2023年12月29日金曜日

巻紙4メートルの書簡・伊藤野枝 No.122

ブログ121では「伊藤野枝、伊藤ルイさんのこと」と題して、「福岡出身の女性解放運動家・作家である伊藤野枝さんの没後100年に あたることから、野枝さんをさまざまな角度から論じていただきたいとして企画された伊藤野枝100年フェスティバル」(9月15,16日。 福岡市サイトピア)に参加したことを記した。そこで上映された映画「ルイズ その旅立ち」(監督=藤原智子)のこと、それに先立 ってたまたま読んだ『評伝 伊藤野枝~あらしのように生きて~』(堀和江 郁朋社 2023.4)のことなど。そして、その最後の所に 伊藤野枝は手紙の人と記した。堀和江さんの著書では、その引用の力に心動かされながら同書を読み進めたのだが、中でも野枝の手紙 には驚かされた。その一つが1918(大正7)年、満23歳の野枝が大杉栄が「職務執行妨害」で拘束され東京監獄に収監されたことに対し て、時の内務大臣、後藤新平宛てに抗議して、その理由を糺すために面会を求めるために送ったという書簡、巻紙に墨書された書簡は 長さが4メートルだという。書中には、「あなたは一国の為政者でも私よりは弱い」「私は今年二十四になったんですから、あなたの 娘さんくらいの年でしょう?でもあなたよりは私の方がずっと強みをもっています。」〔後藤新平の長女、愛子は鶴見俊輔1922ー201、そ5 の母〕 4メートルもの長い書簡とは一体どのようなものだったのだろうと、読後思っていたのだが、なんと100年フェスティバルの会場に入った 所に、その書簡全部の複製が展示されていた。読めない文字もあったが、その書簡のすべてを目でおうことができた。思ってもみない出来 事だった。その書簡の全文を記した資料が配布資料として用意されていた。以下にその全文を記します。――――― ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 前置きは省きます 私は一無政府主義者です 私はあなたをその最高の責任者として 今回大杉栄を拘禁された不法について、その理由を糺したいと思いました それについての詳細な報告が、あなたの許に届いてはいることとは思いますが、よし届いているとしても、もし あなたがそれをそのまま受け容れてお出でになるなrそれは大間違いです。 そしてもしそんなものを信じてお出でになるならそれは大間違いです。 そしてもしそんなものを信じてお出でになるなら、私はあなたを最も不聡明な為政者として覚えておきます。 そして、そんな為政者の前には私共は何処までも私共の持つ優越をお目に懸けずんば置きません。 しかし、とにかくあなたに糺すべき事だけは是非ただしたいとおもいます それには是非お目に懸かってでなければなりません。 あなたは以前夫人には一切合わないと仰言ったことがあります。しかしそれは絶対に合わないというのではあり ませんでしたね。つまらない口実はつけずに此度は是非お会いする「ことを希ます。お目に懸かっての話の内容は、 一、今回大杉拘禁の理由 一、日本堤署の申立と事実の相違、 一、日本堤署及び警視庁の声明した拘禁の理由の内容、及び日本堤署の最初の申立てとその矛盾について 一、警視庁の高等課の態度の卑劣、 一、大杉と同時に同理由で拘禁した他の三名を何のリ湯も云わず未監より放免したこと まあそんなものです、まだ細々したことは沢山あります。おひまはとりませぬ。 ただし秘書官の代理は絶対に御免を蒙りたい。それほど、あなたにとっても軽々しい問題では決してないはずです。 しかし断っておきますが、私は大杉の放免を請求するものではありませぬ。また望んでもおりませぬ。彼自身もお そらくそうに相違ありません。 彼は出そうといっても、あなた方の方側、何故に拘禁し、何故に放免するかを明かにしないうちには率直に出ます まい。また出ない方がよろしいのです。 こんな場合には出来るだけ警察だの裁判所を手こずらせるのが、私たちの希う処なのです。 彼は出来るだけ強硬に事件に対するでしょう。私共も出来るだけ彼が、処刑を受けて出てからの未来を期待し たいとおもいます。 彼は今、日本堤署によって冠せられた職務執行妨害という罪名によって受ける最大限度の処刑をでも兵器で予期 しているでしょう。 私はじめ、同誌のすべても同じ期待と覚悟をもって居ります。彼の健康も充分にもう回復しています、そして、 彼は大分前から獄内での遮断生活を欲していました。 彼をいい加減な拘禁状態におく事がどんなにいわゆる危険かを知らない政府者のバカを私たちは笑っています よろこんでいます。 つまらない事から、本当にいい結果が来ました。 あなたはどうか知りません 警保局長、警視総監二人とも大杉に向かって口にされたほど、大杉の同志の人々が離れた事をよろこんでいられ たそうです。しかし、いまこそ、それが本当は浅薄な表面だけの事にすぎなかった事が、わかったでしょう。 そして、私はこんな不法があるからこそ私どもによろこびが齎らされるとおもいます。 何卒大穗の拘禁の理由が出来るだけ誤魔化されんんことを。浅薄ならんことを。 そしてすべての事実が私共によって暴露されんことを。 此度のことは私共には本当に結構な事でした。 また、その不法がどのくらいまで私共には結構な事で、あなた方には困ったことかを聞かせて上げましょう。 あなたにとっては大事な警視庁の人たちが、どんなに卑怯なまねをしているか教えてあげましょう。 灯台下くらしの多くの事実を、あなた自身の足元のことを沢山知らせてお上げします。 二三日うちに、あなたの面会時間を見て行きます。私の名を御記憶下さい。 そしてあなたの秘書官やボーイの余計なおせっかいが私を怒らせないように気をつけて下さい。 しかし、会いたくなければ、そしてまたそんな困る話は聞きたくないとならば 会うのはおよしになるがよろしい。 その時はまた他の方法をとります。 私に会うことが、あなたの威厳を損ずる事でな以上、あなたがお会いにならないことは、その弱みを暴露します。 私には、それだけでも痛快です。 どっちにしても私の方が強いのですもの。 私の尾行巡査はあなたの門の前に震える。そしてあなたは私に会うのを恐れる。ちょっと皮肉ですね。 ねえ、私は今年二十四になったんですから、あなたの娘さんくらいの年でしょう? でもあなたよりは私の方がずっと強みをもっています。 そうして少なくともその強みは或る場合にはあなたの体中の血を逆行さ、すくらいのことは出来ますよ、もっと手 強いことだって―― あなたは一国の為政者でも私よりは弱い。             『野枝さんをさがして 定本伊藤野枝全集 補遣・資料・解説』より ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 後藤新平は関東大震災の翌日9月2日に再び内務大臣となり、きょがくの予算をあてて帝都復興に尽力します。 その復興の最中、大杉、野枝、橘宗一虐殺が群により隠蔽されたことを知り、「この虐殺は人道門だであると、 田中義一陸相に強く当たったと言われて」います(『伊藤野枝と代準介』矢野寛治、弦書房より)。➡配布資料より。

2023年10月1日日曜日

いせひでこ & 柳田邦男の世界 No.118   

風信子(ヒアシンス)文庫から2ヶ月に1回、本の出前を行っている市内前原のブックカフェ 「ノドカフェ」で、9月1日、本の入れ替えを行うとともに、出前の本の話をした。 今回のテーマは、「いせひでこ & 柳田邦男の世界」だ。 これは、伊勢英子さんの絵本『ルリユールおじさん』原画展(10月1日(日)~10月9日(月・祝)と 講演会『とくべつな一日、とくべつな路』(10月7日(土)14時~)が、伊万里市の黒川コミュニティ センターで開催されるので、それに勝手に協賛して今回の出前の本のテーマとしたものだ。 伊勢英子さんの『ルリユールおじさん』の原画展がこれまで、九州・沖縄地区で開催されたのは、2回 だけとのこと。2008年沖縄、2011年福岡市で。私にとっては、伊勢さんの絵本のなかでは、『ルリユール おじさんは』(2007年)は”わたしの一冊”ともいえる大好きな絵本だ。パリの街中のappartementにすむ 少女がこわれてしまった?大切な本をもって外にでかける。別棟のappartmenntの階上にすむおじさんも、朝の街角にでる。少女とおじさんがそれぞれに歩く街角の佇まいがとてもいい。手ぶらででかけたおじさんはバゲットをかかえている。おじさんは仕事場について仕事の準備、そのしごとばの前にやってきた少女は 中の様子にひきつけられてのぞきこむ。〈「おや、まだいる・・・」「はいってもいいの?」〉おじさんは”ルリユール”(製本を仕事とする)おじさんだった。 水彩の絵の力と簡潔なことばの力、少女とおじさんの会話、「ルリユール」の仕事をかたる絵とことば、さいごに表紙に新しくつけられた本の題、少女の名前、ソフィーがきざまれた金の文字の美しさ。おじさんのおとうさんも”ルリユール"だったという職人のしごと。 〈「ルリユール」ということばには「もう一度つなげる」という意味もあるんだよ。〉「ぼうず、あの木のようにおおきくなれ」といったおじさんのおとうさんのことば。詩のようなではなく、詩の語り、詩のものがたりと、心にしみこむ詩と響きあう絵。 『ルリユールおじさん』についで、『大きな木のような人』(2008年)、そして『あの路』(2009年)も ほんとうによくも、このような絵本が生まれるもの! と思える伊勢さんから読者への至上の贈り物だ。 そういえば、『ルリユールおじさん』と同じ年に生まれた『にいさん』(200.8、偕成社)も心に刻まれる一冊だ。『にいさん』からは、『ふたりのゴッホ:ゴッホと賢治37年の心の軌跡』(200年、新潮社)が思いだされる。賢治がでてくると、伊勢さんの『よだかの星』、『水仙月の四日』【なんと、伊勢さんのテーマは「十種類の雪を描き分けること!、だという】。 伊勢さんは『旅する絵描き』(2007年、理論社)だ。 その地を訪ねる旅は、人に出会うための旅でもある。ゴッホや賢治、そして『カザルスへの旅』(1987・理論社、1997・中公文庫)。 出前の本の話の前に、図書館から借りた絵本など、この機会にまとめてゆっくりみることに。 よだかの星(1986)、ふたりでるすばんできるかな(1990)、あらあらあら(1990)、山のいのち(1990)、海のいのち(1992)、かさをささないシランさん(1991)、みんなでりょこうにいきました(1992)、水仙月の四日(1995)、気分はおすわりの日(1996/さし絵)、グレイが」まってるから(1993)、はちみつ(19/さし絵)、空のひきだし(1997)、雲のてんらん会(1998)、ぶう、雪女(2000)、はくちょう(2002)、むぎわらぼうし(2006)、『ルリユールおじさん』(2007)、にいさん(2008)、くるみわり人形(2008)、『大きな木のような人』(2009)、『あの路』(2009・山本けんぞう・文)、まつり(2010)、木のあかちゃん(2011)、「プロセスいせひでこ作品集」(2013)、チェロの木(2013)、かしの木の子もりうた(2014)、「わたしの木・こころの木」(2014)、「こぶしのなかの宇宙」(2016)、ねえ、しってる(2017)、「猫だもの ぼくとノラと絵描きのものがたり」(2017・かさいしんぺい文)、「見ない蝶をさがして」(2018)、『原田マハ アートの達人に会いにいく」(2023・新潮社ーーとても面白かった‼) 柳田邦男さんと私自身の出会いを手渡してくれたのは、乾千恵さんだ。2003年4月2日から27日まで、滋賀県 能登川町立図書館で、『月・人・石―乾千恵の書』展を開催した。『月・人・石―乾千恵の書の絵本』は、福音館書店の「こどものとも」562号として、2003年1月1日に刊行され、その年の12月の初めにハードカバーの本として発行された、千恵さんの十三の文字の書に谷川俊太郎さんの文と、写真家の川島敏生さんの写真で生まれた、日本で(世界でも?)初めての書の絵本だ。(私自身、この一冊の書の絵本からどんなに深い出会いの数々を授かってきたことだろう) その『月・人・石』展に、柳田さんが神戸大震災のあと、毎年神戸での集いの日に参加されていて、その帰途、能登川に立ち寄られたのだ。 以後、柳田さんから直接、又著作を通して手渡されてきたもの、かけがえのない出会いははかりしれない。能登川ではもとより、三重県多気町立図書館(合併後は勢和図書館)、そして平戸市や伊万里市の図書館で。絵本専門士養成講座の場でも、そして、そして・・・。 出前の本の話の場に 9月1日のノドカフェでの出前の本の話の場に、思いもよらないお二人の参加があった。このたびの伊万里での伊勢英子さんの原画展と講演会の仕掛け人のお二人。 伊万里市黒川町から羽柴よしえさんは何とキーボードを抱えて、岩野聡子さんは(あとで、わかったことだが)『ルリユールおじさん』を何冊ももって。この日の参加者は私を含めて6人、最初に自己紹介のあと、お二人の語りよみが始まった。羽柴さんのキーボードからここちよい音がきこえるのなかで、岩野さんの読みかたりがはじまった。その声と伴奏の音に耳をかたむける4人の膝には、岩野さんから手渡された『ルリユールおじさん』があり、一人ひとり頁を開きながら、『ルリユールおじさん』の世界にはいっていく。 読みかたりの場で、その声な耳をすます人のだれもが、その本を手にし、それぞれページをめくりながら、 同じときをもつ、というのは私にとって初めてのことだった。 なんとも心みちるうれしい時間だった。一時間の時間が、お二人から手渡されたなんとも、うれしく愉しい気につつまれて、瞬く間にすぎたように思えた。 伊勢英子さんと柳田さんの本のこと お二人の著作はそれぞれたくさんある、まだ読めていないものもたくさんある。 その中でもまず、新たに、あるいはもう一度読んでみようと思っているのは、お二人の著作だ。 さいごに、それを記しておきたい。 ・『画集「死の医学」への日記』伊勢英子・絵 新潮社1996  ※1994年4月から95年3月まで、毎日新聞全国版に週1回、連載。 ・『見えないものを見る―絵描きの眼・作家の眼』1997 ・『はじまりの記憶』(1999、講談社、2002・文庫)初出「本」1998.9∼1999.5) 🌸いせひでこ 絵本『ルリユールおじさん』原画展   ・ 10月1日(日)~10月9日(月)     平日/10:00~17:00、     土・日・祝日/10:00~20:00   ・場所:黒川コミュニティセンター〔伊万里市黒川町塩屋504ー1)☎0955-27-0001 米講演会はいっぱいとのこと。

2023年9月30日土曜日

伊藤野枝,伊藤ルイさんのこと     No.121

9月16日(土)、「伊藤野枝100年フェスティバル」(福岡市西区・さいとぴあ)に出かけた。 プログラムは以下の内容だった。 ①映画「ルイズその旅立ち」10:30~12:10 ②神田紅氏講演      13:30~14:10 ③森まゆみ氏講演     14:30~15:30 ④座談会         15:30~16:30 ------ 主催者は「伊藤野枝100年プロジェクト」、同会のパンフレットには「伊藤野枝没後100年を迎えるにあたり、彼女の人生の軌跡を振り返り、未来へと語り継ぐ取り組みを行うために「伊藤野枝100年プロジェクト」を結成しました。そのために広くサポーターを募ります。月に一回『伊藤野枝集』を読む読書会を行っています。ご興味のある方は、以下のメールアドレスからご連絡ください。 Instagram,Twitterもフォローお願いします。itounoe100@gmail.com」----------------------------------------------------------------------- とある。 ①映画「ルイズその旅立ち」 パンフレットの映画の紹介では、「大杉栄(明治18/1885 ・1・21ー大正12/1923 ・9・16)と伊藤野枝(明治28/1995・1・21ー大正12/1923 ・9・16)の四女のルイズは、両親の非業の死を知って市民運動家として個人の自由と尊厳を守る活動を続けた。その姿を中心に、野枝の今日性に迫る、ドキュメンタリー映画」と記されていたが(日時は筆者、記述)、私にとっては初めてこの映画を見る機会だった。 この映画を見る4日前の9月12日から、私は1冊の本を読み始めていた。『評伝 伊藤野枝~あらしのように生きて~』堀和江(郁朋社 2023.4.28)だ。私が1週間に1,2回は行っている地元の図書館、自宅から車で10分の糸島市図書館ニ丈館(糸島市立図書館の分館)の新刊書の棚で手にしたのだった。映画について触れる前に、まずこの本のことから記したい。 二丈館の私の利用の仕方は、糸島市の図書館はリクエストが1人10冊までの制限があるので、いつも10冊の本をリクエストをしている。今は用意できた本は、図書館からすぐにネットで連絡があるため、その本を借りる時に、借りた冊数だけ新たなリクエストをして、ほぼ常時10冊の本が予約されている状態になっているという次第。私が二丈館の新刊書の棚で見つけて、借りるのは1年で10冊に満たない。年間5,6冊あるかどうか。だから、『評伝 伊藤野枝』は、私にとっては、とても得難い出会いだった。 因みに、二丈館の既存の本、開架室では、私が読みたい本はあまりない。 このため、一度にこれはと思う本を思うだけ借りている図書館は、県外の市立図書館でだ。この図書館では、能登川や東近江市の図書館と同じように、貸出冊数に制限がない。期限内(2週間)に返せばよく、借りている本を他の利用者の予約がなければ、1度だけ、貸出の延長ができる。(月に1,2回出かけて行く。自宅から車で50分)二丈館だけでなく、糸島市の図書館の本館でも、新刊棚や既存の蔵書の中に、私が読んでみたいと思う本が、きわめて少ないのだが、その図書館では新刊書の棚に、何冊も手に取りたい本を見つける。市外からの私はできるだけその棚の本を借りることを控えていて、場合によっては、そのうち、これはと思う本を、糸島市の図書館で、予約、リクエストをしたりしている。いつも驚かされるの は、開架室で短時間で読みたい本を、たちどころに見つけられることだ。二つの手提げ袋にいっぱいになることが、しばしばだ。この図書館には、利用者が利用できる書庫があり、そこには、私のこれからの限りある時間の中では、読み切ることができないだろう、読みたい本がたくさんある。 『評伝 伊藤野枝』のこと 堀和江という著者のお名前をこの本で初めて知った。これまで私は伊藤野枝や大杉栄の本をいくらか読んでいて、その時々の野枝や大杉の行動や思想(考え方)が私の中に刻まれているが、野枝の生涯の足跡を通して知ることはなかった。 1895(明治28)年1月21日、ノエ(戸籍名)はみぞれまじりの寒い晩に福岡県糸島郡今宿村大字谷(現・福岡市今宿)に生れた(第三子長女)。本書ではその折の両親、伊藤亀吉、母ムメの暮らしの様や野枝の少女時代から、1923(大正12)年9月16日、関東大震災後の混乱のさなか、甘粕正彦憲兵大尉によって、大杉栄、その甥の6歳の橘宗一(大杉の妹あやめの子)とともに虐殺、惨殺されるまでの、野枝の生涯の歩みが、「第1章広い世界へ」、「第2章新しい女」、「第3章大杉栄との出会い」、そして「第4章二人の革命家」で描かれている。 最後の章、「第5章 野枝の残したもの」は、そのほとんどが私が初めて見聞きする事柄、その内容に驚かされ、また深い感銘をうけるものであったが、ここにその細節の小見出しを記して、その内容の一端を示せればと思う。 (1)甘粕正彦  〈主義者殺し〉    ・1923.12.8甘粕―懲役10年、森―懲役3年、鴨志田、本田、平井―無罪。    ・1926(大正15.10.9 仮出獄【懲役10年だったのに、わずか2年10ヶ月で仮出獄。出t          所後、行方知れず。    ・1927(昭和2).7 日本を離れ、フランスへ。(春に結婚した服部ミネと)~1929       (昭和4).2月  〈満州での謀略〉     1929.2 フランスから帰国し、夏、満州へ。関東軍(板垣征四郎、石原莞爾)の          「満蒙領有計画」に同調、この二人と同志的行動をとっていく。(ハルビン暴         動、日本領事館、朝鮮銀行に爆弾なげこむ    ・1932(昭和7)満州国建国後、民生部警務司長(警察長長官に相当)に大抜擢さ        れ、表舞台に登場  〈満映理事長〉1939(昭和14)総務庁次長・岸信介の尽力で満州映画協会(満映)の理事         長に。  〈甘粕の最期〉 (2)辻まこと  〈父・辻潤〉  〈辻潤、天狗になる〉  〈母、野枝〉  〈転機〉  〈爽やかな風〉  〈静かな暮らし〉  〈すぎゆくアダモ〉 (3)伊藤ルイ   〈魔子(長女)〉6歳 → 真子  1968(昭和43)急逝、51歳。   ・1923(大正12)10.5 代準介ら4人の遺児をつれて今宿へ、伊藤家へ入籍、代家に。    〔幸子(次女)〕生後8か月 大杉の妹、牧野田松枝の幼女となり天津へ。エマを幸      子と改名    〔笑子(三女)〕2歳 エマ ⇒笑子 1997(平成9)映画『ルイズその旅立ち』、イ     ンタビュー断る    〔伊藤ルイ(四女」〕11歳 ルイズ → 留意子    (ネストル)生後2か月 → 栄 (翌年8月15日死亡)     ・笑子、ルイズ、ネストルの3人は亀吉とムメのもとに。  〈ルイの結婚〉  〈戦後〉      〈一人立ち〉     ・1953(昭和28)ルイと名乗り始める(31歳)     ・1959  副島人形店に(37歳で弟子入り)・・・何とか経済的に独立できないか     ・1964(昭和39)42歳で伊藤ルイに。  〈死因鑑定書〉      ルイ、1976(昭和51)年、半世紀ぶりに「死因鑑定書」発見される。解剖軍医の      夫人、大切に保存。      甘粕の軍法会議での供述の偽りが明らかに。      大杉栄―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折      伊藤野枝―肋骨、3カ所。 胸骨―完全骨折、その上、カラダハ暗赤色      すこぶる」強なる力(蹴る、踏みつける等)が加わった後、扼殺。 ―――      その後、「憲兵隊本部の古井戸に、裸にされ、菰(こも)に包まれ、麻縄で縛っ      て投げこまれていた。     しかもその上から煉瓦が多数投げこまれ、さらに馬糞や塵芥が投げこまれ井戸は完       全に埋められていた。」  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【予審調書での甘粕の発言―『甘粕大尉』角田房子(中公文庫1979、同書の      「あとがき」執筆期日 は1970.7 】では。        「同日(9月16日)8時ごろ憲兵司令部の応接室で今使用しておらぬ室へ森曹長が大杉     栄だけを連れて行き取調べて居ります時に、私が大杉栄の腰かけて居る後方からそ     の室に這入って、直ちに右手の前腕を大杉栄の咽頭部に当て、左手首を右手掌に握       り後ろに引きましたれば椅子から倒れましたから、右膝頭を大杉栄の背骨に当て柔     道の締め手により絞殺致しました。大杉栄は両手をあげて非常に苦しみ約十分位で絶    命いたしましたから、私が携えていたゐた細引を首に巻いて其場に倒しておきまし      た。大杉栄は如何なる訳であったか、絞殺する際少しも声を発しませんでした。     (中略)モリ曹長には同人が調べているときに私が絞殺すると畏怖ことを示してあ       りましたが、私が絞殺する始めには森曹長がボンヤリして椅子に腰かけて居りまし     たが、殆ど絶命するようになって足をバタバタいは     せてゐますので、私が命じて其の足を捕へさせたと思ひます。」(27頁)     このあとに、大杉の時と同じようにして伊藤野枝を絞殺したことが述べられている。     「(中略)子供は私に馴染み分隊に来てからも附きまといひますので、誰かに引取ってや者はないかと冗     談のやうに分隊の者にいつた位で、伊藤野枝を絞殺する前に私の許に来ましたから、隊長室の隣の部屋に     入れて戸をしめ一寸待つてくれといひ置きましたので、子供はそれをきき隣室で騒いで居りましたから、     伊藤野枝を絞殺すると直ちに隣室に行き、手で咽喉をしめ倒しその後細引を首に巻きつけて置きました。     子供を絞殺する際、声を発しませんでした」     「(中略)大杉栄、伊藤野枝及子供の三死体は午後十時半頃、森曹長、鴨志田、本多、平井三上等兵に手      伝はせ憲兵隊の火薬庫の傍にある古井戸の中に、菰に包み麻縄で縛して投込みました」(28頁)   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・1976(昭和51)54歳、死因鑑定書を読む読む。(1976年8月26日朝日新聞に掲載)  すさまじい暴行。「53年かかって、悪い星がわが身にふりかかったような苦しみ―一睡もできなかった。はじめて、  肉親としての実感と悔しさに目覚めた」 「そしてルイは、このような悲嘆―ルイや親族だけのものではなく、ありとあらゆる弾圧を受けた人びとすべての人  のものであると思い至る。そして、両親が虐殺された9.16の日に福岡の地で集まりを持とうと考えた」 【この鑑定書により、《大杉と野枝は肋骨などがめちゃめちゃに折れ、死ぬ前に蹴る、踏みつけるなどの暴行をう け、喉頭部を鈍体(拳或は前膊ゼンハク)にて絞圧し、窒息させたもので、致死後裸体となして畳表に梱包の上、 東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側の廃井戸に投げ捨てたもので、当時七歳の橘宗一(大杉の甥)も同じように 扼殺されていた》ことが判明。 (ルイは)さすがにショックをうけてその夜は眠れず、しかし夜明けがたになって、このような死が待ちうけて いると知りながら、「私たち夫婦は畳の上で死なれんと」と母親に告げていた野枝の覚悟を想い、心を痛めながら もそれを受け入れていた祖母を想いするうちに、同じような弾圧の中でムザムザと生を断たれた人びとや、その家 族の上に想いがかかり、大杉らの死を「私」ごととしてではなく、他の人びとと同じ視点から「優れた先達」とし て見る立場というものが獲得できた。 その直後、20年近く学習会を続けてきた仲間【梅田順子さんたち】と1年に1度、9月16日(大杉らの殺された日) に弾圧死、刑死、獄死された人、現在弾圧されつつあるひとたちのことを学習する会をもとう、ということで、そ の年、つまり76年9月16日から毎年学習会をすすめ、今年が8回目となっている。(『虹を翔ける』1991、10頁)】 ・1980(昭和55)豊前火力発電所反対運動の集会で松下竜一と出会う。その後、熱心な取材の申し出に悩んだ末、  1年半という長期インタビューに応えることに。      「松下さんとの出会いが80年の1月15日成人の日で、その日梅田順子さんに誘われて豊前の土を踏んだのが始まりで、 『ルイズ』が世に出ると共に私も動き出してしまった。北海道から沖縄まで人に招かれ、あるいは自らのプライベー トに、旅は数十う回に及び、ついには86年夏のベラウ、フィリピン、台湾の旅から、1昨年11月から昨年2月初めま での地球一周の旅へと拡がり〔ピースボートの旅〕、請われるままに出した本が三冊となった。〔『海を歌う日』講 談社1985、『虹を翔ける―草の根を紡ぐ旅』八月書館1991、『必然の出会い』影書房1991〕実にこの80年代とは、 私にとっては、劇的な10年であった。【『海を翔ける―草の根を紡ぐ旅Ⅱ』八月書館1998、80頁】      ・1982(昭和57)『ルイズ―父に貰いし名は』松下竜一(講談社1982.3)   ―すべてを)語ることによって、自己の再生、再出発にむかうことに。     60歳のルイ、軛(くびき)から解き放たれたよう  溌剌として自在な行動始まっていく。   好奇心のかたまりのようになって北から南まで、市民運動にたずさわる人びとを訪ね歩く。 ・1985(昭和60)前年に26年にわたる博多人形(彩色職人)の仕事に区切り、年金生活。全国の草の根の市民運動を  応援する旅。  〇野枝の最後の文章を読む。   「自己を生かすことの幸福」  虐殺の5ヶ月前。『婦人公論』   「ルイ、63歳になって28歳の女、28歳の葉はとしての野枝を思いえがくとき、じつに美     しく、輝いて感じる。女たちへの遺書」として書きのこされたのを感じる」  ・1989(昭和64)1.11)1.11 天皇がなくなった(1月7日)4日後、毎日新聞、ルイのコメ    ント。    ルイは4歳で昭和を迎え、その人生は昭和の歩みとほぼ重なっている.          「大正の終わり、昭和の準備期に反軍思想の故をもって両親は軍人に殺された。「天    皇に弓を引いた者の子」呼ばれて育った私にとって「天皇」はいまもなお暗く重い荷物であり恐怖の対象である。「昭和」をもって「天皇」をなくすことでしか、日本のこの恥多き日々からの立ち直りはない。」(『必然との出会い』) 〈天皇を問う〉 〈Tシャツ訴訟の原告団長として〉   三菱重工業等の連続企業爆破事件、大道寺将司―1987.死刑判決確定   支援のためのサイン入りTシャツ差入れ―東京拘置所、拒否。死刑確定者であるが、「差入交通権訴訟」の原告となることで、訴訟を遂行していく権利をもつことに。ルイ、率先して原告団長に。 ・1995(平成7)ルイ 原告側証人として2時間の証言。自身の生育歴、市民運動へのかかわり、三菱爆破とマスコミ報道等について。 「彼らが三菱重工を弾劾したのは― ベトナム戦争に加担、戦争という人を殺すための武器製造を止めさせるための行為であり、故意に人を殺すために三菱を爆破したのではないことは明らかである。それにもかかわらず、マスコミは彼らを爆弾魔と呼び、思想性のない殺人犯の扱いをしている」     ―――  「1923年9月16日、私の両親と従兄弟は関東大震災の混乱に乗じて憲兵大尉甘粕正彦らに虐殺されるのだが、それは彼らが何かをやったから殺したのではなく、その思想によって殺されたのであって、陸軍大臣も事実を知って烈火の如く怒り、閣議では後藤内務大臣も人権蹂躙であるとその不法行為をきびしくなじった。にもかかわらず、新聞記事はそれを報せず、第一報から少年橘宗一殺しのみを集中的に報じている。このように真意を伝えず、センセーショナルな記事として誤った見方を植えつけた。」   「凄まじい迫力の証言であった―それは志半ばで命を断ち切られた伊藤野枝の魂が、ルイの体を通して、現代を撃った言葉であったのではないだろうか」 ・1996(平成8)「4月半ばまで呼ばれるままに全国を駆け回っていたのだが、身体の不調を訴えて」5月に入院。末期がんの宣告。駆けつけた松下竜一に「私はしたいことをしてきたから、もういいよ」と笑って受けいれ、延命治療を拒否。      そして最期は、早くに家を出ていた長男の容典の手厚い看護を受けた6月28日の明けがた、ルイは眠るように息を引き取った。74歳の生涯を、野枝が生まれた今宿の地で閉じた。」 再び、映画「ルイズ その旅立ち」について 先に『評伝 伊藤野枝』の中の、「伊藤ルイ」の章から、いくつもの引用をしたのは、この本で読んで私が初めて知ることになったことが、映画の中で次々に画面と音声と共に立ち現れたからです。まだ、この映画を見ていない人に、この映画の背景を伝えるのに、同書は何よりの手引きだとも思えるものだった。 以下、映画で印象に残ったこと(思いだすままに) ・1972(昭和47)橘宗一の墓碑の発見。名古屋、草むらから。宗一の父橘惣五郎、昭和初期に秘かに建立。墓石の裏に「犬共に虐殺さる」。墓碑の前でルイたち、姉妹他の集いの画面。 ・1976(昭和51)「死刑鑑定書」発見をめぐって。鑑定書を書いた軍医は亡くなっていたが、それを大切に保存していた。 解剖軍医の夫人によりはじめて公開されたのを取材した画面。新聞記事で大杉らが虐殺されて53年後に「死亡鑑     定書」の新聞記事を見たことが契機となり、9月16日に毎年学習会を開くことに。1976年から。  〇松下竜一さんの「草の根通信」に長期にわたって連載された伊藤ルイさんの旅日記は、その前半が『虹を翔ける』   (1983年~1989年/八月書館・91年2月20日刊)にまとめられていたが、後半部分を収録した『海を翔けるー草の根を紡ぐ旅Ⅱ』(1990年~1996年)が刊行されたのは、1998年11月16日で、ルイさんが亡くなって2年2か月後のことだった。   松下さんは1996年6月28日に亡くなったルイさんの追悼文集、109人の文章で編んだ『しのぶぐさー伊藤ルイ追悼集』を97年1月30日に八月書館からまず刊行されたのだ。その『海を翔けるⅡ』の第1章1990年―1991年の1節「≪9・16の会  も第16回となる」に第1回からの内容が「極く簡単に説明されている」が、ここに記しておきたい。ルイさんたちがそれ までやってきた学習会や取り組んできた運動、活動の一端がしのばれるのではととも思い。 第一回 発会 千代隣保館 故井元麟之さんの部落差別によって犠牲となり断罪された「松原五人衆」の話など。 第ニ回 江口喚著『三つの死』を読み、小林多喜二の死と大学病院の解剖拒否のこと。 第三回 この会の世話人たちがかかわってきた朝鮮人孫振斗さんに「特別在留」が出た日で、原口頴雄さんによる童話教育の現状。 第四回 〈福岡部落史研〉の薄井一央さんによる坑内夫人労働者の話。 第五回 〈小郡ニュータウンを考える会〉小野主基雄さん、田篭幸雄さんんの「久留米藩百姓一揆」と農村の現状。 第六回 太田稔君による甲山冤罪事件の話。 第七回 横浜の野本三吉さんによる寿町に住む日雇労働者たちの生活。(1982年) 第八回 東京の下島哲郎さんの沖縄とのかかわありについて(「草の根通信」131号に詳しい)。 第九回 35年間を殺人罪死刑囚として過ごし、自らの努力によって無罪判決をかち取られた熊本の免田栄さんの話。 第10回 合同労組筒井修君のその労働運動の自分史。 第11回 大阪府箕面忠魂碑訴訟原告古川佳子さんの、戦死された二人の兄さんと母小谷和子さんへの想いを通しての訴訟と     のかかわりについて。 第12回 沖縄県石垣島白保の山里節子さんに、白保新空港反対運動の話。 第13回 新潟県東蒲原郡三川村に〈阿賀の家〉を構えて、「昭和電工」によって起きた阿賀野川沿岸の新潟水俣病の患者さんの、阿賀野川と共に在る生と死を映画『阿賀に生きる』として撮っている佐藤真さんの話。 第14回 福岡県築城(ついき)の地域公民館、自衛隊を相手に反戦の闘いを続けている渡辺ひろ子さんの話。 第15回 京都市伏見の音楽教師朴実さんと朴清子さんの話。朴実さんは在日朝鮮人で帰化後本名の「朴実」を裁判によりはじめて獲得した人。 第16回 南アフリカのANC駐日代表ジェリー・マッイーラ氏。(1991年) 〇第七回の集い、に横浜寿町の野本三吉さんの名前を見て驚いた(1982年)。1972(昭和47)年、私の初めての図書館の働き場となった千葉県八千代市の図書館を2年で退職し(1975.3)、私はアルバイトで費用をため、日本の外に出ることを考えていた。その候補地として考えていたのが、イスラエルのキブツだった。多分1972年5月8日のテルアビブ空港乱射事件が起きる前だったと思う。私はキブツ協会を訪ねて、応対してくれた職員の人、私よりはいくつか年上、30歳前後の人と話をした、岸田哲さんというキブツでの体験のある方だった。確かその時、私はそこで発行されていた『月刊・キブツ』のある号を入手した。それには3人の鼎談が掲載されていた。山尾三省、野本三吉、原康夫の3人、そして司会が「月刊・キブツ」編集部 岸田哲氏。いずれの人も私が初めてその名前を見る人で、それぞれがどんな人か、私は何も知らなかった。三人の話の中では、野本三吉さんの話が私の中に飛び込んできて、私の心に深く刻まれるものとなった。その頃、私は図書館を私にとって、生涯の場としては考えていなかったが、図書館の在りようとして、そうある(べき)ものとしての姿が、野本さんの働く寿生活館(横浜市民生局の管轄)の図書室にあると感じた。〈私にとっての、図書館の原形、あるべき形) 野本「生活館では図書室を開いているんだけれど、他の場所と違って、名前と年齢とどこに泊まっているかがわかったら、すぐにどんどん貸し出すことにしている。だから、月に六十冊ぐらいは亡くなっちゃうわけ。だけど逆に。「こんな無担保で本を貸すというのは、オレは始めてだ」と酔っぱらいながらいう人がいたりして、「信用してもらって、絶対にオレは返しくる」というんだな。そんな人が一人でもあると、なくなったって一向構わん。そんな風なつながりが段々広がってゆくとよいと思ったりする。 山尾「面白いですよね。本が一冊もない図書館なんていうのは。(笑) 野本「この間、ぶ厚い『広辞苑』がなくなったんだ。しばらくしたら、黒メガネをかけて大きなマスクをかけた人がね、ことさら帽子をまぶかにかぶって、「ここに『広辞苑』があったけど、どうした。」っていうんだ。あ、この人だなと思ったけれど。「みんなが読みたがっているけど、なくなちゃったんだ」といったら、「あんなもの売ったって売れないじゃねえか。オレはせっかく読みにきたのに。」とか、さかんにいっていたんだ。 それから三日後、「川っぷちに新聞紙にくるんだ『広辞苑』が落ちていた」」と持ってきてくれた人がいたんだけれど、それがその人なんだよ。(笑)大体顔の輪郭でわかるんだよ。それで、どうもありがとうございました。本当に助かる、とぼくは一生懸命にいったわけだ。それで彼も安心して自分の名前やら何やらいうんだよな。 そういう感じ」で、実に不思議なつながりなんだな。ああいうところでは、本物のつながりなんだな。本物のつながりができるかも知れないと思うんだな。これからどれだけあそこで持続できるか、一つの賭けになるな。 野本「公的な社会のインサイダーとでもいえる地方公務員になって、やはり中央政府に対する地方自治の問題を考えざるをえなくなっているわけです。すでに完全に中央集権の一環として組織されてしまっている地方自治体を内側からつくりかえていく努力をしなければならないと思っている。 もともと地方自治というものは、顕在化した共同体と同じような内容を持っているわけです。とくに、ぼくの民生というような仕事でいうと、社会福祉であり、公的扶助なわけ。相互扶助の精神をもっと生かすべきところだな。・・・・・      「今月からこの「生活者」という個人誌を出しはじめたんです・・・・・・・・・・・・・ これを出し始めたのは、〉自分は一つのところを掘ってゆき、また他の人は違うところを掘っているわけで、それぞれがやっている営みをつなぎ合わせてゆく一種の開かれたコミューンをつくってゆきたいと思ったからです。こういった個人誌というのはある種の手紙の代りなんだけど、ぼくが今こうしているというのをパァーッと出すと、どこかからか反応がある。すると、体は離れていても自分の心が向うへ旅し、向うの心がこちらへ旅してきたというコミュニケーションが成立するさ。今のように物理的な旅ができなくなった時に、こういう型式が出てきたわけです。これも一種の共同体の顕在化した姿だと思う。 この個人誌もいつまでつづくかはわからないけど、今の気持ちとしては、小さいさいものだけれどものだけれど、死ぬまで続けたいと思っています。 (『いのちの群れ』社会評論社1972年12月10日初版、1974年7共生共死の原資―に収録) ――― この一節が私の生涯の歩み伴走してきたことをあらためて思う。 梅田順子さんのこと 映画「ルイズ その旅立ち」を見ていて驚いたのは、伊藤ルイさんを偲ぶ会で発言する梅田順子さんが現れたことだ。私が梅田さんにお会いしたのは1980年代の半ばころだっただろうか。 当時,博多駅前4丁目にあった財団法人(232㎡の図書室〈記念会館図書室〉とお年寄りのための無料の施設及び有料の会議室)に勤務していた私は、住まいの近くに住んでおられた梅田さんを生協の利用を通して知りあったのだと思う。その頃、私は人口100万人をこえる福岡市で、市立図書館が1館しかなく、年々歳々、図書館をめぐる状況がひどくなると思っていて、福岡市の図書館のあり方を考える市民の活動が必要だと切実に考えだしていた。そんなさなかに、梅田さんにお会いした。梅田さんがそれまでどんなことをしてこられたか、当時どんなことを されていたか、私はまったく知らなかったが、図書館を考える市民の会の代表は、この人だと思い、梅田さんにお話をした。そのやりとりの次第の記憶はないのだが、梅田さんはすっと受けてくださったように思う。穏やかで心深く大きな人、深く考え静かに行動される人ととの出会いで「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。1987年のことだった。考える会では、 月1回の定例会や「図書館の話の出前」、そして福岡市の図書館政策づくりに取りかかった(1年ぐらいかけて『2001年われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』1988年1月24日刊行。福岡の図書館を考える会)。その間、講演会の開催や図書館見学会などを行った。その活動を梅田さんは深く支えてくださった。 今から振り返ってみると、私が梅田さんとお会いした当時は、先に記した伊藤ルイさんが梅田さんたちとはじめた〈9・16の会〉が第11または第12回の集いををされていたころではないかと思われるが、図書館を考える会の活動をしている時に、それらの活動について、また伊藤ルイさんのことも、お聞きすることがなかったと思う。ただ、福岡市の公民館が梅田さんたちの学習の場であったことをお聞きしたかもしれないが、詳しくお聞きすることはなかった。思いも寄らないことだったが福岡県の苅田町雄で町立図書館を新しくつくるという動きが生まれ( 「図書館の話の出前」で出かけたことがきっかけとなり)、1988年12月1日から、私は苅田町の職員となり、図書館開設の準備に当ることになった。(図書館開設準備室長)新館は1990年5 月に開館したので、開館まですさまじいスケジュールであった。苅田町立図書館には1995年3月まで、6年4カ月在職。この間図書館の開設準備や開館後の運営に時間を費やし、苅田に行ってからは、梅田さんとゆっくりお話する機会をもてなかた。これも今になって知ることだが、〈9・16の会〉の活動をはじめ、梅田さんのルイさんと行動を共にする活動や梅田さんたちのグループの活動などで(九電株主訴訟で実質的な事務局長という役柄―『海を翔ける』50頁)、私が苅田にいた期間も、梅田さんはとても忙しい時を過ごしておられたのだった。苅田の後、私は1995年4月から滋賀県の能登川町の図書館づくりに関わり、12年館その地で過ごし、2007年5月に能登川の図書館を退職して福岡にかえってきて、梅田さんとお会いし、折々に野枝さんの墓石のことなど、少しばかりお聞きすることはあったものの、 ルイさんと共に行動されたお話などもゆっくりお聞きすることはなかった。『虹を翔ける』、『海を翔ける』のルイさんの「草の根を紡ぐ旅」を通して、随所でルイさんと行動を共にされていた梅田さんの姿を底に見て、今にして目を瞠るばかりの私である。 コロナ前、梅田さんが新しい生活に入るにあたり、たくさんの梅田さんのご蔵書の取扱いについてのご相談があり、ひとまず「風信子(ヒアシンス)文庫」でお預かりすることとし、トラックにいっぱいの本を積んで、二丈の地に。ご本の取り扱いについて、お任せいただいたことから、本の出前でも活用させていただいている。前々回のノドカフェへの本の出前では、 「伊藤野枝、伊藤ルイをめぐって」のタイトルのもと、『伊藤野枝全集』やルイさんのサイン入りのご本や『しのぶくさ』、『向井隆の詩』、松下竜一の本ほか、梅田さんたちの市民運動から生まれた思われるパンフレットなどが棚に並んだ。これからも『梅田順子文庫』(梅田さんは仲間たちとグループ「カナリー」という会をつくっておられた。仮称「カナリー梅田順子ぶんこ」はどうだろう?)から、出前をしていきたい。 手紙の人 伊藤野枝 『評伝 伊藤野枝』では、随所に引用されている文章で、もうすでに亡くなっている、会うことも叶わない人、一人一人が今、眼前に生きている人のように立ち現れてくるのをかんじた。それまでしることのなかった和田久太郎や村木源次郎という人が、 目の前に浮かんでくる。辻潤が語る野枝評にに心うたれる。辻まことをこのように晩年まで描いてくれた著者に読者の 一人として快哉の声をとどけたい。 そして、野枝の手紙には驚かされた。野枝という人は手紙の人だとの想いがこころに浮かんだ。 1909年、14歳の野枝が東京に住む叔父、代準介に3日にあげずだした、用箋に5枚、10枚の分厚い手紙、それを見た代の燐家の村上浪六(大衆作家)はその手紙を見て、その迫力ある文章、男のような文章に感嘆、『(東京に)お呼びなさい。この子は見所がる。文章といい、文字といい、とても13,14の娘のものとは思えない」 そして平塚雷鳥にだした最初の手紙、また時を経て「『青鞜』を任してみてくださいませんか」との手紙。 さらに1918(大正7)年、時の内務大臣、後藤新平に宛てて出した」巻紙4メートルの書簡。これについては、ブログの号を改めてかくことに。

2023年8月27日日曜日

西田博志さん 悼詞 No. 120

昨年11月に亡くなられた西田博志さんの追悼の記を図書館問題研究会(図問研)福岡支部の会報 に投稿しました。ここに掲載いたします。  (掲載が遅れました。)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー     われらが西田博志さん —―これが図書館だ―― 悼詞〔 1937―2022.11 〕 ——―「図書館は何のためにあるのか」「今、何をしなければいけないのか」——― 昨年2022年11月5日、西田博志さんが亡くなられた、と滋賀の松野さん(東近江市八日市図書館長)が電話で知らせてくれた。「ああ」という言葉にならない思いが体をかけぬけた。西田さんは1984年(昭和59年)4月から1997年(平成9年)3月まで13年間、人口4万人の八日市市立図書館の館長をされた。私にとっては“これが図書館だ”と示し続けてくれた人だった。 日を経るごとに、その時々の西田さんがたち現れてくる。私が2007年3月で東近江市立能登川図書館を退職し糸島に住むようになってからは毎年、賀状で糸島での折々のことをお伝えするだけでこの15年間、奥さまの征子さまからの家人へのお便りで、その消息を知るばかりだった。思い返してみると、西田さんとゆっくりお会いし、お話できたのは指折り数えるほどだが、西田さんにお会いして以来、私の中にはなんとも懐かしい、心たのもしい人としての西田さんが傍らに居つづけていたことを、あらためて思い知る。 図書館の現場から、いま、これからの図書館の在りようを指し示し、図書館員として今「何をしなければならないか」を、後からくる人たちにその実践をとおして灯火のように指し示してこられた。心に西田さんを思うと、われらが西田さんだったとの思いが浮かぶ。    松原市民図書館(開館して2年目)を訪ねる 中川徳子さん、西田博志さんとの出会い 以後、思わず知らず西田さんから授かったものを振りかえる時を過ごしてきた。 心に刻まれているいくつかのこと、また西田さんにお伝えする時をもてなかったが、お話してお考えをお聞きしたかったことも西田さんに向けて記したいと思う。 初めての出会いは思いもよらぬことだった。 千葉県八千代市の図書館を退職して2年後の1976(昭和51)年、今から47年前になるが、福岡市に初めての図書館、福岡市民図書館が開館して2か月後くらいだったか、私は嘱託職員として働き始めた。主な仕事は当時市内に160数ヵ所あった文庫や公民館、小学校などに団体貸出の本を届けることだった。1年経ったころ、どこかに研修で図書館見学に行ってよいと言われ、深く考えることなく関西の図書館に行ってみようと考えた。関西の図書館にはそれまで一度も行ったことがなかったからだ。たまたまそのころ発行されていた『図書館づくり運動入門』(図書館問題研究会編 草土文化 1976)1冊をもって。最初に訪ねたのは大阪の吹田市立図書館だ。見学後、応対をしてくれた職員の人から、このあとどこに行くかときかれて、松原にと答えると、すぐに松原の図書館に電話をして私にかわられた。電話の相手の女性の方は図書館の職員ではなかった。どういうことだったか、待っていますと言われて訪ねて行った。そこにおられたのは中川徳子さんだった。今から思えばその時、館長は図書館におられなかったのではないか、私は自転車を押して歩く中川さんとまずご自宅に向かった。雨の日文庫を自宅でされていた中川さんと歩きながら何を話したかはまったく覚えていない。ただ図書館づくりに向けての熱いお気持ちと凛としたお姿が心に刻まれている。この後、松原の図書館に行ったのだったか。“駅前分館”の大きな看板が建物の2階?の壁面いっぱいに掲げられていたのを覚えている。建物自体は松原市中央公民館だという。看板をみれば、公民館とは思わず図書館(分館)と思うほかない。そこで初めて西田さんにお会いしたのだと思う。「この椅子は、喫茶店」かどこかからもらった、そのようなことをお聞きした。ゆったりとして話す西田さんから愉しい気が伝わってきた。ここは図書館ですとばかりの大きな看板や、喫茶店?からくつろいで座れる椅子を何台も、いかにも何ごとなく手に入れておられる(と思われた)など、私が初めて出会う大きな人だった。――― 1937年(昭和12年)生まれ、私より9歳年長の西田さんはこの時40歳くらい、1962年(昭和37年)に文部省図書館職員養成所(1年課程)を卒業した年に大阪府立図書館で務め始め、1970年(昭和45年)から大阪府立夕陽丘図書館、そして1974年(昭和49年)吹田市立図書館長として出向(4年間)、引き続き1976年(昭和51年)から2年間、松原市立図書館長として出向されていた。その2年目にお会いしたことになる。西田さんがどんな人か、何をしてきた人か、私はまったく知らないまま西田さんにお会いしたのだった。 「松原市民図書館活動報告」(2021、令和3年度)の1頁の「歩み」をみると、西田さんが松原市に来られた1976年の事績では、 「6月、配本車受贈・松原ライオンズクラブより。7月、市立天美公民館内に図書室開設(条例制定後は分室)。11月、「図書館設置計画審議会答申」が出される」とある。私が最初にお会いした、西田さんにとっては2年目の1977年(昭和52年)は「4月、「松原市図書館条例」「松原市図書館運営規則」公布、松原市民図書館発足、中央公民館図書室を松原駅前分館としてシステムの本拠地とする。布忍公民館内に布忍分室開室」となっていた。――― まさに私は松原市民図書館が開館した年にお訪ねしているのだ。そのことに私の目はしっかり届いていなかった。あらためて振り返ってみると、この最初の見学で私はいくつもの大切な要点を見落としている。「母親たちの地べたをはいずりまわるような図書館づくり」、「母親たちの長く苦しい運動」「母親たちの迫力あるとりくみ」「松原市のように、その誕生から現在、おそらく将来に至るまで、文庫の存在なくしては考えられないというような図書館」【「変身する図書館—―子ども文庫の母親たちと図書館づくり――」西田博志、『出版ニュース』1977年9月下旬号 通巻1089号】。中川さんの文庫活動は松原市の図書館づくりにとどまらず、いや、松原での文庫活動、図書館づくりの活動そのものとして、大阪で図書館が「文庫に本を貸す」ことを当たり前にするための息の長い、住民運動があり、その運動が大阪府下の文庫が大同団結した「大阪府子ども文庫連絡会(大子連)」に引き継がれ、その後の大阪府下での各地の図書館づくりに大きな意味をもった。中川さんはこの大子連前史、そして大子連の活動の渦中の要の人(1975・大子連準備会代表、1976,1977・ 副代表、その後、書記、評議員など。1987~1993年「育てる会」代表)【『本・こども・・おとな―大子連20年の記録―』大阪府子ども文庫連絡会1996.3(驚クバカリの記録集!)/ 「中川用」と表紙にメモされたこの貴重な資料を2003年4月12日に中川さんから手渡されている。同日能登川の図書館で、『子どもと文庫、そして図書館と―私の歩んできた道―中川徳子講演会』】 そのような目もくらむようなすさまじい図書館づくりに向けての運動への私の感受の仕方と、西田さんがわずか2年間の間に図書館長として取り組まれたその取り組み方、その行動を支える考え方、その気と心への私の受け止め方は、ほんとうに浅いものであったと思う。 そして自動車図書館を見ていない‼ もしその時、松原市民図書館の自動車図書館を見ていたら、その車体の側面と後部に描かれた絵を見て私は歓声をあげるか、言葉を失っていただろう。1988年3月25日に発行された漆原宏さんの『地域に育つくらしの中の図書館 漆原宏写真集』第2刷【初版は1983年12月5日】を、後年、10年以上たってから手にしたのだが、次の頁の写真を見てほんとうに驚いた。 ――― ① 36頁.  読みたいものばかり 松原市民松原図書館B.M ’76・11・2 《 わー何ということだろう。子どもの隣に座って本を選んでいるのは、Nさんではないだろうか?そのことを漆原さんにお聞きする機会をもつことができなかった。》――― Matsubara Citizens’ Library, Osaka.  Bookmobiles, weekly market of books. ② 47 頁.  現代版・門前の小僧・・・・・松原市民松原図書館 B.M ‘82・4・22 Matsubara Citizens’ Library, Osaka. 2枚の写真で車体の絵の作者が一目瞭然!写真では移動図書館の車体の横の扉2枚があげて固定されていて、その側面にどんな絵が描かれているかわからないのだが、後ろの扉とその側面には、帽子をかぶったゾウとダチョウ(その下には小さなトリ)が描かれている。 子どものときから絵本を手にすることがなかった私は25歳で図書館員となり、いきなり図書館で購入する絵本を選ぶことになった。とにかく絵本を何冊も借りて帰り、時にはつきあってくれる子どもに絵本を読んだりしていた。そうして持ち帰り読んでいた絵本の中で、私の中に刻まれた幾人もの絵本の作家があった。大人の目でも面白く、子どもたちと一緒に読んでも愉しい作家たち、その一人が長新太さんだった。その長新太の絵を自動車図書館の車体に。一体どのようにして、それを実現されたのだろう。西田さんのいう「母親たちの迫力あるとりくみ」の一つであったにちがいない。それにしてもあの時、私が訪ねたその場所に長新太の自動車図書館があったとは‼ 私が視察時に見落としてしまった大切なこと、その一端を記しておきたい。 先の「松原市民図書館活動報告」の「歩み」の書き出しは、 ・1970年(昭和45年)7月 「雨の日文庫」誕生 ※市の図書館の沿革が「雨の日文庫」誕生から始まっている。以下、西田さんが着任すする年の1976年(昭和51年)3月までをみると、 ・ 1972年(昭和47年)4月 松原子ども文庫連絡会(松子連)発足 ・ 1973年(昭和48年)7月 中央公民館内に地域文庫“松ぽっくり”誕生             11月 松原市自動車図書館運営と将来計画委員会発足        (委員:松子連より中川、滝川/栗原均、森耕一、府BM・西田博志、他) ・1974 年(昭和49年)4月 自動車図書館12駐車場で発足(月2回、司書2名) (※西田さん着任の2年前に自動車図書館運行)                地域文庫“松ぽっくり”市へ移管                市立中央公民館内に公民館図書室として開設  (※地域文庫“松ぽっくり”を市に移管し、「市立中央公民館内に公民館図書室として開設」という事績にも目を瞠る) ・ 1975年(昭和50年)1月「松原市図書館設置計画審議会」発足―—――——―—— 〈委員長は森耕一氏、松原市の図書館計画で私の中に初めて森耕一さんが刻まれた。松原市民図書館の誕生とその後に深い関り。『公立図書館原論』(“公立”の意味すること)、ランガナタンの訳書などの著作の数々、後年、著書の影響でエドワード・エドワーズの分厚い原書を九大図書館でコピー。また、長崎の純心女子短期大学で平湯文夫さんが企画された夏期の集中講義で一度だけ、お話を聞く機会をえた、ミヒャエル・エンデの『モモ』の時間の話が記憶に残っている。「忙しい」の「忙」は「心を失う」の意について話された。〉 それにしても、市の図書館の歩み(歴史)が一人の市民が自宅で始めた一つの文庫(雨の日文庫)の始まりから書き始められていること。そして2年後の「松原文庫連絡会」の発足、1年半後には中央公民館内に地域文庫“松ぽっくり”の誕生、その4か月後には、松原市自動車図書館運営と将来計画委員会発足。そして5か月後、長新太さんの絵が描かれた自動車図書館が走りだす(12駐車場)。長新太を選んで、それを形にする取り組みのすさまじさ‼。同時に地域文庫“松ぽっくり”を市へ移管して、市立中央公民館内に公民館図書室を開設。9か月後に「松原市図書館設置計画審議会」を発足している、というより発足させている。それらの活動の陰に森耕一さんや西田さんたちの姿が感じられるけれども、雨の日文庫と文庫連絡会を核とした市民のすさまじい活動―「長く苦しい運動」が西田さんが松原市にやって来られる直前まで6年かけて行われていたのだ。そのすさまじい中川さんたちの図書館づくりへの思いを結集した力が、松原市の初代館長として、他の誰でもない西田博志さんを松原市民図書館長とさせたのだと今にして思う。中央公民館内で地域文庫“松ぽっくり”を設け、それを市に移管して、公立の公民館図書室としたように、図書館が始まるとき、その要の役割を担う図書館長に、この人をという選択、図書館の要に要の人を得ることが肝心要のこととして、それを実現させるための「母親たちの地べたをはいずりまわるような図書館づくり」に向けての深い思いと行動―― 後に、13年後の1990年6月25日、西田さんは北海道公共図書館司書会創立10周年記念の図書館セミナーでの講演で、中川さんについて「大阪の「雨の日文庫」の中川徳子さんは(私は、その人に育てられたようなものですが――)、松原市の図書館づくりに携わっていたときに、いろいろと仕事を一緒にしました。その方を滋賀県立図書館の専門講座にお呼びしたときに・・・」(演題は「図書館の職員はどうあるべきか」)と語られている。 松原市民図書館見学の報告(福岡市民図書館、視察報告1977年) 以上のような私の視察時での要の欠落があったものの、それでも私が中川さんや西田さん、そして松原市の図書館づくりの取り組みから受けた衝撃は深いものがあった。福岡市民図書館の職員の研修の場で、私はかなりの資料を配布して、松原市民図書館の報告をした。 どこかに青焼きでやいた46年前の原稿のコピーがあるはずだが、今はでてこない。 1976(昭和51)年11月、西田さんが着任(図書館担当参事、府より出向)して7か月後に「答申」をだしているが、私は主にその答申の内容について話したのではないかと思う。図書館計画というものを、松原市の計画で私は初めて目にしたからだ。このようにして図書館づくりを進めるのか、目を見開かされる思い。当時人口100万人をこえる福岡市では図書館は1館だけで、市民だれもが利用できるための図書館計画、またその取り組みはまったくない状況の中で、松原市の図書館計画は、福岡市でのこれからの取り組みにその方途、その道を示すものに思われたのだった。 それから10年、福岡市で何らの動きがない中、私は「福岡の図書館を考える会」の活動を始め、1988年(昭和63年)1月に市民による福岡市の図書館政策『2001年われらの図書館――すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために――』を仲間ととも発行した。その冊子の「添付資料」の「4.すべての市民が利用できるためには―全域サービス・松原市の場合」で、1977年に松原市民図書館を見学した時に入手した資料をもとに、松原市の事例を紹介、掲載している。福岡市民図書館での同年の出張報告でも、この内容を主に報告したのだと思う。 『全域サービス』の説明では。 図書館の来館者の密度と距離の関係がどう変化していくか、その比率(来館者密度比)をものさしにして、市内どこでも(全域)で利用できる体制をつくる。 人口13万5千人、図書館数6館、(人口22,500人に1館)、自動車図書館1台、貸出628,000冊(市民1人当り4.7冊)、職員28人(市民4,821人に職員1人) 利用圏は以下の通り 地域館・・・・・700m 分室・分館・・・500m ステーション・・300m (1983年現在)【「松原市の市民図書館1984」日本図書館研究会より】 松原市の図書館計画と図書館づくりの実践は、『2001年われらの図書館』をつくるにあたって、「すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために」「全域サービス」が肝心要のことであること指し示してくれるものであった。 松原市の中川さんや西田さんたち、そして文庫連や市民の一人ひとりの方たちの図書館づくり運動の営み、そこから生みだされた全域サービスを核とした図書館計画は、私にとって中川さん、西田さんから授かった最初のかけがえのない贈りものだったと、今にして思う。以後の私は、そこで示された道に向かって歩んできたように思う。 西田さんは松原市での図書館長としての2年間の出向が終わると(1976.4~1978.3)府立中之島図書館に帰られた。同館に1978年(昭和53年)4月から6年間、こうして府立図書館では22年間勤められた。(そのうち6年間を吹田市と松原市に図書館長として出向) 滋賀県八日市市では新しく図書館をつくるにあたって、館長人事で校長先生のOBをという当時の市長の考えに、「それは困る」と主張する市民の動き(力)があり、県教育委員会文化振興課(上原恵美氏)の強力な関わりの中で専任専門職の館長の招へいとなった。こうして西田さんは1984年(昭和59年)4月から、八日市市から招へいを受けて新館開設準備室長として、また1985年(昭和60年)4月からは図書館長として、同年7月の図書館開館を経て、1997年(平成9年)3月までの13年間を八日市の職員として勤務。 中川徳子さんとの再会 一方、私は松原市民図書館を訪ねた翌々年の1979年(昭和54年)3月末で福岡市民図書館(開館は1976.5.30/在籍1976.7~1979.3)を退職し、4月から福岡市の外郭団体、財団法人博多駅地区土地区画整理記念会館の職員として働き始めていた。同館は福岡市が20数年をかけて博多駅地区の区画整理事業を行い、その事業の完了に伴い、この事業への周辺住民の協力に感謝して建てられたもので、3階建てのうち、1階に232㎡の図書室、2 階に無料の和室(大広間)と有料の茶室、3階に大小の有料の会議室があった。職員は福岡市を退職した職員が数年間事務局長として1名。正規職員は私の1名(途中から事務職員が1名ふえたが、のちに嘱託職員となる)、図書室は私と臨時職員1名(のちに2名)という体制であった。図書室は“記念会館図書室”と称していた。(図書室開室1979.6.12) 2年前の福岡市民図書館での松原市民図書館の出張の報告の影響があったのかどうか、記念会館図書室が開館する直前、4日前の1979年(昭和59年)6月8日(金)、市民図書館で新しく始められた事業、「婦人読書ボランティア養成講座」が開かれ、中川徳子さん(雨の日文庫)と中川さんの友人の正置友子さん(青山台文庫)のお2人が大阪から来られ講師として話された。「子どもの創造性をはぐくむ文庫活動」というテーマだった(10:30~14:00)。講座終了後、お2人が記念会館図書室を訪ねてくださった。おみやげに色鮮やかなデザインの元気あふれるエプロンをいただいた。中川さんは新しい仕事場を喜んでくださった。中川さんとは1年半ぶり、2度目の出会い、正置さんとは初めての出会いだった。小さな新しい図書室(地域の図書館)の開館・新たなスタートに向けて、天からの贈り物のような深い元気を吹きこまれる出会いだった。 〔改築/開館2002・平成14.10.1。図書室232㎡➡114㎡;臨時職員1名、2か月毎の勤務〕 西田さんとの2度目の出会いまで 記念会館を1988年(昭和63年)10月末で退職(在職1979.4~1988.10)した私は12月から苅田町の職員となり教育委員会で図書館開設の準備に取りかかることになった(苅田町;人口3万4千人、開館は1990年・平成2年5月12日;開館まで1年10ヶ月間)。1987年(昭和62年)に始めた“福岡の図書館を考える会”では、先に記した市民による「福岡市の図書館の政策」づくりととも“図書館の話の出前”を行っていたが、その出前がきっかけとなった。出前は図書館について話を聞きたい、したいと言う人の所へ、福岡市内だけでは、県内どこにでも出かけて行くというもので、ある時、行橋市の図書館を考える会から声がかかり、そこで行橋市に隣接した苅田町の職員と出会った。それから程なく、苅田町で図書館づくりの動きがある、来ないかということだった。 苅田町立図書館は福岡県内75町村中第5番目の町立図書館として、平屋建て、1983㎡、蔵書約52,000冊で開館した。(1990.5.12:小波瀬分館40㎡〈1989;2009年➡80㎡〉,BMは15日後の6月1日から、21ステーション)。設計は(株)山手総合研究所の寺田芳朗氏(後に独立して寺田大塚小林計画同人)だった。図書館は開館の年から、図書館計画の2倍をこえる利用があった。計画では、全国の先進的な図書館の利用度を目安として、開館時の登録者を25%、住民1人当たり貸出冊数を6冊、開館から5年目の目標を登録者33%、貸出密度8冊を想定していた。開館した1990年度(11ヵ月間)から私が在職した5年間でみると、1990年度、貸出密度9.79冊、町内登録者42.6%;実質丸1年間の1991年度、貸出12.51冊、登録49.8%;1992年度14.24冊、登録54.8%;1993年度15.24冊、登録58.8%;1994年度貸出16.58、登録63.5%であった。 計画を大きく上回る利用があった主な要因は資料費の継続的な確保(人口当たり資料費、1990年度から1,327円、1,387円、1,351円、1,346円、1,389円;毎年、42,999千円~ 47,088千円の資料費)と分館網(1992年6月、北分館250㎡;1994年6月、西分館250㎡)の整備があったと思われる。また計画策定にあたって、図書館を求める、計画の2倍をこえる住民の強く深い要望をしっかりとらえきれていなかったと思い知らされたことでもあった。 八日市へ(2度目の出会い) 日時が定かでないのだが苅田町立図書館の開設準備期(多分1989.4~1990.3の間)、私は一人で八日市市立図書館を訪ねている。覚えているのはJR琵琶湖線の近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え八日市駅で下車し駅から図書館まで歩いて行った時のことだ。昼食の時間と重なると思ってか、途中パン屋さんに立ち寄った。驚いたのは偶々立ち寄ったそのお店に図書館の何か行事のチラシがおいてあったことだ。初めて八日市の図書館を訪ねて、西田さんにお話したのは、まずパン屋さんで手にした図書館のチラシの話であったと思う。そのような場所に図書館のチラシがおいてある、その驚きを挨拶もそこそこに話していた。  西田さんとは10数年ぶり、2度目の出会いであったが、すっとお会いできたように思う。懐かしい人に出会えたような。八日市の図書館は高い天井の下、ゆったりとおちついた空間だった。カウンター前の職員の考案による新刊架、一般書架の最下段を手に取りやすく、見やすさを考えて、床下20センチくらいからにし(通常7㎝くらいからが多い)、5段書架と低書架にしていること。ゆったりとした書架間隔、写真集の収集の密度の高さとここでも、たしか職員手製の表紙見せ平置き架が印象に残っている。 目を引かれたのはサインだった。「社会を見る眼」、「戦争と平和」、そこにはNDC(日本十進分類法)をこわして、分類番号順ではなく、そのテーマ(見出し)のもとに、本が集められ並べられていた(色ラベルを貼付)。NDCによらない、市民にとって利用しやすい排架を目指して時間をかけての取り組みに目を瞠った。 「社会を見る眼」というサインは「ものごとを考える」ための資料の収集、提供という図書館の本来の機能と図書館が目指すものを明示しているように思われた。これはそのサインを目にしてすぐに思ったことではなかった。その時はただ驚いただけであったと思う。ただその驚きは私の中に深く刻まれ反芻されての気づきだった。 「いいまちづくり 役立つ図書館」の常設のコーナーも目にとまった。何かハッとするコーナーだった。まちづくりと図書館、市民の誰にとっても住みよいまち、「いいまちづくり 役立つ図書館」はどの図書館にとっても、図書館の目指すべき在りようではないかと。 自然保護と環境の本のコーナーも、そこに焦点をあてて幅広く奥深い資料の収集と提供に力を尽くしている棚からは、図書館は誰のために、何のためにあるのかという八日市市立図書館の明確な姿勢が伺われた。 この時の視察時に西田さんに話したかどうか。苅田町で私にとって初めて図書館の開設の準備に取り組んで、初めて図書館の建築、設計について向きあうことになった時、私が図書館の建築と設計を考えるための手がかりとすることができたのは1冊の本だけだった。『図書館施設を見直す』本田明、西田博志、菅原峻著(図書館員選書15、日本図書館協会 1986)。3人の著者による本書は私にとって深く納得でき、目を開かれる内容に満ちたものだった(西田さんが書いた4章、とりわけ3.「よりよいサービスを生み出すカウンター」の3.2「カウンターは図書館員を遠い存在にする」、カウンターの敷居の高さ)。出版されて27年がたち、在所の図書館では書庫に入っているこの本は、2023年の今読んでも学びが深い本だ。基本設計がどういうものであるか、それがどれだけの時間を要するものかを考えることができなかった私は、この書をものさしにして設計に向きあうとともに、今ひとつ、 何を目にして得た思いだったのか、設計者が図面に最初の線を描き始める前に、まず設計者と図書館長が相対して、どんな図書館を目指しているかを語りあい、協議を始めることが肝心要のことだとの思いがあった。実際はたっての思いで町が設計事務所の紹介を図書館計画と施設の在りようについて研究されている人にお願いし、図書館建築に思いと経験のある3社の事務所の紹介されていたが、2社からは辞退された。設計期間があまりにも短かったことがその主因だったと思われる。あの状況の中で、あの設計期間であの設計をなしうるのは寺田氏しかなかったと、今にして思う(寺田さんとの出会いに感謝の思いをこめて)。 ともあれ基本設計の設計期間が4ヶ月であったことから(それがどんなに短すぎる設計期間であるかを私自身がまったく考えていなかった)、1988年12月1日に準備室が設置されて1週間もしないうちに基本設計の第1案が準備室と協議を始める前に届き、12月7日に横浜にある設計事務所を訪ねて初めて寺田氏に対したのだった。西田さんにはそのような経緯は話してはいないが、『図書館施設を見直す』の論考から深い力を授かったこと、西田さんの著書を通して手渡されたもののことをここに記しておきたい。西田さんが八日市に来た時には、図書館計画(日本図書館協会委託)も設計もすべて終わっていて、西田さんは館長として作成や協議に関わっていない。(この間には県立図書館長の前川さんの深い関り、ご助力があったと思われる。)西田さんに設計協議に館長として関わってほしかった、そうしたらどんな図書館が生まれただろう、それを見てみたかったという私自身の心底の思いがあり、そんな西田さんと建築家との向きあい方がどうであったかを『図書館施設を見直す』の著者西田さんからお聞きできればという秘かな夢のような思いが私の中に埋もれてあったことに今ようやく気づく私がいる。西田さんと色々もっとお話ししたかったと。 3度目の出会い(八日市市立図書館 1992年11月) 西田さんにお会いした3度目の期日ははっきりしている。1992年のことだった。 1992年、苅田町立図書館が開館2周年を迎え(5月12日)、6月2日には北分館(苅田町立北公民館図書室)が開館。10月3日には1990年5月12日に開館して以来の町立図書館の貸出冊数が100万冊突破(100万回の本と人との出会い)。その翌月の11月17日、日本図書館協会の第8回公共建築賞・優秀賞を苅田町立図書館が石垣市立図書館とともに受賞(1989年、八日市立図書館、1994年湖東町立図書館、同賞受賞、その後、八日市市、湖東町は五箇荘町、愛東町、永源寺町と合併して東近江市となり、これに能登川町と蒲生町が編入合併して1市6町が東近江市となった)。 その授賞式が名古屋市で行われ、沖勝治町長、増田浩次館長に同行した。その帰途、館長の増田さんに八日市の図書館を見てほしくて2人で同館を訪ねた。その際、館内の視察や館長の西田さんのお話とともに、私たちは苅田町立図書館のその後の運営にあたって指針づくりにヒントとなる、八日市市立図書館の取り組みを知らされた。八日市で1991年以来、毎年作成している「八日市市立図書館の目標」だ。「1.私たちの目指す図書館づくり」として10の目標が掲げられている。Ⅰ番目には、「1.市民の求める資料・情報に、かならず応える図書館」、そして、10の目標を達成するために、「Ⅱ.目標を達成するための具体的な課題(指針)」として、7つの柱(指針)が立てられ、それを実現し達成するための具体的な方策が挙げられている。7つの方策(指針)とは、 1. 要求された資料に必ず応え、より多くの市民に資料を借りてもらうために(9つの方策) 2. 子どもへのサービスを発展させるために(5つの方策) 3. 市民の生活、地域の要求課題に役立つために(6つの方策) 4. 温かさと安らぎのある空間を創り出すために(7つの方策) (1) お客さんへの対応は「さわやか」をモットーとし、あいさつや「ありがとう」 という言葉を大切にする。決してベタベタしない。 (2) 資料のことを聞かれたら、コンピュータに頼らず、気軽に書架へ案内する。 (3) 書架が図書館の顔であることを認識し、全員が整理、整頓(面揃え)に務める。 (6)他のお客さんの迷惑になる行為については、目立たない方法で注意する。 5. 真に市民の要求にこたえる資料を収集するために(4つの方策) (2)最新情報としての新聞、雑誌を重視する。 (3)選書にあたっては住民のニーズを基本をおき、つぎの点に留意する。 ① 市民の向上心に刺激を与えることができるかどうか。 ② 資料的価値があるかどうか ③ 街づくり、商店(街)、凧、蛍などに関するもの ④ 自然保護、ゴミ、リサイクル、原発問題など環境保全にかんするもの   (4)高度に専門的なもの、人間の尊厳を傷つけるようなもの、名作物の抄訳版や      翻案もの、芸術的価値の低いマンガや絵本などにちては当面収集せず、これら       リクエストされた場合は、県立図書館などからの借用によって対応する。 6. 自立性のある職員集団を形成するために(7つの方策) 7. 八日市市の図書館システムをつくり出すために(7つの方策) (1) 貸出を伸ばすためだけでなく、分館建設に向けて移動図書館の効果的運用を図る。 (2) 「分館設置」の機運をつくりだすため、市民、行政への働きかけを強める。 (3) 自宅配本、テープ録音など障害者へのサービスを軌道に乗せる。 (6)県立図書館を十分に使いきり、その上で国立国会図書館をはじめ全国の公立、大学図書館などの力を借りる。 (7)図書館のリサイクル政策の一環として「リサイクル・ショップ」の設立を検討する。【のちに「ぶっくる」として実現】 「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は、『図書館建築22選』(図書館計画施設所編著 東海大学出版会 1995.4)の中で、西田さんが八日市市立図書館について書いた文章の標題であるが、「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は西田さんのさいごの仕事場となった八日市市立図書館での取り組み、実践の姿勢そのものを表していると私には思われる。目標をかかげ、何が課題であるかをさぐりつつ、解決の手立てを考え、それを実践していく。このようにして目前の課題に立ち向かっていくのだ、というあり方を鮮やかに後進のものに指し示している。 【「目標をかかげ、課題をさぐりつつ」は『八日市市立図書館(新館)開館十周年を 記念して』(八日市市立図書館 平成8年(1996年)12月)に転載されている。以下 『十周年を記念して』と表記する。】 苅田町立図書館では1990年(平成2年)5月の開館にあたり、私たちが目指す図書館 として4つの目標を掲げていた。 (1) 学ぶ 生涯にわたる自己学習を保障する、町の情報センターです (2) 集う 本のある出会いの広場、ふれあいの広場です (3) 憩う すべての人が自分の時間を、お気に入りの場所で過ごせます (4) すべての町民のための図書館        いつでも、だれでも、どこに住んでいても、なんでも利用できます つぎは、この4つの目標を達成するための具体的な指針を苅田町に即して考えることだった。こうして翌年度の1993(平成5)年4月から、「苅田町立図書館の目標―私たちが目指す図書館―についで、「運営方針」として、4つの指針を表明、明示したのだった。 1.「学び」を実現するために  (1)住民の求める資料を確実に提供し、さらに資料に対数要求を高める。(方策6)  (2)豊かな、魅力ある資料を収集する。(方策3)    ②町民のための最新の情報源として、新聞・雑誌の収集に力を入れる。       市販のものに広く目を配るとともに、町民の目に触れにくいもの、入手しに       くいものの収集に配慮する。雑誌については、複本も積極的に購入して最大       300誌を目標に増加を図るとともに、利用度、内容に応じた更新を常に検討す       る。      ③選書にあたっては、住民が求めるものを基本にして、次の点に留意する。     ア 読者に生きていく上での力や励ましをあたえることができるかどうか。読者に学ぶ楽しさを伝え、学びの世界に誘うものかどうか。・読者が読んで何かを発見する本・正確な本・美しい本・著者が一生懸命に書いている本  イ 資料的価値があり、かつ利用度が高いもの  ウ 豊かな暮らしに関わるもの  エ 町づくり、地方自治に関するもの (4) 町民の暮らしの課題や地域の課題の解決に役立つ(方策4) ① 町民の暮らしの中での疑問や仕事の上での疑問、また、地域で直面している課題の解決に「レファレンス」サービスという形で援助する働きが、図書館の基本的な業務であることを事例紹介とともに広く知らせ、「調べごとは図書館で」といった利用を図る。 ② レファレンスの回答をする時は、必ず複数の職員にも相談し、また、結果を職員全体に周知する。 ③ 住民の声を聞き、住民の求めているものを把握することに絶えず努め、選書や図書館運営に生かしていく。 ④ 地域の課題や行政課題の把握に努め、その課題に関わる資料の収集・提供を行う。 2.「集い」を実現するために(方策3)   〇本のある広場としての図書館を育てる 3.「憩い」を実現するために(方策4) 4.「すべての町民のための図書館」を実現するために(柱4,方策9) (1) 児童へのサービスを発展させる ① 子どもが生きている世界や、子どもを取り巻く地域の状況の把握に努め、一人ひとりの子どもが見える対応を心がける。 ② 子どもの身近に、子どもの手の届くところに、「本当におもしろい本」のある状況を作ることに力をいれる。 ③ 子どもカウンターに職員を配置し、子どもの本の読書相談を積極的に行う。 ④ 読書に慣れていない子どもに、愉しく面白い本の世界を知らせるため、定期的なおはなしタイムや人形劇など、各種の行事を行う他、フロアでの読み聞かせを行う。 ⑤ 地域の子どもの読書環境の改善に取り組む文庫活動に対して、その活動状況をつかむとともに、できるかぎりの支援をする。 (2) お年寄りや図書館利用にハンディキャップのある人へのサービスに努める。 (3) 図書館を一度も利用していない未利用者への働きかけを行う。 (4) 苅田町の図書館システムをさらに充実させる。(方策4) ⑤ 求められた資料を確実に提供するため、県立図書館をまず十分に活用し、さらに国立国会図書館や全国の公共図書館、大学図書館などの協力を求める。相互貸借を通じて、全国の図書館につながる活動を積み重ね、図書館システムのさらなる充実を図る。 【注記:当時は県立図書館から県内の図書館を巡回して、相互貸借を行う体制ができていなかった。】 西田さん 苅田町の事例を長々と書いてしまいました。八日市の図書館から深く学び授かったことを、西田さんに何の報告もしないできたことを改めて思い返し、遅ればせの報告をしようとする私がいます。最初に松原をお訪ねして以来、お会いするたびに、またご著書と西田さんの図書館での実践活動の足跡から、私自身深く自覚しないままに、その時々にこの上ない学びを授かってきたこと、そのことをこれまで一度も西田さんにお話していなかった自分自身に驚いています。 長くなってしまいましたが、あといくつかのことを。 4度目の出会いは (滋賀で 1995年) 苅田町立図書館が開館して5年目の年の暮れ、1994年12月、滋賀県能登川町で図書館開設の動きがあり、翌年4月に設置される開設準備室での仕事のお話があり、お受けすることにした。3月末で退職するまでの3カ月の間に、能登川町で図書館・資料館(のちに博物館)の基本構想策定委員会が3回開かれ委員会に参加した。1回目の委員会は阪神淡路大震災が起きてそんなに日がたっていない1月の末頃だったろうか。委員会に先だって送られてきた資料の委員の名簿をみて驚いた。能登川町の町民や町職員の他に町外の委員(学識経験者)として、滋賀県立図書館長の澤田正春さんや八日市市立図書館長の西田さん、そして滋賀県立博物館の準備室の用田さんのお名前があったからだ。澤田さん、西田さんのお名前に驚いてしまった。県、県立図書館をあげての、県内の図書館が協力し合っての、他県に例のない図書館づくりの真剣で本気の姿勢が感じられた。なんとその委員会で西田さんにお会いできると思っていたが、西田さんは病気で欠席され、1回目の委員会だったかどうか定かでないのだが、委員会終了後に病院にお見舞いをした。4度目の出会いだった。車好きの西田さんはその頃、キャンピングカーで生活をする住所不定の図書館長で、西田さんが倒れたのは河原に止めていたキャンピングカーの中でだった。なんとか図書館まで来られたもののそのまま入院されリハビリにつとめられたが、図書館に来られるようになったのは4月以降だったのでは。そうしたお体の状態で、八日市市立図書館開館十周年記念事業(7.23岡部伊都子講演会、乾千恵語りの会)、西田さんの仕事の集大成とも思える「風倒木」(7.9)や「ぶっくる」(本のリサイクルショップ 7.9)のオープン準備にとりかかられた。 西田さんは委員会に参加されることはなかったが、委員としておられるだけで、私は大きな拠り所と感じていたように思う。 準備室発足前に、1年間、担当職員を研修に 1995年4月1日から人口2万3千人の能登川町で図書館・資料館開設のための仕事が始まった。準備室のスタッフはそれまで社会教育課係長として実質的な開設準備を担当してきた清水保さんと、司書の資格をもちそれまで町長部局の仕事をしていた松野勝治さん(現・東近江市立八日市図書館長)と私の3人。私が驚いたのは、準備室が発足する前の1年間、松野さんを図書館での研修にだしていてくれたことだ。それも滋賀県立図書館で半年、八日市市立図書館で半年という、研修先としてベストと考えられる図書館でだった。図書館の研修では、研修での様々な学び自体の重要な意義は勿論のことだが、それにあわせて、それぞれの図書館で生まれたと思われる松野さんと2つの図書館の職員の人たちとのつながりは松野さんのこれからの図書館での仕事に大きな力になると思われる。明るい性格でユーモアにあふれ、ひと懐っこい松野さんは幾人もの人と親しい関係を、そうと意図せず 作っていると思われた。そして新館準備に当たる職員の研修先ということで、西田さんと澤田さんがが立ち現れたことに私は心底驚かされた。能登川の図書館が開館するまで2年6カ月の期間(苅田町の2倍)があったが、準備室の仕事が何とか進み始めたある時期、短い期間であったが土曜日か日曜日の役所が休みで準備室が閉室の日に、私は館長の西田さんの許しを得て、八日市の図書館で返却本を書架に返す作業をさせていただいたことがある。できれば自ら志願して、そこで実習したいと思う図書館が八日市市立図書館だった。また、県立図書館の仕事をしている県立図書館が全国で数少ないと思われる中で、滋賀県立図書館は県立図書館は何をするところかを、日々の活動を通して示し続けている図書館で、町立図書館の職員がその県立図書館の実態を知り、県立の仕事の体験をすることは、町立図書館で仕事をする上で、県立図書館をよりよく利用し、町立図書館の職員としても、今、これからの県立図書館のあり方を考えていく上でも、この上ない得難い経験だったと思われる。 こうして能登川町立図書館が始まる前に、西田さんによって図書館魂ともいうべきものの種が蒔かれていたことにあらためて思いがいたる。 西田さんの図書館の実践、そのお仕事で、あとを歩んできたものとして感謝にたえないのは、その軌跡を記録として、文書として残されていることだ。住民と図書館が共同で企画編集する『筏川』の刊行、『八日市市立図書館の目標』、そして『十周年を記念して』。 それらを手にとって頁を開くと、どの頁からも西田さんの実践から生まれた声や魂の声が立ち上がってくる。 『十周年を記念して』の14頁、「すべての本を貸出するということ ―八日市市立図書館の理念―」には、西田さんの図書館魂が語られているように思われる。 「八日市市立図書館設立の目的は、第一に発行されている図書のすべてを、八日市市民及び市内に通勤、通学している者のすべてに貸出し、提供することである。  それは当図書館内に保有するものの他に、国立国会図書館をはじめとする他の公立図書館、大学図書館等にある発行物を、八日市市立図書館の名において、市民等に貸出し、提供するということである。その意味では、一地方自治体における住民のための「本の窓口」という役割を果たすものであろう。  私たちが、これに基づいてまず手がけたのは、「図書館にある本はすべて貸出しをする」ということである。普通、図書館では、辞書や事典、ハンドブックなど参考図書、あるいは雑誌の最新号については、貸出しをしないという所がたいへん多い。  当館では、こうしたいわゆる参考図書や郷土資料でも貸出しすることにした。これは職員が参考事務を行うなど、職員の間で多少ひっかかりはあったが、百科事典を複本で購入する、貸出し期間を1週間にするなどして、なんとか乗り切った。これまでに数年経ったが、これにより大きな支障が起きるということはなかった。一般図書では、加除式の現行法規については、その性質上、貸さないということが決められた。 【このことでは、能登川町立図書館も1997年11月の開館以来、貸出ししない図書は現行法規だけであったが、すべての図書を貸出すことで私がいた開館後の9年間で、支障をきたすことは一度もなかった。 在所の図書館や近隣の図書館で、すぐ目につくのは「禁帯出」のラベルが貼ってある図書(の一群)だ。その多くが館内にあっても手に取られず利用されていないように思われる。】 そうして雑誌については、要望の多かった女性誌を中心に、複本を180種類ほど購入し、週刊誌以外の最新号の貸出しを始めている。総タイトルも180種類から始まり500種をこえていた。(580種?) 貸出し冊数を無制限にし(能登川も)、ランガナタンの図書館学の5法則のうち「図書は利用するためのものである」という第1法則から八日市の図書館の書架の高さや並べ方を考えている。私も5法則は図書館の運営にあたっての実際的なものさし(基準)だと考えてきたが、そのものさしにのっとっての実際の適用、応用や見直しがいつも求められていると思う。 能登川町立図書館も基本構想を策定したとき、「貸出をサービスの基本とする」と掲げてきたが、そのことがどういうことであるかが、よく考えられていない図書館が訪ね歩く図書館の多くで見られるように思う(「禁帯出」のラベルに象徴される)。西田さんの「図書館が何をするところか」の要の理念「すべての本を貸出する」という図書館の存立の理念が 2023年の今、西田さんたち八日市市立図書館の実践をもって問われているように思います。 『十周年を記念して』には、多くの市民の声とともに、十周年記念式典での西田さんの言葉、(「十周年について」)についてや、「八日市市立図書館はなぜ貸出冊数「10万冊減」を打ちだしたか」、「図書館と集会行事」(八日市図書館において集会行事とはなんであったか)、「八日市市立図書館見学記」「私の研修日記」(橘良枝)、「雑誌・新聞記事から」、「資料」、そして最後に「八日市市立図書館がつぎに目指すもの」が掲載されている。 その中で『子供と読書』〔岩崎書店 1989年1月から12月まで連載、『いなかの図書館から(1)~(11)』〕の第1回目に掲載された西田さんの「ココ・ゴリラがきた理由」を紹介しておきたい。 八日市図書館を訪ねた人にはお馴染みだが、図書館の入口を入ってすぐ、カウンターの手前の心地よさげな椅子に座った大きなゴリラが迎えてくれる(「もちろんぬいぐるみだが等身大(?)の精巧なもので、相当に迫力がある」)。「西田さんがこのゴリラに出あったのは1988年11月、大阪の某プラザの玩具売場。「その巨体は人の目を引くのに十分な貫禄をもっていたが、私をその場から立ち去り難い気持ちにさせたのは、むしろうつむきかげんの顔の下からのぞいている、なんともいえない優しい眼差しのせいであった。」「このぬいぐるみのモデルになったのは、世界ではじめて人間のことばを修得した、ココという名のローランド・ゴリラ」「私は、このココという名のゴリラを図書館にほしいと思った。がっしりしたその巨体とやさしい眼差しを図書館の子どもたちに見せてやりたい、そう思ったのである。しかしその定価はなんと十五万円!」「われわれのごとき弱小図書館に、おいそれと手の出るような代物ではない。それでも、あのゴリラがほしい。八日市に帰ってきてからも、その思いはなかなか消えなかった」「あたらしい建物になって、どことなく取り澄まして見える自分たちの図書館に、私は少々あせりのようなものを感じていた時期であった。」「誤解を受けることを承知でいえば、単に貸し出しするだけの図書館なら、今の時代、当たり前のことである。暖かさと安らぎを感じさせる、そういう図書館づくりこそやってみたい。」 「ほっとする空間、そのなかでこそひとびとは自分の必要とする本に出あうことができる。さんざん迷ったあげく、ついに私は大切な図書費を割いて、ココをつれてくる決心を固めた。」「職員はあきれた顔をし、財政担当者は渋い顔をした。ふだん「図書館の命は図書費」などとわめいておきながら、こともあろうにその予算でぬいぐるみを買おうというのだから、そういう顔をされて当然なのである。それでも最後は「ま、館長がそういうんやさかい」と承知してくれた。」「ココがきてしばらくは、そのあまりの迫力に泣きだす子どももいて、私は身が縮まる思いであった。私が感じているココの暖かさは、もしかして私自身の思い込みにすぎないのではないかなどと思ったりした。しかし、人気の方は上々であった。子どもだけでなく、おとなたちもシゲシゲと眺め、さわってその感触をたのしんだりしていた。ココのやさしさをわかってくれたのだろうか、最近では泣きだす子どももほとんどいなくなった。力いっぱい抱きしめる子、手を引っ張る子、鼻の穴に指を突っ込む子などさまざまであるが、その姿を見るのはなかなかに楽しい。反対に中学生などが、ボクシングよろしくココのおなかにパンチを打ち込んだりするのを見ると、つい声をあらげたりするのである。」【私は残念ながら、その場に立ち会ったり、見たことはないのだが、西田さんの、相当に迫力ある怒声の姿が思い浮かぶ】 「ココを買ってよかったのかどうか。職員は相変わらず「しょうがねえ」という顔だし、図書館仲間は笑ってばかりである。よくわからないが、多分常識からはずれた行為だったのであろう。貸出実績においてココ効果があったというデータのないことを、私はたいへん残念に思っている。」 長くなってしまいました。さいごのご報告。能登川という八日市図書館の身近な場に12年間も住まいながら、図書館員にとっては宝の山である八日市の図書館をしっかり見る時間を持てていなかったことを痛感しています。最近、八日市の図書館から西田さんがおられていた時に刊行された『筏川』No.1~10と退職後に刊行されたNo.11 を送っていただき、持っていなかった号をコピーして1号からゆっくり読んでいます。なんとしたことか、その大半を読んでいなかったのです。3号のさいごの頁には、「図書館サービスご案内」の欄があり、「本や雑誌の貸出し」、「読書案内や調査研究へのお手伝い」、「コピーのサービス」に続いて、「ご自宅への配本サービス」がある、「身体的理由で図書館まで来られない方には、電話一本で自宅まで資料をお届けします。目のご不自由な方には、朗読テープの作成、対面朗読のサービスも実施しています。詳しくは職員にお聞きください。」とありました。 【だれでも 1985年の八日市市立図書館開館時から】 『筏川』からは西田さんの声が聞こえてきます。西田さん ほんとうにありがとうございました。                     2023年7月28日  才津原 哲弘

漆原宏さんから  No.119

昨年、9月に亡くなられた漆原宏さんの追悼の記を、図書館問題研究会(図問研) 福岡支部の会報に掲載していました。ここに掲載いたします。  (パソコンによわく、すぐにブログに掲載できず、甥っ子が来た時に、その 助力で、ようやく掲載しました。)―――――ーーーーーーーーーーーーー 漆原宏さんから手渡されたもの 悼詞  (1939.4~2022.9) 漆原宏さんの訃報を知ったのは9月17日、亡くなられて2日後のことだっ た。漆原美智子さんが発信されているお言葉でだった。美智子さんによれば 漆原さんは一年間寝ついて懇切な訪問看護を受けられていた由。「9月15日 朝方、千葉さん、大澤さん、伊藤さん達のおられる世界に旅立ちました。18 日に自宅から出棺、部屋には彼の写真パネル・・・彼らしい人生でした。」と。 とっさに私の中に浮かんだのは、たしか旅先の静岡からいただいた漆原さん からの電話のことだった。「いま、美智子さんと一緒にいます、これから二人 での生活を始めます」と話されたあの時のはずんだお声、漆原さんの深い喜 びがまっすぐ伝わってきて、私までも何ともうれしい思いにつつまれたあの ひと時のことだった。あれはいつのことだったか。以後、漆原さんを思う日が 続いている。出会いの時からこれまで、漆原さんから手渡されてきたもの、 そのかけがえのなさをあらためて思う。自ら深く自覚することなく、それを 手渡されてきた。 最初に漆原さんにお会いしたのは私が博多駅前4丁目にあった記念会館図書室 (財団法人博多駅地区土地区画整理記念開館)で働いていた時のことだ。千葉 県の八千代市の図書館を2年でやめ(1974・昭和49.3月)、退職間際のある出 会いから保育所の保母さん3人と共に職業病の問題(公務災害)で2年近く共 に動き、公務災害の認定を経て1975(昭和50)年に福岡に帰ってきた。そし て翌年の1976(昭和51)年の7月頃から、5月に開館して間もない福岡市民図 書館で嘱託職員として働き始めた。同館には1979(昭和54)年3月まで、足掛 け3年弱、主に福岡市内に160ヵ所近くあった文庫などに、団体貸出の本を運 ぶ仕事についていた。 同年四月からは財団法人記念会館の職員として1988(昭和63)年11月末まで 9年弱働いた。記念会館は福岡市が20年をこえて博多駅地区の区画整理事業を行 い、事業完了後、この事業への地域の人の協力に感謝して建てられたもの。1階に 232㎡の図書室、2階、3階に無料の大広間、また有料の茶室や会議室(小・中・ 大)があり、職員は福岡市を定年退職した職員が事務局長として数年間でかわり、 正規職員は私1人(数年間は事務職員が1名)、庶務、経理担当の嘱託職員1名 (最後の数年間は私も経理の仕事、財産目録や貸借対照表の作成、複式簿記など も担当)。そして図書室には、当初、臨時職員1名(のちに2名に。福岡市民図 書館と2か月ごとに交互に勤務)という体制だった。福岡市から寄付された3億 5千万円を基本財産として、その運用利息と会議室の使用料収入が原資で、とり わけ利息収入が収入の大半を占めていた。 1976(昭和51)年当時、人口100万人をこえる福岡市に市立図書館は、5月に 開館した福岡市民図書館1館だけで、各区にあった市民センター図書室は分館では なく、公民館図書室の位置づけだった。私が働き始めた記念会館図書室は仕組みとし ては、福岡市の図書館の分館ではないけれども、私自身としては、地域館だと、福岡 市の分館だと考え、特に「利用者の求めるものを、できるだけ速く、利用者を手ぶら で帰さない」ということを基本にして働いていた。リクエストを当たり前のことと考 え、相互貸借での借り受けは主に築港本町にあった福岡市民図書館から行い、時折自 転車やたまにタクシーで出かけていた。(当時、福岡県内の図書館では、それが必ずし も図書館の当たり前の基本的なサービスとして、行われていなかったように思う。数 年後、福岡市内の須崎公園内にあった県立図書館で、たしか2万冊ほどが、初めて開 架スペースに出されて貸出されていた時代だった。記念会館開館3年後の1982年、 昭和57年度の福岡市民図書館の貸出は32万1千冊、市民センター図書室4室等の貸 出89万1千冊を加えても、福岡市民1人当たりの貸出は1.14冊。この年の市民図書 館のリクエスト冊数2,313冊、記念会館4,668冊の1/2以下)。 漆原さんが記念会館図書室に初めてやって来られたのは記念会館が1979(昭和54)年 に開館してどれぐらい経った時だっただろうか。今となっては定かでないのだが、カ メラをもって図書室に入ってこられたその時の姿、表情を覚えている。その笑顔と人を 包みこんでやまないその人柄と活気(元気な気配)を。 それまで一面識もない漆原さんがどうして来られたのか。記憶のかすかな糸をたぐる と、県立図書館の白根一夫さんが、たしか『みんなの図書館』に記念会館図書室のこ とを書いていて、それで知られたのだろうか。それとももしかしたら福岡県立図書館 を取材された漆原さんが白根さんから記念会館のことを聞かれたのだったか。いずれ にしても白根さんが漆原さんとの出会いの縁しをとりもってくれたことに今にしてよ うやく気づくあり様だ。 白根さんとの出会いがあり、私が図書館問題研究会(以下、図問研)福岡支部の事務 局を記念会館で引き受けたのは1986(昭和61)年からだったと思う。同年8月から 毎月1回の福岡地区の定例会を始めると共に、参加された会員、非会員の人たちと福 岡市の図書館の登録者分布図の作成や福岡県内の図書館の状況が見える資料作りに取 りくんだ。それまで7年間、財団法人の小さな図書室で働いてきて、人口100万人を こえる大都市で市立図書館が1館しかないことの問題、市民の大半に、図書館が身近 にないことの問題を切実に感じるようになっていた。そして、当時私が住んでいた 福岡市のある地区で、生協を通して梅田順子さんと知りあったことが私にとってとて も大きな出来事だった。 そしてその年の11月22日、図問研福岡支部長名で福岡市長選立候補者に図書館政策 を問う公開質問状をだした。支部長は白根一夫さんだった。翌年1987(昭和62)年2 月に開催した支部の総会では、3月20日に予定されていた県知事選にどう取り組むかの 論議のなかで、 ① 市長選で支部長名の個人名をだしたことについて、支部会員内部にも反論があっ たこと、及び支部の活動の実態からいって、支部が主体とはなり得ない。かとい って実体のない主体を作り上げて出すのはやめたほうが良い。 ② 県立図書館のサービスアップを訴えるならともかく、市長選などと異なり、知事選挙 では、訴える内容が、県行政にとっては直接的なかかわりが薄いものになるのではないか。 ③ 現職知事批判になり得るのではないか(「図問研ふくおか支部ニュース」復刊、 No.16、1987(昭和62)年2月28日発行) などの発言があった。この間、白根さんが上司から呼ばれ、県職員が市長選挙で公開質問状を出すことについて問われるということもあった。私は一人の図書館員だったが、同時に福岡市に暮らす一人の市民として、よりよい図書館づくりに向けて何をなすべきかを考える契機となる出来事だった。 そのような状況の最中の3月1日と2日、私は図問研の全国委員会に出席するため東京にでかけ、その日の夜だったか、食事を共にするため漆原さんに会っている。その会食の場には、全国委員会が初対面で、その後、漆原さんと共に生涯にわたって深い力をいただいた千葉治さんと、そして大澤正雄さん、伊藤峻さん、たしか中多さん(一度きりの出会い)がおられた。大澤さん、伊藤さん、中多さんとは初対面、それぞれどんな方かも知らない私だった。大澤さんにはそれから、私にとっての要所要所でお力をいただき、伊藤さんには朝倉町で町長や町民への講演で、伊藤さんならでのお話や長崎県上五島有川町の図書館まで訪ねて(2人の職員、宇戸明子さん、角谷悌子さんに深い元気を)手渡してくださった。その夜その時には私自身、思いもよらないことだったが、以後幾人もの私にとって大切な人となるお一人一人を漆原さんから出会わせていただいたことをあらためて思う。 【この時の2つの図書館の見学で、卓球台のあるスペースの床がすり減っていた八広図書館と、新たに新築開館していた日野市の高幡分館を訪ねたことは、図書館は何をするところか、また分館の在りようについて、私にとって、心深々と、たしかなイメージを授かる出来事だった。また、1987年の全国委員には九州では、佐賀の原田明夫、大分の渡部幹雄、山口の山本哲夫、広島・神田全教、兵庫・原田安敬、大阪・西村一夫、松宮透・滋賀、松島茂・東京、三村敦美・神奈川、高波郁子・千葉、古我貞夫・埼玉、他の各氏、常任委員には、松岡要委員長(3月には千葉治委員長だったのではと思う)、西村彩枝子事務局長、坂部豪、伊藤峻、後藤暢、半田雄二、伊沢ユキエ、川越峰子、若杉隆志、他の各氏。宮城、仙台の平形ひろみさんに会ったのもその時だったと思う。】〔『住民の権利としての図書館を・図問研年表1945―2015・資料集1954―2013』、ここにあげたお一人ひとりが漆原さんとつながり、連なり、漆原さんからナニモノカを手渡されていたのだとあらためて思う。〕 その食事の場で福岡の状況を話したのだったか。あるいは、福岡に帰ってから伝えたのだったか。私は漆原さんから「仙台にもっと図書館をつくる会」の活動のこと、つくる会の代表の扇元久栄さんのお名前をお聞きしている。 ようやく出てきた資料をみると、「東京から帰って来て程なく、私は仙台の扇元さんに電話をかけて」いる。1987(昭和62)年3月5日のこと。「多分、漆原さんから夜遅く電話しても大丈夫だと聞かされてのことだったと思うのですが、それでも私の記憶では、電話をしたのは夜10時くらいだったと思っていました。ところが、その後、扇元さんにお会いし時間のことを話ましたら、即座に「いいえ、才津原さん、零時を過ぎていました」と言われたのだった。「いくら夜遅くに電話しても大丈夫だと言われたとはいえ、初めての方に深夜、零時を過ぎて電話をかけるとは、私自身、とてもせっぱつまった思いの中にいた」のだと思う。 その後の私の歩みを振り返ってみると、扇元さんとの出会い(最初は電話で)はその後の私の歩みを決めるような出来事だったように思う。扇元さんからはすぐに、つくる会の活動のすさまじい資料が送られてきた。考える部会(市民がつくる図書館計画)、伝える部会(会報「MOTTO」)、広める部会(お話の出前、読み聞かせ、折り紙)の3つの部会を作っての目を瞠る活動(運動)のひとつひとつに驚かされた。「考える」「伝える」「広める」の3つは、どのような会の形であれ、福岡での活動(運動)の柱となることだろう。それにしても、つくる会の活動の何とも自由で生き生きとした様子が、一つひとつ、一枚一枚の資料や冊子から立ち現れてきたのに驚いた。そして扇元さんの細やかで心温かいお言葉に心打たれた。 扇元さんから大きな指針と深い励ましを手渡されて、程なく「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。梅田順子さんが考える会の代表をすっと引き受けてくださったのが会の始まりだった。1987年のことだ。考える会では、 ①月1回の定例会(市民センター会議室、新聞に集会参加の呼びかけ、第1回―4月8日) ②図書館のお話の出前(福岡市内だけではなく、どこにでも)、講演会(山口県周東町立図書館長、山本哲生さん。茨城県水海道市立図書館を設計した三上清一さん。) ③ 福岡市の図書館政策づくり に取り組んだ。 ②の「図書館の話の出前」では、以後、生涯にわたる友人、知人となる出会いがあった。柳川の図書館を考える会の菊池美智子さんの所へは、福岡の考える会の2人の元気な若い仲間とスライドをもって出かけ、心温かな出会いの中で、3人が一宿一飯の恩義を授かった。(蚊帳をつっていただいた。)この時の出前が美智子さんと漆原さんとの出会いの遠景に連なっていたかもと心に想うのは、心嬉しい思い出だ。人の出会い、縁しの不思議さを思う。 行橋の図書館を考える会の出前では、前田賎さん、神田先生方とともに、苅田町の山崎周作さんと出会い、その後、苅田町に行く契機となった。(1988年12月1日、苅田町図書館開設準備室へ) ③ の福岡市の図書館政策づくりは、当初3カ月の予定が1年にも及ぶものとなった。福岡 市の図書館の登録者分布図の作成、この膨大な手作業に若き仲間たちが力をつくした。図書館が市民の身近にない状況が、一枚の福岡市の地図の上に、はっきりと目に鮮やかに立ち現れた。タイトルを、『ニ00一年 われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』とした。前川恒雄さんが『われらの図書館』で示された図書館の在りようが13年後の21世紀、2001年には福岡市で、“われらの図書館”に向けての歩みの第一歩が踏みだされているようにとの願いをこめたものだった。 総ページ47ページ、3部からなり、「第1部わたしたちの図書館―図書館入門編」では、菅原峻さんの図書館施設計画研究所が作成した「図書館とわたしたち」(絵本作家わかやまけん・イラスト)をモデルに、「Aだれでも」「Bどこに住んでいても」「Cなんでも(どんな資料でも)について、若き仲間がイラストと言葉で心強い渾身の力を発揮した。 「第2部福岡市の図書館―現状と問題点―」では、「1.身近に図書館がない⁈」とはどういうことか。「2.図書購入費の問題」「3.職員の問題」「4.市民センターの問題」をイラスト入りで。 そして「第3部わたしたちの図書館構想―近・未来編―」では、【一番参考にしたのは、1970年の東京都の『図書館政策の課題と対策』だった。】「1.図書館活動の諸目標 6つの目標」として、「①くらしの中に図書館を―貸出を指標に―」「②市民の身近に図書館を―図書館システムの確立を―」(1)歩いて行けるところに図書館を(2)図書館整備計画(3) ここにこんな図書館を。図書館配置構想/イラストで。3.「豊富な資料を―新しい本をたくさん」「4.司書を必ず図書館に」「5.障害者・病人・恒例の人たちへのサービス」「6.地域住民の“ひろば”としての図書館を」 「2.当面の施策、何からはじめるか」 「① まず自動車図書館(BM)の運行から」「②市民センター図書室を分館に」「③地区館・分館の建設について」「4中央図書館について」 ここで35年前の市民がつくった図書館構想を少し詳しく記したのは、福岡の図書館を考える会の仲間たちと力をつくして作った『2001年 われらの図書館』の構想が、そのまま苅田町の図書館計画の下地になっていたという、今、現在の気づきによるものです。 そうして、もう一つの気づき、図書館が何であるか、「いつでも」「どこでも」「だれでも」「なんでも」とは、どういうことであるか。「移動図書館とは何か」、そして「図書館長のの仕事、その姿、佇まい、司書である図書館職員の働きかた」とはどのようなものであるか。そして「図書館を利用する一人ひとりの利用者の姿、在りよう」とはどんなものか。それらを漆原さんの図書館の最初の写真集『地域に育つくらしの中の図書館 漆原 宏写真集』の一枚一枚の写真から眼に見えるものとして受け取っていたのだと今にしてあらためて思うからです。タイトルの「地域に育つくらしの中の図書館」こそ、私自身が一人の市民として、また一図書館員として目指してきたことだったことをあらためて思う。そのはじまりが、その時それと気づくことなく、この写真集を開く折々に手渡されていたのだと。 この一枚一枚の写真と共に、私はさらに大切な贈り物をこの写真集から授かっている。写真集の森崎震二さんの「解説」の言葉、「あとがきにかえて」の漆原宏さんの言葉、そして そして一枚一枚の写真につけられた説明のコトバ(図書館職員の戸田あきらさん、西村彩枝子さんたちだろうか)と英文(松岡享子さん)の力。 1 生涯にわたる自己教育 Life-long self-education 「人は毎日の生活をくらすのに学習しないで済ますことはできなくなって来ています。それは人類の歴史に上にもはっきりと示されています。」「1970年代に新しく生まれた多くの図書館―新しく生まれ変った図書館の中で人々は老いも若きも、男も女も、それぞれの目的にしたがって、一人で、集団で、さらに戸外でも活用しはじめているのです。このような個人の自己学習がなくては、社会で労働し、生活してゆくことも難しいほどに文化の高い社会になってきているのでしょう。」 【以下、〇印は写真、次に写真の「説明」のコトバ、図書館名、撮影月日、英文、頁の順】 〈キャプションの言葉とその意味を豊かに広げる英語のコトバに驚く!〉 ①「わたしこれにする」長崎・滑石子ども図書館(文庫)’82・3・13  Nameshi children’s Bunko, Nagasaki. I can write may name, too.     (8頁) ②ボクにも「かりだし券」横浜市立金沢図書館 ‘80・1・19  Kanazawa Public Library, Yokohama.   Papa gets me a library card.    (8頁)  ③「どうやるの?」 文京区立真砂湯島図書館 ‘81・5・30    Masago Yushima Public Library,Tokyo. Librarians are ready to help you. (23頁) ④「身近な存在」 墨田区立八広図書館 83・3・31  Yahiro Public Library   Stand or sit, as you like.                       (30頁) ⑤「新しい図書館ができました、ぜひおいでください」 墨田区立八広図書館 81・5・25   Giving out brochures on a newly opened library・・・・        (105頁) 2 地域の図書館 Library in the Community 「図書館は身近になければ、日常の用に役立ちません。お正月とか、お盆とかに年一回使えば済むというものではないからです。だからその地域になければなりません。(心に響き、 体に刻まれた言葉!) 図書館の特徴として、仮に建物がなくても自動車に本を積んで廻ってくる自動車図書館(B.M)によって資料の提供ができます。この動く図書館(移動図書館)は銭湯の前でも、団地、スーパーの前でも、多少の空き地さえあれば人の集まり易い所に来て店開きできます。自動車図書館がきっかけになって出来る2~3万冊ほどの地域図書館は、一つの自治体の中に数か所、規模の小さな分館と自動車図書館を運用すれば、市町村のどこに住んでいても、住民はみんな図書館を活用できます。 図書館の第一の仕事は資料を利用者の求めに応じって貸し出すことです。それとともに情報を求めてくる人に資料案内をする外、参考質問に応え、利用者の調査研究を援助することにあります。 「地域に育つ暮らしの中の図書館」(in the Communityが図書館)が私の中に血肉としてあること、そこに向けて歩んできたこと、これからも歩んでいくだろうことを思う。自ら気づくことなく、漆原宏さんから手渡されてきたものと共に生きてきたことを思う。 自らの進退のことで、自分でいったんは決めた判断がゆらいだことが一度だけある。その時、即座に背を押された。その時の漆原さんの声が今も耳元にある。 漆原宏さん夫人の美智子さんのフェイスブックでは、漆原さんの写真パネル展の部屋を“くつろぎの部屋”へ、“フォート蔵前 茶会”、“写真パネル 船出”など、近ければ駆けつけたい活動が次々に紹介されている。漆原さんの活動をその温かなお心でつつみこみ、熱い心棒でささえ、共に歩んでこられた美智子さんの活動が漆原宏さんと共にたゆみなく続けられている。 あらためて写真集を手にとる。 『地域に育つくらしの中の図書館』の表紙の写真、男の子が両手で絵本を頭の上に持ち上げて、こちらを(読者を、写真を撮る人)をまっすぐ見つめるその眼差しを目にすると、子どもが本と出会うことの喜びの深さを知らされると共に、その喜びを、ぼくたち、私たちに手渡しているの?という問いかけを感じてきた。 3章「くらしの中の図書館」の解説のページの見開きのページにも掲載されているこの写真 のキャプションは、「うれしいな」 浦安市立中央図書館 ‘83・3・20 Urayasu Centoral Library,Chiba で、英語では、These books I’ll take home.となっていて、 46頁の「見て、見て」(日野市立中央図書館 B.M)の両手にいっぱいの本をもつ女の子の写真と共に、本を手にするヨロコビを直截に示している。表紙の写真のキャプションは“うれしいな”、 〈ダッテ〉 These books I’ll take home.”〈ダカラネ!〉。――漆原さんからのかけがえのない贈りもの、これからも身近に、終生ともにあることと思う。ほんとうにありがとうございました。

2023年8月17日木曜日

上野英信生誕100年 記念の集い No.117

直方市立図書館には筑豊文庫資料室がある。上野朱(あかし)さんより、直方市に 上野英信氏の筑豊文庫の資料が寄贈されて、図書館に筑豊文庫資料室が設けられた ものだ。 今年が上野英信氏の生誕100年であることから、同資料室では下記のよ うな講演会を企画されている。案内のチラシから紹介します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 直方市立図書館 筑豊文庫資料室講演会 上野英信生誕100年   伝えていく沖縄・筑豊          次の世代へ 希望をこめて 2021年5月、記録文学者上野英信没後33年を記念して、沖縄県名護市屋部 (やぶ)に地元有志の方々による「上野英信『眉屋私記』文学碑」が建立され ました。 生誕100年にあたる今年、この文学碑をリレーするかたちで、将来をになう 沖縄と筑豊の若者が「筑豊文庫資料室」を交流の場とし、トークと朗読を交え ながら、ふるさとの歴史、風土、文化を未来にどのように伝えていくかを語り 合います。  〈トーク&朗読〉   沖縄の中学生(名護市立屋部中学校)   筑豊の高校生(大和青藍高等学校)   筑紫女学園大学教授 松下博文さん   眉屋私記文学碑建立期成会 比嘉久さん   上野朱さん -------- 日時  8月19日(土) 10時~12時 ------ 会場  ユメ二ティのおがた小ホール ------- 受付開始  7月18日(火)から 参加 無料 ------- ※申し込みは、直方市立図書館・☎・FAXで受付けます。 ※参加される方は、事前申し込みが必要です。 〈主催〉 直方市立図書館  直方市山部301-11               電話:0949ー25ー2240  FAX:0949ー23ー3902 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上。 知り合いの方にも、ぜひお知らせください。

2023年8月14日月曜日

沖縄戦パネル写真展 15日まで No.116

二丈波呂の龍国寺で8月6日から15日まで開催されている。 同時に亜麻工房(東麻美)のクバ展も。 沖縄戦のパネルは沖縄県平和資料館からお借りしたもの。 本堂に写真パネルやクバの作品が展示されていて、次のような掲示が されていました。 「また住職の父、甘蔗大成は昭和20年6月に沖縄で戦死しました。  戦地からの手紙を本堂裏の部屋で展示しています。」 本堂の奥の間では、ご住職のお父様で、1945年6月23日の数日前に沖縄 で戦死された甘蔗大成(かんしゃ だいじょう)様の葉書や手紙が展示 されています。展示物には、ご住職、奥様、副住職の甘蔗健仁さんが丁寧 に手書きで説明書を添えられています。 手紙の紙は、当時宿舎であったホテルの箸袋の紙に鉛筆で書かれたもの、 で、奥様に宛てて書かれた二月二十日と記されたお手紙は、これがさいご の便りとなると考えてのもので、ご家族への深い想いを記されています。 〈説明書には、「沖縄ホテルの箸袋に書いた手紙(遺言)。  実物のコピー。」と書かれています。〉手紙のコピーにそえて、パソコ  で読みくだしたものを読みやすく印字して、手紙の下に展示。 そのとなりに 和紙に墨書で、 和成 、とご住職のお名前が大きく美しく書かれた書 があり、下記の説明が記されていました。 「最期の地となる沖縄に出征する  前に、母親のお腹にいる、生まれてくる  子どもの命名をして、書き残しました。  昭和19年12月6日、無事誕生したことは  戦地に届き、喜びの手紙が届きましたが  父と子は一度も顔を見ることはできません  でした。」 出征前のご家族そろっての写真。 そして、部隊を共にし生き延びた野村正起氏の『沖縄戦敗兵日記』を展示。 〈説明書〉には  〈「沖縄戦廃兵日記」は、父、甘蔗大成(だいじょう)の部隊の野村正起氏   が玉砕後逃げのびて生き残られ、一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、   アメリカ軍の投降勧告に応じた九月十四日までの日記を一九七四年に出版   されたものです。   この中で甘蔗大成(大尉)について記述のある部分をぬきとり、コピーし   ました。父は満三十一歳で戦死しました。終戦まで、あと55日でした。」 同書より、 「死と対決すると、たしかに人間は変ってくる。変わらないのは、よほど 偉いやつである。部隊で変わらないのは、本部の甘蔗大成大尉(福岡県出身) ぐらいのものであろう。先生は坊主だから。 わたしは粗暴になった。自分でも自覚はしているのだが、これだけはどうにも 直し洋がない。しかし、腑ぬけになるよりは、むしろ使い道があろうというも のである。」 (同書には、甘蔗大成大尉について触れられている記述が何カ所もある。) 龍国寺での展示は、15日が最終日です。お近くの方はぜひご覧ください。

2023年7月31日月曜日

沖縄・ヒロシマ・長崎 No.115

報告が遅くなってしまったが、ノドカフェの出前の本の話。 7月5日、今回のテーマは「沖縄・ヒロシマ・長崎」にした。 出前の本の紹介をするのが、出前の話の柱であるが、今回は 沖縄、広島、長崎のことが、私にとってなにか一つながりの ものとして感じられる。それはなぜか。どういうことかを自問 しながら語る場になったように思う。 このことでは、いま、もっとよく考えてみたいと思っている。 という次第で、きわめて短い報告にとどめておきたい。
沖縄から学ぶ会 発足  7月20日 第1回目の集まり 亜麻工房  10時半~ 「沖縄県平和資料館」から「戦争体験者証言ビデオ」を借りて会員で見る。   (会員外にも呼びかける)  ①「そして ぼくらは生き残った」    3月、米軍上陸後、収容所に向かう  ②集団自決 チビリガマ 

2023年6月30日金曜日

6月23日慰霊の日 沖縄を語る No.114

6月23日、沖縄では「慰霊の日」であるこの日に、二丈鹿家、麻美さんの亜麻工房で、 「沖縄を語る」会をもった。 糸島から私を含めて3人、そしてなんと大宰府から2人の参加があった。 麻美さんのクバの美しい作品に囲まれたなかでの集いだった。 私の沖縄との出会いのことを主に語ったのだが、参加者の中には近しい縁者の方が 沖縄で1945年6月23日の数日前に戦死された方がいた。 ・大田昌秀編著の『写真記録 これが沖縄戦だ』の年表の特に’45年6月23日後の記録   について(6月23日で終わったのではないこと) ・黒田征太郎さんのこと、野坂昭如の『戦争童話集』との出会いとその後の行動 ・佐喜眞美術館   その始まりの経緯   乾千恵さんの『月人石』展開催にかかわること そして、それぞれの沖縄を語りあった。 小さな集いだが、これから何かが始まる予感が・・・

鬼頭梓展・茗荷恭介展・・6月京都へ No.113

5月のさいごの日、夜行バスで博多駅前から京都に向かった。今回の目的は京都市内での ある展覧会と銅人形の作品展を見るためだ。一つは京都工芸繊維大学であった「建築家・ 鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会〔2023年3月22日(月)~6月10日(土)/ シンポジウム「鬼頭梓の建築から考える未来像」6月10日〕、 もう一つは高瀬川ほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR」での”茗荷恭介銅人形展 「子供の時間」〔5月27日(土)~6月4日(日)〕だ。
1.「鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会 昨夜8時20分発のバスに乗って京都駅前に着いたのは朝8時過ぎ、鬼頭さんの展覧会の会場は 京都工芸繊維大学、私はこの大学をこれまで知らなかったのだが、今回のことで会場となった この大学のことを何人かの友人、知人に話すと幾人もの人が知っていた。知る人ぞ知る大学の ようだ。市営地下鉄烏丸線で行くことにする。烏丸御池、鞍馬口を過ぎ、北山の次が松ケ崎 だった。8時35分についた。降りる人は少ない。途中、コンビニでパンと飲み物など買う。大学 には歩いて15分ほどでついた。道をはさんで両側に大学の建物があり、どちらだろうと思ったの だが、右手の建物の方を見ると、校門のところから正面、数十m先に何か大きな看板がつり下げ られた建物があり会場と思われたので、そこに向かって歩いて行った。近づくと焦げ茶色のタイ ルを貼った建物の入口の右手に大学名と「美術工芸資料館」と大きく描かれた看板がたっていた。 入口の所には4mぐらいの長さの垂れ幕上の看板が2つ、一つは「建築家・鬼頭梓の切り拓いた 戦後図書館の地平」、もう一つは「村野藤吾と長谷川尭 その交友と対話の軌跡」。 10時からの開場にはまだ時間があるので、隣りのホールがある建物に入り、そのエントランスで 食事をしながら過ごした。持参した『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の 本をつくる会 建築ジャーナル 2008.6.20)を再読する。鬼頭さんについて書かれた、鬼頭さ んとその仕事を知る上で驚くばかりのこの本を私はその出版直後に藤原孝一さん(藤原建築アト リエ)から送られていたのに、それを読んだのは最近のことだ。藤原さんに初めてお会いしたの は、1990年5月に苅田町立図書館が開館してからどれくらい経った時だっただろうか。藤原さん が苅田の図書館に見学で来られて初めてお会いした。30年以上前のことだが、その日の藤原さん のことをよく覚えている。その時は鬼頭さんの事務所を辞め、藤原建築アトリエを初めて間もな い時だったのだろうか。 私にとっての鬼頭さんは何といっても日野市立中央図書館を設計した人としてだ(竣工は1973年)。 鬼頭さんを図書館の設計者として指名し(建築家を選び)、それを実現した前川恒雄さんの著書 で初めてそのお名前と、建築家としての鬼頭さんを知った。前川さんは鬼頭さんと設計協議を始 めるにあたってはまず、鬼頭さんに移動図書館に乗車してもらい、最初に連れて行ったのは、移 動図書館の現場だった。市民が移動図書館で本を借りている現場で、このような図書館をと前川 さんは語り、鬼頭さんはそれをまっすぐ受けとめられたのだ。 鬼頭さんに前川さんが示した5つの「中央図書館設計の方針」。 ①「新しい図書館建築の道標となる図書館」 日野市立図書館の、「誰でも、どこでも、何でも」というモットーを実現するため分館、移動 図書館を中心とする活動をいっそう高めるための中央図書館であること。 ②「親しみやすく、入りやすい図書館」 「図書館は誰でもふだん着で入れる図書館で入れる建物でなければならない。前を通る 人が誘いこまれるような雰囲気をもつ図書館であること。」 ③「利用しやすく働きやすい図書館」 利用者は館内の資料の配置、自分の位置がわかりやすく、ゆったりした気分で利用できるように する。利用者・職員の動線はできるだけ短くする。内部は単純で明解な配置にする。 ④「図書館の発展、利用の変化に対応できる図書館」 ⑤「歳月を経るほど美しくなる図書館」 図書館は数千年の昔からあり、人間の文化を生み、伝え、広めてきた。これからもそうである。 図書館のこのような長い生命と意味にふさわしく、市民が市民自身の文化を育てる砦として、 いつまでも使い守るに値する建物であること。」 その方針の的確さ、60年後の2023年の今でも指針となるその5つの柱に驚く。以後、お二人の厳しい論議が始まる。ーーーーーー 10時、開場の時間とともに入館。 そこで数時間を過ごした。 日野市立中央図書館の図面はもちろん、1926年生まれの鬼頭さん【以後は敬称をはずさせていただく。】 が1950年に前川國男事務所に入所して、初めて実際に設計を担当した「青森県立広崎中央高等学校講堂 (1954年)から、1998年の「洲本市立洲本図書館」まで。 開場の構成が素晴らしかった。建築家としての鬼頭梓の歩みが4つの章でよく示されていた。その概要だけ を記すと。 第1章 市民の居場所を求めて ーーーーー 前川國男に学ぶ   〇戦争によって破壊された「生活の根拠地」をつくりたいという切実な思いに突き動かされ         ・青森県立弘前中央高等学校行動(1954)    ・神奈川県立図書館・音楽堂(1972)    ・MIDビル(1954)    ・国際文化会館(1955)    ・世田谷区民会館・区役所(1959・1960)    ・国立国会図書館(1961)     *戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)の教育使節団の提言で1951年に慶應義塾大学に図書館学      科が創設された。当初は5名の米国人教授、米国人司書による全て英語の授業、通訳がつい      ていた。「一期生は30人くらいで、ほとんどが東大やCIEの図書館などどこかの図書館に 勤めていたライブラリアン」だった。鬼頭梓夫人となる當子さんは、編入で一年だけ同科      で学ぶ。結婚後、月に何度か、中央線沿線で働く一期生が、夫妻の自宅で「中央線会」と      称した議論の場を持っていた。・・・喧々諤々の議論、鬼頭は横で黙って聞いていたが、      すごくいい勉強になった。一体何が問題になっているかが、大変よくわかる。ほかにも、      国会図書館には、建築部の若手に佐藤仁君という熱血漢がいた。国会図書館の仕事を始め      てからは、いろいろな若い人に知り合いました。」                  (『建築家の自由』松隈洋による鬼頭梓インタビューより) 第2章 戦後図書館のパイオニア ーーーーー 一人の建築家として    ・東京経済大学図書館(1968)     *前川さんが設計者を探すにあたって、最初に見た鬼頭の設計によるもの。    ・東北大学付属図書館(1972)    ・日野市立中央図書館(1973)     *前川と鬼頭2人の意見が最後まであわなかった「吹抜け」の箇所に眼をこらした。    ・同志社女子大学図書館(1977) *これについては、展示会場で筆者した一文をさいごに。    ・神戸市中央図書館(1981) 第3章 新しい「生活の根拠地を求めて ー---- 山口県との関わり    ・山口県立山口図書館(1973)    ・山口県立美術館(1979)    ・徳山市立中央図書館(現・周南市立中央図書館、1981) 第4章 自由な空間を求めて ーーーーー 晩年の作品群    ・茨木市中央図書館(1992)    ・湖東町立図書館(現・東近江市立湖東図書館、1993)    ・熊取町立熊取図書館(1994)    ・洲本市立洲本図書館(1998) まさに「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が会場に展開されていて、この取り組みの 密度の濃さに驚かされた。どうしてこのよう内容のとても充実した鬼頭梓の展示が京都工芸繊維大学で実現したのか、それは本展を企画した要の人が、松隈博(ひろし)京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授だったからだ(2023年3月退官、4月から神奈川大学教授)。先に記した2008年に出版された『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』は「鬼頭梓インタビュー」から始まっていて、鬼頭へのインタビュー「私の原点 鬼頭梓インタビュー」の前にあるこの本の最初の文章が「鬼頭梓の育んだ風景 「生活の根拠地」を図書館に求めて」で、その執筆者が松隈洋・ 建築史家 京都工芸繊維大学準教授だった。鬼頭へのインタビューも松隈が行っている。『建築家の自由』2008年、の出版以前から始まっていた松隈の「建築家鬼頭梓」への底深い探求の足跡、その果実がこの度の展覧会を形にしてくれたように思った。同書には、鬼頭梓インタビューの他、鬼頭の5つの論考(「土地と人と建築と 日野市立中央図書館の建設が建築家に問いかけた建築の意味」、「職業者としての建築家」そして「建築家の自由」など)の他に「前川恒雄氏インタビュー 公共図書館の歴史が変わった日」、そして「資料」として「〈年表〉建築家・職能運動の歴史」、「鬼頭梓・年譜 作品・受賞・著作・論考」が掲載されている。 会場に入ったところに掲示されていた「ごあいさつ」には、本展覧会の開催の趣旨が述べられている。 「生活の根拠地」としての戦後図書館の地平を切り拓いた鬼頭の仕事と建築思想を、設計原図や撮り 下ろしの現況写真、新規に作成した模型等を通して紹介いたします。市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支えるという戦後図書館の原点を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。」 ( 主催者の「あいさつ」や解説の文章を書いたのは松隈氏だと思われる。) 「生活の根拠地としての戦後図書館の地平」、「市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支える戦後図書館」ーーー何という見事で的確な捉え方、表現であることだろう。「生活の根拠地としての図書館」、私が初めて目にする言葉だった。私のなかに染みこむように入ってきた。 しかも、いやだからというべきか、松隈の目は2022年の日本の公立図書館の現況・・・〈自治体別の設置率;都道府県立100%、市区立99%だが、町村立の図書館設置率は、依然として58%という低い水準とどまっていて、書店については書店が一つもない市区町村が全国で、26.2%・・〉を見すえている。 「同じ国に暮らしているにもかかわらず、モノとしての本を自由に手に取り、本の世界に触れることのできる情報環境を持たない人が、国民の1/4以上も存在している2023年ただ今の状況の中で、「そのような貧弱な情報環境に置かれることによって、もっとも影響を受けるのが、住む場所を選ぶことのできない子供たちではないだろうか、それは、極論すれば、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われた日本国憲法25条に抵触する深刻な社会問題であり、改めて公共図書館の歴史と存在意義が問われているのだと思う。 本展は、戦後の図書館建築の先駆者である鬼頭梓の仕事を通して、この問いかけの共有を目的に企画された。」  これに続く、本展の開催までの経緯(松隈の私事も含めて)も驚くばかりの内容だ。よくも鬼頭と松隈との出会いがあったものだとの思いを深くする。(鬼頭事務所の閉鎖に伴い設計原図を廃棄せざるを得ないと鬼頭から聞いた松隈の依頼で、2003年、東京理科大学の山名善之助研究室に緊急避難の形で図面を預け、鬼頭没後の2009年、金沢工業大学のJIA-KIT建築アーカイブスに、遺族からの寄贈により収蔵)「こうして、本展は、このような経緯と関係者の尽力によって奇跡的に遺された同大学所蔵の建築資料を元に、鬼頭の図書館建築の全体像を紹介すべく企画されたのである。」  【鬼頭梓の求めた戦後図書館の現風景】      松隈洋(まつくまひろし)| 京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授 展示会場では、初めて目にする原図の一つ一つに見いるとともに、4つの章の解説の文章に引き込まれた。そして、原図に添えられた松隈教授のもとで学ぶ学生たちによって新規に作成された模型の数々と、模型をつくった学生の感想の文章にも驚かされた。模型をつくることでの気づきや学びのことを、それぞれの学生が書き記していた。思い深く力ある先生のもとでこのようなことが行われていることに、大学での学びの意味を思った。 展示会場を訪れた6月1日には、まだ本展の図録はできておらず、出来上がり次第連絡を頂くようにお願いして、会場をあとにした。 わずか1日の見学であったが、今もあの日のことが私の中で渦巻いている。 さいごに、当日、会場で筆写した一文を転載しておきたい。 地下図書館を設計して 鬼頭梓                同志社大学通信特集号(竣工記念)昭和52(1977).9.5  同志社女子大学広報委員会 地下図書館が生まれた。図書館の建築は広い床面積を持った低層の建築として、十分な敷地の中にゆうゆうと羽をのばして建つのがよい。図書館の機能がそれを求めるのである。女子大のキャンパスには最早や理想的な図書館をつくるのに相応しい場所は何処にも残されていなかった。だが理想的な条件が整わないからと言って、よい図書館は出来ないとあきらめてしまう訳にはいかない。人は仮令どんなひどい状況におかれても、どんな不利な条件に囲まれていてもそこから遠くに最高の理想を求めてやまない。過密なキャンパスの中で唯一の適地として選ばれたのは、キャンパスの中で最も美しい緑の前庭であった。永く人々に愛されて来た場所丈に、そこでは十分な広さを求めることはもともと不可能だったし、又いかに小さく建てようとも、保存か開発かという現代的な矛盾にほう着せざるを得なかったのも当然であった。常識的ないくつかの案を経た後、最後に到着したこの地下図書館案に至ってようやく大学の方々の同意を戴くことが出来たのも、キャンパス内での最高の場所に、その環境に新しい形で保持し乍ら、図書館は図書館としてそれに最も相応しい平面の拡がりと空間を持つことが出来ないかという、あくことのない理想への追求がすべての人の根柢にあったからだと思う。私 たちもこの最終案に至ってようやく自ら納得したのだが、実はそこから悪銭苦闘が始まった。日本で最初の地下図書館をつくるという仕事は、際限のない不安心配危惧との闘いであった。 技術的な難題も山積していた。具体的なことはきりがないので省略させて戴くが、私たちがこの仕事を勇気を以ってなし得たのは、学長図書館長をはじめ大学の方々の深い信頼に支えられていたからである。特に総務部の房岡氏と竹中工務店の方々とは、私たちと一緒になって難題の解決に当って下さった。深く感謝申し上げる 次第である。(鬼頭梓設計事務所本学新図書館設計者) 付記 本展を見終えて会場を出ようとしたところの壁面に木製の大きなラジオ(高さ1mくらい)が5台おかれていた。壁に貼られていた説明をみると、谷川俊太朗の名前が。出口の受付にいた人に、「どうして谷川俊太郎が」ときくと、「大学の付属図書館に谷川さんのラジオがたくさんある」と。さっそく美術工芸資料館を出て、いったん外に出てから向かいの門から入って付属図書館に向かった。図書館に入ると右手に常設の形で谷川氏から寄贈、寄託?された小型のトランジスタラジオが100台以上、大学の先生の手製とおもわれる6段の棚におかれて展示されていた。いずれも外国製のもので谷川氏が長く愛用したラジオ。ノグチイサムのデザインのものもパンフレットにあった。図書館では最初にこの展示を始めた時に素晴らしい内容の数頁のパンフレットを作っていて、それを見せていただいたのだ。 このことだけでも思わぬ出来事だったのに、図書館で最初に挨拶をしていた図書館員の人が、あとからもう一人の職員を連れて来られた。その人は「私を知っていますか」と。「・・・さんですね。」最後にお会いしたのは能登川図書館でだった。滋賀の人である彼女が、程なくアラスカに行くというので、挨拶をかねて能登川図書館に来られた時にお会いしていたのだった。20年近く前のこと。その後、色んな事を経てアラスカ大学の図書館で勤務されていたことなどをお聞きした。こんなことがあるだろうか、信じられないような何ともうれしい出会いだった! 2.茗荷恭介 銅人形展【子供の時間】へ その途中の寄り道で 6月2日、京都市役所の近くにホテルをとったのは、ホテルから数分の所にある堺町画廊をまず訪ねてから銅人形展にと考えていたからだ。雨が降っていたので、コンビニで傘を買い画廊まで歩いていくと、この日を含めて何日間か、次の展示の準備等のためお休みとなっていた。伏原納知子さんにお会いしたかったなと思いつつ、それならと寺町三条の「ギャラリーヒルゲート」を目指す。大通りからアーケードに入ってすぐ、右手に古本屋があり店の前の台に文庫本などが入っていたが、その代の真ん中あたりに薄い冊子が重ねて置かれていた。岩波写真文庫だ。もしやと思って20冊くらいあるのを1冊1冊みていく、あったー!『インカ―昔と今―』。 表紙をめくると表紙裏に「アンデス地帯地図」、そして左の第1頁には、上半分に「リーマウイルソン街」の写真がり、写真の上部左側にタイトル等が白抜きで印字されている。 岩波写真文庫 197 インカ ―昔と今― 編集 岩波書店編集部 岩波映画製作所 監修 泉 靖一 写真 泉 靖一  〔 1956年8月25日第1刷発行 定価100円 〕 1頁の下段の文章のさいごの2行は、「旅行中の写真に天野芳太郎、田中利一両氏のものも加えて紹介する。」  【天野芳太郎の名前に心おどる ―『天界航路―天野芳太郎とその時代(1984年)尾塩尚 筑摩】 *泉と天野との出会いは『遥かな山やま』で触れられている。私の知人の2人がたまたまペルーで天野と出会っている。 以前、たまたま古本屋で手にした五木寛之の『大陸へのロマンと慟哭の港 博多』でだったか、敗戦直後の混乱のさなかの朝鮮と博多を活動の場として、このような人がいて、このような行動をしていたのかと、名前だけは知っていたものの、初めて知るその生き方に驚かされた人が描かれていた。泉靖一、かつて図書館員だった私には文化人類学の人としてなじみのある名前であったが、その著書を読んだことはなかった。(たしか何か1冊、積読でもっているよう本がどこかにあるように思う。)泉は「敗戦後の博多で人口中絶病院「二日市保養所」と引揚孤児施設「整福寮」を作ったが、その業績を自ら封印して、東京に去って」いるが、五木の本は泉の博多での行動にふれていた。以後私は、泉の本を手にするようになっていた。最初に読んで心打たれたのは、泉の自叙伝ともいえる『遥かな山やま』(新潮社 1971)、泉の世界にひきこまれた。そして今、図書館から借りて読んでいるのが『忘却の引揚げ史―泉靖一と二日一保養所』(下川正晴 弦書房 2017.8.5)、岩波写真文庫を『インカ―昔と今―』を手にして心おどった所以だった。 私は「岩波写真文庫」の残りのものも見ていった。またしても! 『ブラジル』(少年文庫 205)をみてもしやと思う。1頁目の写真「ポン・デ・アスーカの上からみたリオ・デ・ジャネイロ市」の上部には 監修 泉靖一 写真 安藤育三 飯山達雄 泉靖一    草野博 高木俊朗  〔 1956年11月25日発行  定価100円 〕 思いもよらぬ小さな2冊の冊子を手にして近くの「ギャラリーヒルゲート」に向かう。同ギャラリーでは以前、茗荷さんの作品が展示されていたことがある。ギャラリーの扉はしまっていて、開店は12時からとなっている。やむなく先に進むことにする。外では雨脚が強いせいか、アーケードの下でも人通りが少ないようだった。途中、錦通りの看板が目にとびこんでくる。目指すギャラリーとは遠ざかる方向だけれど、なぜかその細い小道に入ってしまった。この通りは昔々、滋賀にいた時に一度だけ歩いたことがある。道の細さもあるが、いきなり行き交う人と肩ふれあう人、人。路の両側の小さな店の連なり、エーッ、こんなお店もと歩いているだけで愉しい感じ。外国からの人も少なくない。みんな何だか楽しそう。その賑わいの中を通りのさいごまで歩き、そこから仏光寺公園の近く、高瀬川のほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR]を目指して歩いていく。目当てのギャラリーに近づき、川幅7mくらいの橋の上からまた、川の手前からギャラりーを眺める。川の向かいに川に沿って建てられたギャラリーの1階の展示物も目にはいる。ギャラリーは橋をわたり、左に曲がる細道に入って2軒目、静かで何とも趣のある小さな館だった。 茗荷恭介さんと6年ぶりの再会。2007年3月末で能登川の図書館を退職した時、彦根市の西覚寺の高原さんたちがお寺でお別れの会を開いてくださったのだが、それから10年経った2017年に、10年目の集いを再び西覚寺で開いてくださった。2つの会とも、滋賀県内だけでなく、県外から関西や岐阜、島根からも多くの方が駆けつけて来られた。茗荷さんとはその時以来の出会いだったが、つい最近もお会いしていたような感じでお会いしていた。 まず、作品をゆっくり見せていただく。 人の手の力、思いの深さがうみだすもの  年をかさねて 生みだされ 生まれるもの 和紙 木(流木も) 銅 鉄 明かり  それらがひとつになって かたっている 作品の一つひとつに銘されたコトバ 作品とコトバの響きあい お聞きはしなかったが、茗荷恭介 銅人形展のなまえから きこえてくるもの  【子供の時間】・・・こどもの 時間 を心にのせて 耳をすます 手仕事の力 その人の生き方をかさねて 天候のせいもあってか、この日、私がいる間に来られた方はひとりだけだった 茗荷さんとの 天からの贈りもののような 静かで濃密な時間を さずかった ふかい 元気を 吹きこまれた ギャラリー四季・AIRを辞するとき 福岡、九州の地で茗荷さんの作品展をとの思いが うまれていた 美しいパンフレットに記された案内から びわ湖岸に工房を持つ 茗荷恭介さん 鉄だけでは飽き足らず、木、和紙など「異なった素材」 を組み合わせた作品や野外彫刻などを製作。 「倉敷まちかどの彫刻展」で優秀賞」野外彫刻展in多々 良木」で大賞に輝く。高瀬川・四季AIRでは 5月 銅人形展 11月 鉄と和紙と光の造形展を開催。 高瀬川ほとりのギャラリーです 高瀬川・四季AIR 京都市下京区天満町456―27 四条河原町から徒歩7分 仏光公園近く お問合せは 080-3761-3960 茗荷恭介 銅人形展 【子供の時間】 日時 2023年    5月27日(土)~6月4日(日)    13:00~19:00 最終日は18:00まで ギャラリートーク 5月27日(土)14:00~ 在廊日 5月27・28・29日、6月2・3・4日 春、湖畔のお屋敷で。秋、染色家の古民家で・・・。 そこで銅・木・鉄を自在に組み合わせた茗荷作品と感動の出会い。 三年越しのラブコールが実り、初夏と秋にも展覧会が実現しました。 せせらぎに波長を合わせ、作品が新たな光を放ちます。 高瀬川・四季AIR 前川八州男 能登川では、私が退職した年から3年間、3回にわたって茗荷さんの作品展を行っています。 1.茗荷恭介・乾千恵二人展 「子どもの時間」                       2006年9月27日(水)~10月22日(日) 2.茗荷恭介・中野亘二人展 「響きあう時間」                       2007年9月5日(水9~9月30日(日) 3.茗荷恭介・北川陽子二人展                           2008年

2023年5月13日土曜日

荒野に希望の灯をともす〈中村哲〉上映会 No112

前々回のブログ(No.110)でお知らせしましたが、あらためてご案内します。 「荒野に希望の灯をともす ― 百の診療所より一本の用水路を ―」上映会 日時 :5月14日(日曜日)16時∼18時(15時開場) 場所 :龍国寺  糸島市二丈波呂474  ☎092-325-0585  参加費:大人・大学生 1500円 / 高校生以下 1000円 主催 :糸島の図書館の未来を考える会ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 内容:武力で平和は守れない 医師中村哲 現地活動35年の軌跡ーーーーーー   これは「生きるための」戦いだ。ーーーー アフガニスタンとパキスタンで、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた男、 医師・中村哲。戦火の中で病を治し、井戸を掘り、用水路を建設してきた。 なぜ医者が井戸を掘り、用水路を建設したのか? その答えは、命を見つめ続けた中村の生き様の中にあり、 私たちはこの映画で中村が生きた、その軌跡をたどることになる。 「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。」―中村哲。ーーーーーー 中村の誠実な人柄が信頼され、医療支援が順調に進んでいた2000年。思いもよらぬ事態に直面し、中村の運命は大きく変わる。それが”大干ばつ”だ。渇きと飢えで人々は命を落とし、農業は壊滅、医療で人々を支えるのは限界だった。その時、中村は誰も想像しなかった決断をする。用水路の建設だ。 大河クナールから水を引き、乾いた大地を甦らせるというのだ。しかし、医師にそんな大工事などできるのか?戦火の中で、無謀とも言われた朝鮮あ始まった―。 「ここには、天の恵みの実感、誰もが共有できる希望、そして飾りのないむきだしの生死がある。」中村哲ーーーーーーーーーー 専門家がいないまま始まった前代未聞の大工事は、苦難の連続だった。数々技術トラブル、アフガン空爆、 息子の死・・・。中村はそれらの困難を一つ一つ乗り越え、7年の歳月をかけ用水路は完成。 用水路が運ぶ水で、荒野は広大な緑の大地へと変貌し、いま65万人の命が支えられている。そして― ーーーーーーーー 2019年12月。さらなる用水路建設に邁進する最中、中村は何者かの凶弾で命を奪われた。 その報にアフガニスタンは悲しみに沈み、ニューヨークタイムズ、BBCなどが悲報を世界に伝えた。 あれから2年半。日本ではその生き方が中学や高校の教科書で取り上げられ、 母校の九州大学はその思索と実践を研究し始めた。 中村の生き様は静かに語り継がれ、輝きを増しながら人々を励まし続けるだろう。 そして用水路はこれからもアフガン人の命を支え続けていくだろう。 戦火のアフガニスタンで21年間継続的に記録した映像から、これまでテレビで伝えてきた内容に 未公開映像と現地最新映像を加え劇場版としてリメイク。 混沌とする時代のなかで、より輝きを増す中村哲の生きざまを追ったドキュメンタリー❢ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ブログ「図書館の風」www.kazedayori.jp で、中村哲さんにふれたもの。 1.No.38「2019年の年の暮れ 中村哲さんのこと 宮澤賢治学会地方セミナー」 2.No.39「年の初めに 寒中お見舞い」 3.No.40「中村哲氏が築いたもの・・・福岡市内の集会で) 4.No.41「山田稔さんの本の中で、中村哲さんに出会った」 5.No.42「中村哲さん講演録」(ピースウォーク京都)(1) 6.No.44「  〃     」 (2) 7.No.49-(1)「 〃  」(3) 8.No.49-(2)録画;井上ひさし・中村哲対談他(宮澤賢治学会地方セミナー/4時間/2004.5.1 https://www.blogger.com/blog/post/edit/7878545021622579851/4202774246781653540 9.No.57「糸島市内で開かれている「中村哲医師をしのぶ会」パネル展に出かけて」 10.No.100「賢治と哲とひさしと」 11.No.106「父 中村哲のこと」ーーーーーーーーーーーー ※8.のNo.49-(2)の録画は2004年5月1日に滋賀県能登川町(現在は合併により東近江市)で開催した宮澤賢治学会の地方セミナーの記録です。アフガニスタンから帰国したばかり、羽田からかけつけた中村さんの現地報告や井上ひさしさんとの対談、会場の参加者とのやりとりが見られます。  www.kazedayori.jp 「図書館の風」 ・

2023年5月12日金曜日

大江健三郎さんのこと(本の出前)No.111

5月、ノドカフェの本の出前は、5月16日,いつもは月初めに本の入れ替えをしていますが、今月は遅くなってしまいました。出前の本は今回は「大江健三郎さんのこと――追悼・大江健三郎」です。出前の本の話は、この題で話します。時間は11時~12時です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 出前の本のはなし「大江健三郎さんのこと」   5月16日 11∼12時 参加者1名 ・ はじめに  参加してくださる人があって、はじめて会がなりたつ。会の周知はも口コミとメールで何人かに伝えている。今回は開催日が定例の月初めではなく16日だったため、参加される人がいるだろうかという思いのなかでの今日の出前の本の話の集まりだった。お一人の参加があるという知らせを直前に受けていた。ほんとうにありがたい。「風信子(ヒアシンス)文庫」の棚に自宅から運んだ本を並べ終えて11時過ぎから会が始まった。 参加してくださったのは知りあいのOさん、ノドカフェの坂本さんによれば、お仕事を休んでの参加だという。はじめにOさんの、大江健三郎(その本)との出会いをお聞きする。そして私の話。 ノドカフェでの本の話では参加される方が数名と少ないこともあり、少ないことのよさを生かして、参加された方からそれぞれに自己紹介をかねて、その日のテーマの本に関わることについて少しお聞きしてから、私の話をすることにしている。私が話す内容は、それらのお話を聞いてから定まってくる。 ただ今日の場合、直前にOさんだと聞いていたので、あらかじめ今日ふれるだろう本を選んでおいた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【1.『沖縄ノート』(岩波新書1970年初版、1993年32刷り)、 2.『壊れものとしての人間』 3.『「万延元年のフットボール』(1967(昭和42)年9月/ 『群像』1月~7月号・連載);自宅の本が見つからず、『大江健三郎全作品第Ⅱ期1(新潮社1994・図書館本) 4.『大江健三郎再発見』(大江健三郎すばる編集部編.集英社2001年;「書き下ろしエッセイ「小説の神話宇宙に私を探す試み」大江、座談会「大江健三郎の文学、作家前夜から最新作『取り替え子(チェンジリング)』大江・井上ひさし・小森陽一)〈図書館本〉 5.『大江健三郎賞8年の軌跡「文学の言葉」を復活させる』大江健三郎、長島有、岡田利規、安藤礼二、中村文則、星野智幸、綿矢りさ、本谷有希子、岩城けい.講談社2018〈図書館本〉 6.『大江健三郎』日本文学全集22/池澤夏樹個人編集.河出書房新社2015〈図書館本〉 7.雑誌『すばる』2008.2月号(「人間をおとしめるとはどういうことかーー沖縄集団自殺裁判に証言して 8.雑誌『すばる』2023.5月号(「大江健三郎・追悼) ※〈図書館本〉は、糸島市や他市の図書館から借りたもの。原本で紹介するだけで、棚には展示しない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〈事前の話の構想・・・話したいと考えていたこと時間が1時間であることを考えて。 ・大江さんの本との出会い 55年をこえる読者の一人として、私にとってその人・大江健三郎と本とはなんであったか。〈とくに最初の出会いの頃のこと〉を中心に話そうと(私自身がどのような状況の中で出会ったか)-----ーーーーーーー ・大江・・・1935年(昭和10年)生まれ。1946年(昭和21年)生まれの私より11歳年上。 1947年に新制の中学校に入った少年・・「憲法」「民主主義」〈戦争放棄〉について語るコトバの輝き、11年遅れの私には、その言葉を生きた言葉として語る大人(先生)たちはいなかった。小学校、中学校、高校、そして私の身近で、私は、そんな大人たちに出会わずにいた。そのように語る人は大江さんがはじめてだった。 ーーーソンナ時代ガアッタノダ!「遅れてきた青年」ーーーーーーー その日の話では、時間が短く簡単にしかふれなかったが、「大江さんの本との出会い」を〈私自身、どんな状況の中での本との出会いだったか〉――20歳から25歳の頃に――を思い返してみるため、もう少し振り返ってみたい。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〈どのように どのような時に どんな状況のなかで、大江さんの本に 出会ってきたか〉ーーー ・東京の大学に入ってから(20歳以降)。(2浪して大学は1967年4月(昭和42年)~1972年(昭和47年)3月;最後の1年は図書館短大、浪人2年を含め7年間はバイトをしながらの生活だった。)高校卒業した1965年(昭和40年)は大学受験をせず、東京、葛飾の日本経済新聞販売店に住み込み、新聞配達。住み込みは2段ベッドで、1部屋に6人の生活、私が一番年下、九州の人で会社勤めの経験のある、太宰治が好きな人、船乗りを目指す大きな人、若くして学問を志す(ソンナ人ガイルノダ!)関西の人、ギターのうまい北海道の人、後半に入ってきた、私と同年か1歳年下で民青の活動を伸びやかにしていた北海道からの彼。18歳の私にとって心に深く刻まれる日々だった。1年後、受験したのは国際基督教大学(ICU)で、試験科目は自然科学、人文科学、社会科学と英語と、英語による面接だった。それぞれ文章(論文)を読んで解答する。自然科学では、「遺伝子の決定における数学の応用について」;人文科学では、「トマス・モアのユートピアについて」を覚えている。試験の問題が通常の受験勉強はまったく関係ないものであるのが面白かった。;「卒業後、日本の外にでるのには、出やすい大学ときいて」受験、同大学1校のみを受験して落第。2浪目は福岡市に帰り市内平尾の西日本販売店に住み込み、配達。(この店には高校3年生のさいごの3カ月間、東京の葛飾に行く前に、住み込みで働いていた。新聞配達がどんなものか、体験するため。)ーーー 2年目もICUを落第し、都内の学習院大に入学する。学習院を選んだのは学生数が都内の大学の中では少なく、先生に面白そうな人が幾人もいそうなこと。(最初は清水幾太郎さん『論文の書き方』の名前が唯一、私の中にあった。)そして学費も都内大学中では高い方ではなかったからだ。1年生の1年間は池袋に近い椎名町で朝日新聞販売店に住み込み、配達。2年、3年の2年間は大学の寮に入って適宜バイト。4年時と、図書館短大時の2年間は目黒区にあった小さなメッキ工場の宿直をしながら大学に。2年の後半の頃から大学正門のところにバリケードができた。といっても封鎖はされていなかった。講師の東大の衛藤審吉氏の後期の最初の授業で、東大では講義が学生のバリケードなどでできない状態になったため、東大での衛藤氏の受講生(外国からの留学生)数人を連れてきていて、香港からきたばかりの学生の日本語の学習のバイトをする人はいないかといわれ、すぐに手を挙げた。Rさんとの出会い。彼女は早稲田大学にも行っていて、私とは週2回、約2年間!むしろ私にとって学びの多い時間となった。その後は彼女の友人の香港からのYさんの日本語の勉強のバイト(1年はこえた)。彼は東京外大に留学、文科系の人だが、数学の勉強をしていて、上智大学にも通っていた。特許の申請もしているとのことだった。香港の2人から授かったものは私にとって大きなものがあった。かけがえのない出会いだった。 衛藤さんの授業では、その本来の講義の内容(現代中国)ではなく、私が深く授かったものがあったことを今にして気づく。それは、10数人の講義を受ける学生に課されたのが、日本の作家(だれでも)1人を選んで、その作家の著作のすべてを読んで、その文章の中の「外国」に対する表現を抜き出して、その作家が「外国」に対してどのようなイメージを持っているかをレポートする、というものだった。私は「有島武郎」を選んだ。たまたまその頃手にした「愛は惜しみなく奪う」がきっかけだったと思う。それは「個人の全集」を読みきるという最初の経験となった。授業そのものにもまして私にとって大切な時間となった。ーーー 大学での講義を振り返ってみると、まずゼミは3年生からということになっていたが、私は2年生になった時、社会学の清水幾太郎さんの研究室のドアをたたいて、2年生から参加させていただくことになり、2年間、清水さんのゼミに参加できた。3年生の終りの時に、清水さんは自ら退官された。最終講義は1969年(昭和44年)1月18日だったと思う。この日は東大の安田講堂を占拠した学生を排除するため、8500人の機動隊が導入された日でもあった。私はノンポリ学生であったが、その数日前、そこでの様子を見にその場所に出かけてもいた。清水さんは「オーギュスト・コント」について語られた。ピラミッド校舎での最終講義が終わったあと、食堂に行っていると、そこに久野収(おさむ)さんと、白髪の桑原武夫さんがいるのを目にして驚いた。戦後の日本の平和運動で大きな役割を果たし1960年の安保闘争時にその闘いの只中ににいた清水さんは、「60年の安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念」されていた。私はそうした時期の清水さんに出会っていたのだ。久野収さんは60年安保の時まで、清水さんと同じ考えのもとに まじかで行動をしてきた人であったから、60年以後は歩まれる道が異なっていたと思う。その久野さんが戦後の清水さんの行動をまじかに見て、清水さんが何をしてきたかを知り、共に行動されてきた方だけに、その最終講義の場に、久野さんは久野さんと親しい京大の桑原武夫さんを引っぱってこられたのだと、その時私は瞬時に思ったのだったと思う。私にとっては深く心動かされるものがあった。ーーーー 大学4年間の授業では、私は私が面白いと思う授業だけをうけた。私は法学部政治学科であったが、必修の単位のものでも、面白くないと思ったものは、一度か何度かでてあとは授業にでなかった。単位に関係のない他学部の講義も、面白いと思ったものは聴講を続けた。国文科では大野晋さん、大野さんに気づくのが遅く受講回数は少なかったが鮮烈な時間だった。仏文科では福永武彦さん(池澤夏樹・父)は体調がすぐれず休講が多かったため、数回だけであったが、小さな声で話されたその時の気配が深く印象に残っている。また法政大学から来られていた粟津則夫さん、解しがたい言葉があるものの、こちらに突き刺さってくるものが感じられた。独文科の朝日秀雄さんのニーチェの講義は1年欠かさずにきいた。英文科のたしか小泉先生であったか、「有島武郎とホイットマン」も1年間?休まずに受講した。受講の機会を逃して、後になって残念だったと思ったのは、独文科の岩淵達治さん(ブレヒトの著作の翻訳、多数)と仏文科の白井健三郎さんの講義だった。いつも耳をそばだててきいたのは「社会思想」の講義、最初は清水さん、清水さんが退職されてからは久野さん、そして久野さんのあとは藤田省三さん(法政大学から、体調のためか講義の回数は少なかったように思う。福澤諭吉『文明論之概略』、そして橋川文三さん(講義の中で語られた、久野収評は今も耳に残っている。)また、お名前を忘れているのだが、通例の講義ではなく、朝の講義が始まる1時間前?の読書会、「ホメロスの オデュッセイア」を読む会は参加者は独文科の1年の女学生と私の2人だけ。学生だけで読んだのだったか。先生の話はなく、ただ交互に本文(翻訳)を読むというものだった。新聞配達で朝刊を配ってからの時間だったので、時折居眠りしながらの時間でもあった。 私の大学時代(1967~1972年)はいわゆる大学闘争・学園紛争のさなかの時だった。1965年、高校を卒業して葛飾で新聞配達をしていた時、配達後の朝食の時間にテレビの画面で早稲田大学の学費値上げ反対闘争が行われているのを見た記憶がある。先に記したように1967年に入った学習院大では、講義は面白いと思うものだけにでていたが、他の大学にも出かけて講義をきいていた。他大学の講義を勝手にきくというのは私だけではなく、そのような学生たちがいた時代だった。初めはいくつかの大学で主に「社会学」の講義をきいてみたが、面白い講義、講師に出会えなかった。それは早稲田大学でのことだった。早稲田でのいくつかの講義では、どのクラスも受講する学生は少なかったのだが、何百人かの学生でほぼいっぱいの教室がありそこで講義をきいた。教室の外からはデモをする学生たちの声と笛の音がきこえていた。私は講師の名前も知らず、その話にききいった。講師が話されたのは、北ベトナムに爆撃に向かう前、横須賀に寄港したアメリカの航空母艦イントレピッドから4人の兵士(19~20歳)が脱走した事件についてだった。いま、このこと(の意味すること)を語らないでどうするか、と。 その講義の時間は1回では終わらず、続けてあったように思う。講師は久野収さんだった。それまで私は久野さんのことをまったく知らないでいた。調べてみると何と私が通っている大学の哲学科の先生だった。それを知った私は、ゼミを除いて久野さんの授業をすべてうけることにした。その授業の面白かったこと。図書館で久野さんの本を読みだした。そしてすぐに私は鶴見俊輔さんの事を知った(『戦後日本の思想』久野収、鶴見俊輔、藤田省三:中央公論社1959)。一冊一冊読むごとに、鶴見さんの文章に惹かれた。このような人がいるんだ。鶴見俊輔さんとの生涯にわたる読者としての出会いの始まりだった。ーーー 久野さんの授業は面白かった。講義のなかで初めてきく著者の名前や本の名前、それらを大学の図書館で読むことができた。『エラスムスの勝利と悲劇』(シュテファン・ツヴァイク)を通してエラスムスとルター語る久野さんの言葉は久野さん自身を語っているように思われた。早速その本を読み、その面白さを同い年(浪人も2年と同じ)の親友に伝えたところ、後で聞いたのだが、彼はその1冊をまるごと書き写したとのことだった。また、早稲田大学での久野さんの講義の聴講では、立教大学からきていた1年先輩のIさんに出会った。彼からは私が4年生になった時、彼がそれまでやっていたアルバイトを引き継がせてもらった。小さいメッキ工場の宿直の仕事で、私はそこで2年間バイト生活を送ることができた。Iさんの手にしていた大学ノートには確かノートの表紙と裏表紙まで、吉本隆明の詩だったか、文章だかが書かれていた。当時私は吉本の本はまったく読んでいなかったので、深く印象づけられた。 大学を卒業する直前の2月にあった浅間山荘・リンチ殺人事件の報道がおびただしいさなか、1972年4月千葉県八千代市立図書館で働き始める。(2年間で退職、2年で辞めることは最初から決めていた。退職後はアルバイトで旅費をため、イスラエルのキブツに行こうと考えていたが、色んな経緯で職業病の保母さん(3人)との出会いがあり、職業病(公務災害)認定まで2年間【この間も色々なバイト・・・組合書記3カ月、製パン工場(夜中)、上野駅近く国鉄の車内販売の職員の食堂での皿洗い、そのあと車内販売(上野―新潟)、ウナギの問屋の宿直と早朝の荷受けと、生きたウナギをダンボール箱から容器に入れる作業(2時間?)など】ーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以上、とても長くなってしまいましたが、大江さん(以下「さん」略)の本と出会った当時、そしてその前後の背景です。 〈大江さんの本と出会ったのは〉 私が大学に入学した1967(昭和42)年に32歳になる大江は「万延元年のフットボール」を「群像」1月号から連載し、9月、長編『万延元年のフットボール』を講談社から刊行しているが、私はすぐには手にしていない。それを読むのは後年のことだ。私が最初に出会った大江の本は主にエッセイだったと思う。その一つひとつが何であたったか覚えていないが、その一節が私の中に深くはいってきたのは、今回久方ぶりに再読して、これだったと思う。 「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」、1970(昭和45)年に刊行された『沖縄ノート』(岩波新書)の一節だ。 このような問いかけをするということ、その問いかけから発する大江の行動と、そこから生まれる言葉。その一文を目にした時には私自身意識していなかったように思うが、私が大学卒業後、最初に就職した図書館の職場を2年でやめ、イスラエルのキブツに行こうとした思いの底には、この一節に象徴される大江の文章、言葉があったのだと思う。1965(昭和40)年刊行のエッセイ集『厳粛な綱渡り』、『ヒロシマ・ノート』、『持続する志』1968(昭和43)年、『壊れものとしての人間』1970(昭和45)年、『鯨の死滅する日』1972(昭和47)年など、同時代のものとして、単行本や雑誌に連載されたものを読んだ。1972年の「群像」1月号から連載が始まった「同時代としての戦後」では、私が好きな武田泰淳だけでなく、まだ手にしていなかった多くの戦後派作家に眼を開かされた。『状況へ』(1974(昭和49)年9月、岩波)は前年にだったか、「世界」に小田実「状況から」と交互に連載されたものを「世界」が毎月でるのを待ちかねて、切実な思いで読んでいた。 徐々に大江の小説の世界に導かれて行ったのはこの時期の後半の事だと思う。(今回はそれには触れない) 後年1980(昭和60)年2月、50歳の大江は「世界」に連載した評論『生き方の定義――再び状況へ』を岩波から刊行しているが、大江の一読者としての私にとっての大江健三郎という人の在りようを、このタイトルそのものがよく表しているように思う。どのように生きるか、その生き方を定義する人として。そして「再び状況―のなか―へ」歩みだす人として。ーーーーーーー 〈出前の話で語れればと思ったこと〉 ・小説について  大江光さんの存在がその小説の世界を深く豊かなものにしていること。  しかも私小説ではないこと。 ・言葉の定義ということ。 ・具体的に大江さんとその文章の魅力、力を考えるため、『すばる』追悼号の一節を読む。 以上。 会を終えて、あらためて大江さんの著作を読みかえしたい・・・。

5月 龍国寺・出かけたい催し・目白押し NO.110

ご案内が直前(一つは本日‼)になってしまいましたが、五月は龍国寺で面白い、行きたくなる催しが次々にあります。糸島の図書館を考える会・主催が2つあります。(②と③) 龍国寺:〒819-1626 糸島市二丈波呂474 ☎092-325-0585 ----- ①5月12日(金)『絵本でおしゃべり「絵本寺ピーIN龍国寺」』~絵本でおしゃべりしませんか? 「大人のための絵本セラピー」を広めている絵本セラピスト協会代表岡田さんがお寺に。 お寺という安心安全な場所で初めてあった人たちが絵本をきっかけに楽しくおしゃべりできる「絵本寺ピ―」 を体験してみませんか?絵本好きな人も、そうでもない人も、子育て中の人も、学生さんも、人生の先輩方も、誰でも気軽にご参加を。 14時~15時 えほん寺ピー + 休憩 15時半~ 質問、感想シェア、交流  16時ごろお開き 参加費 1000円  ーーーーー ②5月14日(日) 上映会「荒野に希望の灯をともす」(90分) ペシャワール会 中村哲さんの映画です。 ”百の診療所より一本の用水路を”、20年以上にわたり撮影した映像素材から医師中村哲の生き様を追う ドキュメンタリーの完全版! 武力で平和は守れない 医師中村哲 現地活動35年の軌跡 開場15時から  開演16時∼18時 参加費 大人・大学生1500円    高校生以下1000円 主催:〈糸島の図書館の未来を考える会〉 ーーーー ③5月22日(月)開場:17:00  開演18:30~ 木版画作家 古知屋恵子さんの版画と紙芝居 木版画や水彩画を通して温かい作品を生み出し続ける古知屋恵子さんが 絵本「どっちにしたい?」の出版をっ記念して、 魅力溢れる紙芝居と絵本とともに糸島にやってくる! 〇木版画・原画展示 〇古知屋さんとお話 〇紙芝居上演 〇絵本・オリジナルグッズ販売など ※食事希望の方:ケータローさんのカレー(700円) 参加費 1500円(ドリンク付) 【5月24日、水曜日➡会場:ノドカフェ 13時開場 14時開演】ドリンク付1500円 主催:〈糸島の図書館の未来を考える会〉 ーーーーー ④5月28日(日)16時~ 龍谷寺音楽祭 ジュスカグランペール「Play&Pray」 (ヴァイオリンとギター)広瀬まこと、高井博章 ・一般/大学生3500円  ・中高生2000円   ・小学生1000円 〇夢桜 http://m.youtube.com/waych?v=aPAKfmoEKSs ------------------------------------------------------------------------------

2023年4月30日日曜日

図書館記念日、鬼頭梓さんのこと No.109

今日4月30日は図書館記念日だ。 糸島の若き人たちが作っている『いとしま暦』、2023年版の原稿の依頼があり、私は1月から12月まで毎月1回の原稿を書いている。メンバーのそれぞれが”いとしま の森羅万象”を、目と耳と足と手をつかって、言葉と絵で描いていて、一日一日暦をめくるごとに楽しみを届けてくれる。友人の松浦さんが私の12回分の原稿にタイトルをつけてくれた。題して「糸島暮らし15年の風だより」。 今日の「いとしま暦」4月30日は、 ーーーーー 糸島暮らし15年の風だより 図書館記念日・広域利用 1950(昭和25)年4月30日に図書館法 が公布されたのを記念して、1971 (昭和46)年5月26日、日本図書館協会が 主催する全国図書館大会で「図書館記念 日」を制定。この法律で初めて無料の原則が定められ国民のだれもが等しく図書 館サービスを活用できる道が開かれた。 福岡都市圏の図書館の広域利用が始まっ たのは2001(平成13)年4月から。 糸島市民は現在、県内の17市町村の図書 館の利用ができます。(福岡市、筑紫野地域、粕屋・宗像地域で貸出できる。登録 の時だけ、住所を確認できるものが必要、 返却は借りた図書館に) ーーーー 滋賀の知人が30日の京都新聞の朝刊の「凡語」の記事を送信してくれた。 建築家の故鬼頭梓(きとう あずさ)さんの業績を紹介する展覧会「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が、京都芸術繊維大の美術工芸資料館で開かれている。3月22日から6月10日まで(日祝休館)。図書館記念日に因んだ記事だ。紙面では「▼草創期の図書館では、書庫から本を出してもらい、館内でしか読むことができなかった。棚から自由に手に取ることができるようになったのは戦後だ▼大きな変化をもたらした一人が、建築家の鬼頭さんである。」「国立国会図書館本館をはじめ、代表的な仕事が見られる▼鬼頭さんは戦争を経験し、市民生活が破壊されるのを目の当たりにした。そこから、市井の人たちにとって図書館は「知る権利」や「思想・学問の自由」を支える砦でなければならないと考えていたという▼特にこだわったのが、平面空間を重視した「フラットフロア・ノ―ステップ」だった。誰にとっても身近で、開かれた場所でなくてはならないという信念が込められているのだろう▼京滋で鬼頭さんが関わったのは4館ある。東近江市の湖東図書館は、切妻屋根が印象的で、木とれんがを使った閲覧室は天井が高い。大きな窓からやわらかな日差しが差し込んでいた。居心地の良さと自由に本が読める尊さをかみしめた。きょうは図書館記念日。」ーーーーーーーーー 1926年生まれの鬼頭さんは1950年3月東京大学第一工学部建築学科を卒業し、4月に前川國男建築設計事務所に入所、「国立国会図書館」(1954~1961年竣工)、「世田谷区民会館・区庁舎」(1960年)などの仕事を担当して、1964年同事務所を退所。6月に鬼頭梓建築設計事務所を開設し、翌年ようやく事務所登録をして いる。スタッフは明治大学を卒業したばかりの藤原孝一さん一人。次の年が長谷川紘さん、その次が木野修造さん。後に藤原さんは鬼頭さんの事務所を退所して独立し藤原建築アトリエを始めて設計したのが、湖東町立や同じく滋賀県の日野町立図書館だ。 私にとって鬼頭さんは何より東京の日野市立中央図書館を設計した建築家として初めてそのお名前を知った。1973年に開館した中央図書館を訪ねたのは一度きりしかないが、あれはいつのことだったか。私が苅田町の図書館づくりに関わる前のことだと思われるので1988年以前のことだ。低い書架、下段の2段を傾斜させ背表紙が見やすい書架とあの吹き抜けのゆったり落ちついた空間(それは何かはじめて見る空間だった。)が印象に残っている。前川恒雄さんの中央図書館の設計で鬼頭さんとやりとりされた文章を目にしたのはずっと後年ことだが、その文章にほんとうに驚かされた。建築家に対して図書館長は何をするのか、このような真剣勝負というしかない場から日野の図書館が生まれたことが、それを読む今の事として伝わってくる。 「鬼頭さんは謙虚でした。私の話を徹底的に聞いてくれて、移動図書館にも実際に自分で乗って、肌で感じてくれた。」そして前川さんが鬼頭さんに示した五つの基本方針。(1.新しい図書館サービスを形で表す2.親しみやすく、はいりやすい Ⅲ.利用しやすく、働きやすい 4.図書館の発展、利用の変化に対応できる 5.歳月を経るほど美しくなる) 鬼頭さんの文書を読んだのはさらにのちの事、『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』(図書館計画研究所 1989)の「2.土地と人と建築と〈日野市立中央図書館)」にもま心底驚かされた。 「日野市立図書館の活動とその歴史とは、私にとってひとつの驚異であった。」で始まる一文一文がまっすぐ私のなかにはいってきた。「移動図書館に同乗して行った時、私の見た光景は感動的だった。・・・・(略)・・私はこの光景に感動し、しかしやがてそれはある困惑に変って行った。この、光景を、この生き生きとした日常の光景を、建築に移し変える方法を、いったい私っちは持っていっるのだろうか・・・・ 私たちはあまりに長い間、このような光景と建築とは別のものだと思ってきた。」「私たちは、前川館1長の意図を、その細部にわたって忠実に実現しようと努力した。それのみがこの生き生きとした活動n応え得る唯一の方法であった。建築計画学も、正当な図書館学も、そしていささかの図書館建築に対する知識も、ここではほとんど役に立ってはいない。それはむしろ無益の存在であった。それだけに問題はすべて新しい問題であったし、ひとつひとつの無からはじめられたと言っても差支えはない。私たちと前川館長との打ち合わせはいったい南海持たれたのか、私にはもう覚えがなく、ただ覚えているのはしばしばそれが深更に及んだことばかりである」 ほんとうによくもこの二人の出会いがあったものだと思うばかり。一方で二人が出会うべくして、それぞれに歩み生きてこられたからとの思いも・・・ 今日の松野さんからの知らせをきっかけに、『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の本をつくる開編著 建築ジャーナル 2008.6)を読了。(藤原さんから贈られたもの、その内容に深い感銘と驚き、よくもつくってくださったと。藤原さんにお聞きしたいことがいくつも立ち現れる・・・) 巻頭に松隈洋「鬼頭梓の育んだ風景「生活の根拠地」を図書館に求めて」、があり、短い文章で鬼頭さんの生涯、その仕事を鮮やかに描出。「鬼頭梓インタビュー 私の原点」が「2008年1月と2月の2回にわたって行われた鬼頭へのインタビューと鬼頭の講演を再構成したもの」とある. さいごに同書から。 「公共図書館の歴史が変わった日」日野市立図書館元館長。前川恒雄氏は語る(2008年3月 日野市立中央図書館にて収録)より 「建築家・鬼頭梓」 「特に「歳月を経るほど美しくなる」ことをお願いしました。これには困っていらっしゃいましたが、逆にやりがいを感じてくれたようです。そして長い時間、ああでもないこうでもないと議論しました。素人の悲しさか、平面図はわかりますが、立体的に立ち上がった姿がなかなかわからなくてね。 実は吹き抜け部分についても、私はもったいないと思ったんです。床にすればそれだけのスペースができますから。でも今思えば、あれがなければ日野の図書館じゃありませんね。非常に重要な空間です。大きなガラスの壁がいい。外の木は、冬は枯れて太陽が入り、夏葉気が茂って木陰になります。本当に、これは良かったなとつくづく思います。」 ※松隈洋氏はインタビュアーの1人、又鬼頭梓の本をつくる会5名のうちの1人、  建築史家、京都工芸繊維大学准教授(2008年、本書出版時) ※同書の末尾の「資料」の頁には、何とも貴重な資料が満載されている。 ①「建築家・職能運動の歴史」「鬼頭梓・年譜」②「鬼頭梓・年譜」には、「主な作品」「受賞」「著書  「論文・評論」 追記を2つ。 鬼頭梓さんについて2つの文章の引用をしておきたい。 追記1. 鬼頭梓建築設計事務所が1984年12月に発行した『図書館建築作品集』から。同書は鬼頭さんが前川國男建築事務所を離れて独立してから20年のうちに、設計監理した14館の図書館についての報告書で、最初に「私の図書館建築作法」というかかれている。鬼頭さんの文章があり、ついで「図書館建築 作品Ⅰ968-1984」の期間の14館の1館1館について写真や図面とともに、じつに眼を見開かされる解説の文章が書かれている。そのうちの1つだけだが紹介しておきたい。”真剣勝負”という言葉があった。 「日野市立中央図書館  1973」 「・・・この設計は私たちの手だけで出来たものではない。今は亡き畏友佐藤仁氏と、同じく横浜国大の若き俊秀山田弘康氏との共同設計でえあった。もともと私の図書館建築に対する考え方の基本は佐藤氏から学んだもので、私はいつも図書館の設計をする度に氏に助言を置泊めてきたが、山田氏とは初対面で、そのすぐれた資質と感性とは私にとって鋭い新鮮な刺激であったし、そこから私たちは多くのものを学ぶことができた。こうしてこの設計は二氏の能力と情熱に深く負っているのだが、じつはそれ以上に、この私たちのグループととしょかんとの、特に前川館長との共同によるところがきわめて大きかった。私たちの仕事は一日移動図書館に同乗し、その活動を身を以て体験するところから始まり、幾日も幾日もの前川館長との討論がそれに続いた。それはさながら真剣勝負にも似て、時に両々相譲らず、議論は深更に及んだ。私たちはそれを通じて無数のことを教わった。それは片々たる知識ではなく、先駆者のみの持つ情熱と苦闘の歴史であり、そこから生まれた確乎とした思想と信念とであった。だからこの建物の設計者の筆頭には、前川恒雄氏の名前が隠されているのである。 ーーーーー 追記2.菅原峻さんの図書館計画施設研究所から1989年に発行された、 『私の図書館建築作法―鬼頭梓図書館建築論選集・付最近作4題』の同研究所長の菅原峻さんの「あとがき」から 「鬼頭梓さんが、図書館建築について書かれたもののなかから、私流に9編を選んで1冊にまとめさせていただきました。その折々に読んだ記憶のあるものばかりですが、校正をしながらかんじたのは、どの一遍とっても、いまなお新鮮な刺激をうけることです。  (略) 鬼頭さんは、用に固執し、機能にこだわり、図書館建築で言えば、図書館とは何かを求めて苦心しています。「図書館ではない図書館建築」に苦々しい思いを払い落すことができないでいる私ですから、鬼頭さんの考えに共鳴するのは当然かもしれませんが、それでも鬼頭さんのように徹底できない自分を感じます。 この選集を読んでいると、私もそうですが、鬼頭さんの書いたものから、誰もが、まだ何ほども受けとって はいないのではないかの思いを強くします。図書館の人たちの目にもずいぶん触れているはずですし、建築家にしても同じだと思うのですが、もう一度じっくり読んでみましょう。いや二度も三度も読み返しましょう。 終りに、このような企てを許し、一切をお任せくださった鬼頭さんに、あらためて感謝申しあげます。 1989年8月13日 ーーーーー 同書には「鬼頭梓論文目録」として、『図書館建築作品集』の論文に追加されている。

2023年3月26日日曜日

四辻藍美アイヌ刺繍展にようこそ No.108

自宅から近くの龍国寺と前原の旧商店街の一郭にある「糸島くらし×ここのき」の二つの会場で 「四辻藍美アイヌ刺繍展」が開催された。(2023年3月17日[金]~3月26日[日] 手のひらにのせて見られる小さな三つ折りのパンフレットからその内容を紹介します。 《主催された》 布工房ippon 岡本理香さんのあいさつの言葉から ―ーーーー 《 元々、インド、タイ、インドネシアなどの民族色強い布を扱う仕事をして いながらアイヌのことはあまり知りませんでした。漠然といつか北海道に行き アイヌ博物館に行ってみたいなぁ~っとボンヤリ思うくらいでした。 偶然四辻藍美さんを知り、その刺繍の美しさ力強さに驚き魅了されました。 藍美さんのアイヌ刺繍を見ていると植物にも星空や銀河にも、雄大な大地にも 見えてきます。 これだけの芸術を育んできたアイヌ民族がどのような暮らしだったのかにも興 味がわき、自分がこんなにも身近な民族の事を知らな過ぎたことにも驚いてい ます。 九州ではなかなか見る機会がないアイヌ刺繍。そして、四辻藍美さんにしか出 せない独得な世界観を皆さんと一緒に味わえたらと願っています。 》     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 四辻藍美アイヌ刺繍展 2023日3月17日[金]―3月26日[日] ◎会場1 龍国寺 福岡県糸島市二丈波呂474 090-321-1020 ◎会場2 糸島くらし×ここのき おくのへや 10:00-18:00 福岡県糸島市前原中央3-9-1 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 龍国寺の会場には、四辻藍美さんの父、アイヌ文化研究者でありアイヌ童画作家であった四辻一郎編著の 『アイヌの文様』がおかれていて、初めて手に取ってみることができた。 今回の刺繍展の小さなパンフレットには、同書より、一部要約として、以下の文章がのっていた。 ーーーーーー 「村の娘がアツシの刺繍に時を忘れ針を動かしていました。娘は相愛の若者がまつりに着る晴着をどの男 の着物より美しく立派な文様に刺繍して贈ろうと思っていました。娘はまつりの日に若者が自分の創った アツシを着た姿を夢に描き魂をこめて文様の刺繍をしているのです。若者は娘にお礼として女子用のマキ リを贈ることにします。若者はくる日もくる日もマキリの鞘に文様を彫り続けました。娘と若者が伝えら れたアイヌ文様を大事に受け継ぎながら暮らしてきた姿が浮かびます。世界に誇るアイヌ文様を創りだし たアイヌの人々は優れた芸術家と言っていいでしょう。 ーーーーーーーーーーーーーー 四辻藍美 1941年、小樽市生まれ、国立育ち。 父親でありアイヌ研究家、アイヌ童画家の四辻一郎氏の影響で、アイヌ刺繍家となる。作品展とワークシ ョップをとおして、アイヌ刺繍と、その背景にあるアイヌの世界の魅力を伝えている。 ーーーーー アイヌ刺繍が展示されている会場は心しんとする美しい庭に面している。そこで四辻藍美さんにお会いした。 ほんのひと時のことであったが、言葉をかわすことができた。昨年2022年の夏、国立アイヌ民族博物館のある 北海道白老町で何人ものアーティストが参加するイベントがあり、四辻さんも参加されたとのことだった。 白老町には行ったことはないが、2016年の2月、私が登別市立図書館に呼ばれて行った途次、真っ白な雪が深々 と降り積もった小高い所にあった知里幸恵のお墓を訪ねたことをお話していた。あの日、空が大きく広やかで、 知里幸恵という人の地、その大地にたたずみ、風の声を聞いていたのだったか。 の地に感じられた。四辻さんの作品の一つ一つはいかにも白老の地になじんでいただろうと思われた。 ーーー 後日、3月25日(土)、もう一つの会場、”ここのき”を訪ねた。四辻さんのアイヌ刺繍の作品の一つん一つは もとより、一冊の絵本との出会いは思いもよらないことだった。 『ころぽっくるのしま』四辻一郎著・画(創作どうわ絵本3)あかね書房1970.11。うれしい出会いだった。 著者のアイヌの人びと、その世界への深い慈しみ、感動が息づいていてまっすぐ伝わってくる。

鹿家の 春の芸術祭 No.107

鹿家(しかか)は玄界灘に面した糸島市の西端、西隣は佐賀県唐津市だ。鹿家地区にあった元小学校の分校の建物が今は地区の公民館になっていて(職員はいない)、3月4日、そこで”鹿家の春の 芸術祭”が開かれた。仕掛け人は鹿家に住む東麻美さん。公民館では月に1回、「バンビの会」という主に年配の女性たちの集まりが開かれていて、ゲームや歌など懇親の場を持たれてきた。「バンビの会」では時折、麻美さんの三線を伴奏にみんなで唄をうたったりしているなどと聞いていたので、”春の芸術祭にでかけたのだ。自宅から西九州道を通って20分弱、昨年5月に開館した”はつしおとしょかん”(初潮旅館)は公民館から歩いて10分の所にある。 チラシから 鹿家の春の芸術祭 ~JR筑肥線100周年 春のお祝い~ 3月4日(土)13時30分~15時  場所:鹿家公民館 【参加無料/投げ銭】  ハーモニカ演奏    沖縄の唄三線   大迫力!三四郎のライブイベント!   紙芝居は何かなぁ   桜の蕾も膨らみ始める3月4日に、鹿家公民館で【春の芸術祭!】を企画いたしました 沖縄三線で民謡や鹿家にまつわる歌を歌ったり、元鹿家出身でハーモニカを吹かれるのりこさんと 一緒に童謡を演奏したり、紙芝居の時間もあります! 展示も企画中 クライマックスは、大きな紙に書を描くライブイベント! 全国的にも数が少ない木造の鹿家公民館は、映画撮影の場所に使わせて欲しい!と言われたことがあると 聞きました。文化財のような貴重な建物も芸術そのものだと感じます。会 いろんな芸術に触れる日☆ 子供も大人も、チャンプルー(沖縄の言葉で、混ぜこぜ)で、ご参加お待ちしております( へへ) ★40名様程度(予約不要)  《企画:上鹿家 東☎・・・・・協賛:糸島の図書館の未来を考える会 公民館を訪ねてまず驚いたのはその建物の佇まいだ。1946年生まれの私からみても、もう一昔前の小学校だろうかという印象。教室は一部屋だったと思われる建物の大きさがいい。履物をぬいであがると、もうひとつの懐かしい世界に入り込む思いがした。かつて教室だった部屋に入ると左側の壁の一面に、台紙に貼られた昔の学校の写真がたくさん展示してあった。麻美さんがこの地区の小学校の福吉小学校を訪ねて校長先生からお借りした資料から、これはと思うものを拡大コピーしたものだ。写真に見入る人から思わず声がもれる。入り口の右手には麻美さんがつくったクバの人形、そして、その隣の机の上に置かれていた何冊もの昔の教科書を見ていて驚いた。「ぼくのからだ」(岩松栄)、「いわしの村」(まつながけんや)、「はらっぱ」(福岡県小学校児童文集・福岡県小学校国語教育研究会編)にならんで、「数のおいたち」(遠山啓・青葉書房・昭和32年6月)がおいてあった。ーーーーー わー遠山啓(ひらく)さんの本だ この冊子の奥付をみると、「著者略歴」として「明治42年(1909年)熊本生まれ。東北帝国大学理学部卒業。東京工業大学教授、理学博士。東京都目黒区千束1292」と記されている。〔読者はこの住所で直接、著者に手紙をかくこともできたのだ!〕「著者略歴」の上段には「NDC410 遠山啓著 数のおいたち 学校図書館四6 P100 22cm」とある。数学者であるとともに思想家だと、その著作と活動を知って思ってきた人だ。吉本隆明さんが戦後、学生として出会っていて、遠山さんのことを書いている。発行は昭和32(1957)年6月1日、私が11歳で小学5年生のときのものだ。〔著者48歳〕目次とその内容をざっと見ておどろいた。ゆっくり読んでみたいと思われる見出し!、「目次」と「あとがき」のことばを紹介しよう。                もくじ          5(頁)  【漢字にはすべてふりがな】 数字のいろいろ                         8  数(かず)のたんじょう                    8 人間の指                          18 指と算数       19 12をもとにした数(かず)                 31 60をもとにした数                     30 20をもとにした数                     35 2をもとにした数                      38 エジプトの数字                       43 バビロニアの数字                      48 ギリシアとローマの数字                   53 ロシアの数字                        59 日本の数字                         60 アラビアの数字                       62 分数と小数                         66 そろばんんのおいたち                 75 算数なぞなぞ                     80   そうてい・中島靖・・、  さしえ・藤井二郎 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー あとがき                             ——― 父兄と先生の方々へ ―― この本は、1年生から4年生までに、子供たちが勉強した数のお いたちを歴史的にのべたものです。1,2,3……という数字がど のようないきさつで生まれてきたかということも、子供が興味をも つことばをでしょう。ふだん使っている1,2,3……でも、実にたく さんの人々が長い間くふうを続け、少しずつ改良されて今日のよう な形のものになったことがわかれば、子供たちの勉強の意欲を高め るだけでなく、物事を歴史的に見る態度を育てていくだろうと思 われます。また数えるもとになっている10という数でも、人間の手 の指から生まれたものであることがわかると、子どもたちは一そう面 白がることでしょう。10進法がでてくるまえにも2進法や5進法が あり、今でも20進法がのこっていることは、子供の数に対する見方 を広くさせうにちがいありません。 そのつぎには、ソロバンの歴史をかきました。毎日使っているソ ロバンが原始的なものから、しだいに発達して現在のものになるま での歴史にも、やはり人類文化の発展が反映されています。ソロバあに ンがさらに進んで計算器になることがわかったら、子供たちの学習 意欲はさらに高まることでしょう。子供たちが活動する20世紀の後 半世紀はソロバンではんく、電子計算機の時代なのですから、今か らそのようなもにに対する心がまえをつくっておくことが必要です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さあいよいよ春の芸術祭のはじまり はじまり 1.はじまりは かつて鹿家分校に通ったのりこさんのハーモニカと東麻美さんの唄・三線から 大きな黒板の左右と壁の一面には、麻美さんが墨で大きな字で手書きした歌詞がいく枚も貼りだされていた  ・ふるさと  ・〈鹿家のバンビ〉、”小鹿のバンビ 童謡替え歌(3番まで)  ・涙そうそう  ・十九の春 そして驚いたのは、沖縄口で5番までかかれた  ・鹿家ー我が生まり糸島   ①包石 帯石 姉子の浜におりる    海と山のあ鹿家 忘りぐりしゃ    鹿家 鹿家 我が生まり糸島 【2番以下、くり返し】   ④高杉晋作 野村望東尼を救う    永見寺で かくまったあの日 忘りぐりしゃ    〈くりかえし〉   ⑤福岡の最西端 おだやかな玄界灘    歴史と文化の鹿家を 忘りぐりしゃ   「てぃんさぐむ花」などいくつかの沖縄の唄・・・唄と手拍子でみんなの心がはじけるようだった。 2.みんなが三線の伴奏で、手拍子をとりながら歌った、はじけるような時間のあと、紙芝居の出番、わたしは久しぶりの紙芝居と絵本を読んだ。   ・『ばけくらべ』和歌山静子   絵本は   ・『おならうた』谷川俊太郎・原詩、飯野和好・絵   ・『だれかさん』文・内田麟太郎、 切り絵・今森光彦 (今森さんの『魔法のはさみ』、『Aurelian』など切り絵の作品集を紹介。   ・『知らざあ 言って 聞かせやしょう』河竹黙阿弥・絵、 飯野和好・構成・絵、 斎藤孝・編 3.トリはお待ちかね、三四郎さんの書のライブペイント   椅子を片づけ、ビニールシートを広げた上に大きな紙を拡げて、三線がひかれるなか、三四郎さんが太い筆を手に白い台紙の上にかきはじめた。   いま、そこで浮かぶ言葉を即興でかかれているようだ。三線の音と手拍子、歓声の中で時には手と足でかいていく。赤、青、緑、黄色の顔料が   紙面に踊る中、三四郎さんの心の声を刻むことばのなかから、純朴という大きな文字が現れた。描きあげられた時、いっせいに拍手と歓声、   そこにいる人がたがいに共有した時間が生まれていた。書き終えて一言語られあと、一仕事終えたようにたたずむ三四郎さんの表情が穏やかでとて   もよかった。 さいごに三四郎さんこと、鳴海三四郎さんのこと 鳴海三四郎  書心舎 ・・・大分県佐伯市出身 山と海に囲まれた自然豊かなところで育つ。 漁師の家に生れ、小さい頃から両親と一緒に海の雄大さを満喫する。 いろんなことを肌で感じながら自分を表現し、そこから感じるのを 筆で言葉や絵などを描き始める。 現在は商業施設やイベント会場などでの書き下しやライブペイントなど その活動を全国各地に広げております…(引用)    

2023年1月30日月曜日

『みんなの図書館』2月号が面白い!No.106

『みんなの図書館』という雑誌を手にしたことがありますか。A5版(14.8×21cm)の小さな雑誌。 同誌は図書館問題研究会が編集している月刊誌で教育資料出版会から発行されています。その2月号、とても面白く読みました。そのいくつかを紹介します。 同誌では毎月、ほぼテーマ(特集)が決められていて最近の例では「図書館とコラボレーショ」’22.12月号、「小規模図書館が生きる道ほか」’23.1月号、そして今年の2月号は「特集:図書館に正規司書を」となっています。目次についで編集部より「特集にあたって」の文章があって(今回は文責:清水明美)、なぜこの特集をするかが書かれています。以下に引用します。 [特集]図書館に正規司書を―図書館に正規採用の司書を増やしていくために何ができるのか 昨年、2022年2月号の特集において「公共図書館における正規公務員の司書が、全数の1割に迫っている。」と書きました。各自治体においては図書館職員や住民が正規司書を増やすべく働きかける努力をしてきましたが、まだまだ改善にはほど遠い状況です。しかしこの1年の間に図書館問題研究会全国大会において、アピール「図書館法を改正して公立図書館に司書の必置を求めます」が採択されるなど、さらに改善に向けての歩みが進みつつあります。(『みんなの図書館』2022年9月号参照) 今回の特集では現行図書館法にはなぜ司書の必置がないのかを、図書館法制定の歴史研究から考察し、現在常勤の正規司書がいない自治体の調査報告、正規職員採用の先進地滋賀県の図書館職員・行政職員・住民からの報告を通して、なぜ専門職員司書が必要か、さらに正規であることの必要性について考え、正規採用の司書を増やしていくためにできることについて、考えるきっかけにしていきたいと思います。 --------------------------------------------------------- 特集で面白かった3つの文章 特集には5つの文章があるが、①「司書必置はどこに消えたのか——図書館法成立過程での司書規定の変遷」小形亮、②「司書のいない自治体一覧」大原明、に次いである3つの文章が私にはとても面白く思われた。(①~⑤の番号は筆者による。) 3つの文章はいずれも滋賀県の東近江市立図書館に関わるもので(私自身1995年4月から当時人口2万3千人の能登川町の図書館・博物館開設準備室、1997年11月の能登川町立図書館・博物館開館から、2007年3月東近市立能登川図書館・博物館退職まで勤務)、文章を寄せた3人のうち2人は東近江市立図書館の職員(司書)、1人は東近江市の市民。 1つ目は東近江市立永源寺図書館に勤務する前田さんの、 ③「あたりまえ」を積み重ねること――東近江市立図書館の市民 ・行政との連携。(前田笑) 東近江市立図書館が「行政や市民との連携」について行ってきた最近5年間の活動を中心に紹介。 人口約11万人の東近江市には7つの図書館(八日市・永源寺・五個荘・湖東・愛東・能登川・蒲生)があり正規職員(22)・会計年度任用職員(19)は全員司書で、「長年正規職員の司書として 働いてきた職員が館長・副館長になっています。(2023年度に1名採用予定)」 (因みに東近江市と人口規模の糸島市(人口10万人)では図書館3館、正規職員4(司書0)、会計年度任用職員27) 〔1.市役所各課との協働事業〕では市役所の各課と図書館が共同で行った活動を紹介しています。 〈最近では〉 〇(参画課から声がかかり、12月の人権週間に合わせて、市内各図書館で啓発展示。参画課が用意したパネルに合わせて図書館の資料を展示・貸出。 「人権について学ぶことのできるリストづくり」編集会議に参画課から2名、図書館から4名参加、作成、配布。その直後の図書館の全体会(全館共通の館内整理日に行う情報交換・研修などの集まり)の研修テーマを、同和教育や利用制限のある資料について、と定め参画課に研修内容の相談を行って実施。 「こんなふうに、市役所他課との交流があることによって、日々の新しい仕事が生まれたり、自分たちの資質を高める機会が生まれたりしています。」 〈健康福祉部との連携―高齢化社会に対応した図書館づくり〉では。 〇担当課(福祉総合支援課、2021年からは地域包括支援センター)の協力をえて、図書館職員の研修として認知症サポーター養成講座を実施。 〇健康寿命の延伸をめざす健康福祉部と、図書館の未利用者の開拓を行いたい図書館の思いが合致し、福祉総合支援課と共催企画。「図書館でいきいき脳活」(八日市・能登川・湖東・永源寺の各館で)、永源寺館では行政と図書館だけでなく、市民グループ「楽楽ひろばの会」とも連携。 〇「いきいき本の元気便健康プラス」、保健センターや福祉総合支援課と連携して地域に出かける事業を開始。2020年度末に移動図書館者を更新した際に、軽トラック改造型であるという身軽さを活かしたサービスを開拓、各集落で行われている交流サロンなどに出かけてゆき、移動図書館で資料の貸出を行うだけではなく、保健師による健康に関する話、認知症サポーターキャラバンメイトによる予防体操、司書による音読体験や ブックトークなどのプログラム。依頼者の求めに応じて組み合わせて提供。 また、〈教育・子ども行政との連携ー「子ども読書活動推進計画」をベースに 市役所のさまざなな課や市民ボランティアと手を取り合って、子供の読書環境の醸成に努める。 ①「教育研究所だより」(市の教育研究所が年に10回程度発行)に毎号司書による図書紹介コーナー ②教育研究所が主催する、小中学校教師の夏休みの研修で、ブックトーク絵本について司書が講師に。 ③幼児教育センターや幼児課(市内の幼稚園・保育所・認定こども園を管轄)と連携。2018年度から各園の園文庫整備支援事業を実施。潜在保育士、若手保育士を対象とした絵本に関する研修の講師。 ④「ルピナスさんの会」ー各地域のおはなしボランティアのグループの連合体ー各グループの代表と各図書館の児童サービス主担当者が年数回集まって情報交換。その中から提案された事業を形にしていく。(2017年度から「初心者向け絵本読み語り基礎講座」、司書が講師) 《目を引かれたのは》 〔2.図書館から市役所へ「仕事に役立つ図書館だより」〕 「東近江市職員の仕事に役立つ図書館だより」の発行、2018年4月より月に1回。  〈内容〉前月に受け入れた全資料から、4つのテーマ(①「行政・法律・社会」、②「教育・子ども・福祉」 ③「はたらく」、④「郷土を知る」)のもと、市職員にぜひ手に取ってほしい資料をリストアップ。 リスト形式で毎号50~60冊紹介。各ジャンルから1~2冊ずつを書影と短めの紹介文付きで掲載。さらに 「今月の1冊」としてピックアップした資料を少し長めの文章とともに巻頭で紹介。 また、雑誌や各種団体の刊行物などから、市に関する記事をピックアップして情報提供。 ※発行開始前の企画段階で、研修や事業での連携などでつながりのあった職員にサンプルを見せ、意見やアドバイスをもらっている。ペーパレスで、庁内のグループウェアにPDFで掲載、市の全職員が見られる。紹介した資料が掲載翌日にインターネットで予約されていたり、研修や会議の場で出会った職員から「毎月見てるよ」という嬉しい声も。 議会図書室への資料提供 ・2021年2月、市の議会事務局からの依頼で、議会図書室のリニューアルに協力。資料を手に取りたくなるような配架や書架見出しを提案。除籍や更新の作業を事務局職員と行う。その後、図書館資料を定期的に議会図書室に提供。時宜に適った資料や「東近江市職員の仕事に役立つ図書館だより」を毎月届ける。 〔3.市民と手を取り合う〕 〈市民の様々な活動への資料・情報や場の提供〉 ・「さぼてんのはな」(流産や死産を経験した人たちの支援グループ、当事者同士の交流の場を設けたり、亡く             なった赤ちゃんに着せるためのベビー服づくりに取り組んだり。)  2022年、「さぼてんのはな」がその活動を知ってもらうための展示をしたいと、図書館にもちかけ、市内の複数館で開催。その際、グリーフケアや周産期医療に関する図書館資料も展示・貸出を行う。 このケースのほかにも、市民の持ち込み企画や協働による展示や講演会などを多く開催していて、市民活動を通して図書館資料を活かす場となっている。 ・「楽楽ひろば」(永源寺館を地域住民でにぎわう場にしたいという思いを持った市民が始めたグループ、数々の連携事業)2019年の「いきいき脳活」で活動をスタートしたあと、保健センターの市民向けプログラム「まちリハ」を活用した事業を永源寺館で定期的に行う。保健センターとの連絡や広報への協力などで、図書館も積極的に関わる。 永源寺館では、日赤奉仕団の地域支部とともに図書館外構の美化活動や季節のお花やめだかの鉢の展示など、図書館の居心地がよくなるよう様々な工夫を。 〔4.社会福祉協議会との関係づくり〕  社会福祉協議会=「地域に暮らす高齢者や障がい者をはじめ、すべての市民が一人の人間として尊重され、お互いに理解しあい、協働して共に支えあいふれあいながら、住み慣れた地域において、安心して暮らすことができる福祉のまち」を目指して活動。➡図書館の大切なパートナー ・永源寺地区では、住民福祉計画「住めば都プラン」推進会議」に、2010年頃から司書が参加。  地域の「顔」(キーパソン)を知り、つながることのできる大事な機会。ここから生まれた事業➡①「地域で暮らす高齢者の知恵を伝えるワークショップ」、②社協の担当職員とつながることで、例えば移動図書館の訪問先として適切な施設・団体の情報を得る。(図書館の仕事に還元) 5.「そこら」さまざまな人と手を取り合い、地域資料をつくる  東近江市立図書館では、行政・市民・社協などさまざまな立場の人とつながりをもってきた。その精華ともいえる取り組み➡地域情報誌『そこら』の発行。 2014年から年に1度のペース。編集チーム=図書館職員、市役所職員、NPOまちづくりネットの職員で始まった。今ではそれに地元新聞の関係者やフリーのカメラマンなど、民間の人を巻き込んで展開。 市内の気になるお店や名所旧跡、魅力的な人物【キーパーソンだ!:才‣註】を(司書)自ら取材し、記事にっまとめ、紙面を編集。印刷にかかる費用は市の予算に限らず、メンバーの業務に関する補助金やまちづくりに関する支援金なども活用。 〔6.「正規職員の司書がいること」の意義〕 最初に記したように私が住む糸島市は東近江市と人口同規模であるが、図書館の正規職員は4人、うち司書は0である。これに対し東近江市は22人の正規職員、全員が司書である。糸島市の隣、人口155万人をこえる福岡市は政令指定都市20市の中で、貸出密度(市民1人当たり年間貸出点数)は最下位の2.6(2020年度)、図書館の正規職員は31人で、うち司書はなんと2人である。因みに政令指定都市中、貸出密度が一番高い人口131万4千人のさいたま市は貸出密度は福岡市の約3倍の7.5、専任職員は福岡市の5倍の165人、うち司書は96人で福岡市の48倍である。図書館数では糸島市3館、移動図書館(BM)0;東近江市7館、BM2;福岡市12館、BMは0;さいたま市25館、BM1,サービスポイント2である。 図書館にその人口規模にふさわしい司書がいるとはどういうことか。さいごに前田笑さんの文章を引用したい。 「これらの連携を振り返って思うのは、市立図書館の司書職員は、市民と行政の中間的な存在であるということです。日々カウンターで利用者と接し、書架の状態を確認し、社会の情勢を注視しながら選書にあたるわたしたちは、同時に市の職員であって、災害対応にもあたりますし、行政職員としての研修も受けます。それらは孤立した仕事ではなく、どこかでつながって循環している仕事です。また、一つ一つを 取ってみれば、とくに華々しくもなく、大きな予算も必要としない「あたりまえ」の仕事です。けれども、これらを積み重ねられてきたのは、司書であり、行政職員であるという立場の職員が、合併前からの実践と経験を連綿と継いできていること、そしてさまざまな年齢層の職員が安定した環境で働けていることによるのではないかと思います。ランガナタンの言う通り、としょかんは「成長する有機体」です。その成長を支えるのは、専門性と個性を発揮しながら長年働く司書職の集団ではないでしょうか。」 今回、前田さんのレポートについで、ここに書くつもりであったあと2人のレポートについては、号を改めて紹介したい。〔「行政職員からみた図書館とは」東近江市立図書館 山梶瑞穂」、「激動する時代を生きる図書館に期待する」北川憲司(滋賀地方自治研究センター)〕 教育・子どもぎょうせい