2024年8月27日火曜日

岡部伊都子さんと沖縄 (出前の本の話・9月)No.130

9月と10月、ノドカフェへの出前の本は「岡部伊都子の本」 です。若い時分から、「私はね、学歴はないけど病歴はた んとありまっせ」と、学歴ではなく病歴の中で思考、考え を深めて生きた随筆家、岡部伊都子さんの本の数々です。 1954年(昭和29年)、ラジオ・エッセイ「おむすびの味」 で執筆活動に入り、2006年、83歳の時の『清(ちゅ)らに 生きる』まで、134冊の著書が読者の前にあります。 岡部さんとの最初のご縁は、私が初めて沖縄を訪れた1975 年(昭和50年)の9月だったか、沖縄本島、伊是名、石垣 島を経て竹富島に向かったことからでした。島内に文庫が あると聞いて訪ねたのがこぼし文庫でした。岡部さんが 京都から本を送られていたのです。 その時まで私は岡部さんのご本を読んだことはありません でした。お名前を心に刻んで文庫をあとにしました。 後に岡部さんとお会いする機会を授かり、能登川の図書館 で講演や写真展をお願いすることになろうとは知る由もな いことでした。 出前の本の話は、「岡部伊都子さんと沖縄」と題して9月 4日(水・11時~12時)に行います。 場所は ”ノドカフェ”です。 (糸島市前原中央3町目18-18、2階) 連絡なしで、当日のご参加もできます。

2024年6月30日日曜日

[『イシ』をめぐって(出前の本の話)7月 No.129

7月と8月、ノドカフェへの出前の本は「『イシ 北米最後の野生インディアン』と アメリカ先住民の本」です。今回の出前の本の大半は前回に続いて、「梅田文庫」 からのものです。 出前の本の話は7月3日(水)、「『イシ 北米最後の野生インディアン″(シオド ア・クローバー)をめぐって』です。この書の3年後の1964年に書かれた『イシ― 二つの世界に生きたインディアンの物語―』(シオドラ・クローバー作)の2冊の 本を柱に、「イシが伝えてくれたこと」(鶴見俊輔)、『ナバホへのたましいの旅』 (河合隼雄)などについても触れたいと考えています。 出前の本の話:7月3日(水)11:00~12:00 場所:ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18,2F連絡先―才津原(☎090-5045-2559) ※連絡なしで、当日のご参加も‼  

2024年5月9日木曜日

5月 出前の本の話、日時変更 No.128

5月の「出前の本の話」は5月2日とお知らせしていましたが、申し訳ない次第ですが5月10日(金)13時~14時に変更となりました。
(梅田さんのこと,梅田文庫について) 梅田さんと出会ったのは1,987年のこと。私は当時福岡市に住んでいた。1979(昭54)年に開館した、博多駅近くの 財団法人記念会館(232㎡の図書室)につとめていて、9年が経った頃だ。その頃人口116万人(1985年)の福岡市には 市立図書館は1館だけで、私には年々歳々、図書館をめぐる状況が悪くなっていると思われた。各地の図書館を見、 図書館づくりに取り組んでいる、仙台市の市民の会のすさまじい活動を知るなかで、市民として図書館のあり方を考 える取り組みが必要だと考えるようになっていた。 梅田さんとは、住まいが近く生協の利用を通して出会っていた。市民が自ら福岡市の図書館の図書館のありようを考え る場をつくりたい。梅田さんはその会の代表をすっと引き受けてくださった。こうして「福岡の図書館を考える会」が が始まった。毎月一度の定例会を市民センターの会議室でもち、だれでも参加できるよう、新聞の集会の案内欄に掲載 してもらった。市が福岡市の図書館計画をもたず、それを作る動きがないのなら、私たちでそれをつくろう。こうして 一年に及んだ取り組みが始まった。この間のことは、梅田さんが『みんんの図書館』(1988年10月号)に投稿された文 章があるので、以下に掲載します。 私は1988年12月1日から苅田町に設置された図書館開設準備室に急きょ行くことになり、1990年5月の図書館開館に向け て取りくむ事になり、「福岡の考える会」での活動を共にすることができなくなってしまった。梅田さんと行動を共に した時間は2年たらずだった。苅田町のあとは滋賀県に転じたため長い期間にわたって、お会いすることができなかっ た。滋賀の図書館を退職し福岡に帰って来てからの再会だった。 この間、私は梅田さんが、私がお会いする以前、どんなことをされてきたのかをお聞きすることなく過ごしてきた。 帰福後、ぽつりぽつりとお話をお聞きすることがあったものの、コロナ前の3年前に、梅田さんのご本をお引き受けする ことになり、そのご本を通してあらためて梅田さんの足跡を訪ねる日々を過ごしている。梅田さんのことで、ご本に関 わってお知らせしたいことは、これから折に触れて記していきます。 (苅田には1995年3月まで、1995年月~2007年3月までは滋賀県能登川町立図書館・博物館(うち2006年1月~2007年3月 東近江能登川図書館)

『みんなの図書館』(1988年10月号)第35回図書館問題研究会 全国大会の記録 実践報告 福岡の図書館を考る会の取り組み    梅田順子 私たちの福岡の図書館を考える会は、まだ一年ちょっとです。この二月に『ニ00一年われらが図書館』というのができ ました。この本のできる過程が私たちの歩でありました。そこでちょっと、私の一年を振り返ってみたいと思います。 去年の四月頃でしたk、図書館員の才津原さんという方と出会いました。その時に、「図書館を利用していらっしゃいま すか」と聞かれたんですね。私は「いいえ」と言いました。それが始まりだったんです。続いて、「どうしてですか」と 聞かれて、私もどうしてだったんだろうと考えました。やっぱり家から遠いんですよね。図書館っていうのが。バスを乗 りつがないといけないし、また本は自分で買おうと思っていたし、図書館に私の読む本があるかしら、と思ったり。「ま だ間に合ってますかr」という答えをしました。 その時、才津原さんが「それは、図書館が自分のものになってないからじゃないんですか、みんなのものになってないか らじゃないんですか」と言われたんですね。そして「こいう本があるんですよ」と、たくさん本を貸してくれたんです。 前川恒雄さんの『われらの図書館』とか漆原宏さんの図書館の写真集、関千枝子さんの『図書館の誕生』、『図書館の街 浦安』、『まちの図書館』などいろいろでした。ほんとにショックでした。私は何も知らなかったんです。それがきっか けで、私たちが何も知らないっていうことが図書館を遠ざけているんだと思ったんです。 今日もここに来る汽車の中で昔を思い出してたんですが、戦前は、ただ本を借りて静かに読んで帰るという図書館でした。 やがて敗戦。敗戦前後は、教科書もない時代でした。それから県立図書館ができて、県立図書館にも行ってみたんですけ れども、なんだか堅苦しくて、開放されてない感じで、行くのをやめました。その頃だったでしょうか。図書館が学習室 として使われるようになったと思います。 その後、一九七五年頃、市民図書館ができたんですけど、あまりにも辺鄙な所で船着場の前にあるんです。半分は海です から、人が住んでいないんです。私もそのとき反対したように思います。それからだんだん本屋さんが増えて、本が増え て、今では、本屋さんに行っても選ぶのに困難なようになり、注文して買うようになりました。 そして現在、平和町という福岡市の中央に近い所に住んでいるんですが、これがまた公共施設に縁遠い陸の孤島と言われ ているような所なんですね。だからもちろん図書館も遠いんです。そんなこんなでとうとう図書館とは縁がなく過ごして まいりました。 先ほども言いましたが、本当に前川さんの本にショックを受けてからは、図書館が遠いのはなぜだろうかと考えるように なりました。まd読みたい本がないと言わずにどんどんリクエストしよう、図書館を利用しないことが行政を怠慢にして いるのではないか、また図書館を利用しながらどんどん要求をしていこう、そうだ、身近にっ図書館をつくろうと思うよ うになりました。考えることは簡単ですし、また愉しいことでもありました。 まず、図書館を考える人を呼びかけよう。それで、この指とまれ方式で皆さんに呼びかけました。新聞のお誘い欄を利用 したり、チラシを作ったりしました。そして去年の十一月頃から定例日を決め、だいたい今は、三人から十人の方が集ま ってみえます。まだ会員制にはしておりません。それから最近、図書館て、の話の出前はいかがということで呼びかけて、 ぼつぼつ出かけてはおります。 定例日は、まず福岡の図書館の実情を知ることから始めて、日のや浦安の図書館、水海道ほかいろんな図書館のスライド を見ながら学習しました。新しくできた大宰府の図書館、小郡の図書館などをみんなで見学しました。新しくできようと している筑紫野市の図書館、行橋市の考える会の人たちとの交流を持ちながら、話し合いをしました。そのとき気がつい たのは、やはり福岡市の図書館の問題は、福岡県の問題であるということだったんです。 去年、私は、北海道に旅行することがありまして、置戸と訓子府の図書館に寄ってまいりました。おばが「なんで図書館 に行くの」と言いながら一緒に来たんですが、私が置戸で職員の方と話してるあいだに書棚を見てたんですね。そしたら、 「ああ、読みたい本がたくさんある」って言って声を上げたんです。そのときに、私は、この図書館はいい図書館なんだ なっていうのが実感できました。 その後、埼玉の朝霞の図書館を訪ねました。そのときは、新しくできたばかりで開館前でしたから本は並んでおりません でしたが、本当に本のある広場っていうようなつくりになっていまして、また置戸と違った図書館を見ました。そして、 そこでは、職員がとっても魅力ある人たちで、そのこともたいへんいいなと思いました。 また、私たちの図書館を考える会では、昨年は、建築家の三上清一さんをお呼びして、「建築家としての図書館づくり」 というお話をうかがいました。今年は、八広図書館の千葉さんの「本のある広場としての図書館づくり」というお話をう かがいました。この図問研大会のあとでは、仙台の扇元さんに福岡にお出でいただこうと思っております。まだ、このよ うに手当たりしだい見たり、聞いたり、学んだりの考える会です。 この『ニ00一年』という本ができた時に私たちは、市会議員の皆さんに配ってアンケートを求めました。もちろん市長 さんにも陳情書を添えて出しました。まだ返事はいただいておりませんが、それから、一年目にしてやっと「身近に」と いう通信を出すことができました。まずできるところから一つずつやっていこうと思っています。 それから最近、私たちの平和町にある古い市営住宅が取り壊され新しく建て換えるという情報が入ったんです。もうとっ さに、ここに図書館があったらいいなと思って、とりあえず近所の人たちと相談しております。もちろんどうなるかわか りませんけれども。 今回の大会のテーマである『権利としての生涯学習を保障する図書館』、つくづくそうだと思います。これを言葉だけに 終わらせないようにしていきたいと思います。いつもみんなにとってどうなのかっていう視点を持って、これからもわれ らの図書館づくりを目指していきたいと思います。 の

2024年4月30日火曜日

犬も歩けば ― ちょっと久留米まで No.127

久留米大学で一箱古本市エトセトラ 4月20日の土曜日、久留米大学まで出かけた。久留米大学でこの日、KURUME BOOK CAMPUSというイベントがあり、一箱古本市や絵本のおはなし会やビブリトークやクロストークがあるという。このイベントを教えてくれたのは3月末に自宅にみえた知人の友人で、大学の先生であり、このイベントの仕掛け人でもある方だった。 心動いたのはクロストークの内容だった。題して「まちの本屋さんの役割」、MINOU BOOKS|石井勇さん×久留米大学付設高等学校|梅原望さん。 MINOU BOOKS(以下ミノウブックスという)と聞いてびっくり。そこに行ったのはいつのことだったか。 福岡県の南東部、耳納(みのう)連山と筑後川の間に位置する浮羽郡浮羽町と吉井町が合併し、うきは市となったのが2005年3月20日、そして旧浮羽町の役場を改装して2009年4月7日に市民センターと市立図書館が開館している。私が東近江市能登川の図書館を退職し糸島地区に住み始めたのが2007年5月だったが、2010年1月に前原市、二丈町、志摩町の1市2町が合併して、糸島市(人口10万人)となり、旧2町の町役場の一画を改装して図書館の分館として翌年の2011年10月の開館を目指すことになった。このため新しくできる二丈、志摩地区の2つの分館づくりの参考とするため、「としょかんのたね二丈」「みんなの図書館つくろう会」(志摩地区)のメンバーと共に何度もうきは市立図書館を訪ねた。私は2つの会の会員だった。ただその当時、ミノウブックスはまだ開店していなかった。 2011年10月、糸島市図書館の2つの分館、二丈館、志摩館が開館してからも私は時折うきは市を訪ねた。うきは市には行ってみたい、行ってみようと思う所が幾カ所も私の中に生れていたのだ。今回のクロストークでの石井さんのお話でわかったのだが、ミノウブックスが開店したのは2015年とのこと。2015年といえば能登川にいた時、よく通っていた京都の恵文社・一乗寺店の店長をしていた堀部さんが独立して開業した誠光社が開店した年だ。(開店して何年か後にようやく誠光社を訪ねた。小さな本屋さんだが、そこにある本と併設しているギャラリーの小ささと展示されているものの驚くばかりの豊かさ面白さに驚いた。こんな小さな壁面でコンナコトが出来るんだ!)私にとって魅力的な本屋さんが同じ年に京都市と福岡のうきは市に開店していることに偶然ではないものを感じる。 たまたまの出会い 予期せぬ出会い 私は本屋の開店のことを知らず、たまたま街歩きの途次、開店して間もないミノウブックスに出会っている。 あっ、本屋さんだ!日曜日だけ開店している井戸といううどん屋さんに行く道でだった。三つ角の一画、壁面全面ガラスで本のある本屋の中が通りからよく見える。何か誘いこまれるようにして店内に入った。奥行は3間ぐらいだろうか、横幅はおおよそその2倍くらい、長方形の小さな空間、天井が高く店内が右左と見わたせる。棚に近づき、棚を一回りして驚いた。本がどんどん目にとびこんでくる。本の並び(関連した本のかたまり)、その見せ方によるのか、初めて目にする本が大半なのに思わず手にとる。本も雑誌も絵本も、一冊一冊手にとりたくなる。初めて目にするミニコミ誌、タウン紙?の多彩さにも驚かされた。選ばれた雑貨にも。 うきはは糸島からは遠く、この9年間でミノウブックスに行けたのは6,7回ぐらいではないだろうか。回数は少ないものの行く度に,カフェの場ができていたり、古本のコーナーがあったりで、うきはで立ち寄る楽しみ、欠かせない場になっていた。そのミノウブックスの人の話、(私は案内の葉書で初めてお名前を知った。石井さんという方だと) お二人のトークから お話を聞く前は、高校生1年生の梅沢さんがミノウブックスの石井さんに本屋の仕事について、本屋さんについてインタビューをするのかと勝手に思っていたのだが、実際の進行はまったく違うものだった。梅沢さんが中学3年生の時に書いたという卒論の内容にそって、石井さんが梅沢さんに問いかけるという形で話がすすめられたのだ。中学で卒論があることに驚いたが、その卒論を石井さんがよく読みこんでの進行ぶりにも驚かされた。 ――梅沢さんの話は『小説の神様』(相沢沙呼)〈私にとっては初めて耳にする著者の名前、書名〉から始まった。「なぜこの論文を?」の問に。それを読んで、出版界の闇を知り本屋の景色がガラッと変わったと。この現状を知ってた方がいいのでは。本屋をしらべてみようと。ショックだったのは、作家が書きたい本を書けなくなっていること。本屋の見え方がちがう。 (石)ぼくも本当に耳が痛い。売るが前提、需要をつくらないといけない。 ミノウブックス 一冊一冊えらぶ  取次・・・いかに売るか  魚屋さん 生きのいい魚 見分け方 書店員 本が売れなくなっても 目利きであること 配本と選書の組みあわせ  ワクワクする ピックアップ 利益だけを考えるのではなく・・・。 (梅)独立系書店を訪ねる  1回でもいいから独立系書店に行く 「読み手が育っていない」(橙書店で) もっと人とつながったら コミュニティの場所として 同じ本を好きな人と語りあったら まちの中で位置をもっている 45分間のお2人の話は何とも心嬉しい気配の中で終わった。 トークの会場には一箱古本市も開かれていて、10人くらいの人たちが出展していた。トークが始まる前の短い時間に何かと一まわりして棚や箱の中をのぞいた。「婦人之友 8 平和特集 ◇ 沖縄が問う日本」が眼にとびこんできた。2013年刊。表紙には背表紙の「沖縄が問う日本」の下に[座談会]高里鈴代/我部政明/加藤裕とあり、さらにその下には「長崎11時2分、そしてこれから」と。この1冊だけを購入。の(家に帰って目次を開くと、「絵本 わたしの木、こころの木  絵・文 いせひでこ」があり、びっくり。先日、図書館から借りて手にしていた絵本、その時は気が付かなかったが、『婦人の友』に連載されていたのだ。この8月号では「連載⑤木もれ日のひみつ」となっていた。) 集いが終わり、梅田さん、石井さんにお礼の思いを伝えて会場をあとにした。 友人が「MINOU BOOKS 久留米」まで車でつれて行ってくれ、ほんとうに至上の時間を授かった。うきはの2倍の広さという店内は、そこここで目にとびこんでくる本があり、この日の時間ではとてもそのどれもをゆっくり見ることはできなかったが、それでも心みちる時間だった。美味しいジュースと、以前MINOU BOOKSで働いていた人が作って、うきはと久留米の両店にだしているというクッキーをいただいて、何ともうれしい気分で帰途についた。

2024年4月27日土曜日

松下竜一の本(出前の本の話・5月) No.126

JR前原駅から歩いて10分の所にある旧前原商店街の一郭にあるブックカフェ「ノドカフェ」での5月の 出前の本の話のご案内です。
追記 上記の「出前の本の話・5月」の中に、何とも申し訳ない誤字が2か所あります。 松下竜一さんが同志とも相棒とも呼ばれた梶原得三郎さんのお名前です。得の字を徳と記載しています。慙愧のおもいで訂正いたします。 今日28日、案内の葉書をお届けしたときに指摘されて気づくありさまでした。

2024年3月30日土曜日

3月の本の出前  No.125

3月の「本の出前」のご案内 1.マルシェ会場にて (今回は初出店のお店がいろいろ)   ・日時 3月30日(土)11時~夕方   ・場所 「うみかえる」 糸島市二丈深江海水浴場入口   ☆16時20分から45分間くらい、ヨガ    ヨガスタジオよが凪のゆみさんと。参加500円くらい。     うみかえるの裏の深江海岸浜辺で。   ※能登半島チャリティー蚤の市も開催(自転車、着物、本・・・などの出品も)   ★1日だけのマルシェが開かれ色んな出店が。   ☆将棋道場 11時∼14時半(うみかえるの庭で。松浦さんに勝ったら団子とか。   ☆komorebi sweets,坂田たみちゃんのインタビュー(うみかえるのどこかで。     「人気のお菓子屋さん、ってどうやってできたんでしょうね?」       会場に来た人も質問を‼   ☆「和限」(今年、発芽酵素玄米の食事処を開店)の中山和子さんの初出店。     ・発芽酵素玄米のおにぎりと味噌だまのスープ。300円です。   ☆30日の朝についた餅の販売(米農家、子育て中のぐーさん)     ・間に合えば、無農薬米の自家製緑米玄米餅やよもぎ餅も。   ☆「みぃちゃんコーヒー」(tetocotoのこどもたちが立ちあげた挽きたてのコーヒー)   ★風信子ヒアシンス文庫より1日限りの本の出前―2階です。 2.ブックカフェ「ノドカフェ」にて   ・期間 : 3月8日(金)~5月1日(水)   ・場所 : ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F)   ・内容 : 「農に関わる本」  「農に関わる本の話」   ・3月8日(金)11:00~12:00   今回は福岡市内から2名の参加があり、2時間の時間となりました。   葉書、フ16ェイスブック、ラインで直前に以下のお知らせ   農に関わる本の出前とお話  出前の本の話 3月  3月と4月、ノドカフェへの出前の本は、「農に関わる本」 です。「田んぼや畑は先祖からの預かりもんであり、自分のも んであって自分のもんじゃなか。未来永劫にリレーされるべ きものなんだ」「農の原理は循((環であって、成長じゃない。百 姓ってのは借金さえしなければ成長しなくても生きていける んです」、「佐賀県唐津市で、生涯を一百姓として生きてきた 山下惣一」、「井上ひさし氏が山形県川西町に拓いた遅筆堂文庫 による「生活者の視点から農業を学ぶ生活者大学校」の教頭(校 長は井上ひさし)を長く務めた山下惣一さんの追悼の小さな棚や、 「野の学問」を構想し「百姓宣言」の糸島二丈在の宇根豊の本、 徳野雅人、前田俊彦(百姓は※をつくらず田をつくる)、そして 自然農に関わる本など。 小さな場での出前の本のお話会にようこそ。 (連絡なしで、当日直接お出でいただいて大丈夫です) ★連絡先―才津原

2024年2月29日木曜日

「空白の天気図」・・・広島へ No.124

2月19日と20日、広島市に出かけた。叔母から被爆時前からの話を聞くことと、 平和祈念館の企画展を見るためだった。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、 企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」を2023年3月15日から2024年 2月29日まで1年間にわたって行っていた。私がこの企画展を知ったのは今年の1月 半ばを過ぎてからのことだった。 「空白の天気図」は柳田邦男さんの著作のタイトルだ。49年前の1975(昭和50年)に新潮社 から出版されている。1936(昭和10)年、栃木生まれの柳田氏は1960(昭和35)年春NHKの取材 記者として広島赴任を命ぜられ、それから3年3カ月広島に勤務し、主に原爆報道を中心に報道の 仕事に携わっている。東京では気象や災害問題を主要なテーマとし、そのため気象庁に出入りす る機会が多かった。そして1967(昭和42)年7月、西日本各地を襲い、佐世保、呉、神戸などに 300人以上の犠牲者をだした「西日本豪雨」に出会う。とりわけ呉では600か所以上で山崩れや崖 崩れが発生し、死者は88人に上った。 「この災害を調べるうちに、呉では昭和二十年の枕崎台風で死者行方不明千人を越える大災害が 起こっていることを知った。しかも枕崎台風は、呉のみならず広島県下に未曽有の惨禍をもたら したこと、災害の規模が大きくなったのは、県の中枢である広島市が原爆で壊滅した直後で、 防災機関の機能が麻痺していたためであること、などの事実も知ることが出来た。私の広島時代 の取材は、あまりにも「八月六日」のことにばかり目を向けていたため、「九月十七日」のこと など思いも及ばなかったのであった。気象庁に保存されている中央気象台の「枕崎・阿久根颱風 調査報告」を読んだのは、この「西日本豪雨」がきっかけだったのだが、それを読んではじめて、 「戦争が終わったと思ったら今度は台風じゃった。あの台風はすごかった。石は飛ぶし、宮島の 厳島神社の回廊が高潮で浮き上がったのじゃからのぉ。」 と、かつて広島の老記者から聞いるかのsらた話が、私にとってもようやく現実感をもってよみ がえってきたのだった。このとき私の胸の中に、漠とした形ではあったが、広島について書くべ きものの構想が生まれた。」    それから取材と調査が始まる。1974(昭和49)年夏には、「私は本書を含めて書きたいものがあ まりにもたまり過ぎたため、NHKを辞めて執筆に専念することに」し、翌年の1975(昭和50) 年9月に刊行されている。枕崎台風のことを知るきっかけとなった1967年の「西日本豪雨」から7 年後のことだ。 本書の紹介については、稿をあらためてと考えているが、原爆投下の前後の広島の時空に、活字 をおう私自身が立ち会っているとも感じられる描写、その克明な記述に驚かされた。原爆で壊滅 した街の中でどのような一人ひとりの生と死があり、またその惨禍の地を襲った枕崎台風がどの ようなものであり、そこにまたどのような生と死があったか、その一人ひとりが眼前に立ち現れ てくるように思われた。 原爆死没者追悼平和祈念館では、今回の企画展にあたって、A4サイズのチラシ作っている。 「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」と太文字で記された表がわには 麦わら帽子をかぶり、立って櫓を両手にもつ男性(船頭)の横顔が紙面の右下に写っており、 左下には、茶色の戦闘帽をかぶり同色の作業服の上着を着た青年の後姿が映っている。 柳田著の「空白の天気図」では、その青年が渡し船の上で閃光にさらされ、濡れ鼠とも幽霊と もつかぬすさまじい形相で6人火傷を負いながらも、歩いて気象台のある江波山を上り、辿り着 いた本科生として、その後のあり様とともに詳細に描かれている。なお写真上に、副タイトル として「観測し続けた者たちの記録」と記されている。 チラシの裏側には、チラシの右側の上段には「元広島地方気象台の関係者たち」として6人の写 真が載っている。うち3人は職員であり、2人は気象技官養成所本科生(うち1人は気象台に定時 に出勤していて、閃光のあと、顔から足先まで身体の右側一面に無数のガラス片が刺さりひど い出血、重症)、一人は重症を負った本科生の姉。 チラシの右側、下段には「迷彩を施された広島地方気象台」の写真。 そして、チラシの左側には、この度の企画展の趣旨が次のように記載されている。 「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ― 1945年8月6日、原爆は広島市に甚大な被害 をもたらしました。爆心地の南方3.7km に位置する広島地方気象台でも、爆心に面 した窓ガラスは割れ、職員の中には重症を 負うものが少なくありませんでした。 その状況下でも、「気象観測を担う者は、現象 についての時間的な変化を絶えず記録しな ければならない」と、最新の気象データを 中央気象台に伝えるため、3名の若手 台員が市の中心に向かいました。しかし、 そこで彼らがした目にはしたのは、まさに地獄絵図 と呼べるものでした。 さらに、被爆後わずか1か月後に広島を襲っ た枕崎台風は原爆被害を一層深刻なものにし ました。気象台員たちはこの二重災害の被害 を後世に教訓として伝えようと、現地へ出向 いて一人ひとり詳細な聞き取り調査を行い、 貴重な調査報告書にまとめました。 今回の企画展では、観測者の視点から記録 された被爆体験記をもとに被爆の実相を明ら かにします。」 ☆この度の企画展の会場で放映されたビデオが祈念館のホームページで見ることができます。  ぜひご覧ください。 国立広島原爆死没者追討平和祈念館 TEL:082ー543-6273  FAX:082ー543ー6273 ホームページURL:https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/ 〒730―0811 広島市中区中島町1-6