『井上ひさしの読書眼鏡(どくしょめがね)』がそれだ。奥付けの著者紹介の末尾に、「2010年4月永眠」とある。井上さんが亡くなられて、1年と半年後に出版されたこの本は、読者にとっては、井上さんから贈られた遺書ともいえる1冊だ。
『井上ひさしの読書眼鏡』井上ひさし 中央公論新社 2011年10月10日 |
まず、「背」には、「面白い本を 深く読む」、
「表」には、「井上ひさしが 見出した、面白い本、恐ろしい本。」、その下に小文字で、”『読売新聞』連載、遺稿となった書評集” とある。
そして、帯の「裏」側には、「◉―目次から」として、本文に34ある小題の中から11の小題を抜き出している。 (注:【 】は筆者による)
・不眠症には辞書が効く 【大江(健三郎)式就眠法で不眠症退治;その日に届いた本を三つの山に。
→①すぐ読む②そのうちに読む③いつか読む。「読み終えた本→①机の近
くに②後日のためにに書架に並べる③郷里の図書館、遅筆堂に送る。」】
タメになる井上式、本の読み方
・歴史教科書、徹底論議を 【書抜き帖=「うむこれは、と思った文章を書きとめておく」】
・絶望からつむぐ希望の言葉【言葉の力・・・絶望から希望鵜をつむぐ】
・本当の学問の方法とは 【二十一世紀を生きるための倫理をつくりあげること】
・一憲兵がとった責任とは 【”だまされていたという自分の愚かさ”に対する責任】
・現実を正しく見るために
【「私たち読者「(注、=「普通の日本人」)は普通、それぞれ目の前の小さな世界をただ一つの現実と見なして、それに懸命に働きかけながら、家庭や小さな共同体や仕事場で、必死に生活しています。
そこで、わたしたちには、現実の全体を見渡して、
「大きな現実と、あなたの小さな現実は、これこれこういうところがずれていますよ」とたえず忠告してくれる人が必要です。この役目を果たしてくれるのが、じつは考える人たち(思想家や学者)です。
ところが、不幸なことに、考える人たちの表現はおしなべてむずかしい。大きな現実は日常語では捕まえにくいので、自然にむずかしくもなるのですが、現実を鋭く分析し、かつ深く洞察しているのに、その表現が読者の手元に届かない。つまり、わたしたち読者と考える人との間には途方もない距離がある。
これがいまの日本の不幸な思想的現実です。
[この途方もない距離を深く認識し、体感して、本と読者をつなぐことが図書館員の仕事だ。図書館の役割❢]
もちろん、考える人たちの中には、さまざまな工夫と苦心を重ねながら、送り手と受け手との距離を縮めようと
腐心している人たちもいて、決して悲観することはないのです。
現にここに二人、現実を正確に見たいという読者の願いを真っ正面から受けとめて、目ざましい結果を出した考える人たちがいます。(『見たくない思想的現実を見る』金子勝・大澤真幸、マサチ)岩波書店】
この本のいたるところにちりばめられた鋭い分析力と深い洞察力に強く引き込まれ、「できるところから、いますぐなにかやらないと……」という、目の前の現実に働きかける力を体中に浴びたような気がしました。
《”考えるひとたち”の役目――「現実を正確に見たいという読者の願いに応える」・・・図書館の役割》
・この世の核心とは何か
【 大江健三郎『憂い顔の童子』(講談社)〈私は私自身を救助してやる!〉
人間は、自分で自分自身を救助しなければならない。たしかに、この世のを少しでもましな方向に進めて行くぬはこれしかない。
毎日、何度となく、「万事において、ひるむな」と自分に声をかけながらなんとか生きているわたしには、これはまたとない励ましでした。もちろん、読者はそれぞれ別に真実を発見なさるでしょうが、とにかくわたしは古義人の子の叫びに力を得たのです。
・よりマシな世界のために【わたしたちが少しでもマシに生きるなら、世界もその分だけ変動する】
・怯える前に相手を知ろう
【「国民を怯えさせる」という政治的普遍性(世界の骨組み)を見極める。相手をよく知ること、とことんま
で相手を知ること。】
・弁護士になりたくなった
【「記述がいちいち具体的で、その上、おかしなエピソードが続出して、何度も笑い転げて仕舞いました。(文章の要諦)・恐ろしことも書いてある。裁判所には、本来の正義観のほかにもう一つの絶対の基準がある。それは裁判所が考える正義、不正義である。・・・〉】
・過去を究めて未来が見える
【半藤一利さんの『昭和史』(平凡社);「文体が口語体なので読みやすく、分かりやすい。もちろん昭和史についての名著は多いのですが、あるものは資料満載でむずかしく、あるものは完結すぎて抽象にすぎる。普通の日本人が普通の日常生活の中で普通に読めて、この先の生き方の糧になるようなものは、なかなか見当たりませんでした。この『昭和史』は、わたしたちのその要望にみごとに応えてくれます。たくさんの資料をしっかり詠み込んだ上で、そのエッセンスが読みやすい文体にどのように実現しているか、その例を一つだけ引きましょう。」【ドンドン、引きこまれていく文章だ。】
「山のような資料をよく噛み砕いて、呑み込みやすくして読者に与える。しかし、偏(かたよ)らない立場から昭和史の勘所はしっかりと押さえておく。こうして、日本人の死者三百三十万人、外国人の死者はそれをはるかに超したあの戦争の顛末が(てんまつ)が、読者の胸にすっきりと入ってきます。これは疑いもなく一つの偉業でしょう。」
引用が少し長くなるが、いま、コロナ禍の真っただ中にいるわたしたちに井上さんが書いているのではとも思われる文章を続けたい。
「では、あの悲惨な戦争からわたしたちはなにを学ぶべきか。」
「たとえば、国民的熱狂をつくるな、国民は決して時の勢いに駆り立てられてはならない。というのは「国内情勢が許さない」という口実で権力を持つ人たちが、ときにとんでもない暴走を始めるからです。
またたとえば、現実を無視して、物事は自分の希望するように動いてくれるなどと考えるな。〈ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込み‣・・・・〉になってしまうからです。
そしてたとえば、国際社会のなかの日本の位置を客観的に把握すること。でないとあらゆる判断が独善に陥ってしまうからです。
この一つ一つが、今のわたしたちにも、進むべき道を明らかに示しています。過去を究めてこそ未来が見えてくる・・・・・・この本の主題は、おそらくこれにちがいありません。【そして、それはほんの主題にとどまらず、わたしたち一人ひとり前に置かれている主題〈問いかけ〉でもある】(2004年4月25日)
本文からすこし離れて
どの章も、面白くてタメになる文章で、思わず、その一冊一冊を手にとりたくなる。
(図書館で見る、まずリクエストをする。手元にと思うものは購入する)
この小題をみていると、井上ひさしさんの生涯の軌跡がうかびあがってくるようにも思う。ふと、井上さんの座右のコトバが思いうかぶ。
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに
これは井上さんが座付作者であった「こまつ座」が刊行していた演劇季刊誌「the座」の1989年版(1989.9)に掲載されたものだ。
[”劇場の構想を練っていた時の回想とともに、「むずかしいことをやさしく・・・」という呪文のような長い標語をこしらえたのも、そのころのことでした。”〈『井上ひさし伝』桐原良光.白水社2001〉]
「この呪文のような長い標語」が生まれる以前も、そして生まれてからも、井上さんの書くものの根底には、いつも「むずかしいことをやさしく」から「そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」があったように思う。
後日、井上ひさしさんが、色紙に書かれていた言葉を知らされる。
むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをゆかいに
ゆかいなことをまじめに
書くこと
井上さんの声が きこえるようだ
「言葉」に対する深い関心、生涯を通して言葉について考え、考え続け、「言葉の力」を読者に手渡してきた井上さんの足跡を思い返すと、最期の病床までも、「心血をしぼって、…人生を賭けて、様々な工夫や仕掛けを考え出し、この世の核心に迫ろうとしてきた」75年の歩みのはじめに、いったいどのようなコトバとの出会いがあったのだろうと思う。
はじめて「言葉」に出会ったのは
井上さん自身が、「言葉(言葉の力)」に出会ったのは、「一九四六年(昭和二十一年)の四月、国民学校六年生になってすぐのこと」だったといえるのではないか。その年、12歳の少年は「生まれてはじめて、雑誌ではなく単行本を、それも自分自身の判断で、しかも貯めておいた自分の小遣いで買った」のだった。
「その単行本というのは中央公論社から出た「ともだち文庫」第一回配本の『どんぐりと
山猫』で、定価は七円五十銭、十二キロほど離れた米沢市のヤミ市では万年筆が三十円だったから、この七円五十銭は決して安くはない。」(略)
郵便為替を送って取り寄せた、「自前で買い求めた最初の書物」を、
「読み終えたとき、わたしはぽかんとしていた。そうか、そうだったのかと感心し、それでぽかんとしていた。その町【注:井上さんが生まれた町】は山とほとんど接しており、わたしたちは日課のように浦山へ出かけて行き、枝を渡る風の音や、草のそよぐ音や、滝の音を頭のどこかで聞きながら遊んでいた。しかし、それまでわたしたちは、風が「どう」という音で吹き、草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、くりの実は「ぱらぱら」と落ち、きのこが「どってこどってこ」と生え並び、どんぐりのびっしりとなっているさまを音にすれば、それは塩がはぜるときの「パチパチ」と共通だ、とは知らなかった。
加えてわたしたちは、秋の、晴れた日の山のすがたを〈なんともいえずいいものだ、とても気分がいいものだ〉とは思っていたが、その気分を「まはりの山は、みんなたつた今できたばかりのやうに、うるうるともりあがつて【実際の表記は傍点:以下同じ】、まつ青な空の下にならんでゐました」と、しっかりコトバでとらえられるとは思っていなかった。〈なんともいえずいいもの〉だからなんともいえない、つまりコトバではつかまえられないのだ、と考えていた。
しかし、ここにわたしたちがなんといっていいかわからなかったものに、ちゃんとコトバを与えている人がいる。それに感心し、ぼうぜんとなったのである。むろん国民学校六年生のときにしかと右のように考えたわけではない。そのときの〈ぽかん〉を、いま、整理して表現すればそうなるだろう、といっているのだ。
三十一年たったいま(一九七七年)読み返してみて、賢治がまことに周到な計算のもとに擬声語を使っていることに気がついた。この、短い作品のなかには五十五個の擬声語が用いられているが、主人公である人間の一郎のためには、わずかに「眼がちくつとしました」「汗をぽとぽと落ちしながら」「ぎょつとして」の三個が用意されているだけである。
残りの五十二個は、風に草の「ざわざわ」と鳴るうつくしい黄金(きん)色の草地におうように立って、陣羽織を「ばたばた」させながらマッチを「しゆう」とつけ、煙草の煙を「ふう」と吹き、ひげを「ぴん」とひねる、あの山猫を大将とする〈大自然〉のために充てられている。
賢治は、生きものや、山や、草や、光や、風を擬声語でとらえたわけだが、彼はこの方法で、周囲の自然をどう名付けてよいのか(つまりどう認識すべきか)わからないでいた山間(やまあい)の小さな町の子どもに、自然との関係のつけ方をたくみに教えてくれたようにおもう。
この書物がすっかり気に入ってしまって、わたしは家にあった蔵書員をトビラに押し、〈ひさし一号〉と書き入れた。そしていまだに所持している。」
([わたしと賢治 忘れられない本――『どんぐりと山猫』]朝日新聞1977年10月10日:『宮澤賢治に聞く』井上ひさし こまつ座編・著 ネスコ 文藝春秋‣発売 1995)
井上ひさしさんと宮澤賢治の生涯にわたる出会い、12歳のときの『どんぐりと山猫』での賢治さんとの出会い以来、井上さんの傍らにはいつも宮澤賢治という人がいたように思う。同じ道をともに歩く同行者であるかのように。
その井上さんが語る中村哲さんとはどんな人だったか。
”世界の真実、この一冊に”
『井上ひさしの読書眼鏡』の本の帯には書かれていなかったが 、この本のなかで、中村哲さんの著書について書かれた文章の小題が「世界の真実、この一冊」だ。末尾に2001年10月28日と、新聞掲載の日付が記されている小文は次のように始まっている。
「ごく稀(まれ)に、「この一冊の中に、この世のあらゆる苦しみと悲しみ、そして
喜びがこめられている、ひっくるめて、世界の真実のすべてがここにある」と、深く感銘をうけ、思わず拝みたくなるような書物に出会うことがあります。中村哲さんの『医者
井戸を掘る』(石風社)は、まちがいなく、その稀な一冊でした。」
以下、井上さんの言葉と、井上さんが『医者 井戸を掘る』から引用した文章が続く。
「 中村さんは一九四六年、福岡市の生まれ、ここ十八年間、パキスタン北西の辺境州の州都ペシャワール市を拠点に、ハンセン病とアフガン難民の診療に心身を捧げている医師で、略歴にはこうあります。」
井上さんの研ぎすまされた文章に続き、引用された中村さんの文章が〈 〉の中に示される。
〈 パキスタン側に一病院、ニ診療所、アフガン国内に八診療所を持ち、年間二〇慢人を診療するNGOペシャワール会の現地代表 〉
「この中村さんが日本の青年たちや現地七百の人たちと、アフガニスタンに、千本の井戸をほることになったのは、昨年夏にユーラシア大陸中央部を襲った市場空前の大旱魃(だいかんばつ)のせいでした。その被害はアフガニスタンにおいてもっともひどく、〈千二百万人が被害を受け、四百万人が飢餓に直面、餓死寸前の者百万人と見積もられた(WHO,ニ○○○年六月報告)〉
「幼い子どもたちの命が赤痢にの大流行で次々に奪われて行くのを診療所で目撃した中村さんは、その原因が旱魃による飲料水の不足によることを突き止め、こう決心します。」
〈医師である自分が「命の水」を得る事業をするのは、あながち掛け離れた仕事ではない……〉
「こうして中村さんには、もちろん診療行為をつづけながらですが、有志と力を合わせて、必死に井戸を掘りはじめる。これはその一年間の苦闘の記録です。
すぐれた書物はかならず、巧まずして読み手の心を開かせるユーモアを内蔵しているものですが、ここにもたくさんの愉快なエピソードがちりばめられています。
たとえば井戸を掘る道具がそう。・・・・・・ 〉
(愉快なエピソードがどんなものかは、実際に本を手にしていただきたい。)
そして井上さんの核心的な問いかけのコトバがつづき、再び、中村さんの心に刻まれた痛切な言葉が引用され、ついで井上さんの読者の心の奥深くに届く結語の言葉でむすばれる。
「中村さんたちの得た報酬はなにか。現地の作業員が一人、亡くなったことがある。
滑車で跳ね飛ばされて、井戸の底に墜落してしまったのだ。お悔やみに出かけた中村さんたちに、作業員の父親が云う。」
〈「こんなところに自ら入って助けてくれる外国人はいませんでした。息子 はあなたたちと共に働き、村を救う仕事で死んだのですから本望です。すべてはアッラーの御心です。……この村には、大昔から井戸がなかったのです。皆汚い川の水を飲み、わずかな小川が涸(か)れたとき、あなたたちが現われたのです。しかも(その井戸が……引用者〈井上〉注)一つ二つでなく八つも……。人も家畜も助かりました。〉
「こういう言葉を報酬として、そしてそれに励まされながら、中村さんたちは井戸を掘りつづける。読み進むうちに、わたしはひとりでに、アフガニスタンの全土のポンプが立ち並ぶ日のくることを祈っていました。この無償の行為が天に届かぬはずはない。
(ニ○○一年十月二十八日)」
『井上ひさしの読書眼鏡』、その他の小題から
先にこの本に、ぜんぶで34ある小題のうち、帯に題目が書かれていた11の小題についてふれたが、その他の23の内容も、いずれもきわめて面白く、これはぜひ読んでみたいと思われる驚くばかりの書評だ。一冊一冊について、その本の核心が鮮やかに読者の眼前に差し出されているように思った。しかも一冊の本の核心(最も大切な要点)を簡潔に明瞭に書きながら、同時に井上ひさしという作家の核心(要のところ、もっとも大切に考えていること/根本的姿勢とでもいうもの)が書かれているように思われた。このため、一つ一つの、文章としては短いといえる小題の一編一編ごとに、ノートに書きとりたい言葉が目にとびこんでくる。そのいくつかをアトランダムに、順不動でメモしておきたい。
・真に「新しい人」とは・・・大江健三郎さんの新作『二百年の子ども』(中央区論新社)
「どんな時代であれ、またどんな所であれ、〈国家につかえる国民を作ろうとしている。計画し、仕込み、ひとつの方針の教育をして、社会の仕組みや経済にそのままついてくる国民を育てている。……いつの時代にも、政治の世界や実業界や、マスコミで権力を握る連中は、この種の「新しい人」を作ろうとするんだよ。そして、こういう「新しい人」がつかえて繁栄した国家は、いつの時代にも永続きしなかった。周りの国々を悲惨なことにした上で、滅びた。……ところがいままた、もう一度やろうとする連中が出て来てるんだ。〉
「では、作者のいう真の「新しい人」とはどんな人か」
「たとえば、〈……いまを生きているようでも、いわばさ、いまに溶けこんでる未来を生きている。過去だって、いまに生きる私らが未来にも足をかけてるから、意味がある。思い出も、後悔すらも……〉と考えている人。」
「そして、決定的なのは、〈ひとり自立してるが協力し合いもする〉という定義。
さあ、ここで必要になるのは一にも二にも言葉です、わたしたちは言葉をはっきりと使って頭の中を整理することで自立する。また、他人と協力するにも、はっきりした言葉やものの言い方が大切です。」
〈私は文学論のような本で、「表現する」とい言葉をarticulateと書いてきた。関節を区切るようにものをはっきり言うこと、明瞭にひょうげんすることをいうこの言葉が、私の根本にある。〉(十一月二十六日付読売新聞)
「そういえば、「人間の言葉」のことをarticulate speechと云いますが、つまりこの新作の底に流れているのは、いまこそ、あらゆる局面で、明瞭な言葉ではっきりと自分の意見を言うべきときではないかという大江さんの強い意志ではないでしょうか。」
(ニ○○三年十一月三十日)
・日本語をじっと見れば ・・・大野晋『日本語の教室』(岩波新書)
〈つまり事実を徹底的に重んじる精神、真実に誠意をもって対する精神を、確実に日本人の規定に据えて文明に向き合う必要がある。それは最も基本的に、「物事をじっと見る」ことから始まると私は考えています。日本人は「物事をじっと見て、全体像を組織的に把える習慣を欠いている。〉
「物事をじっと見るとは、〈手に取って集めること、選び出すこと、言葉を選ぶこと、言葉の筋を立てた論述から、論理へ、理性へ……〉進むこと。じつは、これこそが大野さんの学問の手法なのですが、・・・」
・読書で学ぶ母語の基礎・・・山本麻子『ことばをきたえるイギリスの学校』
〈「母語としての英語がすべてのきほんですからね、数学もじつは英語として教えているのですよ」(オーストラリアの首都キャンベラの、ある公立中学校を、〈井上さんが〉見学した時のこと、数学の小試験の最中で、黒板には、「ピタゴラスの定理を文章で説明しなさい」と大書してあった。先生に、数学というよりは英語の試験ですねとたずねると、答えはこうでした。)
「母語としての英語がすべての基本ですからね、数学もじつは英語として教えているのですよ」
「つまり、数学や理科も歴史も、じつは母語を教えるためにあるのだという考え方。
もっと言えば、生徒のだれかが数学者や科学者になり、自分の発見や研究を世の中に向けて発表して、そのことで社会にいささかでも貢献することになったとき、やはりまず母語でそれを行うわけで、だからとにかく義務教育では母語を徹底的に鍛えようという姿勢です。
のちにわかったのですが、この姿勢はたくさんの国に共通していました。母語を軽く扱っているのは、わたしたちの国くらいのものでしょう。母語の日本語もまだちゃんと使えない子供に英語を教えようだなんて、とても正気とは思えません。」
「英国のレディング大学で教えておいでの山本麻子さんの『ことばを鍛えるイギリスの学校』(岩波書店)は、英国もまた「母語がすべての基本」という姿勢をとっていることが、とてもよくわかるように書かれたすばらしい報告書です。」
「子どもは話すことによって学ぶ」というのも英国の義務教育の基本の一つ。そして、よく話すには、よく聞きよく読まなければならないという哲学から、読書が奨励されているのですが、その方法がおもしろい。その中から一つだけ消化しますと、「リーディング・マラソン」というのがある。・・・」(続きは本を手に取られて・・・)
「子どもに本を読む習慣をつけ、読む楽しみを味わってもらい、読書を通して社会に貢献することを教え、そして近隣とつきあうこつを授けるなど、大人たちの知恵の深さに感心しました。わたしたち日本のおとなはまだ知恵を出し渋っているのかもしれません。
(ニ○○三年七月二十七日)
手元のノートには、もう少し簡潔にしてだが、まだいくつも引用の言葉が記されているが、このあたりでとどめておきたい。
編集者の力
一冊の本が生まれるには著者はもとより、多くの人が関わっていて、それぞれの場(部署・持ち場)で力をつくされている。そのことについては、本ブログNo.34で三輪舎から発行されている『本を贈る』の紹介の際に触れている。
なかでも、編集者の役割の大きさを思う。『井上ひさしの読書眼鏡』を手にし、時折り読み返すたびにその思いを深くする。よくも、読売新聞に連載された、これらの文章を一冊の本にしてくださったと。編集者がこの連載を見つけ出し、本にしようと思いたたなければ、あるいは生前の著者に本にしたいと伝えていなければ、今、私の目前にある本として手にすることはできなかっただろう。
実際にこの本を手にし、表紙をめくり、標題紙をめくり、目次、本文、さいごの頁の「初出誌」、そして「奥付け」のどこを見ても、編集者の名前は記されていない。本によっては著者が「あとがき」などの中で編集者の名前を書きているものもある。しかし、この本の場合は著者の没後に出版されたもので、本書には「あとがき」はない。
この本を手にして私が驚いたのは、本文ともいえる新聞に連載された文章そのものの面白さであるが、さらに驚きを深くしたのは、本文に続いて収録、掲載されていた2人作家についての文章の面白さだった。よくも、これを加えてくださったと思った。
「初出紙誌」にはこうある。
井上ひさしの読書眼鏡 『読売新聞』二○○一年一月二十八日~二○○四年四月二十五日
米原万里の全著作 米原万里展「ロシア語通訳から作家へ」図録、ニ○○八年十月、
NPO法人遅筆堂文庫プロジェクト
藤沢さんの日の光 文春ムック『「蟬しぐれ」と藤沢周平の世界』二○○五年九月、文藝春秋
「米原万里の全著作」と「藤沢さんの日に光」、そして井上さんと図書館のことについては稿をあらためることに。
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