さらに深く掘り進むために

「ピースウォーク京都」の活動がどのようにして始まったかは、以下のように”講演録”の「はじめに」に書かれているが、その題目は「中村哲さん 京都で平和の井戸を掘る ピースウォーク京都」となっている。

9月11日の事件後、アフガニスタンへの「報復」攻撃が現実のものになりそうだと思われる中、京都市民の中からそんな状況に「いたたまれなくなった者が言い出して、”殺さないで!今こそ平和を”という思いを表わすためにピースウォークを始めた。」
その活動のなかで、見知らぬ人同士が出会い、「ひとりの歩みから始めよう、借り物でない自分のことばで語り出そう」ということを確かめ合ってきた。

(当時、その活動を始めたお一人にお聞きしたところでは、「女友だち3,4人で始めた」とのこと。中村さんの講演は、同じ会場で、3,4年前までほぼ毎年開催、中村さんが来られないときは、福元さんや現地で活動しているペシャワール会のメンバーによる講演があったという。また、ピースウォーク京都での出会いが、いまだに続いていて、とりわけ、福島での原発事故以降、それぞれの場で活動されているとのことだった。)

10月7日、米英軍がアフガ二スタンへの空爆を始めたなかで、食料輸送が困難になり、カブール市民が飢餓のふちに立たされる事態となり、PMS(ペシャワール会医療サービス)は、カブールにおいて食料配給を行うことを決定し、「アフガンいのちの基金」(5000トンの小麦等の配給を計画)を開始。 

ピースウォークを始めるとすぐに、「中村さんの声を聞きたい」という声がでてきた。
こうして、そのころアフガニスタンの現状を伝え、「いのちの基金」への呼びかけのため日本全国を講演で駆け回り始めていた中村さんを京都市に招いての講演会が実現する。

講演会を主催したピースウォーク京都では、「中村さんの講演は、日本でわたしたちの心のなかに井戸を掘るという、もしかしたらアフガニスタンでの井戸掘りより大変な仕事だったかもしれませんけれど」と、中村さんの講演を受けとめ、「手掘りの井戸の水を絶やさないで、さらに深く掘り進むために、この講演録を作りました。お隣の大切な人にどうか手渡してください。」と「はじめに」の言葉を結んでいる。

この講演録は「ピースウォーク京都」(以下、「編者」という。)の活動に関わる一人ひとりが、それぞれがいる場で力をあわせて掘った手掘りの井戸だと思えた。
その手掘りの井戸水の清冽さに驚く。

講演録を再読して


カバーデザイン/長尾史和(SOUP DESIGN)
イラスト/伏原納知子
写真提供/中山博喜(ペシャワール会),ペシャワール会、石風社
今回、講演録を再読して、18年前の2001年12月9日、京都ノートルダム女子大学のユニソン会館で開かれた講演の会場に私はいなかったにもかかわらず、中村さんの声が耳元に聞こえてくるように思われた。

講演(2001年12月9日)前後の状況について

まずは、この講演が行われた前後はどのような状況だったか。
「講演録」には、編者によって作成された「アフガニスタン、中村医師、ペシャワール会を巡る略年表」と共に、アメリカによる空爆を受けて、ペシャワール会が開始した「アフガンいのちの基金」の報告と今後の展開を編者がペシャワール会ホームページより、抜粋、再構成したものが収録されている。(以下「アフガンいのちの基金」報告)

「アフガンいのちの基金」報告
2001年10月7日のアメリカ軍によるアフガニスタン空爆開始を受けて、ペシャワール会は、「巨大な難民キャンプと化した100万都市カブールで餓死の予期される人々の生命を保証し、みじめな難民化を防止する」ために緊急食糧配給(小麦粉と食用油)を計画、このための「アフガンいのちの基金」が10月12日に設立され、全国で募金の呼びかけが始まった。
 
現地の活動
・10月17日ペシャワールでの小麦粉作業開始
・20日アフガニスタンへの食糧輸送開始
・23日ジャララバードで食糧配給開始(1家族3カ月分)
・30日カブールで食糧配給開始

2001年12月6日現在の実績(速報値)
・寄付総数:22,409件
・寄付総額:395,136,426円
・配給:小麦粉1400トン、食用油140トン(約15,000家族)

12月末段階で、カブールでは、WFP(世界食糧計画)をはじめとする多数の各国NGOによる救援ラッシュが始まり、PMS(ペシャワール会医療サービス)の仕事は山場を越えた。ペシャワール会に蓄えられている3000トンは、東部へ逃れたカブールからの避難民や、旱魃と空爆でジャララバード周辺の農村に避難した人々に届けられることになっており、すでに2002年1月8日から輸送・配給が開始されている。この食糧配給計画は2月末ヲもって終了、善意の基金は、第二期「緑の大地」計画として、農村の復興などにあてられる。

以上のような状況の中で行われた京都での講演であったことを心に刻んで、中村さんの講演に、今一度耳を傾ける。

講演「平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告」

中村さんは3つの柱で話されている。(Ⅰ.アフガニスタンというところ Ⅱ.ペシャワール会の歩み Ⅲ.旱魃と空爆)
講演を採録、校正した編者による章立て、見出しで、お話の内容がまっすぐ伝わってくるように思われた。

中村さんは「アフガンいのちの基金」についての報告からお話を始め、その日の講演では、「私たちの会の17年の歩みとともに、アフガニスタンの普通の人々がどのように生きてきたか、日々の生活の中でどのように感じてきたのかといったことを、私たちの活動を通して紹介したいと思っております。」

以下、講演会場にいる一人一人の心の奥深くに届く言葉が語られていて、関心ある方にはぜひ本書を手にしていただきたい。(在庫なし、図書館でリクエストを)

お話の中からいくつかのことを

・ペシャワール会について
このところのテレビや新聞などの報道を見ていると、ペシャワール会では、私、中村が一人で奮闘しているというふうに思われがちですが、そんなことはまったくありません。現地の献身的な二ニ〇名のスタッフの活躍はもちろんのこと、日本の五〇〇〇名の会員の方々の支援なくしては、ペシャワール会の活動は成立いたしません。ペシャワール会の年間運営費は約一億円ですが、これは会員の方々の募金が主力となって支えられています。

ここで、私たちが胸を張って言えるのは、募金の九五パーセントが現地に送られて実際の活動に使われているということであります。これは、みなさん、当然だと思われるかもしれませんけれども、実際のところ、組織が大きくなればなるほど現地に届くお金は少なくなるのです。要するに、管理運営にたずさわる人たちの人件費をはじめとする間接的な維持費がどんどんふくれ上がっていく。組織によっては、間接経費が八割から九割というのもめずらしくはありません。

一方、ペシャワール会ではすべてがボランティアで成り立っています。会の活動だけに従事して給料や報酬をもらう専従者という立場の者はいっさいおりません。みんな、それぞれに自分の仕事を持っていて、空いた時間を無報酬で会の活動にあてる――そういう人だけで構成されているのです。政府間援助や国連のプロジェクトに比べると、私たちの事業額はごくごく小さなものですけれど、しかし、機能という点から見ると、ペシャワール会は大組織の数十倍まさるグループであるということが言えます。つまり、同じ金額で比較すれば、私たちは実質的に数十倍の仕事をしていることになるわけで、これは私たちが大いに誇りとするところでもあります。」   (16~17頁)

・「だれも行かないところへ」
私たちは、「なるべく人の行かないところへ、人のしないことを」を方針にして、現在も少しずつ診療範囲を拡大していっております。よく、あれは中村が山好きだからあんな高いところに登っていくんだというふうにいわれるのですが、とんでもない(笑い)

私たちは、必要がありながら、だれも行きたがらないところ――こういう地域はいくらでもあります――、だれもしたがらないことをやるという方針に沿って活動しているだけのことです。人がドッと行くようなところであれば、私たちが行く必要はないだろうし、人がわれもわれもとやるようなことであれば、だれかがやってくれるだろうということですね。」  (64~65頁)

・PMS発足
「さて、そうこうしているうちに十五年がたちました。結局のところわかったのは、私たちが取り組んでいるのは、どうも簡単に終わるような問題ではないといことでありました。日本でさえ、ハンセン病の問題が終わるまで一世紀近くのじかんがかかったわけです。まして、こんなところでは、一世紀や二世紀は時間のうちに入らない。
というわけで、これまでの十五年間は様子見の時期であったのだとして、第一期、十五年でいちおうの区切りをつけ、第二期を三十年として、新たな活動を開始しました。
その出発点の事業となったのが、PMS(Peshawar-kai  Medical Servise)、ペシャワール会医療サービス病院の建設です。
(略)
私たちが第一期十五年の活動を通じて貫いてきた基本姿勢の一つは、徹底した現地主義、つまり、日本の都合ではなくて、現地の仕事の都合、必要性に応じてできることをする、というものですが、その基本姿勢をこkで改めて確認したということになります。」
  (75~76頁)
・子供たちの笑顔
(写真を撮ろうとして)――「子供たちはみなニコニコしている。これは私が昔から感じていることで、悲惨な状況にある者、貧しい中にある者のほうが、明るい顔をしているのです。
それが、日本に帰ってくると、はて、助ける側の日本人のほうが暗い顔をしているではないか。これはどういうことなのかと常々考えていて、結局のところ、何も持たない者の楽天性というのは確かにある、というふうに思うようになりました。人間というのは、一般に、持てば持つほど守るものが増えて、暗くなってくるのではないか。
(略)
物を持つと守らざるをえなくなるという暗さ。
じかに触れあって助けあうことを忘れてしまった暗さ。(日本人は、人と人とがじかに触れあってたすけあうということを忘れてしまったのではないか。そのための暗さというものがあるのではないかと思われてなりません。)

正直言って、初めのころは、私たちにも、私たちの仕事は人様を助けてあげるものだちう、どこか思い上がった子持ちがなかったわけではありません。しかし、今では、この十七年間、アフガニスタンとパキスタンで仕事を続けてきたことによって、逆に私たちが助かってきたのではないかというふうに思うようになっています。何よりも、くよくよすることがなくなってきた。本当に人間にとって大切なものは何なのか、大切でないものは何なのか。こいうことについてヒントをえたということ――これはたいへん大きな一つの成果であったと感謝しております。

今のアフガニスタンの問題は、いろいろな角度から目をこらして見れば、かならずきちんんとみることができます。はっきり申しあげておきますが、現在は、何かの終りの始まりの時であります。「この終りの始まり」に際して、アフガニスタンは、われわれにとって一つの大きな示唆を与えてくれる地域であり出来事であろう――そんなふうに思っております。」   (95~96頁)

論楽社のこと〈中村さんとの出会いを手渡してくれた論楽社の活動〉


ここで、中村さんの講演から少し離れて、私が初めて中村哲さんのお話をきく機会を授かった経緯について触れておきたい。中村さんのお話を初めてお聞きしたのは、2003年8月だったか、京都市岩倉の論楽社においてだった。

論楽社は1981年4月に虫賀宗博さんと上島聖好さんが共同運営で活動を始めた小さな私塾だ。(小さな民間教育・講座・出版の場所。)
「家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紬ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくる。」

論楽社では、”生きてある言葉を聞きたい。体の中に紡ぎたい。糸車を回すように、ゆっくりと。そう思い、手づくり講座として、「講座・言葉を紡ぐ」” を1987年8月から始めている。「会場は論楽社。障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間にざぶとんをしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう。」第1回目は岡部伊都子さん。以後、藤田省三、安江良介、徳永進、松下竜一・・・・の各氏を招き、現在に至る。(「論楽社とは何か?論楽社の12年――個を育てる集団・集団を育てる個 虫賀宗博 〔松下竜一さんの月刊誌『草の根通信』1994年1月号 「論楽社ブックレットNo.6  島田等『次の冬』1994.3、2000.8第4刷に収録〕)

虫賀さんが中村哲さんのことを知ったのは1994年、瀬戸内にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園で、島田等(しまだ ひとし)さん(1926~1995、1947年、長島愛生園に収容され、以後そこに生きた。『病棄て――思想としての隔離』ゆみる出版。)から手渡された1冊の本によってだった。
「島田さん(詩集『次の冬』論楽社ブックレット)が哲さんの『ダラエ・ヌールへの道 』(石風社〈1993〉)を手渡してくれたことがすべての始まり」。
「こんなひとがいる」
「読んでみたら、ええよ」
 島田さんは一年後の1995年に人生を終えた。コツコツとためてきた200万円を哲さんのペシャワール会へ死後贈られた。こういうハンセン病回復者って、希有。


『ダラエ・ヌール・への道  アフガン難民と共に』中村哲
 石風社 1997.11




『次の冬』島田等 論楽社ブックレット No.6 1994.3


(以上、  論楽社ほっとニュース 2019.12.12 虫賀さんの連載コラム「いまここを味わう」〈第24回〉覚悟――哲さん〈その1〉)による。その時々の論楽社での中村さんの講演や論楽の様子は、同ブログに鮮やかに記されている。同ブログをひらき、中村哲さんの名前で検索していただきたい。)

虫賀さんは、さっそく中村さんに連絡をとり、1996年、京都市国際交流会館で行われた帰国講演会に参加する。その時、講演会の参加者はわずか4名だったという。
中村さんに深い感銘をうけた虫賀さんは翌年の1997年からだったか、論楽社に中村さんを招き続ける。

私が初めて中村さんの話をお聞きした2003年8月の論楽社の「講座・言葉を紡ぐ」の場は、中村さんを招いての7回目の場であった。その日、その場は何か親密で和やかな気配に包まれた場であったように思う。厳しいお話の内容であったが、論楽社という場では、中村さんが何か心解き放たれた寛ぎの一瞬をもたれいるのではと思われた。それは一年、又一年と何年にもわたって,中村さんと向きあう場を積み重ねてきたことから育まれてきたものではないかと思う。そのようなほんとうにかけがえのない場で、私にとって中村さんとの最初の出会いの場を授かったたことにあらためて驚く。

ピースウォーク京都を始めたお一人から、中村哲さんのお話を聞いたのは論楽社でが初めてだったとお聞きした。京都で継続して中村さんを迎えての、参加者一人ひとりを深く励ましてやまないピースウォーク京都による中村さんの講演会の始まりに、論楽社での集いがあり、それが島田等さんから虫賀さんに手渡された一冊の本と島田さんのお言葉から始まったことに思いを深くする。
 
お休みどころ、のこと

1981年、虫賀さんと共同運営で論楽社を始めた上島聖好(うえじま しょうこう)さんは、虫賀さんとともに、論楽社やその他の場所で、私にとって岡部伊都子さんとの出会いをはじめ、大切な出会いを幾度となく手渡してくださった人だ。
上島さんを想うと、「ようこそ ようこそ」という声と、その笑顔がおもい起こされる。
上島聖好さん(1955~2007)のことについて、いくつかのことを記しておきたい。

論楽社の活動が始まって12年目の2003年5月1日、上島さんは興野康也さん、グレゴリー・ヴァンダービルトさんとともに「お休みどころ」をひらく。場所は「九州山地の標高700メートルの山の中、熊本県の球磨川の源流地。その水源の地(熊本県球磨郡水上村)は、トルストイの翻訳者で徴兵拒否者、農民の北御門二郎(きたみかど じろう)さんとの出会いが選ばせた。
「お休みどころ」という名前は詩人の茨木のり子さんと、その詩「お休みどころ」との出会いから付けられた。」

「お休みどころ」はどんなところか、その誕生の経緯は?
    上島さんの文章「お休みどころ」から。

お休みどころ  上島聖好(うえじま しょうこう)

”お休みどころとは、元気になる場所。あなたの背負った「重たい荷」をいっときおろし、「ここで一休みしてのどをうるおし」、新たな一歩を踏み出すところ。非営利の安息所です。
私は京都の岩倉盆地で論楽社という小さな民間教育・編集・出版の場所を営んでいました。家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紡ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくっておりました。

そうするうちに、こころとからだの疲れたひとたちに出会います。故郷を奪われた人たちにも出会います。

その人たちの役にたちたい。何かほっとくつろいでもらいたいな。よし。ちから合わせてやってみよう。空気と水のうまいところ、人情味のあるところ、豊かな自然に包まれたところ、そこに立つだけで元気になる。そんなところはないものか。なつかしい土地はないものか。

と、願っていたところ、北御門二郎さん(1913~2004 農耕者・トルストイ翻訳者・徴兵拒否者)に出会いました。二郎さんを養った水上の地なら人のこころもやさしかろう。未来の人を待つ平和なところだろう。二郎さんの無垢(むく)な光に誘われて「ここが探していた願いの地、ここでお休みどころを開きたい」というと、北御門すすぐさんと成尾政紀(まさみち)村長は、この古民家にひきあわせてくださいました。

そうして、2003年5月1日、お休みどころは生まれました。
こころとからだの疲れた人、行きづまった人、はたまたそれらに無縁の人も、ようこそ
ようこそ。いっぱいのお水をどうぞ。おいしい泉のお水です。医者もおります。無料です。政治団体や宗教団体とは何ら関係ありません。念のために。

「あきんど 農夫 薬売り
重たい荷を背負ったひとびとに
ここで一休みして
のどをうるおし
さあ それから町におはいりなさい」
  (『倚りかからず』より「お休みどころ」茨木のり子)
「お休みどころ」の名付け親は、詩人の茨木のり子さん。

花の寺
このたび友人たちのちからをかりて、納屋を改築。お休みどころ芸術劇場が誕生しました。この世界でたまたま出会ったいのちの花々、「きょうだい」たちが集い、語らい、
笑う、寺子屋。つづめて、花の寺。浜辺の藻場(もば)のようなお遊びどころ。
四十六億年という涯てしない地球の歴史のなかで、私たちは今を生きている一番新しいいのち。
出会いのよろこびにさざめく花の寺を、ひっそりと建てつづけるお休みどころでありたいと願います。
「花の寺」の名づけ親は、随筆家の岡部伊都子さん。”
  (理想郷 桃の根っこに 墓石おく 2007年2月18日記)

【『お休みどころ――上島聖好の世界』上島聖好遺稿集編集委員会・編 (株)ぱんたか
 2910.4.4 以下『遺稿集』という】より。上島聖好さん(1955~2007.10.29)


「哲さんに、背中を押されて」

少し長く、聖好(しょうこう)さんの文章を引用させていただいたのは、『遺稿集』(「天が人を利用する」)のなかで、こんな言葉に出会ったからだ。

”昨年(2005年)の9月1日のことだった。9月3日に中村哲さんの「講座・言葉を紡ぐ」があるので、私は論楽社にいた。哲さんにはお休みどころの地を決めかねているところへポンと背中を押してもらったという恩がある。私は一言礼を言いたかった。

ことのはじまりは2002年1月。
私たちは友人を訪ねて長島愛生園に何回となく足を運んでいた。それで、何とはなしに『人間を見つめて』(神谷美恵子著)を開いたのではなかったか。すると本の中からハラリと一枚、茶色に変色した新聞の切り抜きが落ち葉のように落ちてきた。亡き父が私のために切り抜いてくれた記事だった。

北御門二郎さんの「ソビエト文学翻訳者会議に出席して(1979年12月26日「朝日新聞」)というものである。私は即座にこの人に会いたいと思った。生きておられるだろうか。私は祈るような気持ちで母の一周忌で熊本に帰るのでそのときお会いできたらと手紙を書いた。そしたら折り返し長男のすすぐさんからこういう返事が来た。(本文末に、すすぐさんからの手紙を掲載。(その中で、「昨年末に二つの雑誌の取材を受けた」ことが記されていて、その一つ)『現代農業増刊号 冬2月号』のコピーを手に入れて(略)、開いてびっくり。

巻頭に中村哲さんが出ているではないか。インタビューに答えて哲さんはいう。
「温暖化などによって状況が追い詰められていくと、日本でも『やっぱり熊本の五家荘(ごかのしょう)のような山奥に住もうか』という動きが必ず出てくるでしょう。
私は導かれるままに、一山越えたら五家荘、ここ水上村にやってきたのだった。”

手紙から
『追悼録』は「エッセイ」「手紙」「通信」「お休みどころ芸術祭」「絵本」「あとがき」からなっている。2005年3月7日(月)付けの岡部伊都子さんへの手紙は次のように書きだされている。

”岡部伊都子さん
 私たち四人(注1)を育てつづけていただいてありがとうございます。
 伊っちゃん母さんの82歳のお誕生日の産声をきいたあと、四人で(略)・・・”

友人の結婚式に参加する。八十人の人々の前で、結婚するお二人が挨拶の言葉をのべたあと、上島さんは、用意しておいたパステルナークの詩をよむ。

「創造の目的は献身にある。評判でもなく、成功でもない。宇宙の愛を自分にひきつけ 
未来の叫び声に 耳をすますのだ・・・・・ ほかの人々は 生きた足跡をたどって 
一歩一歩 おまえの道をくるだろうけれど 敗北と勝利とを おまえ自身が区別してはならぬ」(パステルナーク)

ついで、手紙を次のように結んでいる。

”伊っちゃんの『献身』(=本)を彼らに贈ることができ、私は幸せです。
ほかに何を望もうか。
というほどに。”

上島さんは、岡部伊都子さんを、伊っちゃんとよんでいた。
上記「四人」の(注1)の説明には、「上島、虫賀、グレッグ、興野の四人。」と記されている。(170~171頁)

最後のページの近くにある、おやすみどころついての文章。
「お休みどころは、2003年5月1日、北御門二郎さん(1913~2004)との出会いで水上村に開かれた心の水飲み場。設立メンバーは、興野康也(お休みどころ代表、精神科医)、
グレゴリー・ヴァンダービルト(歴史家、UCLA博士課程卒)、上島聖好(文筆)。ボランティアのトラウマ治療の場でもある。日常に芸術、学問、精神科治療をとりいれ、いきいきと生きることを目指す小さな共同体。「戦争と平和」を課題に、模索しています。

あとがきから
追悼録』の「あとがき」を論楽社から上島聖好さんと行動をともにした興野康也さん(上島聖好遺稿集編集委員会:興野康也、楢木裕司、小堀郁江の3人)が書いている。
その中で、
「彼女は生前、自分の本を出版することを拒み続けましたので、膨大な遺稿が残りました。それらを整理・出版する仕事が我々に残されました。
彼女の仕事は多方面にわたっています。エッセイや手紙をかくことはもちろん、通信発行、講演会の企画、編集、教育・・・・。人と人とのネットワークをつくる天才だしたし、人の仕事を鼓舞するのも上手でした。

結局この本では、彼女の多面性をなるべく浮彫にするよう努めました。
結局この本でとりあげたのは彼女の晩年の四年半、お休みどころ創設に打ちこんだ時期の作品だけです。それ以前にも彼女には二十年におよぶ京都の論楽社での活動の時期がありますし、書いたものも多数あります。これらがいずれ何らかの形で出版されることを望みます。

なお、2006年以降の彼女の主な作品は、お休みどころのブログ(http://oyasumidokoro.ronngakusha.com/楢木裕司作製)に掲載されています。2006年以前についても、可能な限り今後掲載していく予定です。
「人が困ったときに役立つ言葉」。それを残すことが彼女の願いでした。彼女の言葉を活用して下さる方がすこしでもおられれば幸です。」
とある。

私が中村哲さんに出会うことができたのは、上島聖好さんや虫賀宗博さんたちのこのような歩みがあってのことだった。そのことをあらためて胸に刻む。
ピースウォーク京都の『講演録』については、さらにいくつか記したいことがあるが、稿をあらためたい。









2020年2月27日木曜日

山田稔さんの本の中で、中村哲さんに出会う  No.41

以前からいつか手にしたいと思っていた山田稔さんの本をようやく読み始める。
『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』(2003年2月1日発行、手製本三百部)を出版の第1冊目として、京都で出版社を始めた”編集グループ〈SURE〉”(代表 北沢街子)は、出版直後にその本を注文して以来、私にとって興味深い本を次々と出版している。SUREから出版される本の中や、その出版目録に山田稔という名前を時折目にしていて、どんな文章を書く人か読んでみたいと思っていた。

読み始めたのは『山田稔自選集 1』(編集工房ノア 2019.7.7)、同書の著者紹介。

山田 稔(やまだ・みのる)
1930年北九州市門司区に生れる。京都大学でフランス語を教え、1994年に退官。
主要著書
『スカトロジア』(三洋文化新人賞)
『コーマルタン界隈』(芸術選奨文部大臣賞)
『ああ、そうかね』(日本エッセイスト・クラブ賞)
『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』
『八十二歳のガールフレンド』
『マビヨン通りの店』
『富士さんとわたし 手紙を読む』など。

翻訳書として
ロジェ・グルニエ『フラゴナールの婚約者』(日仏翻訳文学賞)
同『チェホフの感じ』
アルフォンス・アレー『悪戯の愉しみ』、『フランス短編傑作選』
シャルル=ルイ・フィリップ『小さな町で』
エミール・ゾラ『ナナ』など。

同書は、Ⅰ 『ああ、そうかね』より 一九九六年十月 京都新聞社、 Ⅱ 『あ・ぷろぽ』より 二〇〇三年六月 平凡社 Ⅲ その他、の3章からなる。Ⅰは著者が住む地元の地方紙、京都新聞(夕刊)に書かれたもの25編を収めている。Ⅱは最初の10編は平凡社の「平凡百科」の2002年1月から12月まで「あ・ぷろぽ」の通しの題で連載したものから選ばれている。残りは「現代のことば」および、ニューライフ社の月刊誌Health Tribune(ヘルス・トリビューン)に1998年3月より2001年1月まで「京都」の通しの題で連載されたもののうちから成る、これ以外に2編があり全部で35編。Ⅲ その他は8編で、各編の末尾に出典等が記載されている。

中村哲さんの名前をこの本の中に見ようとは思っていなかったので、アッと思いながらその一文を目にした。「ある日曜日のこと」と題された小文は次のように始まっている。

”小雨もよいの寒い朝だった。「家にこもっていたい怠けごころを奮い立たせて、近くのN女子大に出かけた。「ピースウォーク京都」主催・中村哲講演会「平和の井戸を掘る」
年の暮れの日曜日の朝、町はずれのこの会場まで、はたして何人の人が足を運ぶか。せいぜい五十人くらいか。
会場に近づくと、日ごろは閑静な界隈がふだんとちがう。人々が足速に大学正門へと向かっている。私の足も速まる。
予想は大きくはずれた。千五百席あるという大講堂は補助椅子まで満員で、私は上段近くにかろうじて空席を見つけることができた。”

「ピースウォーク京都」は2001年9月11日,ニューヨークの世界貿易センタービルに民間航空機が突入後、アフガニスタンへの「報復」攻撃が、現実のものになりそうな中で、そんな状況に

”いたたまれなくなった者が言い出して「殺さないで! 今こそ平和を」という思いを表すためにピースウォークを始めたのです。そのなかで、見知らぬ人同士が出会い、「ひとりの歩みから始めよう、借り物でない自分のことばで語り出そう」ということを確かめ合ってきました。9・11と「報復」暴力により、今まであえて見ようとしなかった事態があらわになり、一人ひとりの生が問われているのを初めて切実に感じました。無視し続けてきた自分たちこそ問題だろうと思いました。
中村哲さんんの話を聞きたい、という声は、ピースウォークを始めるとすぐ出てきました。”
(『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告』ピースウォーク京都 2002年10月7日 初版第4刷より;初版第1刷発行は同年5月19日)

こうしてピースウォーク京都では中村哲さんを京都に迎えての最初の講演会を2001年12月9日にノートルダム女子大学ユニソン会館で開催し、翌年2002年5月に、上記の講演録を発行している。そして以後毎年、中村さんの講演会を開いてこられたようだ。
山田さんが出かけた、年の暮れの「ある日曜日」の中村さんの講演会は2002年12月にあったピースウォーク京都の2度目の講演会ではなかったかと思われる。ちなみに私が同大学での講演をお聞きしたのは2003年の3回目の講演会であったように思う。その時も1500席の会場は満席で、立ったまま中村さんの話に耳を傾ける人たちがいた。

山田さんの「ある日曜日」にもどろう。

”講演はスライドを使用しながら行われた。診療室とは名ばかりの小部屋。当初、二千数百名のハンセン病患者にたいし病床わずか十六。ガーゼの消毒液もなく、使用済みのものを金属容器につめこみ、オーヴントースターで熱して消毒した。キツネ色に焦げたのが消毒済みで、未消毒の白いのと区別した。”

文章を書き写していると、中村さんの声が聞こえ、その表情、眼差しが眼前に浮かんでくるように思われる。1984年5月、中村さんはパキスタンのペシャワール・ミッション病院に一人赴任し、

「その年末、家族を呼び寄せるべく帰国。85年1月、家族(夫人と2人の子ども)とともにペシャワール生活がはじまる。」(”寄稿 現地の人々と共に活動が続いていきますように;中村哲医師 夫人 中村尚子『ペシャワール会報』 号外 2019年12月25日)

「ソ連軍のアフガン侵攻のさなかであり、パキスタンへ逃れてきた難民中、数百名が一夜で凍死するという事件にも会う。診療を受けにくる者の過半は、アフガンからの難民であった。ハンセン病だけでなく、すべての患者に対応しなければならない。病院の設備はゼロ以下で、消毒の習慣さえなく、ガーゼの消毒は、オーブンで焼いて焦げめがついたものを使うところから出発した。医療の手ののびていない土地への関心は、アフガ二スタンに診療所をという方向へ中村医師を押しやる。
求められていながら、誰も行く医師のいない場所であれば、そこへゆく。なすべきことを誰もなさなければそれをやる。それがこの二十五年間ゆるぎない中村哲の流儀であり、たとえば三千メートル級の山岳地帯の小村を訪ねて難路をよじのぼり、はじめて馬にも乗った。
ウルドゥー語のほか、パシュトゥ語も習得して、現地の人たちのなかへ入りこんでゆく。
(『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る ―アフガンとの約束』中村哲・(聞き手)澤地久枝 岩波書店 2010)

ペシャワール・ミッション病院に赴任以後、7年間程、家族皆で過ごされ、長女の秋子さんが10歳になった頃、夫人と子どもたちは日本に帰国、中村さんは単身で日本と現地を行き来する生活が始まった。

・2001年9月11日 米国ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の民間航空機が突入
・10月11日 ペシャワール会 「アフガンのいのち基金」(アフガンへの食糧配給計
 画)発表 
・10月13日 中村医師、国会衆院テロ対策特別委員会に参考人として出席
・10月20日 ペシャワールからの食糧輸送第1便が国境を越えアフガにスタン、ジャララバードに到着。(小麦トラック4台、食用油トラック2台。2830家族分。1家族10人当たりの配布量は小麦200キログラム、食用油16リットル)。2001年11月・当初の1家族3か月分を6週間分に変更。より多くの人々に配給するため。

・2001年11月3日 カブール陥落
・11月26日 中村医師、アフガン国内での大規模灌漑用水路の建設計画があることを明らかにする。
・2002年2月22日 「緑の大地・五か年計画」発表。(アフガン東部、長期的農村復興)
・2002年3月 食料配布事業終了。主、な結果。①配布地域・・カブール、ジャララバード、アチン、スピンガル、チャプラハールチャプ、ラールプール②食料配布した家族・・27339家族(1家族10人)③送付した小麦粉・・1884トン820㎏×94200袋)④同食用油167キロリットル(18キロリットル×9280缶に相当)※その後、PMSでは残余の食糧を緊急栄養パックとして1万パック作成し、栄養失調の子どもや妊産婦に配布した。

2003年3月19日 ダラエヌールにおいて灌漑用水路の起工式
3月20日 イラク戦争開始 12月13日、米英占領当局、サダム・フセインを拘束。
6月15日 水源確保事業の作業地が1千ヶ所を突破
【以上の年譜は『空爆と「復興」アフガン最前線報告』による。中村哲・ペシャワール会編 石風社 2004年5月】

再び、「ある日曜日のこと」より。

”アフガニスタンは農業と遊牧畜の国である。雨はめったに降らない。農業に不可欠の水は山岳地帯の雪によってまかなわれる。「金はなくても生きられるが、雪がなければ生きられぬ」。その生命の源の雪が年々減りつつある。地球温暖化の影響である。この旱魃の地に、医師が井戸を掘りつづける。
中村氏らの医療班は誰も行かない険しい山にまで足をのばす。”

”最後のスライドに、明るい笑顔をうかべた子供たちの姿が映った。どこの国の子供たちでもカメラに向かって見せる楽しげな表情。中村氏が言う。じつは悲惨な姿を撮ろうと思ったが、子供たちはみな明るいのです。
帰国して、日本人の方が暗い顔をしている、と感じた。持てるものを失う不安、おそれ。
アフガンの人たちにはそれがない。無一物の楽天性が顔にあらわれる。その最たるものが子供の顔だ。自分はアフガンの人たちに励まされた、中村氏はそう結んだ。”

山田さんはここで、35年前、1年間フランスで過ごして帰国したときのことを思い出す。

山田さんがフランスに行っていた、”わずか一年の間に日本人の人相が悪くなっていた。高度経済成長期の、金もうけに目のくらんだ人間の、とげとげしい殺気じみた目つき。それと、現在の不況に苛立つ人々の表情の暗さと、相通じるものがあるのではないか。”

講演会が終わり外に出ると、

”会場を出たところに、若い女性が胸にプラカードを抱くように持って立っていた。ひとり立つ姿が印象的だった。Kさん、かつての教え子で、今は大学院で研究中である。プラカードは、その日の午後のピースウォークへの参加を呼びかけていた。
午後三時半、厚着をして三条河原へ足を運んだ。数十人の人が集まって、冷たい川風のなかで集会を開いていた。呼びかけ人のKさんをはじめ何人かが喋った。何もせずにじっとしてはいられない。歩くことからでも始めよう、とKさんは言った。

先導者の後から三列になってぞろぞろと歩き始めた。河原町三条から南へ、仏光寺公園まで。何人かがマイクを持ち、それぞれの気持ちを街の人たちにうったえるほかは、シュプレヒコールもなく静かに、のろのろと歩いた。”

〈この歩き方、いいなと思う私がいる。その後の山田さんのそれも。そこそこで、それぞれの歩き方をと〉

”先頭でプラカードをかかげるKさんとはたちまちはぐれた。後ろの方から黙々とついて行った。ひとりで歩いている気分だった。
私が歩いても、アフガニスタンに投下されるアメリカの爆弾が一発でも減ることはない。情勢がすこしでも変わることはない。外の世界は変わらなくとも、しかしごくわずかに、ごく微妙に、私は変る。そうやって少しずつ変りながら、今日の、いまの私がある。”

心うれしい文章、コトバに出会った!







2020年2月16日日曜日

中村哲氏が築いたもの・・・(福岡市内での集いで)  No.40   

1月30日(木・19時~21時)、福岡市の中央市民センターのホールで、”中村医師(PMS総院長)とペシャワールの会の活動記録上映会&トーク”という 集いがあり出かけてきた。

福岡市に10館ある分館の1つである福岡市中央図書館と福岡市立中央市民センターの共催、主催は福岡市総合図書館(福岡市の図書館の中央館・本館)とチラシにあった。参加希望者は往復はがきで(2名まで)申しこむことになっていて、福岡市の友人が入場券が入手できたからと誘ってくれたのだった。 集いの名前は、”中村哲氏が築いたもの 受け継がれていくもの ~アフガニスタンにおけるPMS(平和医療団・日本)・ペシャワール会の活動~”という長いものであったが、そこには、この集いの実現に力をつくした、中央図書館(正規職員は0)の嘱託職員の司書の方たちの熱い思いがこめられているように思わ
れた。

 
会場の入り口では、中村さんの著書も販売されていて、ペシャワール会の会員の方たちが何人もが、書籍の販売だけではなく、この集いのために協力されていることが伺われた。また、会場の整理には中央図書館だけではなく、市内の他の分館からかけつけた嘱託職員の司書の方たちも当たっていて、資料やマスクなどの配布をされていた。

図書館長の挨拶

中央図書館の職員の方の司会のもと、総合図書館の館長の挨拶から始まった。福岡市総合図書館を会場に1月7日から1月30日まで、PMS(Peace Japan Medical services 中村医師が総院長を務める現地事業体)とペシャワール会の活動を紹介するパネル展示を行っていて、今日がその最終日であったが、期間中に1万5千人もの人が訪れ、あらためて中村哲氏への思いの深さを肌に感じたこと、図書館には中村氏の思いを伝える資料があること、そして中村氏が亡くなった12月4日は人権週間の始まりの日であったことに触れて、今日までであったパネル展示を2月26日まで延期するとともに、毎年、展示をすることにしたと述べられた。図書館は信頼できる情報を適切に提供するところだと・・・。

籾井孝文さん(PMS・ペシャワール会支援室)の報告と上映、そして質疑

スクリーンに現れる中村さんや現地での活動を紹介する若い籾井さんの語りのなかに、中村哲さんが立ち現れてくるように思われた。現地で中村さんと行動した彼の中に、中村さんが生きていることが感じられた。
2本の上映、「本編」 用水路が運ぶ恵みと平和 2002-15と「技術編」灌漑方式、(それぞれ30分)は実に見ごたえのある内容だった。随所にハッとする、中村さんの姿、言葉、現地の人とのやりとり、活動の様子が映し出され、中村さんと対面する時間を授かった。山田堰との出会いがどのようなものであったか、深い感銘とともに画面を注視した。

中村哲さんの講演会や現地報告会の場にいて、いつも驚かされたのは、中村さんのお話の内容、その語り口はもとよりのことであったが、会場での質疑の時間だった。会場からの一人一人からの質問に、ほんとうに真向かいに、真摯に、そして深いユーモアをもって応えておられた。
会場でのやりとり(質疑の時間)を大切にする、中村さんが培い育んできた流儀が、籾井さんに引き継がれていることを目の当たりにした。

問1:中村さんは(堰のこと、重機など)どこで技術を学んだのか。
籾井:独学で。重機も。”議論は必要ない。ただ、やるだけ。”

問2:現地の日本人スタッフは?
籾井:現在は0。4名がスタンバイしている。(いつでも行けるように)
  (日本人がいなくても、継続は可能か)

問3①1何ができるか。②日本にいるものができることは?
籾井:①ボランティア、今も募集している。作業はいっぱいある。②ぜひ会員に。

問4:偉業は残っていくか。
籾井:村上優会長が、事業を継続していくと表明している。
中村医師の言葉で好きなコトバ;
”困っている人がいたら それを助けるのは当たり前”” (引き継ぐべき精神)

あらかじめ質問用紙が会場で配られていて、その中から選んで回答、回答できなかった質問に対しては、後日ペシャワール会のメッセージボードに掲載するとのこと。

最後に司会者より案内が3つ。
1.ペシャワール会の会員募集。
2、上映会、写真展の募集。
3、「アフガン大地計画」パネル展示;期間2月26日まで延長。

この集いに誘ってくれた友人と、まずそれぞれの場所での上映会をと話して会場を後にした。






2020年1月25日土曜日

2020年、年の初めに 寒中お見舞い   No.39

寒中お見舞い申し上げます             2020年1月  
新しい年をどのようにお迎えでしょうか。           
昨年一年のことを振り返ろうとするには、124日の中村哲さん、そして
中村さんと行動を共にした5人のアフガニスタンの運転や警備の人たちの
訃報が今も眼前にあり言葉がありません。
その日の17時近く、天日干しをし足踏み脱穀機で脱穀した籾を半日かかっ
て唐みにかけおわり、やっと一段落したとスマホを目にすると、中村さん
がアフガニスタンで銃撃にあい負傷されたとの報、すぐに家に帰りテレビ
をつけると中村さんが命をおとされたとの画面に続き5人の方も。

程なく、中村さんと40年をこえる親交のあった鎌倉の長野ヒデ子さんから
電話。「かなしいね、かなしいね」、
彼女の全身を浸している悲しみが受話器から伝わってきて、黙して耳傾け
るばかり。それから時経るごとに各地で、中村さんと出会ってきた一人ひ
とりの悲しみがしんしんとそこここに降り積もっているように感じられる。

翌日の125日、テレビの画面にアフガニスタンの街の路上で、中村さんと、
5人の方を悼む人たちが、中村さんの遺影の前で、一本のろうそくを手にして
佇む姿が映しだされていた。悲しみにつつまれた一人ひとりが手にするろう
そくの灯りが黄色くゆらめいていた。闇夜にゆらめくともし火は、そこに佇む
一人ひとりの全身をつつむ悲しみの灯のように感じられたが、同時に中村さん
に直接、あるいは著書を通して出会ってきた一人一人に、希望という勇気を点
じられた中村さんのいのちの燈火であるようにも思われた。

いま、いるところで、その人ができることを実践していくこと、そのように一人
ひとりを励ましてやまない中村さんが今日これからの私のなかに、そして一人
ひとりの心に生き続け、その足元を照らし続けられることを思う。 



昨年、深い元気を手渡された3つのこと。 
1.“上野英信と『眉屋私記』(上野英信三十三回忌記念事業実行委員会)”
沖縄県名護博物館。(上野朱さんより恵送):深い信頼から育まれるもの、
その濃密な内容のパンフレットに感銘。三十三回忌記念展示会のことは、
中村哲さんの悲報を報じる125日の琉球新報紙面で知らされた。
2.よく考え、よく生きるとはどういうことかを指し示す、待望久しかった
『生きるための図書館 ――一人ひとりのために』竹内悊(岩波新書)の出版 
3.一読して初めて幾人かに贈りたくなった『古くてあたらしい仕事』島田潤一郎
(新潮社)の2冊の本との出会い。
   
朝日新聞の山口宏子記者による長野ヒデ子さんからの聞き取り記事webronza.asahi.com2019.127「アフガンに寄り添った中村医師の素顔」
2004年、旧能登川町で開催した、中村さんと井上ひさしさんの対談を核とした宮澤
賢治学会地方セミナーにも言及。その後さらに「中村哲さんの言葉」を3回連載。








2019年12月31日火曜日

2019年の年の暮れ 中村哲さんのこと 宮澤賢治学会地方セミナー No.38

今年で13回目となる自然農の米作り、昨年同様、日のひかりとニコマルを育て、天日干しをした稲穂を、足踏み脱穀機で脱穀をし、まずニコマルを唐みにかけたのが12月4日のことだった。17時近く、庭先での唐みかけが終わり、あとは日を改めて籾すりと精米をすれば新米を手にできると作業が一段落してほっとした時間だった。スマホを開いて、その画面に釘づけになった。

中村哲さんがアフガニスタンで銃撃にあい負傷されたとの報、すぐに家の中にとびこみテレビをつけると、中村さんが命をおとされたと報じていて、中村さんが乗っていた車の運転をしていた方、また護衛にあたっていた4人、あわせて5人の方も死亡との画面が続いた。そのあと私自身何をしていたのだったか。

どれだけの時間が経ってだっただろうか、程なくだったかもしれない。中村さんとは40年来の親交があった鎌倉の長野ヒデ子さんから電話。全身、悲しみに浸された長野さんの処には、マスコミから中村さんのことで取材が相次いでいるようだった。その取材の中で15年前の2004年、旧能登川町であった、中村さんと井上ひさしさんの対談を核にした、宮澤賢治学会地方セミナーについて触れられたようだ。その時の資料はないかと尋ねられた。なんとか探し出し翌朝、取材された記者に送る。写真は見つからず、当日大阪の島本町から地方セミナーに来られていた乾知恵さん、文子さんにやはり翌朝連絡して送っていただいた。

長野ヒデ子さんからの聞き取りを朝日新聞の山口宏子記者が、
https://webronza.asahi.com /politics/articles2010120600009.html
で配信されている。
(「アフガンに寄り添った中村医師の素顔 
憲法九条を胸に井戸を掘り、宮澤賢治を愛した友を悼む 長野ヒデ子/絵本作家 2019年12月7日 
相手に寄りそう、人にも自然にも/
「裏切り返さない誠実さが人を動かす」/
井上ひさしさんと出会い、宮澤賢治を語る)

中村哲さんが立ち現れてくるかに思えるレポート。能登川での宮澤賢治学会地方セミナーについても触れられている。

その後、山口記者は、中村さんが宮澤賢治学会のイーハトーブ賞を受賞された際に書かれた「わが内なるゴーシュ」の原稿に心打たれ、中村さんへの思いをさらに深めて、「論座」で、新たに3回の連載を組まれている。
1.アフガンの現場から、医師中村哲さんの言葉①
  https://webronza.asahi.com/politics/articles/20191212000007.html
2.軍事力でなく憲法を、中村哲さんの言葉②
    https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600002.html
3.憲法9条が信頼の源、中村哲さんの言葉③ 
    https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019121600003.html

山口さんに送付したのは以下のもの。

滋賀報知新聞 2004(平成16)年 4月16日(水)



毎日新聞 2004(平成16)年 4月26日(月)

地方セミナー(チラシ 2種類 各4頁)


プログラムについて
中村哲さんと井上ひさしさんのお話、そしてお二人の対談を核にした地方セミナーのプログラムをどのようなものにするか。                        
それまで中村哲さんの講演を何度かお聞きして、どの講演会場でも驚かされたのは、中村さんのお話の内容、その語り口はもとよりのことであるが、お話を終えて、会場の人との質疑のやりとりだった。どのような質問にも正面から、懇切ていねいに、そして深いユーモアをもってこたえておられた。きびしい質問に応える言葉には一層,深いユーモアが感じられた。対話に耳傾ける一人一人の心をやわらかに開いているように思われた。    
このため、質疑の時間をしっかり取りたいと考えた。こうして、中村さんと井上さんのお話をそれぞれ30分ずつしていただいて、対談に1時間20分、そして会場との質疑に1時間というプログラムとなった。開会の挨拶からいえば4時間に及ぶセミナーとなった。    

開会の挨拶とは別に開会の辞を、宮澤賢治学会の会員でもある仙台の扇元久栄さんにお願いした。扇元さんは開会の辞 イーハトーブ童話『注文の多い料理店』序を巻紙にしたためて、会場にふかくひびく声で読んでくださった。ほんとうは、その序は扇元さんの体の中にあり、そらんじておられるものであったが、そのように読んでくださったのだった。

初めて扇元さんにご連絡をしたのは、1987年だったか、当時、博多駅近くの小さな財団法人の図書室で働いていた私は、人口100万人をこえる大きな市で、市立図書館が1館しかない状態の中、年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなっていると考えるようになっていた。そんな時、写真家の漆原宏さんから、仙台市で”図書館をもっと作る会”の代表をされている扇元さんを紹介された。どうも最初のお電話を深夜にしたようなのだが、扇元さんからは”もっとの会の活動のおびただしい資料が送られてきた。その内容に目をみはった。そのことが”福岡の図書館を考える会”を始める大きな契機となったのだった。それから扇元さんには山口での集会や、ついには福岡市にも来ていただくことになり、以後、扇元さんには深い深い元気を授かりつづけてきていたのだが、その扇元さんが井上ひさしさんと深い関りをもっておられた。能登川での地方セミナーで井上さんと中村さんの対談の実現には、長野ヒデ子さんとともに扇元さんからも大きな力をいただいてのことであった。出会いの不思議さというか、えにしというか、天からの力に助けられての井上さんや中村さんとの出会いであった。                             
 



2枚目のチラシ









宮澤賢治学会イーハトーブセンター 会報(2004.9.22)


なぜ能登川で宮澤賢治学会地方セミナーか

それは琵琶湖の東岸、ほぼその中央部に位置する当時、人口約2万3千人の小さな町、能登川町で同セミナーが開かれた2004年(平成16年)5月1日からさかのぼること11ヵ月前の2003年7月頃のことだった。図書館が開館して7年目の能登川町立図書館のカウンターに一人の女性が来られて私に話しかけられた。以前、彼女が関西地区の大学に通学している頃
時折、大学の授業で能登川の図書館のことを話す先生がいるなどと話されていた方だ。
「宮澤賢治学会というのがあって、自分はその会員だが、その学会では年に1回、各地で地方セミナーを開いているのだが、能登川町で開けないだろうか。

それから程なくしてのことだった。私は京都で、日をおかず2回、中村哲さんの話を聞く機会をえた。1度目は京都市左京区岩倉の論楽社で。2度目は京都ノートルダム女子大学の大きな講堂で。

論楽社は虫賀宗博さんが主宰している私塾(ホームスクール・家庭学校)で、子どもたちの学びの場であるとともに、小さな出版社でもある。(1981年4月~)
論楽社のことは鶴見俊輔さんのご本で知った。鶴見さんが近所に住む虫賀さんたちの論楽社の活動について書かれていたのだ。その文章を目にしてからだったか、私の中に能登川町立図書館の開館1周年の記念講演(1998年)に鶴見さんをという思いが生まれ、まず論楽社を訪ねようと思い立ちお訪ねしたのが最初だった。

鶴見さんについていえば、大学生の時に(1967,8年頃)、その著書に出会い、また鶴見さんの文章で森崎和江さんを知って以来、お二人は、折にふれて私の傍らに在り、私は50年をこえる読者の一人としてお二人のご本を手にしてきた。私にとっては読者であることで充分で、私が働く図書館でお話を聞く場をとは、思ってもみないことだった。ところが、先の鶴見さんの本を読んで、それまで思ってもみない思いが生まれたのだと今にして思う。鶴見さんのお話を能登川の場でお聞きできないだろうか、と。

論楽社では、1987年8月から「講座・言葉を紡ぐ」を開いて、これはと思う人の講演会を、6畳2間の場、「障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間に座布団をしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう」場をひらかれていた。6,70人でいっぱいになる小さな場。第1回は岡部伊都子さん、以後、藤田省三さん、松下竜一さん、徳永進さん、島田等さん、安江良介さん・・・。
そして、「その言葉を、論楽社の責任において、活字にする。熱い、埋火のような言葉を届けたい。」・・・・・(論楽社ブックレット)
 (論楽社の活動は 論楽社ほっとニュース blog.rongakusya.com )

能登川町立図書館での記念講演は、虫賀さんたちのご助力をえて実現することができたのだが、最初に訪れて以来、私はしばしば論楽社を訪ねるようになった。

そうして、論楽社の何回目の「講座・言葉を紡ぐ」であったのか、中村哲さんにお会いすることができたのだった。中村さんのお話を聞くことができたのは、偶々ということでも、偶然にということでもなく、この人の話を、同じ目の高さで聞く場をという論楽社のたゆみない歩みの中で授かったものであることを、あらためて思う。

実は中村哲さんとは私は同じ中学で3年間を過ごしている。福岡市内にある私立のミッションスクールであるが、その中学校は1学年3クラスあったが、3年間一度もクラス替えがなかった。中村さんはC組、私はB組だった。このため体育やその他の時間で同じ場にいたことがあったと思われるけれど、残念なことに中学時代の中村さんの記憶は全くない。
論楽社での集いが、私にとっては中村哲さんとの初めての出会いだった。

やわらかな、凛とした空気、気につつまれた一刻一刻
ユーモアを体現した人に はじめて出会う
ユーモアというものを、はじめて体感する

(「ユーモアを・・・」以下二行は、中村さんが亡くなられて、時を経て今、私のなかに浮かびあがったコトバだ。論楽社でハジメテお会いした時は、唯々、静謐な時空のなかで、一言ひとこと、その言葉に打たれていた。)
  
論楽社での集いの翌日だったか、ノートルダム女子大学での中村さんの講演会の会場は、いったいどれだけの人が参加されていたのか。私には千人を超える人のように思われた。司会は論楽社で出会った蒔田直子さん、2人の娘さんも壇上に。

そうしてたくさんの人で埋まった会場で、中村さんの口から宮澤賢治の名前がとびだした。2日続けて(論楽社で、そしてノートルダム女子大学で)。
「かの地で宮澤賢治を読むと、日本の在りようがよく見える」と。
座席に座り耳傾けていた私は即座に、これは中村さんと井上ひさしさんだなと思った。
それから、幾人もの方たちの、かけがえのないご助力をえて、翌年、2004年5月1日、能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーが開催されたのだった。


辺境で診る 辺境から見る 宮澤賢治学会・地方セミナー 開催にあたって 
(チラシより)

2004年5月1日、琵琶湖の東岸、そのほぼ中央に位置する能登川町で、宮澤賢治学会地方セミナーを開催できますことは大きな喜びです。
宮澤賢治が生まれた岩手県は、かつて日本の辺境とも言うべき地でした。賢治さんはその辺境の地にイーハトーボという、いのち響きあう世界を見、「たしかにこの通りある世界」として、私たちの前にさしだしています。この度の地方セミナーのテーマは、
「辺境で診る 辺境から見る」です。これは、実は今回の地方セミナーの講師のお一人である医師、中村哲さんの最新の著書のタイトル名です。中村哲さんは、1984年パキスタン北西辺境州のペシャワールでアフガン難民と接し、以後20年間にわたって、パキスタアフアフガニスタンの地でライ(ハンセン病)に苦しみ、貧困で診察を受けられない人々のために活動を行ってきました。
20年に及ぶ中村さんの活動を支えてきたのは、そん医療活動を支援する目的で結成された福岡市に本部をもつペシャワール会の役12,000人の会員のボランティア活動です。中村さんとペシャワール会の活動は、「東ニ病気ノ子ドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ」の「雨二モマケズ」を彷彿させるものがありますが、中村哲さんは、こうした活動の中で、アフガンの地で賢治の本を読み、昨年、京都で行われた講演会で、かの地で賢治の作品を読むと、日本の今のありようが、その作品を通してよく見えるという趣旨のことを述べられていました。
今回の今一人の講師である井上ひさしさんと宮澤賢治との深いかかわりについては、井上さんのエッセイや、戯曲「イーハトーボの劇列車」などの作品で、多くの人に知られています。
井上さんが小学6年生の時に、「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の判断で、しかも貯めておいた自分の小遣いで買った」のが、井上さんの蔵書1号である「どんぐりと山猫」であったということ。この本との出会いを、井上さんは「私の個人史における生涯十大ニュースのひとつ」と言われていますが、井上さんの生き方とその著作の根底には、いつも賢治の世界と響きあうものがあるように思われます。
また、「国をあてにしない生き方から一歩先へ、モデルのない時代だからこそ、新しいモデルをわたしたちでつくっていく。個人から町へ、地域から国づくり」を考えr「生活者大学校」の開校、その長年にわたる活動は、まさに地域(辺境)で見る、地域(辺境)から見る」活動そのものと見えます。
この度の地方セミナーでは、「辺境で診る、辺境から見る」ことを、その生き方の根っこにおかれているなかむらさんと井上さんをお迎えして、「辺境で診る、辺境から見る」とは何かを、じっくりお聞きし、参加されたお一人ひとりが、「ほんとうの生き方」を、自ら考える場とならばと考えています。地方セミナー開催という天空からの贈り物とも思える時を与えていただいた能登川からは、この機会に出会えた賢治さんとの出会いの喜びの小さな声をお伝えできればと願っています。
さいごになりましたが、能登川町での地方セミナーの開催にあたりましては町の内外の実に多くの方々のご助力をいただきました。心からお礼申し上げるものです。


中村哲・井上ひさし講演・対談
”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談 (チラシより)

このたび中村哲さんと井上ひさしの対談を企画いたしましたのは、井上さんが中村さんの活動のはやくからの支援者であり、よき理解者であるからです。井上さんは中村さんの活動に心からの感銘を受け、紹介する話を、すでに井上さんゆかりの地、山形県立置賜農業高校でされています。日本の農業、戦争と平和についても深い関心を持ち、積極的に発言してこられた井上さんと、内戦が続くなかで20年間、闘う平和主義を貫いてこられた中村さんの”賢治”を切り口とした対談が実現すれば、宮澤賢治の世界の広く深い広がりが感得される対談になるとともに日本で今を生きる私たちの生を支える労働について、平和について、又一人ひとりの”ほんとうの生き方”をよりよく考える言葉が紬ぎだされる対談になるものと確信いたします。

  
天空からの贈りもの 
--琵琶湖の畔りのまちでの地方セミナー --2004年5月1日 才津原哲弘
(宮澤賢治学会イーハトーブセンター会報 2004年9月22日) 

「能登川で地方セミナーをひらけないでしょうか」、この一言からすべてが始まった。昨年の七月であったか、町立図書館のカウンターで、大学生の頃から図書館をよく利用されていた主婦の三村あぐりさんから相談を受けた。お話では三村さんは、宮澤賢治学会の会員で、同会では毎年、各地で地方セミナーを開催されている由、彼女の言葉の端々から開催への熱い思いが伝わってくる。
それからパキスタンとアフガニスタンで二十年近く医療活動を行っている医師、中村哲さんと作家の井上ひさしさんのお二人の講演と対談を核としたのと小川町での地方セミナーの開催が決定し実現されるまで、実に多くの町の内外の方たちから思いもよらぬご助力をいただくこととなった。(京都、論楽社の虫賀宗弘さん、熊本水上村、お休みどころの上島聖好さん、福岡、石風社の福元満治さん、鎌倉の絵本作家、長野ヒデ子さん、賢治学会の会員で仙台で図書館づくりの市民運動に長く関わられた東京の扇元久栄さん・・・)
五月一日、地方セミナーの会場となった中央公民館の玄関前の受付には、晴れやかな表情で参加者を迎える数多くの女性たちの姿があった。この日の集いを支えてくださる有志のみなさんだった。
この日のために中村さんはぱきすたんから飛行機を乗り継ぎ、昨夜おそく東京経由で滋賀に着かれたばかりであった。アフガニスタンで用水路建設のため自ら重機を操って陣頭指揮をとる中村さんは、現地で足をひどく痛め、長時間、たつことも困難な状態であったが、そのことを知ったのは地方セミナー終了後のことだった。又、井上さんも徹夜あけのしごとを終えて、鎌倉から駆けつけてくださったのだった。
午後一時、いよいよセミナーが始まった。町から田附弘子教育長の歓迎の挨拶、主催者のイーハトーブセンターをだいひょうして、代表理事の萩原昌好さんの静かで心に響く挨拶に続いて、扇元久栄さんによる開会の辞。扇元さんは巻紙に書かれた『注文の多い料理店 序』を読み始める。
「わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでもーー」、
読み進むにつれて、手元に長く伸びていく巻紙の白さが眼に鮮やかだった。凛として心にしみる声が会場に響き、賢治さんの世界の扉が一気に開かれたかのようだった。
とりいしん平さんの賢治短歌四首と井上ひさし作の『なのだソング』の太鼓をたたいての歌、心と体にドンドコドドンと響いてくる。そして有志による『雨にも負けず』の群読が終わると、いよいよ中村さんの講演『医者、井戸を掘る、その後』が始まった。
「貧しいから不幸せではない」「二十年間をふりかえりまして、人助けというつもりはないではなかったが、助かってきたのは自分たちの報なのだ」
中村さん、井上さん、それぞれ三十分ずつの講演の後、対談、会場との質疑というプログラムであったが、スライドをつかっての中村さんのお話は、三十分が過ぎても、会場の人が耳をそばだてる話が続いていく。
『賢治と哲』という演題でバトンを受けた井上さん、「中村さんのお話を三十分で理解するというのは、お経を五分で理解するということで無理なことです。中村さんの話を詳しく聞いたら涙がでます。」「これから私が、中村さんのお話の聞き手となって聞いていきます」「対談という生ぬるいことではなく」「なぜ医者がサンダルづくり、井戸掘りをするのか」「なぜいま、重機を操っているのか」等を。
残念ながら、その後の展開されたお二人の抱腹絶倒、涙と笑い、そしてよりよく生きていくために役立つ、心のしみるお話を書き記す紙数がありません。他日、その手立てを。と考えるものですが最後に二つのご報告。
参加者のだれもが、”静かな元気”をお二人から手渡されて、それぞれの現場にかえったこと。お二人のお話の中に、いつも賢治さん(その生き方)と連なるものがあり、今回の地方セミナーのテーマであった『辺境で診る 辺境から見る』ということが、どんなに豊かな営み、生き方であるかをてらしだす場となったように感じました。
四月七日から五月二日まで図書館で開催した三つの展示(『佐々木隆二・写真展「風の又三郎」』、『加藤昌男・銅版画展「賢治曼荼羅・蔵書票」』他や四つの行事(造形作家、茗荷恭介さんや加藤昌男さんの講演など)ではいずれも驚くばかりの出会いがありましたが、これらもすべて、地方セミナーの開催により実現したものです。
このような天空からの贈りもののような時を授けてくださった、井上ひさし、中村哲さん、イーハトーブセンターの皆さん、そして、これらの集いに参加し、集いを支えてくださったみなさんに、心から感謝するものです。  (滋賀県能登川町立図書館)


さいごに、地方セミナー終了して後日のことですが、中村哲さんが ”イーハトーブ賞”を受賞されました。受賞に寄せての中村さんの文章です。アフガニスタンの用水路建設の現場で書かれたものです。

(ペシャワール会報 No.81 2004年10月13日)

イーハトーブ賞(宮澤賢治学会主催)受賞に寄せて

わが内なるゴーシュ 愚直さが踏みとどまらせた現地
 pms(ペシャワール会医療サービス)総院長 中村哲

セロ弾きのゴーシュ
まず授賞式に出席できなかったことを深くお詫び申し上げます。現在アフガニスタンでは未曽有の旱魃がさらに進行し、数百万人が難民化していると言われています。この旱魃で和江きれぬ人々が飢餓に直面していました。実際、多くの人々が私の目前で命を落としました。
しかし、四年前の「アフガン空爆」いご、華々しい「復興支援」の掛け声にもかかわらず、徒に政治情勢や国際支援のもが話題となり、人々の本当の困窮はついに国際世論として伝わらなかったのです。そこで私たちとしては、国民の八割以上がのうみんであるアフガニスタンで、何とか現地の主食である小麦の植え付け前に、多くの土地を潤そうと、一年半前から用水路建設に着工、今この挨拶を現場で書いています。小生が居ないと進まぬことが余りに多く、どうしてもここを離れられません。おそらく「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」というくだりをご記憶の方ならば、理解いただけるかと、非礼をば省みず、書面で受賞の辞をお送りします。
小生が特別にこの賞を光栄に思うのには訳があります。
この土地で「なぜ二十年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。
私の過去二十年間も同様でした。決して自らの信念を貫いたのではありません。専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。

天から人への問いかけ
幾年か過ぎ、様々な困難ーー日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し、幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしてもさることが出来ないのです。無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。
よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況がーー古臭い言い回しをすればーー天から人への問いかけである。それに対する応答の連続が、すなわち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。
私たちは、現地活動を決して流行りの「国際協力」だとは思っていません。地域協力とでも呼ぶほうが近いでしょう。天下国家を論ずるより、目前の状況に人としていかに応ずるかが関心事です。
世には偉業をなした人、才に長けた人はあまたおります。自分のごとき者が賞賛の的になるなら、他にも・・・・・と心底思います。しかし、この思いも「イーハトーブ」の世界を心に刻んだ者なら、「この中で、馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(「どんぐり と山猫」)という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものです。
どうもありがとうございました。

※本文は、去る九月二十二日、岩手県花巻市で行われた宮澤賢治学会主催イーハトーブ賞授賞式において、欠席した中村医師に代わり出席した福元広報担当理事によって代読されたものです。
 




























2019年11月30日土曜日

犬も歩けば (7)諫早市たらみ図書館へ  No.37


11月3日、諫早市たらみ図書館の開館15周年を記念して行われた、同館を設計した寺田芳朗さんの講演会に出かけた。寺田さんは横浜にある設計事務所寺田大塚小林計画同人(和設計事務所、山手総合計画研究所1983~1999.7;計画同人1999.7~)の代表をされていて、私にとっては1990年5月に開館した苅田町立図書館を設計していただいた方だ。寺田さんは苅田以前には、神奈川県大磯町立図書館を、以後は伊万里市民図書館、名護市立図書館、愛荘町愛知川図書館、小川町立図書館、君津市立中央図書館、南相馬市立図書館等を設計、いずれの図書館でも、図書館開館後も図書館との関わりを持ち続け、各図書館の現場での検証を新しい図書館の設計に生かし続けておられる。            

 
たらみ図書館 講演会場で

たらみ図書館のこと(合併により諫早市立たらみ図書館)              
                                
旧多良見町は町立図書館が開館した2004年(11月3日)の翌年2005年3月に1市5町の合併により諫早市となっている。私が初めてたらみ図書館を訪ねたのはいつのことだったか、能登川の図書館退職後とすれば、2007(平成19)年4月以降のことだ。最初の見学で私はたらみ図書館の目を見張るばかりの活動と、その活動を自在にかつ存分に行える空間のあり方に心から驚かされた。図書館の在りようを深め広げる図書館を眼にして何ともうれしく頼もしく感じたことを思い出す。その後、たらみ図書館を訪ねる度にその思いを深めて
きた。とりわけ図書館の閉館時間後に、ギャラリースペースに隣接したスペースを22時までだったか、自由に利用できるものとしていることが心に刻まれた。         

数年後、福岡県大木町の図書館を訪ねた時、そう大きくはない既存の施設を改築、改装して開館した図書館の温かさを感じる生き生きとした空間に驚かされたが、図書館を入って隣にある雑誌が置かれたスペースがそこだけ増築されたもので、たらみ図書館で行われいる図書館閉館後も利用できる場とするやり方をとりいれていることに感銘を覚えた。  
    
また若い人たちがそこで過ごすことがうれしくなるだろうと思われる”青少年の開架スペース”は、一人でも,また友だちと一緒にでも利用できる開放感のある空間で職員の細やかで温かい配慮を深く感じる、外来者である私にとっても心はずむスペースだ。       
                       
町の図書館が開館する以前のことだが、夜遅くにコンビニの店の前に集まる若い人たちの居場所となる場づくり(「青少年の良質の溜まり場の創出)をと言われていた相良裕さん(現・諫早図書館長)の言葉がよみがえる。                    
                        

町民一人当たりの貸出(貸出密度)が20点をこえ、「開館以来、年間約百回の事業を行っている」たらみ図書館がどのような考えのもとに、一つひとつどのような活動を行ってきたか、そのことを鮮やかに伝えてくれるのが下記の相良さんのレポートだ。(相良さん自身は「・・・貸出点数や数量評価に惑わされることなく、図書館に初めて足を運ぶ人を一人ずつ増やしていくことに当面は傾注したい。」と書いているのだが。)       
        
「地域の図書館 はじめの一歩 ――諫早市たらみ図書館の事業実践報告」相良宏(『図書館の活動と経営』大串夏身編著 青弓社 2008 :同書には「まちづくりと図書館経営「市民力」―伊万里市民図書館 犬塚まゆみ 」と「図書館とまちづくり―愛知川図書館の事例を中心に 渡部幹雄」を掲載している。                   

町立図書館が開館するまでは、町民にとって唯一の図書館は「中央公民館図書室」だった。町立図書館が開館する8年前の1996年に発足した「中央公民館図書室友の会」の活動
は、たらみの図書館づくりがどのようなものであったかをよく伝えるものだ。相良さんの報告を紹介したい。                               

「1996に発足した「中央公民館図書室友の会」は、公民館図書室と緊密なパートナーになり、図書館建設が具体化する五年前に先行した移動図書館車の導入計画時には、車の仕様、車体の絵柄や名称の募集、さらにサービスステーションの選定に至るすべての計画に
友の会が関わった。                               
公民館図書室への友の会の関わり、そして教育委員会との信頼関係から、2000年には、友の会が図書館づくりへの想いを込めた冊子「わたしたちの図書館像」を作ることになり、のちにこれが「基本構想」と位置づけられることになった。作成に際しては、友の会会員が全国の二百館以上の図書館から要覧やパンフレットや規約などを取り寄せてデータベース化するなどの資料収集を始めた。また、高齢者班と子連れ班に分かれた図書館見学をおこない、それぞれの視点で見学ノートをまとめた。子連れ班などは旅行気分の子どもが発する声の響き具合や職員の応対を記録したり、照度計でこっそりと各コーナーの照度計測をしたりと、若干無遠慮な見学だった。そして夜を徹した勉強会とレポート作成を積み重ねた。「わたしたちの図書館像」では具体的な図書館事業を提起し、実際に全国の図書館で取り組んでいる例なども紹介した。                       
                                        (略)                                     このように、公民館図書室友の会という一活動グループが作成した提案書が、町立図書館の正式な基本構想になったことは稀有な例だろう。これらの友の会の活動は、これまで図書館がなかった地域に図書館建設への大きな風を起こしたものと考える。」      
このようなすさまじい友の会の活動が行われたのは、住民と向きあい信頼関係を育みながら、住民と共に図書館づくりに関わった職員の存在が決定的なことであったように思う。

開館当初、図書館運営の柱として7つを掲げている。(どんな図書館を目指すか)注目されるのは、その一つ一つが、図書館開館数年にして実現していることだ。1番目に掲げられているのが、町内どこに住んでいても、だれでも利用できるための全域サービスだ。一つ一つの柱の明解さに目をみはる。                         
               
 ①町全域へのサービス                             
移動図書館事業を充実させることにより、サービスエリアの拡大や、学校や幼稚園、設などへも図書館サービスを届ける。                         
                  
青少年の良質の溜まり場を創出                         
ティーンズコーナーの運営に工夫をし、中・高生の利用を積極的にはたらきかける。また、フリースペースやデッキテラスの設置など、若い層の溜まり場としての図書館を捉えなおす。                                    
                        
③インターネットをはじめとした情報サービス                   
OPAC(利用者端末)4台のほかにインターネット端末11台(そのうち2台は午前9時か
ら午後10時まで利用できる)を分散配置し、データベースも無料で提供する。    
                   
④生涯学習事業との連携                             
住民グループや各種団体への情報提供を積極的におこなうとともに、集会室などは午後十時まで開放し、生涯学習活動の幅を広げる。また、海のホール(視聴覚室)や動の広場(前庭)、展示スペースなどを使った住民による催しをはたらきかける。       
        
⑤学校への支援                                 
学校図書館や学校司書と連携し、団体貸出や教職員用の教材貸出に対応する。また、お話会やブックトークなどの出前や選書に関する学校図書館との情報交換をおこなう。   
   
⑥子育て支援への参画                              
ブックスタート事業とともに発展形として、0歳児をもつ親子へのおはなし会、ブックトークなどの企画を積極的におこなう。                       
  
⑦ふるさとを意識する                              
ふるさと研究コーナーを設け、地域資料の提供やまちの記録資料の展示と作成・保存にも取り組むとともに、回廊のショーウィンーを学校と地域に開放して活動紹介の場とする。
                          
長崎県内図書館員の学び(研修)、交流の場の広がり                
               
たらみ図書館に心動かされるのは、いつ訪ねてもワクワクする目を見張るばかりの図書館の活動はもとより、たらみ図書館(その呼びかけと人のつながり)が長崎県内の図書館の職員の人たちの研修と学びの場の底深い広がりの源流となっていると思われることだ。図書館の休館日などに定期的に集まり、そこで培われたものが、各地の図書館に伝えられていく。                                     

旧多良見町の中央公民館図書室友の会での「わたしたちの図書館像」の作成から関わり、たらみ図書館開館後は、相良さんともに図書館の活動の中核を担ってきた職員の方(嘱託)が、私自身が基本計画に関わった平戸市の図書館の開館前後の3年間、きびしい職員体制の中、平戸市立図書館の係長(副館長)として開館準備、そして開館後の運営にあたられたことは、ほんとうに画期的なかけがえのない出来事だった。図書館(員)の魂とたらみ図書館で実践された図書館員としての仕事の仕方を、平戸市の図書館の人たちに力をつくして伝えてくださった。たらみ図書館がもたらした長崎県内の図書館づくりへの大きな影響力を思う。たらみ図書館の開館前の準備作業に県内の多くの図書館員たちが、仕事が休みの日に手弁当で応援に駆け付けたときている。                
たらみ図書館は伊万里市民図書館とともに、九州(いや、全国)の中で、ぜひその活動を見てほしい図書館だ。                              

ティーンズコーナー









たらみ図書館を訪ねた翌日の11月4日、新しく開館した長崎県立・大村市立図書館を見学した。