2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2022年6月30日木曜日
森崎和江さん 悼詞 No.91
森崎和江さんが亡くなられた。6月15日、満95歳。6月19日の毎日新聞の朝刊で知りました。
この何年かは、ご連絡できないご様子と思われお便りなどを控えていた。
後日、ご葬儀は近親者で18日に営まれたとのお知らせ、森崎さんがすでに自らのお墓を宗像
市内の霊園に用意しておられ、8月上旬にはそこが森崎さんの安住の地となりますとのお言葉
が心に深く届くお言葉とともに記されていた。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
森崎さんの言葉、ご本に出会ったのは1969年前後、53,4年前のこと、東京で私が大学2,3年
生の頃だ。そして森崎さんと初めてお会いしたのは2002年、京都駅の近くで、あるお寺が主催
した森崎さんの講演会でだった。森崎さんの読者の一人として生きてきて30数年を経てのこと
だった。100人くらいの参加者だっただろうか、講演が終わったあと、どなたも演壇に近づいて
おられない。思わず知らず私は森崎さんの前に立っていた。そしてとっさに能登川の図書館で
の講演をお願いしていた。翌年の2003年4月26日、「子どものいのちに教えられ」と題してお話
をしていただいた。2003年1月1日に発行された『月・人・石ー乾千恵の書の絵本』(乾千恵・
書、谷川俊太郎・文、川島敏夫・写真/福音館書店、こどものとも562号)の著者、乾千恵さん
の「乾千恵・書展 月・人・石」(4月2日~27日)を能登川町立図書館で開催中で、その最終
日の前日のことだった。講演会には乾千恵さん、ご両親の一さん、文子さんも大阪の島本町から
参加された。千恵さんと森崎和江さんとの出会いは私にとって何よりうれしい出来事だった。
会場においていたノートには「いのちひびくあなたの文字とわたしのからだ」と森崎さんの手で
記されていた。いのちとの出会いを求めて歩んでこられた森崎さんの文字を心に刻んだ。
そのご幾度も森崎さんと出会いの時を授かった。その一つ一つの出会いが今も鮮烈に蘇る。その
時々に、以後私にとって、かけがえなき人となる一人ひとりとの出会いを授かっていたことを、
今、改めて思い知る。
森崎和江さんの言葉、そして森崎さんその人から、これまでなんという深い励ましを授かってき
たことだろう。森崎さんの声が聴こえる。やさしい笑顔が瞼にうかぶ。
「森崎和江コレクション―ー精神史の旅」全5巻が藤原書店から2008年11月から2009年3月にかけ
て発行された。
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1 産土 UBUSUNA 〈解説〉姜信子
原郷・朝鮮とわが父母/17歳、九州へ/戦後、新たな旅立ち
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2 地熱 CHIねTSU 〈解説〉川村湊
筑豊の温もり――『サークル村」『無名通信』/ヤマと闘争/地の底の声――『奈落の神々』
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3 海峡 KAIKYOU 〈解説〉梯久美子
島人が越えた海――与論島・沖縄/からゆきさんが越えた海/海峡の島
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4 漂泊 HYOUHAKU 〈解説〉三砂ちづる
海路残照/海の道、山の道
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5 回帰 KAIKI 〈解説〉花崎こう平
いのちへの旅/生きつづけるものへ
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各巻に月報がつけられているが、2009年1月に配本された第3巻に一文をよせた。
言いつくせぬ感謝の念をこめて。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いのちの声に生かされて 2009.1
初めて森崎和江さんのお名前を眼にしたのは鶴見俊輔さんの文章の中でだった。四十数年前のことだ。
高校卒業後、住み込みで新聞配達のアルバイトを東京葛飾で一年、福岡で一年した後、池袋からの私
鉄沿線の椎名町駅近くの新聞販売所に住み込んで、目白にある大学に通い始めたのは一九六七年四月、
ベトナム戦争と、それと向きあい重なる形で、大学での学生運動が激しさを増そうとしていた時だっ
た。ーーー
大学では学部も単位も関係なく面白いと思う講義だけをきいた。単位に関係があっても面白くないと
思った講義は一度、あるいは数度で受講することをやめた。講義で初めてきく本の名前、著者の中か
らこれはと思うものを大学図書館のいつか定席となっていた座席で読んだ。本の向こうから幾人もの
人が、私にとって近しい大切な人として立ち現れてきた。ーーー
そうした中、私は他の大学にも勝手に講義を聴きに出かけるようになっていた。早稲田大学でのこと
だった。教室の外でデモをする学生たちのシュプレヒコールの声やピッピと鳴る笛の音が聞こえる中、
早稲田では珍しく教室が数百人の学生でいっぱいになる講義に出会った。講師は数日前に明らかにな
ったばかりの、アメリカ空母イントレピッドからの四人の兵士の脱走について、今、このことの意味
することを考え語らずして抗議の意味はないと、それから何回かの講義時間の中でこのことについて
話された。久野収さんだった。私はそれまで久野さんのことは何も知らなかった。久野さんが私が通
っている大学の哲学科の専任講師であることを知った私は、ゼミ以外のすべての講義をきくことにし
た。久野さんの本を読み始めてすぐ、鶴見さんの本を手にすることとなった。鶴見さんの生き方、そ
こから発せられる言葉は私の生き方、在りようを深く照らしだすように思われた。私にとって、以後
四十年をこえる著者との出会いだった。ーーー
大学図書館に『思想の科学』のバックナンバーがあることがわかり、創刊号から読み始めた。その何
号であったか、鶴見さんのある文章が目にとまった。鶴見さんが谷川雁さんと会った時、谷川さんか
ら聞いたという話。九州には中村きい子、森崎和江、石牟礼道子という三人の優れた書き手がいると
いう言葉で、私は初めて森崎さんのお名前を知ったのだった。最初に手にした森崎さんの本が何であ
ったか思いだせない。しかし森崎さんの文章から立ち上がってくる声が私の心に染みこむように響い
たのだと思う。いのちからいのちへの声、いのちの声としかいう他ないものが私の胸底で鳴り響き、
私の中に生きることにむけての何かを点じてくださったのだと、今にして思う。当時、二十歳前後の
私はぼんやりと、自分の中には根がないと感じ、時折、野垂れ死に志願という言葉が頭をかすめ、い
つか日本の外へという思いを生きていた。日本の外に何かがあるわけではないと確信しつつ。ーーー
森崎さんの文章〔コトバ〕、森崎さんの生き方は、そんな私を強く打ったのだと思う。
日本と言うくにへの深い違和を生き、その欠如をこそ自らの生きる足場として思い定め、いのちの
母国を探して歩んでこられた森崎さん、その凛とした、厳しい歩みの中から、溢れるように染みでて、
その声に触れる人をまるごとつつみこむ、その深々とした温かさを思うと言葉を失ってしまう。
まっくらな地の底で後山(あとやま)として生きたおばあさんや、からゆきさんと対するときの森崎
さんの対され方からまっすぐに伝わってくるもの。与論島、沖縄、韓国の声ならぬ声。ほのおの笛音。
大学卒業後、私は何ともいい加減な経緯で千葉県内のある市立図書館で図書館員として働き始めた。
市の公務員として採用されたのだが、二年経ったら辞めるのだと思い定めてのことだった。先に目当
てがあってのことではなかった。階段を上るのではなく、まず降りることから。それは私にとって深
く考えてのことではなく、自然な思いであったが、そんな思いの無意識のどこかに、森崎さんの筑豊
での日々の営みから発せられるいのちの声が響いていたかもしれない。以来、今日まで意識すること
なく、その声に生かされてきた自分であったことを今、あらためて思う。ーーー
不思議な縁が連なって、その後、いくつかの図書館で働く場をさずかった。最後の仕事場となった琵
琶湖の畔の小さな図書館では、鶴見さん、森崎さんから、町の内外の人たちと共に、お話をお聞きす
る場を授かった。天からの贈り物のような、信じがたい時間だった。
この度の著作集の発行の裏方で上野朱さんが力を尽くされたこと、うれしい限りです。
朱さん、森崎さん、本当にありがとうございました。 (さいつはら・てつひろ/農業)
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7月、「ノドカフェ」への本の出前では、感謝と追悼のおもいをこめて、主に森崎和江さんのご本と、
森崎さんと縁しある方たちの本を持って行った。私の手元に数冊の本があるが、この期間中には、そ
れらも持参したい。また私自身も、ノドカフェの棚を利用する方たちとともに、その棚の本を利用さ
せてもらおうと思っている。〔7月3日~8月末まで。2ヶ月間の出前です〕
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