2021年9月30日木曜日

9月の終りに 由布院ふたたび  No.80

前々回のブログNo.78で、大分県由布院で発行された小さな冊子”ゆふいんブックレットvol.①”の紹介をした。 由布院のまちづくりの活動の要の働きをした中谷健太郎、溝口薫平のお二人の座談の場での語りの面白さにひきこまれ、そのまちづくりの手法、その考え方に思わず耳をすませた。続編が楽しみだ。 手元にあった『新版たすきがけの湯布院』(中谷健太郎 ふきのとう書房 2006)を再読。 15年前に出版されたものだが、2021年の今、各地で自分の住む地域を、住みやすく住み続けたい地と すべく考え、活動している人たちにとって、「世界中の人が住みたくなる町を目指して、”たすきが け”の疾走」を続けたその軌跡から学ぶこと、活動のヒントとなることが少なくないと思われる。 ーーー 『たすきがけの湯布院』(アドバンス大分』は、『月刊アドバンス大分』誌上で、昭和53年(1978年) 9月号から54年(1979年)12月号まで、13回にわたって連載されたものを、58年(1983年)に刊行され、 その後、永らく絶版となっていた。この書を「読みたい」という読者が多数いたため、その後の状況 を踏まえ、大幅な加筆修正を行って「新版」として2006年5月に刊行された。 同書のさいごに、”「新版」を出すに当って・・・・・”という作者、中谷健太郎さんの2006年5月に 記された文章がある。 「あッ、という間に歴史のページが手繰られて、去年(ニ00五年)の十月一日、「たすきがけの 湯布院」の「湯布院町」が自治権を失った。「町」の事を、自分で決める権限が、なくなったのだ。 「意見」があれば〈代議者〉を通して申し出よ」、禁治産者である。 私は怒っている。あんまり怒ったので、前よりも元気になった。元気になると、「何とかしようぜ」と 思い始める。すると疑問も湧いてくる。「どうしてこんな事になってしまったのか?」判らない。 一体、湯布院町って何者であったのか? 湯布院町がうまれたのは五十年前(1955・昭和30年)、「昭和の合併」の渦に乗って、隣村の湯平を抱 き取った、その時からだ。(由布院町・湯平町)その五十年のうちのほぼ四十年を、私は「湯布院町」 で生きた。東京から二十八歳で帰郷し、今年七十ニ歳である。そんな「ずぶずぶの湯布院人」にも、どうして町をこうなったのか、理由が判らない。ついこの間のことであるのに・・・・。 四十数年のうちの二十数年を、町と併走しながら書き留めた文章である。怒りに満ちて、ではなくて、 希望に満ちて……『たすきがけの湯布院』(一九八三年刊)。それを紐解いてみて感動した。 「われらの湯布院・青春挽歌」あるいは「歴史の火種を突っ走れ」「笑って砕けろ、由布院街道」。 みんな元気で、笑って走った。仲良く怒って、旅をした。汗だくで、泣きながら、懸命に駆け抜けた 町づくり二十年。そうだ、ココから始めれば、自立を取り戻せる。 湯平町と合併する以前の、目に見える「湯布院盆地」に、すっくと二本の足で立とう。「湯布院町創成 全期」に盆地お中を奔流した「独立自尊」の町民エネルギーを、もう一度、目をかっぴらいて見つめて ほしい」 作者本人を23年ぶりの自著の再読で感動させたものは何か。『新版たすきがけの由布院』で確かめていただきたい。 【この項、つづく】