2021年5月31日月曜日

田んぼぐの様子 種おろし・・・ No.71

今年の種おろしは予定より10日ほど遅くなってしまったが、5月11日にようやく終えた。 種おろしが終わって20日たった今は、苗10㎝ほどの背丈になっている。これが15㎝くらいに なってから田植えだ。種おろし前後からこの間の作業を振り返ってみると 種おろし・・・ ーーー 前日が天気の良い日を選ぶ。(土が湿っていると覆土がやりにくい) (鏡山悦子さんの『いのちの営み 田畑の営み―自然農・栽培の手引き―』では、冬の間の 準備として、苗代の表面に米ヌカをふりまき、その上に稲わらをかぶせておく、とあります。) 私の場合は、この数年は米ぬかをとれているが、米ヌカをとれない道具を10年以上使ってきた ことから、毎年、事前の準備をせず、種おろしの直前に苗床の準備をしてきた。 1.最初に170×360㎝のスペースの草刈り。 2.実際に種をまく110×300㎝のの所を、鍬で表土の3~5㎝ほどを軽く耕し、土を砕きながら   平らにしていく。 3.その後、種が均一に落ち着くように、鍬の裏でたたいて平らになるよう軽く押さえる。 4.170×360㎝の周囲を30×15㎝(深さ)の溝をスコップでほりめぐらす。野ネズミやモグラ   の侵入を防ぐたため。
ーー
ーー
ーー
健仁さん、種おろし 種は、毎年稲刈りのときに、翌年のためにとっておいたもの。種おろしの前日から水につけておく。 種もみは苗床の広さを考えて少しずつ蒔いていく。苗代の端から端まで2~3回行き来して、全部蒔 き終わるくらいまで、丁寧に少しずつやる。ーーー 最後に均一でないところの種もみを手でつまんでおきなおす。(3㎝間隔くらい) ーーー それから土を被せる。(覆土) すべての種もみがかくれるよう、種もみと同じくらいの厚さ(5~7㎝)。ふるいを使う。 土は雑草の種子の混じっていないところのものを使う。 土を被せおわったら、鍬の裏側で軽くたたいて押さえる。(土の乾燥をおさえる) その上に、さくねんの稲わらを10~15㎝に切ってかぶせる。(さらに、冬の間苗床に被せておいた長い 稲わらを被せる。感想と寒気、鳥からお米を守る。) ネットを被せる。 2週間をめどに、発芽の状態をたしかめ、ワラが多いと思う時は少し除いて暖かい陽射しが当たるよう にする。けっして土を裸にしないこと。【上記『自然農・栽培の手引き』による】 ーーー
ーーーー そして、水のこと、水路のことーーーー 田んぼや畑のいのちを育むものは、日の光、水、そして土の力だ。 田や畑に水を得るために、農に携わる人たちの、限りなくはてしない営みを思う。私の田んぼは標高 50mの高さのところにあり、ここで米づくりをしているのは現在3軒だけ。ここへの水の源は、数百 メートルの高さの山の上に、いつの時代か作られた堤だ。数年前までは、年に1度、堤の周辺の竹や 草刈りにいっていたが、現在では行われておらず、共同の作業は田んぼから1㎞くらい先の、水路の 分岐点からの水路の補修だ。水路の途中で枯葉や枝木、土砂などがつまっているのを、みんなで鍬と スコップでさらえていく作業だ。 その作業中、大変な事態に遭遇、参道から2mくらいの高さにある水路のところで、土砂でつまり水が 斜面に流れだしたところで、1mくらいの大きな穴があいた箇所があり、話あいの結果その補修は業者 に頼むことになった。これまでもみんなでできることはやってきているのだが、今後のことを考えての ことだった。 ーーーー
ーーー 後日のこと
水路のあとは、田んぼの草刈り 水路作業が一段落したあと、つぎは、田んぼの草刈りだ。長いツルを伸ばしてどんどん増えていく、 手ごわい草が、田んぼの一角に広がっていて、1枚目の田んぼの草刈りだけで4日かかってしまった。 ーーーー 草刈り前
ーーー 草刈りを始める
そして思わぬことが。ーーーー 1枚目の田の草刈りが4日がかりで終わり、これから2枚目だと思っていた矢先、思わぬことが起きてしまった。 家から坂道をおりた角地に梅の木が1本あって、その実で梅ジュースや梅干しをつくっているのだが、29日の 午後、遠方から友人が来宅することになっていて、それまでまだ時間があると思いつき、2.7mの大きな脚立に のって梅の実をとっていた。その脚立は安定が悪いと感じながらも、手直しせずに使っていたのだが、作業の 終りに斜面に脚立の一方をかけて、傾けて立てた脚立の上にのって作業をしているときだった。ああっと思う 間もなく脚立が倒れ、私は横倒しになった脚立のフレームの上に背骨を直撃する形で落下していた。しばらく は息もできずうずくまったままでいた。何とか立ち上がり家まで坂道をのぼってたどりつく。 友人たちが帰った後、この日は22時にはベッドに。痛みがかなりひどいけれど、骨折やひびわれではないので はと思われ、様子をみることに。翌日は昼前までベッドに。痛みはかなりあるものの、昨日よりはいくらか痛 みが和らいでいると感じられ骨折もひびわれもないのではと思えた。そして2日目の今日(5月31日)、歩くの は腰を折ってソロリソロリで、痛みはあるものの、昨日よりはすこしでも歩ける状態なので、回復するのを時 間をまつしかないと思える。まずはたまたま骨折ではないと思われることに救われた(と思える)が、そもそ もの原因は、私の不用意さ、一つひとつ、しっかり向きあっていないことにある。日々の暮らし方に・・・。 2枚目の田の草刈りは、体の回復をまってのことになる。 ーーー
梅の木と脚立・・・この場所で ーーー
水路補修工事完了 ーーー
--- 脚立落下の顛末 5月28日に脚立から落ちてから、できるだけ安静にして過ごし、背骨の右側にひどい痛みが あるものの、1日1日痛みが減じていくことが感じられていたので、そのまま様子を見ながら 過ごすつもりでいたところ、昨日6月2日になって、それまで痛みがなかった背骨の左側が、 何かしたわけではなく突然痛くなり、呼吸やくしゃみをしたり、体を少し動かすか動かさない かでも強烈な痛みを感じるようになり、家人の車で、病院へ。レントゲンを撮った結果、あば ら骨2本骨折と告げられる。処方としては自分で装着するコルセットを1枚、腰にまいて帰宅す る。あとは1週間後に来院ということで。私自身は昨日まで、1日1日痛みが減じていたため、 骨折ではないのではと思っていたのだが。はじめは背骨の右側の痛みが強かったため、左側の 痛みに気づかなかったのではと思う。いずれにしても、あとは体自体の力にゆだねるほかなし。 背骨の骨折や損傷がなかったこと、紙一重のことだったと自覚する。(コルセットの効用を体 感する)ーーーお医者さんに田んぼで、これから畦塗りや田植えに取り掛かかり、6月いっぱ いに田植えを終えたい話をすると、1月ぐらいかかるが、2週間ぐらいで畔塗りができるのでは とのことだった。当初の予定よりは遅くなるけれど、6月は、体の様子をみながらぼちぼちや っていくことに。(6月3日)ーー
畦塗りにむけて 体の様子をみながら、畔塗りに取りかかる前にやっておかないといけないことに少しずつ とりかかることに。ーーーー 何とも驚いたのはーーーーー これから取りかかる作業のこと、その段取りのことを考えていて、田んぼのまわりを見回って いて、思わず絶句ーーー・1月17日から数日かけて田んぼのまわりに、猪の侵入を防ぐため金網 柵(W196×h120cm、65枚)をはりめぐらせていたのだが、柵をたてた位置が畔のまんなかだ ったっり、一方によっていたりしていた。柵は昨年はじめてとりつけ、その際は畦塗後で、稲が 育ってからだったので、畔のどの位置にたてるかを考えずにやってことたりていた。今年たてた 位置では畦塗の作業がとてもやりにくい。畔塗は畦の2分の1から3分の1をスコップでけずり落 としていくため、十分に削り落とせない箇所がそこここにある。また網が立っていては一連の 作業がやりにくいため、網を全部とりはずすことに。支柱の鉄の棒に1か所で、上段、中段、下段 と3カ所を細い針金でぐるぐる巻きにしているうえ、それぞれの40センチばかりの留め金をうちこ んでいる。これらをぜんぶ取り外さなければならない。幸い腰を曲げる作業はないため、ゆっく りとりかかることに。ーーー
2日かけてとりはずし完了。この間、お寺の健仁さんが2枚目のたの草刈りにきてくださった。 そして6月10日、1枚目の田の、以前に草刈りを終えていた箇所の草が相当あるため、それをかき集 めては一輪車にのせて田んぼのとなりに運ぶ作業を2時間ほど(1枚目の田の5分の1)やって、この 日の作業をおえた。できる限り腰に負担をかけないように意識して。ーーー ところが、翌日になると、前日には立っているときには痛みを感じていなかった、骨折したあたりに 随時痛みを感じる。この日は病院に行く日だったので、経過を話しレントゲンをとってもらう。 医師の話、骨折した箇所はずれてはいない、1カ月は安静にしておいたがいいとのこと。ーーー 体の様子をみながらやっていくことに。今日は昼過ぎ、小降りだった雨も夕方には風と共につよまっ てきた。しばし安静にという声だろうか

2021年5月10日月曜日

ある文庫の50年記念誌のこと  No.70

この1年、ある原稿にとりかかっていたのだが、昨日ようやく終了した。この 数カ月はとりわけ、それに時間をあてていたため、この間に手にした本や冊子 のうち、ブログで紹介したいと思うものが何冊もあったのだが、ブログにのせ ることができなかった。そのいくつかをこれから随時紹介していきたい。 ブログの前号、No.69「5月は15歳の少女が書いた1冊の本の話から」は、 「ことばと歩く」の著者、大松珠(たまき)さんと、アーサー・ビナードさん の対談が5月5日にあることを、その数日前に知り、その対談があることを知ら せるため、急遽、掲載した。時間がなかったため、当初、ブログに書いたのは 前半部分と、対談の日時と場所までで、後半部分は、対談後にブログに掲載。 しかも「この項続く」として、まだ、No.69を終えていない状態です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ここに紹介する『大沢家庭文庫50年記念誌』は、実は、昨日書き終えた原稿の 「添付資料」(9頁)としてつけたもので、ここでは、添付した資料の全文とあ と若干の文章を加えたいと思っている。(本文51頁、添付した資料24頁) 「文庫」といっても、初めて聞く方もいるかもしれないし、実際にみたことも ない方もおられるかもしれない。私自身と文庫との関りは、1976(昭和51)年 から、1979(昭和)54年3月まで、福岡市民図書館で嘱託職員として働いていた 時、私の仕事は福岡市内に160をこえてある文庫に、運転手さんと2人から3人で 団体貸出の本を運ぶことだった。個人の家庭や公民館、地域文庫、小学校や教 会など。能古島にはフェリーで行った。ーーーーーーーーーーーーーーーー 当時、人口100万人をこえる福岡市には、民間の遊戯施設を改装した福岡市民 図書館が1館あるだけで、各区にある市民センター図書室は公民館図書室にあた るものだった。 私自身は大宰府町(現在は太宰府市)に住んでいた時、借家に離れがあり、そ こで文庫(四王寺山の登り口にあったので、「四王寺(しおうじ)文庫」、字 名は「連歌屋」)をした。また現在自宅で「風信子(ヒアシンス)文庫」を開 いている。文庫は一つ一つ、その内容や運営の仕方はちがうものだが、多くの 場合、子ども達に本との出会いをという文庫が多い。福岡市では全部がそうし た文庫だった。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー それではこれから紹介する『大沢家庭文庫』とはどんな文庫だろう。 タイトルからして、50年も文庫が続いているのはなぜだろう。 まずは、書き終えたばかりの原稿に添付した資料から。ーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 『大沢家庭文庫 50年記念誌』 ・発行日 2020年12月  ・代表者 栗山規子     〒181-0015 三鷹市大沢5-13-6 / 0422-31-5768 ・編集 栗山規子 牛久保ゆう子、大久保あや子、栗山比弓、山本紀子、倉田清子     (以下、「記念誌という」) この「記念誌」をここに紹介するのは 3.「記念誌」を読むと、「文庫」とは、どんなものかが鮮やかに伝わってきます。そこに集う子どもも大人も、文庫での時間が一人ひとりの生活の一部になって、本と人、人と人との出会い、ふれ合いから生まれる「ぬくもり」「あたたかさ」(「手のひらのぬくもり、あたたかさ」)が、深い元気をみんなに手渡しています。 これから市民のだれもが行けるところに、市民の身近に、その地域の分館のあり方を考えていこうとするとき、『大沢家庭文庫 50年記念誌』は、「こんなところが近くにあれば」という分館の具体的なイメージを読者に強く深く喚起する一冊であると考えます。 4.このため、大沢家庭文庫の歩みと活動の実際をできるだけ詳しくお伝えしたいと考え、引用を含めて長い紹介となってしまいました。―――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 大沢家庭文庫のはじまり   東京都の三多摩、三鷹市の南西端、野川沿いの緑多きところに、大沢家庭文庫がある。「春は色とりどりの花が、秋は野鳥や甘い柿の実が目も心も、時にはお腹も楽しませてくれます。」 栗山規子さんが、大沢家庭文庫を始めたのは1968年12月のことでした。近隣の日野市立図書館が開館(1965年)して3年後、隣の市の調布市立図書館が開館(1966年)して2年後のことでした。 アメリカとの戦争が終わって20年くらいの頃、栗山さんは大学を出て、小学校の教師になりました。「日本はすっかり焼け出され、子どもの本もようやく福音館の「こどものとも」や岩波の本が少しずつ出はじめた頃でした。」栗山さんは「少ない給料の中から本を買っては学校の本棚に並べていました。」「授業中に子どもたちによく読み聞かせをしていました。」「どんな本が子どもたちにとって楽しいのかを知ることもでき」ました。 結婚して長男が1963年に生れ、2年後に三鷹市大沢に家を建て、学校には遠いため行かれず、やめなければなりませんでした。1966年には長女が生まれ、自宅には「子どもの友だちが来て本を読むととても喜ばれました。」 「地域活動に積極的に関わっていた父の影響もありました。父は集会所に本を集め子ども達に読ませたいと提案し、自分でも子どもの本を買って寄贈していました。」その頃学生であった栗山さんは、「本を並べるだけではだめなのだ。手渡す人が大切なのだということを知ります。」 「母がとっていた『婦人の友』の1965年ころの記事の中に、坪田譲二氏の司会で文庫をしていらっしゃる方々の座談会を読み、文庫をやってみたいと思いました。準備も勉強もせずに、家の子どもの絵本を読んだり貸したりしていた延長として、自然発生的に始めてしまいました。」 「こどもといっしょになってひとつの絵本に読みひたる楽しみを味わっていくうちに、この子どもたちがもっと良い本を広く読んでいくようになってほしい・・・わが家の本を貸し出していこうかと考えるようになりました。そして1968年12月栗山宅の手持ちの本に市立図書館から団体貸し出しを受けて、文庫をはじめました。りんご箱に包み紙をはって本箱とし、四帖半の子ども部屋に並べての開始でした。」(「大沢家庭文庫25年のあゆみ」) こうして一つの家庭で始められた文庫がなぜ、どのように50年をこえて活動を続けてきたのだろう。 記念誌のページを開き「児童図書研究会東京支部ニュース」への寄稿(2000~2001)の「こどもと文庫」の栗山さんの文章や、「文庫のあゆみ」を記した『壁新聞』(1968年~1993年、子どもたちの手書きの絵が満載)、そして文庫連絡会『輪を広げる文庫活動』への1994年度から2018年度までの15年間、毎年1年間の文庫のようすを生き生きと知らせる活動の報告、さらには「卒業生からのメッセージと思い出のひとコマ」「50周年記念のお祝いの様子」(『大人たちの会』&『子どもたちの日』)、そしてさいごに目をみはる「文庫のみんながよんだ絵本・語ったおはなしなどの記録」(羽沢小学校の「おはなし会」より 2004~2018年度の文庫「記録ノート」より)をゆっくりみていくと、50年を超えた活動を支えたものがくっきりと姿を現してきます。 ―――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  子どものときに、家の近くにこんな文庫があったら、 こんな居場所があったらどんなにいいだろう‼ こどもにとってはもちろん、大人にとっても。 ―――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 文庫のある1日をのぞいてみると 「1995年度のあゆみ」より、この時の世話人の1人、福島頼子さんの報告。 「今文庫に来ている子は、幼稚園児から小学校3年生までが多く、本の貸出しや読み聞かせ、おはなし会などをしています。高学年になっても来てほしいという思いから、ながーいおはなしの日も始めました。でも、いつもイイコで聞いているばかりではありません。 けんかや取りっこも起こります。そんな中で「子どもの力」を感じることがあります。 ある日、迷路の本を園児二人と小学生二人、それに私の五人が借りたいということになりました。そこで車座になり順番を決めることにしました。「ジャンケン」「小さい順」「もうう読んだ人は最後」と、子どもたちから案がでました。その都度、「それでいい?」と聞くと、「ずるい!」「・・・?」など、なかなか全員が納得する方法が見つかりません。皆借りたいのです。一度は抱え込んで部屋を出ていった子が戻って来て、また話し合う内、「借りたい人!といった時に、一番早く手を挙げた人に貸す」というのに五人が賛成しました。そこで、そばにいた子に審判を頼んで、私が借りることになりました。(こういう事になると、張り切ってしまって。) ところが、年少のEちゃんが泣き出してしまいました。他の子が「もう決まったのだから」と言っても泣きやまず、「あたし帰る!」と言いだしました。私も一瞬どうしようかと思ったのですが、世話人の一人が、「じゃあ気を付けてね、さよなら。」と、すっきり言ってくれました。Eちゃんは、「文庫なんかもう来ない」と出ていくので、「また来てね、さよなら」と、私も言いました。Eちゃんは門の外でウロウロしていました。栗山さんが、「泣きながら帰ると危ないね」と話していると、子ども達は外へ飛び出して行き、「おばちゃん、その本を貸してあげて」と、戻ってきました。本を渡すとまた飛び出していき、部屋にいた子もみんな外へ。しばらくして、Eちゃんは本を抱えて戻って来て、「この本、貸して」と言ったので、一番手はEちゃんになりました。 「こうしたら?」と世話人達は何も言わなかったけれど、子ども達で解決していく力と、ほっておけない優しさを感じました。そして大人は見守っていくだけだなぁと。」 心にとびこんでくるエピソードがどのページからも (世話人の声に耳をすますと) 「金曜日の3時から5時・・・・・・・ “文庫”という空間に流れるこの2時間は子どもたちの心の中に、記憶の中に、どのように積み重なっているのでしょう・・・。おはなしを聞くときのワクワク感や絵本の頁をめくるときのドキドキ感は、本当に、ちいさな、ちいさな思いなのに、大人になってもしっかり覚えていたりするものです。そして、“文庫”は子どもたち一人一人が、自分のペースで本と友達になることができる不思議な力を持っているように思います。 昨年の12月20日、文庫では、少し早めのクリスマス会が開かれました。司会を担当した私は、子どもたちの斜め前に座って、絵本の読み聞かせやおはなし、人形劇などの出しものを見聞きしながら、ときどき、視線を子どもたちに向けることができました。そのおかげで、新米の“文庫のおばちゃん”である私は、やわらかな冬の陽射しにやさしく包まれた子どもたちが、だんだんと、おはなしの世界に引き込まれていくときのなんとも素敵なキラキラとした瞳に出会うことができ、逆に吸い込まれそうになって、圧倒されながらも、とても幸せな気持ちになれたのです。 そんなことを年明けの世話人会で話したとき、「そうなのよ・・・だから、やめられないのよ」と、口をそろえておっしゃられた語り手の方たちのその瞳もまた、キラキラと輝いていて、文庫の魅力の奥深さを改めて感じさせられました。 1週間のうちの“2時間”が、これからも子どもたちにとって、楽しいひとときであることを願いつつ、一人でも多くの子どもたちのあの“瞳”に出会えたらいいなと思います。   (「1996年度のあゆみ」より   山村知子さんお報告) どの報告にも、目が留まることしばし  少しだけの紹介です!(抜粋です)   (「1997年度のあゆみ」から 長谷川直子さんの報告) 《文庫は大繁盛》 遠路はるばる府中から通ってくる親子組も増え、栗山さん宅のリビングも隙間がなくなるほどにぎやかな文庫になる時もしばしば。子どもの顔と名前がなかなか覚えられない程です。 ① ・・近くに図書館もあるけれど、文庫へ行って本を借りよう・・・ ② ・・だれか人がいるから、文庫に行こう・・・ ③ ・・今日は、おはなしの日だから文庫へ行こう・・・ 子どもにとって、文庫に通う意味は様々だが、生活の一部になっているのでしょうね。(略) 親子4人で、文庫に通い始めて4年。私達家族にとっても、文庫は生活の一部になっています。本やおはなしとの出会い、色々な人との出会い、どれも貴重なものです。子どもたちも大きくなって来ると、いつまでいっしょに通えるか分かりませんが、・・・文庫のホッとする空間と、時間をなるべく長く、いっしょに持ちたいと思っています。 「2003年度のあゆみ」〈抜粋・・・栗山さんの報告〉 4月 大沢家庭文庫の活動に文部科学大臣賞受賞の方。  4月23日「子ども読書の日」に「子どもの読書活動優秀実戦団体表彰」 受賞に当り、栗山さんの言葉。 「長い間充実した活動を続けてこられたのは、こどもたちにエネルギーをもらい、周囲のみなさんや家族に支えられてきたおかげ。これからも文庫を通して、子どもたちの心に本への信頼と人への信頼を育て、ほんやおはなしの楽しい世界をわかちあっていけたらいいと思います。」 三鷹市の広報でも「大沢家庭文庫」35年間の活動に文部科学大臣賞として、紹介の記事。 「本のほかにもおはなしや工作・実験、野川での野鳥観察、闇鍋パーティーもある「大沢家庭文庫」は近所の子どもたちの大好きな場所となり、それから35年、毎週文庫の日になると子どもが集まり続けました。この間、世話人の「おばちゃん」として協力したお母さん方や地域の人は90人。中には学生のときに世話人をして後に図書館学を学び、現在ニュヨークで児童図書館員として活躍する方や、子ども時代に文庫に通い、母となり世話人の仲間に入った方、子育てを終え、今度はお孫さんを文庫に連れて再び世話人をしている方もいます。・・・」  (2003年5月18日号) 5月 突然の夫の入院手術。掃除だけして病院へ飛び出す私の後を、世話人さんたちがしっかり子どもたちとむきあってくれ、新入会者も多い月でした。 11月 最終日は庭で火を焚き、恒例の魔女鍋。50人余りの親子がおはなし会の後、魔女の    髪の毛や、目玉や脳みその入った熱々のスープで心もおなかもほかほかに。 年があけてⅠ月~3月 夫の病状が悪化。自宅で最期まで看取る決意をし、夫の「文庫は続けなさい」との言葉に励まされて、告別式の翌日休庫しただけで、3月19日の「卒業生を祝う会」までやり通すことができました。激動の一年でしたが、子どもたちの笑顔と文庫世話人の皆さんの後ろ盾があったからこそ、この一年を歩めたと感謝で胸を熱くしています。 三鷹市の広報で紹介されたニューヨークで児童図書館として活躍する人については「2004年度のあゆみ」で世話人の吉田知雅子さんが紹介。 「大沢家庭文庫(文庫のよさは手作りの味) 「36年前に栗山さんが大沢の地に文庫を開いて以来、たくさんの人が世話人として文庫のお手伝いをしてきました。文庫に来る子どもたちの平均年齢は年々低くなっていくのに、世話人たちの平均年齢は容赦なく高くなっていきます。今では、世話人ではなく「魔女たち」と呼ばれているとかいないとか。そんな歴代の世話人達の中に、現在、アメリカの公立図書館で司書をされている大橋暢子さんがいます。彼女はアメリカに渡ってずいぶんたちますが、日本に里帰りするたびに大沢家庭文庫に立ち寄ってくださいます。その彼女が「としょかん100号」に寄稿された文章の中で大沢家庭文庫にふれています。図書館員としての彼女の思いが伝わるとても素敵なものでしたので、その一部をここに紹介させていただきます。」 「公共図書館の児童図書館員としてもっとも基本は何かと思い返すと、それは子どもが本を読む喜びを見出す手伝いをすることです。私の場合、いつも心のよりどころになるのは、 大学生の時にお世話になった東京の三鷹市の栗山さんとお仲間の方々が今も続けていらっしゃる「大沢家庭文庫」です。地域に図書館施設の完備されていないところから生まれた家庭文庫運動かもしれませんが、テクノロジーが発達してちょっと「非人間的」になってきているところのある公共図書館の時代にも、図書館とは違った味、手作りがあります。子ども一人ひとりが物語や本を通して得るものはインフォメーションばかりではありません。昔ながらのストーリーテリングや読み聞かせを大切にしながら、テクノロジーを上手に使っていけるようになりたいものです。 (文:大橋暢子さん 「としょかん」100号より抜粋)
『ニューヨーク スタテン島便り』大橋暢子 図書館計画施設研究所 1996  初出 季刊〈としょかん〉 1993年2月~1996年5月 大橋さんは大学生だった1987年から「大沢家庭文庫」。「公共図書館と児童サービスのへの興味がつのり、図書館学を勉強しよう」と思う。1990年9月 アメリカの北西、ワシントン州シアトルにあるUniversity of Washington Graduate School of Library and Informaition Scienceに 入学。1992年に卒業。運よくニューヨーク公共図書館が2年ぶりに大量採用した年で、採用される。(この年、ニューヨーク公共図書館 だけで80人採用)大橋さんが2年間通ったシアトルの図書館学校やニューヨーク公共図書館のことがかかれている。 大橋さんはアメリカの図書館員と結婚され、「大沢家庭文庫」に夫妻で里帰りのように訪ねる様が記念誌に記されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 時間を少しさかのぼると 小さな声をあげる発見が   「1994年度のあゆみ より」 栗山規子さんの報告 【古八幡での文庫】 家庭文庫には家庭の事情がつきものです。昨年我家を建て替えることになり、約9か月間古八幡の集会所を借りて文庫を開きました。一番近いアパートに移り住み、文庫の度に皆で本や事務用品を運びました。村外れの寄合所風の平屋で、空き地では子ども達がサッカーに歓声をあげ、しゃぼん玉大会や、折り染め遊びものびのびとできました。チマチマと本を読むだけでなく、異年齢集団でドーッと遊べてとてもよかったというのが世話人達の思いでした。それに中と外とに目配りが必要で、若い方も巻き込んでいつの間にか、文庫の協力者がふえていきました。ただ、子どもたちの関心が本から離れたように思えましたが、新鮮な目で本を見直しているように感じられるのです。 又、本を半年以上もしまいこんでおくのも惜しいので、24世帯のお宅に預かっていただき 各々のご家庭で利用したり、ミニ文庫をして頂いたのも思いがけないプラスでした。私にとっては、この一大事業をどう乗り切るか頭の痛いことでしたが、すんでみると多くの方の知恵と力を感じ、これこそ「文庫の力」なのだと感激で胸が熱くなるのでした。 《目を瞠った、小さな報告》 【堀田美代子さんのこと】 「この変則的な時期に、元図書館情報大学副学長竹内先生のご紹介で、掘田さんが毎週文庫に来られました。彼女は日系3世のアメリカ人で、文庫をテーマに博士論文を書こうという方です。児童図書館員としての経験も長い方で、本場の英語で絵本を読んで下さり、大人も子どもも美しいリズムに酔いしれました。紙芝居や自作のパネルシアターもして下さり、控えめながら折にふれて見えるプロの姿勢に、世話人達は学ぶところ大でした。秋には講演をお願いして、ご自身の読書歴やアメリカと日本の図書館の違いを語っていただき、深い印象を残されました。 【卒業生を送るおはなし会と茶和会】 「今年の六年生たちは随分大勢でよく文庫に来た子達です。四年五年とお泊り会を計画しやりとげる力もあり、彼らの卒業を祝いたいおばちゃん達は、3月のおはなし会への招待状を出しました。当日国分寺に引っ越したJ君も含めて17名が集まり、小さい子達と共にお話を楽しみ、世話人達手作りのおやつを囲んで思い出話に花が咲きました。お泊り会でのきもだめし、本の楽しさを知った思い出の一冊等 話がつきませんでした。 人と人とのふれ合いのぬくもりに支えられ励まされ、この一年も過ぎていきました。」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そうして、“図書館”との出会い   ―文庫とは何か、図書館とは何かを考え続けて― 【大沢コミュニティセンター建設をきっかけに】   1999年9月16日三鷹市文庫連絡会講習会での講演記録より ――――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「1973年大沢に三鷹市第1号のコミュニティセンターができることになり、どんな施設を望むか住民が考える研究会が、行政主導で組織されました。図書館ができると聞いた私は、素晴らしい図書館を夢見て、図書分科会に加わりました。三番目の子どもがまだ1才でしたのに、なぜか会のまとめ役となり当時三多摩に次々と建設された新しい理念に基づいた図書館を見学してまわり、話し合っては記録をまとめ、市との交渉にあたりました。そこで文庫5年目にして改めて文庫とは何か、図書館とは何かを考えるきっかけを与えられました。  当時住民自治を目指して、住民協議会が施設の管理運営をするという方式は、日本中の脚光をあびましたが、図書館とは何かを学べば学ほど、専門性が必要な図書館は、住民自治で住民がやるものではないと解りました。 当時の館長さんは大変良く解った方で力になっていただきましたが、コミュニティ対策担当の方々に解っていただくには、私の言葉も力も足りませんでした。  1974年いよいよオープンの頃、コミュニティ対策本部室長に呼ばれ、文庫として図書室に入って欲しいといわれましたが、図書館分館にしたい思いは断ち難く、お断りしました。 けれども住民としてできる範囲で協力したいと思い、日野市の図書館長〔注:前川恒雄さんですね〕に聞いた図書館友の会をまねて、図書室友の会と銘打って大沢地域のお仲間と一緒にさまざまな活動をしました。  この年三鷹の文庫活動をする人たちで文庫連を発足したときも、私の心の底にはようやく図書館とは何かを解り合える場ができるという思いがありました。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【図書館をめぐる人たちとの出会い】 1972年三鷹図書館主催の講座で、文庫の話をしてくださった日本親子読書センター代表の斎藤尚吾先生と出会い、早速高尾山で開かれた親子読書研究集会に出向き、その後何年間も図書館問題の分科会で、図書館界のリーダー格の先生方や、館長さん達と膝を合わせて意見を交換する幸いを得ました。そこで日本の図書館界を新しい方向へリードする方達が、名もない文庫のおばさん達を対等に扱ってくださる謙虚さに感動しました。また、戦後の民主主義の成果でしょうか、各地で図書館運動に情熱を注ぐ文庫のおばさんと呼ばれる人達の底力にも圧倒されました。その後、文庫連の図書館の勉強会に、図書館界の色々な方々をお招きして、図書館とは何かを学ぶことができました。 図書館とは、さまざまな情報、知識、文化を誰もが平等に得ることができる場であり、その図書館があってこそ、民主主義も、地方自治も育ち、根付くと私は思います。本を読むことは、自分の頭で考えることであり、判断力を持つことで、それは民主主義の土台です。 本を読まない社会、読めない社会にしてはいけないと思うのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【文庫連の図書館運動】 1975年清水正三先生の「明日の図書館を考える」という講演をお願いしました。文庫連としては、新しい図書館のイメージを(三鷹市の)行政トップの方々や議員さん、行政委員さん達に聞いてもらいたいと、あちこちに案内を出しました。その時きてくださった社会教育委員会の委員長から「図書館五か年計画を考えているところだから意見を出すように」言われました。私はそれまで繰り返し読んでいた石井敦・前川恒雄著『図書館の発見』をヒントに三鷹図書館の将来像を急いでまとめ、文庫連の皆で話し合って、長文の要望書を提出しました。  このことを皮切りに「文庫への市費助成の請願運動」をはじめ、「学校図書館に人を」の運動に至るまで、文庫連は声をあげ続けてきました。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ―どんな文庫にしたいのか― こうして外での活動は広がるばかりで子育ては勿論、文庫も手抜きだらけでした。まず子どもの本を読む時間がありません。本の情報は、もっぱら我が子と文庫の子に頼っていました。とにかく文庫の時間に息せききって帰ってきてそこにいるだけでした。けれども、文庫は分かち合う関係でありたいお願いました。  大人も子どもも世話人仲間も、教える側、教えられる側という関係をつくらない。先生はいらないと思っています。もちろん、先生と呼ばれる文庫もあっていいのです。私は「おばちゃん」と呼ばれたいと思うだけです。〔注:「メダカの学校;だーれが生徒か、先生か・・・」〕  文庫には宗教と政治を持ちこまないというのも鉄則としてきました。  文庫は私の道楽だから夫の稼ぎでなく、せめて姿勢だけでも私の稼ぎでやりたいと思ってずっとアルバイトを続けていました。  始めた当初は、文庫の事務的なことは私がやって、他の世話人さん達には楽しんでもらおうと思い決めていたのですが、最近体力的にその通りにできなくなってきました。世話人さん達に助けられてかろうじて続けています。今までに80人あまりの世話人の方達がかかわってくださいました。なかには子どもの時文庫に通い二児の母となった今、大活躍の方もいます。ICUの学生だった時に来てくれるようになり、就職しても毎週文庫に通い続けこどもたちに慕われ、その後司書資格を取りアメリカ大学院へ留学し、今ニューヨー ク図書館のスタテン島分館で働いている方もいます。大勢の方達に支えられてきた幸せを思います。(略・おはなし会について)                 (以上)                                   

2021年5月2日日曜日

5月は15歳の少女が書いた1冊の本の話から No.69

3月19日の金曜日、久しぶりに海辺の近く、山もすぐ近くにある佐波の集落に 産の森学舎(以下、「産の森」という)を訪ねた。折にふれて産の森には、風 信子(ヒアシンス)文庫から本の出前をしていたのだが、コロナのことが起き て出前は長いことお休みになり、なかなか来れないでいた。 この日は筑肥線の線路の手前の空き地に車をとめて、歩いて行ったのだが、産 の森の学舎であり、大松さんのご自宅でもある家の前では何人もの子が遊んで いたが、すぐに大松くみこさんと珠さんが現れて、清楚な佇まいの一冊の本を 手渡された。 少し厚みのある、白い表紙の真ん中にタイトル、左下に著者の名前。ーーーー ーーー  ことばと歩く     大松珠 ーーーー 「珠」は「たまき」と読む。15歳の中学3年生の、おおまつ たまきさんが1年を かけて書いた本だった。 ーーー 産の森のことは、「図書館の風」のNo.24で、その何とも面白く興味深い学びの様 子や昼ごはんを毎日、子どもたちが、献立を考え自分たちでつくっていることなど を紹介している。 《「くらし」と「あそび」と「まなび」を見つめ直す》ことから、体験・表現・対話 などを大切にした、こどもも大人も成長する場づくりを目指してひらかれた。 ーーーーー 産の森学舎が始まったのは2015年、大松康・くみこ夫妻と西尾博之・晶子夫妻の4人 が先生で始めたフリースクールだ。開校時は小学部のみで、1年生2人、4年生1人の 3名だった。1年生の女子は西尾さんの、1年生の男子と4年生の女子が大松さんのこ どもだ。 2018年には児童2名で中等部が始まり、2021年、今年の4月には小学部17人、中学部 9人になっている。3名の小学部からはじまり、7年目をむかえて、小学部、中学部で 26名のこどもたちが通っている。 ーーーーー 産の森の小学部に4年生ではいり3年を過ごし、中等部で3年間を「くらし、あそび、 まなんだ」大松珠さんが、なぜ、どのようにこの1冊の本を書いたのだろう。 さあ、表紙をめくろう。もくじの前のページで、さいしょにであうことば。 ーーーー この本は、 「ことばってなんだろう?」 というひとつの問いから生まれました。 ーーーーー (もくじにつづく、たまきさんのことばに耳をすまそう。) はじめに「ことばってなんだろう?」 言葉について、より深く考えたい。 さまざまな視点から、言葉の新たな面を見つけたい。 そう思い、私は「言葉」をテーマにしたプロジェクトをはじめました。 ーーーー 私たちがプロジェクトと呼んでいるは、産の森学舎中等部の中心的な 活動となっている、探求学習のことです。問を立て、それについて様 々な手法で探求・追及・共有するというサイクルを繰り返します。 最初はスタッフの設定したテーマからはじめて、徐々により自由度の 高いテーマに行こうしていきます。最終学年になると大人からの指定 や縛りは一切なく、自分のやりたいことを突き詰めることができます。 【探求、追及なら、そうなのかと思うけど、さらに「共有」とは‼  そのサイクルをくりかえすとは‼「やりたいことを突き詰める」って  耳にあざやかな、いい言葉だな。】 ーーーーーー 私は昔から言葉が好きです。本を読んだり、人と話したり、言葉のこ とを考えたりと、言葉に触れているうちに、自然と言葉に重きを置く ようになりました。 これは私にとって産の森学舎で取り組む最後のプロジェクトとなるた め、前にも増して好きなことに全力で打ち込みたいと思い、今回のプ ロジェクトのテーマを選びました。 ーーーーー テーマを決めてから、改めて言葉について考えました。そのと自分に 自分に投げかけたのが、この本の軸でもある「言葉ってなに?」とい う問いです。 ーーーーー その問いについて、私はふたつの仮設を立てました。第一に「言葉は 使う人によってまったく違ったものになる」のではないか、第二に 「その人の言葉はその人の人生に等しい」のではないか。というもの です。 ーーー この問いを考えるにあたってインタビュうーをしようと思った理由は、 大きく分けてふたつあります。 ひとつあ、第一の仮説を字異聞の五感で確かめたかったからです。他 の人からは「言葉」というものがどんな風に見えているのかを、自分 の体からその人の言葉で聞きたいと思いました。 そしてもうひとつは、・・・・・(略)・・・・・ 人は成長の過程で、様々なところから言葉を吸収していると思います。 親や兄姉、周りの人、読んだ本、学んだこと、感じたこと。そう考え ると、その人の言葉はその人の人生を表わしているとも言えるのでは ないでしょうか。 そして生き方や大切なものが人それぞれであるように、言葉の役割や 意味は人によって全く違うし、そんな違いも全部含めて「言葉」なの ではないかと思います。 ーーーーー 仮説を検証し、新たな言葉のおもしろさをはっけんすべく、お仕事も 価値観も様々な五名の方と言葉をめぐる旅をしてきました。 「あなたにとって言葉とはなんですか?」という問いから広がる、ま さに5人五色の言葉たち。まずはじっくりご堪能ください。 《 ブログを書いているさなかですが、緊急のお報せ 》 アーサー・ビナード × 大松 珠 対談 日時  5月5日(水) 場所  産の森学舎 参加費 2,500円  定員  25名 連絡先 omtskmk.0502@gmail.com
以下、5人の方へのインタビュウ―が続き、さいごに「言葉と珠」と題して、 「質問者:たまき、回答者:珠」の章があり、11の質問とその回答が面白い。 その質問と回答ののいくつかを紹介したい。 「たまきの質問」 1.たまき:いつから言葉が好きなのですか?好きになったきっかけはありますか? 2.言葉に触れるというのは、具体的にどのようなことですか。? 3.おぜきさんのインタビューの中で「言葉へのこだわりが強い」という指摘があり   ましたが、自分でもそう感じますか? 4.「言葉は使う人によって全くちがうものになる」という仮説を検証するにあたって、   インタビュー以外の方法を考えたことはありますか? 5.どうやってこの五名に決めたのですか? 6.インタビューしてみてどうでしたか? 7.今回のプロジェクトで一番大変だったのは何ですか? 8.インタビューをしていて、印象に残ったことは何ですか? 9・お話を聞いてよかったと思ったことはなんですか? 10.今後、言葉にかんすることでやってみたいことはありますか? 11.この本を読んだ人に、何を感じてほしいですか? そして「珠の回答」のいくつか。 6.(インタビューで一番大変だったこと)   どれもすごく大変だったけど、終ったときに一番達成感があったのは文字起こしの   作業です。最初は録音した音声を聞きながらパソコンに打ちこんでいたのですが、   私タイピングがあまりに遅いので早々と諦め、ノートに手で書き起こしました。   とても大変だったのですが、おもしろい発見もありました。インタビューをして、   録音したものを聞き返しながら文字起こしをして、確認して・・・。少なくとも   計4回はその人の言葉を聞く(あるいは書く、読む)ことになります。そしてその   度に、新しい気づきや感想が出てくるのです。 ーーーーー 11.言葉の奥深さです。普段無意識に使っているものだけど、意識して考えてみると  案外わからないものです。「言葉ってなんだろう」と思ってほしい。そして、  ちょっと勇気を出してその考えを誰かに話してみると、またおもしろい気づきが  ある課もしれません。 ーーーーーーー 5.(どうやってこの五名に聞こうと・・・)  それぞれ違います。  言葉ではない表現方法をお仕事にされている方が言葉というものをどういう風に  捉えてあるか気になりました。そこで、私もダンス経験があることもあって一度  お話してみたかった真澄さんと、写真を撮りつつMUKAでいりろな人と関わっている  香りさんにお願いしました。  宇佐美さんは、様々な知識やユニークな感性をお持ちのことから、お話を伺って  見たいと思いました。  一緒にいて不思議と安心できるおぜきさんとは暮らし方のお師匠である朝子さんは、  言うなれば「私の理想の人」枠です。 ・・・・・ 珠さんの五名の方の紹介を聞いただけでも、何ともそのインタビューに心ひかれます。 それぞれのインタビューの本文は「言葉と・・・さん」というタイトルではじまり、 さいしょに「たまきさん」のリードの短い言葉があり、インタビューというか、お2人 の対話がひろがっていく。そして、インタビューの終りのページに「話し手」一人ひ とりの履歴が記されている。  ・・・・・ 五人の人はどんな人か、以下に珠さんの「リード」の文章と「履歴」を。--------------- 1.「1人目 言葉と真澄さん」「ダンスとは世界共通言語だとロンドンで知りました。」     (Masumi Enndo 公式ホームページより)    「そう綴っていた真澄さん。 私自身もクラシックバレエやコンテンポラリーダンスの経験があり、お話を聞いていて 共感する部分が数多くありました。日本語という言語を使って話していたのに、まるで 体で会話したときのような、とても不思議で素敵な時間でした。」  ・・・ 遠藤 真澄 舞台演出/パフォーマー ・・・・・ インターナショナルダンス学院卒業後プロダンサーになる。2016年ロンドンに活動拠点を 本場のUKJAZZ DANCEの創始者たちに師事。2017年Levi-sのM”Circle”にメイン ダンサーとして出演、エジンバラフリンジフェス、ロンドンボルツフェスなどの舞台芸術 出演、Lonndon Jazz Fesitival,Jazz Refest,など のヨーロッパ屈指のJazz Festivalに招待される。UK JAZZ DANNCEをメインにメディア から劇場、ワークショップまで幅広く活動。 ・・・・・ 現在帰国し、幼児から高齢者までダンス未経験者向けに海や森や図書館や学校、場所や人 をPerforminng Artsde繋げるひょうげんワークショップやセッションを開催。福岡県糸 島市を拠点に日本内外の芸術祭に出演、演出、映像制作を行う傍ら、ダンスを通して多様性 やあたたかい繋がりを地域の人と共有、一緒に感じられる活動を模索中。 ・・・・・・・5人の中では、私はただ一人遠藤真澄さんを知っている。ある日、私が田植え をしている最中に、龍国寺で座禅会に参加していた真澄さんは、若和尚の甘蔗健仁さんに聞い てと、田植えの手伝いにやってこられたのだ。真澄さんのしなやかで粘り強い行動力には驚か される。伊万里市民図書館での”ダンスと絵本”でのなんともすてきな時空の表現には 感動した。ブログのさいごに、そ一端を紹介したい。 【 よみがたりよみおどり WorkShop 伊万里市民図書館 】  https://www.youtube.com/watch?v=Nc̠rhzeGswE この項つづく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 2.「2人目 言葉と香織さん」 山本家に伺いました。小学生の頃はよくお邪魔して遊んでい たことを思いだしました。 そのときは、香織さんは「友達のお母さん」でしたが、今こうして向かい合ってお話を聞い ていることがとても新鮮に感じました。カメラマンとして」MUKAのスタッフとして、親として、 三つの視点から見えてくる。ーーーーーーーーーーー ・・・・・ 山本香織 1976年福岡県生まれ。夫(絵が上手くて器用)と長男(読書欲、特技けん玉)、次男(サッカ ー命)の4人家族。2003ねんごろからフリーランスのカメラマンとしてイベントやブライダル、 ポートレートなど撮影。2011年に糸島に移住後は写真と同時にフライヤー、パンフレット、 名刺など、もともと学んでいたデザインのお仕事もさせていただくようになる。いぜんから関 心があった「福祉と社会をデザインでつなげる仕事」がしたく、2017年から社会福祉法人香月 福祉会MUKAにて広報、デザイン担当として現在も働かせてもらっています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「3人目 言葉と宇佐美さん」ーーーーー  「風が強い日でした。私たちが宇佐美さんのお宅につくと、宇佐美さんと暖炉の薪がパチパチ というはじける音が迎えてくれました。「言葉」というものについて丁寧に話してくださり、 またひとつ、言葉の奥深さを実感しました。インタビュウ―を依頼したとき、宇佐美さんが承諾 のお返事と一緒に私の名前(おおまつたまき)を使って短い詩を送ってくださいました。 「負いたるにーーー 追いたる光とーーー 稀なるーーー 積みし熱き想い達よーーー 達せよーーー 稀なる珠とならんーーー きらめく天の星とならん」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 宇佐美洋一 Yoichi Usamiーーーーー・ビーズ・アーツ」主宰。ーーーーーーーーーーー ドイツ・Stuttgart Eurythmeum 卒・国際オイリュトミー・ディプロマ取得。シュツッツガルトと ハンブルグオイリュトミー舞台グループメンバー、ハンブルグ音楽ゼミナール講師、オイリュトミ スト養成クラス・アルファ 主宰・講師、崇城大学芸術大学教授(熊本)、中村学園短期大学非常勤講師(福岡)、NHK文化 センター・福岡講師、九州・沖縄作曲家協会・日本こども学会会員、親子劇場創造団体「山の音楽 舎」作・作曲・演出ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 作曲:オーケストラ曲から室内楽、ソロ曲、および劇場音楽、作曲古典四回ーーーーーーーー オイリュトミー舞台:ヨーロッパ・日本で約四百公演ーーーーーーーーー 招待出演:アヴィニョン演劇フェスティバル、スペイン・グレック演劇祭、ハンブルグ現代音楽祭、 セイナヨキ現代音楽祭、バルトーク音楽週間、グバイドゥーリナ・ホソカワ音楽週間、世界舞踏祭 (赤坂)、シアター・オペラ「砂」、国際即興演繹「ミトラス」、演劇「ハムレット・マシーン」 アントロポゾフィー作曲家会議、国際オイリュトミー会議、オイリュトミー・ソロ・フェスティバル ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「4人目 言葉とおぜきさん」ーーーーーーーーー 「産の森にボランティアとしてきてくれたのが、おぜきさんと出会ったきっかけです。今ではお友 だちとして仲良くしてもらっています。この日も時々思い出話を挟みつつ、お茶をのみながらお話 しました。つい人に気を遣いすぎてしまう私に気を遣わせないように、いつも朗らかに包み込んで くれるおぜきさん。紡ぎ出される言葉の隅々に、繊細でどこか不思議な「おぜきさんらしさ」満載 です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー おぜきさんーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 糸島市在住。恵まれた環境にありながら、釣りはそんなに好きではなく、釣れた魚を食べる方が好き。 昔産の森の男子が海でしていたチャンバラを誰か映像化してくれないかなー、と本気で考えたことが ある。そういえば、産の森の人が作るおやつ写真集もあればいいのになーと思っている。最近一番 笑った漫画はほのぼの。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「「5人目 言葉と朝子さん」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 朝子さんは、私とたくさんのものを出会わせてくれました。お着物の楽しさも。陰陽五行の奥深さも、 ごはんを美味しく食べてもらう喜びも、全部朝子さんが教えてくれました。実は時々、心の中でお師匠 さんと読んでいます。産の森の校舎の外、青空の下でお話を聞かせてもらいました。ーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 寺口朝子ーーーーーーーーーーーーーーーー 産の森学舎で、『くらしと料理』の授業を担当。awauta brownrice主宰。大学卒業後、ドキュメンタ リーのTVディレクターに。子どもが三歳の時にマクロビオティックスシェフ・西邨マユミと出会い、 自然に寄り添う食べ方を学ぶ。震災後東京から福岡へ移住し、家族で自然栽培の米作りを始める。 独学で麹作りを取得後、元寺田本家の麹文化研究家・南智征に師事。麹や玄米ポンせんなどお米に まつわるプロダクトと発酵文化を広めている。大阪府出身。ーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーー さいごに 「言葉と珠」(質問者:たまき 回答者:珠)ーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 大松珠ーーーーーーーーーーーーーーーー 2005年9月25日生まれ。糸島の自然の中で育つ。「いいこと思いついた」が口ぐせの父、手作りおやつ と仕事はいつもさくさくの母、歌が好きな2人の弟、最近歩きはじめた妹の6人家族。自他ともに認める 長女気質。少額1年生からクラシックバレエを習っていたが、中学1年生の終りに股関節を痛めてバレエ の道を断念。本を読むこと、編み物をすること、学ぶこと、暮らすことが好き。得意料理は白和え。 持ち前の考えすぎる性格を最大限に活かし、言葉プロジェクトに没頭中。ーーーーーーーー ーーーーーーーーーーー ここ項つづく。