2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2021年12月31日金曜日
『生きるための図書館って何だろう』刊行のこと No.82(2022.2.23)
豊田市の図書館を考える市民の会が会〔以後、市民の会と表記〕としては2冊目となる冊子を発行された。タイトルは、
『5年間の市民活動で学んだこと―生きるための図書館って なんだろう アーサー・ビナード氏講演録 & 才津原哲弘氏インタビュー』(2021年10月10日 第1刷、11月23日 2刷)。市民の会の活動がどのようにして始まったか。どのような思い、考えのもとに市民一人ひとりの活動が行われているか。そのことがまっすぐに伝わってくる「はじめに」(「振り返って、今」)と「編集後記」を引用させていただこう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー振り返って、今 代表 杉本 はるみーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「豊田市の図書館を考える市民の会」が活動を始めて1年後の2017年6月、豊田市中央図書館の運営が指定管理者に移行される過程、市行政の対応、私たちの活動経緯を広く皆さんに知っていただこうと、冊子『まっすぐな目で見るということ』を
発行しました。そして、4年経った今、2021年10月、再び冊子『生きるための図書館ってなんだろう』を発行することができました。今回の冊子では、アーサー・ビナード氏の講演録と才津原哲弘へのインタビューを掲載しました。それぞれ、お二人を目の前にしてお聞きしたお話は、内容のみならず、声も立ち姿も、ともに今でも頭の中にはっきり映像として残っています。
思えば、発足当初、ただ「図書館は直営で!」との思いで、指定管理者制度の言葉も知らなければ内容も分からないところからのスタートでした。しかし幸いにも会発足の当初から、すばらしい講師の先生方に恵まれ、指定管理者制度のことのみならず、図書館とは何なのかということのほか、たくさんのことを学ばせていただき、ご支援をいただきました。この冊子の表紙にあるように「~5年間の市民活動で学んだこと~」は会員みんなの総意です。
残念ながら、行政に豊田市中央図書館の指定管理者制度についての意見や要望を伝えたくてもその壁は厚く、また、広く市民の皆さんに私たちの活動への理解や教官を得るような活動にまでは広げていけませんでした。でも、豊田市の市民として「図書館をがもっと身近にあったらいいのに」という当たり前の生活感覚や、「図書館政策をもっと生きたものに」という思いは揺るぐものではありません。
豊田市は、「SDGs未来都市」を宣言しています。市民ひとり一人が自分事として17の目標に、できることから取り組む事が呼びかけられています。【4.すべての人々に包括的かつ公平で質の高い教育を提供し、生涯学習の機会を促進する】は正に私たちの活動に繋がるターゲット。この広い市域の誰もが取り残されることなく図書館の恩恵にあずかれる日が来ることを願って、これからも一歩いっぽ、歩んで行こうと思っています。
ーーーーーーーーーーーーーーー編集後記 豊田市の図書館を考える市民の会 副代表 竹内純子ーーーーー
「ビナードさんと才津原さんのお話をたくさんの人に届けたい」という願いがようやく叶いました。冊子の感性を、今、心から嬉しく思っています。お二人の講演会から随分と年月が過ぎてしまいましたが、今回あらためて私たちのこれまでの活動を振り返ることができました。
目に見える大きな成果を残せなかったとしても、なぜ活動するのか、何をめざすのか、という大事な根っこの部分は、時間の経過とともに会員の共通理解となり、太く育ってきました。私たちのような小さな会にとって、それはなにより大切なことだったと思います。冊子を作る過程で、ビナードさんと才津原さんの原稿を何度も読み返しました。読むたびに新しい気づきがありました。この先もまた新たに気づくことがあるだろうと思います。お二人の言葉は、私たちの活動への力強い励ましにもなりました。
なにか違うと感じたら、その違和感を持ち続け、みんなで学び、あきらめずにできることから行動していく―これからも
そういう会でありたいと思っています。冊子が完成するまでにい、たくさんの人に協力していただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。
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豊田市の図書館サービスの現状、地域の特徴や課題をグラフで鮮やかに可視化した大変な労作の「目で見る豊田市の図書館サービス」や市民の会から市議会に提出した陳情書や請願書、そして市民の会の活動記録が記載された「資料」集は、各地で図書館づくりや図書館の充実に向けて取りくんでいる方たちの活動に参考になるものと思わます。以下に目次。
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―目次―
☆目次ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆アーサー・ビナード氏 講演録 『絵本の向こうに、日本が見える―アメリカ生まれの詩人が この国のこれかれから を語りますーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆才津原哲弘氏 インタビュー記録 『図書館の発見をめぐって―豊田市の図書館の今とこれからを考える、町田市立図書館と比較してーーーーーーーーーーーーーーーー
☆目で見る豊田市の図書館サービス・・・中学校区別人口、サービスポイント図書コーナー面積、蔵書冊数、貸出冊数、
貸出利用者数、リクエスト数
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☆資料ーーーーー
・豊田市の図書館を考える市民の会 活動記録ーーー
・豊田市中央図書館の新型コロナウィルス感染症拡大予防対策ーーーー
・豊田市議会提出 陳情書ー
・会報ーー
・会則・会員募集ーー
☆編集後記ーーー
☆会員メッセージーーー
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「会員メッセージ」の一人一人の声がいい・・
ひとひとりの心から生まれる声のちから・・
市民一人一人が思いを語る
夢と希望をかたる ・・
ひとりひとりの思いのふかさ たしかさ そして豊かさ・・
11人の声が ひびきあうと さらに夢がひろがる ・
「オアシスみたいな図書館にしたいね」とのメッセージの声の末尾には、
「夢は語り合うことにより、現実のものとなる みなさん大いに夢を語り合いましょう」とありました。
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すてきな表紙のイラストは梅村展子さん。冊子ご希望の方は下記の所にご連絡を。ーーーーーーーーーーーーーーーーー
豊田市の図書館を考える市民の会 代表 杉本はるみ:事務局 ☎ 090-7953-9078 / 090-4445-9598
Facebook 「豊田市の図書館の図書館を考える市民の会」で検索
2021年11月30日火曜日
竹内悊(さとる)氏が亡くなられた。(享年93歳)悼詞 No.81(2022.2.21書きあげ)
竹内悊さんが10月14日に逝去されたのを知らせてくださったのは豊田市の図書館を考える市民の会(副代表)の竹内純子さんだ。図書館友の会全国連絡会からの情報で訃報を知りすぐさまメールをしてくださったのだ。11月1日のことだった。
そのメールには、「冊子が竹内先生に届く前に亡くなられていらしたそうです。あと少し早く完成していたら才津原さんのインタビューを読んでいただけたのにと心残りです。」とあった。『―5年間の活動に学んだこと―生きるため
の図書館って なんだろう アーサー・ビナード氏講演録 & 才津原哲弘氏インタビュー』(豊田市の図書館を考える市民の会発行 代表 杉本はるみ 事務局090-7953-0978 2021.10.10第1刷)がそれだ。そのメールに気づいたのは翌朝、11月2日のことだった。
(2021年10月13日 撮影)
(竹内純子さんへの返信)
「昨日いただいたメール、今朝ひらきました。竹内悊さんから5月29日付けでいただいたお手紙と(同封されていた)1942年にアメリカで作られた「戦後アメリカ公共図書館基準」の抄訳と解説の内容の凄さに驚き、ご返事を書くのがとても遅くなってしまいました。この間さらにお手紙と「子どもの読書」(通巻300号、最終号)も送っていただいていました。この中には竹内悊「五十年、三百冊を支えたもの」というすばらしい文章が冒頭にありました。
竹内悊さんへのお礼の手紙を書き始めたのが10月10日、〔実際は12日、あわてていて10日と思っていた〕書き終えたのが23日、その日は3時すぎに目ざめて、朝食前にようやく書き上げ、土曜日でしたので、糸島の市街地にある郵便局に出かけて投函しました。以後、実は今日まで毎日、竹内さんからのお手紙を心待ちに過ごしていました。お送りいただいた大変な労作や「子どもの読書」への私の感想を待ってくださっていたと思います。ほんとうに言葉がありません。感謝とお礼の言葉をお伝えすることができませんでした。ご連絡ありがとうございました。」
(この間、5月29日、脚立からの落下によるあばら骨の骨折や、 田植えのさなか脳梗塞による7月1日から13日間の入院などに遭遇)
その日以降、折に触れては竹内悊さんが心の中に立ち現れ尽きることのないやりとりが続いている。まずは心からの深い感謝、同時代のある時間をこのような人とともに生きれたことの有り難さを思う。
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『生きるための図書館 —―一 一人ひとりのために』 竹内 悊(岩波新書 2019.6)奥付けより
1927年東京生まれ.56年東洋大学司書講習修了(夜間).65年米国フロリダ州立大学図書館学大学院修士課程修了.79年ピッツバーグ大学図書館大学院博士課程修了(比較図書館学・教育人類学).1954年から66年まで中・高等学校図書館と大学図書館に司書として勤務.その後立正大学講師、専修大学講師、同大学助教授、教授などを経て、1981年図書
館情報大学教授、87年同大学副学長.現在,図書館情報大学名誉教授.2001年から05年まで日本図書館協会理事長.
編著書に『図書館学の教育』(共著.日外アソシエーツ),『コミュニティと図書館』(編著,雄山閣),『図書館の歩む道』(解説,日本図書館協会),『「図書館学の五法則」をめぐる188の視点』(日本図書館協会)などがある。
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竹内さんとの出会いをたどる
竹内悊さんに初めてお会いしたのは2008年(平成20年)11月17日(月)、私が能登川の図書館を退職し、糸島に住み始めて1年半後、伊万里市民図書館でだった。同館で図書館の休館日である月曜日の午前10時から佐賀県公共図書館協議会地区別研修会が開かれ、竹内さんが講師として来られたのだ。「地域に生きる図書館―公共図書館と学校図書館」が演題だった。二丈町から龍国寺の甘蔗珠恵子(かんしゃ たえこ)さん(『まだ、まにあうのなら―私の書いたいちばん長い手紙』地湧社 1987)、甘蔗健仁さんと一緒に参加し、はじめて竹内さんのお話を聞くことができた。その時は佐賀県だけではなく、長崎県などからも多くの参加者があり、また、竹内さんが大学で教えておられたとき受講した学生たちが卒業後、大学を退職後の竹内さんと共に、各地の図書館を見学する研修旅行をされていて、この度の伊万里での講演に、そのグループの方たちも各地から参加されていたこともあり、ゆっくりお話することはできなかったがお会いすることができたことが何よりのことだった。次いでお会いできたのは2年半後、2011年(平成23年)5月13日(金)、福岡県立図書館で館長研修会の講師で来られた時で、その翌日には二丈の龍国寺で、「糸島市の皆さんとこれからの子どもたちのために――市立図書館の健全な成熟と成長を願って」と題して、お話をしていただいた時だ。至上の時間を授かった。この時を契機に手紙のやりとりが始まり、ご著作や各地での講演の記録など、かけがえのない資料を送っていただいた。そして幾度もの出会いの時を授かった。
生涯一図書館員としての日々の営みから紡ぎだされるみずみずしい思索の言葉、ユーモアにみちたお手紙、そして出会いのひと時ひと時から、この13年間なんと心はずむ時を授かってきたことだろう。うかつ極まりないことだけれど、このような時がまだしばらくは続くものと思い、それが断ち切られる時があろうなど思ってもみないことだった。とりわけ昨年10月にいただいたお手紙と、今となっては最期の書きあげたばかりのご労作については、それに対する私の返信を待っておられたと思われ、私のあまりに遅くなってしまった返書の手紙はご生前には届けることができなかったこともあり、この数カ月、私の中で竹内さんとのやりとりが続いていて、今このときまだ言葉にならない思いの中にいる。まずは竹内さんとの出会いをどのようにして授かることができたのか、その出会いをたどることから。
竹内悊さんのお名前を初めて聞いたのはたしか1987、8年の頃のこと。佐賀市内で子どもの本の書店”こすもす”をされていた今はなき原田明夫さんからだった。当時福岡市に住んで、博多駅前4丁目にあった財団法人の小さな図書室で働いていた私は年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなると思い、(人口100万をこえる市に図書館が1館しかなかった。各区の市民センターにあった図書室は公民館図書室で分館ではなかった。)家が近くで生協の利用を通して知りあった梅田順子さんたちと”福岡の図書館を考える会”を始め、各地の図書館づくりを考える集会に出かけていた。
そんな集いでよくお会いしたのが原田さんだった。佐賀市立図書館が墨田区の八広図書館で、”本のある広場”としての図書館を実践していた千葉治さんを図書館長として迎えて開館したのは1998(平成8)年8月で、県庁所在地の佐賀市に市立図書館が開館するのはまだ10年も先のことだった。各地の集会で多くの市民や図書館員に出会ってきたが、本屋さんをしている人には初めて出会った。いつも穏やかな笑顔で佐賀市の内外の図書館をめぐる話をしてくださった。そんなある時、原田さんの口から竹内悊さんのお名前がとびだした。何と語られたか、正確には覚えていない。ただ竹内さんの講演をきいて、そのお話のすごさ、竹内さんの、人としての深い魅力が、原田さんにどんなに深い印象を刻んだかが伝わってきた。原田さんから後日、講演のレジメの写しを送っていただいたのではなかったか。私の中に竹内さんの名前が刻まれた。
図書館問題研究会での出会い
月に1、2度出かけている伊万里市民図書館で先日、ある冊子を見て驚いた。
『住民の権利としての図書館を 図書館問題研究会年表1945ー2015・資料集1954―2013』(図書館問題研究会発行、発売:教育資料研究会)だ。原田さんに最初に会ったと思われる頃、私は図書館問題研究会(通称、図問研ともんけん)の福岡支部の事務局を引き受けていて、月1回の定例会を記念会館で開いていた。(支部長は福岡県立図書館にいた白根一夫さん)その集まりに原田さんも来られたことがあったのではないか。前記の資料集によれば、私は図問研の各支部から1名選出する全国委員だった白根さん(1986年)の後をひきついで1987年に全国委員に1年間だけなっていて、年1回東京で開かれる全国委員会に出席していた。その時の図問研の委員長が千葉治さん(1936ー2020)で、1982年から図問研の委員長をされていた千葉さんに初めてお会いし、墨田区立八広図書館を訪ねた。千葉さんが図書館長として、”本のある広場”としての図書館(本との出会い人との出会い)を実践している現場を初めて体感することができた。使いこなれた卓球台のあるスペースに目をみはり、 区民の様々な集会、活動の場になっている、その多彩な内容に驚かされた。図書館の居心地のよい空気感、旅行に役立つための各地のパンフレットの利用者による持ち寄り、”図書館の利用者の新聞『びっと』”・・・初めて目にする図書館がそこにあった。地域の在りように応じて、様ざな場があり得る,以後千葉さんは、図書館のありかた方について、図書館員として大切なことについて、その身振り、態度で示されて、私自身の図書館での歩みに先導し並走してくださった。苅田でも能登川でも、”本のある広場”としての図書館が目指すべき図書館として自然なものとしてあった。穏やかさと厳しさと懐かしさ,人と図書館への深い愛と思いを手渡された千葉さんからは、またなんとかけがえのない一人ひとりとの出会いを授かったことだろう。そういえば千葉さんに出会う前に、千葉さんのことを私に紹介してくれた人がいた。その頃、ある日突然記念会館図書室を訪ねてきた写真家の漆原宏さんだ。以後、苅田町や能登川町、東京や各地で、図書館とは何か、各地でどんな生き生きとした活動が行われているか、そこにどんな図書館員や図書館を考え行動する市民がいるかを伝えてくださった。福岡の図書館を考える会を始めるきっかけとなった「仙台にもっと図書館をつくる会」代表の扇元久栄さんを紹介してくれたのも漆原さんだった。漆原さんの熱い口吻にふれて茨城県の水海道市立図書館に谷貝忍さんを訪ねたのはいつのことだったろう。図書館員よりも図書館をよく知り、深く考え、図書館とはどういうものかを伝える漆原さんの『地域に育つ暮らしの中の図書館 漆原 宏写真』(解説/森崎震二 ほるぷ出版 第1刷 1983.12 第2刷 1988.3)の一枚一枚の写真と
本文の言葉から、折々に手渡されてきたものをあらためて思う。漆原さんの写真集は、いつも身近にあって図書館について考える時私の図書館での仕事に並走してくれた。
東京での全国委員の会で出会ったかどうか記憶は定かではないのだが、その年に原田さんも図問研の全国委員だった。
原田さんは1986年から1996年まで11年間も全国委員をされていて、後に伊万里市民図書館の館長となる犬塚まゆみさんや(1997)や古瀬義孝さん(1998ー)に佐賀の全国委員のバトンを手渡されている。私も一員だった1987年の全国委員には大分の渡部幹雄さんや、以後幾度となく深い元気と力をいただくことになった山口県周東町の山本哲生さんがおられた。図問研の活動を通して福岡県内や九州だけではなく各地の図書館員や図書館づくりに関わる人たちに出会いの時を授かっていたことをあらためて思う。
竹内悊さんに一歩近づけてくれたのは
仙台の図問研の仲間だった。
仙台市図書館の平形ひろみさんに初めて出会ったのは、私が東京に1回きり出席した全国委員会の前後だったか、そのとき平形さんは全国委員ではなかったが、東京に来ていて会員の集まりで出会ったように思う。その後、平形さんとは数回しか会っていなかったが、10数年後、何かの折に滋賀に来られた時に1冊の冊子を手渡された。
『これからの図書館員のみなさんへー現場の役には立たない話ー』(竹内悊 図書館問題研究会宮城支部 2001.7 初版、2005.6 第2刷)だ。図問研宮城支部が主宰する「かばねやみ講座」での竹内さんの講演録だ。この人の話を聞きたいという人を招いて講演会を開き、その講演の記録を冊子として出版する。講演会に参加できなかった人もその冊子を手にすることで、講演の様子の一端を知ることができる。支部の活動はみんな手弁当の活動だ。その冊子を手にできた読者の一人としてほんとうにありがたく思う。
私はこの冊子ではじめて竹内さんの考え方、考え、論旨のすすめ方に出会ったように思う。考えるとは、考えを深めていくとはどういうことかを体感させられた。その話のすすめ方のあらましを想像していただきたく、目次を紹介します。
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―— 目次 ―—
これからの図書館員のみなさんへ
―現場の役には立たない話―
0 はじめに
0.1 今日のテーマと私の限界
0.2 私も「これからの図書館員」のつもり
1 事務局からの手紙
1.1 利用者にどう接して行けばいよいか
1.2 複雑な世の中にどう対処するか
1.3 分からないこと、疑問に思っていること
2 図書館とは何か
2.1 情報をいくら集めても、ものごとが分かる訳ではない
2.2 読み取ることと、本が判るということ
2.3 図書館の利用者から図書館員への期待
2.4 図書館とは何か
3 図書館で働く自分
3.1 専門職としての不安定さ
3.2 図書館員として生きて行くための力
3.3 自分を支えるもの
4 利用者への信頼と期待
質問
あとがき
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「あとがき」には図書館問題研究会 宮城支部 支部長 平形ひろみさんの次のような言葉がある。
―もしも何かにゆきずまったなら、「まだ、やり直せる」「視点を変えて物事を見る」そんな勇気をここからもらってください。仕掛け人は黒田氏、テープ起こしは若手、陰の力事務局の面々、多くの人たちの思いで、なんとか2号が出せました。不慣れな事務局にお付き合いくださり、原稿を完全な形に仕上げてくださった竹内さん本当にありがとうございました。———
注釈を1つだけ加えたい。
タイトル「これからの図書館員のみなさんへ」についで「―現場の役には立たない話―」となっているが、これについての注釈なしでは、間違って受け取られると思われるため。
この講演は2000年3月3日(金)、竹内さん(1927年東京生)が73歳の時に行われている。講演のはじめの竹内さんのお話。
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「私が図書館の仕事を始めたのは,1954(昭和29)年でした。前年の秋に学校図書館法が成立し,54年4月から施行されました。そこで学校図書館をやってみないか,と言われたのが最初でした。今から46年半前のことです。それから15年現場をあちこちしてから教職につきましたが、何と現場を離れて31年です。これはもう現場のことは何も知らないのと同じですね。そこでみなさんに「この話は現場の生活から見て,理解できるな」と思っていただくような話ができないのです。
そこで現場に関する話はできない,従ってしない,と考えておりました。
それではなぜ今日も出てきたかと申しますと,現場の感覚を持たなくても,求められたら,考えていることは話すべきだと思うようになったからです。それは、1950年に図書館法が成立しました。その過程で図書館無料の原則が出ました。
(略)その無料の原則ですが,それが案として出てきたときには,当時の図書館員はみんな反対だったのです。戦後すぐの時代に大多数の図書館は有料で,入館料を取っていました。そのわずかなお金をかき集めて,役所の会計に持って行き「入館料がこれだけ入るのだから,それを基礎に予算をくれ」といっているのに,その入館料をゼロにしようというのです。それではただでさえ少ない予算がますます削られてしまう。とても賛成はできない,ということで「あれには反対したんだよ,非常に不安だったからね」と,加藤宗厚先生(1895-1981、国立[元・帝国〕図書館長,後,駒澤大学教授・図書館長)から伺いました。「しかし,あれは無料になってよかったのだ。今の公共図書館は無料だからこそここまで伸びたのだ。そして住民のものになった。有料が今日まで続いていたら,とてもここまでは来なかっただろう。あの時反対したのは間違いであった」というお話でした。
今考えると確かにそうなのですが、しかし当時の現場の感覚と条件からしたら,反対するのが当り前だったでしょう。この話は、現場とは違う見方が図書館にあるべきだ,ということを示唆していないでしょうか。これから先,図書館はいろいろな面で大きく変わっていくでしょうが,その時に「現場ではそうかもしれないが,別な考えもある,という意見がなくていいのだろうか。現場の論理はそのとおりだが,本質から考えると,こうあるべきではないか」という考えがあってもいい,と思うようになったのです。私にできるという訳ではありませんが,「現場の役に直接たたない話をしてもいいのだ」というのは,そういう意味なのです。
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竹内さんの講演では私の心深く刻まれたお話があった。竹内さんが15~16年前に本の中で見つけたアメリカの図書館のポスターの話。ポスターには右手で持った銃を頭に当てている男の前にたくさんの本が積まれている図が描かれています。図の下には英文で「もし貴方が自殺しようと思うのなら,おやめなさい。その代わりに図書館へおいでください」と書かれています。「図書館ではちゃんとご援助いたします。そして貴方の死にたいという問題を解決に導きます」「図書館にはガイドもあれば書誌あります。図書館員が貴方の調べ物のお手伝いを致します。だから死ぬのはおやめなさい」
論楽社を訪ねる
竹内さんの講演録を読んで程なくだったと思う。いつ、どこでだったか。喫茶店でだった。論楽社の虫賀宗博さんにそのポスターの話をしていた。論楽社は虫賀さんが京都市左京区岩倉で開かれている私塾だ。論楽社との出会いは、能登川町立図書館は1997年9月に開館しているが、開館1周年を記念する講演会に鶴見俊輔さんをお呼びできないかと思い立ち、記念講演を考え始めていたころ読んでいた鶴見さんのエッセーのなかに、鶴見さんの住まいの近くに住んでいる虫賀さんたちの論楽社の活動にふれた文章があり、1998年5月私はまず論楽社を訪ねたのだった。1981年から歩みを始めた論楽社では1987年8月から、「生きてある言葉を聞きたい。体の中に紡ぎたい。糸車を回すように、ゆっくりと」そう考えて、手づくり講座として「講座・言葉を紡ぐ」を始め(第1回は岡部伊都子さんの「『シカの白ちゃん』の世界」)で、以後、藤田省三、安江良介、島田等、徳永進さん他、多くの方たちが論楽社の志に共鳴され、手弁当で講座にかけつけている。講演のいくつもを論楽社ブックレットとして出版されていた。(第1号『私たちはどう生きるか?―何本もの国境線を体に保って、走れ』藤田省三、第2号『自画像の描けない日本』安江良介、第3号『三月を見る―死の中の生、生の中の死』徳永進、第4号『生活者の笑い、「生」のおおらかな肯定』松下竜一、第5号『自由を生みつづける』金在述(キムジェスル)、第6号詩集『次の冬』島田等、第7号『病みすてられた人々―長島愛生園・棄民収容所』論楽社編集部、ほか。
鶴見さんの講演は『ものさしについて』という演題のもと、虫賀さんたちのご助力もあり1998年の秋に実現したのだが、私は論楽社での活動の心の奥深くに届くような営みに驚かされ、以後折にふれては論楽社を訪ねるようになっていた。後年、中村哲さんのお話を聞く機会を2回にわたって与えられたのも論楽社でだった。
そうしたある日、仙台での竹内悊さんお話、特にアメリカの図書館のポスターについて虫賀さんに話していたのだが、それが虫賀さんの中に深く沈潜し発酵して、思いもよらぬ形で私に還ってきた。後日、「講座・言葉を紡ぐ」の第49回目となる場で図書館の話をしてほしいとの依頼があり、虫賀さんから示された演題は、「自殺したくなったら、図書館へ行こう いのちを育てる図書館づくり」だった。演題を耳にして私は思わず息をのんだ。とっさに心に浮かんだのは前年、2003年の6月に突然の訃報をきいたIさんのことだった。
講座に先立つ4月6日の京都新聞(夕刊)の「現代のことば」の欄に虫賀さんは「いのちを育てる図書館」と題して、その4か月後の『世界』8月号(岩波書店)に掲載される虫賀さんの文章の予告ともいえる文章を書いている。能登川図書館との出会いにふれ、1980年に東京都日野市から前川恒雄さんを滋賀県立図書館長として迎えてからの滋賀県の図書館づくりにふれて次のように続く。
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「愛知川、永源寺、湖東、八日市各図書館を私は一月、二月に回ってみた。それぞれ館長が味を出していて、よかった。野の香りがして、一人一人が生き生きと生息していける場所としての図書館づくりがなされている。いまの図書館法をつくった中井正一さん。戦前、週刊文化新聞『土曜日』を京都でつくって、戦時体制と戦ったひとである。その中井さんが亡くなる一年前にこう書く。「真理を求めようとしないで、それを所有していると称する者たちの間でのみ戦争は巻き起こされるのである」(一九五一年)。共有するからこそ、真理。図書館への小さな旅をしながら、あらためて、そう思った。」
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論楽社で講座があったのは2004年(平成16年)5月3日、集いの日、私はIさんのことから話を始めた。Iさんとは、1995年4月に人口2万3千人の滋賀県能登川町で図書館開設準備室が設置され、そこで仕事を初めて程なく出会っていた。能登川生まれ能登川育ちのIさんは当時40代半ばで、琵琶湖の畔にある地域をくまなく歩き、郷土への深い思いをもつ人で、私にとっては能登川という町、そして町の内外の人、あの人この人への導き手だった。写真家の今村光彦さんに紹介してくれたのもIさんだった。能登川町立図書館・博物館、埋蔵文化センターの開館記念として町の全戸に配布された『ふるさと百科 能登川てんこもり―能登川町総合文化情報センター記念出版―』(能登川町 平成9年11月 215頁 図書館開設準備室が事務局)は町民から15名の編集委員を公募し、「15名のスタッフが資料収集のため町内を駆けずり回り」、17名の編集協力者や各行政区の区長や役員の協力のもと1年間の活動により出版された、まさに”能登川てんこもり”の冊子であるが、その冊子の編集の要の役を担ったのがIさんだった。編集委員会でのIさんの熱い論議を彷彿させる、彼の思いの一端は冊子の冒頭の3人の座談会「能登川再発見」(町長、今森光彦、『ふるさと百科』編集委員長)での言葉に遺されている。この本をつくる目的は変化の激しい町の今とこれまでを記録することと、もう一つの目的、「それは自分たちの町を、違った目でも見てほしいということ、そこをどうしたらいいかなと思った時に、今森さんの写真に出会ったんです。」との言葉に。今森さんは一年かけて能登川を訪れ、その成果は図書館・博物館開館記念の今森光彦写真展で展示されたのだが、その時のIさんのコトバが忘れられない。「ここには自分が知らなかった能登川がある(写っている)。」冊子のカバーの表紙は地元、北川織物の北川陽子さんの縮(ちじみ)が今森さんによって写されている。本の装丁を今森光彦さんにと提案したのもIさんだった。対談でIさんから引きだされ語りだされた今森さんの「見るということ」をめぐってのコトバ。――
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「今までとはちがった目でものを見ることってすばらしいことだと思いますね。自分の町が美しいとか、自然がすばらしいとか言う人はたくさんいるんですけど、どうしてすばらしいかとか、なぜ美しいかと具体的に言える人って少ないと思うんですね。それが言えるようになると、ほんとに自分の郷土を愛してることになるんじゃないかと思うんですよ。そうするにはどうしたらいいかというと、やっぱり見ることだと思うんですね。能登川にはそれぞれ小さいところにいっぱい宝物があって、そういうのを拾うことができる町だと思っているんです。それをみんなにやってほしいって感じしますよね。ぼくは写真家としての仕事でいつも発見ということがあるわけですね。写真を撮るってことは見る行為なんですよ。写真って機会が撮るもんだから、パチパチ写しても勝手に撮れるんだろうと思ったら、まずそれはまちがいで、撮る人はファインダーで見たもの、確認しているものしか撮れないんですよ。見つめるという行為は、町のそれぞれが、町の中にあるたくさんの宝物をゆっくり見ていく、具体的に見ていく、そういう行為をしていただくと、新しい発見につながるんじゃないかなと、そう思っていますけど。
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3人の対談の頁の前の口絵に6頁にわたって今森さんの能登川の写真11点が掲載されている。
そのIさんの突然の自死。身近で大切な人の生死に何ら関りも持てず、まったく無力な自分、「自殺したくなったら、図書館に行こう」の言葉の前で、だれよりも黙する他ない自分であることを感じつつ、私はIさんに向かって語りだしていた。私は図書館開館以来、私が授かったかけがえのない出会いのことをIさんに向かって語っていたように思う。◇一人暮らしでガンの宣告を受けた六十台の女性のこと。ご自宅に月1回、本をみつくろって届けていた時にお聞きした言葉。「テレビをみていたら、ヨーロッパの修道院の図書室がうつっていて、ナレーターが図書館は魂をいやすところと言っていたが私もそう思います。」、◇書の絵本と出会い、「閉じていた心が開いた」という沖縄の方のこと。本の力、出会いの力のこと。
会の終りの質疑の時間に能登川町から参加された女性が発言された。その時「図書館は町の誇りです」「図書館は私たち家族の居場所」と言われたMさんは、論楽社の講座のチラシを3日前、能登川で手にされた由。5月1日、鎌倉の井上ひさしさんとアフガニスタンから帰ってきたばかり中村哲さんのお二人の対談を核にした宮澤賢治学会地方セミナーの会場となった能登川町中央公民館で、休憩時間には中村さんの本の販売も手伝っていた虫賀さんが講座のチラシも配られていたのだ。能登川から京都の岩倉まで、電車とバスを乗り継いで駆けつけられたMさんに驚いた。Mさんとは以後、在職時の交わりだけではなく、2007年3月に私が図書館を退職してからも音信があり、一人の住民にとって図書館が何であるかについて深い学びを手渡され続けた。
このブログを書き始めた時には思いもよらぬ知らせに、竹内さんから一体どのような時間を手渡されてきたか、そのことをすぐには考えることができず、まずはどのようにして竹内さんとの出会いの時を授かったかを思い返すことから始めたのだが、ここまで書いてきて、ここで書きだしているのは、ある時から始まった竹内さんとの手紙のやりとりの中で、いつかは竹内さんにお伝えして、竹内さんのお考えをお聞きしたいことにつらなることだと気がついた。「図書館はどんな場であるか」、「図書館は何をするところか」、「図書館とは何か」をめぐって私が立ち会った図書館の現場の遅ればせのご報告でもある。「自殺しようと思うなら、やめなさい。そのかわり図書館へおいでください」のポスターを見て「図書館は、人が生き延びていくための場所なんだ」と深く心にうけとめ、そのことをまっすぐ伝えてくださった竹内さんに向けて、私はいま、そしてこれからもお便りをしようとしているようだ。
『止揚』第94号への投稿(2005年7月31日)(「『自殺したくなったら、図書館へ行こう いのちを育てる図書館づくり』をめぐって」と題して)
町内、能登川町佐野にある(現在は東近江市佐野)「ゆっくり歩こうなあ」の障がい者支援施設、止揚学園から同園で、年3回発行している『止揚』に原稿を求められ、論楽社でのことを書いたのは、論楽社での集いの1年後のことだった。そしてその刊行の直後、虫賀さんの『世界』への寄稿が岩波書店から出版された。
竹内さんのポスターの話から― 虫賀さんの『世界』への投稿
虫賀さんの竹内悊さんからの受容(深い受とり)は、2004年5月4日の論楽社での集いの依頼で終わらなかった。「講座・言葉を紡ぐ」での図書館をめぐる話を終えて1年後の2005年7月、岩波書店の『世界』8月号に虫賀宗博さんの文章が掲載された。タイトルは「自殺したくなったら、図書館に行こう―いのちを育てる図書館員の群像」
虫賀さんの文章はやわらかで温かい、そして対象とするものをとらえる時の的確さ、いのちの鼓動がつたわる文章の力。虫賀さんの体の中から血肉となって紡ぎだされてくるコトバを読んで、日本の各地から能登川の図書館を訪ねてくる人が絶えなかった。また図書館に来ることはなくても、その文章を目にとめ、その感想をつづる人がいることが、折にふれて伝わってきた。その一端をお伝えするべく、「(1)はじめに」を
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「自殺・自死者が一九九八年以来六年間、毎年三 万人を越えている。二〇〇三年は三万四千人である。六年間で松本市や呉市といった人口二〇万人の町がひとつポッと消えてしまっていることになる。これは、まるで内戦である。戦闘行為のない内戦である。
ひとりひとりが自分自身を追いつめ、苦しみ、責め、自裁していく。未遂の人、自殺を考えているひとの数はどれくらいか。遺族のひともたくさんになるだろう。
まずは生存すること。なにはともあれ生きのびること。こんなあたりまえのことを確かめあうことが必要であると私に思えるのは、ごく親しくしている大学生の友人が「死はすぐ近くにある」と自然に語るからである。あるとき、もうひとりの大学生の友人がひどく悩んでいるとき、「いちど能登川の図書館へ行ってみたら・・・」と私は薦めてみた。そのひとはバイクで行ってみたようだ。琵琶湖ぞいに一時間バイクに乗れば、京都から行くことができる。何日か後に彼女と再会すると、「能登川図書館、よかったよ。あんな図書館、初めて」と生き生きとして言う。私はいつのころからか「自殺したくなったら、能登川図書館は行こう」と友人たちに言っている。」
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こうして、虫賀さんの文章は能登川図書館を訪ね、目と心に鮮やかに同館の活動を紹介し、1980年東京の日野市から前川恒雄さんを滋賀県立図書館長として迎えて始まった滋賀県の図書館づくりの核心を描出する。さらに図書館法(1950年)制定時の中井正一さん(当時国立国会図書館副館長)の「図書館法ついに通過せり」の文章にふれて、再びその冬に訪ねた滋賀県東近江地区の3つの図書館、永源寺町立、愛知川町立、八日市市立の図書館の、それぞれに独自で多彩な活動をくっきりと描きだす。
そして菅原峻さんを引いて「ほんものの図書館づくり」について述べて、市町村合併や図書費削減という大風に見舞われている現況の中で、支点となる”気づき”を指し示している。末尾の(おわりに)に竹内さんの名前が記されている。
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(おわりに)
「自殺したくなったら、図書館へ行こう」という言葉の由来は、一枚のアメリカの図書館のポスターにある。ピストルを自分の頭に突きつけている男。その周囲には本がたくさん積まれている。そんな絵の下に次のキャプションが入る。
If you feel like shooting yourself ,don't. Come to the libraryfor help in stead.
「もし自殺したいと思っているならば,やめなさい。そのかわりに図書館へいらっしゃい。」
このポスターを竹内悊さんが『これからの図書館員のみなさんへ』(図書館問題研究開宮城支部)で紹介。それを才津原さんが伝えてくれた。それを耳にした私の中で”化学変化”がおきて,「自殺したくなったら,図書館へ行こう」になった。
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虫賀さんと竹内さんがつながった。
広がる波動 毎日新聞記者 塩田敏夫さんの記事から
虫賀さんの声は新聞や出版物(雑誌や冊子)を通して、竹内悊さんのコトバとともに広がっていった。まずは毎日新聞の記者、塩田敏夫さん。
『世界』2005年8月号に虫賀さんの『自殺したくなったら、・・・』が掲載されて4か月後の2005年11月16日(水)の毎日新聞の朝刊の11面いっぱいに「人生流儀~ひとにドラマと歴史あり」―人生それぞれ聞き語り―の連載記事に「いのち育てる場に」の大きな活字、「住民自ら作っていく努力が何よりも必要」という見出しとともに、能登川町立図書館が紹介去れた。囲み記事「自殺したくなったら」には、次のように記されていた。
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「自殺したくなったら、図書館に行こう」。最近、このテーマで話をしてほしいと依頼されることが多くなった。 この言葉の由来はアメリカの公立図書館に掲示されていた一枚のポスターにある。ピストルを頭に突きつけている男 性の回りにはたくさんの本。そして、「ちょっと待って!自殺はやめて図書館へ」という言葉が刻まれていた。
このポスターの存在を知り、かねて胸に抱いていた思いが重なった。地域の住民一人一人の願いがかなうてがかりとなる本や資料を手渡す図書館。そこは生死にかかわる切実な問題を抱えた人たちにとってこそ大切な場ではないか。友人で京都市の出版社「論楽社」の共同代表、虫賀宗博さんにこの思いを伝えた。早速、虫賀さんは才津原さんを招
き、図書館への思いを語ってもらう講演会を開催した。さらに、能登川町立図書館をはじめ、湖国の多くの図書館を 訪ねたルポルタージュ「自殺したくなったら、図書館に行こう」を月刊誌「世界」(8月号)に発表した。
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「人生流儀~ひとにドラマと歴史あり」の連載の前々回は、随筆家の岡部伊都子さん、そして前回は、21世紀の未来社会論「森と海を結ぶ菜園家族」を提示されていた、当時滋賀県立大学人間文化学部教授の小貫雅男さんだった。お2人とも能登川の図書館で講演や写真展、モンゴルのツェルゲル村の人々のドキュメンタリー『四季・遊牧』上映などでかけがえのない時間をいただいた方だ。どうして図書館を対象にして、このような大きな紙面で塩田さんは記事にすることができたのだろうか。
塩田敏夫さんが大阪の毎日新聞社の社会部記者から、大津支局長として滋賀の地に赴任されたのは2003年4月のことだった。その直後の5月から「支局長の手紙」が始まり週1回、毎日新聞朝刊の滋賀版に掲載された。塩田さんが2006年4月1日から再び大阪本社に異動になるまでの3年間、私も「支局長からの手紙」の読者の一人として毎週、連載を楽しみにしていた。その記事からは、身近にありながら、それまで知ることがなかった滋賀の地のそこここで営まれている人々の営みや出来事が鮮やかに立ち現れてきて、私自身毎回深い感銘を憶えながらその記事を目にしてきた。塩田さんが滋賀を去って6か月後の2006年10月、「塩田敏夫講演会 能登川図書館との出会い」を開催しているが、講演会の「ちらし」の一節に次のように記していた。
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「奥深い近江の歴史と文化を支え、近江の今を生きる人の中にこのような人がいるのか、このような営みや出来事があるのか、「支局長からの手紙」は、読者の心に灯りをともし、人と人との新たなつながりを生み出し、深めるものでした。そ手紙からどれほど多くの新たな人と人との出会いや結びつきが生まれたことでしょう。このたびh、ペンではなく、塩田さんが湖国で見て感じ考えたこと、その出会いの一つ一つを語っていただく場に、ぜひお越しいただきますよう。」
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塩田さんが能登川の図書館に来られたのは、滋賀に赴任して2年目、2004年になってからだろうか。最初はコンサートや陶芸作品の展示などで能登川の図書館の活動にいつも深い応援をしてくださっていた八日市市の陶芸家中野亘さんと同行してだったと思う。以後、能登川図書館に来館されたのは数十回をこえている。「支局長の手紙」に能登川町立図書館などのことが掲載されたのが、2004年12回、2005年に11回、2年間で23回に及んでいる。平均して月に1回、今から思えばこれは尋常ならざる新聞紙面のあり方だったのではと思われる。このような新聞記者がいて、よくもその人に出会うことができたことだと思う。これも先の「ちらし」の中の言葉だが、「塩田さんは足の人です。まず現場にでかける。そして、現場に立つ。「現場の声なき声に耳を傾け、あるがままの事実ではなく事実に深く分けいること、調査報道こそが新聞記者の仕事の本質だ」と考え、現場での出会い、出来事の一つ一つに心をこめて「支局長の手紙」に書き続けました。」
そうして沖縄赴任時代からは、『戦争マラリア事件』(東方出版)が生まれ、滋賀ではとりわけ福祉の現場や琵琶湖を原点に環境問題に取り組む人たちとの出会い、そして図書館との出会いと発見があったのだと思われる。一人ひとりの人、そして出来事に出会う塩田さんのやわらかな心、みずみずしく鋭い感性、目の前の人の言葉にならぬ心の声に耳をすますことから生まれた記事は、単に出来事の報告、報道ではなく、その時々の生きた時間、生きている人が記録されている。
また塩田さんは紙面においてだけではなく、滋賀県の社会教委員の研修会や大学で学生たちに、図書館について語られてもいる。塩田さんは滋賀から大阪本社に赴任しある期間、現場を離れた時期を経て、自ら志願して京丹後市や敦賀で再び現場に立って新聞記者としての活動を続けておられる。塩田さんの3年間の「支局長の手紙」のうち、後半の2年間の能登川町立図書館に関わる記事、そのタイトルは次のようなものだった。
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〔2004年・平成16年〕
①3/7「もじと絵」書家、乾千恵さんの文字、イラストレーター、黒田征太郎さんの絵と言葉による共演。
②4/5「今、思うこと」随筆家、岡部伊都子さんの講演。「もじと絵展」開催中。
③4/26「賢治が語ってくれるもの」篠山市の銅版画家、加藤昌男さんの講演。2002年5月から自宅を開放し「宮澤賢治の童話を語る会」。ライフワーク「賢治曼荼羅・蔵書票」。加藤さんの銅版画展と仙台の写真家、佐々木隆二さんの写真展 「風の又三郎」、及びペシャワール会のパネル展「医者井戸を掘る」(中村哲さんの活動)の3つの展示、5月2日まで。
④5/6「岡部伊都子さんを語る」女性問題心理カウンセラー、朴才暎(パク・チェヨン)さんと古書店主、上野朱さんの対談。岡部伊都子さんが42前に撮った写真の写真展(4/13~5/15)開催中。論楽社、虫賀宗博さんが司会。「上野さんは、小さい時から岡部さんを”おかん”と呼んできました。父の故英信さんが福岡県の筑豊炭鉱にあった自宅を「筑豊文庫」として開放したところ、岡部さんはよく衣類などの救援物資を持って訪ねてきてくれたからです。」
⑤5/10「辺境から見る」医師、中村哲さんと作家、井上ひさしさんの対談(宮澤賢治学会・地方セミナー)
⑥5/22「続岡部伊都子さんを語る」、④の続編。在日コリアンで随筆家である、朴才暎(パク・チェヨン)の話の紹介。
⑦6/20「よろこびの虹」歴史家、元韓国外国語大学教授、朴菖煕(パク・チャンヒ)さん岡部伊都子さんとの出会い。『許浚』(ホジュン)(桐原出版)翻訳。大津市人権センターでの講演。朴さんご夫妻に初めてお会いしたのは、岡部伊都子さんゆかりの絵画や書が出展された京都市寺町にあるギャラリー”ヒルゲート”に能登川から出かけた際に、閉店まじかの会場でだった。その時ご案内した能登川での森崎和江の講演会にご夫妻で来てくださっただけでなく、以後思いもよらない出会いが続くことになった。岡部さんの『シカの白ちゃん』の韓国語訳をされていることを後に知る。
⑧7/4「54年ぶりの再会」朴菖煕(パク・チャンヒ)と朝鮮動乱で行方不明になっていた兄との54年ぶりの再会.石部町の知的障害者施設「あざみ寮」寮長、石原繁野さんと石原さんの自宅で45年ぶりの再会のこと。
⑨9/12「湖辺をめぐって」写真家、今森光彦さんの新しい写真集「湖辺」(みずべ)をめぐっての講演。今森さんには、1997年11月に開館して以来、9年間に8回の講演。ほぼ、毎年1回の講演。
⑩10/18「イーハトーブ賞」、10/10京都市ノートルダム女子大での中村哲さんの講演「アフガニスタンからの報告 平和の運河を拓く」の会場でのこと。中村さんが岩手県花巻市の「イーハトーブ賞」受賞の経緯。能登川町の主婦、三村あぐりさんの一言から。「能登川で宮澤賢治学会の地方セミナーを開けないでしょうか」
⑪11/22「いのちを写す」写真家、本橋成一さんの講演。(町立図書館開館7周年記念)
⑫11/29「心の危機・心の再生」柳田邦男さんの講演。
〔2005年・平成17年〕
⑬2/5「アレクセイと泉」彦根・自主上映会と本橋さんの講演(5/22)。彦根・西覚寺
プレイベント①才津原(2/27)②論楽社、虫賀さんの話(3/27)
⑭2/20「紙芝居」埼玉・中平順子さん。(紙芝居講座)
・4/14”岡部伊都子さんの写真展「古都ひとり」”開催の記事(4/13~5/15)、 (見出し)「40年以上前の京都、奈良、大津の風情」―四十数年ぶりの個展・来月15日まで町立図書館「伝わる命をいとおしむ心」・・・乾千恵さん、落合恵子さん他、ゆかりの方からのメッセ―ジも展示。
⑮5/1 「岡部伊都子写真展」1963年刊の「古都ひとり」がこのほど藤原書店から復刊。初版刊行時に岡部さんが撮った写真。当時その写真を激賞した土門拳氏の色紙も展示。
⑯5/30「アレクセイと泉・彦根」写真家、本橋成一さんのドキュメンタリー映画上映会。彦根・西覚寺、高原美津子さん、170人の参加。
⑰7/10「図書館の旗を」近江八幡市で京都新聞主催の講演会、「いのち響きあう~本・もののある広場を目指して(才津原)。他紙の新聞社主催の講演会を毎日新聞記者の塩田さんが取材して。
⑱8/29「ぬちどぅたから」(命こそが宝という沖縄の言葉)中平順子さん講演と紙芝居「天人のはごろも」。会場は甲賀市の県立水口文化芸術会館、丸木位里さんの妹の「大道あや展」開催中。
⑲9/5「あざみ寮の暮らしと・・・・」(「あざみ寮の暮らしとトヨさんのこと」
荻野トヨさんと前施設長、石原繁野さんの語り。荻野さんの糸絵展「針仕事の豊かな時間」開催中。
⑳9/19「図書館の旗を Ⅱ」合併直前の近江町立図書館長の小北晶男さん(東京三鷹市立図書館から)を訪ねて。前滋賀県立図書館長、澤田正春さんから言葉をかけられて。
㉑10/3「わたしの庭」写真家、今森光彦さんの恒例の講演。
㉒10/23「ベトナムの刺繍」さいたま市の中平順子さんの「アジアの文化を守り育てる会」主催ベトナム刺繍コンテスト展(「ベトナムのストリートチルドレンに夢を」)、永源寺町立図書館で。
㉓10/31「あざみ寮・もみじ寮」湖南市石部が丘、知的障害者施設あざみ寮創立50周年、もみじ寮創立35周年を記念する会。河野咲子さんのあいさつ。11/1,同寮で韓国の無形文化財「鳳山仮面劇」(劇団デゥルナム)上演、同劇団顧問の朴菖煕(パク・チャンヒ)さんも参加。
㉔11/7 「心を育てる絵本」絵本作家、長野ヒデ子さんの講演
〔2006年・平成18年〕
㉕3/27「夢ぎっしり」塩田さん、異動で4月から大阪本社総合事業部企画開発部へ。
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「徹底して現場に立って事実に迫る。いい紙面を作りたい一心で走り続けましたが、力不足でした。ただ、25年間の記者人生の中で最も充実した時間を過ごすことができたと思っています。敬愛する障害の友を得ることができ、ライフワークを見つけることができました。とりわけ印象に残っているのは図書館活動です。自殺者が年間3万人を超える中、こんな言葉が東近江能登川図書館から生まれました。「自殺したくなったら、図書館に行こう」。図書館は単に本を貸し出す場所ではない。命といのちが響きあう場であり、生死にかかわる問題を抱える人にこそ向かいあうべきではないか。才津原哲弘館長の言葉を忘れることができません。図書館が生きる力を育て、文化の基底を作る。その志に心打たれました。優れた福祉の現場に足を運ぶことができました。「この子らを世の光に」。このことあを残した糸が一雄さんをはじめ、田村一二さんらの精神を受け継ぐ人たちの地道な実践がありました。湖南市の知的障害者施設「あざみ・もみじ寮」もその一つで、「あざみ織」など生活から生まれる美にふれることができ、集う人々の内面からわき出る優しさに包まれました。さらには、琵琶湖を原点に環境問題に懸命に取り組んでいる人たちとつながることができました。人と人とのつながりを深め、これからの日々の出来事を血肉化していきたいと思います。そして再び、一記者としてペンを取りたいと思います。近江の桜の開花はこれからですが、芭蕉の句が口をついてきます。
行く春を近江の人と惜しみける---ー
ありがとうございました。
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塩田さんの一つ一つの記事から、「図書館がどんな場」であるか、「図書館は何をするところか」が立ち現れてくる。18,9年前の図書館の場での生きた時間が蘇ってくる。新聞紙面の読者はもとより、各社の新聞記者や雑誌編集者の人たちからも反響の声があがってくる。
広がりつながる声 書籍(本)や雑誌、新聞に
時系列で追ってみる。(「自殺したくなったら、・・・」にふれているもの)
・2006年1月『新版 図書館の発見』前川恒雄・石井敦 日本放送出版協会、第1刷。
「第7章 2 今こそ本を (2)気持ちが安らぎ、役に立つ図書館」に虫賀さんの『世界』と柳田邦男さんの『砂漠でみつけた一冊の絵本』から引用。(212~213頁)
・2006.6.6 毎日新聞「余禄」
・2006.8 『同朋』9月号(真宗大谷派総務所出版部編・発行)「昨日今日明日 ――自殺したくなったら、能登川図書館へ行こう」虫賀宗博(22~23頁)
・2006.11.22 毎日新聞「発信箱 ―「いのち響く図書館」本村有希子(科学環境部)
・2007.2.26 読売新聞 「本と出会い「命」考えて」(小宮宏祐)
・2007.4 『同朋』4月号、「図書館は生きる力を与える場所」(聞き手・編集部)
(「本が手を振ってあいさつしてる!」「自分にとって居心地のいい空間」「利用者が図書館を育てる」「人々が行きかう出会いの場」)
・2007.3.31 【東近江市立能登川図書館 退職 1995.4.1~2007.3.31 12年間、開館1997.11.8】
・2007.4.10 読売新聞 「緩和急題 人生リセット図書館で 自殺したくなったら」(大阪本社配信部 吉田 満穂)
・2007.10.1 『PHP』10月号 (PHP研究所)81~88頁、「ヒューマン・ドキュメント 命やすらぐ 図書館づくり」内海準二・文、猪口公一・写真、(才「図書館は、ほっとできる隠れ場」『偶然が一生の仕事に」「さまざまな出会いをつくりたい」)
・2009.5 『図書館雑誌』5月号(二本図書館協会)「特集☆今、図書館ができること―地域の課題と向き合う」に、投稿。(才)『限りあるいのちに向きあう図書館を―「自殺したくなったら、図書館へ行こう」をめぐって―』
そうして
2009年9月12日、朝日新聞の夕刊に
「ニッポン 人・脈・記 3万人の命に9⃣ ふうっと息抜き 図書館で」(東京版)が掲載された。自殺者が1年間で3万人をこえる中、朝日新聞では、「ニッポン人・脈・記 3万人の命に」という連載記事を掲載して、各地での取り組みを紹介しながら、読者とともにこの問題を考える読み応えのある紙面をつくっていた。その9回目で、図書館を切り口に記事が書かれたのだ。竹内さんが紹介したアメリカの図書館の「あのポスターの絵」(かばねやみブックレットから)とともに、竹内悊さん、虫賀宗博さん、才津原の3人の写真も同時に掲載され、記者の伊藤智章さんからみた3人のつながりの経緯が書かれていた。まだお会いしてはいない竹内さんと紙面上での出会いであった。記者はそれぞれの住まいの地、つくば市、京都市、そして福岡県二丈町(2010年に合併して糸島市となる。)を訪ねて取材の上記事に。記事の内容は同じだが、見出しは「版」によって違っていた。「東京版」では「ふうっと息抜き 図書館で」だったが、「福岡版」では「まずは図書館へ行こう」、あと2か所では、「人生の息抜き 図書館で」、「悩んだら図書館においで」となっていた。
あとで知ることになるが、竹内さんが手にされたのは「東京版」だった。
こうしてほんとうに竹内さんにお会いするきっかけを授かったのだった。実際に竹内さんにお会いしてからのことは、もう少し時間を経て、稿をあらためて考えたいと思う。
(11月の末から書き始めたブログ、年が明け2月21日にようやく書き終えた。)
2021年9月30日木曜日
9月の終りに 由布院ふたたび No.80
前々回のブログNo.78で、大分県由布院で発行された小さな冊子”ゆふいんブックレットvol.①”の紹介をした。
由布院のまちづくりの活動の要の働きをした中谷健太郎、溝口薫平のお二人の座談の場での語りの面白さにひきこまれ、そのまちづくりの手法、その考え方に思わず耳をすませた。続編が楽しみだ。
手元にあった『新版たすきがけの湯布院』(中谷健太郎 ふきのとう書房 2006)を再読。
15年前に出版されたものだが、2021年の今、各地で自分の住む地域を、住みやすく住み続けたい地と
すべく考え、活動している人たちにとって、「世界中の人が住みたくなる町を目指して、”たすきが
け”の疾走」を続けたその軌跡から学ぶこと、活動のヒントとなることが少なくないと思われる。
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『たすきがけの湯布院』(アドバンス大分』は、『月刊アドバンス大分』誌上で、昭和53年(1978年)
9月号から54年(1979年)12月号まで、13回にわたって連載されたものを、58年(1983年)に刊行され、
その後、永らく絶版となっていた。この書を「読みたい」という読者が多数いたため、その後の状況
を踏まえ、大幅な加筆修正を行って「新版」として2006年5月に刊行された。
同書のさいごに、”「新版」を出すに当って・・・・・”という作者、中谷健太郎さんの2006年5月に
記された文章がある。
「あッ、という間に歴史のページが手繰られて、去年(ニ00五年)の十月一日、「たすきがけの
湯布院」の「湯布院町」が自治権を失った。「町」の事を、自分で決める権限が、なくなったのだ。
「意見」があれば〈代議者〉を通して申し出よ」、禁治産者である。
私は怒っている。あんまり怒ったので、前よりも元気になった。元気になると、「何とかしようぜ」と
思い始める。すると疑問も湧いてくる。「どうしてこんな事になってしまったのか?」判らない。
一体、湯布院町って何者であったのか?
湯布院町がうまれたのは五十年前(1955・昭和30年)、「昭和の合併」の渦に乗って、隣村の湯平を抱
き取った、その時からだ。(由布院町・湯平町)その五十年のうちのほぼ四十年を、私は「湯布院町」
で生きた。東京から二十八歳で帰郷し、今年七十ニ歳である。そんな「ずぶずぶの湯布院人」にも、どうして町をこうなったのか、理由が判らない。ついこの間のことであるのに・・・・。
四十数年のうちの二十数年を、町と併走しながら書き留めた文章である。怒りに満ちて、ではなくて、
希望に満ちて……『たすきがけの湯布院』(一九八三年刊)。それを紐解いてみて感動した。
「われらの湯布院・青春挽歌」あるいは「歴史の火種を突っ走れ」「笑って砕けろ、由布院街道」。
みんな元気で、笑って走った。仲良く怒って、旅をした。汗だくで、泣きながら、懸命に駆け抜けた
町づくり二十年。そうだ、ココから始めれば、自立を取り戻せる。
湯平町と合併する以前の、目に見える「湯布院盆地」に、すっくと二本の足で立とう。「湯布院町創成
全期」に盆地お中を奔流した「独立自尊」の町民エネルギーを、もう一度、目をかっぴらいて見つめて
ほしい」
作者本人を23年ぶりの自著の再読で感動させたものは何か。『新版たすきがけの由布院』で確かめていただきたい。
【この項、つづく】
2021年8月31日火曜日
東北、仙台からの風 No.79
前回のブログでは、九州由布院と東北仙台から届いた冊子や本のことを紹介するつもりであったが、
仙台から届いた本については今回、号をあらためてお伝えすることに。
文庫本より高さが1センチほど低い、手のひらにおさまる2冊の小さな絵本は薄桃色の張りのある紙のケースに入っていた。ーーーーーーーーーーー
1.『おいぬいし』再話・絵と文 あおのこるり ーーーーー
これは永沢正一郎さんという人の家で代々つたえられてきた、5代前の庄之助さんとおおかみとのお話。著者が正一郎さんと、母親のみえさんから伺った話や、参考資料を基にしてできるだけ忠実に再話、創作したもの。「あとがき」によると「庄之助さんの家族は、困ったことや、不幸なことがあるたびに、何度も、おおかみにいのししを運んでもらい助けてもらった。」『最後の二ホンオオカミ』(那須正幹の動物ものがたり7,くもん出版 2003)の著者、那須氏によると、「二ホンオオカミは、古代から大口の真神とたたえられ、田畑を荒らすイノシシ、シカを退治してくれる農耕神として、人間からあがめられてきました。オオカミの名は、大神からきている」とあるように、おおかみは神聖化されていて、おいぬさま(おおかみさま)とも呼ばれていました。」ーーー
「庄助さんの家族は、おおかみをおまつりするために、石碑を立てました。石碑には、三峰山ときざまれました。三峰神社(埼玉県)は、おおかみをまつる神社でした。それを、「狼石」(おいぬいし)と、呼ぶようになりました。今でも永沢家では、五月一日、田植え時期になると、あずきご飯(うるち米)2とお神酒とお煮しめをおそなえして、おおかみに感謝し、豊作をお祈りしているそうです。」ーーーーー
「怖いばかりのイメージが強い二ホンオオカミが、かつて人間とこのような魂の触れ合いを持っていたということに驚き、また、すでに種が途絶えてしまったという事実に、とても痛ましいという気持ちがわいて来ます。北米、ロシアや中国にわずかに生き残っているおおかみを絶滅させないための教訓をこの物語は示してくれているような気がします。」ーーーーー
「おいぬいし」のお話は、背中にまきをいっぱい背負った馬と庄之助さんが、背中のまきの重みで、転びそうになりながら、中山峠を一緒に息を合わせて一歩一歩のぼっていく場面からはじまっている。足を踏ん張り顔が真っ赤になって馬を引っ張る庄之助さんの体じゅうから汗が吹き出している。「馬の体からも汗と湯気が、鼻息と共に立ちのぼっています。」、臨場感あふれる絵にひきこまれる。長く語り伝えられてきた話に静かに耳かたむけると共に、その地の人々の暮らしや仕事(まき売り)、そして馬の働きに目をこらす著者の姿がしのばれる。東北の地でこのように過ごしてこられたのだと。お盆前のうだるような暑さが一転、盆過ぎからは福岡県だけでなく各地で大雨の被害が続出する日が続いた。そんな最中にあって彼の地の友のたゆみない歩みから愉しくて深い元気を手渡されていたのだった。ーーーーーー
ーーーーー「あとがき」についで、11冊の「参考資料」が記されていたーーーーー
①「幻の二ホンオオカミ」柳内賢治・さきたま出版会・1993 ーーー②「狼さま」戸口健・幹書房・2003ーーー③「最後の二ホンオオカミ」那須正幹・くもん出版・2003ーーー④「帰ってきたオオカミ」リック・バス・南昭夫(訳)・晶文社・1997―――⑤「ブラザー・ウルフ」ジム・ブランデンバーググ(写真・文)・椎名誠(序文)・今泉忠明(訳)・1995ーーー⑥「白いオオカミ」ジム・ブランデンバーグ・中村健・大沢郁枝(訳)・
JICC出版・1992ーーー⑦「浮世絵に描かれた人・馬・旅風俗―東海道と木曾街道―」神奈川新聞社・2001ーーー⑧「いずみのふるさと」総集編・
新しい杜の都づくり泉区協議会・ソノベ・2002ーーー⑨「ぶらっと根白石」根白石探検隊編集委員会・仙台市根白石市民センター・1999ーーーーー
⑩「せんだいむかしばなし」せんだいむかしばなし編集委員会・宝文堂・1989ーーー⑪「よみがえるオオカミ」飯館村山津見神社復元天井絵展・福島県立美術館・2016ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2.『かわらのひみつ』ぶん・え あおのこるり
むかし、ならのみやこにすんでいた、かわらしょくにん、から吉という男のはなし。
から吉は、耳が聞こえず、うまくしゃべることができない。いつも、ものをじっくり見てから、ねんどをこねて、みごとな形のかわらを作った。いっしょにはたらくのは、かわらでできた二人のかわらしょくにん。から吉は、焼いたかわらを屋根の上にのせておく。そこを通る人が、好きなかわらを注文する。もも、りんご、なす、しし、うさぎ、きつね、ねこなどが、屋根の上ににぎやかにならんでいた。ある日のこと、おつきさんが、ぽっかりでて、にっこり笑うころ、から吉がそろそろねようと、ふあーっとあくびをしたとき、てんじょうのあなから、もものかわらがおちてきた。から吉がふーっと、いきを吹きかけると、もものかわらは、てんじょうをさしてぴょんぴょんはねだした。から吉は、祖音へ出て、同じようにかわらたちに、いきを吹きかける。
すると・・・。《どこから、このようなお話がまいおりるのか、つづきは見てのおたのしみ》
2021年8月30日月曜日
猛暑を突きぬけ、由布院と仙台から一陣のすがしい風が・・・8.14 No.78
8月のはじめ由布院から、そして仙台からうれしい冊子や本が届いた。猛暑続く日々の中、
由布院盆地の野や林にふく風が吹いてきてすがしい気分に包まれた。続いて東北の杜の都
のあたり、その地に長く語り伝えられてきた話に耳をかたむけ、その語りに新たないのち
の息吹きを吹きこんで生まれた2冊の小さな本からは、長年の友がかの地で、その地の声に
耳をすましながら日々を営んできた様が伝わってきて、一陣の風が吹きぬける。ーーーーーーーーーーー
‘ゆふいんブックレット vol.① のタイトルは、
『ゆふいん大航海時代の幕開け ~旅をした仲間たち~』座談 溝口薫平×中谷健太郎+仲間たち
発行:日本旅館協会湯布院連絡会 協力:(一社)由布市まちづくり観光局
編集:由布院の百年・編集サロン ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(このブックレットは市販されていません。ご支援カンパ(千円以上)の返礼としてお分けしています。
ご希望の方は当サロンまで電話かメールで連絡お願いいたします。☎0977ー84-5465(090ー9595-5288)
yufuin100@gmail.com なお、教育活動など特別の目的のある場合はご相談ください。)ーーーーーーー
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溝口薫平さんと中谷健太郎さんの2回にわたる座談を掲載。司会は湯布院の百年・編集サロンのスタッフ。
同誌のお2人のプロフィールより抜粋。ーーーーーー
溝口薫平〔1933(昭和8)年、玖珂郡野上村(現・九重町)生まれ、日田市立博物館勤務を経て、1960年代
より湯布院の自然保護やまちづくりに携わり、1963年から玉の湯旅館の経営に参加。1982年(株)玉の湯
代表取締役に就任。2003年同会長となる。湯布院町商工会長や湯布院温泉観光協会会長等を歴任。
・・・中谷氏・志手氏とともに湯布院のまちおこし・まちづくりを展開。ーーーーーーーー
中谷健太郎氏〔1934(昭和9)年、速見郡北由布村(げん・由布市湯布院町)生まれ、1957年明治大学卒業
後、東宝撮影所に入社。1962年、父の他界を機に帰郷し旅館亀の井別荘を継ぐ。1980年、(株)亀の井
別荘代表取締役に就任。湯布院町商工会長や湯布院温泉協会会長を歴任。ゴルフ場建設計画に対する「由
布院の自然を守る会」の結成や、大分中部地震による観光客低迷に対する、ゆふいん音楽祭、湯布院映画祭、
牛喰い絶叫大会等の様々なイベントの企画等、由布院の文化と自然資源を育てるまちおこし・まちづくりを
溝口氏・志手氏とともに展開。・・・
本文111頁の”ゆふいんブックレット”の第1号、面白さに引き込まれ一気に読んでしまった。由布院のまち
づくりがどのようにして起こったか。その事の起こりはどのようなものだったか、活動の要にいたお二人の
座談。座談の場をつくり、お二人から活動のエキスを聞きだしそれを記録して、これからの由布院のまちづ
くりを担っていこうと考え行動している”仲間たち”=由布院の百年・編集サロンに集う人たちから、それぞ
れの地で地域の在りようを考えている人たちへの贈りものとも思える1冊。
タイトルの‘大航海時代は・・・‘の標題の由来は今から28年前に『西日本文化』の連載エッセイ覧「風車」
に「南蛮ポルトの旅」と題して中谷さんが寄稿した文章からうかがわれる。
「ポルトガルに旅をしてきた。四百五十年前に往来があり、わがブンゴ・ユフ村にもレヂデンシャ(伝道所)
があった。まもなくポルトガルはスペイン王の下に統括され、日本も禁教鎖国の時代に這入って交流が途絶
える。パードレ(修道士)たちに「その数二千人」と報告されたわがムラのキリシタンもばらばらに消滅し、
レヂデンシャの跡形もない(検討はついているけれど)。四百五十年昔の往来を今に蘇らせようという動き
は十年前からわがムラに始まっている。南蛮食文化祭りがそれだ。実行委員会は「南蛮」という文字にこだ
わって「大航海時代」と言い始めているが、私は南蛮の方が正しいと思っている。私たちの先祖は正しく「
南蛮」とよんだのだ。「大航海」などという曖昧な視点の言葉の方がよっぽど怪しい。・・・・・」
(『西日本文化』1993年2月6日発行より)
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2回の座談のうち第1回は、由布市観光アーカイブ第1回座談 「日観連とゆふいんの観光まちづくり」と題
して2019年12月26日(木)14時~16時に開かれている。
由布院観光の中核「日観連由布院連絡会」のこと
由布院の観光地づくりの活動のベースとなった「日観連由布院連絡会」は観光協会も旅館組合も商工会も
ほとんど動きがなかったころに始まっている。日観連(日本観光旅館連盟)は1950年、「旅館の施設及び
サービスの向上改善並びに交通機関・観光関係機関との連絡協調を図り、旅客接遇の向上改善」という目
的のもとに設立。その後2012年10月に「国際観光旅館連盟(国観連)と合併。新法人「一般社団法人日本
旅館協会」を設立している。
日観連は「後々の旅館組合や観光協会、商工会といった公から認められた団体とは半歩くらい離れて、
懇親団体のようなイメージがありましたよね。その後、JTBが力を入れて日観連の支部ができた。(大分県
支部)・・・私らは大分県支部で年に一回くらい会うだけじゃ話にならんぞということで、「由布院
連絡会」を勝手につくったんです。全国の日観連の中で由布院だけだと思います、連絡会をつくったの
は・・・」
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「日観連の大分支部にも無理があったので、その隙をついて由布院だけで連絡会をつくってしもうたんで
す。都合がわるくなると「連絡会でやりよるんじゃ」と言うと、支部は何も言えんわけ。・・・五十年
以上経ってもその雰囲気がちょっと残っているような気がするんなぁ」
「県の支部が連絡会の上にあるのかどうか曖昧じゃった。あれが良かったなぁ。連絡会は自分で仲間意識
を持つ以外にないわけです。公に認められている会であるような、ないような、とにかく仲良くする他は
ない。毎月二十日にわらわらと集まって、まず歌を歌う(笑)。昔からの親分衆と若者が盛り上がったの
は浪花節じゃったのを憶えています。【※薫平さんも健太郎さんも若者だった!】
中には早稲田大学とか東京のYWCAを出たインテリの若者もおったんじゃけど、「一言も言わせん」(笑)。
薫平さんに歌を歌わせた時は最高に盛り上がった。歌が盛り上がると、おじさんたちは「難しいことはもう
いい、一杯飲みに行こうや」と(笑)。今はずいぶん「マトモ」になっていますが、それでも前の駅長が
お神楽の面を被って、列車が入るたびに「じゃんじゃかと」舞っておったのは、由布院の伝統的なながれで
す。森駅長さん、ガンバってください(笑)。【座談会に参加していた、当時JR久大線由布院駅の駅長、
森五岳氏(2017年~2020年3月)への中谷さんのエール】
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「考え方を勉強すること」に力点を
(連絡会の会員は当初、16~17人くらい)
「会費を自分たちで出しちょって、公の補助がなかったので、誰からも文句を言われんかったし、誰を招待
しても勝手でした。総会資料のどこかに実働は観光協会や行政、旅館組合にやってもろうて、日観連は
誘客事業のための「考え方を勉強すること」に力点を置きました。
それで、ゲストを招んで話を聴くことと、研修旅行が事業の柱になったんです。いろんな人を招んだし、飲
んだし(笑)、いろんなところに旅をしました。奇数年が国外で,偶数年が国内じゃったかな・・・。」
でも、自由な風土とういうか、自由にいろいろなことができました。あとは政治にかかわらないということ
になっていて、落ちたら、また戻ってきていました。」
ー――ーーー【目をひき付けられたのは次のくだり・・・】ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「政治に関わらんかったというか、選挙に関わりませんでしたが、「主義・主張」はいっぱい出しておりま
した。日観連で話し込んで、旅館組合とか観光協会とかに拡げていくんです。米軍が演習を終えて、
町に降りて来るのにどう対処するか?別府はウエルカムだけど、由布院はどうするか?演習場の
イメージ は良くないから遠慮してほしい。それを日観連(由布院連絡会)が中核になって、観光協会の
理事を説得 しました。「観光協会の有志」ちゅうことで個人名で店の入口に英語のビラ(日本語と
あわせて)を 貼り 出す。(略)あなた方の国と同じように、私たちの国でも見知らぬ人が個人の
家に入ってくることはNOです。という主旨です。「入ってくるのであれば、軍隊を辞めて、アメリカ市
民になった時に、おしゃれな 服を着ていらしてください。歓迎します」。
「個人で貼り出すので、「うちの土地には入らないでください」ちゅう形になって、観光協会がどう動い
たとか、湯布院町がどう動いたとかにはなりません。その話を聞いて、福岡の領事がびっくりして訪ね
てきたけど、お茶だけ飲んで帰りましたわ(笑)」
「みんな革新的でしたねえ。組織やものの考え方を絶えず新たに提案していました。」
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注記:沖縄米海兵隊実弾演習の本土5カ所への移転
日出生台は1900年から九日本軍の演習場とされ、その後、拡張し続けて、現在は4,900ヘクタール。「癒し
の里」と呼ばれる温泉観光地由布院の北部、由布院駅から車で25分のところにある西日本最大自衛隊の
衛隊の郡司演習場。年間330日、(実弾演習は約230日)、ほぼ一年中、軍事訓練が行われてる。
1995年、沖縄で、米兵3名による小学生の少女に対する集団強姦事件が起きた。この事件により、長年の
沖縄県民の怒りは爆発、沖縄県議会、市町村議会は米軍への抗議決議を採択。事件に抗議する県民総決起
大会が開かれ、約8万5千人の沖縄県民が参加。日米両政府は、普天間基地の返還とともに、沖縄の県道
104号線を越えて行われていた155ミリりゅう弾砲の実弾砲撃演習を本土5カ所(北海道矢臼別、宮
城県王白寺原、山梨県北富士、静岡県東富士、そして、大分県日出生台)に移転する案を提示した。
大分県でも日出生台の地元、湯布院、玖珠、九重の3つの町の町長を代表とする反対運動が立ち上がり、
玖珠川原の反対集会では、1万6千人が受け入れ反対の声を上げた。特に由布院では戦後11年間も米軍が
数々の事件が(ママ・・を)起こした歴史がある。そのことを思い起こした町民が声を上げたのだ。しか
し、多くの民意を越えるかたちで、1997年から移転訓練が各地で実施されてきた。米軍は訓練の期間
中に住民の生活や観光の場に入り込んでくるということで、「軍隊としてではなく、一観光客としての来
訪を望みます」という意味の張り紙を行った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー(ビラの日本文)ーーーーーーーーーーーーー
在沖縄米軍海兵隊第三海兵師団の方々は立ち入らないで下さい
(期間1月16日~2月11日・・全演習期間)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここは個人の生活空間です。沖縄から実弾砲撃訓練に来ておられる海兵隊の方々は、立入りをご遠慮ください。
みなさまが、「日本国内を移動する権利」は日米地位協定によって
守られております。しかし町民の個人的な生活や営業の権利は、町
民の個人に属しております。そのことは自由の国アメリカ市民でも
あられるみなさんにはとくお判りのことと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
近郊から心と身体を癒すために、――ひっそりと人々が集まってこら
れる小さな補用の町・由布院を、どうかそっとしておいてください。
実弾砲撃訓練が廃止され、みなさまが市民として由布院を訪問され
るときには、心から歓迎します。その日が一日も早く来ることを祈念
しています。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由布院温泉観光協会員ーーーーーーーー
屋号
-----------------------------------------------------------------------
ーーーーー(このあと研修先での見聞が語られている)ーーーーーーーー
フランス、特に想い出に残ったハンガリー、チェコ、イタリア、何回も行ったスペイン。デンマーク、ドイツ、ベルギー。カナダーーーー
(由布院と同じスケールの散策観光地を丁寧に見るのが目的じゃった・・・何を見、どんな気づきが・・・)ーーーーー
ーーーー
「外の空間を公共のものとして、みんなが大事にして、その代わり、中は自由にするという
考えは、行ってみて気が付きました。」ーーー
〈ヨーロッパ研修の第一目標だったドイツ、バーデン・ヴァイラーという温泉場、人口三千人の村〉
「尋ねたら百年前にチェーホフがこの地で亡くっていた。立派なチェーホフの記念館があり、小さだけど
な町だけど、町の本屋にチェーホフの本があって、外国の人々も多勢いました。」「地域の人たちが自分
たちのまちを自慢していて、角々には表彰された人の記念の像が立っていて、こんなにまで住んでいる人
たちが自分のまちを誇りに思っていることはすごいと思いましたね。葡萄畑に行った時に豊かな農村だと
感じました。化学肥料を使っていないので、畑の中に手がずずっと入るくらい、土地が肥えていました。
凄かったね。道に迷うと、自分の庭先を通らせてくれました。(略)おもてなしというより配慮があると
旅人はこんなにまで安らぐんだということを旅の中で経験しました。」ーーーーーーーーーーーーーーー
「初めに三人で行った時は9か国回った ので、国民性も違うし、いろいろなものが見られたという気がし
ます。」(ヨーロッパ三人旅につ いては 、『鮮烈な町造りの気迫――車を追放、安静守る』と
題して、中谷さんが西日本新聞に1978年12月 23日より、何回かにわたって書いたもの収録されている。
三人旅は1971年6月かr40日間の旅、 第2回座談で語られている。)ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー【活動のあり方、グループの動きーーーーーー
「日観連(由布院連絡会)は面白いグループだとは思っておったけど、改めて見直すと由布院観光六十年
の中核だったような気がしてきたなぁ。」「「牛喰い絶叫大会」なんかは、役場の会議室で「牛喰って
絶叫しましょう」と主張してもまとまりませんわなぁ。事業は観光協会や商工会、農協、畜産協会なんか
で広がっていくけど、少人数で企画を練り上げるシステムは弱くなっておるんじゃないかな。
それはすごく大事なことで、村内の寄合いでごちゃごちゃやってるうちに計画が出来上がっていって、町
にも広がってゆく、といった流れが弱まっておるんじゃなかろうか。ーーーーーーー
日観連とか、今日のこの会とかは「苗床」だと思うんです。苗を育てるための苗床は大仕掛けなくて、ま
あこれくらいでしょう。そこで苗を丁寧に育てて、圃場に抵触したら、シッカリと育ちますが、いきなり
田圃(たんぼ)に種を撒いてもなかなか育たない。そいうう手法として考えると、ここ(庄屋サロン)が
苗代で、駅にできたインフォメーションセンターが実験圃場、観・旅や商工、農協、集落といった社会組
織が田畑・山野ではあるまいか。今、日観連が元気を取り戻したので、由布院の社会活動に苗代ができた
んじゃないかなぁ。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「薫平さんは気に染まんことでもしっかり務めてきたけれど、俺は気の乗らんことはやらんかった。俺だ
けじゃったら、とっくに潰れておったでしょう。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「苗床と一緒で、企画者がきちんとしていないと育たんし、広がらないわけで、一般の人の思いつかない
ことを健太郎さんの天才的なひらめきが生み出してきたんです。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「天災的?(笑)忘れた頃にやってくる・・・。」「牛喰い絶叫大会もそうです。何かできないかなとい
うと、こちょこちょと話して、「それも面白いな。それならこうしようか」となって、やまびこのような
感じで、農家の人を巻き込んでいきます。健太郎さんは昔から恋文の代筆者で、いろいろな人たちの恋文
を書いていました。「野原で牛がこんなに育っています」と都会の人に伝えるのに、普通の人では表現で
きないことを実に見事に表現するので、都会の人は「それなら由布院にいてみようか。出資しよ
うか」となります。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「音楽祭も映画祭もいろいろ言いながら、町の人がバックアップしてくれましたなぁ。問題が起きるとそ
のつど、見方が現れて・・・。由布院を守っていこうとか、土地を売らずにおこうやとか、よう激しくや
りよったなあ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
司会「皆さんが日常的に集まる場というのが日観連(由布院連絡会)だったのでしょうか。」ーーーーー
「はい。そ れれから、だんだん「このゆびとまれ」方式の実行グループに代わっていくわけです。」
「日観連は組織としては小粒じゃったけれど、ゲストを呼ぶと、急に強烈な団体になる不思議な会じゃと
思います。」「明日、暇じゃから、ゲストを招んで、昼飯を一緒に食べようや」といやり方は日観連(由
布院連絡会)以外ではできない。農協や商工会ではできない。観・旅もなあ・・・。」ーーーーーーーー
「正体不明で仲間が集まっておるだけじゃったけど、責任は支部につながっておる。自由な匂いのする公
のグループの「造り方と活動の仕方」を、もう一度手探って、記録しておくとよいなぁ。役員会を開いて
決議せんと動けんというようにガチガチの組織では、それなりの運動しかできんと思う。人様を自由にお
迎えするっちゅう空気は、固まった社会システムの中からは出てこんと思う。」「(司会)たの地区だと
日観連は宿泊施設だけが集まっている会となっていますが、由布院は連絡会になっているので、いろいろ
な業種の方が集まれたんですね。」「日観連でもなんでもない人が、日観連の旅行に紛れ込んでいました。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お金がないのによく食べ歩き、泊まり歩きました。一流のものに身銭を切ったことは、補助金等を使っ
て視察に行くのとは全然違いました。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
由布院観光アーカイブ 第2回座談 2020年2月7日(金)14時~16時
由布院の町づくりのベースになったヨーロッパ三人旅
これは丸ごと読んでいただきたい。ここでは、リードの文章と、そこに出てくる本田勝六氏と志手康二氏に
ついて、同誌の記載のものより。そして短い抜き書きをいくつか。
(リードより)「由布院のまちづくりを語る上で欠かせないのが本多勝六博士の『由布院温泉発展策』。
(本多氏の講演から四十七年後の1971(昭和46)年、志手康二氏、溝口薫ことを語って平氏、中谷健太郎氏
は四十日間、 ヨーロッパに出かけます。この旅で見tこと、感じたこと、今の由布院に想うことを語って
いただきました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本多清六(ほんだ せいろく)1866~1952、現在の埼玉県久喜学校に通う市(旧菖蒲町)で生まれ、明治32年に日本で
最初の林学博士となった。造園家でもあり、「日本の講演の父}と呼ばれた。1901(明治34)年、日比谷公
園の設計を最初に、明治・対象・昭和と35年間上野丘公庫王3年生にわたって全国の講演の設計を手掛ける。明治神宮の森、東
京都水源林、大宮講演など。『由布院発展史』本多清六博士は1924(大正13)年10月11日、村の依頼で「由
布院温泉発展策」と題する講演を北由布村棉蔭尋常高等小学校で行った。その講演の前論は、ドイツ温泉地
など欧米における森林講演設備について語り、本論では由布院における具体的な提案になっていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
志手 康二(して こうじ)福岡県門司市(現北九州市門司区)に生れる。(父親が文字水上警察勤務だっ
た)その後、父の郷里由布院に帰り地元の学校に通う。1938年、母親「日の出旅館」を開業。1950上野丘高校3年生のとき結核
を発病。以後、自宅療養を続ける。1958年国立別府病院で肺の施術を受け、結核は治癒。家業の旅館の手伝い等をする。1961年
淑子さんと結婚。1966年(有り)ホテル夢想庵を設立し、代表取締役就任。「山の上ホテル夢想庵」を新築。1971年6月、溝口
薫平(当時は梅木)、中谷健太郎氏とヨーロッパ調査の旅に出る。1984年、肺手術の際の輸血が原因で肝臓がんを発症し、5月
24日死去。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【いざ、ヨーロッパへ――まちの歩き方・旅の仕方】
「1日5ドルの旅」という旅行本の翻訳がまだなかったので、『Europe on 5Dollars a Day』という
原書を東京で買いました。一冊まるごとだとかさばるから、行くところのページを毎日破って以て行きました。薫平さんんは何
も言わんけど、康ちゃんは「次はどこへ行くんかい」っちいうてセワシイ(笑)。「一緒に考えてくれたらいいのに」ちうても
「ワシは判らん」と威張っちおる。(笑)。気の置けん旅でした。薫平さんはどこでも寝られる人で。民泊はツインベッドじゃ
から、 私と康ちゃんがベッドに寝て、薫平さんは「こっちのほうが楽じゃ」ちゆて、床に寝てました(笑)。ーーーーーーー
「向こうに着いたら、ばらばらで行動しようや。前の人の頭を見て歩いてもおもしろないで。」と、朝飯が済むと解散して、夕
方5時に宿に帰ってきてホッとする。大冒険やけど、三人とも何とかやりましたなぁ。」ーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
―――(以下、『鮮烈な町造りの気迫・・・車を追放、安静を守る』中谷健太郎(西日本新聞1978.12.23より)ーーーーーーー
―――研修の一番の目的地、西ドイツのバーデンヴァイラーに着いた日が、その町にとって”特別な日”だった。(1971年6月)
「その日から町は町独自の交通規制を実施。特例を除いて安静時間内に町中で車を走らせることは全面的に禁止。安静時間とは
正午から昼下がりまでの昼寝の時間と、深夜から夜明けまでの眠りの時間である。この話は私たちを驚かせた。私たちは小さな
町がどこまで独自の生き方をしているか、町びとの意志がどこまで町を造っていっているか、それを見たくてこのドイツの人口
四千人の保養温泉地にやってきたのである。それがいきなり保養客が安静を要する時間だからといって町中で車を走らせること
を一切禁止したその日にぶつかってしまった。これは大変なことだ。私たちはグラテヴォルさんについて廻って事の次第を聴き
込んだ、そして鮮烈な町造りの気迫の渦に出会ってしまったのである。」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーグラテヴォルさん・・・当時市会議員、バーデン・ヴァイラー温泉で何百年も宿をやっている親父・・・・・・・・・・
「あの日、グラテヴォルさんは熱っぽく語った。『その町にとって最も大切なものは、緑と、空間と、そして静けさである。そ
の大切なものを創り、育て、守るために、きみはどれだけの努力をしているか?』『きみは?』『きみは?』グラテヴォルさん
は私たち三人を一人ずつ指さして詰問するようにそう言った。それで私たちは真っ赤になってしまった。」ーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そして「7年ぶりの(1978年)、バーデンヴァイラーにグラテヴォルさん再訪。グラテヴォルさんは過労で病気になり、一日三時
間しか人に会えないという状態だった。その時間のほとんどを私たちに充ててグラテヴォルさんは待っていてくれた。町長や議員
を含む二十人の町びとと一緒に私たちが町にやってきたことがグラテヴォルさんをひどく喜ばせたようだった。ーーーーーーーー
ーーー
『きみたちは約束を守った』『きみたちは長い道を歩き始めたのだ。世界中どこの町でも何人かの人が、あるいは何十人、何百
人かの、けっして多くはない人が同じ道を歩いている。』『一人でも多くの人がよその町を見ることが大切だ。そしてその町を
造り、営んでいる”まじめな魂”に出遭うことが必要だ』。
それにつづく中谷さんの文章もぜひ本誌で。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本誌には貴重な各地の旅の写真や旅先から由布院の家族のもとに贈られた絵葉書をはじめ、驚くばかりの資料がふんだんに掲載
されている。第1回の座談は大きな丸テーブルの回りに10数人が椅子に腰かけて行われている様子を伝える写真があるが、薫平さ
んと健太郎さんの後の壁に掲げられている書「汀」を目にしておどろいた。乾千恵さんの書だ。(『月人石』乾千恵・書、谷川
俊太郎・文、川島敏夫・写真/福音館書店)乾千恵さんと由布院の人たちとのご縁のことに触れると長くなるので、機会があれば
他日に。さいごに、志手康二(1932―1984)、溝口薫平(1933)、中谷健太郎(1934)3氏の3人旅の背景には、3氏と湯布院町
長との間に次のような契約が交わされていました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー業務委託書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本町は昭和34年5月厚生省より国民保養温泉地に指定され、爾来豊富な温泉源を活用し、産業と観光都市づくりに専念し着々とその
成長を挙げて来た。然しながら一方国の施策、社会情勢の変動等は都市計画事業の進展を阻害している現状である。ーーーーーー
又、教育行政面に於いても学校教育は勿論、社会教育面について、町民総ぐるみでスポーツの意義と認識を高めると共に、その実践
活動によって体力の増強を計り名実共に健康で明朗な町づくりを進めたい。ーーーーーーーーーーーーーーーーー
このような時期に先進地である欧州諸外国を視察して、観光行政にマッチした都市計画を行い、併せて教育文化面に新風を吹き込み
たいと思考し、次の三氏に業務の委託をする。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昭和46年5月29日ーーーーーー
委託者 湯布院町長 岩尾穎一ーーーー
受託者 中谷健太郎ーーー
梅本薫平ーーーーーー
志手康二ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの資料をきれいに保存していたのは、志手淑子(よしこ)さん。(「山のホテル夢想園」代表取締役会長。満州国錦州生まれ。
1961年夢想園の前身「日の出屋」の代表だった志手康二と結婚。1984年夢想園の代表取締役となる。1997年には一般社団法人由布
院温泉観光協会の副会長に就任し、2001年~2007年までは〉同協会会長を務めた。その後の若者や女性の活動に大きな道を拓いた。
―――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー【見事な編集に感謝して・・・「編集後記」を紹介したい。】
「編集後記ーーーーー
「今回の編集にあたっては、『花水樹』『風の計画』や『たすきがけの由布院』(中谷健太郎著)『虫庭の宿 』(溝口薫平聞き書き、 野口智弘著)他を再読し、古い資料を探す日々が続いた。「知っているつもり」は危ういということに気づく。小さな町も永い大きな 歴史の中にあり、必然と偶然と知恵や努力、出会いの妙が重なる面白さ。航海はまだまだ続く。この町づくり航海記録は「昔のこと」 として片づけられることなく、これからの羅針盤になると信じている。文言の細かな校正では本多紗代さんに助けられた。2019年から
資料整理や座談開催に力を貸してくださったJTBの福永香織氏と小坂典子氏にも感謝したい。ーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーー由布院の百年・編集サロンーーー平野美和子ーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
当初、紹介を考えていた”東北・仙台からの風”については次回のブログで。
2021年8月7日土曜日
本の出前は愉しいひと時 (犬も歩けば 10) No.77
骨折、入院と思わぬことが重なり、退院してから初めての本の出前。月初めに持っていこうと
8月1日、昼前にノドカフェに出かけたら、何かの集まりをやっておられた。本だけ入り口の所
において出直すことに。3日には、ある講習会があり、2日はその事前準備で来られず4日に出か
けた。店内には旧知の人が。出前の本を本棚に並べて、しばし彼女と歓談。ノドカフェは私に
とって単に文庫の本を届ける所ではなく、そこにある本と出合う場であるのだけれど、同時に人
と出会う場でもある。旧知の人や初めてお会いする人と。うれしい愉しい時間だった。お話の
中に、市内の中学校の2年生(各中学校から2名ずつ)に話されたことがあり、その生徒たちは、
中学生になった時からマスクをつけていると聞いて驚いてしまった。驚くまでもなく、よく考え
ればその通りなのだが、小学校とは違う中学校での生活が始まりから2年目の今にいたるまで、
そのようであり、今後もいつまで続くかわからないこと状態であることを、あらためて思いしら
されたように感じた。中学校にかぎらないけれど、学校での子どもたちの日々がこれまでとは違
ったものになっているだろうことに思いをめぐらせた。そういえば京都に住む娘の長女、孫の彼
女もそういった日々を小学生になった日から過ごしていることに思いいたった。ーーーーーー
ノドカフェの坂本さんからは、退院祝いと称してうきはの方がつくられたパンをいただいた。自
宅に帰ってからいただいたのだが、おいしかったこと!
1つは、「メナモミ」、「うきはの 小塩 おりたファーム」の方の、ベーグルの説明のチラシ
には「古来よりあるのに、ああり知られていない薬草です。薬学の先生から脳梗塞、動脈硬化に
よいと教えていただき、少しでも、体調好転になればとベーグルにしてみました。」とある。
もう一つの「ドライトマト」、「うきはのトマト農家倉富さんの完熟トマト」を使って「じっく
りと低温で乾燥させ、うまみがギュッとつまったドライトマトにして入れてます。ほんと赤のワ
インとあいますよ。ぜひ濃厚なうまみとトマトを体験してください。」とある。
込んア注も。「必ずこんがりと焼き戻してお召し上りください。(焼きを少し手前でとめており
ます。)ーーーその細やかな説明に、ベーグルづくり、それに連なるモノ・ヒト・コトへの深く
てやさしい愛情を感じる・・・
〈冷凍ベーグルのお召し上り方〉
袋から取り出したベーグルを50℃の温水に20秒ほど浸し、オーブントースターでカリッと焼き
戻してください。驚くほど、小麦のやさしい風味が広がります。ぜひお試しください。
・オリーブオイルを添えると、ワインのおともに。
Plantago うきは・ひめはる 野草ベーグルと摘み草料理の店
ーーーーーー
坂本さんからはこの日もうれしい興味深い情報、知らせをいただいた。二丈の大入駅のすぐ近く
に土曜日と日曜日だけ開店する本屋さんができている。5人(事業をともにしている)のスタッ
フが交代で店番。その一人が「風信子ヒアシンス文庫」の出前の本に関心を持たれていた由。
お店は5人のスタッフで基礎から作られたようだとのことだった。近じか訪ねてみたい。
〈今回の出前の本〉
チラシ
2021年8月6日金曜日
身辺雑記・・・入院・退院、その後のこと No.76
前号で7月1日早朝、救急車で搬送され、脳梗塞で入院、13日に退院したことを記した。
この間、コロナ禍のため面会はできないものの幾人もの方たちから心こもるご連絡をいただいた。
深い感謝の思いをこめて、このひと月の報告です。(ノートより)ーーー
7月1日、5時起床。前日、就寝時右手首の中指、薬指、小指が折れ曲がった状態になり、うまく伸ばせない。
朝まで様子をみようとそのまま床についたが、目がさめても状態は変わらず。7時前に救急車をよぶ。入院に
なると思われたので、本棚から小さな冊子3冊をカバンに。(『もうろく帖』鶴見俊輔、他)消防署の方の素
早い親身な対応が心に響く。同乗した家人の希望で福岡市内の九州医療センター(国立病院)に。消防署の隊
員の方と病院の先生とのやりとりが耳に。脳梗塞・・・。MRI検査のあと病室へ。(救急病室、4人部屋)
ーーーーーー
病室は4人部屋の救急病室、それぞれカーテンが引かれている。自分の体の状態がどんな状態か、何ができなく
なっているかを知るてがかりにと思い、小さな手帖(新潮社のマイブック2021の記録)に、日々のことを書くこ
とを思いたつ。といってもまずペンを今までのようにもつことができない。症状は右手首より先、中指、薬指、
小指が曲がり、人差し指がまっすぐ立って、左手で人差し指を折り曲げないと曲がらない状態となっている。
後々わかってきたことだが、脳梗塞では言語障害や運動機能の障害で歩行困難になることも少なくなく、そうし
た中では、会話ができ足も今のところ機能障害がみられないのは、まだ軽い症状だと思われた。とは言え、右手
だけではボールペンをもつことができない。左手の助けをかり、右手の親指と中指でぺんをもたせ、そして自分
の意思では曲げられない右手の人差し指を、左手で押し曲げてペンの上にのせ、やっと文字をかける体勢となる。
これまで無意識で考えることなくやっていた作業が、どういう1本1本の指の動きで行われていたかを身をもって
しらされる。ーーーーー
そうやってノートに書いた字は、最初の文字はともかく2つ目の字から何と書いているのかわからない。人差し
指をペンの上にそえていたのだが、いざ書こうとすると人差し指がうきあがり、ボールペン自体がゆれて動いて
しまう。ぺんをもつ指がふるえて字になっていない。それでも続けてやっていると、判読しがたいペンのあとが
続くものの少しずつ読める字が。朝昼夜3回の食事のこと、頭は60度以内にして高くもたげないこと。
『もうろく帖』を読み始める。文庫版の大きさ、その内容、1ページに数行の言葉、鶴見俊輔さんが引用したも
のや鶴見さん自身のその時々の言葉。
小水ようの便器、常時そばに。21時半が消灯だったが、夜半、未明にかけ
て、同室の患者さんへんの対応で何度も出入りする看護師さんの気配があった。ーーー
7月2日(金)、2日目。ーーーーー
まだ辺りが暗いなか目が覚めていたが、6時、看護師さんがきて血液検査のため血をとる。朝食後、担当医の先生
から、今の状態、今後のことについてていねいな説明をうける。ーーー
今日から看護師さんたちのお名前や仕事のことを少しお聞きしてノートにつけることにする。自分の症状の確認、
字をどれだけかけるか、ということと、昨夜来の看護師さんたちの仕事のされ方に驚かされたからだ。同室の患
者さんは一人ずつ症状もちがえばそのふるまいも違っている。苦しくて時には穏やかでない言動もある。繰り返
し繰り返し訴える方もいる。そんな中で、看護師さんそれぞれの言葉つかいで、それぞれの患者に心こもった温
かな対応をされていることに驚かされた。5年前96歳で亡くなった母は晩年いくつかの病院や施設でお世話になっ
たのだが、どの病院でも懸命に患者に向き合う看護師や医師の方がおられたのだが、それでも病院によって、何
か空気が違うと感じるものがあった。その病院の患者にたいする姿勢、考え方がそこで働く職員全体で共有する
ものとなっているかどうか。まだ一晩過ごしただけだけれど、プロとしての仕事に感謝と驚きの思い出最初の夜
をベッドで過ごした。ーーーーー
(リハビリ始まる)
有り難かったのは国立病院であるこの病院にはリハビリのための3人の先生がいたことで、入院して2日目からそ
れぞれにベッドのところまで来てリハビリの指導をしてくださったことだ。言語聴覚士、運動(療法)、作業療
法士(5日から)。ーーー
『もうろく帖』から、孫引き。
「七十五年は、あっという間。一日はゆっくり」(1998年6月11日)ーーーーーー
「とどかないと知って とどくにかける」(2000年1月29日)ーーー
「失敗から自分の道をさがす」(2010年2月3日)87歳 ーーーーー
ーーーー〔家から差し入れ、西新から歩いて〕ーーー
消灯後、目が覚めた時間。23:30、1:30、3:00、4:30、6:00ーーー
7月3日(土)
未明の時よりベッドでリハビリ(指を動かす)、驚いたのは昨日習った指の動かし方をやっていたら、曲がってい
た右手の3本の指が伸ばして広げることができるようになったことだ。
この日から看護師や職員の方が来た時、名前と職員になっての年数、夜勤が月何回かを聞きメモをする。
(言語聴覚士・リハビリ)①線をひく②ことば ③舌の運動、その他(資料)ーーーー
(看護師さんの勤務形態)
1.夜勤19:00~9:00、14時間、仮眠2時間?1か月に4,5回が多かった。
2.平常8:30~17:15
3.早出7:00~15:45
4.遅出13:00~22:00
※その後、夜勤明けの時に、どのように睡眠をとっているかをおききした。
①疲れてすぐ眠る ②夜になってから眠る。・明るいとなかなかねむれない。・生活のリズムとして。・・・など。
※ある講習会(8月3日)での講義を引き受けていたので、その講義概要と履歴書を震える手で書き、家人に清書し
てからの提出(郵送)をたのむ。ーーー
7月5日(月)
6:30ころ、リハビリをしていたら、人差し指の折り曲げができるようになった。ただ、午後のリハビリの時に右手
の握力をはかると、左手の半分くらい。
・入院してはじめてシャワーをあびる。
(病室から)(ある一角から)
7月6日(火)
救急病室から一般病室に部屋をかわる。(4人部屋)
シャワー(自分でノートに書いて予約できる)気持ちいい、いい気分。
作業療法士の先生より、「一日、一日よくなっている」
※点滴をはずす。(入院以来ずっと点滴、1袋で注入に半日)・シーツの交換。
看護師さんの聞き取り続ける。今年看護師になった人が6人いるようだ。みんな新人とは思えない仕事ぶり。
7月7日(水)
鶴見さんの本を読み終わり、吉田秀和『文学のとき』(白水ブックス 1994 新書版)より。
「情報」というものは、それを見、判断する「目」の有無で価値がまったくちがってくるのだ。本当の裏づけのない
情報にふりまわされてきたからこそ、ロシアのことがまるでわからなくなってしまったのではないか。その「目」の
役割を果たす強力な武器はやっぱり「文学」だ。文学者の発言は主観的であっても、凡百の客観的記述より深い真実
を表わし、より遠くまで届く視線となる。そして、ろしあは、いまも、すぐれた文学者に恵まれた国だ。たとえば
ブロツキー――。」
1階にローソンがあるのを見つける。(シャンプー、髭剃り)また、その近くに「患者図書室」があるのを発見。
7月8日(木)
リハビリの先生と国立国会図書館の「デジタル資料」の話。「ぼくの周りのスタッフに教えて回ります。ぜったい
知らない。」ーーー
その日初めて会った看護師さんの話。出産が間近。新任の看護師が5,6人いますね、という話から。5,6年で辞め
る人も多い。そういえば、これまで勤務年数を聞いてきて、長期の人がすくないように感じていた。夜勤を生活の
リズムにとりいれている人がいる中、それでも体がもたない、続けられないという側面もあるのではと思われた。
せっかくのやる気と貴重な深い経験を持ちながら、仕事をだれでもが続けていける労働環境の問題があるのではと思
えた。昔むかし45,6年前頃、印刷会社でアルバイトしていた時、印刷の色を調整する正規職員の人が、就職後5,6年
で数多い現場にであったことがある。工業高校の印刷の課程を卒業した人たちだったが、残業や休日勤務がすさまじ
く、身体がもたない現場だと思ったことを思いだした。看護師さんたちのプロとしての仕事ぶりに身をもって接して、
ひとりひとりが働く環境に目をこらさざるをえない。
「患者図書室」発見
・1階の「患者図書室」へ。本は全部で1400冊くらい。1週間3冊まで借りれる。村上春樹の本はこれまで紀行文やエ
ッセイ、『アンダーグラウンド』しか読んだことがなく、小説は1冊も読んだことがなかったので、目にとびこんでき
た『ノルウェイの森』上巻、そして重松清『きよしこ』、『脳を鍛える地図ドリル』成美堂出版の3冊をかりる。
7月9日(金)
昨日から読み始めた『きよしこ』、朝5時、灯りはまだつかないので、窓際で読む。
・リハビリの時間、握力をはかる。左手32.7k、右手26k。1週間前は右手16kだった。その後、右手は20kをきって
いる。
・電話があり、上五島の図書館のUさんと亡くなられた東京のOさんのことをお聞きする。20年近く前、能登川の図書館
に上五島からやってきた2人と京都の先斗町で、東京からきていた千葉さんたちの一行に合流したときの話。夢のような
一夜、出会いのこと(Oさん、Iさん、漆原さん)。千葉さん、Oさん、Iさんは今は亡い。Iさんは、他日東京から上五島
の図書館を訪ねられたとのことだった。
7月10日(土)
『きよしこ』読了
(一般病室から)
7月11日(日)
『文学のとき』・・・朝の明かりを待って・・・・
「ひとはいつか別れを経験する。それが生き別れであろうと死に別れでだろうと、別れは鉄槌のように心を打ちのめす」
『ノルウェイの森』上巻、一気に読了。
7月12日(月)
明日午前10時に退院することに。
4:50起床、リハビリをベッドで。リハビリの先生の指導は今日が最後なので、それぞれの先生から退院後、自宅で行う
リハビリでし方についてアドバイスをいただく。同室の患者さんと言葉をかわす。
「患者図書室」でさいごの貸出し。『ノルウェイの森』下巻、『脳を鍛える大人の音読ドリル』『図形で学ぼう大人の
ドリル』・・・・『ノルウェイの森』下巻、読了。小説の世界にひきこまれた。登場人物の一人ひとりが深い共感とと
もにたちあがってきた。
7月13日(火)
7時過ぎ、さいごの食事をいただく。入院以来今日まで朝昼晩といただいた食事のおいしかったこと。有りがたい食事
だった。この間、体重が3,4キロやせたようだ。
9時過ぎに担当医の先生から、現在の体の状態、退院後に注意すべきことについてお話があった。退院してから通院して
薬をいただく自宅の近くの内科医やリハビリに通うクリニックへの紹介状をいただく。こうして10時過ぎに退院、家人の
迎えの車で昼前に帰宅することができた。
以上、入院から退院までの日々の報告です。
退院のひの朝、4時過ぎに目ざめ、公衆電話があるところに置いてあった『皆さんの声シート』に次のように書いて投函
した。ーーーーーーーーー
「7月1日早朝、糸島から救急車で運ばれ救急病室に6日まで。そして7日からは一般病室でお世話になりました。今朝退院
しますが、この間、担当の先生、看護師のお一人お一人、お掃除の方や職員のみなさんに本当にお世話になりお礼の言葉
もありません。担当の先生(O先生)には随時ていねいでわかりやすい説明と相談にのっていただき、安心して今とこれ
からを考えることができました。また看護師のみなさんの患者一人一人への温かで心のこもった対応に心から感謝してい
ます。病院が掲げられている基本理念がみなさんのふだんの行動・態度となっていることに深く心動かされました。
リハビリの先生が、それぞれ専門を異にして3人いてくださり、適切な指導とアドバイスをいただけたことも、この上ない
ことでした。又、患者図書室を利用できたことも大きな喜びでした。本当にありがとうございました。3度の食事、とても
おいしかったです。(おかげさまで、以上、右手でかくことができました!)」ーーーーー
7月14日(水)
畑は草ぼうぼう。リハビリを兼ねて朝ごはんの前に草刈り機で草刈り。30分でくたくた。毎日少しずつやることに。
以後、時間を少しずつ伸ばして朝食前の草刈り。
7月18日(日)
入院前に田植えの手伝いにきてくれた樋本さんが、こんどは田んぼの草取の手伝いに。午前中、並んで草取り。
水路からの水が、道路の下の管を通って入るようになっているのだが、管に石や土砂、枯葉などがつまり田んぼに入って
来なくなった。このあと修復に何日もかかってしまった。
(管に詰まっていた石・・・)
以降、毎朝朝食前に草刈りの日々でした。
(7月21日 草刈りに応援が・・・)
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