2021年3月4日木曜日

うれしい知らせ・「漆原宏写真展」(妙高)  No.64

毎月、郵送で届く『図書館雑誌』(日本図書館協会)を手にして、何かもの足りないものを 感じていたわけがわかった。それを教えてくれたのは、いきなりとびこんできたメールだった。 写真家漆原宏さんのご夫人、漆原美智子さんからのメール。 ほんとうに久しぶりに、何年振りかにいただいたご連絡で、「「写真家漆原宏 病との闘い」「妙高 市の図書館とともに歩む会」をぜひ検索してください。そして、広めてくださると嬉しいです。この メールが繋がって嬉しい限りです。」とある。何より嬉しいのは私の方だ。その文面からブログに お名前をださせていただくこともお許しいただけると思う。---------------------------------- メールが届いた翌朝、珍しく5時に目覚めた私はユーチューブで早速、検索すると「写真家漆原宏 病 との闘い」と「漆原宏写真展(妙高市の図書館とともに歩む会)」の2つの画面が現れる。 画面を開くと、いきなり美智子さんの声がとびこんでくる。妙高市の写真展の会場で車椅子の漆原宏さん の傍らで、宏さんの心の声に重ねて、美智子さんのつややかな張りのある声、お元気なご様子。 漆原宏さんのくつろいだ表情。いつもお2人から元気を手渡されてきたが、今、この画面からも深い元気 を手渡される。からだのお具合がよくないと風のたよりに聞いていたが、この10数年、そのように過ご されていたことをあらためて知らされる。--------------------------------------------------- 病いとの闘いの日々の中で、「病気と生活は地続きだ」と考える、訪問診療医、岩間医師との出会いを 通して週2回、漆原さんを訪ねてこられる82歳のお話のボランティアの堺八郎さんとの場面など、懐かし い漆原さんにお会いする。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 筆不精の私だが、漆原さんご夫妻には、年に一度の年賀状だけはださせていただいていたが、ある 年、賀状はこの年で最後にとの言葉があり、以後ご連絡をしないできていた。だからこの度のメールが どんなに心うれしいことであったか。 動画によると、「漆原宏写真展 ぼくは、図書館がすき」は昨年、2020年11月19日から23日まで、「妙高 市の図書館とともに歩む会」の主催で新井総合コミュニティセンターを会場にして開催されている。同会 の馬場さんが、会場で写真展開催の経緯や会の活動について語っている。最初は漆原さんの図書館の写真 集を図書館でリクエストをして借り、その内容に打たれて写真展を企画したこと、そして漆原さんについて 語られている。 --------------------------------------------------------------------------------------------- 図書館で漆漆原さんの図書館の写真集をリクエストしたことから始まったというのがいいなと思う。そして 漆原さんに連絡をとり実現されたというのが嬉しい。図書館での1冊の本との出会いから、ある願いが生まれ、 その願い を同じ思いをもった人たちと形にしていく。図書館は一人ひとりの願いが生まれ、その願いを力を合わせて 実現していくところでもあるのだ。 そこで馬場さんが語っている言葉がいい。関心ある方はぜひ、ご覧を。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 漆原宏さんと初めて出会ったのは私が博多駅の近くの財団法人博多駅地区土地区画整理記念会舘(以下、記念 会館という)で働いている時だった。1階に232㎡の小さな図書室があり、館長(福岡市職員の定年退職者) 1、正規職員2(司書1、事務職員1、〈その後事務職は嘱託となり、さいごは私が経理も担当)、臨時職員 2(司書)という職員体制で、2階、3階には有料の会議室や無料の憩いの部屋(広い和室)などがあった。 福岡市から3億5000万円の基本財産の寄付をうけ、その利息で施設の管理、運営を行っていた。当時は今から みると利率が高く、年間2000万円をこえる利子と会議室の使用料が収入で、それで施設の維持管理費や人件 費などをまかなっていた。図書費は年間300万円だった。 ---------------------------------------------------------------------------------------- 私は千葉県八千代市の図書館(1972.4~1974.3)を2年間で退職した2年後、1976(昭和51)年5月30日に人 口100万人をこえる福岡市でようやく開館した福岡市民図書館に、たしか開館1か月後位から嘱託職員として 働き、主に市内に160くらいあった文庫に団体貸出しの本を配本していた。 ------------------------------------------ そんな中、福岡市が20年以上かけて行った博多駅周辺の土地区画整理事業が完了したのに伴い、この事業の 地域の協力にたいする市の対処として記念会館を建設したのだった。そして、そこに小さな図書室がある ので、財団の職員としていかないかという話だった。図書の選書も、書架の発注もすでに行われていて、そ の内容にかかわることはできなかった。(書架の入り口よりの2列をより低くできただけ)それで、図書の 受け入れ準備を含め記念会館の開館準備のため1979(昭和54)から司書として働き始めた。 当時、市立図書館は福岡市民図書館の1館のみで、各市民センターにある図書室(東・南・中央。昭和56年 以降、西・博多・城南)は組織上、図書館の分館ではなく、公民館図書室の位置づけだった。 --------------------------------------------------------------------- このため私は私の場は財団法人の図書室であるが、意識としては図書館の分館として働くという考えであっ たと思う。予約、リクエストは当たり前のこととして行ったが、当時の県内の状況は、それを図書館の基本 的なサービスとして取り組んでいるところは少なかった。”リクエストに応える駅前図書館”として新聞に 掲載されたこともある。記念会館には車がなかったので、自転車やタクシーで築港本町にある市民図書館に 本を借りに行ったりしていた。 年を経るに従って、100万人の大きな市で図書館が1館しかないことの問題が切実に感じられるようになって いたと思う。 --------------------------------------------------------------------------------------------- 漆原宏さんが記念会館図書室にやってきたのは、そんな時だった。事前の連絡もなくいきなりやって来られ た。その時は私は漆原さんについてまだよく知っていなかったと思う。その年が1987年ではないかと思うの は、「福岡の図書館を考える会」を1987年に始め、半年以上かけて『2001年 われらの図書館―すべての福 岡市民が図書館を身近なものとするために―」(47頁)を会員でつくり、考える会で1988年1月24日に発行し ていることから、さかのぼって類推してのことだ。 ----------------------------------------------------------------------------- 漆原さんからは私にとって幾人もの生涯にわたって大切な人を紹介されてきたが、その最初の人が、仙台市 で「仙台にもっと図書館をつくる会」の代表をされていた扇元久栄(おうぎもと ひさえ)さんだった。 記憶が定かでないけれど、何か差し迫った状況の中にあったのか、扇本さんへの初めての電話を深夜にかけ たようだ。その電話の直後、扇本さんからもっとの会の会報や公開質問状をはじめとする資料がどっさりと 送られてきて、その活動のすさまじさに目を瞠った。とりわけ「仙台にもっと図書館をつくる会」の実行機 関として、考える部会、伝える部会、広める部会がある、との活動報告には心打たれるものがあった。そう だ、「考える」「伝える」「広める」、このことが要のことだと受け止めた。そして福岡の会では、「考え る」こととして、『2001年 われらの図書館・・・』づくりにとりかかったのだった。以後、扇本さんには さいごのさいごの時まであたたかく、深いものを授かり続けた。〔扇本久栄さんから手渡されたものについ ては、『としょかん村』に書いているが、前半部分、中途で終わっている。続きは他日にと考えている. ------------------------------------------------------------------------- 2004年5月4日、能登川町で井上ひさしさんと中村哲さんの対談を核とした「宮澤賢治学会地方セミナー」 を開催、開会の辞にかえて、”私は井上ひさしの追っかけです”と自称されていた扇本久枝さんが、宮澤賢 治の『注文の多い料理店 序』を朗読された。実際は覚えておられるのだが、巻紙に書かれた「序」を暗唱 された。その録画は”図書館の風No.49-(2)”でみられます。)〕  -----------------------------------------------------------------------------------------------〕 漆原さんを思うと、墨田区立八広図書館長、そしてご出身の佐賀市立図書館長をされ、「本のある広場」とし ての図書館を実践された千葉治(ちば おさむ)さんが一体となって思い浮かぶ。 そして、たまたま上京したさい、漆原さんと千葉さんが大澤正雄さんと伊藤峻さんと同席の場をつくってく ださったことも、私にとってかけがえのない出来事だったと、なんど思い返したことだろう。このような図 書館の先達の粘り強い、強きにくじけない、笑いとユーモア、そして歯ぎしりの歩みがあってこその図書館 の今ある道であることを銘記したい。 伊藤峻さんは早くに、そして千葉治さん、大澤正雄さんのご訃報が相次ぐなかで、私はあらためて漆原さん のことを思う日々を過ごしていたのだった。 漆原さんのこれまでの歩み、そして漆原さんとのあの時、その時の出会いがもしなかったとしたら、私自身、 どこか違う道を歩んでいたのではと思うことしきりだ。 ----------------------------------------------------------------------------------------------- そして奥さまの漆原美智子さんに初めてお会いしたのは、多分1987、8年のこと。「福岡の図書館を考える会」 では、「図書館の話」の出前を行っていた。当時、福岡県柳川市でお寺の住職をされていた美智子さんから、 出前の注文があったのだ。考える会の若い仲間、臨時職員として働いていた元気な2人の女性とスライドを持参 でお寺にでかけた。たしか当日は蚊帳の中に泊めていただいた。だれかれの話をじっくり、ゆったり深く聞か れる美智子さんのお寺は、駆け込み寺のようで、人が行き交い、そこで安らぎと元気を手にされている場所だと 心明るくなる印象をうけた。その後の「柳川の図書館を考える会」の行動には、ほんとうに元気づけられた。 後日、かなり時間が経ってのことだが、滋賀県立図書館長の澤田正春さんが福岡に来られた時、美智子さんたち と一緒に当時の柳川市長にも話に行っていただいたこともあった。 そしてまた、ある年月を経たある日、漆原宏さんから電話をいただいた。静かな弾む声で、美智子さんんと 共に生きられることを伝えられた。何ともうれしい知らせだった。このような出会いがあるのだと、ふかーい 安堵の思いにつつまれた。よかったなー。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 最初のところで、『図書館雑誌』に何か物足りないものがあると、無意識のうちに思っていたものとは、漆原 さんが、毎号、『図書館雑誌』の巻頭(目次の前の頁)に掲載されていた「漆原宏のフォト・ギャラリー」が なくなっていたことだった。毎号、日本各地の、それまでほとんど知らなかった図書館の写真がそこに掲載さ れていたのだ。その一枚一枚は、図書館が何をするところか、大人も子どもも、住民一人ひとりにとって、 図書館はどんなところであるかを、一つ一つの図書館の名前とともに、そのぺーじを開くものの目と心にきざ んでいたのだと、今にして思う。また、写真が掲載された図書館の職員方のたちは、その掲載を、写真に写っ た人たちとともに喜んでおられたのだと思う。そのことで、図書館の現場に励ましを送り続けたフォト・ギャ ラリーであった。一隅を照らし、図書館の一刻一刻がとらえられた一枚一枚であったと思う。ここまで書いて さらに思いうかんだこと、それは漆原さんが訪れた図書館のそれぞれの現場の職員はもちろん、利用者をまき こんでの漆原さんとの会話から生まれた豊かな時間のことだ。私も、漆原さんの一言ひとことから、普段なか なかみることが難しい気づきを度々授かったものだった。 --------------------------------------------------------------------  『図書館雑誌』への漆原宏さんの写真の掲載  85巻9号(1991.9)からコラム「窓」とともに掲載、  87巻1号(1993.1)から「漆原宏ギャラリーコーナー」が付与、  88巻4号(1994.4)から110巻3号(2016.3)まで単独コーナー「漆原宏ギャラリーコーナー」  (日本図書館協会に照会:2021.3.4) --------------------------------------------------------------------------------------------------- 最後に私の好きな漆原さんの本 『地域に育つ くらしの中の図書館 漆原 宏 写真集』ほるぷ出版 1983年12月 私が持っているのは第2刷で1988年3月の出版、漆原さんにお会いした後から購入したみたいだ。 いつも身近にある1冊。写真はもちろんのことだが、タイトルがいい。図書館を育てるものは何か、市民にとって 図書館とは何か、図書館が目指すべきものが、そこに簡潔に示されている。一枚一枚の写真が示す図書館の働き、 司書の働き、そして図書館長とは何をする、どのような人かを示す一枚の写真、子どもや大人や高齢者にとって 図書館は何であるかを示す写真の数々。菅原峻さんの言葉をお借りすれば、図書館の今日と明日がそこにあるよ うに感じる。 ----------------------------------------------------------------------- また、この本を私はこの時、その時というときに、くりかえして読んできた。 何かあると、それぞれの解説の文章に立ち返ってきた。苦心してやっと書き上げたと思ったものの源流がここに あることに、後になって気づくことも少なくなかった。解説の森崎震ニさんと漆原さんお二人の言葉が私の中に 入っている、のだろうかと思ったりしてきた。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 2地域の図書館 「図書館は身近になければ、日常の用に役立ちません。お正月とか、お盆とかに年一回使えば済むというものでは ないからです。だからその地域になければなりません。」 から始まる「2地域の図書館」の文章は、著者をはなれて、みんなの文章であるようにも思ったりする。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------- 以下 1 生涯にわたる自己教育 3くらしの中の図書館 4こどもは本好き 5図書館利用に障害のある人々に 6職員が図書館活動を支える そして、さいごの「あとがきにかえて」は、全体の集約であるとともに、それぞれの課題とこれからの方向性 (地域図書館・自動車図書館・町村立図書館)を的確に指し示していて、図書館の明日を考えるのに一読、再読 したいものです。
次いで
そして
『ぼくは、図書館がすき 漆原宏写真集』(日本図書館協会 2013.4.30)の「あとがき」から

2 件のコメント:

  1. 早速、取り上げてくださいましてありがとうこざいます。
    手が震え、思うように身体が動かなくなった宏には、「妙高市の図書館とともに歩む会」との出会いが 最高のプレゼントでした。
    その会との出会いと同時進行で 在宅訪問医師、ボランティアの方とのご縁に出会い
    生活にまた張りが出てきました。
    命のある限り、どなたかの力になれてる❣️
    その想いは最高の宝です。
    ありがとうございます😊

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    1. コメントありがとうございました。
      命ある限り、どなたかの力になれている  その想いは最高の宝
      お言葉、心にしみこんでいます。お二人の笑顔を思い浮かべています。

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