図書館の風
2007年から糸島に移り住み、思いを同じくする人たちと「としょかんのたね・二丈」を始め、志摩地区の「みんなの図書館つくろう会」、二丈深江地区の「糸島くらしと図書館」の人たちと共に、糸島のより良い図書館づくりを目指して活動してきた。「糸島の図書館は今、どうなっているのか」、糸島図書館事情を発信し、市民と共に育つ糸島市の図書館を考えていきたい。糸島市の図書館のあり方と深く関わる、隣接する福岡市や県内外の図書館についても共に考えていきます。
2025年9月3日水曜日
懐かしき声に誘われて 10月 滋賀へ No.143
はじまりは18年前にさかのぼる。
福岡県の苅田(かんだ)町立図書館を退職し(1988年12月の準備室開設時から1990年5月開
館を経て1995年3月まで)滋賀県能登川町に移り住んだのは1995年3月末。
4月1日能登川町教育委員会に設置された能登川町総合文化情報センター建設準備室で図書館、
博物館の開設に取り組み、2年7カ月後の1997年11月8日に人口2万3千人の町に図書館と博
物館が開館した。
図書館の正規職員は7人(うち司書6)、博物館は2人(学芸員2)だった。
司書4名、学芸員1名は全国公募で採用【能登川町立図書館、能登川町立博物館】
それから2007年3月末に退職するまでの9年5カ月を図書館、博物館で働いた。
(1市6町の合併。最初に八日市市と五個荘町、湖東町、愛東町、永源寺町の1市4町が合併
して東近江市に。2006年1月、能登川町と蒲生町が東近江市と合併、2006年1月から町立か
ら、東近江立能登川図書館・博物館となる。東近江市には図書館が7館ある。そのうち、
八日市市、湖東町、能登川町、永源寺町は図書館開設にあたっては、それぞれ開館後は
館長となる人を他の自治体の図書館から招へい。そのことが各館で開館時、職員(司書)
の確保に大きく影響)
能登川では12年間過した。図書館、博物館を退職する前後、お別れ会を10数カ所で開いて
いただいた。
その1つが彦根の西覚寺での送る会だった。幾人かの方が核になって開いてくださった会
でしたが、どのようにしてこの方たちを選ばれたのか、能登川町内より(町内ではすでに
いくつもの会が開かれていたので、そのことも考慮されていたのか)、滋賀県内、そして
県外から多くの方が駆けつけてくださった。
驚いたのは会の主催の方が、往復葉書をだして、出席、欠席を問われていて、返信の葉書
には、出席、欠席いずれの方からも、私へのメッセージの欄に言葉が記されていた。
お一人お一人の言葉を目にすると、その人との時間が蘇ってくる。会が終わって程なくし
て、返信葉書はファイルに入れられて、写真と一緒に送って頂き、私にとってかけがえの
のないものとして私の手元にある。
今回の機会にあらためて、頂いた葉書を整理してみた。
①2007年4月1日 「才・・・を送る会」 彦根市西覚寺
・東近江市 参加 7名 欠席 5名
・滋賀県内 参加 14名 欠席 4名
〈多賀町、彦根市、近江八幡市、栗東市、大津市、湖南市)
・県外 参加 17名 欠席 9名
(島根県奥出雲町、兵庫県篠山市、京都市、京丹後市、大阪市、枚方市、東京)
合計 参加38名 欠席18名
ほんとうに驚くばかりの出来事だった!
そうしてさらに驚かされたのは、その送る会から10年経って、再び、同じ彦根西覚寺で
再開の場を開いていただいたことだ。「才津原・・と語りあう会」の集いの案内を、
10年前と同じように往復葉書で出席、参加を問われて。葉書の差しだし状には、遠方の
方への宿泊の案内まで記されていた。また、返信葉書には「・・・への10年の思いメッ
セージをお願いします」の欄があり、この度も出席、欠席のお一人お一人から心うたれ
るお言葉をいただいた。
②2017年10月8日(日) 「才・・・と語り合う会」 彦根市西覚寺
・東近江市 参加 5名 欠席 7名
・滋賀県内 参加 14名 欠席 3名
・県外 参加 13名 欠席 11名
合計 参加 32名 欠席 11名
この2つの会をよくも考え、形にして下さったと思うばかり。西覚寺の高原さんと東近江
の中野さんのお2人が核になってほんとうに実現してくださったのだが、会が終わって送
っていただいた返信葉書などを今回見返していたら、色々んことが思いだされてきた。
そういえば2回目の集いの前に、いつだったか中野さんが九州への旅の途次、糸島の私の
自宅に立ち寄って下ったことがあって、その時に準備してくださっている10月の会のこ
とをお聞きしたのだったのかなと思う。そうだあの時に、自宅の傍の自然農の田と稲の
実りのほどをみていただいたのだと思う。それは私が糸島に住んですぐに友人から「お
米を作ってみませんか」と言われて始めることになった自然農の米作りの10年目の年で
もあった。
以上が2025年10月23日に滋賀に出かけることになった前史です。
2007年4月1日とその10年後の2017年10月1日の2つの会があって、そして若き友、川本さ
んとの出会いがあってこの度の滋賀での3度目の集いの場を授かることになったと感じ
ています。10月23日の会がどうして東近江五個荘のギャラリーgenzaiで持たれることに
なったかは、川本さんが作ってくれた上段のチラシをご覧ください。
10月23日、天からの授かりもののような場に、川本さんと糸島からとんで行こうと考え
ています。
2025年9月2日火曜日
今森光彦&川端誠の世界ーアンコール(出前の本の話9月)No.142
9月と10月、ノドカフェへの出前の本は「今森光彦&川端誠の世界」です。
出前の本の話は9月10日(水)。
以前、このテーマで本の出前をしたことがありますが最近、絵本のお話会を各
地で開いている友人が今森さんの絵本を読んでいると聞きました。これは再度、
お二人の本をノドカフェでという次第です。
なぜ写真家、今森光彦さんと絵本作家、川端誠さんのお二人なのか、お二人の
出会い、対談からどのようなものが生まれたか、については出前の話の中でと
考えています。
今森さんからの”里山のおくりもの”、ぺーパーカット作家としての活動、
そして、「カメラをもたない自然観察、環境農家」にふれた今森さんの最新の
エッセイの紹介も。
川端さんの本については『鳥の島』に始まり『森の木』から最新の『天狗裁き』
(落語絵本)までのたくさんの絵本の中からどの一冊をもっていくか。
ある本屋さんの月間の通信誌に12年間にわたって連載された「594文字のエッセ
イ」〈川端誠の594(ごくしょう)コラム〉がベースとなった『絵本作家の百
聞百見』についても。
2025年8月5日火曜日
直前のお知らせ 2つ No.141
2つのお知らせです。
1.今日8月5日、NHKーEテレで21時から22時まで、「あしたは8月6日じゃけぇね 広島原爆の日 前夜に
平和を考える」▽あーちゃんHIPPYがみんなの声を紹介」という番組があります。私のただ一人の叔母、
波田スエ子が広島で8歳の時に被爆し家族のすべてを失っていますが、NHKから取材を受けていて、番組の
中でその一部が放映されると知らされました。
2.糸島市志摩にお住いの水口瞳さんの呼びかけで、8月5日(火)から8月8日まで、「へいわって、どんなこと?
演じてみよう紙芝居」の上演があります。私は6日(水)の12時から13時の時間に参加しています。
会場は伊都文化会館の多目的ホールです。
○
2025年7月31日木曜日
新木安利さんの『松下竜一の青春』、うれしい書評 No.140
その書評のことは忘れていた。これから1年をめどに資料など諸々の片づけをと
考えていて、ようやくとりかかり始めていたら、ファイルにはさんだ一枚のコピーが
でてきた。新木さんの『松下竜一の青春』についての書評、雑誌からのコピーだった。
その書評を紹介したい。
それは『通販生活』No.237、出版は2009年11月で6年前のものだった。見出しをのぞく
本文は870字(15字×29行×2段)で、これはこの雑誌の1頁の5分の2、このあとに、2段の分量
で2冊の本の書評、そしてさいごの1段にその2冊の本の表紙の画像と書評を書いた鈴木耕氏の
プロフィールが記されている。
この頁の上段に横書きで、「本のページ 地方出版はお宝の山 最終回」とあり、本文
は縦書き、まず、その大文字の見出しから
松下竜一の生き方を、
理に走らず情に流されず、
静かに優しく辿った評伝。
解説 鈴木耕(編集者)
(以下本文より)
断言するけれど、この『松下竜一の青春』は評伝文学の傑作である。このような力と才能を持った
著者が、地方に隠れているなんて驚くしかない。私が松下竜一の古くからのファンである、という
バイアスがかかっているとしても、これほど著者と対象人物が渾然一体となって、優しくも切ない
文章に昇華されている評伝は、他に類をみない。
松下竜一は、大分県中津市に生まれその地で生涯を終えた作家である。『豆腐屋の四季』でデビュー
し、その後『風成の女たち』『五分の虫、一寸の魂』『砦に拠る』『ルイズ―父に貰いし名は』『狼
煙を見よ』などの名著を世に問い、同時に反原発、冤罪救援、憲法擁護など幅広い市民運動を展開し
た、堂々たる反骨の人であった。
著者の新木安利氏は、松下が立ち上げた『草の根通信』の手助けなどで松下の謦咳(けいがい)に接
し、その人柄に魅せられ、松下の死(2004年、67歳)まで彼の伴走をすることとなる。
新木氏は、松下のすべての著作を、どんな小さなものも見逃すことなく、それも同じものを繰り返し
読み込んでいる。その上で松下の思想の根源に迫る。白眉は「暗闇の思想」と「濫訴の幣」である。
「ランソのヘイ」とは何か。民がみだりに訴えあっては社会秩序が乱れるし、庶民が法律になじんで
は支配がうまくいかなくなる。ゆえに”みだりに訴えを起こしてはならぬ”という権力側の言葉であ
る。
松下はこれを逆手にとる。「ランソの兵」と読み替え、権力も大企業も訴えて訴えぬくことによって、
新しい庶民の世が到来すると看破した。こんな松下の生き方を、理に走らず情に流されず、著者は淡
々と静かに、しかも優しく辿っていく。
この本の特徴は、著者の文章が見事に美しいことである。対象に寄り添いすぎれば文章は甘くなり、
筆は曲がる。地方の文筆家にありがちな郷里を吹聴したいがための誇張や歪曲もない。著者は一人の
同郷人のまことに稀有な生き方を、とても静かな筆致で甦らせた。私は自分の本棚を漁って、もう一
度松下の著作を読み返してみようと思った。
(もう2冊の書評)
もう一人、稀有な生き方をした人物の本を紹介しよう。トルストイの翻訳者、研究者として有名な
ロシア文学者の北御門(きたみかど)二郎の著書『ある徴兵拒否者の歩み』である。本書は83年に刊行
されたものだが、99年に復刊された。その新版のまえがき「若い人へ」にこうある。
〈もう、今から六十年前になります。すぐる太平洋戦争の折、国をあげて戦争に熱するさなか、私はや
むにやまれぬ気持ちで戦争を「否(いや)」といい、「人を殺すくらいなら殺されるほうを選ぼう」と
徴兵を拒否しました。トルストイにめぐり逢ってのことです。きっと軍法会議にかけられて、銃殺刑か
しばり首になろうと死を覚悟していた私は、幸か不幸か、狂人として扱われ、生き長らえました。〉
狂人でなければ生きられなかった時代。時代が狂気に満ちていた時代ゆえに、正気の人は狂人として扱
われた。それが戦争というものの本質だったのだろう。
本著は戦前戦中篇と戦後篇に分かれているが、ひたすらにトルストイに寄り添い、反戦と非暴力を唱え
続け、それを自らの生き方として貫いた生涯は、まさに文学者としての凄まじい魂である。04年、91歳
で世を去った。
最後は、無名の人々の切ない眩きである。『手紙が語る戦争』は、どこにでもいた庶民たちがひそやか
に綴り、家族や恋人たちに送った手紙を集めたものだ。「女性の日記から学ぶ会」の活動の中で見出さ
れた手紙を、「家族のきずな」「兵士たちからの手紙」「遺書」の三章にまとめたもの。
ここには抵抗の叫びも、厭戦の想いも綴られていない。しかしそれだからこそ、普通の人々の心の奥が
垣間見える。書いた本人の若い写真が哀しい。父母へ送った疎開児童の幼い文字が痛ましい。叫びはな
いけれど、戦争への怒りが静かにこみ上げてくる。
●さて、この連載は次号からの誌面刷新のため、今回で終了です。志を探す旅でした。またいつかどこ
かでお会いしましょう。では・・・。
鈴木耕
1945年秋田県生まれ。1970年早稲田大学文学部文芸科卒業、出版社に入社。芸能誌、青年誌などを経て、
若者向け週刊誌の編集長、新書編集部部長などを務める。2005年ボランティア・スタッフとして、ウェ
ブマガジン「マガジン9条」の立ち上げに参加。2006年出版社を退社。現在、フリー編集者&ライター。
「マガジン9条」の活動を手伝う(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです。
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鈴木氏は短い字数のなかで、『松下竜一の青春』の核心を伝えている。
本文(287頁)は、1 青春、2 作家宣言、3 環境権、4 いのちきの思想、の4節からなり、これに続いて
「付録」(新木さんが「草の根通信」に投稿した3編1⃣松下さんが倒れた、2⃣正岡子規と松下さん、
3⃣松下さんに感謝、及び「死は涼しい」(『勁き草の根 松下竜一追悼文集』より)が掲載されている。
そして「あとがき」では、1⃣松下さんと僕、2⃣『図録 松下竜一その仕事』所収年譜のこと 松下竜一年譜
作りに携わって、3⃣『松下竜一の青春』について、4⃣「草の根通信」総目次について【この大変な労作につ
いては、図書館でリクエストをして手にした。鳥取県立図書館からのものだった)
そして、最後の最後に「松下竜一とその時代【年譜】がある。新木さんの松下竜一への想いの深さ、持続的
な取り組みに心打たれる。
なによりも『松下竜一の青春』の面白さに。他日、小さな感想を記したい。
2025年7月5日土曜日
「沖縄・ヒロシマ・長崎から」―出前の本の話・7月7日 No.139
7月と8月、ノドカフェへの風信子(ヒアシンス)文庫からの ”出前の本”は「沖縄・ヒロシマ・長崎から」です。
実はこのテーマと同じ本の出前、そして出前の本の話を2年前の2023年の7月5日に行なっています。その際、なぜこの
テーマとしたかについて、沖縄、広島、長崎がなにか一つながりのものとして感じられる。それはなぜか。どういうこ
とかを自問しながら語った、と記しています。
6月25日、トランプ大統領は6月22日に行ったイラン国内での核施設空爆に対して、「あの一撃で戦争は終わった」、
「広島の例は使いたくないし、長崎の例も使いたくないが、本質的には同じだ」と記者団に話したと報じられている。
一月後の8月6日、9日には広島、長崎に原爆が投下されて80年になる今日この時に、このような発言をアメリカの大統
領が行なうということついても、参加される方と語りあいたい。
2025年5月17日土曜日
カンタ!ティモール(うたえ!ティモール)をみる No.138
5月18日(日)、糸島市前原でドキュメンタリー映画「Canta!Timor カンタ!ティモール うたえ!ティモール」をみる
ことができた。私は東ティモールについても、またこの映画についてもまったく何も知らない状態でこのドキュメンタリー
と対面した。この映画会は5月17,18日と2日間にわたって、しかも監督の広田奈津子さんを愛知県から迎え、110分間の上
映後には広田監督のお話会(60分)、引き続き参加者との自由な対話の時間(50分)も組まれていて、主催者のこの上映の
場にかける思いが、チラシのプログラムからもうかがえるように思えた。縦21センチ、横14.8センチの小さなチラシには
大きな文字で「糸島上映会 + 広田奈津子監督お話会」と記されている。
上映会を主催した川本さんは、1年前、東京でこの映画をみたとのこと、そのあと移り住んだ糸島で2日間にわたって、しか
も監督の広田さんを呼んでという上映会の場をつくられたのだ。その企画の内容というか、思いの深さに驚かされる。
ここでは、この小さなチラシのコトバを順不同で紹介したい。
"人類はひとつの兄弟なのさ
父もひとり、母もひとり
大地の子ども
憎んじゃだめさ、叩いちゃだめ
戦争は過ちだ、大地が怒るよ。”
「舞台は南海に浮かぶ神々の島、ティモール。
ひとつの歌から始まった運命の旅が、音楽あふれるドキュメンタリー映画となった。
この島を襲った悲劇と、それを生き抜いた奇跡の人びと、その姿が、世界に希望の光をなげかける。
当時23歳だった日本人女性監督は、人びとの暮らしの中で現地語を学び、彼らの唄に隠された
本当の意味に触れてゆく。そして出会う。光をたたえるまなざし。詩のようにつむがれる言葉の数々。
それは見る者の胸をそっと貫き、決して消えない余韻となる。
日本が深く関わりながら、ほとんど報道されなかった東ティモールの闘いをとりあげた、国内初の長編。
自主映画ながらも感動は国境を越え、5カ国100カ所以上の上映会で会場が心を震わせた、愛すべきエチュード。」
”3.11以降の日本人の生き方のヒントが、この映画にはつまっている。”
監督:広田奈津子
助監督/音楽監督:小向(こむかい)サダム
監修:中川 敬 ソウル・フラワー・ユニオン
南風島(はえじま)渉 フォトジャーナリスト”いつかロロサエの森でー
東ティモール・ゼロからの出発(たびだち)”他
ドッキュメンタリー/カラー/DV/110分/4:3/ステレオ
2012年東ティモール日本/日・英・テトゥン語
字幕:日・英・仏・テトゥン語/自主制作・初監督作品
公式サイトwww.canta-timor.com
STORY 東ティモールで耳にした、ある青年の歌。日本帰国後もメロディが耳に残って離れない。
監督たちは青年を探すため島へ戻る。そして一つの旅が始まった― ̄ ̄
「ねぇ仲間たち ねぇ大人たち 僕らのあやまちを 大地は知っているよ」
歌はこう始まっていた。
直接的な言葉を歌え命に危険が及ぶ、インドネシア軍事統制下にひっそりと謳われた歌だった。
青年に連れられて、監督たちは島の奥へと入っていく。
そこに広がるのは、精霊たちと共にある暮らし。青い海、たわわに実るマンゴー、はじけるような笑顔の人々。
常夏のおおきな太陽に照らされ、深い影を落とすのは、人々の命を奪った軍事侵略。
報道にのらない地下資源ビジネス、日本の驚くべき行動。
3人に1人が命を落としながら、彼らが守り抜いたもの―
「悲しい。いつまでも悲しみは消えない。でもそれは怒りじゃない。怒りじゃないんだ。」
「人は空の星々と同じ 消えては 空をめぐり また必ず 君に会える」
弾丸が飛び交う中、人々は命をわけるように助け合い、そして笑い、歌った。
大地に生かされ、輪になって踊る、遠く懐かしい風景。
いつのまにかティモールの旅はそっと監督たちに問いかける。
愛すべきふるさと、日本の島々の姿を―
彼らのことばが、
うたが、
いつまでも
心をはなれないのは、
それがほんとうの
物語だから。
2025年5月12日月曜日
「なんでも」について No5-(2)
※お知らせ
「図書館の風」No.5とNo.58ー(2)は、「公開」の状態になっていなかったことに気が付いたのが
昨日5月11日でした。すぐに「公開」にしたところ、なぜか、No.137の次、直近の日付の箇所にな
ってしまいました。いきなり、Noが順番外のものがでてしまい、何だろうと思われたかと思います。
とばして、いただければと思います。
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「図書館の発見」 図書館私史
私は
・「さいごに」でふれた、公開質問状の第4問について。
糸島市立図書館では、リクエストされた本が図書館に所蔵していないで、他の図書館から借りる場合(「相互貸借」という)、これまでは県内の公立図書館と国立国会図書館からに限られていました。予算(切手代)がないというのがその理由でした。(国立国会図書館から借りる場合は、当然その費用がかかっていたわけですが。)
このため、ある年には県内の小郡市立図書館や久留米市立図書館の前年度の1年間に小郡市、久留米市の図書館が他府県の図書館と相互貸借した資料を入手し(その資料には、相互貸借をした図書館の名前と件数を記載)、糸島市立図書館のカウンターに持参して、県内の図書館のサービスの実態を伝えて、糸島市の図書館での実施を要望したこともありましたが、実現せず今日にまで及んでいた経緯がありました。
今回、市長に当選された月形祐二氏の公開質問状での回答(平成30年1月23日、受け取り)により、リクエストされた本は相互貸借により他府県の図書館からも(先方の図書館が貸出を認める資料は)借りることができるようになります。
ただし、これで一件落着ということではなく、なぜこれまで、他の図書館が図書館サービスの基本として行っていることが糸島市の図書館でできずにきたかを考えることは、これからのよりよい糸島市のあり方を図書館を考える上で大切なことではないかと考えます。
図書館は何をするところか 「なんでも」 リクエスト・サービスのこと
「図書館の発見」 図書館私史
私は今から46年前の1972年(昭和47)4月に千葉県の八千代市立図書館で司書として採用され、図書館員として働き始めました。(八千代市の図書館は2年で退職し、以後、福岡市民図書館1976.7~、博多駅前4丁目の財団法人の図書館1979.4~、福岡県苅田町立図書館1988.12~, 滋賀県能登川町立図書館1995.4~, 合併により東近江市立能登川図書館2006.1~2007.3 合計5つの図書館で勤務)
八千代市立図書館は旧中学校の校舎の教室4つ分(うち、1教室分は図書館の事務室)という、とても小さな図書館でしたが、移動図書館で市内の小学校や団地の集会所や昼食時間時の工場前などを巡回し、図書館で所蔵していない本のリクエストには購入や相互貸借で応えていました。
1965年(昭和40年)に1台の移動図書館から図書館を始め、順次分館を建て(7分館)、最後に中央館を建てて、その後の日本の公立図書館のあり方に決定的な影響を与えた東京都の日野市立図書館はまた、「いつでも」「どこでも」「だれでも」に「なんでも」を加えて、日本で初めてリクエスト・サービスを実施した図書館でもありました。
私が八千代市の図書館で働き始めた時は、日野市立図書館の開館から7年が経っていましたが、日野市立図書館の影響が千葉県の小さな図書館にも及んでいてリクエストは図書館として当たり前のサービスとして行われていました。
図書館の仕事で私が一番驚かされたのは、リクエストされて用意できた本を、用意できた旨、事前に電話で連絡し移動図書館の巡回先で、目当ての本を待ち受けている方に手渡すときに示されるお一人お一人の底深い感謝のお気持ちが心響くように伝わってくることでした。(ある時はお言葉で、またある時は無言の態度で。)
その人の求める資料を確実に手渡すこと、ああ、これが図書館の仕事だと体を通して知らされたのだと思います。「図書館は、だれのために、何をするところか」、広島市で生まれ、倉敷市や福岡市の3つの市で小学生の時を過ごし、成人になるまでも、ずっと身近に公立図書館がなく育った私にとっての「図書館の発見」であったと今にして思います。
人口100万人を超える福岡市で福岡市民図書館が開館したのが、日野市立図書館が開館して11年後の1976年(昭和51年、私が30歳の時です)。
旧前原市において市民による「図書館建設の援助をする会」が署名16,420人分を集めて市長に提出したのが1994年(平成6年、その市民の運動は、1990年に開館した苅田町立図書館を視察して「図書館の発見」をした、当時の一人の市議会議員の図書館との衝撃的な出会いから始まったことを、つい最近、そのご本人からお聞きする機会がありました。)
以後、市民による図書館を求める懸命な運動が積み重ねられましたが、日野市にならって1台の移動図書館で前原市の図書館サービスが始まったのは、署名提出4年後の1998年(平成10年)のことでした。日野市立図書館が開館してから実に33年後のことです。
さらにその後、紆余曲折を経て、前原市図書館(パピルス館)が開館したのが、移動図書館のサービスが始まってから7年後の2005年(平成17年)、そして二丈、志摩地区に図書館が開館したのは合併(2010年/平成22年)後の2011年(平成23年)のこと、図書館法(1950年)が制定されてから61年後のことでした。二丈、志摩地区では2世代に渡って図書館がない時が延々と続いてきたと言えます。
かつて「後進国(ある頃より後進国という言葉ではなく、発展途上国と言われてきました)の先進性」という言葉が使われていました。後進国(発展途上国)は、いろいろな点でスタートが遅れているけれども、何事かを始めるにあたっては、先に歩んでいる所の経験をしっかり学んで、ゼロから出発するのではなく、先に進んでいる所のあり方をスタート台にして歩むことができる、それだけより先に進める可能性をもっていることを示す言葉であったと思います。
このことは図書館の世界でも言えるように思います。日野市立図書館の開館から遅れて、図書館によっては数十年後にスタートした図書館でも、日野市や多摩地区の図書館や全国各地で先進的な活動を展開する図書館の活動に学び、さらに住民の強い支持を得る、底深い図書館サービスを行ってきた図書館を各地で見ることができます。
(九州では、「伊万里市民図書館」や「たらみ図書館」(現在は諫早市と合併)など)
それらの図書館に共通して見られることがあります。
1.図書館を利用する時の、もっとも一般的な方法である「貸出」(資料や情報の提供)を
図書館サービスの基本とし、住民の求める資料や情報の提供によって、すべての住民
の「知る自由」を保障することを図書館の重要な責務(役割)としていること。
「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」
「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館である。
「すべてのこくみんは、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、
年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」
『図書館の自由に関する宣言 1979年改訂』
(日本図書館協会、1979年の総会で採択)
「われわれは、
由」を保障しすることを
すべての住民が「いつでも」「どこでも」「だれでも
私は
・「さいごに」でふれた、公開質問状の第4問について。
糸島市立図書館では、リクエストされた本が図書館に所蔵していないで、他の図書館から借りる場合(「相互貸借」という)、これまでは県内の公立図書館と国立国会図書館からに限られていました。予算(切手代)がないというのがその理由でした。(国立国会図書館から借りる場合は、当然その費用がかかっていたわけですが。)
このため、ある年には県内の小郡市立図書館や久留米市立図書館の前年度の1年間に小郡市、久留米市の図書館が他府県の図書館と相互貸借した資料を入手し(その資料には、相互貸借をした図書館の名前と件数を記載)、糸島市立図書館のカウンターに持参して、県内の図書館のサービスの実態を伝えて、糸島市の図書館での実施を要望したこともありましたが、実現せず今日にまで及んでいた経緯がありました。
今回、市長に当選された月形祐二氏の公開質問状での回答(平成30年1月23日、受け取り)により、リクエストされた本は相互貸借により他府県の図書館からも(先方の図書館が貸出を認める資料は)借りることができるようになります。
ただし、これで一件落着ということではなく、なぜこれまで、他の図書館が図書館サービスの基本として行っていることが糸島市の図書館でできずにきたかを考えることは、これからのよりよい糸島市のあり方を図書館を考える上で大切なことではないかと考えます。
図書館は何をするところか 「なんでも」 リクエスト・サービスのこと
「図書館の発見」 図書館私史
私は今から46年前の1972年(昭和47)4月に千葉県の八千代市立図書館で司書として採用され、図書館員として働き始めました。(八千代市の図書館は2年で退職し、以後、福岡市民図書館1976.7~、博多駅前4丁目の財団法人の図書館1979.4~、福岡県苅田町立図書館1988.12~, 滋賀県能登川町立図書館1995.4~, 合併により東近江市立能登川図書館2006.1~2007.3 合計5つの図書館で勤務)
八千代市立図書館は旧中学校の校舎の教室4つ分(うち、1教室分は図書館の事務室)という、とても小さな図書館でしたが、移動図書館で市内の小学校や団地の集会所や昼食時間時の工場前などを巡回し、図書館で所蔵していない本のリクエストには購入や相互貸借で応えていました。
1965年(昭和40年)に1台の移動図書館から図書館を始め、順次分館を建て(7分館)、最後に中央館を建てて、その後の日本の公立図書館のあり方に決定的な影響を与えた東京都の日野市立図書館はまた、「いつでも」「どこでも」「だれでも」に「なんでも」を加えて、日本で初めてリクエスト・サービスを実施した図書館でもありました。
私が八千代市の図書館で働き始めた時は、日野市立図書館の開館から7年が経っていましたが、日野市立図書館の影響が千葉県の小さな図書館にも及んでいてリクエストは図書館として当たり前のサービスとして行われていました。
図書館の仕事で私が一番驚かされたのは、リクエストされて用意できた本を、用意できた旨、事前に電話で連絡し移動図書館の巡回先で、目当ての本を待ち受けている方に手渡すときに示されるお一人お一人の底深い感謝のお気持ちが心響くように伝わってくることでした。(ある時はお言葉で、またある時は無言の態度で。)
その人の求める資料を確実に手渡すこと、ああ、これが図書館の仕事だと体を通して知らされたのだと思います。「図書館は、だれのために、何をするところか」、広島市で生まれ、倉敷市や福岡市の3つの市で小学生の時を過ごし、成人になるまでも、ずっと身近に公立図書館がなく育った私にとっての「図書館の発見」であったと今にして思います。
人口100万人を超える福岡市で福岡市民図書館が開館したのが、日野市立図書館が開館して11年後の1976年(昭和51年、私が30歳の時です)。
旧前原市において市民による「図書館建設の援助をする会」が署名16,420人分を集めて市長に提出したのが1994年(平成6年、その市民の運動は、1990年に開館した苅田町立図書館を視察して「図書館の発見」をした、当時の一人の市議会議員の図書館との衝撃的な出会いから始まったことを、つい最近、そのご本人からお聞きする機会がありました。)
以後、市民による図書館を求める懸命な運動が積み重ねられましたが、日野市にならって1台の移動図書館で前原市の図書館サービスが始まったのは、署名提出4年後の1998年(平成10年)のことでした。日野市立図書館が開館してから実に33年後のことです。
さらにその後、紆余曲折を経て、前原市図書館(パピルス館)が開館したのが、移動図書館のサービスが始まってから7年後の2005年(平成17年)、そして二丈、志摩地区に図書館が開館したのは合併(2010年/平成22年)後の2011年(平成23年)のこと、図書館法(1950年)が制定されてから61年後のことでした。二丈、志摩地区では2世代に渡って図書館がない時が延々と続いてきたと言えます。
かつて「後進国(ある頃より後進国という言葉ではなく、発展途上国と言われてきました)の先進性」という言葉が使われていました。後進国(発展途上国)は、いろいろな点でスタートが遅れているけれども、何事かを始めるにあたっては、先に歩んでいる所の経験をしっかり学んで、ゼロから出発するのではなく、先に進んでいる所のあり方をスタート台にして歩むことができる、それだけより先に進める可能性をもっていることを示す言葉であったと思います。
このことは図書館の世界でも言えるように思います。日野市立図書館の開館から遅れて、図書館によっては数十年後にスタートした図書館でも、日野市や多摩地区の図書館や全国各地で先進的な活動を展開する図書館の活動に学び、さらに住民の強い支持を得る、底深い図書館サービスを行ってきた図書館を各地で見ることができます。
(九州では、「伊万里市民図書館」や「たらみ図書館」(現在は諫早市と合併)など)
それらの図書館に共通して見られることがあります。
1.図書館を利用する時の、もっとも一般的な方法である「貸出」(資料や情報の提供)を
図書館サービスの基本とし、住民の求める資料や情報の提供によって、すべての住民
の「知る自由」を保障することを図書館の重要な責務(役割)としていること。
「すべての国民は、いつでもその必要とする資料を入手し利用する権利を有する」
「この権利を社会的に保障することに責任を負う機関」が図書館である。
「すべてのこくみんは、図書館利用に公平な権利をもっており、人種、信条、性別、
年齢やそのおかれている条件等によっていかなる差別もあってはならない」
『図書館の自由に関する宣言 1979年改訂』
(日本図書館協会、1979年の総会で採択)
「われわれは、
由」を保障しすることを
すべての住民が「いつでも」「どこでも」「だれでも
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