2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2024年10月16日水曜日
京都からの嬉しい知らせ No.132
京都、論楽社の虫賀さんから、うれしい便り。そしてある新聞記事が同封されていた。
数か月前にいただいていたものだが、ここで紹介させていただきたい。
2024年6月21日(火)の京都新聞。
筆者が変わりながらの、あるいは同一著者による連載エッセーだろうか。
”季節のエッセー”とあり、今回のタイトルは、
「箱の中で」、筆者は雛倉さりえ(作家)とある。
書き出しは、「仕事柄、図書館を頻繁に利用する。」で始まり、雛倉さんがこれまで利用してきた大学
図書館や各地の公立図書館の名前が次々に挙げられている。そして、「けれどもし「理想の図書館は?」
と問われたら、私は迷わず「能登川図書館」だと答えるだろう」との言葉に驚いてしまった。
雛倉さりえさんについて私はまったく知らないでいた。公開されているプロフィールをみると、1995年滋
賀県の生まれ、作家デビューは1913年、16歳の時だとある。私が滋賀県能登川町に行ったのは1995年4月、
町に図書館開設のための準備室が開設された時だ。能登川町立図書館は2年7カ月間の準備期間を経て、
1997年11月に開館した。(人口2万3千人、図書館正規職員7,うち司書6.博物館、学芸員2)
エッセーの文章によれば、笹倉さんが生まれた年に、私は能登川に行き、彼女が2、3歳の時に図書館が開
館している。お住まいからは徒歩で5分の所に図書館があり、「親に連れられ、時にはひとりで幼少期から、
数えきれないほど通ってきた。子どものころは週末に催される読みきかせと折り紙の時間をいつも心待ち
にしていた。」というから、私も職員と交代で行っていた読みきかせで幼い彼女の前に立っていたかもし
れない。私は2007年3月末、雛倉さんが小学5,6年生の頃に退職しているので、先の文章に続く次の場面に
は立ちあっていない。
「中高生になると中庭に面したしずかな席で一日じゅう本を読んだり、小説を書いたりして過ごした。これ
ほど通っているのに、書架のあいだを散策しているとかならず読みたい本が見つかることが、いつも不思議
だった。」そしてタイトルの「箱の中へ」が明かされていくのだが、末尾には「あのころ図書館で書いた小
説が、今年文庫化された、願わくばどこかの図書館の片隅で、だれかを守る小さな箱になればいいと思う。」
とある。まずは何か一冊読んでみたい。
著書を調べてみると
・「ジェリー・フィッシュ」 新潮社 2013
・「ジゼルの叫び」 新潮社 2017
・「もう二度と食べることのない果実の味を」 小学館 2019
・「森をひらいて」 新潮社 2019
・「アイリス」 東京創元社 2023
・「青がゆれる」 東京創元社 2024
2024年10月14日月曜日
乾千恵・17のピアソラ・タンゴ展のご案内(大阪・島本町)No.131
乾千恵さんには、『乾千恵の画文集 7つのピアソラ』の著書がある。2006年2月、岩波書店から
出版されたもので、帯には「音楽が見えてきた———―10年かかって描いた10枚の絵と、ピアソラへの
情熱をこめたエッセイ」と記され、司修さんの「心の詩(うた)を感じます 言葉にならない歌を感じ
ます」の言葉が添えられている。
また「あとがき」には、千恵さんの「絵」の由来と、この本が生まれた経緯が書かれている。
「ピアソラは、とんでもない人である。『タンゲディアⅢ』で魂をひっつかまれてから10年ほどにな
るが、おつき合い(?)が続けば続くほど、「すごい人だなぁ・・・」という思いが強くなる。型破り
の音楽で人を魅了し、私の中に次々と「絵」を見せたばかりか、マグマのようにたぎる熱意は、彼の音
楽が「好きでたまらない!」と思うもの同士を、劇的に、しっかり結びつけてくれる。
この本には、2種類の「出会い」のことを書いた。ピアソラの音楽や、そこから立ち現れる「画像(イ
マへネス)たち」との、内なる遭遇。そして、その音楽を通して知らぬ間に広がっていった、ひととの
「出会い」だ。
〈ピアソラをめぐる物語〉は、まだこれからも私の中で続いていくだろう。天にいる彼に向かって、あら
ためて大きな声げ呼びかけたい。「ムチャス・グラシアス!(本当にありがとう!)」
・・・・・・・・・・・・
この10年の間、「ピアソラの絵」が頭の中に現れるたびに、拙いながらも無我夢中で描いてきた。
突き動かされるままに文章も書いた。
思いがけなくそれが、私の敬愛してやまない画家の司修さんの目にとまった。「これはぜひ本にしましょ
う!」と熱をこめて言って下さったことから、この1冊が生まれることになった。装丁やデザインを手が
け、ことばを寄せて下さった司さん、そして編集の川上隆志さん。思いと力を注いで下さったお2人に、
厚くお礼申し上げたい。
また、私の拙いスペイン語の手紙に応え、見返しへの『ミケランジェロ70』の楽譜の掲載を快く承諾し
て下さったピアソラ氏の夫人、ラウラ・エスカラーダ・ピアソラさんにも感謝を捧げたい。」
ーーー(以上、「あとがき」の一節より。)
ーーーーーーーーー
9月の半ば、島本町から心躍る便りがあった。美しい『17のピアソラ・タンゴ』展の案内が同封されてい
た。なんと『7つのピアソラ』出版後も、「延々と画像は湧く。そして今回の『17のピアソラ・タンゴ』
展となった」というのだ。
まずは、横長の葉書(11×22.8㎝)の両面に記された案内から。
17のピアソラ・タンゴ 音楽が見えてきた ~ 乾 千恵の世界 ~
*2024.10.6(日)~11.30(土)、10:00~21:00
(土:~20:00,日・祝:11:00~19:30)
会場 長谷川書店 水無瀬駅前店(阪急 京都線「水無瀬」駅前)
・・・電話:075-961-6118・・・・・・・・・・・・・・
この面には、3つの「絵」を掲示。
①「ロコへのバラード」街を闊歩する男の幻 ②「アサバーチェ」アフリカへの遥かなる憧れ
③バンドネオンとオーケストラのための三つのタンゴ。
・・・・・(そして、もう一面には)・・・・・
17のピアソラ・タンゴ 音楽が見えてきた ~乾 千恵の世界~
子どもの頃から親しんできた大好きな長谷川書店での展示。
店内のあちこちで、本に囲まれて絵が佇み、「歌って」います。
・・・・・・・
たまたまラジオでピアソラのタンゴを耳にしたのが、運命の
出会いだった。斬新で荒々しく、鋭く哀しい曲の数々に心掴
まれ、憑かれたように聴き続けるうちに、その音楽から、色や
形、動きを伴った画像が、頭の中に見えてきた。曲と鮮やか
に浮かぶイメージとに『さあ描け!』と迫られ、無我夢中で絵
にしてきた。画文集『7つのピアソラ』出版後も、延々と画像は
湧く。そして今回の『17のピアソラ・タンゴ』展となった。
ピアソラからの熱きパワーが、少しでもつたわりますように。
(乾 千恵)
・・・・・・・
ちえさんの新しい世界。いいなあ
絵による新しい言葉。心が爆発しているような情熱が感じ
られるのに、フクロウの飛翔のように静かに飛んでいる神秘。
司 修
・・・・・・・
【乾 千恵 プロフィープロフィール】
絵や書、エッセイや物語をかき、語りをし、音楽や芸能、美術や人々の暮らしを
訪ねて、国内や海外各地を旅してきた。著書に『7つのピアソラ』(岩波書店)
『月人石』『たいようまでのぼったコンドル』『さかなまちいきでんしゃ』
『おじいちゃんのいるトラのいるもりへ』(ともに福音館書店)などがある。
(以上、案内状より。)
・・・
案内状を見てあっと、驚かされました。2つのことに。
1つ目は、『7つのピアソラ』が2006年に出版されたあとも、18年が経ちます
が、ピアソラの音楽から千恵さんの中に画像が延々と湧き、それを「絵」にしてき
たと知らされたからです。それはいかにも乾千恵さんの生き方なんだと、その生き
方をずっと続けておられることに。
私は能登川の図書館での出会い以来、乾千恵さんから数えきれないほど、かけがえ
のない時空を授かってきました(天からの贈り物ような)。
私が滋賀に行く1995年4月より以前のことですが、かつて八日市市立図書館(現・
東近江市立八日市図書館)で、千恵さんが『100万回生きたねこ』の語りをされ
ていて、その時の活動の記録を、同館発行の「筏川」に載せた際、そのタイトルを
「乾千恵の生き方」としていました。後年それを見て、私は実に的確な表現だと感
じ入ったことがありました。一つひとつの想いを形にしていく千恵さんの生き方を
知り、想い深く生きるということ、思いの深さがその思いを形に、現実のものにし
ていくのだと、思い知らされていた私は、「乾千恵の生き方」というのは、まさに
私が感じていた乾千恵という人の在り方を指し示すものだと思ったのです。
・・・
2つ目の驚きは、『17のピアソラ・タンゴ』展の会場が、長谷川書店 水無瀬駅前
店となっていたことです。しかも案内状によると、長谷川書店は千恵さんが子ども
の頃から親しんできた大好きな書店であると知って、びっくりしました。
2か月前の8月、私はとても面白い本に出会いました。
『しぶとい十人の本屋――生きる手ごたえのある仕事をする』朝日出版社、著者の
辻山良雄さんは1997年にリブロに入社、全国各地での勤務を経て、2009年より池袋
本店のマネージャー、2015年7月リブロ池袋本店が閉店した後、退社。そして、2016
年1月、東京の荻窪に新刊書店”Title”を開業された方です。
私はその年の夏、東京の吉祥寺にあるひとり出版社・夏葉社を訪ねました。その前
年、偶々手にした『小さなユリと』(黒田三郎)で初めて夏葉社を知り、それを機
に、代表の島田潤一郎さんの本、夏葉社の本を読むようになり、いつか同社を訪ね
てみたいとの思いが生まれました。驚いたのは同社から、『移動図書館ひまわり号』
が復刊されたことでした。筑摩書房版は持っていましたが、これはぜひ夏葉社を訪ね
て、復刻版を求めようと考えたのです。
夏葉社の佇まいと島田さんのお仕事ぶりは深く心に刻まれるものでしたが、『移動
図書館ひまわり号』復刻版の購入のお願いをしたところ、島田さんは、「それなら
今年、開店し、京都の誠光社とともに今、注目されている荻窪の”Title”で購入を」
と、Title 書店のことを教えてくれました。早速、Title に行き、その本を買うこと
ができました。同書店の印象は、何より棚にある本の面白さ、興味深い本が一冊一冊
あるということでした。ワクワクする本棚!こんな本屋が福岡にあればと思いました。
(糸島からは少し遠くてしょっちゅう行くことはできませんが、福岡市にはブックキ
ューブリック、うきは市にはMINOU BOOKSという楽しみな本屋さんもありますが)
Title では、2階のギャラリースペースは、その時はやっていませんでしたが、とて
も興味深く思いました。残念だったのは、奥の喫茶スペースを利用しなかったことで
す。ともあれ、以後、Titleの辻山さんの本は、目につく限り手にしています。
・・・・・
それで、『しぶとい十人の本屋――生きる手ごたえのある仕事をする』です。この本
は、Titleを始めて7年経ち、あらためて本屋という仕事のあり方、生きる手ご
たえのある仕事のあり方を辻山さん自身が自らに問うとともに、辻山さんの心に響く
仕事ををしている9人の本屋を同行者の さんと共に訪ねて、(辻山さんをいれて
タイトルの「十人のしぶとい本屋」)その問いを根柢において、9人の本屋さんと語
りあったものです。
このような本屋さんがあるのか、こんな取り組みがあるのか、こんなことを考えてい
る人がいるのか。一人ひとりその生き方に思わず耳をすませます。こんな本屋さん、
訪ねてみたいなと。
そして驚いたのが、9人の本屋の一つが長谷川書店――乾千恵さんが子どもの頃から
親しんできた、大好きな本屋さんだったということです。
同書では、「4.ほっとけない みのるさん 長谷川書店 長谷川稔さん」の章で描
かれています。
「町の本屋さんが、心をこめて準備」された、”17のピアソラ・タンゴ”
展にようこそ‼
私も11月の半ばころには、駆けつけたいと思っています。
(さいごに)乾千恵さんのことを御存じない方に、あらためてご紹介するために、
『乾千恵の画文集 7つのピアソラ』に、司修さんが、『7つのピアソラ』に寄せて、
の文章を記させていただきます。
「乾千恵さんは、ユニークな書をかいてきました。「馬」であれ馬が疾走するような文
字になり、「遊」であれば人々が楽しげに踊っている文字になり、「山」であれば樹木の葉
ずれや鳥の囀りが聞こえ「梟」であれば目の輝きと風の音が聞こえます。「月」は笑い、
「石」はしゃべり、「音」は音楽が聞こえていました。
その千恵さんが、石のように黙ったりしゃべったり、梟のように歌ったり、月のように
微笑んだりしながら、ピアソラとの出会いを絵に描いていました。書のように自由にな
らない色鉛筆を、何回も重ねて、ピアソラの音楽を絵にしていたのです。
ここに収めた絵は、10年の歳月を費やしてます。もちろん旅行をしたり、ブランク
があったり、書をかいたりしながらでしたが。
ここまで書いて、千恵さんに電話をしました。すると、いままで心にありながら描けな
いでいた4つの絵が、千恵さんの手に、目に、空間に、府でに、絵の具に、染み出
る清水のように、千恵さんのイメージは透明です。
ずっとずっと前に、車を運転しているとき、カーラジオかr聞いた音楽、その作曲者が、
ピアソラでした。ピアソラはパリの音楽院で、作曲した楽譜を先生に差し出しました。
すると女先生は、あなたを感じないと、いいます。それでピアソラは、ブエノスアイ
レスのタンゴについて語ります。ダンス音楽でしたから少し恥ずかしかったようです。し
かし先生は、それこそあなたが大事にする音楽だというのでした。ピアソラは西洋音楽へ
の願望をタンゴに移していったのです。ラジオのそのような話を聞いてぼくは感動しまし
た。それからずっとピアソラの音楽を聴くようになっていたのです。
千恵さんとピアソラとの出会いも、ピアソラとぼくの出会いも、千恵さんとぼくの出会
いも、偶然のようでいながら、どこかで繋がっていたように思います。
司 修
2024年8月27日火曜日
岡部伊都子さんと沖縄 (出前の本の話・9月)No.130
9月と10月、ノドカフェへの出前の本は「岡部伊都子の本」
です。若い時分から、「私はね、学歴はないけど病歴はた
んとありまっせ」と、学歴ではなく病歴の中で思考、考え
を深めて生きた随筆家、岡部伊都子さんの本の数々です。
1954年(昭和29年)、ラジオ・エッセイ「おむすびの味」
で執筆活動に入り、2006年、83歳の時の『清(ちゅ)らに
生きる』まで、134冊の著書が読者の前にあります。
岡部さんとの最初のご縁は、私が初めて沖縄を訪れた1975
年(昭和50年)の9月だったか、沖縄本島、伊是名、石垣
島を経て竹富島に向かったことからでした。島内に文庫が
あると聞いて訪ねたのがこぼし文庫でした。岡部さんが
京都から本を送られていたのです。
その時まで私は岡部さんのご本を読んだことはありません
でした。お名前を心に刻んで文庫をあとにしました。
後に岡部さんとお会いする機会を授かり、能登川の図書館
で講演や写真展をお願いすることになろうとは知る由もな
いことでした。
出前の本の話は、「岡部伊都子さんと沖縄」と題して9月
4日(水・11時~12時)に行います。
場所は ”ノドカフェ”です。
(糸島市前原中央3町目18-18、2階)
連絡なしで、当日のご参加もできます。
2024年6月30日日曜日
[『イシ』をめぐって(出前の本の話)7月 No.129
7月と8月、ノドカフェへの出前の本は「『イシ 北米最後の野生インディアン』と
アメリカ先住民の本」です。今回の出前の本の大半は前回に続いて、「梅田文庫」
からのものです。
出前の本の話は7月3日(水)、「『イシ 北米最後の野生インディアン″(シオド
ア・クローバー)をめぐって』です。この書の3年後の1964年に書かれた『イシ―
二つの世界に生きたインディアンの物語―』(シオドラ・クローバー作)の2冊の
本を柱に、「イシが伝えてくれたこと」(鶴見俊輔)、『ナバホへのたましいの旅』
(河合隼雄)などについても触れたいと考えています。
出前の本の話:7月3日(水)11:00~12:00
場所:ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18,2F)
連絡先―才津原(☎090-5045-2559)
※連絡なしで、当日のご参加も‼
2024年5月9日木曜日
5月 出前の本の話、日時変更 No.128
5月の「出前の本の話」は5月2日とお知らせしていましたが、申し訳ない次第ですが5月10日(金)13時~14時に変更となりました。
(梅田さんのこと,梅田文庫について)
梅田さんと出会ったのは1,987年のこと。私は当時福岡市に住んでいた。1979(昭54)年に開館した、博多駅近くの
財団法人記念会館(232㎡の図書室)につとめていて、9年が経った頃だ。その頃人口116万人(1985年)の福岡市には
市立図書館は1館だけで、私には年々歳々、図書館をめぐる状況が悪くなっていると思われた。各地の図書館を見、
図書館づくりに取り組んでいる、仙台市の市民の会のすさまじい活動を知るなかで、市民として図書館のあり方を考
える取り組みが必要だと考えるようになっていた。
梅田さんとは、住まいが近く生協の利用を通して出会っていた。市民が自ら福岡市の図書館の図書館のありようを考え
る場をつくりたい。梅田さんはその会の代表をすっと引き受けてくださった。こうして「福岡の図書館を考える会」が
が始まった。毎月一度の定例会を市民センターの会議室でもち、だれでも参加できるよう、新聞の集会の案内欄に掲載
してもらった。市が福岡市の図書館計画をもたず、それを作る動きがないのなら、私たちでそれをつくろう。こうして
一年に及んだ取り組みが始まった。この間のことは、梅田さんが『みんんの図書館』(1988年10月号)に投稿された文
章があるので、以下に掲載します。
私は1988年12月1日から苅田町に設置された図書館開設準備室に急きょ行くことになり、1990年5月の図書館開館に向け
て取りくむ事になり、「福岡の考える会」での活動を共にすることができなくなってしまった。梅田さんと行動を共に
した時間は2年たらずだった。苅田町のあとは滋賀県に転じたため長い期間にわたって、お会いすることができなかっ
た。滋賀の図書館を退職し福岡に帰って来てからの再会だった。
この間、私は梅田さんが、私がお会いする以前、どんなことをされてきたのかをお聞きすることなく過ごしてきた。
帰福後、ぽつりぽつりとお話をお聞きすることがあったものの、コロナ前の3年前に、梅田さんのご本をお引き受けする
ことになり、そのご本を通してあらためて梅田さんの足跡を訪ねる日々を過ごしている。梅田さんのことで、ご本に関
わってお知らせしたいことは、これから折に触れて記していきます。
(苅田には1995年3月まで、1995年月~2007年3月までは滋賀県能登川町立図書館・博物館(うち2006年1月~2007年3月
東近江能登川図書館)
『みんなの図書館』(1988年10月号)第35回図書館問題研究会 全国大会の記録 実践報告 福岡の図書館を考る会の取り組み 梅田順子 私たちの福岡の図書館を考える会は、まだ一年ちょっとです。この二月に『ニ00一年われらが図書館』というのができ ました。この本のできる過程が私たちの歩でありました。そこでちょっと、私の一年を振り返ってみたいと思います。 去年の四月頃でしたk、図書館員の才津原さんという方と出会いました。その時に、「図書館を利用していらっしゃいま すか」と聞かれたんですね。私は「いいえ」と言いました。それが始まりだったんです。続いて、「どうしてですか」と 聞かれて、私もどうしてだったんだろうと考えました。やっぱり家から遠いんですよね。図書館っていうのが。バスを乗 りつがないといけないし、また本は自分で買おうと思っていたし、図書館に私の読む本があるかしら、と思ったり。「ま だ間に合ってますかr」という答えをしました。 その時、才津原さんが「それは、図書館が自分のものになってないからじゃないんですか、みんなのものになってないか らじゃないんですか」と言われたんですね。そして「こいう本があるんですよ」と、たくさん本を貸してくれたんです。 前川恒雄さんの『われらの図書館』とか漆原宏さんの図書館の写真集、関千枝子さんの『図書館の誕生』、『図書館の街 浦安』、『まちの図書館』などいろいろでした。ほんとにショックでした。私は何も知らなかったんです。それがきっか けで、私たちが何も知らないっていうことが図書館を遠ざけているんだと思ったんです。 今日もここに来る汽車の中で昔を思い出してたんですが、戦前は、ただ本を借りて静かに読んで帰るという図書館でした。 やがて敗戦。敗戦前後は、教科書もない時代でした。それから県立図書館ができて、県立図書館にも行ってみたんですけ れども、なんだか堅苦しくて、開放されてない感じで、行くのをやめました。その頃だったでしょうか。図書館が学習室 として使われるようになったと思います。 その後、一九七五年頃、市民図書館ができたんですけど、あまりにも辺鄙な所で船着場の前にあるんです。半分は海です から、人が住んでいないんです。私もそのとき反対したように思います。それからだんだん本屋さんが増えて、本が増え て、今では、本屋さんに行っても選ぶのに困難なようになり、注文して買うようになりました。 そして現在、平和町という福岡市の中央に近い所に住んでいるんですが、これがまた公共施設に縁遠い陸の孤島と言われ ているような所なんですね。だからもちろん図書館も遠いんです。そんなこんなでとうとう図書館とは縁がなく過ごして まいりました。 先ほども言いましたが、本当に前川さんの本にショックを受けてからは、図書館が遠いのはなぜだろうかと考えるように なりました。まd読みたい本がないと言わずにどんどんリクエストしよう、図書館を利用しないことが行政を怠慢にして いるのではないか、また図書館を利用しながらどんどん要求をしていこう、そうだ、身近にっ図書館をつくろうと思うよ うになりました。考えることは簡単ですし、また愉しいことでもありました。 まず、図書館を考える人を呼びかけよう。それで、この指とまれ方式で皆さんに呼びかけました。新聞のお誘い欄を利用 したり、チラシを作ったりしました。そして去年の十一月頃から定例日を決め、だいたい今は、三人から十人の方が集ま ってみえます。まだ会員制にはしておりません。それから最近、図書館て、の話の出前はいかがということで呼びかけて、 ぼつぼつ出かけてはおります。 定例日は、まず福岡の図書館の実情を知ることから始めて、日のや浦安の図書館、水海道ほかいろんな図書館のスライド を見ながら学習しました。新しくできた大宰府の図書館、小郡の図書館などをみんなで見学しました。新しくできようと している筑紫野市の図書館、行橋市の考える会の人たちとの交流を持ちながら、話し合いをしました。そのとき気がつい たのは、やはり福岡市の図書館の問題は、福岡県の問題であるということだったんです。 去年、私は、北海道に旅行することがありまして、置戸と訓子府の図書館に寄ってまいりました。おばが「なんで図書館 に行くの」と言いながら一緒に来たんですが、私が置戸で職員の方と話してるあいだに書棚を見てたんですね。そしたら、 「ああ、読みたい本がたくさんある」って言って声を上げたんです。そのときに、私は、この図書館はいい図書館なんだ なっていうのが実感できました。 その後、埼玉の朝霞の図書館を訪ねました。そのときは、新しくできたばかりで開館前でしたから本は並んでおりません でしたが、本当に本のある広場っていうようなつくりになっていまして、また置戸と違った図書館を見ました。そして、 そこでは、職員がとっても魅力ある人たちで、そのこともたいへんいいなと思いました。 また、私たちの図書館を考える会では、昨年は、建築家の三上清一さんをお呼びして、「建築家としての図書館づくり」 というお話をうかがいました。今年は、八広図書館の千葉さんの「本のある広場としての図書館づくり」というお話をう かがいました。この図問研大会のあとでは、仙台の扇元さんに福岡にお出でいただこうと思っております。まだ、このよ うに手当たりしだい見たり、聞いたり、学んだりの考える会です。 この『ニ00一年』という本ができた時に私たちは、市会議員の皆さんに配ってアンケートを求めました。もちろん市長 さんにも陳情書を添えて出しました。まだ返事はいただいておりませんが、それから、一年目にしてやっと「身近に」と いう通信を出すことができました。まずできるところから一つずつやっていこうと思っています。 それから最近、私たちの平和町にある古い市営住宅が取り壊され新しく建て換えるという情報が入ったんです。もうとっ さに、ここに図書館があったらいいなと思って、とりあえず近所の人たちと相談しております。もちろんどうなるかわか りませんけれども。 今回の大会のテーマである『権利としての生涯学習を保障する図書館』、つくづくそうだと思います。これを言葉だけに 終わらせないようにしていきたいと思います。いつもみんなにとってどうなのかっていう視点を持って、これからもわれ らの図書館づくりを目指していきたいと思います。 の
『みんなの図書館』(1988年10月号)第35回図書館問題研究会 全国大会の記録 実践報告 福岡の図書館を考る会の取り組み 梅田順子 私たちの福岡の図書館を考える会は、まだ一年ちょっとです。この二月に『ニ00一年われらが図書館』というのができ ました。この本のできる過程が私たちの歩でありました。そこでちょっと、私の一年を振り返ってみたいと思います。 去年の四月頃でしたk、図書館員の才津原さんという方と出会いました。その時に、「図書館を利用していらっしゃいま すか」と聞かれたんですね。私は「いいえ」と言いました。それが始まりだったんです。続いて、「どうしてですか」と 聞かれて、私もどうしてだったんだろうと考えました。やっぱり家から遠いんですよね。図書館っていうのが。バスを乗 りつがないといけないし、また本は自分で買おうと思っていたし、図書館に私の読む本があるかしら、と思ったり。「ま だ間に合ってますかr」という答えをしました。 その時、才津原さんが「それは、図書館が自分のものになってないからじゃないんですか、みんなのものになってないか らじゃないんですか」と言われたんですね。そして「こいう本があるんですよ」と、たくさん本を貸してくれたんです。 前川恒雄さんの『われらの図書館』とか漆原宏さんの図書館の写真集、関千枝子さんの『図書館の誕生』、『図書館の街 浦安』、『まちの図書館』などいろいろでした。ほんとにショックでした。私は何も知らなかったんです。それがきっか けで、私たちが何も知らないっていうことが図書館を遠ざけているんだと思ったんです。 今日もここに来る汽車の中で昔を思い出してたんですが、戦前は、ただ本を借りて静かに読んで帰るという図書館でした。 やがて敗戦。敗戦前後は、教科書もない時代でした。それから県立図書館ができて、県立図書館にも行ってみたんですけ れども、なんだか堅苦しくて、開放されてない感じで、行くのをやめました。その頃だったでしょうか。図書館が学習室 として使われるようになったと思います。 その後、一九七五年頃、市民図書館ができたんですけど、あまりにも辺鄙な所で船着場の前にあるんです。半分は海です から、人が住んでいないんです。私もそのとき反対したように思います。それからだんだん本屋さんが増えて、本が増え て、今では、本屋さんに行っても選ぶのに困難なようになり、注文して買うようになりました。 そして現在、平和町という福岡市の中央に近い所に住んでいるんですが、これがまた公共施設に縁遠い陸の孤島と言われ ているような所なんですね。だからもちろん図書館も遠いんです。そんなこんなでとうとう図書館とは縁がなく過ごして まいりました。 先ほども言いましたが、本当に前川さんの本にショックを受けてからは、図書館が遠いのはなぜだろうかと考えるように なりました。まd読みたい本がないと言わずにどんどんリクエストしよう、図書館を利用しないことが行政を怠慢にして いるのではないか、また図書館を利用しながらどんどん要求をしていこう、そうだ、身近にっ図書館をつくろうと思うよ うになりました。考えることは簡単ですし、また愉しいことでもありました。 まず、図書館を考える人を呼びかけよう。それで、この指とまれ方式で皆さんに呼びかけました。新聞のお誘い欄を利用 したり、チラシを作ったりしました。そして去年の十一月頃から定例日を決め、だいたい今は、三人から十人の方が集ま ってみえます。まだ会員制にはしておりません。それから最近、図書館て、の話の出前はいかがということで呼びかけて、 ぼつぼつ出かけてはおります。 定例日は、まず福岡の図書館の実情を知ることから始めて、日のや浦安の図書館、水海道ほかいろんな図書館のスライド を見ながら学習しました。新しくできた大宰府の図書館、小郡の図書館などをみんなで見学しました。新しくできようと している筑紫野市の図書館、行橋市の考える会の人たちとの交流を持ちながら、話し合いをしました。そのとき気がつい たのは、やはり福岡市の図書館の問題は、福岡県の問題であるということだったんです。 去年、私は、北海道に旅行することがありまして、置戸と訓子府の図書館に寄ってまいりました。おばが「なんで図書館 に行くの」と言いながら一緒に来たんですが、私が置戸で職員の方と話してるあいだに書棚を見てたんですね。そしたら、 「ああ、読みたい本がたくさんある」って言って声を上げたんです。そのときに、私は、この図書館はいい図書館なんだ なっていうのが実感できました。 その後、埼玉の朝霞の図書館を訪ねました。そのときは、新しくできたばかりで開館前でしたから本は並んでおりません でしたが、本当に本のある広場っていうようなつくりになっていまして、また置戸と違った図書館を見ました。そして、 そこでは、職員がとっても魅力ある人たちで、そのこともたいへんいいなと思いました。 また、私たちの図書館を考える会では、昨年は、建築家の三上清一さんをお呼びして、「建築家としての図書館づくり」 というお話をうかがいました。今年は、八広図書館の千葉さんの「本のある広場としての図書館づくり」というお話をう かがいました。この図問研大会のあとでは、仙台の扇元さんに福岡にお出でいただこうと思っております。まだ、このよ うに手当たりしだい見たり、聞いたり、学んだりの考える会です。 この『ニ00一年』という本ができた時に私たちは、市会議員の皆さんに配ってアンケートを求めました。もちろん市長 さんにも陳情書を添えて出しました。まだ返事はいただいておりませんが、それから、一年目にしてやっと「身近に」と いう通信を出すことができました。まずできるところから一つずつやっていこうと思っています。 それから最近、私たちの平和町にある古い市営住宅が取り壊され新しく建て換えるという情報が入ったんです。もうとっ さに、ここに図書館があったらいいなと思って、とりあえず近所の人たちと相談しております。もちろんどうなるかわか りませんけれども。 今回の大会のテーマである『権利としての生涯学習を保障する図書館』、つくづくそうだと思います。これを言葉だけに 終わらせないようにしていきたいと思います。いつもみんなにとってどうなのかっていう視点を持って、これからもわれ らの図書館づくりを目指していきたいと思います。 の
2024年4月30日火曜日
犬も歩けば ― ちょっと久留米まで No.127
久留米大学で一箱古本市エトセトラ
4月20日の土曜日、久留米大学まで出かけた。久留米大学でこの日、KURUME BOOK CAMPUSというイベントがあり、一箱古本市や絵本のおはなし会やビブリトークやクロストークがあるという。このイベントを教えてくれたのは3月末に自宅にみえた知人の友人で、大学の先生であり、このイベントの仕掛け人でもある方だった。
心動いたのはクロストークの内容だった。題して「まちの本屋さんの役割」、MINOU BOOKS|石井勇さん×久留米大学付設高等学校|梅原望さん。
MINOU BOOKS(以下ミノウブックスという)と聞いてびっくり。そこに行ったのはいつのことだったか。
福岡県の南東部、耳納(みのう)連山と筑後川の間に位置する浮羽郡浮羽町と吉井町が合併し、うきは市となったのが2005年3月20日、そして旧浮羽町の役場を改装して2009年4月7日に市民センターと市立図書館が開館している。私が東近江市能登川の図書館を退職し糸島地区に住み始めたのが2007年5月だったが、2010年1月に前原市、二丈町、志摩町の1市2町が合併して、糸島市(人口10万人)となり、旧2町の町役場の一画を改装して図書館の分館として翌年の2011年10月の開館を目指すことになった。このため新しくできる二丈、志摩地区の2つの分館づくりの参考とするため、「としょかんのたね二丈」「みんなの図書館つくろう会」(志摩地区)のメンバーと共に何度もうきは市立図書館を訪ねた。私は2つの会の会員だった。ただその当時、ミノウブックスはまだ開店していなかった。
2011年10月、糸島市図書館の2つの分館、二丈館、志摩館が開館してからも私は時折うきは市を訪ねた。うきは市には行ってみたい、行ってみようと思う所が幾カ所も私の中に生れていたのだ。今回のクロストークでの石井さんのお話でわかったのだが、ミノウブックスが開店したのは2015年とのこと。2015年といえば能登川にいた時、よく通っていた京都の恵文社・一乗寺店の店長をしていた堀部さんが独立して開業した誠光社が開店した年だ。(開店して何年か後にようやく誠光社を訪ねた。小さな本屋さんだが、そこにある本と併設しているギャラリーの小ささと展示されているものの驚くばかりの豊かさ面白さに驚いた。こんな小さな壁面でコンナコトが出来るんだ!)私にとって魅力的な本屋さんが同じ年に京都市と福岡のうきは市に開店していることに偶然ではないものを感じる。
たまたまの出会い 予期せぬ出会い
私は本屋の開店のことを知らず、たまたま街歩きの途次、開店して間もないミノウブックスに出会っている。
あっ、本屋さんだ!日曜日だけ開店している井戸といううどん屋さんに行く道でだった。三つ角の一画、壁面全面ガラスで本のある本屋の中が通りからよく見える。何か誘いこまれるようにして店内に入った。奥行は3間ぐらいだろうか、横幅はおおよそその2倍くらい、長方形の小さな空間、天井が高く店内が右左と見わたせる。棚に近づき、棚を一回りして驚いた。本がどんどん目にとびこんでくる。本の並び(関連した本のかたまり)、その見せ方によるのか、初めて目にする本が大半なのに思わず手にとる。本も雑誌も絵本も、一冊一冊手にとりたくなる。初めて目にするミニコミ誌、タウン紙?の多彩さにも驚かされた。選ばれた雑貨にも。
うきはは糸島からは遠く、この9年間でミノウブックスに行けたのは6,7回ぐらいではないだろうか。回数は少ないものの行く度に,カフェの場ができていたり、古本のコーナーがあったりで、うきはで立ち寄る楽しみ、欠かせない場になっていた。そのミノウブックスの人の話、(私は案内の葉書で初めてお名前を知った。石井さんという方だと)
お二人のトークから
お話を聞く前は、高校生1年生の梅沢さんがミノウブックスの石井さんに本屋の仕事について、本屋さんについてインタビューをするのかと勝手に思っていたのだが、実際の進行はまったく違うものだった。梅沢さんが中学3年生の時に書いたという卒論の内容にそって、石井さんが梅沢さんに問いかけるという形で話がすすめられたのだ。中学で卒論があることに驚いたが、その卒論を石井さんがよく読みこんでの進行ぶりにも驚かされた。
――梅沢さんの話は『小説の神様』(相沢沙呼)〈私にとっては初めて耳にする著者の名前、書名〉から始まった。「なぜこの論文を?」の問に。それを読んで、出版界の闇を知り本屋の景色がガラッと変わったと。この現状を知ってた方がいいのでは。本屋をしらべてみようと。ショックだったのは、作家が書きたい本を書けなくなっていること。本屋の見え方がちがう。
(石)ぼくも本当に耳が痛い。売るが前提、需要をつくらないといけない。
ミノウブックス 一冊一冊えらぶ 取次・・・いかに売るか
魚屋さん 生きのいい魚 見分け方
書店員 本が売れなくなっても 目利きであること
配本と選書の組みあわせ ワクワクする ピックアップ
利益だけを考えるのではなく・・・。
(梅)独立系書店を訪ねる 1回でもいいから独立系書店に行く
「読み手が育っていない」(橙書店で)
もっと人とつながったら コミュニティの場所として
同じ本を好きな人と語りあったら
まちの中で位置をもっている
45分間のお2人の話は何とも心嬉しい気配の中で終わった。
トークの会場には一箱古本市も開かれていて、10人くらいの人たちが出展していた。トークが始まる前の短い時間に何かと一まわりして棚や箱の中をのぞいた。「婦人之友 8 平和特集 ◇ 沖縄が問う日本」が眼にとびこんできた。2013年刊。表紙には背表紙の「沖縄が問う日本」の下に[座談会]高里鈴代/我部政明/加藤裕とあり、さらにその下には「長崎11時2分、そしてこれから」と。この1冊だけを購入。の(家に帰って目次を開くと、「絵本 わたしの木、こころの木 絵・文 いせひでこ」があり、びっくり。先日、図書館から借りて手にしていた絵本、その時は気が付かなかったが、『婦人の友』に連載されていたのだ。この8月号では「連載⑤木もれ日のひみつ」となっていた。)
集いが終わり、梅田さん、石井さんにお礼の思いを伝えて会場をあとにした。
友人が「MINOU BOOKS 久留米」まで車でつれて行ってくれ、ほんとうに至上の時間を授かった。うきはの2倍の広さという店内は、そこここで目にとびこんでくる本があり、この日の時間ではとてもそのどれもをゆっくり見ることはできなかったが、それでも心みちる時間だった。美味しいジュースと、以前MINOU BOOKSで働いていた人が作って、うきはと久留米の両店にだしているというクッキーをいただいて、何ともうれしい気分で帰途についた。
2024年4月27日土曜日
松下竜一の本(出前の本の話・5月) No.126
JR前原駅から歩いて10分の所にある旧前原商店街の一郭にあるブックカフェ「ノドカフェ」での5月の
出前の本の話のご案内です。
追記
上記の「出前の本の話・5月」の中に、何とも申し訳ない誤字が2か所あります。
松下竜一さんが同志とも相棒とも呼ばれた梶原得三郎さんのお名前です。得の字を徳と記載しています。慙愧のおもいで訂正いたします。
今日28日、案内の葉書をお届けしたときに指摘されて気づくありさまでした。
2024年3月30日土曜日
3月の本の出前 No.125
3月の「本の出前」のご案内
1.マルシェ会場にて (今回は初出店のお店がいろいろ)
・日時 3月30日(土)11時~夕方
・場所 「うみかえる」 糸島市二丈深江海水浴場入口
☆16時20分から45分間くらい、ヨガ
ヨガスタジオよが凪のゆみさんと。参加500円くらい。
うみかえるの裏の深江海岸浜辺で。
※能登半島チャリティー蚤の市も開催(自転車、着物、本・・・などの出品も)
★1日だけのマルシェが開かれ色んな出店が。
☆将棋道場 11時∼14時半(うみかえるの庭で。松浦さんに勝ったら団子とか。
☆komorebi sweets,坂田たみちゃんのインタビュー(うみかえるのどこかで。
「人気のお菓子屋さん、ってどうやってできたんでしょうね?」
会場に来た人も質問を‼
☆「和限」(今年、発芽酵素玄米の食事処を開店)の中山和子さんの初出店。
・発芽酵素玄米のおにぎりと味噌だまのスープ。300円です。
☆30日の朝についた餅の販売(米農家、子育て中のぐーさん)
・間に合えば、無農薬米の自家製緑米玄米餅やよもぎ餅も。
☆「みぃちゃんコーヒー」(tetocotoのこどもたちが立ちあげた挽きたてのコーヒー)
★風信子ヒアシンス文庫より1日限りの本の出前―2階です。
2.ブックカフェ「ノドカフェ」にて
・期間 : 3月8日(金)~5月1日(水)
・場所 : ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F)
・内容 : 「農に関わる本」
「農に関わる本の話」
・3月8日(金)11:00~12:00
今回は福岡市内から2名の参加があり、2時間の時間となりました。
葉書、フ16ェイスブック、ラインで直前に以下のお知らせ
農に関わる本の出前とお話 出前の本の話 3月
3月と4月、ノドカフェへの出前の本は、「農に関わる本」
です。「田んぼや畑は先祖からの預かりもんであり、自分のも
んであって自分のもんじゃなか。未来永劫にリレーされるべ
きものなんだ」「農の原理は循((環であって、成長じゃない。百
姓ってのは借金さえしなければ成長しなくても生きていける
んです」、「佐賀県唐津市で、生涯を一百姓として生きてきた
山下惣一」、「井上ひさし氏が山形県川西町に拓いた遅筆堂文庫
による「生活者の視点から農業を学ぶ生活者大学校」の教頭(校
長は井上ひさし)を長く務めた山下惣一さんの追悼の小さな棚や、
「野の学問」を構想し「百姓宣言」の糸島二丈在の宇根豊の本、
徳野雅人、前田俊彦(百姓は※をつくらず田をつくる)、そして
自然農に関わる本など。
小さな場での出前の本のお話会にようこそ。
(連絡なしで、当日直接お出でいただいて大丈夫です)
★連絡先―才津原
2024年2月29日木曜日
「空白の天気図」・・・広島へ No.124
2月19日と20日、広島市に出かけた。叔母から被爆時前からの話を聞くことと、
平和祈念館の企画展を見るためだった。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、
企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」を2023年3月15日から2024年
2月29日まで1年間にわたって行っていた。私がこの企画展を知ったのは今年の1月
半ばを過ぎてからのことだった。
「空白の天気図」は柳田邦男さんの著作のタイトルだ。49年前の1975(昭和50年)に新潮社
から出版されている。1936(昭和10)年、栃木生まれの柳田氏は1960(昭和35)年春NHKの取材
記者として広島赴任を命ぜられ、それから3年3カ月広島に勤務し、主に原爆報道を中心に報道の
仕事に携わっている。東京では気象や災害問題を主要なテーマとし、そのため気象庁に出入りす
る機会が多かった。そして1967(昭和42)年7月、西日本各地を襲い、佐世保、呉、神戸などに
300人以上の犠牲者をだした「西日本豪雨」に出会う。とりわけ呉では600か所以上で山崩れや崖
崩れが発生し、死者は88人に上った。
「この災害を調べるうちに、呉では昭和二十年の枕崎台風で死者行方不明千人を越える大災害が
起こっていることを知った。しかも枕崎台風は、呉のみならず広島県下に未曽有の惨禍をもたら
したこと、災害の規模が大きくなったのは、県の中枢である広島市が原爆で壊滅した直後で、
防災機関の機能が麻痺していたためであること、などの事実も知ることが出来た。私の広島時代
の取材は、あまりにも「八月六日」のことにばかり目を向けていたため、「九月十七日」のこと
など思いも及ばなかったのであった。気象庁に保存されている中央気象台の「枕崎・阿久根颱風
調査報告」を読んだのは、この「西日本豪雨」がきっかけだったのだが、それを読んではじめて、
「戦争が終わったと思ったら今度は台風じゃった。あの台風はすごかった。石は飛ぶし、宮島の
厳島神社の回廊が高潮で浮き上がったのじゃからのぉ。」
と、かつて広島の老記者から聞いるかのsらた話が、私にとってもようやく現実感をもってよみ
がえってきたのだった。このとき私の胸の中に、漠とした形ではあったが、広島について書くべ
きものの構想が生まれた。」
それから取材と調査が始まる。1974(昭和49)年夏には、「私は本書を含めて書きたいものがあ
まりにもたまり過ぎたため、NHKを辞めて執筆に専念することに」し、翌年の1975(昭和50)
年9月に刊行されている。枕崎台風のことを知るきっかけとなった1967年の「西日本豪雨」から7
年後のことだ。
本書の紹介については、稿をあらためてと考えているが、原爆投下の前後の広島の時空に、活字
をおう私自身が立ち会っているとも感じられる描写、その克明な記述に驚かされた。原爆で壊滅
した街の中でどのような一人ひとりの生と死があり、またその惨禍の地を襲った枕崎台風がどの
ようなものであり、そこにまたどのような生と死があったか、その一人ひとりが眼前に立ち現れ
てくるように思われた。
原爆死没者追悼平和祈念館では、今回の企画展にあたって、A4サイズのチラシ作っている。
「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―」と太文字で記された表がわには
麦わら帽子をかぶり、立って櫓を両手にもつ男性(船頭)の横顔が紙面の右下に写っており、
左下には、茶色の戦闘帽をかぶり同色の作業服の上着を着た青年の後姿が映っている。
柳田著の「空白の天気図」では、その青年が渡し船の上で閃光にさらされ、濡れ鼠とも幽霊と
もつかぬすさまじい形相で6人火傷を負いながらも、歩いて気象台のある江波山を上り、辿り着
いた本科生として、その後のあり様とともに詳細に描かれている。なお写真上に、副タイトル
として「観測し続けた者たちの記録」と記されている。
チラシの裏側には、チラシの右側の上段には「元広島地方気象台の関係者たち」として6人の写
真が載っている。うち3人は職員であり、2人は気象技官養成所本科生(うち1人は気象台に定時
に出勤していて、閃光のあと、顔から足先まで身体の右側一面に無数のガラス片が刺さりひど
い出血、重症)、一人は重症を負った本科生の姉。
チラシの右側、下段には「迷彩を施された広島地方気象台」の写真。
そして、チラシの左側には、この度の企画展の趣旨が次のように記載されている。
「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ―
1945年8月6日、原爆は広島市に甚大な被害
をもたらしました。爆心地の南方3.7km
に位置する広島地方気象台でも、爆心に面
した窓ガラスは割れ、職員の中には重症を
負うものが少なくありませんでした。
その状況下でも、「気象観測を担う者は、現象
についての時間的な変化を絶えず記録しな
ければならない」と、最新の気象データを
中央気象台に伝えるため、3名の若手
台員が市の中心に向かいました。しかし、
そこで彼らがした目にはしたのは、まさに地獄絵図
と呼べるものでした。
さらに、被爆後わずか1か月後に広島を襲っ
た枕崎台風は原爆被害を一層深刻なものにし
ました。気象台員たちはこの二重災害の被害
を後世に教訓として伝えようと、現地へ出向
いて一人ひとり詳細な聞き取り調査を行い、
貴重な調査報告書にまとめました。
今回の企画展では、観測者の視点から記録
された被爆体験記をもとに被爆の実相を明ら
かにします。」
☆この度の企画展の会場で放映されたビデオが祈念館のホームページで見ることができます。
ぜひご覧ください。
国立広島原爆死没者追討平和祈念館
TEL:082ー543-6273 FAX:082ー543ー6273
ホームページURL:https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/
〒730―0811 広島市中区中島町1-6
2024年1月19日金曜日
出前の本の話、ご案内 No.123
新しい年のはじまり、どのようにお過ごしでしょうか。
1月1日、賀状をだしおわり、午後になって新年の挨拶をネットでと、日めくりの「いとしま暦」(1月1日)を送信した
直後に、甥っ子からメールが届いた。「石川県で地震が・・・」、17時まじかの時間だった。テレビをつけると津波に
襲われた能登の状況が画面にでて言葉を失う。珠洲市(坂本菜の花さんの本でゆかりの地)や輪島の名前がとびこんで
くる。地震が起きた16時10分から1時間近く、そのことを知らずに新年のあいさつなどのやりとりをしていた。そして
翌日には、たまたまテレビのニュースを見ている時に羽田飛行場での日航機の海上保安機との衝突事故が写しだされた。
1日、2日と、なんという年のはじまりだろう。
あの日から15日がたち、能登では道路の寸断が激しく、今朝16日の毎日新聞では6市町村がほぼ全域で断水。
(14日午後2時時点で9000戸停電、9市町で5万5千戸断水、輪島、珠洲、能登3市町の15地区で490人が孤立状態、
400戸の避難所に約2万人)
29年前、1995年1月17日早朝の阪神淡路大震災、13年前2011年3月11日16時過ぎの東北大震災のことが重ね合わせて、そ
の当時、その地の幾人かと交わしたやりとりの事があらためて思いだされてもくる。被災の惨状にある能登と900キロ
離れた糸島の地での日常、身も心も定かならずの日々ですが〔その中の人、現し心あらむや〕、新しい年の事始めは、
「出前の本の話」です。
〈出前の本の話〉ご案内―生きるための図書館って何だろう―
2017年11月に顔店したブックカフェ「ノドカフェ」に、開店時から、自宅の「風信子ヒアシンス文庫」から本の出前を
してきました。数十冊の本を2か月ごとに入れ替えて。
年はじめの1月、2月は「図書館の本いろいろ」と題して、図書館に関わる本やパンフレットなどが棚に並んで手にとっ
ていただくのを待っています。
また出前した本について、その幾冊かを紹介する出前の本の話を行っています。当初、そのテーマを「まことの図書館
って何だろう」としていましたが、急きょ「生きるための図書館って何だろう」に変えました。子細は、出前の本の話
の場で。『生きるための図書館』竹内悊、『移動う図書館ひまわり号』前川恒雄、『図書館の明日をひらく』菅原峻、
『図書館づくり実践記』、『図書館猫デューイ』ヴィッキー・マイロン、そして、そして・・・。
図書館に関心のある人・ない(と思ってる)人・だれでも、そして、もっとよりよく図書館を使いたい、利用したいと
思っている人、小さな場での出前の本のお話会にようこそ。
日時:1月19日(土)11:00~12:00
場所:ノドカフェ(糸島市前原中央3丁目18-18、2F
連絡先:才津原哲弘 ;090-5045-2559
メール:itokazedayori@gmail.com
www.kazedayori.jp 「図書館の風」
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