2019年4月30日火曜日

犬も歩けば(2)2月初めの嬉しいできごと   夏葉社・ナナロク社の本が ・・・No.24


2月の初め、ノドカフェでのうれしい出来事

ノドカフェには、当初は月に1度、現在は2ヶ月に1回の周期で本の出前をしている。持っていく本はテーマのある時も、無いときもある。その時節折々の本、またブックカフェの坂本さんの希望がある時は、できるだけそれに応えてと考えている。

ノドカフェでの新刊本の販売

2月1日、本の入れ替えで訪ねた時、坂本さんから「こんど、本(新刊本)の販売を始めました。今は思潮社、ナナロク社、夏葉社、雷鳥社の本です。まだこれからも、直接出版社と交渉して増やしていきます。」とお聞きし驚いてしまった。この小さなスペースのブックカフェで新刊本を販売される(ソンナコトガ出来ルンダ!!)とは。しかも出版社の名前を聞いてびっくり、いずれも私にとって興味深い本を出版していて、図書館で働いていた時にも、各社の本には確実にその出版を待ち受けていたと思える読者がいて、図書館の蔵書を豊かにしてくれる出版社であったからだ。

夏葉社のこと        

4つの出版社のうち、夏葉社だけは、私が図書館を退職した2年後の2009年から始められた出版社で、私は夏葉社と言う出版社が新しく始められたことを全く知らずにいた。2014(平成26)年だったか、東京に出かける機会があり、用件を終えてたまたま入った吉祥寺の古本屋で、1冊の本と出会った。子どもが描いたと思われる表紙の絵(父親を描いたのだろうか)が目にとまり、思わず手にしたのだが、それが黒田三郎の『小さなユリと』(1960 昭森社版 復刻)であることに驚き、早速買い求めた。本の代金を支払う時、若い店主と思われる女性が「その本を出版した夏葉社さんは近くにありますよ」と教えてくれた。

『詩集 小さなユリと』黒田三郎 1960 昭森社版・復刻/夏葉社 2015.5
私にとっては初めて聞く出版社の名前だった。その日は時間がなくそのまま帰ってきたのだが、その時他日、夏葉社を訪ねることになろうとは思ってもみないことだった。
東京から帰ってきてから程なく、夏葉社を始めた島田純一郎さんの初めての本、『あしたから出版社』(晶文社、2014:”就職しないで生きるには”21)を手にし、一気に読み終えた。

2008年4月、小さい子どもの時から親しくしてきた、半年しか違わない従兄が事故のため急死する。悲しみのなかにいる「叔父と叔母のためになにができるか。心当たりは一つだけあるのだった。」それは従兄が亡くなったばかりのころ、定職のない31歳の著者が「読んでいた本の中でであった一篇の詩だった。」
「ぼくは、あの一篇の詩を、本にして、それを叔父と叔母にプレゼントしようと思った。そのことを手がかりに未来を切り開いていきたいと思った。」
出版の経験などまるでなかった。

届けたいのは、「作者は聞いたこともない100年前のイギリスの神学者、子どもを失った父親が、異国の地でこの詩に偶然出会い、そして、自分自身のために訳していた」ものだった。

問題は
「詩は42行、A4の紙一枚におさまる」という分量、その短さだった。「それをわざわざ一冊の本に仕立てたいというのは、本という「物」に対する愛着ゆえだった。」
どうする、この短い行数の詩で、ほんとうに一冊の本ができるのか。

著者が敬愛する宮崎駿監督の言葉が頭に浮かぶ。「求めているものが見つからないときは「半径3メートル」のなかで探すのがいい。」「ぼくはその言葉が好きだった。」
読者である私も、”なるほどそうか、そうだとぼくも思う”と深く共感しながら、著者の後を追う。少しどきどきしながら。

さらに著者は小説を書くときに恩師が教えてくれた言葉を思いだす。
「いいアイディアがなにも思いつかないときは、自分がこれまでかかわってきたもの、夢中になっていたものを思いだすことのほうがいい、それ以外のものは、たいてい付け焼刃にしかならない。」

こうして著者は部屋の中、著者から3メートル以内の中から一冊の本を見つける。『ノーラ12歳の秋』。そこにイラストを描いていた高橋和枝さんのものを見て、この人だと思う。もちろん、高橋さんと面識があるわけではない。
それから「詩とイラストが響き合う」一冊の本が生まれいづるまでのことは、実際にこの本を手にしてほしい。

和田誠さんの本ををつくりたい。面識があるわけではない。手紙を書く。心こめて。2日間かけて。電話をする。
著者のあとを追う読者は、どきどきしながら一冊一冊の本の誕生に立ち会うことになる。一冊一冊がゼロからのスタートであることに驚きながら。

島田さん、そして夏葉社の本づくりは何よりまず手渡したい人に、その人のための本を出版すること。1万人、10万人のための本ではなく、具体的な1人のための本づくりから始まった。その思いの直截さ、その思いを一つ一つ形にしていく姿勢に驚かされる。そして、そこから出版され始めた一冊一冊の本のなんと面白いこと!心嬉しくなる、心はずむ新刊の一冊一冊を、風信子文庫の出前先で手にすることができる有り難さ!

『あしたから出版社』島田潤一郎 晶文社

2016年の夏、夏葉社から『移動図書館ひまわり号』(前川恒雄)の復刻版が出版されると知って驚いた。この本が絶版になっていることを知らなかった。1988年4月に筑摩書房から出版された時、すぐに買い求め、折りに触れ何度も読んできた本だ。1965年に1台の移動図書館ひまわり号で日野市立図書館を始め、7つの分館をつくり、それから中央館を建てて、全域サービスを実現するとともに、日本で初めてリクエスト・サービスを実施して、以後の日本の公立図書館の道を切りひらいた活動を生き生きと伝える実践の書だ。

『移動図書館ひまわり号』/左側:夏葉社・復刊本、帯の背に「図書館革命の記録」
右側:筑摩書房 1988年


『2001年 われらの図書館 ―ーすべての福岡市民が図書館を身近なものとするために――』
(福岡の図書館を考える会 1988年1月24日)冊子のタイトルは、前川恒雄氏の『われらの図書館』
(筑摩書房・1987)を念頭に、新しい世紀を迎える2001年には、市民が願う図書日づくりの歩みが
始まっていますようにとの思いをこめて決めた。前川さんの著書からは、深い元気を手渡され続けてきた。

〈1987年に福岡市で活動を始めた”福岡の図書館を考える会”のチラシ〉T・Y作成

日本の図書館がどのように作られてきたか、図書館員の多くが今、アタリマエのこととして行っている図書館サービスの仕事が、どのようにして始められたか。
「いつでも どこでも だれでも なんでも」のスローガンを掲げ、その実現に力をつくしてきた図書館を創りだし、生み出してきたものは何か。リクエストや全域サービスはどのように始められたか。
図書館はだれのためのものか、何をするところか。「地域に図書館があるとはどういうことか」、私にとって何より切実な問いに応えてくれる数少ない本のうちの一冊だ。

この復刊本を買うのは夏葉社でとの思いが浮かんでいた。8月に東京に出かける所用があり、その時にと考えた。2016年8月23日、夏空のもと、目白から吉祥寺に向かい、吉祥寺の図書館に立ち寄ってから、11時頃夏葉社を訪ねた。

事前に何の連絡もせず、いきなりの訪問だった。夏葉社に着いたら不在、あきらめて帰ろうとしている所に島田潤一郎さんがやってこられた。室内に招き入れられ、1時間半近く話しこむ。島田さんの貴重な時間をいただいてしまった。静かで清楚な室内の一角には書棚があり、夏葉社から生まれる本の源泉かとも思われた。新しいいのちが生まれる何か修道院の工房にいるような静かな時間を授かった。

辞する時に、『移動図書館ひまわり号』を買い求めようとしたら、「京都の誠光社とともに、一番、注目されている、Title」を紹介してくださり、本屋への行き方を教えてくださった。2015年11月、京都、河原町丸太町に開店した誠光社のことでは、同店を始めた堀部篤史さんが、それ以前に店長として働いていた、恵文社一乗寺店には、私が滋賀の図書館にいた時、寺町二条にある3月書房と共によく通っていた。恵文社の棚の前に立っては、一冊一冊その品揃えに感心しきりだった。いつ行っても自分の図書館にはない、「あれもない、これもない」面白そうな本があって、眼を見開かされる書棚だった。誠光社には福岡から京都に出かける際に、何度か立ち寄り、書棚の本の魅力はもとより、お店のレジ前の小さな壁面をつかっての展示の内容の面白さ、すさまじさに驚かされた。

島田さんに教えていただいた荻窪、八丁交差点の近くにある本屋Tittleを訪ねることができたのは、思いもよらぬプレゼントを授かった思いがした。誠光社とはちがう、しかし一冊一冊が呼びかけてくる本がどの棚にもあった。ああ、こんな本屋さんが近くにあるといいなとの思い。
【福岡市内には、キューブリックという心弾む本屋があるが(警固、箱崎)、自宅からは車で30~40分、箱崎店は都市高速を使っての時間。箱崎店では、2回のパンづくりをしているスペースで面白い企画を次々にやっていて、5月10日の夜7時からは若松英輔さんの講演があり、なんとか駆けつける事ができた。】

Titleを訪ねた日には2階のギャラリーでは、何も行われていなかったが、本屋にギャラリーという場があると、そこがその地域での新たなこの上ない出会いの場となると思われ、店の(活動)の広がりが感じられた。どんな場が生まれていくか楽しみだ。
【そのことを早くも知らせてくれたのが、店主の辻山良雄さんとnakabanさんの新著
『言葉の生まれる景色』(ナナロク社)だ。Title の2階ギャラリーで始まった同書の「原画展」が、現在、全国で巡回展示中だとのこと。『365日のほん』(辻山良雄、河出書
房新社)とともに面白く読んだ。】残念だったのは、時間がなくて、1階の奥にあるカフェに行けなかったことだ。




驚きはまだ続いた。滋賀の友人から一枚のチラシが送られてきた。
『 のバトンをつなぐ 前川恒雄「移動図書館ひまわり号」復刊記念のつどい』
2016年9月2日(金)PM2時~5時
◆第1部 『移動図書館ひまわり号』でつなう対談
     前川恒雄さん(元滋賀県立図書館長)✕ 島田潤一郎さん(夏葉社代表)
◆第2部 島田さんを囲んで、フリートーク
・会場 草津市立市民交流プラザ大会議室
・主催 滋賀の図書館を考える会

滋賀の友人から送られてきたチラシ
これはもう、行くしかない。博多駅前から京都行きの夜行バスで駈けつけることになった。うれしい時間と懐かしい出会いを授かった。

「志のバトンをつなぐ」2016.9.2
前川恒雄『移動図書館ひまわり号』復刊記念のつどい※記録・滋賀の図書館を考える会
『点』第10号‥2016.12.25 滋賀の図書館を考える会・編集発行
夏葉社の本では、どの本もその装丁に驚くのだが、昨年出版された『庄野潤三の本 山の家の本』は、まずその装丁が美しい。書店の店頭で、「山の上の家」というタイトルと表紙の静かな書斎の佇まいの写真に惹かれて思わず手にした本が夏葉社のほんだった。手にしてうれしくなる本だ。



ページをめくり、庄野潤三を初めて読む人へのこの上ない本となっていること、その編集の力に眼を見張った。巻頭の佐伯一麦さんの寄稿に続き、選びぬかれた庄野潤三の五つの随筆、短編なのですぐに読める。それに「子どもたちが綴る父のこと」(長男、長女のエッセイ)、「庄野潤三を読む」では岡崎武志さんのエッセイ。

「全著作案内」では、宇田智子、北条一浩、島田純一郎、上坪祐介の各氏の文章、宇田さんは沖縄の那覇の牧志の市場の向かいで、ウララという小さな古本屋をしている人だ。何年か前、福岡市内の欅通りで、毎年秋に開かれている「ブックオカ」のイベントに来られていたとき、お話を聞き、路上の一箱古本市のお店で本を買ったことがある。島田さんが、この人だと選んだ人だと思われるが、島田さんを含めて4人で書かれているのが面白い。その他に、「単行本未収録作品」。

山の上の家の写真がとてもいい。山の上の家での、ときの気配が伝わってくるようだ。この本の大きさがいい。手にすることがうれしい判型の扉を開くと、山の上の家で時間をかけて育まれた豊かなものが、立ち現れてくる。

 夏葉社 natsuhasya.com

一冊の本との出会いから、次々に広がっていく新たな人や本との出会い、犬も歩けばと言う次第です。

追記

後日、ノドカフェの坂本強美さんから電話があり、「こんど、『アルテリ』を取り扱うことになりました。」とのこと。出前の本で、石牟礼道子さんの一周忌のときに、『花を奉る 石牟礼道子と渡辺京二の本』と題して、関連する本を持って行ったことがある。その本の中に、『アルテリ』の何号かも入っていた。

人口10万人をこえる糸島市だが、本屋さんはわずかに2店しかなく、そのいずれの本屋さんも『アルテリ』をおいていない。これまで、市外のあちこちの本屋さんで買い求めてきたが、これからは市内で、しかもこの小さなブックカフェで購入できる。今日、3月29日、早速購入してきた。2ヶ月ぶりの『ノドカフェ』の本棚は面白そうな本が一気にふえているように思えた。明日は出前の本の入れ換えをするため、今日に続いてでかけるが、その本棚をみるのが楽しみだ。

坂本敏幸さんは自然農をしていて、自然農の野菜の販売、強美(きよみ)さんはリラクゼーションの施術も。

販売している本、新たな出版社の本も見られる。

風信子文庫(2月~3月) 森崎和江さんの本など

子どもの本も。
『アルテリ』(風信子文庫)
『アルテリ』について
創刊号 2016年2月22日発行〈年二回発行予定〉
「アルテリ」七号 2019年2月22日〈年二回発行予定〉

発 行  アルテリ編集室 熊本市中央区新市街6ー22 橙書店内
表紙写真 磯さくら
デザイン 大畑広告準備室
協 力  清正(猫)、タロー(猫)

雑誌は編集後記から読む。創刊号の「編集後記」が面白い。無断引用は禁じられているため、引用はできない。興味ある方はぜひ手にしていただきたい。

渡辺京二さんのある一言から始まったとある。「アルテリ」はどんな意味か。熊本ゆかりの人たちの、どんな思いがそこにこめられているか。何を目指しての場であるか。

創刊号の表紙には波板のトタンを屋根と壁に打ちつけている古い建物の写真
表紙を開くと、同じ建物だが、より不透明で輪郭がおぼろな写真

その写真のページをめくると
目にとびこんでくるのは

雑誌「アルテリ」刊行に寄せて   石牟礼道子さんの言葉だ

最初の言葉に うたれる
それにつづく言葉に うたれる
そして ゆらめく場からも なお  
若い人たちに ことばをおくる
石牟礼さんの いのちの声に おどろく

次のページはめくらないでも、書き手はその人にちがいない 
どんなタイトルか  興味深い

「激励」 ソウなんだ

その次はなんだろう わからない

そうか 目次 がくるのか

目次には十二人の名前

名前を聞いたことがあるひと ないひと
そのいのちのこえに 耳をすませたい





本の出前・・2つ目の注文!「闇の声をきざむ 上野英信展」に勝手に協賛して(犬も歩けば1)No.23

風信子(ヒアシンス)文庫の2つ目の出前が始まったのは2018年11月、糸島市内で初めてのブックカフェ「ノドカフェ」のオープンの時からだ。「さんのもり文庫」で「風信子ヒアシンス文庫」の本の出前のことを知った坂本敏幸さん、強美きよみさんご夫妻が1歳未満のお子さんと自宅に来られ、ブックカフェを始めるので、本の出前をしてほしいとのことだった。お店の名前「ノドカフェ」は子どもの名前(のどかさん)にちなんだとのこと。驚いたのは敏幸さんは私が2007年から始めた自然農をずっと以前からやっておられたことだ。また強美さんは13年間で12,000人の施術経験を持つセラピストで、ブックカフェの一角で、予約をうけて、その場を持たれるという。「ノドカフェ」開店前日の10月31日に出前の本を運んだ。

「ノドカフェ」案内のチラシ

出前で持っていくのは11月10日から福岡市総合図書館(1階ギャラリー)と福岡市文学館の2つの会場で、『闇の声をきざむ 上野英信展』(2017.11.10~12.17)が始まろうとしていたので、勝手に“上野英信展協賛”として《上野英信・晴子と上野朱の本》と題して関連する本をと考えた。福岡市総合図書館、福岡市文学館の展示より一足早く、プレイベントの意味合いもこめて11月1日の“ノドカフェ“の開店からとした。
「闇に声をきざむ 上野英信展」チラシ(表)
「この本を手にされる方へ」(「地下戦線」3号より)の一文を掲載)

「闇の声をきざむ 上野英信』展、チラシ(裏面)
新聞に “ノドカフェ“の紹介記事が

“ノドカフェ“の開店から40日が経った12月10日(日)の毎日新聞の地域欄に、『炭鉱記録作家 上野英信さん特別展 17日まで』 『糸島 先月オープンのブックカフェ 「ゆっくり良い本楽しんで」』と大きな見出しで“ノドカフェ“を取材した記者の記事が掲載された。“ノドカフェ“での展示を17日までとしていたのは、福岡市総合図書館等での12月17日までという会期にあわせていたためだが、この新聞記事を見て来店される方が幾人もあり、同店では12月末まで展示することにした。紙面には坂本さん夫妻とのどかさんの「ようこそ ノドカフェ」へと静かな笑顔でやってくる人を招かれているかに思われる写真があり、上記の見出しに続いて次のように書かれている

【糸島市前原中央3で11月にオープンしたブックカフェ「ノドカフェ」で、筑豊地域の炭鉱の暮らしを伝えた記録作家、上野英信さん(1923~87年)の著作など約30冊を集めた特別展が開かれている。17日まで。【青木絵美】17日まで カフェは坂本敏幸さん(56)と強美きよみ(42)さん夫妻が「良い本をゆっくり楽しめる空間を」をと始めた。
愛読書を中心に約400冊を自由に読める。

また、(略・・)さんの協力で、テーマに沿って本を紹介する特別コーナーも設けた。
上野さんの関連本の展示は、没後30年に合わせて福岡市総合図書館などで開催中の企画展にちなんだ。妻晴子さんや長男朱あかしさんの書籍、炭鉱を撮った写真集、ユネスコ「世界の記憶」に登録された炭鉱記録画家、山本作兵衛の画集などを並べた。強美さんは「本を通じ、炭鉱労働者の懸命な仕事の上に成り立つ今の豊かな暮らしを改めて知ることができる」。】 



ノドカフェは、JR筑前前原駅から歩いて10分ちょっとの所に。前原中央3-18-8(2階、「古材の森」の隣;090-1852-1102)

出前の本から


『サークル村』












森崎和江・詩集



『炭鉱ヤマ 本橋成一写真集』現代書館 1968年第1版・1992年第2版


『風の道づれ ふうふう絵草紙』絵草紙 山福康政・写真 岡友幸
2冊とも裏山書房(発売は海鳥社)


《闇の声をきざむ 上野英信展》にでかける

上野英信展にでかけたのは11月下旬のことだった。福岡市総合図書館の1階にあるギャラリー(75㎡)は総合図書館の全体的な規模(24,120㎡)から言えばとても小さなスペースだと思える。しかし、その小さなスペースに足を一歩踏み入れた時、そこにひろがるの濃密な世界に驚かされた。

上野英信とは誰か、なぜ今、”上野英信展なのか”

福岡市文学館の館報『文学館倶楽部』(No.25/2017.10.15)に記された【展示概要】を
見てみよう。( ”闇の声をきざむ 上野英信展”のチラシにも同文を掲載している。)

《 記録文学者、上野英信――大日本帝国陸軍兵士であったひとりの男が原爆にあい、地獄と化した心身を抱えてたどり着いたのは筑豊の炭鉱だった。一筋の光もささない坑内に、男は赤い旗を立てる。闇を拠点として男は、抗夫となり、作家となった。 
 近代以降炭鉱は、日本資本主義の原罪を一身に引き受けた場所であった。どこまでも奪いつくされて坑夫は、しかし英信に人間とは何か、労働とは何か、人が人を信じるとは、愛するとは、連帯するとはどういうことかを教えた。言葉を奪われ続けた彼らは、誰より豊かな言葉の持主だった。闇に沈むことばをわが手にたぐり寄せようとして英信は、一歩また一歩と、闇深く、魂深くへと、ペンの力で掘り進もうとする。
 日本資本主義の「下罪人」として生きて消されてゆく坑夫の言葉を、帝国主義の「業」を担ぎ続ける者として生涯、一心に記し続けた。そこに火床があるのだと信じ、闇を砦に「日本を根底から変革する」のだと願いきざまれた闇の声を、「地獄そのものとしての人間」の言葉をいま、私たちの場所に聞きたいと思う。・・・》

上野英信さんを語って、見事な言葉だとおもう。企画展を担当した学芸員の方たちの上野英信展にかけた思いの深さが伝わってくる。22坪ほどの小さなスペースのそこここから、上野英信さんが生涯かけてきざんだ闇の声が聞こえてくるように思われた。

展示は5つの章で構成されていた。

1.下放する 2.記録文学者の誕生 3.地底からの通信 4.お割れゆく坑夫と共に
5.弔旗をかかげて

その一つ一つの章の場でしばし足がとまった。

・高く積み上げられた手書きの原稿、「原稿群には、英信の筆に交じってもうひとつの筆跡の原稿の束が残されている。線の細い端正な文字は妻、晴子による。」(上野英信展図録)
・「ぼくは本当は絵描きになりたかった」と言っていた父(上野朱「絵描きになりたかった物書き」)の絵画や版画、そして、その一刻一刻をどのように生きてあるかを鮮やかに語る夥しい写真の一枚一枚

・ガリ切りと製本にあたった『労働藝術』や『地下戦線』(表紙の版画は千田梅二)、
『えばなし せんぷりせんじが笑った! ほか三編』

・そして『サークル村』
 初めて眼にする著作本や冊子の一冊一冊

・手書きの原稿では、つぎの文字にくぎ付けとなっていた。

「あえて誤解を恐れずに告白するが、この二十三年間、私はアメリカ人をひとり残らず殺してしまいたい、という暗い情念にとらわれつづけてきた。学徒招集中のことだが、広島で原爆を受けたその日以来、この気持はまったく変わらない。」

【1945(22歳)1・10船舶砲兵教導隊卒業後、見習士官。
6・8宇品で高射砲陣地につく。
8・6爆心地から3・5キロ地点で原爆被爆。直後、被災者の救援活動にあたる。以後長く原爆後遺症に苦しめられることになる。

「その日、私は陸軍船舶砲兵として広島の宇品にいた。そして、その朝、原資爆弾の洗礼を受けた。いのち拾いはしたが、心は完全に廃墟と化した。(「私と炭鉱との出会い」)

あえて誤解を恐れずに告白するが、・・(略)この気持はまったく変わらない。【前述の文章】
略)この救いがたい、われながら浅ましい妄念そのものを原点として、私は平和を考えるほかないのである。理路整然たる平和論を私は信じないし、信じたくない。もし平和への思考が、なおかつ私のゆがんだ原爆ドームの頂きあたりをいろどることが、それは戦争への思考以上にぎらぎらどろどろしたものであろう。私はいまなお一九四五年の八月六日から十五日までの十日間を、ゆきつもどりつ、さまよいつづけているばかりだ。」
(「私の原爆症」)《「闇の声をきざむ上野英信」展図録』「上野英信年譜」より》

【私の叔母のこと】上野英信さんが広島市宇品で被爆されたと知って・・・。
 (叔母のことを記すのは、被爆50年を機に、被爆体験を語り始めているため。以来、体
 調が悪い中、求めに応じて語りにでかけている。)

(私は1946年7月、広島市宇品に生まれた。母方の親族で原爆投下後、生き残ったのは
被爆当時8歳、小学3年生の叔母、ただ1人のみ(1936年8月生)。叔母は被爆前日、8月5日に疎開先から帰宅し、爆心地から800メートル、舟入町の自宅で被爆。両親は、爆弾投下による建物の延焼を防ぐため、建物取壊し等の作業に出ていて被爆死、家にいた4姉妹は家が倒れ、建物の下敷きとなり、末っ子だった叔母一人だけが、地上に抜け出すことができ、助けを求めながら(「タスケテクダサーイ ゴトウノウラデース:ゴトウは叔母の姓)火焔の中を逃げ惑う。3人の姉たち、その内2人の姉(16歳と12歳)とは、潰れた建物の中で声をかわせたものの(10歳、小学5年生の姉は即死したと思われる)、地上にでることができず被爆死。当時、宇品に住んでいた母(1919年4月生)が被爆直後の広島市内を探しまわり、8月15日、敗戦の日にようやく見つけ出し、宇品の家に引き取る。
叔母を探して被爆直後の地を歩き回った母は、長い間、夏になると寝込んでいた。

私の母はある事情から、生まれ落ちたときから養女にだされ、成人するまで、両親がいることを知らずに育っている。母が成人する前後に両親が生きていることを知り、探し続け、(母と同姓同名の人が朝鮮にいると知り、訪ねていったが、違う人だったと聞いたことがある。)見つけたときには、父、母それぞれに結婚して、父の家族、母の家族それぞれに子どもたちがいた。叔母は、私の母からみて異母妹になる。

このため母の妹と言っても、一緒に暮らしてはおらず、原爆で一夜にして家族5人の全員をなくし孤児となった7歳の少女にとっては、その時26歳であった姉(私の母)は見知らぬ人であったと思う。叔母は両親の死に目にあっていないため、両親が迎えに来るのを待ち続けた。一人で電停まで歩いて行き、(電停は近くはなかった。子どもの足では30分以上かかったのではないか。)電車から降りてくる人に「お父さん、お母さんを知りませんか」と尋ね続けたという。翌年の7月に生まれた赤子の私を9歳の叔母がその小さい背に負って、おしめなどを洗いながら世話をしてくれている。

被爆50年を機に被爆体験の証言を始め、被爆60年にはイギリスBBC放送の取材を受け、アメリカ、イギリスでラジオ放送された。その10年後の被爆70年(2015年)にBBCの同じ記者の訪問があったという。)

『おりづる』第33号 平成30年次(2018)活動報告書
特定非営利活動法人(NPO法人)ヒロシマ宗教協力平和センター(HRCP)平成31年3月
TEL・FAX 082-881-0721 
『おりづる』第33号より
・そして、1987年11月21日、64歳で永眠された英信さんが小さなノートに残したメモ

  筑豊よ
  日本を根底から
  変革するエネルギーの
  ルツボであれ
  火床であれ
     上野英信
(「感覚のうしなわゆく手で綴った、英信最後の筆」の文字)

上野英信展の図録のこと 『これを読めば、上野さんの全貌がわかる」(三木健さん)

先に引用した、上野英信展の図録の正式なタイトルは『2017福岡市文学館企画展「上野英信 闇の声をきざむ」図録』だが、展示の内容と共に、『図録』の実に素晴しい出来ばえには驚かされた。そしてすぐさま頭に浮かんだのは、各地の図書館の中で、展示資料で借り受けられるものを福岡市総合図書館から借り受けて、その館の工夫を重ねて、”上野英信展”を行う図書館が現れたらいいなという思いだった。学芸員が作成したパネル資料だけでも、思い深く時間をかけてつくりだされた中身豊かなものであるので、総合図書館だけでの展示ではあまりにもったいない。われ・ひと共に生きていく、地域、社会の在りようを考えようとしている人の前に差し出されているものではないだろうかと思われる。

また、この『図録』を手にしてみたいと思う方がいたら、ぜひ身近な図書館でリクエストをされては。出版流通ルートにのっていないと思われる『図録』なので、書店の店頭でも見ることはできない。こんな時こそ図書館の出番であると思う。某社の『新刊案内』だけで図書館の本を買っていては豊かで魅力ある蔵書はつくれない。

「上野英信 闇の声をきざむ」図録
福岡市文学館(福岡市総合図書館文学・文書課) 定価 1,000円(税込)

「上野英信 闇の声をきざむ」図録 別冊
折り畳まれた「別冊」を広げると、表裏12ページとなる。
『図録』の企画は学芸員の田代ゆきさん、制作には田代さんの他、井上洋子、坂口博、前田年昭の3氏(いずれも文学館外部の方)があたっていて、4人が各章に力のこもった文章を書かれている。また、この『図録』のために文章を寄せられた上野朱さん、川原一之、樋脇由利子、沖縄の三木健氏の文章には、それぞれに読後に深く伝わるものを感じた。『写真万葉録・筑豊』の編集制作に携わった写真家の岡友幸さんからは、写真集編纂についての聞き取り「岡友幸さんに聞く」も興味深い内容だった。(同氏は『上野英信の肖像』〈海鳥社1988〉の編者でもある。)『図録』編集者として思いの深さと力によるものだと思われた。

このような図録を眼にする時、いつもは「資料提供、協力」の欄などをしっかり見ることはほとんどないのだが、この度は『図録』の内容に驚いたせいか、私にとっては、興味深く眼にした。

(裏表紙から)
資料提供・協力(五十音順・敬称略)
上野朱
池田益美、伊藤和人、緒方恵美、岡友幸、花田理枝、裴 昭、松尾孝司、宮田昭、本橋成一、山福緑 【裴 昭(ペ・ソ)さんは写真家、『図録』76頁の写真「山本作兵衛と著者、1984年9月」を撮影。著書に『関東大震災朝鮮人虐殺:写真報告』影書房 1988.10。他・・注記・才津原
田川市石炭・歴史博物館
葦書房、岩波書店、潮出版社、大月書店、海鳥社、影書房、講談社、径書房、社会新報、
筑摩書房、ニライ社、未来社、大和書房、理論社、山福印刷、琉球新報
最後に『図録』の概要をイメージしていただくために、5章からなる『図録』の「目次」と本文の1節を記しておこう。

目次

はじめに
第1章下放する
生涯を貫く下放のはじまり
『労働藝術』『地下戦線』
『せんぷりせんじが笑った!』『ひとくわぼり』
サークル運動 二人の坑夫の遺稿集
初期物語群
蝶のゆくえ 上野朱

第2章記録文学者の誕生
記録者の覚悟――絵ばなしから記録文学へ
『追われゆく坑夫たち』
『地の底の笑い話』
『サークル村』と、上野英信、森崎和江、石牟礼道子の〈闘争〉

第3章地底からの通信
『日本陥没期』
『どきゅめんとと筑豊』『骨を嚙む』『火を掘る日々』
『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』
『近代民衆の記録2 鉱夫』

第4章追われゆく坑夫と共に
『廃鉱譜』
筑豊文庫
「筑豊文庫」を支え続け受け継ぐ人々
『出ニッポン記』 茶園梨加
『眉屋私記』 松下博文
上野英信と沖縄 三木健

第5章弔旗をかかげて
『写真万葉録・筑豊』
岡友幸さんに聞く
民衆の怨念の化身として 川原一之
「筑豊よ」、逝去、追悼。
晴子さんのこと 樋脇由利子
作品 【「単著に収録されていない作品の中から図録内で言及した2作品と、図録に項目
    を立てて紹介した単著のあとがきを掲載している。目に触れることがむずかしい
    「散文詩 田園交響楽〉(『月刊たかまつ』4号、57年2月)、「解放の思想
    とは何か(『解放理論の創造 第2集』部落解放同盟中央出版局、68年10月)
    などが掲載され、「あとがき」とともに、実に読みごたえがある。:才津原・注記
年譜 【作品からの細やかな引用が多く見られる労作。上に記した広島市宇品での原爆被
   爆時の文章は、「年譜の1945(22歳)」の項からの引用である。才・注記
作品一覧
編著者一覧 別冊

「3章地底からの通信」よりの引用 ・・・〈元号〉の変わりし時に

〈いわれなき神〉のあるかぎり、〈いわれなき死〉がある【『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』より】

「戦場であれ、炭鉱であれ、日本人であれ、朝鮮人であれ、〈いわれなき死〉の煙のたちのぼるところ、そこにかならず〈天皇〉はたちあらわれる」

「それはまた沖縄であれ、水俣であれ、同じだった。石牟礼道子も『苦海浄土』に、
坂口ゆき女の絶叫「て、ん、のう、へい、か、ばんざい」を書き留める。」(s坂口博)
 【『図録』「はじめに 闘いの弔旗の下で」】

追記

この度の福岡市文学館の企画展は展示だけでなく実に多彩な関連イベントが行われた。残念なことに、2回目の”上野朱さんに聞く「筑豊文庫の日々」”には行くことができなかったが、3回目の”トーク 上野英信の仕事、その後の仕事”には駆けつけることができた。
お二人のお話を聞くことができた。

①「上野文学と沖縄」の講師は元琉球新報社編集局長の三木健さん。

三木さんの話は30年前の11月21日の上野英信さんの通夜に沖縄から何人かで駆けつけられた話からはじまった。通夜の晩の寒かったこと、残した焼酎で寒さをしのいだという。
上野さんの著作では唯一の沖縄の本である『眉屋私記』がどのように生まれたか、沖縄のひとにとって『眉屋私記』がどのような意味を持つ本であるかを語ってくださった。

その話に入る前に、「闇の声をきざむ 上野英信」図録について、その「素晴しい出来栄えに感心した、上野さんの作品を読みこなし、上野さんが言いたいことを受けとめ、評価し、みなさんに伝えようとしている。こんなに若い人(学芸員)が、こんな文章を書いて」と、『図録』を手にして驚いた私の思いをそのままコトバにされて、「これを読めば、上野さんの全貌がわかる」と話されたのだ。

1965年、琉球新報の記者となり、最初に勤務した東京支局には、写真家の岡村昭彦さんが出入りしていて、ある時「三木さん、これおみやげ」とガリ版刷りの『西表島の概況』(昭和11年発行;複製)手渡される。(岡村氏は『南ベトナム戦争従軍記』岩波新書 1965、の原稿を筑豊文庫で書いている。)
「資料提供をいただいたおかげでこんな本ができました。」と示されたのが『西表炭坑概史』(1976年出版、翌1977年の改訂版に上野英信さんの序文)

『眉屋私記』誕生のエピソードには心うたれた。『眉屋私記』が書き始められるきっかけは、「これ、読んでみませんか。」と若き日の琉球新報の記者の三木健さんが、上野さんにさしだした1冊の小さな本『わが移民記』(山入端萬栄著、志良堂清英編)からだった(1960年発行、1冊60セント)。三木さんはこの本を琉球新報の倉庫を整理していた時に見つけ、読んでみてびっくりする。面白かった。「上野さんに本を送ったら、何日かして
上野さんが来沖、「だれかが ちゃんとやるべきだよ、三木さん、あんたがやらんね」
「先生に約にたつと思って送りました。」とのやりとりがあった。

以下、『眉屋私記』「あとがき」より。

一九七四年の春、私はラテン・アメリカ諸国に農業移民として渡った炭鉱離職者をたずねて歩く途中、メキシコに立ち寄りながら、恥ずかしいことだが、まさか今世紀初頭に多くの日本人が炭坑夫としてメキシコの地底に送りこまれていようとは、まったく知らなかったのである。矢も盾もたまらず、一九七八年春、私はメキシコ行きを決行することにした。

――待っていましたよ、と言って三木氏はさりげなく餞別の入った封筒をさし出した。ありがたく頂戴してわが家に戻り、封をひらいてみて、私は驚いた。まだ封もきらないままの給料袋が入っていたのである。ふるえる手でそれをひらくと、給与明細書どおり三月分の差引支給額がそっくりそのまま入っている。とめどなくあふれおちる涙が、その緑色の明細書を濡らした。

薄給の地方紙記者とその家族の一ヶ月分の生活費を、私は一円も残さず犠牲にしてしまったのである。沖縄に足を向けては寝られない。

そんな熱い友情にささえられてメキシコの地底への度は始まったわけであるが、(略)
こうして私とメキシコ向け炭鉱移民との出会いが始まり、山入端萬栄を生んだ眉屋との出会いが始まった。

なによりのしあわせは、萬栄の妹ツル女との出会いである。以来今日まで五年間、私は休むまもなく沖縄へ通い、ツル女の思い出の糸をたぐりつづけた。思い出すのもつらいできごとのみ多かったろう。しかし、彼女は一度として率直な態度を失することはなかった。
その信じがたいほど毅然として率直な姿勢は、しばしば私を圧倒するほどであった。

圧倒されながら、私は、沖縄の真実を、ヤマトンチュに心底伝えずには死んでも死にきれないという、それこそ必死の気魄を、彼女の澄みきった漆黒の双眸に感じた。

心にきざまれるお話が続いた。

・孫の教科書で字の勉強をされたツルさんのこと。お兄さん(の手記「三味線放浪記」、兄19歳で移民:1959.10.5から35回にわたって、琉球新報に連載。東恩納寛淳・校閲:ツル女から聞き取り)についてのお話も心に残った。(ツルさんはお兄さんの資料をたくさん持っていた。)

・メキシコ取材に行く時、「沖縄の青年でスペイン語ができる人」を連れて行ったこと。(何十年も故郷を離れて暮らすメキシコの沖縄移民の人たちに、戦後育ちの沖縄青年の成長ぶりを見せてあげたい、というお心づかいからでした。この様に先生は、取材される側に立っていつも仕事をしておられました。)【『追悼 上野英信』弔辞「南東より弔戦の狼火を」三木健:上野英信追悼録刊行会 1989】

・1977.10~78.2 沖縄に長逗留時の取材時の取材振り。
 毎日、三木氏の奥さんが作った弁当持参で。
 午後・・・取材、バインダーに書き写す。
 夜・・・・酒
 午前中・・机に向かう。
  ❏テープをとらない。いい話・・心に残るものだ。
  (1回だけテープ・・・「やぶ おばあちゃん」ツルさんのところで翻訳してもらう。
  ❏ツルさんの柔らかい語り口

・1周忌、那覇での上野晴子さん、朱さんを迎えての心あつくなる「上野英信さん一周忌」のつどい、追悼文集『上野英信と沖縄 眉の清らさぞ 神の島』(追悼文集刊行会編、ニライ社刊)の出版記念を兼ねての集いのこと。

主人公の一人、山入端萬栄の娘マリアさんと、その娘エリーさんがアメリカのマイアミから駆けつけ、参加された。(略)三木さんたち関係者の努力のかいあって」」【『追悼 上野英信』の中の〈『眉屋私記』のあとさき〉中村誠司】

・上野さんからの電話のこと、絶筆「筑豊よ・・・」のこと
 「がんの上野です。」
 「筑豊よ 日本を根底から 変革するエネルギーの ルツボであれ 火床であれ」
 「 先覚者、革命家としての魂を最期まで。 民衆の歴史を見事に見せてくれた、
  これでよかった」
 「遠賀川の水は沖縄の水につながっていた」

39年前の餞別のこと、筑豊よりもいち早く沖縄でだされた追悼集のことを、三木健さんに尋ねる。

三木さんのお話が終わったあと、質問の時間にお聞きした。
「自分にできることをした。たいしたことではない。」淡々と話された。
「みんなの思いがぱっと燃え上がって。思いを伝えずにはおかない・・・」

ふたたび三木健さんの弔辞の一節から
 ( 「追悼 上野英信」上野英信追悼録刊行委員会 1989)
南東より弔戦の狼火を  三木健

 上野先生、こんなにも早くおわかれのご挨拶をしようとは思いもよらぬことでした。
先生が筑豊で頑張っておられるということが、どれほど日本中の心ある人たちの支えとなってきたことか。沖縄に住む私にとっても、それは全く同じでありました。
 (略)
それにしても、先生が足掛け十年の歳月をかけて書き上げられた『眉屋私記』は、近代沖縄の民衆の歴史を綴った記録文学として、永遠に沖縄の私たちの心の中に生き続けることでしょう。そしてそれは、私たち民衆史を志すものの道しるべとなることでしょう。
明治三十年代に沖縄の山原やんばるの一寒村からメキシコ炭坑の移民として渡っていった山入端萬栄やまいりは まんえいと、辻に身売りされていったその妹たちの歩みを克明な取材をもとに描き上げたこの作品は、まさに沖縄の近代叙事詩ともいうべき大河ドラマでした。

移民と辻売りという近代沖縄の本質にかかわる2つのモチーフによって、この作品は近代沖縄のすぐれた民衆史を構築したのでした。それは近代日本の貧困を背負って地底に下り、さらに地底を追われて地球の裏側に流亡を余儀なくされた筑豊の民と、その本質において同じものであり、上野文学が沖縄と深くかかわってきたとしても、それはけだし当然のことと言えましょう。




自宅で始めた文庫・・・風信子(ヒアシンス)文庫のこと  No.21 

玄界灘に面した福岡県の最西端の地(西隣りは佐賀県唐津市)、糸島市の海辺から3キロほど南側に入った山裾の標高50メートルの地にようやく家が建ちあがり、新居に移り住んだ2011年の2月から自宅の玄関先に本をおいて文庫を始めた。最初は文庫の名前をつけないままで文庫をしていた。

滋賀の図書館を退職した2007年5月から前原市に1年間住んだ後、翌年の2008年4月から二丈町に住み始めたのだが、私にとって思いもよらぬ大切な出会いを次々に授かった。ニューヨークから旧二丈町の海辺に移り住んで自宅の改装、増築を一人で自在にされていた梅川さんとの嬉しい出会いを、私にとってだけでなく地域の人たちにとってのかけこみ寺でもある龍国寺で授かり、梅川さんやすでに『百万円の家づくり 自分でつくる木の家の棲み家』(小笠原昌憲 自然食通信社)を手引きにして実際に基礎から美しい小屋を建てていた久保田さん夫妻(やはり龍国寺での出会い)のすさまじきご助力を得て、梅川さんと2人で半年がかりで、庭先に小さな小屋を基礎から建てることができ、そこを文庫の場とし風信子(ヒアシンス)文庫と名づけてあらためて文庫開きをしたのだった。2013年8月6日のことだ。

右下の白い屋根の小屋が風信子文庫
風信子文庫の右側が、この地で12回目となる自然農での田んぼ





さいたま市から中平順子(よりこ)さんを迎えてのことだった。中平さんは福岡市の図書館の嘱託職員の司書の方たちの自主的な研修会の紙芝居講座の講師としてよばれていたので、隣の糸島市まで足を伸ばして来ていただいたのだ。中平さんは草花あそびのビデオを10数巻作られている方なので、文庫開きの場は紙芝居はもちろん草花あそびの愉しい場となった。小学生では一人だけ参加したEくんが作った一つ一つの見事な出来栄えに大人たちが驚かされた。

最初の文庫・・・四王寺文庫のこと

風信子文庫は私にとっては2回目の文庫だ。私が初めて文庫を開いたのは1978年の何月だったか、当時私は1976(昭和51)年5月30日に開館した福岡市民図書館に開館後間もない7月から嘱託職員として働いていて福岡市内に住んでいたが、いつか大宰府に住みたいと思っていたところ私に格好の家があると知らせてくれる地元の方があり、【太宰府に出かける度に、いつも立ち寄っていた土産物のお店があり、その店を訪ねる度に、どこかいい住まいはないかとお聞きしていた。久しぶりに出かけたお店で、店の方から「あなたの気に入りそうな所があるよ」と告げられた。調べて見ると売家だった。何とも素晴らしい佇まいのお家と庭であったので、福岡市内に住まわれていた高齢の大家の女性を訪ね、買い手の方が現れるまでの借家をお願いしご了解を得たのだった。】

その借家には離れがあったので、そこで文庫を始めることにした。太宰府町の四王寺山の登り口にあったので、四王寺文庫と名づけた。文庫の本は手持ちの本と友人たちが文庫にとプレゼントしてくれた本だった。近所の電信柱などに「文庫が始めます」と描いたポスターを貼ってのお知らせであったが、文庫開きの日にはポスターを見た何人もの子どもたちがやってきた。


友人から四王寺文庫に


福岡市民図書館での私の仕事は、人口100万人をこえる大きな市で分館も移動図書館もない状態であったため、市内には160をこえる文庫があり、私は団体貸出用のみどり号に乗って運転手さんと2人で月曜日の休館日を除いた平日の毎日、広い福岡市内の各所に出かけていた。このため、たしか土曜日に半休をとっていたのだったか、その時間に文庫を開いていたように思う。(当時、各区の市民センター内にあった図書室はすべて公民館図書室の位置づけで、7区の市民センター図書室が図書館の分館となったのは、1996(平成8)年の福岡市総合図書館の設置を機にしてからである。)

このようにして始めた文庫であったが、翌年の1979年4月から福岡市が20年以上をかけて行った博多駅地区の区画整理事業が完了したことに伴い、福岡市が設置した財団法人が事業を始めることになり、その中に232㎡の図書室があることから、そこへの転職の話があり急遽、福岡市民図書館を退職することとなった。

博多駅前4丁目にあり、博多駅から歩いて10分ちょとの所にある財団法人博多駅地区土地区画整理記念会館は福岡市から3億5000万円の基本財産の寄付を受け、その利息(当時は金利が高く、年間2000万円をこえる利子収入があった。)と会議室や茶室の使用料収入で人件費を含め、施設を維持管理していくことになっていた。無料の施設としては、1階にある232㎡の図書室と2階に数十畳の畳の部屋があり地域の人たちの利用に供していた。財団の正規職員は私1人で、事務局長は福岡市の職員を課長職で退職した人が数年ごとにかわっていく体制であった。この他、経理に嘱託職員1人(記念会館を退職した1988年の前の最後の数年間は私が公益法人会計の経理も担当した。)そして図書室の臨時職員として司書2人、それに住み込みの管理人の家族の方という体制であった。図書室の図書費は300万円だった。

(私にとって3つ目の図書館の職場となった記念会館図書室には、1979年4月から1988年11月まで8年8ヶ月間勤務した。小さな図書室であったが、たくましいこどもたちや利用者一人ひとりとの関わりが濃厚な、私にとってかけがえのない出会いと学びを授かった場であった。記念会館図書室は組織上、福岡市の図書館の分館ではなかったが、福岡市に分館が1館もなく、全域サービス計画もない中で、私は記念会館図書室を福岡市の図書館の1分館と意識して働いていたように思う。年々歳々、福岡市の図書館の状況が悪くなっていると思われるようになり、1987年に「福岡の図書館を考える会」を思いを同じくする人たちと始め、福岡市の図書館政策『2001年 われらの図書館━すべて福岡市民が図書館を身近なものとするために━』づくりや、月1回の定例会や「図書館の話の出前」などを行った。)

『2001年 われらの図書館』のタイトルは『われらの図書館』(前川恒雄 筑摩書房 1987)に因み
13年後に新しい世紀を迎える時には、「すべての福岡市民が図書館を身近なものとする」ための福岡市の取組みが確実に行われていて、市民のだれもが「図書館をわれらの図書館」と誇りをもって言うことができるようにとの市民の願いをこめたものです。
記念会館の休館日は月曜日で、土、日曜日は出勤であったため、当時文庫を通して知りあった大宰府にある短期大学の学生の方たちに四王寺文庫の引き継ぎができないかと試みたが叶わず短期間で文庫を閉じる事になってしまった。

長野ヒデ子さんとの不思議な縁エニシのこと

四王寺文庫は私にとって子どもたちとの出会いの場であったが、子どもたちの幾人かの母親の方たちとの思わぬ出会いも授かっていた。当時はまだ絵本作家としてデビューされる前の長野ヒデ子さんがそのお一人だ。借家に訪ねてこられた長野さんとお話した時、丸木俊さんへの深い思いを語られたことが私の心に刻まれている。その後、長野ヒデ子さんにお会いしたのは27,8年ぶりのことで、滋賀の能登川町立図書館でのことであった。町民の一人が企画した絵本作家、長野ヒデ子さんの講演会の会場でだった。その講演のさなかに、四王寺文庫で、かつて子どもたちと作った折り紙の多面体のものを取り出して話しだされたのにはほんとうに驚いてしまった。30年近くも大事に持っていてくださったものをその日、鎌倉のお住まいからもって来てくださったのだ。講演会に参加した一人ひとりに笑いと深い元気を手渡してくださった。

『とうさん かあさん』長野ヒデ子・さく 葦書房 1980.12.25(初版)
長野さんの絵本作家としてのデビュー作/編集・担当は福元満治氏(現・石風社)
長野さんとはその後、能登川町で開催する宮沢賢治学会で、井上ひさしさんと医師中村哲さんの対談を企画した際に、その企画の実現にこの上ないご助力をいただいた。お2人の対談の当日は井上さんのご家族と一緒に鎌倉から来てくださった。能登川町立図書館での長野さんの絵本の原画展の時の深く厚いお志のことは今も心打たれる出来事だった。

風信子(ヒアシンス)文庫・・・名前の由来

いつのことだったか、たまたま手にした新潮社のPR誌「波」に加藤周一氏の短いエッセイが載っていて、タイトルが「花 信 」とあり、さらにその文字の下に「はなだより」とひらがなで書かれていた。その文字が私の眼にとびこんできた時、「風信 かぜだより」という文字とことばが瞬時に浮かんでいた。「僕の場合は カゼダヨリ だな」と。
「風立ちぬ いざ生きめやも」、時おり聞こえてくるその声が、その時間近にしていたのかも知れない、風にのって。

携帯電話に関しては、あまり近づかないようにしていた。持たないことで別段不便を感じることはなかったからだ。実際にそれを使い始めたのは図書館を退職する2年前だったろか。それを手にしようとした時に、まず聞かれたのが、「メールアドレス」、メールアドレスって何と聞き返して、改めて考えるまでもなく頭に浮かんだのは、「かぜだより」、アルファベットですね。ならば、kazedayoriですね。こうしてメールアドレスは「kazedayori@・・・」となった次第。

そしてある時、立原道造に関わる本を読んでいて、詩人で建築家でもあった立原道造が
自らの別荘として設計し、彼の生前には建つことのなかった15坪の小さな建物に「ヒアシンスハウス(風信子荘)と名づけていたことを知る。ヒアシンスハウス(風信子荘)の名前を眼にした時に、私の文庫の名前も決まっていた。近くの農業資材をはじめ、なんでも老いてあるナフコにでかけ、ヒアシンスの球根を買い求め、早速「風信子(ヒアシンス)文庫」の入り口に植えたことだった。