2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2023年6月30日金曜日
鬼頭梓展・茗荷恭介展・・6月京都へ No.113
5月のさいごの日、夜行バスで博多駅前から京都に向かった。今回の目的は京都市内での
ある展覧会と銅人形の作品展を見るためだ。一つは京都工芸繊維大学であった「建築家・
鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会〔2023年3月22日(月)~6月10日(土)/
シンポジウム「鬼頭梓の建築から考える未来像」6月10日〕、
もう一つは高瀬川ほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR」での”茗荷恭介銅人形展
「子供の時間」〔5月27日(土)~6月4日(日)〕だ。
1.「鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」展覧会
昨夜8時20分発のバスに乗って京都駅前に着いたのは朝8時過ぎ、鬼頭さんの展覧会の会場は
京都工芸繊維大学、私はこの大学をこれまで知らなかったのだが、今回のことで会場となった
この大学のことを何人かの友人、知人に話すと幾人もの人が知っていた。知る人ぞ知る大学の
ようだ。市営地下鉄烏丸線で行くことにする。烏丸御池、鞍馬口を過ぎ、北山の次が松ケ崎
だった。8時35分についた。降りる人は少ない。途中、コンビニでパンと飲み物など買う。大学
には歩いて15分ほどでついた。道をはさんで両側に大学の建物があり、どちらだろうと思ったの
だが、右手の建物の方を見ると、校門のところから正面、数十m先に何か大きな看板がつり下げ
られた建物があり会場と思われたので、そこに向かって歩いて行った。近づくと焦げ茶色のタイ
ルを貼った建物の入口の右手に大学名と「美術工芸資料館」と大きく描かれた看板がたっていた。
入口の所には4mぐらいの長さの垂れ幕上の看板が2つ、一つは「建築家・鬼頭梓の切り拓いた
戦後図書館の地平」、もう一つは「村野藤吾と長谷川尭 その交友と対話の軌跡」。
10時からの開場にはまだ時間があるので、隣りのホールがある建物に入り、そのエントランスで
食事をしながら過ごした。持参した『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』(鬼頭梓+鬼頭梓の
本をつくる会 建築ジャーナル 2008.6.20)を再読する。鬼頭さんについて書かれた、鬼頭さ
んとその仕事を知る上で驚くばかりのこの本を私はその出版直後に藤原孝一さん(藤原建築アト
リエ)から送られていたのに、それを読んだのは最近のことだ。藤原さんに初めてお会いしたの
は、1990年5月に苅田町立図書館が開館してからどれくらい経った時だっただろうか。藤原さん
が苅田の図書館に見学で来られて初めてお会いした。30年以上前のことだが、その日の藤原さん
のことをよく覚えている。その時は鬼頭さんの事務所を辞め、藤原建築アトリエを初めて間もな
い時だったのだろうか。
私にとっての鬼頭さんは何といっても日野市立中央図書館を設計した人としてだ(竣工は1973年)。
鬼頭さんを図書館の設計者として指名し(建築家を選び)、それを実現した前川恒雄さんの著書
で初めてそのお名前と、建築家としての鬼頭さんを知った。前川さんは鬼頭さんと設計協議を始
めるにあたってはまず、鬼頭さんに移動図書館に乗車してもらい、最初に連れて行ったのは、移
動図書館の現場だった。市民が移動図書館で本を借りている現場で、このような図書館をと前川
さんは語り、鬼頭さんはそれをまっすぐ受けとめられたのだ。
鬼頭さんに前川さんが示した5つの「中央図書館設計の方針」。
①「新しい図書館建築の道標となる図書館」
日野市立図書館の、「誰でも、どこでも、何でも」というモットーを実現するため分館、移動
図書館を中心とする活動をいっそう高めるための中央図書館であること。
②「親しみやすく、入りやすい図書館」
「図書館は誰でもふだん着で入れる図書館で入れる建物でなければならない。前を通る
人が誘いこまれるような雰囲気をもつ図書館であること。」
③「利用しやすく働きやすい図書館」
利用者は館内の資料の配置、自分の位置がわかりやすく、ゆったりした気分で利用できるように
する。利用者・職員の動線はできるだけ短くする。内部は単純で明解な配置にする。
④「図書館の発展、利用の変化に対応できる図書館」
⑤「歳月を経るほど美しくなる図書館」
図書館は数千年の昔からあり、人間の文化を生み、伝え、広めてきた。これからもそうである。
図書館のこのような長い生命と意味にふさわしく、市民が市民自身の文化を育てる砦として、
いつまでも使い守るに値する建物であること。」
その方針の的確さ、60年後の2023年の今でも指針となるその5つの柱に驚く。以後、お二人の厳しい論議が始まる。ーーーーーー
10時、開場の時間とともに入館。
そこで数時間を過ごした。
日野市立中央図書館の図面はもちろん、1926年生まれの鬼頭さん【以後は敬称をはずさせていただく。】
が1950年に前川國男事務所に入所して、初めて実際に設計を担当した「青森県立広崎中央高等学校講堂
(1954年)から、1998年の「洲本市立洲本図書館」まで。
開場の構成が素晴らしかった。建築家としての鬼頭梓の歩みが4つの章でよく示されていた。その概要だけ
を記すと。
第1章 市民の居場所を求めて ーーーーー 前川國男に学ぶ
〇戦争によって破壊された「生活の根拠地」をつくりたいという切実な思いに突き動かされ
・青森県立弘前中央高等学校行動(1954)
・神奈川県立図書館・音楽堂(1972)
・MIDビル(1954)
・国際文化会館(1955)
・世田谷区民会館・区役所(1959・1960)
・国立国会図書館(1961)
*戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)の教育使節団の提言で1951年に慶應義塾大学に図書館学
科が創設された。当初は5名の米国人教授、米国人司書による全て英語の授業、通訳がつい
ていた。「一期生は30人くらいで、ほとんどが東大やCIEの図書館などどこかの図書館に
勤めていたライブラリアン」だった。鬼頭梓夫人となる當子さんは、編入で一年だけ同科
で学ぶ。結婚後、月に何度か、中央線沿線で働く一期生が、夫妻の自宅で「中央線会」と
称した議論の場を持っていた。・・・喧々諤々の議論、鬼頭は横で黙って聞いていたが、
すごくいい勉強になった。一体何が問題になっているかが、大変よくわかる。ほかにも、
国会図書館には、建築部の若手に佐藤仁君という熱血漢がいた。国会図書館の仕事を始め
てからは、いろいろな若い人に知り合いました。」
(『建築家の自由』松隈洋による鬼頭梓インタビューより)
第2章 戦後図書館のパイオニア ーーーーー 一人の建築家として
・東京経済大学図書館(1968)
*前川さんが設計者を探すにあたって、最初に見た鬼頭の設計によるもの。
・東北大学付属図書館(1972)
・日野市立中央図書館(1973)
*前川と鬼頭2人の意見が最後まであわなかった「吹抜け」の箇所に眼をこらした。
・同志社女子大学図書館(1977) *これについては、展示会場で筆者した一文をさいごに。
・神戸市中央図書館(1981)
第3章 新しい「生活の根拠地を求めて ー---- 山口県との関わり
・山口県立山口図書館(1973)
・山口県立美術館(1979)
・徳山市立中央図書館(現・周南市立中央図書館、1981)
第4章 自由な空間を求めて ーーーーー 晩年の作品群
・茨木市中央図書館(1992)
・湖東町立図書館(現・東近江市立湖東図書館、1993)
・熊取町立熊取図書館(1994)
・洲本市立洲本図書館(1998)
まさに「建築家・鬼頭梓の切り拓いた戦後図書館の地平」が会場に展開されていて、この取り組みの
密度の濃さに驚かされた。どうしてこのよう内容のとても充実した鬼頭梓の展示が京都工芸繊維大学で実現したのか、それは本展を企画した要の人が、松隈博(ひろし)京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授だったからだ(2023年3月退官、4月から神奈川大学教授)。先に記した2008年に出版された『建築家の自由 鬼頭梓と図書館建築』は「鬼頭梓インタビュー」から始まっていて、鬼頭へのインタビュー「私の原点 鬼頭梓インタビュー」の前にあるこの本の最初の文章が「鬼頭梓の育んだ風景 「生活の根拠地」を図書館に求めて」で、その執筆者が松隈洋・ 建築史家 京都工芸繊維大学準教授だった。鬼頭へのインタビューも松隈が行っている。『建築家の自由』2008年、の出版以前から始まっていた松隈の「建築家鬼頭梓」への底深い探求の足跡、その果実がこの度の展覧会を形にしてくれたように思った。同書には、鬼頭梓インタビューの他、鬼頭の5つの論考(「土地と人と建築と 日野市立中央図書館の建設が建築家に問いかけた建築の意味」、「職業者としての建築家」そして「建築家の自由」など)の他に「前川恒雄氏インタビュー 公共図書館の歴史が変わった日」、そして「資料」として「〈年表〉建築家・職能運動の歴史」、「鬼頭梓・年譜 作品・受賞・著作・論考」が掲載されている。
会場に入ったところに掲示されていた「ごあいさつ」には、本展覧会の開催の趣旨が述べられている。
「生活の根拠地」としての戦後図書館の地平を切り拓いた鬼頭の仕事と建築思想を、設計原図や撮り
下ろしの現況写真、新規に作成した模型等を通して紹介いたします。市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支えるという戦後図書館の原点を見つめ直すきっかけとなれば幸いです。」
( 主催者の「あいさつ」や解説の文章を書いたのは松隈氏だと思われる。)
「生活の根拠地としての戦後図書館の地平」、「市民の誰もが等しく利用できる公共空間であり、民主主義の根柢を支える戦後図書館」ーーー何という見事で的確な捉え方、表現であることだろう。「生活の根拠地としての図書館」、私が初めて目にする言葉だった。私のなかに染みこむように入ってきた。
しかも、いやだからというべきか、松隈の目は2022年の日本の公立図書館の現況・・・〈自治体別の設置率;都道府県立100%、市区立99%だが、町村立の図書館設置率は、依然として58%という低い水準とどまっていて、書店については書店が一つもない市区町村が全国で、26.2%・・〉を見すえている。
「同じ国に暮らしているにもかかわらず、モノとしての本を自由に手に取り、本の世界に触れることのできる情報環境を持たない人が、国民の1/4以上も存在している2023年ただ今の状況の中で、「そのような貧弱な情報環境に置かれることによって、もっとも影響を受けるのが、住む場所を選ぶことのできない子供たちではないだろうか、それは、極論すれば、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と謳われた日本国憲法25条に抵触する深刻な社会問題であり、改めて公共図書館の歴史と存在意義が問われているのだと思う。 本展は、戦後の図書館建築の先駆者である鬼頭梓の仕事を通して、この問いかけの共有を目的に企画された。」
これに続く、本展の開催までの経緯(松隈の私事も含めて)も驚くばかりの内容だ。よくも鬼頭と松隈との出会いがあったものだとの思いを深くする。(鬼頭事務所の閉鎖に伴い設計原図を廃棄せざるを得ないと鬼頭から聞いた松隈の依頼で、2003年、東京理科大学の山名善之助研究室に緊急避難の形で図面を預け、鬼頭没後の2009年、金沢工業大学のJIA-KIT建築アーカイブスに、遺族からの寄贈により収蔵)「こうして、本展は、このような経緯と関係者の尽力によって奇跡的に遺された同大学所蔵の建築資料を元に、鬼頭の図書館建築の全体像を紹介すべく企画されたのである。」
【鬼頭梓の求めた戦後図書館の現風景】
松隈洋(まつくまひろし)| 京都工芸繊維大学美術工芸資料館教授
展示会場では、初めて目にする原図の一つ一つに見いるとともに、4つの章の解説の文章に引き込まれた。そして、原図に添えられた松隈教授のもとで学ぶ学生たちによって新規に作成された模型の数々と、模型をつくった学生の感想の文章にも驚かされた。模型をつくることでの気づきや学びのことを、それぞれの学生が書き記していた。思い深く力ある先生のもとでこのようなことが行われていることに、大学での学びの意味を思った。
展示会場を訪れた6月1日には、まだ本展の図録はできておらず、出来上がり次第連絡を頂くようにお願いして、会場をあとにした。
わずか1日の見学であったが、今もあの日のことが私の中で渦巻いている。
さいごに、当日、会場で筆写した一文を転載しておきたい。
地下図書館を設計して 鬼頭梓
同志社大学通信特集号(竣工記念)昭和52(1977).9.5 同志社女子大学広報委員会
地下図書館が生まれた。図書館の建築は広い床面積を持った低層の建築として、十分な敷地の中にゆうゆうと羽をのばして建つのがよい。図書館の機能がそれを求めるのである。女子大のキャンパスには最早や理想的な図書館をつくるのに相応しい場所は何処にも残されていなかった。だが理想的な条件が整わないからと言って、よい図書館は出来ないとあきらめてしまう訳にはいかない。人は仮令どんなひどい状況におかれても、どんな不利な条件に囲まれていてもそこから遠くに最高の理想を求めてやまない。過密なキャンパスの中で唯一の適地として選ばれたのは、キャンパスの中で最も美しい緑の前庭であった。永く人々に愛されて来た場所丈に、そこでは十分な広さを求めることはもともと不可能だったし、又いかに小さく建てようとも、保存か開発かという現代的な矛盾にほう着せざるを得なかったのも当然であった。常識的ないくつかの案を経た後、最後に到着したこの地下図書館案に至ってようやく大学の方々の同意を戴くことが出来たのも、キャンパス内での最高の場所に、その環境に新しい形で保持し乍ら、図書館は図書館としてそれに最も相応しい平面の拡がりと空間を持つことが出来ないかという、あくことのない理想への追求がすべての人の根柢にあったからだと思う。私
たちもこの最終案に至ってようやく自ら納得したのだが、実はそこから悪銭苦闘が始まった。日本で最初の地下図書館をつくるという仕事は、際限のない不安心配危惧との闘いであった。
技術的な難題も山積していた。具体的なことはきりがないので省略させて戴くが、私たちがこの仕事を勇気を以ってなし得たのは、学長図書館長をはじめ大学の方々の深い信頼に支えられていたからである。特に総務部の房岡氏と竹中工務店の方々とは、私たちと一緒になって難題の解決に当って下さった。深く感謝申し上げる
次第である。(鬼頭梓設計事務所本学新図書館設計者)
付記
本展を見終えて会場を出ようとしたところの壁面に木製の大きなラジオ(高さ1mくらい)が5台おかれていた。壁に貼られていた説明をみると、谷川俊太朗の名前が。出口の受付にいた人に、「どうして谷川俊太郎が」ときくと、「大学の付属図書館に谷川さんのラジオがたくさんある」と。さっそく美術工芸資料館を出て、いったん外に出てから向かいの門から入って付属図書館に向かった。図書館に入ると右手に常設の形で谷川氏から寄贈、寄託?された小型のトランジスタラジオが100台以上、大学の先生の手製とおもわれる6段の棚におかれて展示されていた。いずれも外国製のもので谷川氏が長く愛用したラジオ。ノグチイサムのデザインのものもパンフレットにあった。図書館では最初にこの展示を始めた時に素晴らしい内容の数頁のパンフレットを作っていて、それを見せていただいたのだ。
このことだけでも思わぬ出来事だったのに、図書館で最初に挨拶をしていた図書館員の人が、あとからもう一人の職員を連れて来られた。その人は「私を知っていますか」と。「・・・さんですね。」最後にお会いしたのは能登川図書館でだった。滋賀の人である彼女が、程なくアラスカに行くというので、挨拶をかねて能登川図書館に来られた時にお会いしていたのだった。20年近く前のこと。その後、色んな事を経てアラスカ大学の図書館で勤務されていたことなどをお聞きした。こんなことがあるだろうか、信じられないような何ともうれしい出会いだった!
2.茗荷恭介 銅人形展【子供の時間】へ その途中の寄り道で
6月2日、京都市役所の近くにホテルをとったのは、ホテルから数分の所にある堺町画廊をまず訪ねてから銅人形展にと考えていたからだ。雨が降っていたので、コンビニで傘を買い画廊まで歩いていくと、この日を含めて何日間か、次の展示の準備等のためお休みとなっていた。伏原納知子さんにお会いしたかったなと思いつつ、それならと寺町三条の「ギャラリーヒルゲート」を目指す。大通りからアーケードに入ってすぐ、右手に古本屋があり店の前の台に文庫本などが入っていたが、その代の真ん中あたりに薄い冊子が重ねて置かれていた。岩波写真文庫だ。もしやと思って20冊くらいあるのを1冊1冊みていく、あったー!『インカ―昔と今―』。
表紙をめくると表紙裏に「アンデス地帯地図」、そして左の第1頁には、上半分に「リーマウイルソン街」の写真がり、写真の上部左側にタイトル等が白抜きで印字されている。
岩波写真文庫 197 インカ ―昔と今―
編集 岩波書店編集部 岩波映画製作所
監修 泉 靖一
写真 泉 靖一
〔 1956年8月25日第1刷発行 定価100円 〕
1頁の下段の文章のさいごの2行は、「旅行中の写真に天野芳太郎、田中利一両氏のものも加えて紹介する。」
【天野芳太郎の名前に心おどる ―『天界航路―天野芳太郎とその時代(1984年)尾塩尚 筑摩】
*泉と天野との出会いは『遥かな山やま』で触れられている。私の知人の2人がたまたまペルーで天野と出会っている。
以前、たまたま古本屋で手にした五木寛之の『大陸へのロマンと慟哭の港 博多』でだったか、敗戦直後の混乱のさなかの朝鮮と博多を活動の場として、このような人がいて、このような行動をしていたのかと、名前だけは知っていたものの、初めて知るその生き方に驚かされた人が描かれていた。泉靖一、かつて図書館員だった私には文化人類学の人としてなじみのある名前であったが、その著書を読んだことはなかった。(たしか何か1冊、積読でもっているよう本がどこかにあるように思う。)泉は「敗戦後の博多で人口中絶病院「二日市保養所」と引揚孤児施設「整福寮」を作ったが、その業績を自ら封印して、東京に去って」いるが、五木の本は泉の博多での行動にふれていた。以後私は、泉の本を手にするようになっていた。最初に読んで心打たれたのは、泉の自叙伝ともいえる『遥かな山やま』(新潮社 1971)、泉の世界にひきこまれた。そして今、図書館から借りて読んでいるのが『忘却の引揚げ史―泉靖一と二日一保養所』(下川正晴 弦書房 2017.8.5)、岩波写真文庫を『インカ―昔と今―』を手にして心おどった所以だった。
私は「岩波写真文庫」の残りのものも見ていった。またしても!
『ブラジル』(少年文庫 205)をみてもしやと思う。1頁目の写真「ポン・デ・アスーカの上からみたリオ・デ・ジャネイロ市」の上部には
監修 泉靖一
写真 安藤育三 飯山達雄 泉靖一
草野博 高木俊朗
〔 1956年11月25日発行 定価100円 〕
思いもよらぬ小さな2冊の冊子を手にして近くの「ギャラリーヒルゲート」に向かう。同ギャラリーでは以前、茗荷さんの作品が展示されていたことがある。ギャラリーの扉はしまっていて、開店は12時からとなっている。やむなく先に進むことにする。外では雨脚が強いせいか、アーケードの下でも人通りが少ないようだった。途中、錦通りの看板が目にとびこんでくる。目指すギャラリーとは遠ざかる方向だけれど、なぜかその細い小道に入ってしまった。この通りは昔々、滋賀にいた時に一度だけ歩いたことがある。道の細さもあるが、いきなり行き交う人と肩ふれあう人、人。路の両側の小さな店の連なり、エーッ、こんなお店もと歩いているだけで愉しい感じ。外国からの人も少なくない。みんな何だか楽しそう。その賑わいの中を通りのさいごまで歩き、そこから仏光寺公園の近く、高瀬川のほとりのギャラリー「高瀬川・四季AIR]を目指して歩いていく。目当てのギャラリーに近づき、川幅7mくらいの橋の上からまた、川の手前からギャラりーを眺める。川の向かいに川に沿って建てられたギャラリーの1階の展示物も目にはいる。ギャラリーは橋をわたり、左に曲がる細道に入って2軒目、静かで何とも趣のある小さな館だった。
茗荷恭介さんと6年ぶりの再会。2007年3月末で能登川の図書館を退職した時、彦根市の西覚寺の高原さんたちがお寺でお別れの会を開いてくださったのだが、それから10年経った2017年に、10年目の集いを再び西覚寺で開いてくださった。2つの会とも、滋賀県内だけでなく、県外から関西や岐阜、島根からも多くの方が駆けつけて来られた。茗荷さんとはその時以来の出会いだったが、つい最近もお会いしていたような感じでお会いしていた。
まず、作品をゆっくり見せていただく。
人の手の力、思いの深さがうみだすもの
年をかさねて 生みだされ 生まれるもの
和紙 木(流木も) 銅 鉄 明かり
それらがひとつになって かたっている
作品の一つひとつに銘されたコトバ 作品とコトバの響きあい
お聞きはしなかったが、茗荷恭介 銅人形展のなまえから きこえてくるもの
【子供の時間】・・・こどもの 時間 を心にのせて 耳をすます
手仕事の力
その人の生き方をかさねて
天候のせいもあってか、この日、私がいる間に来られた方はひとりだけだった
茗荷さんとの 天からの贈りもののような 静かで濃密な時間を さずかった
ふかい 元気を 吹きこまれた
ギャラリー四季・AIRを辞するとき
福岡、九州の地で茗荷さんの作品展をとの思いが うまれていた
美しいパンフレットに記された案内から
びわ湖岸に工房を持つ 茗荷恭介さん
鉄だけでは飽き足らず、木、和紙など「異なった素材」
を組み合わせた作品や野外彫刻などを製作。
「倉敷まちかどの彫刻展」で優秀賞」野外彫刻展in多々
良木」で大賞に輝く。高瀬川・四季AIRでは
5月 銅人形展 11月 鉄と和紙と光の造形展を開催。
高瀬川ほとりのギャラリーです
高瀬川・四季AIR
京都市下京区天満町456―27
四条河原町から徒歩7分
仏光公園近く
お問合せは 080-3761-3960
茗荷恭介 銅人形展 【子供の時間】
日時 2023年
5月27日(土)~6月4日(日)
13:00~19:00 最終日は18:00まで
ギャラリートーク 5月27日(土)14:00~
在廊日 5月27・28・29日、6月2・3・4日
春、湖畔のお屋敷で。秋、染色家の古民家で・・・。
そこで銅・木・鉄を自在に組み合わせた茗荷作品と感動の出会い。
三年越しのラブコールが実り、初夏と秋にも展覧会が実現しました。
せせらぎに波長を合わせ、作品が新たな光を放ちます。
高瀬川・四季AIR 前川八州男
能登川では、私が退職した年から3年間、3回にわたって茗荷さんの作品展を行っています。
1.茗荷恭介・乾千恵二人展 「子どもの時間」
2006年9月27日(水)~10月22日(日)
2.茗荷恭介・中野亘二人展 「響きあう時間」
2007年9月5日(水9~9月30日(日)
3.茗荷恭介・北川陽子二人展
2008年
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