2023年8月27日日曜日

漆原宏さんから  No.119

昨年、9月に亡くなられた漆原宏さんの追悼の記を、図書館問題研究会(図問研) 福岡支部の会報に掲載していました。ここに掲載いたします。  (パソコンによわく、すぐにブログに掲載できず、甥っ子が来た時に、その 助力で、ようやく掲載しました。)―――――ーーーーーーーーーーーーー 漆原宏さんから手渡されたもの 悼詞  (1939.4~2022.9) 漆原宏さんの訃報を知ったのは9月17日、亡くなられて2日後のことだっ た。漆原美智子さんが発信されているお言葉でだった。美智子さんによれば 漆原さんは一年間寝ついて懇切な訪問看護を受けられていた由。「9月15日 朝方、千葉さん、大澤さん、伊藤さん達のおられる世界に旅立ちました。18 日に自宅から出棺、部屋には彼の写真パネル・・・彼らしい人生でした。」と。 とっさに私の中に浮かんだのは、たしか旅先の静岡からいただいた漆原さん からの電話のことだった。「いま、美智子さんと一緒にいます、これから二人 での生活を始めます」と話されたあの時のはずんだお声、漆原さんの深い喜 びがまっすぐ伝わってきて、私までも何ともうれしい思いにつつまれたあの ひと時のことだった。あれはいつのことだったか。以後、漆原さんを思う日が 続いている。出会いの時からこれまで、漆原さんから手渡されてきたもの、 そのかけがえのなさをあらためて思う。自ら深く自覚することなく、それを 手渡されてきた。 最初に漆原さんにお会いしたのは私が博多駅前4丁目にあった記念会館図書室 (財団法人博多駅地区土地区画整理記念開館)で働いていた時のことだ。千葉 県の八千代市の図書館を2年でやめ(1974・昭和49.3月)、退職間際のある出 会いから保育所の保母さん3人と共に職業病の問題(公務災害)で2年近く共 に動き、公務災害の認定を経て1975(昭和50)年に福岡に帰ってきた。そし て翌年の1976(昭和51)年の7月頃から、5月に開館して間もない福岡市民図 書館で嘱託職員として働き始めた。同館には1979(昭和54)年3月まで、足掛 け3年弱、主に福岡市内に160ヵ所近くあった文庫などに、団体貸出の本を運 ぶ仕事についていた。 同年四月からは財団法人記念会館の職員として1988(昭和63)年11月末まで 9年弱働いた。記念会館は福岡市が20年をこえて博多駅地区の区画整理事業を行 い、事業完了後、この事業への地域の人の協力に感謝して建てられたもの。1階に 232㎡の図書室、2階、3階に無料の大広間、また有料の茶室や会議室(小・中・ 大)があり、職員は福岡市を定年退職した職員が事務局長として数年間でかわり、 正規職員は私1人(数年間は事務職員が1名)、庶務、経理担当の嘱託職員1名 (最後の数年間は私も経理の仕事、財産目録や貸借対照表の作成、複式簿記など も担当)。そして図書室には、当初、臨時職員1名(のちに2名に。福岡市民図 書館と2か月ごとに交互に勤務)という体制だった。福岡市から寄付された3億 5千万円を基本財産として、その運用利息と会議室の使用料収入が原資で、とり わけ利息収入が収入の大半を占めていた。 1976(昭和51)年当時、人口100万人をこえる福岡市に市立図書館は、5月に 開館した福岡市民図書館1館だけで、各区にあった市民センター図書室は分館では なく、公民館図書室の位置づけだった。私が働き始めた記念会館図書室は仕組みとし ては、福岡市の図書館の分館ではないけれども、私自身としては、地域館だと、福岡 市の分館だと考え、特に「利用者の求めるものを、できるだけ速く、利用者を手ぶら で帰さない」ということを基本にして働いていた。リクエストを当たり前のことと考 え、相互貸借での借り受けは主に築港本町にあった福岡市民図書館から行い、時折自 転車やたまにタクシーで出かけていた。(当時、福岡県内の図書館では、それが必ずし も図書館の当たり前の基本的なサービスとして、行われていなかったように思う。数 年後、福岡市内の須崎公園内にあった県立図書館で、たしか2万冊ほどが、初めて開 架スペースに出されて貸出されていた時代だった。記念会館開館3年後の1982年、 昭和57年度の福岡市民図書館の貸出は32万1千冊、市民センター図書室4室等の貸 出89万1千冊を加えても、福岡市民1人当たりの貸出は1.14冊。この年の市民図書 館のリクエスト冊数2,313冊、記念会館4,668冊の1/2以下)。 漆原さんが記念会館図書室に初めてやって来られたのは記念会館が1979(昭和54)年 に開館してどれぐらい経った時だっただろうか。今となっては定かでないのだが、カ メラをもって図書室に入ってこられたその時の姿、表情を覚えている。その笑顔と人を 包みこんでやまないその人柄と活気(元気な気配)を。 それまで一面識もない漆原さんがどうして来られたのか。記憶のかすかな糸をたぐる と、県立図書館の白根一夫さんが、たしか『みんなの図書館』に記念会館図書室のこ とを書いていて、それで知られたのだろうか。それとももしかしたら福岡県立図書館 を取材された漆原さんが白根さんから記念会館のことを聞かれたのだったか。いずれ にしても白根さんが漆原さんとの出会いの縁しをとりもってくれたことに今にしてよ うやく気づくあり様だ。 白根さんとの出会いがあり、私が図書館問題研究会(以下、図問研)福岡支部の事務 局を記念会館で引き受けたのは1986(昭和61)年からだったと思う。同年8月から 毎月1回の福岡地区の定例会を始めると共に、参加された会員、非会員の人たちと福 岡市の図書館の登録者分布図の作成や福岡県内の図書館の状況が見える資料作りに取 りくんだ。それまで7年間、財団法人の小さな図書室で働いてきて、人口100万人を こえる大都市で市立図書館が1館しかないことの問題、市民の大半に、図書館が身近 にないことの問題を切実に感じるようになっていた。そして、当時私が住んでいた 福岡市のある地区で、生協を通して梅田順子さんと知りあったことが私にとってとて も大きな出来事だった。 そしてその年の11月22日、図問研福岡支部長名で福岡市長選立候補者に図書館政策 を問う公開質問状をだした。支部長は白根一夫さんだった。翌年1987(昭和62)年2 月に開催した支部の総会では、3月20日に予定されていた県知事選にどう取り組むかの 論議のなかで、 ① 市長選で支部長名の個人名をだしたことについて、支部会員内部にも反論があっ たこと、及び支部の活動の実態からいって、支部が主体とはなり得ない。かとい って実体のない主体を作り上げて出すのはやめたほうが良い。 ② 県立図書館のサービスアップを訴えるならともかく、市長選などと異なり、知事選挙 では、訴える内容が、県行政にとっては直接的なかかわりが薄いものになるのではないか。 ③ 現職知事批判になり得るのではないか(「図問研ふくおか支部ニュース」復刊、 No.16、1987(昭和62)年2月28日発行) などの発言があった。この間、白根さんが上司から呼ばれ、県職員が市長選挙で公開質問状を出すことについて問われるということもあった。私は一人の図書館員だったが、同時に福岡市に暮らす一人の市民として、よりよい図書館づくりに向けて何をなすべきかを考える契機となる出来事だった。 そのような状況の最中の3月1日と2日、私は図問研の全国委員会に出席するため東京にでかけ、その日の夜だったか、食事を共にするため漆原さんに会っている。その会食の場には、全国委員会が初対面で、その後、漆原さんと共に生涯にわたって深い力をいただいた千葉治さんと、そして大澤正雄さん、伊藤峻さん、たしか中多さん(一度きりの出会い)がおられた。大澤さん、伊藤さん、中多さんとは初対面、それぞれどんな方かも知らない私だった。大澤さんにはそれから、私にとっての要所要所でお力をいただき、伊藤さんには朝倉町で町長や町民への講演で、伊藤さんならでのお話や長崎県上五島有川町の図書館まで訪ねて(2人の職員、宇戸明子さん、角谷悌子さんに深い元気を)手渡してくださった。その夜その時には私自身、思いもよらないことだったが、以後幾人もの私にとって大切な人となるお一人一人を漆原さんから出会わせていただいたことをあらためて思う。 【この時の2つの図書館の見学で、卓球台のあるスペースの床がすり減っていた八広図書館と、新たに新築開館していた日野市の高幡分館を訪ねたことは、図書館は何をするところか、また分館の在りようについて、私にとって、心深々と、たしかなイメージを授かる出来事だった。また、1987年の全国委員には九州では、佐賀の原田明夫、大分の渡部幹雄、山口の山本哲夫、広島・神田全教、兵庫・原田安敬、大阪・西村一夫、松宮透・滋賀、松島茂・東京、三村敦美・神奈川、高波郁子・千葉、古我貞夫・埼玉、他の各氏、常任委員には、松岡要委員長(3月には千葉治委員長だったのではと思う)、西村彩枝子事務局長、坂部豪、伊藤峻、後藤暢、半田雄二、伊沢ユキエ、川越峰子、若杉隆志、他の各氏。宮城、仙台の平形ひろみさんに会ったのもその時だったと思う。】〔『住民の権利としての図書館を・図問研年表1945―2015・資料集1954―2013』、ここにあげたお一人ひとりが漆原さんとつながり、連なり、漆原さんからナニモノカを手渡されていたのだとあらためて思う。〕 その食事の場で福岡の状況を話したのだったか。あるいは、福岡に帰ってから伝えたのだったか。私は漆原さんから「仙台にもっと図書館をつくる会」の活動のこと、つくる会の代表の扇元久栄さんのお名前をお聞きしている。 ようやく出てきた資料をみると、「東京から帰って来て程なく、私は仙台の扇元さんに電話をかけて」いる。1987(昭和62)年3月5日のこと。「多分、漆原さんから夜遅く電話しても大丈夫だと聞かされてのことだったと思うのですが、それでも私の記憶では、電話をしたのは夜10時くらいだったと思っていました。ところが、その後、扇元さんにお会いし時間のことを話ましたら、即座に「いいえ、才津原さん、零時を過ぎていました」と言われたのだった。「いくら夜遅くに電話しても大丈夫だと言われたとはいえ、初めての方に深夜、零時を過ぎて電話をかけるとは、私自身、とてもせっぱつまった思いの中にいた」のだと思う。 その後の私の歩みを振り返ってみると、扇元さんとの出会い(最初は電話で)はその後の私の歩みを決めるような出来事だったように思う。扇元さんからはすぐに、つくる会の活動のすさまじい資料が送られてきた。考える部会(市民がつくる図書館計画)、伝える部会(会報「MOTTO」)、広める部会(お話の出前、読み聞かせ、折り紙)の3つの部会を作っての目を瞠る活動(運動)のひとつひとつに驚かされた。「考える」「伝える」「広める」の3つは、どのような会の形であれ、福岡での活動(運動)の柱となることだろう。それにしても、つくる会の活動の何とも自由で生き生きとした様子が、一つひとつ、一枚一枚の資料や冊子から立ち現れてきたのに驚いた。そして扇元さんの細やかで心温かいお言葉に心打たれた。 扇元さんから大きな指針と深い励ましを手渡されて、程なく「福岡の図書館を考える会」の活動が始まった。梅田順子さんが考える会の代表をすっと引き受けてくださったのが会の始まりだった。1987年のことだ。考える会では、 ①月1回の定例会(市民センター会議室、新聞に集会参加の呼びかけ、第1回―4月8日) ②図書館のお話の出前(福岡市内だけではなく、どこにでも)、講演会(山口県周東町立図書館長、山本哲生さん。茨城県水海道市立図書館を設計した三上清一さん。) ③ 福岡市の図書館政策づくり に取り組んだ。 ②の「図書館の話の出前」では、以後、生涯にわたる友人、知人となる出会いがあった。柳川の図書館を考える会の菊池美智子さんの所へは、福岡の考える会の2人の元気な若い仲間とスライドをもって出かけ、心温かな出会いの中で、3人が一宿一飯の恩義を授かった。(蚊帳をつっていただいた。)この時の出前が美智子さんと漆原さんとの出会いの遠景に連なっていたかもと心に想うのは、心嬉しい思い出だ。人の出会い、縁しの不思議さを思う。 行橋の図書館を考える会の出前では、前田賎さん、神田先生方とともに、苅田町の山崎周作さんと出会い、その後、苅田町に行く契機となった。(1988年12月1日、苅田町図書館開設準備室へ) ③ の福岡市の図書館政策づくりは、当初3カ月の予定が1年にも及ぶものとなった。福岡 市の図書館の登録者分布図の作成、この膨大な手作業に若き仲間たちが力をつくした。図書館が市民の身近にない状況が、一枚の福岡市の地図の上に、はっきりと目に鮮やかに立ち現れた。タイトルを、『ニ00一年 われらの図書館―すべての福岡市民が図書館を身近なものとするために―』とした。前川恒雄さんが『われらの図書館』で示された図書館の在りようが13年後の21世紀、2001年には福岡市で、“われらの図書館”に向けての歩みの第一歩が踏みだされているようにとの願いをこめたものだった。 総ページ47ページ、3部からなり、「第1部わたしたちの図書館―図書館入門編」では、菅原峻さんの図書館施設計画研究所が作成した「図書館とわたしたち」(絵本作家わかやまけん・イラスト)をモデルに、「Aだれでも」「Bどこに住んでいても」「Cなんでも(どんな資料でも)について、若き仲間がイラストと言葉で心強い渾身の力を発揮した。 「第2部福岡市の図書館―現状と問題点―」では、「1.身近に図書館がない⁈」とはどういうことか。「2.図書購入費の問題」「3.職員の問題」「4.市民センターの問題」をイラスト入りで。 そして「第3部わたしたちの図書館構想―近・未来編―」では、【一番参考にしたのは、1970年の東京都の『図書館政策の課題と対策』だった。】「1.図書館活動の諸目標 6つの目標」として、「①くらしの中に図書館を―貸出を指標に―」「②市民の身近に図書館を―図書館システムの確立を―」(1)歩いて行けるところに図書館を(2)図書館整備計画(3) ここにこんな図書館を。図書館配置構想/イラストで。3.「豊富な資料を―新しい本をたくさん」「4.司書を必ず図書館に」「5.障害者・病人・恒例の人たちへのサービス」「6.地域住民の“ひろば”としての図書館を」 「2.当面の施策、何からはじめるか」 「① まず自動車図書館(BM)の運行から」「②市民センター図書室を分館に」「③地区館・分館の建設について」「4中央図書館について」 ここで35年前の市民がつくった図書館構想を少し詳しく記したのは、福岡の図書館を考える会の仲間たちと力をつくして作った『2001年 われらの図書館』の構想が、そのまま苅田町の図書館計画の下地になっていたという、今、現在の気づきによるものです。 そうして、もう一つの気づき、図書館が何であるか、「いつでも」「どこでも」「だれでも」「なんでも」とは、どういうことであるか。「移動図書館とは何か」、そして「図書館長のの仕事、その姿、佇まい、司書である図書館職員の働きかた」とはどのようなものであるか。そして「図書館を利用する一人ひとりの利用者の姿、在りよう」とはどんなものか。それらを漆原さんの図書館の最初の写真集『地域に育つくらしの中の図書館 漆原 宏写真集』の一枚一枚の写真から眼に見えるものとして受け取っていたのだと今にしてあらためて思うからです。タイトルの「地域に育つくらしの中の図書館」こそ、私自身が一人の市民として、また一図書館員として目指してきたことだったことをあらためて思う。そのはじまりが、その時それと気づくことなく、この写真集を開く折々に手渡されていたのだと。 この一枚一枚の写真と共に、私はさらに大切な贈り物をこの写真集から授かっている。写真集の森崎震二さんの「解説」の言葉、「あとがきにかえて」の漆原宏さんの言葉、そして そして一枚一枚の写真につけられた説明のコトバ(図書館職員の戸田あきらさん、西村彩枝子さんたちだろうか)と英文(松岡享子さん)の力。 1 生涯にわたる自己教育 Life-long self-education 「人は毎日の生活をくらすのに学習しないで済ますことはできなくなって来ています。それは人類の歴史に上にもはっきりと示されています。」「1970年代に新しく生まれた多くの図書館―新しく生まれ変った図書館の中で人々は老いも若きも、男も女も、それぞれの目的にしたがって、一人で、集団で、さらに戸外でも活用しはじめているのです。このような個人の自己学習がなくては、社会で労働し、生活してゆくことも難しいほどに文化の高い社会になってきているのでしょう。」 【以下、〇印は写真、次に写真の「説明」のコトバ、図書館名、撮影月日、英文、頁の順】 〈キャプションの言葉とその意味を豊かに広げる英語のコトバに驚く!〉 ①「わたしこれにする」長崎・滑石子ども図書館(文庫)’82・3・13  Nameshi children’s Bunko, Nagasaki. I can write may name, too.     (8頁) ②ボクにも「かりだし券」横浜市立金沢図書館 ‘80・1・19  Kanazawa Public Library, Yokohama.   Papa gets me a library card.    (8頁)  ③「どうやるの?」 文京区立真砂湯島図書館 ‘81・5・30    Masago Yushima Public Library,Tokyo. Librarians are ready to help you. (23頁) ④「身近な存在」 墨田区立八広図書館 83・3・31  Yahiro Public Library   Stand or sit, as you like.                       (30頁) ⑤「新しい図書館ができました、ぜひおいでください」 墨田区立八広図書館 81・5・25   Giving out brochures on a newly opened library・・・・        (105頁) 2 地域の図書館 Library in the Community 「図書館は身近になければ、日常の用に役立ちません。お正月とか、お盆とかに年一回使えば済むというものではないからです。だからその地域になければなりません。(心に響き、 体に刻まれた言葉!) 図書館の特徴として、仮に建物がなくても自動車に本を積んで廻ってくる自動車図書館(B.M)によって資料の提供ができます。この動く図書館(移動図書館)は銭湯の前でも、団地、スーパーの前でも、多少の空き地さえあれば人の集まり易い所に来て店開きできます。自動車図書館がきっかけになって出来る2~3万冊ほどの地域図書館は、一つの自治体の中に数か所、規模の小さな分館と自動車図書館を運用すれば、市町村のどこに住んでいても、住民はみんな図書館を活用できます。 図書館の第一の仕事は資料を利用者の求めに応じって貸し出すことです。それとともに情報を求めてくる人に資料案内をする外、参考質問に応え、利用者の調査研究を援助することにあります。 「地域に育つ暮らしの中の図書館」(in the Communityが図書館)が私の中に血肉としてあること、そこに向けて歩んできたこと、これからも歩んでいくだろうことを思う。自ら気づくことなく、漆原宏さんから手渡されてきたものと共に生きてきたことを思う。 自らの進退のことで、自分でいったんは決めた判断がゆらいだことが一度だけある。その時、即座に背を押された。その時の漆原さんの声が今も耳元にある。 漆原宏さん夫人の美智子さんのフェイスブックでは、漆原さんの写真パネル展の部屋を“くつろぎの部屋”へ、“フォート蔵前 茶会”、“写真パネル 船出”など、近ければ駆けつけたい活動が次々に紹介されている。漆原さんの活動をその温かなお心でつつみこみ、熱い心棒でささえ、共に歩んでこられた美智子さんの活動が漆原宏さんと共にたゆみなく続けられている。 あらためて写真集を手にとる。 『地域に育つくらしの中の図書館』の表紙の写真、男の子が両手で絵本を頭の上に持ち上げて、こちらを(読者を、写真を撮る人)をまっすぐ見つめるその眼差しを目にすると、子どもが本と出会うことの喜びの深さを知らされると共に、その喜びを、ぼくたち、私たちに手渡しているの?という問いかけを感じてきた。 3章「くらしの中の図書館」の解説のページの見開きのページにも掲載されているこの写真 のキャプションは、「うれしいな」 浦安市立中央図書館 ‘83・3・20 Urayasu Centoral Library,Chiba で、英語では、These books I’ll take home.となっていて、 46頁の「見て、見て」(日野市立中央図書館 B.M)の両手にいっぱいの本をもつ女の子の写真と共に、本を手にするヨロコビを直截に示している。表紙の写真のキャプションは“うれしいな”、 〈ダッテ〉 These books I’ll take home.”〈ダカラネ!〉。――漆原さんからのかけがえのない贈りもの、これからも身近に、終生ともにあることと思う。ほんとうにありがとうございました。

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