2020年4月29日水曜日

苗代づくりと種おろしを終える 自然農での米づくり① No.48

昨日、4月28日、苗代での種おろしがようやく終わった。今年で14回目となる米づくり。2007年の5月、糸島に引越しをして4日目だったか、鏡山さんに引越しの挨拶にうかがったところ、「「お米をつくってみませんか」と言われ、深く考えることなく、その翌日から、標高200mの所にある
鏡山さんの田んぼの一角をお借りして、初めての米作りを始めたのだった。翌年からは、今の場所で12回、天からの授かり物とも思えるお米を授かってきた。標高50mの地にある田畑は、お借りしているもので、9年前に田畑の隣に家を建て、歩いてすぐそばにある田畑に行けるようになった。

先日来、自分もいつか農業ができたらと思っているという方から、私がどんなふうにやっているか、ネットで見れたら良いのだがと言われた。私の場合は、自然農といっても、かなりイイカゲンなやり方だと自覚しているが、それでも、よくもこのような実りを授かる
ものだとの思いを深めてきた13年間だった。

右端の電信柱の右手が田畑、手前はお隣の畑
手前が南、右手が東、自宅の東西南北に隣家なし
北側に見えるのは志摩の可也山
右手の坂を下る、右側が田畑

南側から;中央の青いトロ箱のある所に苗代
東側から2枚の田んぼを見る、右端の畑に苗代

北側から田んぼを見る
右下が苗代


西側から
苗代づくり
1、まず、草刈りから(草刈り機で)…半日がかり(4時間)



草刈り終了

中の白線部分が苗代cm(1m×5m20cm)〈4時間〉
外周の溝を掘る(モグラ対策)

掘り上げた土は、さいごは、元に戻しやすいように。



2.苗代の部分の土起こし(鍬でけずっていく) 

深い根っこはとりだす

深い根が多い
削り取った土を両手でほぐす
昨年収穫して保存していた種もみ


種もみを見ずにつけ、沈んだ種を使う 



「日のひかり」と「ニコマル」


実際に使うのは4分の1

3.まいた種の上に、種が見えなくなるように土をかぶせる

まいた土の上から桑の裏側でたたいて地面を固める


藁を細かく切ってかぶせ
4.さいごにネットをかぶせる(鳥やアナグマなどの対策)

以上で「種おろし」完了。
おおよそ、写真の解説の手順で作業を行いました。

家の周り、田畑の回りは花盛り‼
















カラスが食べ物の催促に


ブルーベリー








2020年4月22日水曜日

「図書館フレンズいまり」の会報に原稿を投稿  No.47

伊万里市民図書館を守り育てることを目指す友の会、「図書館フレンズいまり」の会の方から、同会の会報への原稿の依頼があり、期限ぎりぎりに原稿をお送りした。今回は、「図書館特集」ということで、示されたテーマは、「昨今の図書館事情」だった。図書館を2007年3月に退職してまる13年になるので、まさに”昨今の図書館事情”にうといこと、このうえない。そういう者の一人として

昨今の図書館事情             才津原哲弘

 2007年3月に図書館を退職後、糸島に移り住んで13年になります。1972年(昭和47年)に千葉県内の市立図書館で図書館員となり、以後、福岡県や滋賀県の5つの図書館で働いてきました。退職後の13年の間に図書館の現場では、図書館のいのちともいえる資料費のすさまじい削減や、その活動を支える正規職員の削減と非正規職員の増加、そして行政の責務を放棄して、図書館の運営を民間に丸投げしたと思われる指定管理者制度の導入館の増加など、図書館を取りまく環境が一層の厳しさを増しているように思われます。
最近のことでは昨年の2019年6月7日、公民館、図書館、博物館などの公立社会教育施設の所管を自治体の判断によって教育委員会から首長部局に移すことを可能とする法律が施行されました。移管によって、観光・地域振興やまちづくりを首長部局で一体的に所管することで、「文化・観光振興や地域コミュニティの持続的発展等に資する」ためとしています。
作家の池澤夏樹氏が英文から訳した(新訳「日本の憲法」)では、「第二五条 人はみな
平等に教育を受ける権利がある。それぞれの能力に応じた教育を法律は容易する。」(『憲法なんて知らないよ』集英社)とあります。義務教育が無料であり、公立図書館が
無料であるのも、《すべての人に教育を》を、実現し保障するための2本の柱であり、憲法と法律「図書館法」によって定められています。「すべての人が」だれでも図書館を利用できるためには、住民の生活圏(中学校区)に図書館が必要です。2つの小学校区、人口2万人、半径800mに1つの分館をという3つの原則で図書館整備計画をたて、人口23万人で中央図書館と分館10館(その市では公立小20校、公立中8校、市民1人当り11.4点貸出)という滋賀ある一方、全国の中学校設置率(中学校と図書館数が同じ場合=100%)は34%(2015年度)です。
身近に図書館がないため教育を受ける権利を保障されていない人への計画的、長期的取り組みが、多くの図書館が直面している喫緊の課題であると考えますが、図書館を首長部局に移管する構想にはその問題意識はまったく見られません。「市民一人ひとり、そしてみんなの図書館」への道は、それを求めて学び行動する市民と行政の不断の努力にかかっていると思います。

 

《図書館フレンズいまり》のホ―ムぺ―ジより  


 図書館フレンズいまり 図書館フレンズいまり
 事務局/佐賀県伊万里市立花町4110-1  伊万里市民図書館内


 


図書館フレンズいまりは、1995年(平成7年)9月に発足しました。
 前身は「図書館づくりをすすめる会」(1986年から1995年。新図書館の開館とともに解散)です。
 伊万里市民図書館を守り育てることを目指す友の会で、
<協力と提言>を旗印に図書館のパートナーとして活動を展開しています。
また、多くの図書館ボランティアとの緩やかな連帯を保ちながら、
フレンズの活動に添ったグループには、フレンズから独自の助成金を出しています。
 現在の会員数は359名(役員22名)。(令和元年7月現在)
※詳しい活動については図書館フレンズいまりのブログをご覧ください。(外部サイトへ移動します)
主な活動(各委員会ごとに)
イベント
図書館☆(ほし)まつりへの全面協力・図書館めばえの日(ぜんざい会)・古本市・かるた会・俳句まつり
美化
公開書庫の整理・季節の花苗手入れ・その他
フレンズコーナー
図書館紹介資料・図書館バッグ・古本・手作りグッズ等の販売
広報
会報(いすの木)発行-年3回-
インフォメーション
図書館視察者への対応・講演、学習会等の企画
年間の定例活動
行事内容備考
4月会報いすの木発行
古本市(図書館記念日)

私たちの図書館を守り 育てるために図書館を語ろう会
 他の図書館の見学と交流会
 

毎月第2水曜日
   役員定例会
5月総会
6月
7月図書館☆(ほし)まつり
(俳句まつり・古本市)
8月会報いすの木発行
9月
10月
11月古本市(文化の日)
12月会報いすの木発行
1月新春かるた会
2月めばえの日(ぜんざい会)
古本市
3月



 図書館フレンズいまりの活動
 -図書館のよき友として図書館を守り育てるための活動-

 1. 図書館を多くの人が利用し、また楽しむための企画
 2. 図書館ボランティアへの助成と活動の支援
 3. 図書館をよりよく理解するための学習と図書館との話し合い
 4. 図書館グッズ等の販売と図書館への還元
 5. 5つの委員会に分けた具体的な活動
 6. 図書館ネットワーク充実に向けた取り組み

 



 問合せ/伊万里市民図書館内 図書館フレンズいまり              
(0955-23-4646 直通の電話はありません)

            





2020年4月19日日曜日

「美しいお花が届けられる図書館」から、臨時休館の知らせ   No.46

前々回紹介した、「連日、美しいお花が届けられる図書館」から、臨時休館のお知らせをいただいた。
4月16日、政府による緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大された日の翌日。臨時休館を決定したとの連絡。4月20日(日)~5月6日(水)の期間。この間、予約貸出のみ、玄関で受け渡し。セット貸出などは現在準備中。準備出来次第公表の予定。
ご連絡へのお礼の便りにかえて。

春の花々が届けられる図書館からの臨時休館【4月20日(日)~5月6日(日)】の知らせをうけて

 「花はいいねー」、「本はいいねー」、「図書館はいいねー」の言葉が行き交う図書館から、臨時休館の知らせをいただく
どんなにそのことを残念に思う人たちがおられることだろう

「とても残念なことですが、臨時休館が決定してしまいました。」との
図書館員の方の言葉の肩越しに、心はずませて、図書館にきていたひとたち
図書館を”わたしの場”、”みんなの場”としていたのひとたちの
落胆の声が聞こえるようだ

だがしかし
連絡してくださった図書館員の方から
静かな深い元気を授けられたようにも感じる

「とても残念ですが、、・・・」にこめられた深い悲しみ
そして、
「本当に、大変な状況となっていますが、
できることを模索し、
丁寧に行っていきたいと思います。

才津原さんも
どうかお元気でお過ごしくださいませ。

 勢和図書館  ・・・」

「できることを模索し、丁寧に行っていく」

このことこそ、いま、もっとも大切なことではないか
そして、「丁寧に」にというのは、地域のひと、一人ひとりみんなに、ということだろう
一人ひとりにできることを、考え、模索し、
一つひとつ、行っていく

図書館が臨時の休館となっても
この図書館では
一人ひとりの心に灯を灯す試みが
一日一日、ていねいに行われるだろう
地域(コミュニティ)のオアシスとして
いつでも泉の水が流れだすための
心つくした取り組みを重ねて
開館の日に向かわれることだろう

ご連絡の言葉から
そのことが
まっすぐ
伝わってきた

勢和図書館は 今の今も
けっして閉じられていない
地域の一人ひとりみんなに寄りそう
地域に開かれている図書館だと思います。

林さん
みなさんも
どうかお元気で
他日 また
        2020.4.19

ブルーベリー畑で




庭先で・シロツメクサとカラス










2020年4月9日木曜日

4月9日は、井上ひさしさんが亡くなられて10年となる日だった。  NO.45 

そのことを長野ヒデ子さんが知らせてくださった。本棚から井上さんの本を何冊か取り出してくる。どの本から読もうかと手にした本の中に、中村哲さんの名前をみつけた。

『井上ひさしの読書眼鏡(どくしょめがね)』がそれだ。奥付けの著者紹介の末尾に、「2010年4月永眠」とある。井上さんが亡くなられて、1年と半年後に出版されたこの本は、読者にとっては、井上さんから贈られた遺書ともいえる1冊だ。

『井上ひさしの読書眼鏡』井上ひさし 
中央公論新社 2011年10月10日
編者がこの1冊の本づくりにかけた思いが、この本をつつむ帯の言葉に現われているように思われる。編者が心をこめ、考えに考えて作ったと思われる帯には、その表、背、裏に、読者をひきつける言葉が書かれている。

まず、「背」には、「面白い本を 深く読む」、
「表」には、「井上ひさしが 見出した、面白い本、恐ろしい本。」、その下に小文字で、”『読売新聞』連載、遺稿となった書評集” とある。

そして、帯の「裏」側には、「◉―目次から」として、本文に34ある小題の中から11の小題を抜き出している。 (注:【 】は筆者による)



・不眠症には辞書が効く 大江(健三郎)式就眠法で不眠症退治;その日に届いた本を三つの山に。
                 →①すぐ読む②そのうちに読む③いつか読む。「読み終えた本→①机の近
                 に②後日のためにに書架に並べる③郷里の図書館、遅筆堂に送る。」】
                 タメになる井上式、本の読み方    
                 
歴史教科書、徹底論議を 【書抜き帖=「うむこれは、と思った文章を書きとめておく」】
絶望からつむぐ希望の言葉言葉の力・・・絶望から希望鵜をつむぐ
本当の学問の方法とは  【二十一世紀を生きるための倫理をつくりあげること
一憲兵がとった責任とは   ”だまされていたという自分の愚かさ”に対する責任

現実を正しく見るために 
「私たち読者「(注、=「普通の日本人」)は普通、それぞれ目の前の小さな世界をただ一つの現実と見なして、それに懸命に働きかけながら、家庭や小さな共同体や仕事場で、必死に生活しています。

そこで、わたしたちには、現実の全体を見渡して、
「大きな現実と、あなたの小さな現実は、これこれこういうところがずれていますよ」とたえず忠告してくれる人が必要です。この役目を果たしてくれるのが、じつは考える人たち(思想家や学者)です。

ところが、不幸なことに、考える人たちの表現はおしなべてむずかしい。大きな現実は日常語では捕まえにくいので、自然にむずかしくもなるのですが、現実を鋭く分析し、かつ深く洞察しているのに、その表現が読者の手元に届かない。つまり、わたしたち読者と考える人との間には途方もない距離がある。
これがいまの日本の不幸な思想的現実です。
[この途方もない距離を深く認識し、体感して、本と読者をつなぐことが図書館員の仕事だ。図書館の役割❢]

もちろん、考える人たちの中には、さまざまな工夫と苦心を重ねながら、送り手と受け手との距離を縮めようと
腐心している人たちもいて、決して悲観することはないのです。
現にここに二人、現実を正確に見たいという読者の願いを真っ正面から受けとめて、目ざましい結果を出した考える人たちがいます。(『見たくない思想的現実を見る』金子勝・大澤真幸、マサチ)岩波書店】

この本のいたるところにちりばめられた鋭い分析力と深い洞察力に強く引き込まれ、「できるところから、いますぐなにかやらないと……」という、目の前の現実に働きかける力を体中に浴びたような気がしました。

考えるひとたち”の役目――「現実を正確に見たいという読者の願いに応える」・・・図書館の役割》

・この世の核心とは何か
【 大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社)〈私は私自身を救助してやる!〉
人間は、自分で自分自身を救助しなければならない。たしかに、この世のを少しでもましな方向に進めて行くぬはこれしかない。
毎日、何度となく、「万事において、ひるむな」と自分に声をかけながらなんとか生きているわたしには、これはまたとない励ましでした。もちろん、読者はそれぞれ別に真実を発見なさるでしょうが、とにかくわたしは古義人の子の叫びに力を得たのです。
・よりマシな世界のためにわたしたちが少しでもマシに生きるなら、世界もその分だけ変動す
・怯える前に相手を知ろう 
「国民を怯えさせる」という政治的普遍性(世界の骨組み)を見極める。相手をよく知ること、とことんま
で相手を知ること。】

・弁護士になりたくなった 
【「記述がいちいち具体的で、その上、おかしなエピソードが続出して、何度も笑い転げて仕舞いました。(文章の要諦)・恐ろしことも書いてある。裁判所には、本来の正義観のほかにもう一つの絶対の基準がある。それは裁判所が考える正義、不正義である。・・・〉

・過去を究めて未来が見える
【半藤一利さんの『昭和史』(平凡社);「文体が口語体なので読みやすく、分かりやすい。もちろん昭和史についての名著は多いのですが、あるものは資料満載でむずかしく、あるものは完結すぎて抽象にすぎる。普通の日本人が普通の日常生活の中で普通に読めて、この先の生き方の糧になるようなものは、なかなか見当たりませんでした。この『昭和史』は、わたしたちのその要望にみごとに応えてくれます。たくさんの資料をしっかり詠み込んだ上で、そのエッセンスが読みやすい文体にどのように実現しているか、その例を一つだけ引きましょう。」【ドンドン、引きこまれていく文章だ。】

「山のような資料をよく噛み砕いて、呑み込みやすくして読者に与える。しかし、偏(かたよ)らない立場から昭和史の勘所はしっかりと押さえておく。こうして、日本人の死者三百三十万人、外国人の死者はそれをはるかに超したあの戦争の顛末が(てんまつ)、読者の胸にすっきりと入ってきます。これは疑いもなく一つの偉業でしょう。」

引用が少し長くなるが、いま、コロナ禍の真っただ中にいるわたしたちに井上さんが書いているのではとも思われる文章を続けたい。

「では、あの悲惨な戦争からわたしたちはなにを学ぶべきか。」
たとえば、国民的熱狂をつくるな、国民は決して時の勢いに駆り立てられてはならない。というのは「国内情勢が許さない」という口実で権力を持つ人たちが、ときにとんでもない暴走を始めるからです。

またたとえば、現実を無視して、物事は自分の希望するように動いてくれるなどと考えるな。〈ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込み‣・・・・〉になってしまうからです。

そしてたとえば、国際社会のなかの日本の位置を客観的に把握すること。でないとあらゆる判断が独善に陥ってしまうからです。
この一つ一つが、今のわたしたちにも、進むべき道を明らかに示しています。過去を究めてこそ未来が見えてくる・・・・・・この本の主題は、おそらくこれにちがいありません。【そして、それはほんの主題にとどまらず、わたしたち一人ひとり前に置かれている主題〈問いかけ〉でもある】(2004年4月25日)

本文からすこし離れて

どの章も、面白くてタメになる文章で、思わず、その一冊一冊を手にとりたくなる。
(図書館で見る、まずリクエストをする。手元にと思うものは購入する) 
この小題をみていると、井上ひさしさんの生涯の軌跡がうかびあがってくるようにも思う。ふと、井上さんの座右のコトバが思いうかぶ。

むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

これは井上さんが座付作者であった「こまつ座」が刊行していた演劇季刊誌「the座」の1989年版(1989.9)に掲載されたものだ。
[”劇場の構想を練っていた時の回想とともに、「むずかしいことをやさしく・・・」という呪文のような長い標語をこしらえたのも、そのころのことでした。”〈『井上ひさし伝』桐原良光.白水社2001〉]
「この呪文のような長い標語」が生まれる以前も、そして生まれてからも、井上さんの書くものの根底には、いつも「むずかしいことをやさしく」から「そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」があったように思う。

後日、井上ひさしさんが、色紙に書かれていた言葉を知らされる。
 
 むずかしいことをやさしく
 やさしいことをふかく
 ふかいことをゆかいに
 ゆかいなことをまじめに
        書くこと

井上さんの声が きこえるようだ

「言葉」に対する深い関心、生涯を通して言葉について考え、考え続け、「言葉の力」を読者に手渡してきた井上さんの足跡を思い返すと、最期の病床までも、「心血をしぼって、…人生を賭けて、様々な工夫や仕掛けを考え出し、この世の核心に迫ろうとしてきた」75年の歩みのはじめに、いったいどのようなコトバとの出会いがあったのだろうと思う。

はじめて「言葉」に出会ったのは

井上さん自身が、「言葉(言葉の力)」に出会ったのは、「一九四六年(昭和二十一年)の四月、国民学校六年生になってすぐのこと」だったといえるのではないか。その年、12歳の少年は「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の判断で、しかも貯めておいた自分の小遣いで買った」のだった。
その単行本というのは中央公論社から出た「ともだち文庫」第一回配本の『どんぐりと
山猫』で、定価は七円五十銭、十二キロほど離れた米沢市のヤミ市では万年筆が三十円だったから、この七円五十銭は決して安くはない。」(略)

郵便為替を送って取り寄せた、「自前で買い求めた最初の書物」を、
「読み終えたとき、わたしはぽかんとしていた。そうか、そうだったのかと感心し、それでぽかんとしていた。その町【注:井上さんが生まれた町】山とほとんど接しており、わたしたちは日課のように浦山へ出かけて行き、枝を渡る風の音や、草のそよぐ音や、滝の音を頭のどこかで聞きながら遊んでいた。しかし、それまでわたしたちは、風が「どう」という音で吹き、草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、くりの実は「ぱらぱら」と落ち、きのこが「どってこどってこ」と生え並び、どんぐりのびっしりとなっているさまを音にすれば、それは塩がはぜるときの「パチパチ」と共通だ、とは知らなかった。

加えてわたしたちは、秋の、晴れた日の山のすがたを〈なんともいえずいいものだ、とても気分がいいものだ〉とは思っていたが、その気分を「まはりの山は、みんなたつた今できたばかりのやうに、うるうるともりあがつて【実際の表記は傍点:以下同じ】、まつ青な空の下にならんでゐました」と、しっかりコトバでとらえられるとは思っていなかった。〈なんともいえずいいもの〉だからなんともいえない、つまりコトバではつかまえられないのだ、と考えていた。

しかし、ここにわたしたちがなんといっていいかわからなかったものに、ちゃんとコトバを与えている人がいる。それに感心し、ぼうぜんとなったのである。むろん国民学校六年生のときにしかと右のように考えたわけではない。そのときの〈ぽかん〉を、いま、整理して表現すればそうなるだろう、といっているのだ。

三十一年たったいま(一九七七年)読み返してみて、賢治がまことに周到な計算のもとに擬声語を使っていることに気がついた。この、短い作品のなかには五十五個の擬声語が用いられているが、主人公である人間の一郎のためには、わずかに「眼がちくつとしました」「汗をぽとぽと落ちしながら」「ぎょつとして」の三個が用意されているだけである。

残りの五十二個は、風に草の「ざわざわ」と鳴るうつくしい黄金(きん)色の草地におうように立って、陣羽織を「ばたばた」させながらマッチを「しゆう」とつけ、煙草の煙を「ふう」と吹き、ひげを「ぴん」とひねる、あの山猫を大将とする〈大自然〉のために充てられている。

賢治は、生きものや、山や、草や、光や、風を擬声語でとらえたわけだが、彼はこの方法で、周囲の自然をどう名付けてよいのか(つまりどう認識すべきか)わからないでいた山間(やまあい)の小さな町の子どもに、自然との関係のつけ方をたくみに教えてくれたようにおもう。

この書物がすっかり気に入ってしまって、わたしは家にあった蔵書員をトビラに押し、〈ひさし一号〉と書き入れた。そしていまだに所持している。
 
([わたしと賢治 忘れられない本――『どんぐりと山猫』]朝日新聞1977年10月10日:『宮澤賢治に聞く』井上ひさし こまつ座編・著 ネスコ 文藝春秋‣発売 1995)

井上ひさしさんと宮澤賢治の生涯にわたる出会い、12歳のときの『どんぐりと山猫』での賢治さんとの出会い以来、井上さんの傍らにはいつも宮澤賢治という人がいたように思う。同じ道をともに歩く同行者であるかのように。
その井上さんが語る中村哲さんとはどんな人だったか。

”世界の真実、この一冊に”

『井上ひさしの読書眼鏡』の本の帯には書かれていなかったが 、この本のなかで、中村哲さんの著書について書かれた文章の小題が「世界の真実、この一冊」だ。末尾に2001年10月28日と、新聞掲載の日付が記されている小文は次のように始まっている。

 「ごく稀(まれ)に、「この一冊の中に、この世のあらゆる苦しみと悲しみ、そして
喜びがこめられている、ひっくるめて、世界の真実のすべてがここにある」と、深く感銘をうけ、思わず拝みたくなるような書物に出会うことがあります。中村哲さんの『医者
井戸を掘る』(石風社)は、まちがいなく、その稀な一冊でした。」

以下、井上さんの言葉と、井上さんが『医者 井戸を掘る』から引用した文章が続く。

「 中村さんは一九四六年、福岡市の生まれ、ここ十八年間、パキスタン北西の辺境州の州都ペシャワール市を拠点に、ハンセン病とアフガン難民の診療に心身を捧げている医師で、略歴にはこうあります。」

井上さんの研ぎすまされた文章に続き、引用された中村さんの文章が〈  〉の中に示される。

〈 パキスタン側に一病院、ニ診療所、アフガン国内に八診療所を持ち、年間二〇慢人を診療するNGOペシャワール会の現地代表 〉

「この中村さんが日本の青年たちや現地七百の人たちと、アフガニスタンに、千本の井戸をほることになったのは、昨年夏にユーラシア大陸中央部を襲った市場空前の大旱魃(だいかんばつ)のせいでした。その被害はアフガニスタンにおいてもっともひどく、〈千二百万人が被害を受け、四百万人が飢餓に直面、餓死寸前の者百万人と見積もられた(WHO,ニ○○○年六月報告)〉

「幼い子どもたちの命が赤痢にの大流行で次々に奪われて行くのを診療所で目撃した中村さんは、その原因が旱魃による飲料水の不足によることを突き止め、こう決心します。」

〈医師である自分が「命の水」を得る事業をするのは、あながち掛け離れた仕事ではない……〉

「こうして中村さんには、もちろん診療行為をつづけながらですが、有志と力を合わせて、必死に井戸を掘りはじめる。これはその一年間の苦闘の記録です。
すぐれた書物はかならず、巧まずして読み手の心を開かせるユーモアを内蔵しているものですが、ここにもたくさんの愉快なエピソードがちりばめられています。
たとえば井戸を掘る道具がそう。・・・・・・ 〉 
(愉快なエピソードがどんなものかは、実際に本を手にしていただきたい。)

そして井上さんの核心的な問いかけのコトバがつづき、再び、中村さんの心に刻まれた痛切な言葉が引用され、ついで井上さんの読者の心の奥深くに届く結語の言葉でむすばれる。

中村さんたちの得た報酬はなにか。現地の作業員が一人、亡くなったことがある。
滑車で跳ね飛ばされて、井戸の底に墜落してしまったのだ。お悔やみに出かけた中村さんたちに、作業員の父親が云う。」

〈「こんなところに自ら入って助けてくれる外国人はいませんでした。息子 はあなたたちと共に働き、村を救う仕事で死んだのですから本望です。すべてはアッラーの御心です。……この村には、大昔から井戸がなかったのです。皆汚い川の水を飲み、わずかな小川が涸(か)れたとき、あなたたちが現われたのです。しかも(その井戸が……引用者〈井上〉注)一つ二つでなく八つも……。人も家畜も助かりました。〉

「こういう言葉を報酬として、そしてそれに励まされながら、中村さんたちは井戸を掘りつづける。読み進むうちに、わたしはひとりでに、アフガニスタンの全土のポンプが立ち並ぶ日のくることを祈っていました。この無償の行為が天に届かぬはずはない。
(ニ○○一年十月二十八日)」

『井上ひさしの読書眼鏡』、その他の小題から

先にこの本に、ぜんぶで34ある小題のうち、帯に題目が書かれていた11の小題についてふれたが、その他の23の内容も、いずれもきわめて面白く、これはぜひ読んでみたいと思われる驚くばかりの書評だ。一冊一冊について、その本の核心が鮮やかに読者の眼前に差し出されているように思った。しかも一冊の本の核心(最も大切な要点)を簡潔に明瞭に書きながら、同時に井上ひさしという作家の核心(要のところ、もっとも大切に考えていること/根本的姿勢とでもいうもの)が書かれているように思われた。このため、一つ一つの、文章としては短いといえる小題の一編一編ごとに、ノートに書きとりたい言葉が目にとびこんでくる。そのいくつかをアトランダムに、順不動でメモしておきたい。

・真に「新しい人」とは・・・大江健三郎さんの新作『二百年の子ども』(中央区論新社)
「どんな時代であれ、またどんな所であれ、〈国家につかえる国民を作ろうとしている。計画し、仕込み、ひとつの方針の教育をして、社会の仕組みや経済にそのままついてくる国民を育てている。……いつの時代にも、政治の世界や実業界や、マスコミで権力を握る連中は、この種の「新しい人」を作ろうとするんだよ。そして、こういう「新しい人」がつかえて繁栄した国家は、いつの時代にも永続きしなかった。周りの国々を悲惨なことにした上で、滅びた。……ところがいままた、もう一度やろうとする連中が出て来てるんだ。〉

「では、作者のいう真の「新しい人」とはどんな人か」

「たとえば、〈……いまを生きているようでも、いわばさ、いまに溶けこんでる未来を生きている。過去だって、いまに生きる私らが未来にも足をかけてるから、意味がある。思い出も、後悔すらも……〉と考えている人。」

「そして、決定的なのは、〈ひとり自立してるが協力し合いもする〉という定義。
さあ、ここで必要になるのは一にも二にも言葉です、わたしたちは言葉をはっきりと使って頭の中を整理することで自立する。また、他人と協力するにも、はっきりした言葉やものの言い方が大切です。」

〈私は文学論のような本で、「表現する」とい言葉をarticulateと書いてきた。関節を区切るようにものをはっきり言うこと、明瞭にひょうげんすることをいうこの言葉が、私の根本にある。〉(十一月二十六日付読売新聞)

「そういえば、「人間の言葉」のことをarticulate speechと云いますが、つまりこの新作の底に流れているのは、いまこそ、あらゆる局面で、明瞭な言葉ではっきりと自分の意見を言うべきときではないかという大江さんの強い意志ではないでしょうか。」


(ニ○○三年十一月三十日)

・日本語をじっと見れば ・・・大野晋『日本語の教室』(岩波新書)
〈つまり事実を徹底的に重んじる精神、真実に誠意をもって対する精神を、確実に日本人の規定に据えて文明に向き合う必要がある。それは最も基本的に、「物事をじっと見る」ことから始まると私は考えています。日本人は「物事をじっと見て、全体像を組織的に把える習慣を欠いている。〉

「物事をじっと見るとは、〈手に取って集めること、選び出すこと、言葉を選ぶこと、言葉の筋を立てた論述から、論理へ、理性へ……〉進むこと。じつは、これこそが大野さんの学問の手法なのですが、・・・」

・読書で学ぶ母語の基礎・・・山本麻子『ことばをきたえるイギリスの学校』
〈「母語としての英語がすべてのきほんですからね、数学もじつは英語として教えているのですよ」(オーストラリアの首都キャンベラの、ある公立中学校を、〈井上さんが〉見学した時のこと、数学の小試験の最中で、黒板には、「ピタゴラスの定理を文章で説明しなさい」と大書してあった。先生に、数学というよりは英語の試験ですねとたずねると、答えはこうでした。)

「母語としての英語がすべての基本ですからね、数学もじつは英語として教えているのですよ」
「つまり、数学や理科も歴史も、じつは母語を教えるためにあるのだという考え方。
もっと言えば、生徒のだれかが数学者や科学者になり、自分の発見や研究を世の中に向けて発表して、そのことで社会にいささかでも貢献することになったとき、やはりまず母語でそれを行うわけで、だからとにかく義務教育では母語を徹底的に鍛えようという姿勢です。

のちにわかったのですが、この姿勢はたくさんの国に共通していました。母語を軽く扱っているのは、わたしたちの国くらいのものでしょう。母語の日本語もまだちゃんと使えない子供に英語を教えようだなんて、とても正気とは思えません。」

「英国のレディング大学で教えておいでの山本麻子さんの『ことばを鍛えるイギリスの学校』(岩波書店)は、英国もまた「母語がすべての基本」という姿勢をとっていることが、とてもよくわかるように書かれたすばらしい報告書です。」

「子どもは話すことによって学ぶ」というのも英国の義務教育の基本の一つ。そして、よく話すには、よく聞きよく読まなければならないという哲学から、読書が奨励されているのですが、その方法がおもしろい。その中から一つだけ消化しますと、「リーディング・マラソン」というのがある。・・・」(続きは本を手に取られて・・・)

「子どもに本を読む習慣をつけ、読む楽しみを味わってもらい、読書を通して社会に貢献することを教え、そして近隣とつきあうこつを授けるなど、大人たちの知恵の深さに感心しました。わたしたち日本のおとなはまだ知恵を出し渋っているのかもしれません。
(ニ○○三年七月二十七日)

手元のノートには、もう少し簡潔にしてだが、まだいくつも引用の言葉が記されているが、このあたりでとどめておきたい。

編集者の力

一冊の本が生まれるには著者はもとより、多くの人が関わっていて、それぞれの場(部署・持ち場)で力をつくされている。そのことについては、本ブログNo.34で三輪舎から発行されている『本を贈る』の紹介の際に触れている。

なかでも、編集者の役割の大きさを思う。『井上ひさしの読書眼鏡』を手にし、時折り読み返すたびにその思いを深くする。よくも、読売新聞に連載された、これらの文章を一冊の本にしてくださったと。編集者がこの連載を見つけ出し、本にしようと思いたたなければ、あるいは生前の著者に本にしたいと伝えていなければ、今、私の目前にある本として手にすることはできなかっただろう。

実際にこの本を手にし、表紙をめくり、標題紙をめくり、目次、本文、さいごの頁の「初出誌」、そして「奥付け」のどこを見ても、編集者の名前は記されていない。本によっては著者が「あとがき」などの中で編集者の名前を書きているものもある。しかし、この本の場合は著者の没後に出版されたもので、本書には「あとがき」はない。

この本を手にして私が驚いたのは、本文ともいえる新聞に連載された文章そのものの面白さであるが、さらに驚きを深くしたのは、本文に続いて収録、掲載されていた2人作家についての文章の面白さだった。よくも、これを加えてくださったと思った。
「初出紙誌」にはこうある。

井上ひさしの読書眼鏡 『読売新聞』二○○一年一月二十八日~二○○四年四月二十五日
米原万里の全著作 米原万里展「ロシア語通訳から作家へ」図録、ニ○○八年十月、
 NPO法人遅筆堂文庫プロジェクト
藤沢さんの日の光 文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』二○○五年九月、文藝春秋

「米原万里の全著作」と「藤沢さんの日に光」、そして井上さんと図書館のことについては稿をあらためることに。





ピースウォーク京都『中村哲さん講演録』続き(2)「質疑応答」に感動 No.44 

前々回、「ピースウォーク京都」が出版した『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告』(2002.2 以下、『講演録』という)について記したが、いくつかのことを追記しておきたい。講演録を再読して、いくつもの驚きがあった。本の作り方にあらためて、目をみはった。

前回は2001年12月9日、京都ノートルダム女子大学ユニソン会館で行われた中村哲さんの講演の内容などを紹介したが、『講演録』全体の構成がどんなものか、目次を見ていただきたい。

目次
はじめに
 講演録
Ⅰ アフガニスタンというところ
Ⅱ ペシャワール会の歩み
Ⅲ 旱魃と空爆
Ⅳ 質疑応答

参加者の声
 資料編
年表
「アフガンいのちの基金」報告
「緑の大地」計画
中村哲氏 著作紹介
中村哲氏 略歴
ピースウォーク京都の井戸端会議
ペシャワール会連絡先

質疑応答について
2003年、京都で初めて中村さんの講演をお聞きしたとき(論楽社とノートルダム女子大学)、深い感銘をうけたのは、講演はもとよりのことであるが、講演に続いて行われた質疑応答でのやりとりだった。中村さんの講演でも、随所に深いユーモアを感じ、思わず笑いと共に耳を傾けていたが、質疑応答の場では、会場からたびたび笑い声がきかれた。厳しいお話の内容であるにも関わらず。このようにユーモアを体現した人に私は、その時初めてお会いしていたのだと、今にして思う。

翌年の5月1日、琵琶湖の畔の町、能登川で開いた宮澤賢治学会の地方セミナーでの中村さんの対談者である井上ひさしさんは、その作品や生き方のなかで、とりわけ大切にされたのが、笑いとユーモアであったと思う。(「ひょっこりひょうたん島」・・・)そのお2人の講演と対談であったから、参加された人にとっては、心に刻まれる時空を笑いとともに手渡された場であったように思う。

その後、私が図書館を退職してからは、福岡市の西南大学や京都市のノートルダム女子大学での現地報告会、そして最後の場となってしまった昨年の糸島市での講演会などで
中村さんのお話をきく時を授かったが、いずれの時も、参加者一人ひとりの心をひらくかに思われる笑いがそこに生れていた。そして、どのような質問にも、質問した人にだけではなく、その場にいる一人ひとりの心の奥ふかくに届く言葉が語られていたことを、あらためて思い返す。

『講演録』での「質疑応答」から (2001年12月9日)

質問1 〈活動の源は〉
ただいまの講演を聞きまして、本当に感銘をうけました。私のような凡人からしますと、中村先生は、ただただ、どえらいことをやっているとしか思えません。今の日本の社会では、普通、医学部を出てお医者さんになれば気楽な生活ができるわけですが、そんな立場にありながら、アフガニスタンという気候的にも政治的のも生活のうえでも、非常に厳しいところにおいでになって、一七年以上にもわたって頑張ってこられている。いったい、その源は何なのでしょう?新年とか、信仰とか、人間に対する愛着とか、ご自身のうちで何か核になるようなものがおありなんでしょうか?

中村  〈三無主義・「縁(えにし)」について〉
わかりやすい話としては、中村哲という立派な聖人がいて固い信念を貫き通す、それにみんなが共鳴して仕事が盛り上がっていく――こんなところでしょうが、実際には、そう簡単な図式で割り切れるようなものではありません。何かをしようと思って、そのとおりに事が運ぶというのは、実はほとんどなくて、現実には、逆に、何かをしたくなくてもやらざるをえないという倍のほうが圧倒的に多いのです。私も、最初に現地に行ったのは、山登り屋としてでありました。山岳隊員としてパキスタンに逝って、その後、ふとした縁(えん)から医師としての赴任を依頼されて参ったというのが実態であります。

残念ながら、私にこれといった信念はございません(笑)。何かあるとすれば、それは、医療関係者のはしくれとして、命を大切にするということだけです。ちなみに、私の主義を申しますと――、三無主義、すなわち、無思想、無節操、無駄というものであります(笑)。
無思想というのは、我(が)を通すために特定の考えや思想に執着しないということ。
募金にしても、右翼から左翼まで、宗教も仏教、キリスト教、イスラム教、その他、いかなる宗派も問わず、いろいろな方からいただきます。これが無節操でありまして、要するに、だれからでも募金をいただくということであります(笑)。
 (略)
貧しい人に愛の手を、といった惨(みじ)めったらしい募金だけはするまい、しかし、くださるという方ならだれからでも、たとえ乞食からでも、お金をいただく――これが無節操の姿勢です。

三つ目の無駄というのは、試行錯誤(しこうさくご)を恐れないということです。これまで、いろいろな大きな国際機関の活動を見てまいりましたが、ああいう機関は、現実に失敗しているのに、なかなかそれを失敗だと認めることができないんですね。面子(めんつ)を立てる、そのために失敗を飾ってしまう。しまった、これは失敗だ、次はこうしようということが素直に言えない。そのために、嘘に嘘を重ねていくということが日常化してしまっている。
私たちの場合は、過(あやま)ちは積極的に過ちとして認めて、うろうろと試行錯誤を繰り返しながら何かをやっていこう――これを常に意識において、実際の活動に取り組んでおります。

私がなぜああいう場所に行ったのかというと、これは出会いの連続でありまして、縁(えん)によって結ばれたとしか言いようがありません。
(略)
私たちがアフガニスタン、パキスタンという異国で仕事をしていることに対して、日本にも困っている場所はいくらでもある、離島があり、お年寄りの医療の問題もある、それなのになぜ外国なのか、といった質問もむけられますが、結局のところは、何kがあるから何かをする、どこかに行く、といった、論理的な話ではないのですね。要するに、私たちは、えにし、縁によって、現在、アフガニスタン、パキスタンとかかわりを持っている――そういうことです。これにあと、しいて言うならば、三無主義と命を大切にするという一致点が加わって、現地と日本が心を合わせて仕事をしているということになryでしょうか。
まあ、こういう話はだんだん宗教じみてきますから(笑)、このあたりにしておきたいと思います。

質問6 〈マスコミの報道について〉
先日のニュースで、ブッシュ大統領が「アフガニスタンを解放する戦いは終った」というふうに言っていました。現在は、他民族が参加する新しい政権を作るということで、マスコミでは、もうすべてが解決したという報道も一部にはあって、正直なところ、何が正しいのかよくわからないというのが実感です。こういったことについて、中村先生はどんなふうに感じておられるのか、お聞かせいただけますか?

中村
報道の問題については、私も言いたいことがたくさんあります。まず、現地から帰ってきて驚いたのは、日本の新聞やテレビの報道は実状と全然違う。日本じゅうが一種の報道管制のもとにあるような気がいたしまして、まあ、これが原因か結果なのかは別として、とにかく、日本では間違ったイメージの中でアフガニスタンがとらえられているということは間違いないと言っていいように思います。たとえば、今おっしゃった「解放が終わった」にしても、正しくは「一つの破壊が終わった」と言うべきでしょう。さらに言いたいのは、現地の住民たちの声はもとより、現地に行っている国連職員の声なども日本にはほとんど伝えられていないことです。
(略)
情報社会成るものについてもう少し言っておきますと、嘘八百を含めて、これだけいろいろな情報に囲まれている中では、意図的に時運の目で見ようという意識をもっていないと、何か巨大なフィクションのうちに流されていってしまうという気がしてなりません。
タリバンが居なくなったために、すべてがよくなったという印象を持つのは、明らかな錯覚です。
(略)

質問7 〈アフガニスタンの一般の人たちは、情報をどのように得、どのようにうけとめているか。”民族対立”について。〉
今のお話とも少し関連しますが、アフガニスタンの山奥や難民キャンプにいる一般の人たちは、アフガニスタンの情勢やアメリカの空爆、タリバンやアルカイダといったことに関して、どのように情報を得ているんでしょうか?そして、どんなふうに受けとめているんでしょうか?それともう一つ、パシュトゥーンー勢力であるとか、何々勢力であるという話をよく聞きますけれど、民族対立は市民レベルでも存在しているんでしょうか?

中村
これは非常にいい質問だと思います。西側先進国の報道では、「ひとにいぎりの圧政者タリバンと、何もしらされていない一般民衆」という形で、タリバンの圧政が続いてきたという観念がいつのまにか定着するに至っておりますけれども、これは真っ赤ないつわりで、一般の民衆レベルでも、西側の情報はかなり正確に把握されていたというのが実態であります。

と言いますのも、人々が最も頼りにしていたのはBBCのニュースですが、これはどんな山奥に行っても、みんな聞いている。みな、ニュースだけは一生懸命、聞いているんですね。ある意味で、それは娯楽の一つであったわけです。で、彼らが聞いていたのは、パシュトゥー語やそのほかの現地の言葉によるBBCのニュースです。国営放送で流されるニュースのほうは、普通、一般の人々は信用していない。
私自身、空爆はもちろん、ニューヨークのテロ事件も、アフガニスタンからペシャワールにかかってきた電話でしったというのが事実でした。アフガニスタンの人々は、自分たちにかかわる出来事ですから、日々、肌身で感じつつ、事態については熟知していたであろうと思います。おそらく、世界じゅうで最も公平な判断ができる立場にあったのは、アフガニスタンの民衆そのものではなかったか――私はそんなふうに感じております。
(略)
もう一つのご質問、民族対立についてでありますけれども、これも外側から意図的に持ちこまれた部分がかなりあります。(略)
そもそも、厳密に言うと、アフガニスタンの内部の対立は、部族対立であって、民族対立ではなかったのです。(略)
これは一見、些末(さまつ)な言葉上の問題であるというふうに思われるかもしれませんが、現実には、「民族対立」という外側からの規定は、きわめて危険な事態を招く可能性をはらんでいます。繰り返しますと、アフガニスタンの人々のあいだで、自分はアフガン人であるという同一性の意識は相当に確固としたものとしt確立されておりました。しかし、それが今は逆に、外国からの武力援助によって、それまで眠っていた民族的な対立を目ざめさせてしまうような、そうした趨勢(すうせい)に火をつけるような形で物事が進んでいくかもしれないという可能性が出てきた。

最悪のシナリオの一つとしては、第二のユーゴスラヴィア化が起こるかもしれないということも考えられます。タジク人――厳密にはタジク系のアフガン人であるわけですが――
タジキスタン、ロシアが武力援助する。ハザラ人をイランが武力援助する。そうなれば、民族主義に火がつくのは明らかで、結果、アフガニスタンは第二のユーゴスラヴィアと化してしまうかもしれません。これは今、私が大いに恐れていることであります。

質問9 〈日本の参戦について〉
日本の参戦に関して、おうかがいしたいと思います。おおかたの新聞やテレビなどの報道機関は、今回のアフガニスタンへの空爆を、正義の戦争だと言っています。結局はこのことで日本の参戦も可能になったと思うのですが、日本がアメリカのアフガニスタンに対する軍事行動を後方支援という形で支えるようになった結果、アフガニスタンの人にとって、日本というのは、自分たちの国を爆撃しているアメリカを支援している国という位置づけになったわけですね。そんな中で、中村さんたちの活動も、ずいぶん困難なものになるのではないかと思うのですが、そのあたりはいかがでしょうか。
私自身は、今日のお話をうかがって、アフガニスタンの人たちを支え、中村さんの活動を支えていくには、日本の参戦をストップさせること、そのための私たち市民の運動をできるだけ大きく広げていくことだと、改めて思いました。

中村
対日感情の変化という点では、日本政府が日米同盟を誇示(こじ)したこと、つまり、アメリカの武力行使を支援するという姿勢を明示したことによって、今後、急速に悪化していくであろうことは、当然、予測されるところです。実際、私たちも従来は安全保障のために日の丸をつけて活動していたのですが、それをはずさなければならないという事態が
すでに起こり始めています。

日本は、これまで少なくともイスラム世界においては友好的な感情を持たれていたのが、今回の軍事支援の結果、米国とともに、本来的ではない人々、友人である人々を敵にまわすという事態になってしまったということです。たとえば、今後、沖縄や岩国や横須賀といった米軍基地のあるところがねらわれる可能性も充分あるわけですから、今回の参戦によって、日本は不必要な敵を米国と共有することになってしまった――そういうことが言えると思います。

だいたいですね、一国の軍隊を動かすのに、たいした議論もせずに、まるでゲーム感覚で
やってしまうということ自体、国の将来を考えない国賊であると、私は言いたい(拍手)。これはきわめて重要なことでありまして、自衛隊というのは軍隊であります。ひとつの国が、自国の軍隊を出動させるというのは、参戦行為以外の何ものでもなくて、これは日本人がどう考えようが、内閣がどう言おうが、言いわけのできることではない。日本がアフガニスタンに対して参戦したというのは、動かしようのない事実であって、その尻ぬぐいは、今の内閣にやってもらいたい――そう私は思っております(拍手)。

質問9
私は環境NGOのスタッフをしております。全国で募金活動も行なっていて、まもなく
現地にも行く予定なのですが、しかし、1トンの食糧を援助しても、私たち日本人自身が100トンの食べ物を輸入しているという事実を考えると、自分の中でも大きな迷いが生まれてきます。現地に行ってボランティアをするだけでなく、ほかにも何かできるのではないか。何よりも、日本の人たちに関心をもってもらうには何をしていけばいいのか。そいったことをずっと考えているのですが、中村さんの考えをお聞かせください。

中村実際には、現地に行けない人がほとんどなわけでして、今、日本にいてできることは何かというのが、多くの人の悩みであり疑問であろうかと思います。そこで、まず私が申しあげたいのは、これだけのあふれかえる情報の中で、何が大切なのか、何が本当なのかということに対する目をとぎ澄(す)ましていくこと、これが大事ではないかということです。一見、関係のないことのように思われるkもしれませんが、よく考えると、これが基本であることがおわかりいただけると思います。(略)

これからは、新聞やテレビなどのメディア、特に国営放送的な報道機関の言うことをそのまま信じないように(笑)ということを、まず前提として考えてください。
どいう目で見るかという視点をしっかりと定めて、ただ疑いを差しはさんで文句を言うだけではなくて、積極的に真実を知ろうという姿勢で対応していく。そのうえで、自分にできることを自分で見つけていく。それ以外にはないだろうと思います。

医者は医者のできることをする。。みんなのあいだで問題提起する。お母さんは子供たちとそいうことを話し合う。学校のせんせいならば、そういうことをテーマにして生徒たちと積極的に問題意識を共有していく。やり方はいくらでも考えられます。

要は、それぞれの人が自分の置かれた立場によってできることをやっていくということですが、ただし、その前提として、何が本当なのかという、いい意味での疑いの眼差しをもってさまざまな情報に接するということを忘れないよう、そして、そのうえで、これだけは失ってはいけないものについて考えていくことです。

「これだけは失ってはいけないもの」というのは、最も基本的なところで、さまざまな人間が一致してやっていくことができるという点、すなわち、命を大切にするということであります。この命は人間だけにとどまりません。私たちは、大きな自然という環境の中でつつましく生きてく一つの生物であるというところから、動物も植物も、生きているもの全ての命を大切にする。この視点において、私たちは一致できるのではないか。

飢饉(ききん)の問題にしてもそうです。100万人の人が死ぬというのは、これはもうたいへんなことでありまして、わが子が死んでいくのに心を痛めないお母さんはいません。そういうおかあさんが100万人もいることに、私たちは人間として一致する点を見出すことができるはずです。

このように、人間としての一致点を見つけていくという視点で情報の真偽を見きわめ、そして自分のお有れた立場でできることを考える。そうであれば、ペシャワールの乞食のように金をだすもよし、自分が納得できる団体に募金するもよし、さまざまな活動に参加するもよし――と思います。

                                【了】
『講演録』での講演や質疑応答で語られた中村さんの言葉は、19年前のものであるが、2020年4月の今、目前で語っておられるのではないかとも思われる。
中村さんの講演を聞いたことのない人に、講演の後に必ず行われていた、「質疑応答」の場がどんなものであったかを、その一端でもお伝えしたいと思い、そのいくつかを紹介した。「講演」と、その後の、一人ひとりの問いかけに、まっすぐ向きあって応える中村さんの「質疑応答」の面白さ、奥深さを伝える本は、他にもあると思われるが、ここでは、手元にある1冊を紹介しておきたい。 

【『医者よ、信念はいらない まずいのちを救え! アフガニスタンで「井戸を掘る」 医者 中村 哲』中村哲 羊土社2003年10月】

なお、『講演録』については、その本の「作り方」などについては、稿をあらためて触れたい。〈この稿つづく〉

「図書館は今 花盛り。連日、美しいお花が届けられる図書館」(嬉しい便り)No.43

新しい年度の始まる4月1日、三重県の小さな町の図書館で働く方から心あたたかくなる、うれしい手紙が届いた。なんども読み返すたびに、なんとも嬉しい思いがこみあげてくる。「こんな図書館がある!」「いや、図書館って、そういうものなんだ」
この嬉しさを私だけのものとしないで、一人一人に伝えたい。そうだ、ブログでの掲載のお許しをお願いして掲載できないだろか。こうしてここにその一部を・・・。

「図書館がここにあるって、灯りが灯っているみたい」
    (以下、いただいたお手紙より)

大変ごぶさたいたしております。ご丁寧なお年賀状をいただいておりましたのに ご無礼なままの日を重ねてしまい、誠に申し訳ありません。
中村哲さんの悲報、コロナウィルス禍と、胸痛む出来事が続き、本当の春を心待ちする思いです。そんなお気持ちからでしょうか。図書館には連日 美しいお花が届きます。

ショウジョウバカマ     
ショウジョウバカマ 写真素材

キブシ                

クリスマスローズ、ミモザ、

ガーベラ、スノーフレーク、

ウグイスカグラ

トサミズキ     











[ 写真の挿入は筆者による]

「これ、なんだ?」と調べにいらして、
そのまま「「どうぞ」と置いていかれる方、
花束にして届けて下さる方、
バケツにたっぷりあふれんばかりにして届けて下さる方・・・。
図書館は今 花盛りです。

「花はいいねー」
「本はいいねー」
「図書館はいいねー」

とおしゃべりしながら 春を届けて下さるそのお気持ちが
本当にありがたく心に沁みます。

そしてこの一ヶ月
訪れて下さるみなさんが
「こんなときに図書館があいていてよかった」
「図書館がここにあるって、灯りが灯っているみたい」
と心からしぼりだすように言ってくださいます。
本当にありがたいことです。

何ができるだろうと悩むことばかりですが、
小さな思いを積み重ね、
前に進んでいかなければ、
と思います。
  (略)
    三月二十九日  勢和図書館 ・・・        


 
このような図書館がある
一人ひとりの居場所となる、人にやさしい図書館
お花をもっていきたくなる図書館

花の名前を調べにきて、そのまま「どうぞ」と置いてかえる図書館

花束や
バケツにたっぷり あふれんばかりのお花が届けられる図書館

「花はいいねー」
「本はいいねー」
「図書館はいいねー」
かわすコトバに 一人ひとりの心がはずむ図書館

この図書館は地域の人一人ひとりにとって、竹内悊さんが言われる"生きるための図書館”〈一人ひとり、みんなのための図書館〉そのものだと思う。
【『生きるための図書館―― 一人ひとりのために』竹内悊(さとる)岩波新書2019.6】 

地域の人が花を持ちよる図書館は、「一人ひとり、みんな」が、抱き、向きあっている問題や課題に適う適切な「本」(情報)を手にすることで、一人ひとりが考えることをきたえ、深めるところだ。
そして一人ひとりに適切な「本」をつなぐのが図書館員だ。

この図書館、多気町立勢和図書館のこれまでの歩み、そのサービスの実際、そして司書である図書館員の働きをあらためて知りたい、まじかに見たいものだ。


図書館員は、そして図書館長とは、何をする人か
図書館は誰のためのものか
図書館は何をするところか。
”地域に図書館がある”とはどういうことか
図書館の利用が無料であること、「公立図書館が税金で立つとは、どういうことか」

「いつでも」「だれでも」「どこでも」「なんでも」とはどういうことか

このことを知りたい(ヨクミキキシ ワカリタイ)、そして”生きるための図書館”〈一人ひとりみんなの図書館〉を、自分の住む地域で手にしたいと思い、願う人に、『生きるための図書館――一人ひとりのために』(岩波新書)とともに、今年の2月に出版された竹内さんの「講演録」をあわせ読まれることをすすめたい。
よく考えるとはどういうことか、よく生きるとはどういうことか、を指し示す2冊の本を手にして、このような著者と同時代にあることのありがたさを思う。
【『生きるための図書館をめざして―いま語りたいいこと つたえたいこと―』竹内悊先生講演会記録 2019年10月20日 :竹内悊先生講演会実行委員会:発行 図書館問題研究会・親子読書地域文庫全国連絡会 600円+税 】

『生きるための図書館――一人ひとりのために』竹内悊(さとる)
岩波新書 2019.6.20


今こそ、一人ひとりの身近に本物の図書館が必要、との思いを深くする。
「本物の図書館」とは何か、については菅原峻(たかし)さんの、下記資料を。
【※「日本の図書館は、3タイプに分けられる」菅原峻。①図書館という看板の下がった役所、全体の半分以上、②無料の貸本屋、残りの70~80%、③本物の図書館、全体の5%、しかも、当初③であっても、①②化していくケースが珍しくない。『図書館にはDNAが大事です。』”アミューズ”2000.1)】

「公共図書館10傑」のうち、八日市市立図書館、湖東町立図書館、能登川町立図書館は、合併(2006年1月1日)により、東近江市立となる。図書館数7館。(他に東近江市立五個荘・愛東・永源寺・蒲生図書館)東近江市:人口11万3000人
 

コロナ感染をめぐる状況はすさまじく、地域によっては今、開館している図書館も休館せざるをえない情勢がひろがっている。                       
地域にある図書館が、いまどのような図書館であるか、「一人ひとり、みんなの図書館」であるかどうか、市民として、しっかり見つめ、とらえて、「一人ひとり、みんなのための図書館」、「生きるための図書館」への道を探っていくこと、そのためにできることを一つひとつ積み重ねていこう、そのような思いを、「美しいお花が日々届けられ、花盛り」の小さな町の図書館で働く一人の図書館員の方からのお手紙で、手渡されたように思う。                                      

この図書館の名前は、多気町立勢和図書館、2006年1月の合併以前は、人口5000人を少し上回る勢和村の村立勢和図書館だった。
勢和図書館については、稿を改めて。(この稿、続く)

追記1.
その後、4月13日から、一部利用制限が出て、「閲覧制限(長時間滞在)をご遠慮いただくことになりました。大変心くるしいのですが、皆様にご協力をお願いしているところで
す。どうか皆様お元気で、と願うばかりです。」とのご連絡をいただいた。4月13日

追記2.4月16日、政府による緊急事態宣言の対象地域が全国に拡大された日の翌日。臨時休館を決定したとの連絡。4月20日(日)~5月6日(水)の期間。この間、予約貸出のみ、玄関で受け渡し。セット貸出などは現在準備中。準備出来次第公表の予定。

春の花々が届けられる図書館からの臨時休館【4月20日(日)~5月6日(日)】の知らせをうけて

 「花はいいねー」、「本はいいねー」、「図書館はいいねー」の言葉が行き交う図書館から、臨時休館の知らせ
どんなにそのことを残念に思う人たちがおられることだろう

「とても残念なことですが、臨時休館が決定してしまいました。」との
図書館員の方の言葉の肩越しに、心はずませて、図書館にきていたひとたち
図書館を”わたしの場”、”みんなの場”としていたのひとたちの
落胆の声が聞こえるようだ

だがしかし
連絡してくださった図書館員の方から
静かな深い元気を授けられたようにも感じる

「とても残念ですが、、・・・」にこめられた深い悲しみ
そして「本当に、大変な状況となっていますが、
できることを模索し、
丁寧に行っていきたいと思います。

才津原さんも
どうかお元気でお過ごしくださいませ。

 勢和図書館  ・・・

「できることを模索し、丁寧に行っていく」

このことこそ、いま、もっとも大切なことではないか
そして、「丁寧に」にというのは、地域のひと、一人ひとりみんなに、ということだろう
一人ひとりにできることを、考え、模索し、
一つひとつ、行っていく

図書館が臨時の休館となっても
この図書館では
一人ひとりの心に灯を灯す試みが
一日一日、ていねいに行われるだろう
地域(コミュニティ)のオアシスとして
いつでも泉の水が流れだすための
心つくした取り組みを重ねて
開館の日に向かわれることだろう

ご連絡の言葉から
そのことが
まっすぐ
伝わってきた

勢和図書館は 今の今も
けっして閉じられていない
地域の一人ひとりみんなに寄りそう
地域に開かれている図書館だと思います。

林さん
みなさんも
どうかお元気で
他日 また
        2020.4.19


2020年3月26日木曜日

ピースウォーク京都 『中村哲さん講演録』再読 (1)  No.42

前回の号で書いたように2004年5月1日に滋賀県の能登川町立図書館(1997年11月開館、2006年1月、1市6町の合併により、東近江市立能登川図書館)で、井上ひさしさんと中村哲さんの講演と対談を核とした宮澤賢治学会の地方セミナーを開催できたのは、「ピースウォーク京都」の活動が、2001年9月11日に起きたニューヨークの世界貿易センタービルに民間航空機が突入した事件の直後に始められていたことが契機となった。今回はその活動の中から生まれた『中村哲さん講演録 平和の井戸を掘る アフガ二スタンからの報告』(ピースウォーク京都発行・編集 2002年5月12日 初版第Ⅰ刷 以下”講演録”という)について重ねて記したい。

ブックカフェ「ノドカフェ」に本の出前(風信子ヒアシンス文庫より)2020.2~3

手掘りの井戸の水を絶やさず、さらに深く掘り進むために

「ピースウォーク京都」の活動がどのようにして始まったかは、以下のように”講演録”の「はじめに」に書かれているが、その題目は「中村哲さん 京都で平和の井戸を掘る ピースウォーク京都」となっている。

9月11日の事件後、アフガニスタンへの「報復」攻撃が現実のものになりそうだと思われる中、京都市民の中からそんな状況に「いたたまれなくなった者が言い出して、”殺さないで!今こそ平和を”という思いを表わすためにピースウォークを始めた。」
その活動のなかで、見知らぬ人同士が出会い、「ひとりの歩みから始めよう、借り物でない自分のことばで語り出そう」ということを確かめ合ってきた。

(当時、その活動を始めたお一人にお聞きしたところでは、「女友だち3,4人で始めた」とのこと。中村さんの講演は、同じ会場で、3,4年前までほぼ毎年開催、中村さんが来られないときは、福元さんや現地で活動しているペシャワール会のメンバーによる講演があったという。また、ピースウォーク京都での出会いが、いまだに続いていて、とりわけ、福島での原発事故以降、それぞれの場で活動されているとのことだった。)

10月7日、米英軍がアフガ二スタンへの空爆を始めたなかで、食料輸送が困難になり、カブール市民が飢餓のふちに立たされる事態となり、PMS(ペシャワール会医療サービス)は、カブールにおいて食料配給を行うことを決定し、「アフガンいのちの基金」(5000トンの小麦等の配給を計画)を開始。 

ピースウォークを始めるとすぐに、「中村さんの声を聞きたい」という声がでてきた。
こうして、そのころアフガニスタンの現状を伝え、「いのちの基金」への呼びかけのため日本全国を講演で駆け回り始めていた中村さんを京都市に招いての講演会が実現する。

講演会を主催したピースウォーク京都では、「中村さんの講演は、日本でわたしたちの心のなかに井戸を掘るという、もしかしたらアフガニスタンでの井戸掘りより大変な仕事だったかもしれませんけれど」と、中村さんの講演を受けとめ、「手掘りの井戸の水を絶やさないで、さらに深く掘り進むために、この講演録を作りました。お隣の大切な人にどうか手渡してください。」と「はじめに」の言葉を結んでいる。

この講演録は「ピースウォーク京都」(以下、「編者」という。)の活動に関わる一人ひとりが、それぞれがいる場で力をあわせて掘った手掘りの井戸だと思えた。
その手掘りの井戸水の清冽さに驚く。

講演録を再読して


カバーデザイン/長尾史和(SOUP DESIGN)
イラスト/伏原納知子
写真提供/中山博喜(ペシャワール会),ペシャワール会、石風社
今回、講演録を再読して、18年前の2001年12月9日、京都ノートルダム女子大学のユニソン会館で開かれた講演の会場に私はいなかったにもかかわらず、中村さんの声が耳元に聞こえてくるように思われた。

講演(2001年12月9日)前後の状況について

まずは、この講演が行われた前後はどのような状況だったか。
「講演録」には、編者によって作成された「アフガニスタン、中村医師、ペシャワール会を巡る略年表」と共に、アメリカによる空爆を受けて、ペシャワール会が開始した「アフガンいのちの基金」の報告と今後の展開を編者がペシャワール会ホームページより、抜粋、再構成したものが収録されている。(以下「アフガンいのちの基金」報告)

「アフガンいのちの基金」報告
2001年10月7日のアメリカ軍によるアフガニスタン空爆開始を受けて、ペシャワール会は、「巨大な難民キャンプと化した100万都市カブールで餓死の予期される人々の生命を保証し、みじめな難民化を防止する」ために緊急食糧配給(小麦粉と食用油)を計画、このための「アフガンいのちの基金」が10月12日に設立され、全国で募金の呼びかけが始まった。
 
現地の活動
・10月17日ペシャワールでの小麦粉作業開始
・20日アフガニスタンへの食糧輸送開始
・23日ジャララバードで食糧配給開始(1家族3カ月分)
・30日カブールで食糧配給開始

2001年12月6日現在の実績(速報値)
・寄付総数:22,409件
・寄付総額:395,136,426円
・配給:小麦粉1400トン、食用油140トン(約15,000家族)

12月末段階で、カブールでは、WFP(世界食糧計画)をはじめとする多数の各国NGOによる救援ラッシュが始まり、PMS(ペシャワール会医療サービス)の仕事は山場を越えた。ペシャワール会に蓄えられている3000トンは、東部へ逃れたカブールからの避難民や、旱魃と空爆でジャララバード周辺の農村に避難した人々に届けられることになっており、すでに2002年1月8日から輸送・配給が開始されている。この食糧配給計画は2月末ヲもって終了、善意の基金は、第二期「緑の大地」計画として、農村の復興などにあてられる。

以上のような状況の中で行われた京都での講演であったことを心に刻んで、中村さんの講演に、今一度耳を傾ける。

講演「平和の井戸を掘る アフガニスタンからの報告」

中村さんは3つの柱で話されている。(Ⅰ.アフガニスタンというところ Ⅱ.ペシャワール会の歩み Ⅲ.旱魃と空爆)
講演を採録、校正した編者による章立て、見出しで、お話の内容がまっすぐ伝わってくるように思われた。

中村さんは「アフガンいのちの基金」についての報告からお話を始め、その日の講演では、「私たちの会の17年の歩みとともに、アフガニスタンの普通の人々がどのように生きてきたか、日々の生活の中でどのように感じてきたのかといったことを、私たちの活動を通して紹介したいと思っております。」

以下、講演会場にいる一人一人の心の奥深くに届く言葉が語られていて、関心ある方にはぜひ本書を手にしていただきたい。(在庫なし、図書館でリクエストを)

お話の中からいくつかのことを

・ペシャワール会について
このところのテレビや新聞などの報道を見ていると、ペシャワール会では、私、中村が一人で奮闘しているというふうに思われがちですが、そんなことはまったくありません。現地の献身的な二ニ〇名のスタッフの活躍はもちろんのこと、日本の五〇〇〇名の会員の方々の支援なくしては、ペシャワール会の活動は成立いたしません。ペシャワール会の年間運営費は約一億円ですが、これは会員の方々の募金が主力となって支えられています。

ここで、私たちが胸を張って言えるのは、募金の九五パーセントが現地に送られて実際の活動に使われているということであります。これは、みなさん、当然だと思われるかもしれませんけれども、実際のところ、組織が大きくなればなるほど現地に届くお金は少なくなるのです。要するに、管理運営にたずさわる人たちの人件費をはじめとする間接的な維持費がどんどんふくれ上がっていく。組織によっては、間接経費が八割から九割というのもめずらしくはありません。

一方、ペシャワール会ではすべてがボランティアで成り立っています。会の活動だけに従事して給料や報酬をもらう専従者という立場の者はいっさいおりません。みんな、それぞれに自分の仕事を持っていて、空いた時間を無報酬で会の活動にあてる――そういう人だけで構成されているのです。政府間援助や国連のプロジェクトに比べると、私たちの事業額はごくごく小さなものですけれど、しかし、機能という点から見ると、ペシャワール会は大組織の数十倍まさるグループであるということが言えます。つまり、同じ金額で比較すれば、私たちは実質的に数十倍の仕事をしていることになるわけで、これは私たちが大いに誇りとするところでもあります。」   (16~17頁)

・「だれも行かないところへ」
私たちは、「なるべく人の行かないところへ、人のしないことを」を方針にして、現在も少しずつ診療範囲を拡大していっております。よく、あれは中村が山好きだからあんな高いところに登っていくんだというふうにいわれるのですが、とんでもない(笑い)

私たちは、必要がありながら、だれも行きたがらないところ――こういう地域はいくらでもあります――、だれもしたがらないことをやるという方針に沿って活動しているだけのことです。人がドッと行くようなところであれば、私たちが行く必要はないだろうし、人がわれもわれもとやるようなことであれば、だれかがやってくれるだろうということですね。」  (64~65頁)

・PMS発足
「さて、そうこうしているうちに十五年がたちました。結局のところわかったのは、私たちが取り組んでいるのは、どうも簡単に終わるような問題ではないといことでありました。日本でさえ、ハンセン病の問題が終わるまで一世紀近くのじかんがかかったわけです。まして、こんなところでは、一世紀や二世紀は時間のうちに入らない。
というわけで、これまでの十五年間は様子見の時期であったのだとして、第一期、十五年でいちおうの区切りをつけ、第二期を三十年として、新たな活動を開始しました。
その出発点の事業となったのが、PMS(Peshawar-kai  Medical Servise)、ペシャワール会医療サービス病院の建設です。
(略)
私たちが第一期十五年の活動を通じて貫いてきた基本姿勢の一つは、徹底した現地主義、つまり、日本の都合ではなくて、現地の仕事の都合、必要性に応じてできることをする、というものですが、その基本姿勢をこkで改めて確認したということになります。」
  (75~76頁)
・子供たちの笑顔
(写真を撮ろうとして)――「子供たちはみなニコニコしている。これは私が昔から感じていることで、悲惨な状況にある者、貧しい中にある者のほうが、明るい顔をしているのです。
それが、日本に帰ってくると、はて、助ける側の日本人のほうが暗い顔をしているではないか。これはどういうことなのかと常々考えていて、結局のところ、何も持たない者の楽天性というのは確かにある、というふうに思うようになりました。人間というのは、一般に、持てば持つほど守るものが増えて、暗くなってくるのではないか。
(略)
物を持つと守らざるをえなくなるという暗さ。
じかに触れあって助けあうことを忘れてしまった暗さ。(日本人は、人と人とがじかに触れあってたすけあうということを忘れてしまったのではないか。そのための暗さというものがあるのではないかと思われてなりません。)

正直言って、初めのころは、私たちにも、私たちの仕事は人様を助けてあげるものだちう、どこか思い上がった子持ちがなかったわけではありません。しかし、今では、この十七年間、アフガニスタンとパキスタンで仕事を続けてきたことによって、逆に私たちが助かってきたのではないかというふうに思うようになっています。何よりも、くよくよすることがなくなってきた。本当に人間にとって大切なものは何なのか、大切でないものは何なのか。こいうことについてヒントをえたということ――これはたいへん大きな一つの成果であったと感謝しております。

今のアフガニスタンの問題は、いろいろな角度から目をこらして見れば、かならずきちんんとみることができます。はっきり申しあげておきますが、現在は、何かの終りの始まりの時であります。「この終りの始まり」に際して、アフガニスタンは、われわれにとって一つの大きな示唆を与えてくれる地域であり出来事であろう――そんなふうに思っております。」   (95~96頁)

論楽社のこと〈中村さんとの出会いを手渡してくれた論楽社の活動〉


ここで、中村さんの講演から少し離れて、私が初めて中村哲さんのお話をきく機会を授かった経緯について触れておきたい。中村さんのお話を初めてお聞きしたのは、2003年8月だったか、京都市岩倉の論楽社においてだった。

論楽社は1981年4月に虫賀宗博さんと上島聖好さんが共同運営で活動を始めた小さな私塾だ。(小さな民間教育・講座・出版の場所。)
「家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紬ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくる。」

論楽社では、”生きてある言葉を聞きたい。体の中に紡ぎたい。糸車を回すように、ゆっくりと。そう思い、手づくり講座として、「講座・言葉を紡ぐ」” を1987年8月から始めている。「会場は論楽社。障子や襖をとりはらった座敷、縁側、奥間にざぶとんをしきつめ、同じ目の高さで、聞き、考え、語りあう。」第1回目は岡部伊都子さん。以後、藤田省三、安江良介、徳永進、松下竜一・・・・の各氏を招き、現在に至る。(「論楽社とは何か?論楽社の12年――個を育てる集団・集団を育てる個 虫賀宗博 〔松下竜一さんの月刊誌『草の根通信』1994年1月号 「論楽社ブックレットNo.6  島田等『次の冬』1994.3、2000.8第4刷に収録〕)

虫賀さんが中村哲さんのことを知ったのは1994年、瀬戸内にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園で、島田等(しまだ ひとし)さん(1926~1995、1947年、長島愛生園に収容され、以後そこに生きた。『病棄て――思想としての隔離』ゆみる出版。)から手渡された1冊の本によってだった。
「島田さん(詩集『次の冬』論楽社ブックレット)が哲さんの『ダラエ・ヌールへの道 』(石風社〈1993〉)を手渡してくれたことがすべての始まり」。
「こんなひとがいる」
「読んでみたら、ええよ」
 島田さんは一年後の1995年に人生を終えた。コツコツとためてきた200万円を哲さんのペシャワール会へ死後贈られた。こういうハンセン病回復者って、希有。


『ダラエ・ヌール・への道  アフガン難民と共に』中村哲
 石風社 1997.11




『次の冬』島田等 論楽社ブックレット No.6 1994.3


(以上、  論楽社ほっとニュース 2019.12.12 虫賀さんの連載コラム「いまここを味わう」〈第24回〉覚悟――哲さん〈その1〉)による。その時々の論楽社での中村さんの講演や論楽の様子は、同ブログに鮮やかに記されている。同ブログをひらき、中村哲さんの名前で検索していただきたい。)

虫賀さんは、さっそく中村さんに連絡をとり、1996年、京都市国際交流会館で行われた帰国講演会に参加する。その時、講演会の参加者はわずか4名だったという。
中村さんに深い感銘をうけた虫賀さんは翌年の1997年からだったか、論楽社に中村さんを招き続ける。

私が初めて中村さんの話をお聞きした2003年8月の論楽社の「講座・言葉を紡ぐ」の場は、中村さんを招いての7回目の場であった。その日、その場は何か親密で和やかな気配に包まれた場であったように思う。厳しいお話の内容であったが、論楽社という場では、中村さんが何か心解き放たれた寛ぎの一瞬をもたれいるのではと思われた。それは一年、又一年と何年にもわたって,中村さんと向きあう場を積み重ねてきたことから育まれてきたものではないかと思う。そのようなほんとうにかけがえのない場で、私にとって中村さんとの最初の出会いの場を授かったたことにあらためて驚く。

ピースウォーク京都を始めたお一人から、中村哲さんのお話を聞いたのは論楽社でが初めてだったとお聞きした。京都で継続して中村さんを迎えての、参加者一人ひとりを深く励ましてやまないピースウォーク京都による中村さんの講演会の始まりに、論楽社での集いがあり、それが島田等さんから虫賀さんに手渡された一冊の本と島田さんのお言葉から始まったことに思いを深くする。
 
お休みどころ、のこと

1981年、虫賀さんと共同運営で論楽社を始めた上島聖好(うえじま しょうこう)さんは、虫賀さんとともに、論楽社やその他の場所で、私にとって岡部伊都子さんとの出会いをはじめ、大切な出会いを幾度となく手渡してくださった人だ。
上島さんを想うと、「ようこそ ようこそ」という声と、その笑顔がおもい起こされる。
上島聖好さん(1955~2007)のことについて、いくつかのことを記しておきたい。

論楽社の活動が始まって12年目の2003年5月1日、上島さんは興野康也さん、グレゴリー・ヴァンダービルトさんとともに「お休みどころ」をひらく。場所は「九州山地の標高700メートルの山の中、熊本県の球磨川の源流地。その水源の地(熊本県球磨郡水上村)は、トルストイの翻訳者で徴兵拒否者、農民の北御門二郎(きたみかど じろう)さんとの出会いが選ばせた。
「お休みどころ」という名前は詩人の茨木のり子さんと、その詩「お休みどころ」との出会いから付けられた。」

「お休みどころ」はどんなところか、その誕生の経緯は?
    上島さんの文章「お休みどころ」から。

お休みどころ  上島聖好(うえじま しょうこう)

”お休みどころとは、元気になる場所。あなたの背負った「重たい荷」をいっときおろし、「ここで一休みしてのどをうるおし」、新たな一歩を踏み出すところ。非営利の安息所です。
私は京都の岩倉盆地で論楽社という小さな民間教育・編集・出版の場所を営んでいました。家を開放し、こどももおとなも自由に参加する寺子屋。折々に講座を開き、そこから紡ぎ出された光のような言葉で、小さな本をつくっておりました。

そうするうちに、こころとからだの疲れたひとたちに出会います。故郷を奪われた人たちにも出会います。

その人たちの役にたちたい。何かほっとくつろいでもらいたいな。よし。ちから合わせてやってみよう。空気と水のうまいところ、人情味のあるところ、豊かな自然に包まれたところ、そこに立つだけで元気になる。そんなところはないものか。なつかしい土地はないものか。

と、願っていたところ、北御門二郎さん(1913~2004 農耕者・トルストイ翻訳者・徴兵拒否者)に出会いました。二郎さんを養った水上の地なら人のこころもやさしかろう。未来の人を待つ平和なところだろう。二郎さんの無垢(むく)な光に誘われて「ここが探していた願いの地、ここでお休みどころを開きたい」というと、北御門すすぐさんと成尾政紀(まさみち)村長は、この古民家にひきあわせてくださいました。

そうして、2003年5月1日、お休みどころは生まれました。
こころとからだの疲れた人、行きづまった人、はたまたそれらに無縁の人も、ようこそ
ようこそ。いっぱいのお水をどうぞ。おいしい泉のお水です。医者もおります。無料です。政治団体や宗教団体とは何ら関係ありません。念のために。

「あきんど 農夫 薬売り
重たい荷を背負ったひとびとに
ここで一休みして
のどをうるおし
さあ それから町におはいりなさい」
  (『倚りかからず』より「お休みどころ」茨木のり子)
「お休みどころ」の名付け親は、詩人の茨木のり子さん。

花の寺
このたび友人たちのちからをかりて、納屋を改築。お休みどころ芸術劇場が誕生しました。この世界でたまたま出会ったいのちの花々、「きょうだい」たちが集い、語らい、
笑う、寺子屋。つづめて、花の寺。浜辺の藻場(もば)のようなお遊びどころ。
四十六億年という涯てしない地球の歴史のなかで、私たちは今を生きている一番新しいいのち。
出会いのよろこびにさざめく花の寺を、ひっそりと建てつづけるお休みどころでありたいと願います。
「花の寺」の名づけ親は、随筆家の岡部伊都子さん。”
  (理想郷 桃の根っこに 墓石おく 2007年2月18日記)

【『お休みどころ――上島聖好の世界』上島聖好遺稿集編集委員会・編 (株)ぱんたか
 2910.4.4 以下『遺稿集』という】より。上島聖好さん(1955~2007.10.29)


「哲さんに、背中を押されて」

少し長く、聖好(しょうこう)さんの文章を引用させていただいたのは、『遺稿集』(「天が人を利用する」)のなかで、こんな言葉に出会ったからだ。

”昨年(2005年)の9月1日のことだった。9月3日に中村哲さんの「講座・言葉を紡ぐ」があるので、私は論楽社にいた。哲さんにはお休みどころの地を決めかねているところへポンと背中を押してもらったという恩がある。私は一言礼を言いたかった。

ことのはじまりは2002年1月。
私たちは友人を訪ねて長島愛生園に何回となく足を運んでいた。それで、何とはなしに『人間を見つめて』(神谷美恵子著)を開いたのではなかったか。すると本の中からハラリと一枚、茶色に変色した新聞の切り抜きが落ち葉のように落ちてきた。亡き父が私のために切り抜いてくれた記事だった。

北御門二郎さんの「ソビエト文学翻訳者会議に出席して(1979年12月26日「朝日新聞」)というものである。私は即座にこの人に会いたいと思った。生きておられるだろうか。私は祈るような気持ちで母の一周忌で熊本に帰るのでそのときお会いできたらと手紙を書いた。そしたら折り返し長男のすすぐさんからこういう返事が来た。(本文末に、すすぐさんからの手紙を掲載。(その中で、「昨年末に二つの雑誌の取材を受けた」ことが記されていて、その一つ)『現代農業増刊号 冬2月号』のコピーを手に入れて(略)、開いてびっくり。

巻頭に中村哲さんが出ているではないか。インタビューに答えて哲さんはいう。
「温暖化などによって状況が追い詰められていくと、日本でも『やっぱり熊本の五家荘(ごかのしょう)のような山奥に住もうか』という動きが必ず出てくるでしょう。
私は導かれるままに、一山越えたら五家荘、ここ水上村にやってきたのだった。”

手紙から
『追悼録』は「エッセイ」「手紙」「通信」「お休みどころ芸術祭」「絵本」「あとがき」からなっている。2005年3月7日(月)付けの岡部伊都子さんへの手紙は次のように書きだされている。

”岡部伊都子さん
 私たち四人(注1)を育てつづけていただいてありがとうございます。
 伊っちゃん母さんの82歳のお誕生日の産声をきいたあと、四人で(略)・・・”

友人の結婚式に参加する。八十人の人々の前で、結婚するお二人が挨拶の言葉をのべたあと、上島さんは、用意しておいたパステルナークの詩をよむ。

「創造の目的は献身にある。評判でもなく、成功でもない。宇宙の愛を自分にひきつけ 
未来の叫び声に 耳をすますのだ・・・・・ ほかの人々は 生きた足跡をたどって 
一歩一歩 おまえの道をくるだろうけれど 敗北と勝利とを おまえ自身が区別してはならぬ」(パステルナーク)

ついで、手紙を次のように結んでいる。

”伊っちゃんの『献身』(=本)を彼らに贈ることができ、私は幸せです。
ほかに何を望もうか。
というほどに。”

上島さんは、岡部伊都子さんを、伊っちゃんとよんでいた。
上記「四人」の(注1)の説明には、「上島、虫賀、グレッグ、興野の四人。」と記されている。(170~171頁)

最後のページの近くにある、おやすみどころついての文章。
「お休みどころは、2003年5月1日、北御門二郎さん(1913~2004)との出会いで水上村に開かれた心の水飲み場。設立メンバーは、興野康也(お休みどころ代表、精神科医)、
グレゴリー・ヴァンダービルト(歴史家、UCLA博士課程卒)、上島聖好(文筆)。ボランティアのトラウマ治療の場でもある。日常に芸術、学問、精神科治療をとりいれ、いきいきと生きることを目指す小さな共同体。「戦争と平和」を課題に、模索しています。

あとがきから
追悼録』の「あとがき」を論楽社から上島聖好さんと行動をともにした興野康也さん(上島聖好遺稿集編集委員会:興野康也、楢木裕司、小堀郁江の3人)が書いている。
その中で、
「彼女は生前、自分の本を出版することを拒み続けましたので、膨大な遺稿が残りました。それらを整理・出版する仕事が我々に残されました。
彼女の仕事は多方面にわたっています。エッセイや手紙をかくことはもちろん、通信発行、講演会の企画、編集、教育・・・・。人と人とのネットワークをつくる天才だしたし、人の仕事を鼓舞するのも上手でした。

結局この本では、彼女の多面性をなるべく浮彫にするよう努めました。
結局この本でとりあげたのは彼女の晩年の四年半、お休みどころ創設に打ちこんだ時期の作品だけです。それ以前にも彼女には二十年におよぶ京都の論楽社での活動の時期がありますし、書いたものも多数あります。これらがいずれ何らかの形で出版されることを望みます。

なお、2006年以降の彼女の主な作品は、お休みどころのブログ(http://oyasumidokoro.ronngakusha.com/楢木裕司作製)に掲載されています。2006年以前についても、可能な限り今後掲載していく予定です。
「人が困ったときに役立つ言葉」。それを残すことが彼女の願いでした。彼女の言葉を活用して下さる方がすこしでもおられれば幸です。」
とある。

私が中村哲さんに出会うことができたのは、上島聖好さんや虫賀宗博さんたちのこのような歩みがあってのことだった。そのことをあらためて胸に刻む。
ピースウォーク京都の『講演録』については、さらにいくつか記したいことがあるが、稿をあらためたい。